第3話
「はぁ……」
母との電話を終えた莉桜が深い溜め息をついた。 片方の会話だけでも、相当大変だったのは想像に難しくない。
『娘さんを保護しました』と伝えると、声から男性と勘違いされたらしく、女性だと必死に説明していたし、私が家に帰りたがらないことを伝えると、母が激昂したらしく、なだめるのに苦労していたようだ。
大変そうだな……と他人事ながらに聞き耳を立てていた。
「仕事が落ち着いたらすぐ来るってさ」
「やっぱり話すの、無理そうじゃないです?」
「手ごわいね。あんなんで警察行かないどころか、仕事してんの意外だったわ」
莉桜は溜め息をつきながら、冷めたであろう残りのコーヒーを飲み干していく。
一筋縄ではいかなそうなのを知った上で、対面する気があるの凄い度胸だなと思う。先生からすれば、そういう親は慣れているのだろうか。
「すみません、やっぱ大変ですよね」
「ああ、いいよ。あれくらい慣れてるさ。ちょっとモンペっぽいけど」
言葉を選んでそうな雰囲気を感じたので、突っ込んでみる。
「ほんとにちょっとですか?」
「ま、まぁ、ちょっとどころじゃないな。でも、なんだろな……心配してんのは伝わったしなぁ」
嘘をついたり隠すのが苦手らしく、聞かれて悩みながら言葉を選んで答えてくれた。
「休みの日でも何かあると、すぐ行っちゃうんですよね」
そう言って微笑むと、莉桜が何とも言えない表情でこちらを見ていた。
「……そうか。なぁ、他にお母さんに言えなかったこと、ある?」
先生との二者面談っぽい話を振られて、少し考え込む。
「ん〜、そこまでは……いえ、そうですね、部活も辞めてバイトしたいと思ってたんですけど。言うとややこしいことになりそうで」
一瞬言葉を濁したが、莉桜の真剣な顔を見て、隠すべきではないかもしれないと思い、前から考えていたことを話すことにした。
「部活とバイトね。部活はなにを?」
「バレー部です」
「ふんふん、何故やめたいと?」
「うちの高校、強豪校なんですよ。練習もガチなんですけど、そのせいもあって勉強と両立しづらくて、テストの順位も下がってきちゃって」
「なるほどね、バレーはお母さんが入れって?」
さっきの話からそう察したらしい。察しがいいなぁと思わず感心した。
「はい。親友がバレーやってて、お母さん同士仲良かったから小学のクラブに入らされちゃって。中学に上がる時、親友がバレー部入る〜って言ってて、他に入りたいとこないし、そこでいいかなって。高校もその延長ですね」
「へー、そんな長くやってるんだ。バレー好きなの?」
聞かれて少し考えてみる。
「うーん。好きだけど……」
「けど?」
「なんというか、一生懸命やってはいるんですよ。ただ、周りが私より勝ちたいって気持ちが強すぎて、ついていけないというか」
「中学の時はキツいと感じたことないの」
「中学もそれなりに強かったけど、高校より緩かったし、負けてもあまり引きずりませんでしたね。二年になったらレギュラー入りしたし、勉強も両立できてたから」
「ふーん。つまり、中学より練習量が増えて、勉強する時間が取れなくなったってこと?」
「そうですね」
ハードな練習量から勉強も次第にどうでもよくなってしまったけど、部活さえ辞めれば勉強時間を確保出来るのは間違いない。
「なるほどね。ところで、バイトしたい理由は?」
「就職しようと思ってて、でも、何をしたいかわからないから、とりあえずバイトしてみようかと」
まるでバイトの面接を受けているような気分になってきた。
「職業体験みたいなもんか。勉強に支障なければした方がいいと思うね。あたしなんか、社会に出るまで一回もバイトしてこなかったから、すげー大変だったし」
「バイト禁止だったんですか?」
「いや、ロングスリーパーだから、そこまで時間を使う余裕がなかった」
「ロングスリーパーって?」
やたらとかっこよさそうな響きに、思わず興味を惹かれた。
「みんなよりもっと眠らないと日常に支障が出る体質っつーのかな。あたしの場合、十時間以上寝ないと頭が働かなかったから、バイトより睡眠だったね」
なるほど、そういう体質があるんだ。あれ、そういえば昨夜寝たのが確か、三時過ぎてなかったっけ?
