第4話

 ソファに座ってそわそわしていると、リビングのドアが勢いよく開いた。

「一華!! 何ともない!?」

 スーツ姿の母が憔悴しきった表情で立っており、私の顔を見るなり駆け寄って、そのまま強く抱きしめてきた。

 その一連の行動を見て、反抗しなきゃと思っていた気持ちは一瞬で吹き飛び、思考が止まってしまった。

「お出しできるものがコーヒーしかないんですが、淹れましょうか」

 後から入ってきた莉桜が声をかけてきた。ドアの前にいるのか声が遠い。

「いらないわ」

 母は吐き捨てるように答える。

少し離れたかと思うと、いきなり私の体をべたべたと触ってきて、思わず吐き気を覚えた。十七年間ずっと一緒に過ごしてきたはずの身内なのに、まるで見知らぬ他人にパーソナルスペースを侵されたような気持ちになる。

「服はどうしたの」

 少し大きめのTシャツと下着のみの姿を見て、訝しんだ母がシャツの裾を掴んで聞いてきた。

「あ……洗ってもらってる」

「そう。着替えてきなさい、帰るわよ」

「うが……ひなさんの件で少しお話をお伺いしたいので、そのままおかけになってください」

 莉桜はソファの前まで来て、立ち塞がって立ち上がろうとする母を制止する。

「これは私たちの問題であって、あなたには関係ないことよ」

 母がどういう顔で莉桜を見ているか分からなかったが、敵と認識していることだけは分かった。

「そうですか。ひなさんはお母さんと話すことを嫌がってましたが、あたしという第三者を入れることで話し合うことを約束してくれましたよ」

 そう言う莉桜は明らかな作り笑いをしていた。

「塾の講師って言ってたわね。あなたがいる塾は、そういう慈善活動みたいなこともしてるのかしら」

「いえ、家出した子を見知らぬふりするほど、冷たい人間じゃないだけです」

 慈善活動と言われたことで機嫌を悪くしたのか、莉桜は作り笑いすらしなくなった。

「保護してくださったのは感謝してます。帰りたがらないのは、私と喧嘩して気まずいんでしょう」

「ひなさんの顔を見て、そう言えますか?」

 そう言われ、母が私の顔を覗き込んできた。目が合いそうになり、思わず視線を逸らす。

 昨日までは何とも思わなかったのに、今は吐き気を催すほど母を拒絶していた。

「どうしたの、そんなに怯えて。やっぱりこの人に何かされたんじゃ――」

「っ、な、なにもっ、されてない……っ! 離れて!」

「っあ!?」

「わっ!」

 突き放したら、思いのほか力が強かったのか、母は体ごと後ろに飛ばされ、前に立っていた莉桜にぶつかった。莉桜がしっかり受け止めてくれたおかげで、母はソファから落ちずに済んだ。

「ひ、一華……?」

 突き飛ばしたことが信じられないのか、困惑した母は震える声で私の名前を呼ぶ。

 その一言で体が竦み、震えが止まらなくなった。名前を呼ぶ行為が、私を縛り付けて動けなくさせているような気がした。

 息苦しさで呼吸を忘れそうになり、助けを求めるように莉桜に目を向けると、すぐに私と母の間に割って入ってくれた。母の姿が視界から半分消えると、それだけで少し落ち着いて、ふぅと息を吐き出す。

 莉桜が心配そうに私の顔を覗き込んできた。

「しんどそうだな。落ち着くまでトイレとか行ってもらって構わないけど」

 かけてくれる声がとても優しくて、思わず涙が溢れそうになる。

「だっ、抱きしめられてびっくりしただけ……」

 慌てて手で出かけた涙を拭う。

 そう答えても莉桜は心配なのか、困り眉のまま何を言おうか悩んでいるようだった。

「大丈夫」

 戸惑っている莉桜を安心させたくて、無理やり口角を上げながら引き攣ったような顔で微笑む。笑えていないんだろうけど、まだ動けるし、声も出せる。

 ――君の言葉でお母さんと決別しろ。

 先程の莉桜の言葉を思い出す。今頑張らないと。

「あなた、なにか変なこと吹き込んでないわよね……?」

 母は莉桜を怪訝そうに睨みつけながら言った。

「……はぁ。話せる? 無理なら無理って言ってくれても」

「でも、なにから話せばいいか……」

 電話では心配するどころか莉桜を責めていたように感じたのに、実際に対面すると本当に私のことを心配しているようで、思わず出端を挫かれた気分になった。何から話すべきか迷っていると、

「うーん、そうだな。なぜ家に帰りたくないんだろう。喧嘩して気まずいから?」

 莉桜が助け舟を出してくれた。

「ち、違います。家にいると、とても、息が苦しくて、つらい。……私が私でいれなくなる。おねえさんと話してわかった、自由でいさせてくれなかったから苦しかったんだ」

 褒めてもらえない。努力したことは否定される、したいことは母に一度通さないとダメだった。……だから、あの家にいれば私の意思は無くなってしまう。もう、母の言いなりになりたくない。

 莉桜越しに母を睨みつけた。これが私なりの精一杯の反抗だった。

「何を言ってるの、一颯の方が大変じゃない! それに比べたら、好きなことできてるでしょう!?」

 母の声を聞いただけで体が竦んでしまう。莉桜は目の前で叫ばれて耳を塞いでいた。

「そうやって子供を怯えさせるのが、あなたのやり方なんですか」

 そう言われて母は顔を赤くさせて、睨みつけていた。

「まだ、言いたいことあんだろ? 言ってやんなよ」

 莉桜は鼻を鳴らしながら、ちらりと私を見る。低くて優しい声が心地良くて、強ばった体を解してくれているようだった。一拍置いて吐き出す。

「……今まで、私が決めたことなんて一つもなかった。高校も部活も、習いごとも、何をするにしても、私に決めさせてくれなかった。でも、卒業した後のことは私が決めたい……です」

 今まで曖昧な言葉で濁してきたかもしれない言葉を、母にきちんと伝わるようにはっきりと伝えた。

 失望されたくない、怒られたくない、怖い、苦しい、逃げたい。でも、莉桜は頑張っている私を信じてくれている。

「私はこうしたらどうって聞いただけで、決めたのはあなたよ」

「バレーやりなさいとか、狛城にしなさいって言ったの、お母さんだよ……」

「言ってないわ。大学もあなたが行きたいって言ったんでしょう」

 いつもより圧を感じる母の声にまた体が竦む。

「ち、がう……」

「どうして大学に行きたくないの」

「…………し、進学してまで学びたいことがないから。目標がないのにだらだら通ってても、後になって絶対後悔する」

 目が合わせられず、強く握った自分の拳をただ見つめているしかなかった。

 どうして目を合わせられないんだろう。私ってこんなに弱かったっけ? 莉桜みたいに目を逸らさず、まっすぐに母を見てやりたいのに、出来ない自分が悔しくて堪らない。

「資格を取りながら、安定した仕事を探すだけなのに、後悔するわけないでしょう。大学を出ることが大事なのよ」

「だからって国立に行けは無茶だよ……こないだの中間、前より点数悪かったのに」

 弱々しい声で反抗する。

「それでも入らなきゃいけないの。勉強する時間をもっと増やせばいけるわ」

 さっきから頭を抱えていた莉桜が声を上げた。

「失礼ですが、なぜ国立を? 国立に行きたいなら、対策もしないと難しいと思います。塾とか通われていないみたいですが」

 国立受験の対策は、入学後すぐに通わされた塾でやっていたが、辞めさせられてからは何もしていない。

 母から対策しろと言われても、具体的に何をすればいいのか分からないし、担任も『このままじゃ国立は無理だよ』と言うだけで、基本ノータッチだった。

「通わせても成績落ちるし、金の無駄だと思ってやめさせたわ」

「それならなおさら国立は無理だと思いますが、私立じゃダメなんですか?」

「私立は金持ちが遊びに行くところでしょう」

「……? ブラックジョークにしては面白くないですね」

 莉桜は蔑み笑うように吐き捨てた。

「はぁ?」

 母はカチンと来たのか顔を引き攣らせていた。この異様な雰囲気で、母の考え方はおかしいんだと改めて認識させられる。

「はぁー……。成績が下がったんなら、部活と両立させようとしてる時点で身の丈に合ってないし、部活をやめさせて学業を優先した方がいいと思います。そもそも、国立は私立と比べて教科が多いので、勉強時間を今よりたくさん確保しないと厳しいです。そうだなぁ……ひなさんの場合、まず授業内容を把握することからやり直さなきゃいけないでしょうし、本格的に対策できるようになるのは早くて……冬の終わりくらいかな。まぁ正直に言えば、要領がかなりよくないと間に合わないと思いますね。うちのセミナーは私立難関の合格実績が高いのが自慢でも、国立は合格実績が少ないです。それくらい壁が厚いんですよ」