莉桜は私より後に寝ているはずなので、そう考えると、十時間も寝ていないはず。
「じゃあ、いつもだったらもっと寝てました?」
「そうね……あんま寝れてない」
テレビに映された時間はまだ十一時。起きたのはそれより少し前だから、ざっと計算して七時間より下回る睡眠時間。そりゃ起きたがらないわけだ。
「すみません、知らずに起こしちゃって」
「大丈夫だよ。三時間とかじゃないし、一日くらいは別に」
そんなもん? 昨日は大分遅い時間に仕事を終えたみたいだけど、そんなに寝ないといけない体質なのに、仕事出来ているのかな、と一瞬疑問に思った。
「……おねえさんって、いつもそんな感じなんですか?」
疑問をきっかけに莉桜のことが気になりだして、思わず質問した。
「たくさん寝ること?」
「あ、すみません、そうじゃなくて。えと、なんだろ、余計な質問をしないっていうか、話しやすいなと思って。先生って適当に受け流すか、余計なことを聞くことが多くて」
話の流れから誤解させたことを謝りつつ、説明する。
「いうても、普段はそこまで入り込まないよ? 変に首を突っ込んでもめんどくさいだけだし」
面倒臭いと言われたことに、少しだけショックを受ける。
どの先生も私たちをそういう気持ちで接しているんだなと思った。どうして莉桜は関わりのない私にここまで気をかけてくれるのだろう。
「めんどくさいのに、なんで親身になってくれるんですか?」
聞いてみると、莉桜はしばらく黙っていた。
表情からは何も読み取れなかったけど、黙っているということは、何か答えにくいことでもあるのだろうか。
「うーん……助けてもらったお礼ってのもあるけど、なんかなぁ、モヤモヤしてたんだよな。せっかくならすっきりさせておいた方がいいだろ」
お礼の範疇を超えている気もしたが、それを言うと逆鱗に触れて家に送り返されるかもしれないから黙っておくことにした。
それにこのまま家に帰されたら、家出したせいで母が今以上に干渉してくるかもしれないし、そうなったら逃げ出した意味がない。
顔に出ていたのか、莉桜は面倒臭そうに溜め息をついた。
「めんどくせぇとは思うんだけどさ、困ってんだろ?」
「……そうですね」
「変えるにはリスクが伴う、変えなければもっと大きなリスクが伴うって言葉があってな。今困ってんなら、さっさと変えて楽になった方がいい」
変えなければもっとリスクを伴う。
今しか変えるきっかけがないとしたら、私は一体何をしたいんだろう。
母をどう説得すればいいのか、考えがまとまっていない。仮に説得出来たとしても、母はどのくらい変わってくれるのか、予想もつかない。
その先が見えなければ、動くのが怖いんだと気が付いた。
「……せめてやりたいこととかあればなぁ」
「やりたいことねぇ。先生になったのも、大学で適当にやってたら免許取れたからってだけだし。今もやりたいこと、別にないんだよなぁ」
「そんな適当で生きていけるもんなんですか」
進路は先を見据えて決めるものだと担任に言われていたからこそ、思わず驚いてしまった。
やりたいこともないのに大学に行くのは時間の無駄だと思うし、たまたま資格が取れたからといって、それを仕事にする考え方に共感出来なかった。
「大学に行った方がメリットあるのはわかってたしね。家の近くの大学が夕方から授業受けれるとこだったから、ちょうどいいなと思って」
夕方から授業を受けられる大学があるんだ。私が思っているよりも、大学には色々な選択肢があるのかもしれない。
「やっぱり大学、行った方がいいんでしょうか……」
「行きたくないなら行かなくていいんじゃない。ただ、金の問題とかで行くのが厳しいなら学費が安いとこか、奨学金制度を使って入るか、社会人になって稼いだお金で入学できるし、大学が無理でも、短大とか専門もあるよ。ま、学費に関してはピンキリだし、もうちょっと悩んでいいんじゃない」
「んー……難しいですね」
お金の問題は避けられないようだが、莉桜は他の先生と違って、進学を強要しないところに好感が持てる。行きたくないなら行かなくていいと言ってくれたし、他の選択肢も教えてくれた。
「ぶっちゃけ進路なんて、やりたいことないならあたしみたいにてきとーなとこでいいんじゃない。金ないなら無理して行く必要ないんだし」