 莉桜は指を折りながら話していて、真面目にプランを練っていた。そういう話を自然にしているのも、恐らく職業病なんだろう。

 講師の言うことは正しいんだろうなという気持ちと、母のやり方は間違っていたんだとショックが同時に来て複雑な心境だった。たとえ莉桜がいる天星セミナーに通ったとしても、国立は受からないだろうなというのも感じた。

 今から足掻いても無駄だとはっきり言われて、救われた気持ちになった。一パーセントでも私の努力次第で受かる可能性があったら、母はきっと今からでも塾に通わせるだろうから。

「さすが講師と言うだけあるわね。でもね、私はね、吹奏楽と両立させて国立に入れたの。二回も全国行ったし、その間も学年上位にいた。私ができて一華にできないのは努力が足りてないだけ。一華は勉強も部活も中途半端なのよ。どっちも真面目にやれてない証拠だと思わない? こんな子に育てたつもりじゃないのに、恥ずかしくてしょうがないわ」

 大きな溜め息をつきながら頭を抱える母を見て、冷たい水でぶっかけられたような衝撃を受けた。

「両立させるのも、努力云々ではどうにもなりません。親ができても子にできるとは限らないし、血が繋がっている兄弟姉妹ですら、学力ややり方に差があります」

「一華はなにも成し遂げてないのよ。友達がエースになったって自慢されて、こっちはなにも自慢できることがないんだもの」

 新入生代表になったことも褒めてくれなかったのに、それ以上を求めるの? かなだって赤点から逃れるために私を頼っているのに、中学の頃にエースになったことだけしか見えていない。一颯だって私より頭良くないのに、たくさん褒められて……何で私だけ完璧であろうとするの。母と違って何でも出来る子じゃないのはもう分かっているじゃん。

「かなは、っ…………」

 かなは関係ない――。そう言いたかったのに言葉に出来ない。

 肩に莉桜の手が触れて、驚いて莉桜の顔を見ると、慈しむような表情で見つめていた。少しして眉を上げながら目付きを鋭くして怒りを露わにすると、母の方へ振り向く。

「ひなさんは狛城に入る頭はあるようですから、お母さんのやり方が合わないんだと思います。一度ひなさんと話して、やり方を変え――」

「うちの教育方針に口を出さないでちょうだい! これは私たちの問題よ」

 母が被せるように莉桜に噛み付く。

「もうあなたたちだけの問題じゃない。ひなさんはもう限界です」

 莉桜は溜め息をつきながら淡々と返す。

 肩にあった莉桜の手が腕に触れ、そのまま莉桜の背中に押し込まれた。母の顔が完全に見えなくなり、莉桜が私を庇ってくれていることに気付く。同時にさっき莉桜が見せてくれた表情の意味を理解した。

 もう話さなくていいと伝えてくれたんだ。莉桜は母に説得しようとしてくれている。

「たかが講師になにができるというの」

「教育者は勉強を教えるだけではない。目の前の子供が苦しそうにしていたら、手を差し伸べて話を聞いてやるくらいはできます」

「子供をこんな姿にさせておいてよく言うわ! 保護したフリして篭絡させて、酷い目にあわせるのが目的なんでしょう!」

「……シャツだけ貸したのは、それしか合うサイズがなかったからです」

 ヒートアップしている母に、溜め息をついて肩を竦めながら返す。

「それに二人できちんと話し合ってもらって、ひなさんが納得して一緒に帰ってくれるなら、そうしてほしい」

「あなたが帰れなくさせているんでしょうが!」

 これだけ色々言われて、あの息苦しい家に帰らなきゃいけないの? 無理だよ、こんな母と一緒に居たら耐えれない。私が私でいれなくなる。

「っ……いやだ!! もうお母さんとっ、……いたくっ、ないっ……」

 途中から嗚咽が止まらず、目の前が霞んでいって、頬からぼろぼろと涙が落ちていく。

「わがまま言っちゃダメよ。ほら、市瀬さんに迷惑でしょう」

 何で伝わらないの。こんなに嫌だって言っているのに。

 どうしたら伝わるんだろう。私なりに精一杯話したことも、一瞬で崩される。賽の河原で石を積む子供のように、泣き叫びながら石を積み上げるしか出来ない。

「……わかった、もう終わりにしよう。こんなにやばいとは思わなかった、すまない」

 頭に軽い衝動が伝わり、短い髪が乱れていく。

 一瞬何をされているのか分からなかったが、すぐに頭を撫でてくれているんだと察した。優しい声と、慣れていなそうなたどたどしい動作は、私を人間として扱ってくれているように感じて、涙が溢れ出て止まらなくなり、手で隠しながらしくしくと泣くしかなかった。

 頭を撫でてくれたの、いつぶりだろう。

「よっぽど疲れてるのね。家に帰ったら寝なさい、元気になったら話し合いましょう」

 母の腕が莉桜の脇腹を越えて私の手首を掴んできて、反射的に振りほどこうとする。

「離して! もうやだ……っ!」

「ほら、あなたの好きなチキンライスを作っ――」

 乾いた音と共に軽い悲鳴が聞こえた。

 一瞬のことで、何をしたかは見ていなかったが、母が頬に手を当てて莉桜を睨み付けていたので、莉桜が母に手を出したんだろうというのは分かった。

「なに、を……」

「母親ぶんな。おまえのやってることは虐待だって、そろそろ気づけよ」

 さっきまでの教育者らしい低姿勢はいずこか、ぶっきらぼうで口汚いところを隠すのをやめたらしい。

 私より小さいはずの莉桜の背中が大きく見えて、今まで見てきた大人よりとても頼り甲斐がある背中に見えた。

「もう我慢ならねぇ。こんだけ泣いて訴えてんのに、まだわかんねぇのか」

 母の胸ぐらを掴んで、そのままソファから追い出すように押し倒していった。一拍遅れて鈍い音と母の悲鳴が聞こえた。

 驚きのあまり泣く気も失せて、二人の方を見る。

「っあぁ! あなた……! 本性を現したね、警察を呼ぶわよ!!」

 取っ組み合いになるも、馬乗りしている莉桜の方が有利なようで、母は脚をばたつかせているだけだった。

「呼んでみろよ、こっちは虐待で保護したって言ってやるからな」

「さっきから虐待って――バカバカしい、暴力なんてするわけないでしょう!」

「あぁ? 過干渉や支配も虐待って知らねーのか? そうだよな、知らないよな、塾でもそういう親をたーくさん見てるからな。そういうの見てるとさ、子供をただのモノとしか見てねーんだなって思うよ」

「仕事でもなんでもないことに首を突っ込んでおいて、暴力までするなんて正気じゃないわ!」

「正気……? 今までわけわかんねー親に振り回されたことはあるけどさ、どいつもこいつも自分が正しいと思って、子供を見ちゃいねぇ。子供のことをどーでもいいと思ってるあたしでさえ苦しい、助けてって嫌でも伝わってくんの。そのくせに親はちっとも気づいてくんねぇ。そういう親ってなんで子供の声を聞いてやんねぇの? あたしからしてみたら、あんたの方が正気じゃねぇ」

「おねえさん……」

 莉桜は働きすぎで体を壊したと言っていたけど、今みたいに子供相手に真面目に向き合いすぎて疲れてしまったんじゃないかと思ってしまう。

「産んだことないくせに、何を知ったような口を――っう!!」

 母が喚いているとゴンと鈍い音がした。よく見えないが、床に何かを叩きつけるような音だった。

「なんもわかってねぇのに知った口きくな。子供と向き合えつってんの」

「あなたにわざわざ言う必要ないでしょう!?」

「ここで話し合ってひなさんが納得してくれれば、なんも言わんつもりでいたけどな。嫌がってんのに、無理やり連れて帰ろうとしてっから怒ってんだよ」

「一華は疲れてるのよ、帰って休ませないと――っ」

 軽い呻き声がした。二人のやり取りに介入すべきか迷うほど、雰囲気がぴりぴりしている。

「話聞いてた? 家にいると苦しいって言ったろ、家にいても気が休まんないってくらいわかれよ」

「私だって手のかかる子供たちに振り回されて、休める場所ないのよ!? 子供ばかりわがまま言えば、通せると思ったら間違いよ」

「はー……ちょうどここに空いてる部屋あんだよね。金に不自由していないし、あんたと違って悩みを聞いてやれて、否定する人はいない。ひなさんさえよければ、ここに住まわせてやれるぜ」

「……え?」

 いきなり提案をされて、頭が追いつかなかった。

「こいつと一緒にいるくらいなら、ここにいた方がマシだろ。嫌なら別の方法を考えるけど」

「い、嫌じゃない! ……です」

 とっさに答えちゃったけど、本当にここにいていいの? 私のせいでまた体を壊さないだろうか。

 一緒にいていいのか、少し迷いが生まれた。母から離れられるんだという安心や嬉しさより、迷惑をかけるのではないかという不安が勝る。

「バカ言わないでちょうだい! そんなこと許すわけ……っ!」

 またゴンと鈍い音が聞こえた。

「そんなに自由がほしいならくれてやるって言ってんの。てかさ、子供はおもちゃじゃねぇんだ、産んだ責任くらい持てよ」

「はっ? あんたに私の苦労なんて、わかってもらえるわけないでしょう!」

「ひなさんを全く理解しようとしないし、今後も理解しないだろうってのはわかる。同じおもちゃでも、あたしの方がずっと、可愛がってやれるぜ」

「っひ……! ひ、一華だって、人に暴力を振るうようなのと一緒にいたいわけないでしょう!? おもちゃ扱いまでして――恐ろしい……っ」

 急にヒステリックになった母は、必死に体をばたつかせて抑えている莉桜を振り落とすと、荒い息を隠そうとせず、乱れた髪の間から覗き込む目は私を睨み付けていた。

「ここにいては危ないわ、早く帰らないと!」

 何とか起き上がった母が、私の手首を掴んで引っ張って来たので、ソファから転げ落ちそうになるのをとっさに足を出して踏ん張りながら耐える。

 頭の中でどれだけ嫌だと悲鳴をあげても、体は私の意思なんてまるでないように固まっていて、ずるずると引き摺られていた。

「いいのかよ、このままで! ここから先はどうもしてやれんぞ」

 莉桜の声が聞こえて我に返ると、脚の力が入るようになった。

「いやに――きまってんじゃん……!!」

 かぶりを振りながら、腰を低めて脚に力を入れただけで、母がびくりとも動かなくなった。

「一華……っ! 何してるの!」

「はなして……っ」

 縛られている手首を引き抜こうとしたものの、強く握っているようで抜けない。

「あの人に殴られたいの!?」

 違う。莉桜は私のために怒ってくれたし、つらそうにしていたら心配してくれる。ありのままの私を見てくれるような人が、理由も無く殴るなんて有り得ない。

 離してくれない腕をそのまま横に振り回す。少し力を入れただけなのに、母は飛ばされるようにキッチンキャビネットにぶつかって呻く。

「っ、う……な、なんで逆らうの……」

 倒れ込んだ母は絶望したような顔で私を見上げる。かなり痛むのか立ち上がれないようだった。

 言わなきゃ。莉桜は私に住んでくれていいと言ってくれた。きちんとお別れしなきゃ。

「わ、たしは……ずっと、おかあさんに、あいされたかった。……愛してくれるなら、なんでもやろうと思った」

 これで母に届かなかったら――。

 最悪の想定を脳裏で浮かべながら、言葉を紡ぐ。

「でも、ずっと、一颯しか見てくれない。私が悩んでても、お母さんは一度も聞いてくれなかった。今も耳を貸してくれなかった。でも、おねえさんは、昨日出会ったばかりの私をきちんと見てくれた。話も聞いてくれたし、私のしてほしかったことをしてくれた。そんなの、おねえさんを選ぶに決まってんじゃん!!」

 十七年も私は母に愛してくれなかった。というより、一颯が産まれてからなのかもしれないけど、私からしてみれば誤差でしかない。

「だから……お母さんの子供、やめさせてください……。もう、一緒に暮らしたく、ありません……」

 床にへたり込んで、そのまま土下座をする。

 しばらく静寂が流れる。

 ぺたぺたとスリッパの音がどんどん近づいて、顔を上げると莉桜が母の前に立っていた。

「すみませんが、今日のところはお引き取り願えますか。ひなさんについては落ち着いたらまた連絡します」

 母を起こそうとしているのだろうか、莉桜は少し屈みながら手を伸ばしていた。

「こんなやばい人に籠絡されるなんて、後悔しても――ひゃっ!!」

 莉桜の足が母の顔を掠って床を叩きつけた。

「ここはあたしの家だぞ、家主が出てけって言ってんだ。それとも痛い目にあわんとわからんか?」

 莉桜が睨みつけながら粗暴な言動を発すると、ごねていた母はさすがに身の危険を感じたのか、そのまま逃げるように出ていった。

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