「教える側が言っていいもんなんです?」
人生は一回きりだ。適当にやれるものじゃないとは思うんだけど。
「案外、適当に生きる方が人間はちょうどいいもんだよ。体を壊すと元に戻らんから」
「ん? 病気になったんですか?」
「睡眠時間を削って働かされてたから体壊した。知り合いにも何人かいるよ、学校生活が合わないとか、仕事がキツすぎてうつになったり」
うつ。クラスメイトに何人かそういう傾向の人がいて、たまにスクールカウンセラーと話しているって聞いたことがある。その人たちは見た目だけではうつだと分からないレベルだったし、きっと莉桜も同じで、私から見て分からないんだろう。クラスメイトもうつのことはあまり触れて欲しくなそうにしていたけど、莉桜はどうなんだろう。
一つだけ気かがりなことがあったので聞いてみる。
「あの、それで……お母さんと話すの、大丈夫です?」
「……はぁー、あたしの心配なんてしなくていい、今は君の話をしてんの」
「でも……」
「お母さんから逃げてきたんでしょ、遠慮してほしくてこんな話したわけじゃない。あたしだってなんとかしてやりたいとは思うわけ」
「そうなんですけど」
子供のために働いて体を壊したなら、私のせいでまた同じことになるのは避けたいと思いやるのは当たり前だと思っていたけど違うの? それとも先生って、そうやって子供を優先して考えてくれるのが本当の仕事なの?
「家出した理由って、大学に行きたくないから? それとも勉強と部活がしんどくなったから?」
「……いえ。いろいろ言われるのがつらくなってきて」
「お母さんには言った? そういうの嫌だって」
「多分、はっきりとは言ってないと思います」
「さっきモンペっぽいって言ったろ、あれって君を支配してそうだなと感じたからだよ。そうやって育った子供は、自分より他人に気を遣う。さっきあたしに遠慮しちゃったようにね」
「でも、そういうのは私だけじゃないですよ。みんなもどこかしら親に不満を持ってるし」
「お母さんのこと、嫌いじゃないの」
莉桜は心底不思議そうに首を傾げていた。
「嫌いだけど……お母さんは私がきちんとしてくれないと悲しむから」
「ふーん? 家出して、その後どうするつもりだったの」
「……わかんない。ただ、自由になりたかった、んだと思います」
莉桜がふっと笑ったので、身構える。
「わかるよ。親と喧嘩して、全てがどうでもよくなって、ただ自由になりたいと思ってサボってたな」
びっくりした、てっきり呆れられたのかと思った。そういえば、親と喧嘩して三ヶ月も学校をサボっていたんだっけ。
「なんで親ってあんなにうるさいんだろう。私のためにと言ってくれるのはわかるんだけど……」
母も私のためと思って、色々言ってくれているのは分かる。
「モンペあるあるだけど、親ができなかったことを子供に押しつけてんだよね。うちの塾にもそういう親いるよ。自分は大学に行けなかったので、うちの子は絶対行かせたいんですとかね」
「やっぱり、お母さんは……私に押しつけてるのかな」
「そうじゃない? たいていは共依存してんだけど、たまにいるんだよ。自分でおかしいと気づいて親に反抗したりとか」
「共依存?」
「お互いが依存し合うのを共依存って言うけど、色んなタイプがあって、そのうちの一つが共依存家族ってやつ。よく言われるだろ、親のしいたレールを生きてる子供って。あれも共依存家族のモデルケースで、そういうのって自分の意思がなくなっちゃう、親に決めてもらわないと生きていけなくなる」
……言われてみれば、中学の途中まで何するにしても、母の顔を見ながら生きていたかも。何一つ自分で決めたこと無いことに気付いて、自分の人生って虚無だなぁと溜め息つく。
「ねぇ、高校決める時とか、周りのアドバイス聞いてくれなかったりしない? そこまで上を目指したらしんどいよとか言われても、お母さんがここにしますって」
「うっ、たしかにそうでした。バレーを続けるなら狛城にしなさいってお母さんが勝手に決めたけど、担任はもっと上に行けるのにって残念がってました」
「あぁ、狛城。そうだ、女子バレー強いって聞いたことある。てか、普通科に行けばよくない? スポーツ学科って偏差値低くなかった?」
「いえ、普通科ですけど……」
「えっ? あそこより上狙えるって頭いいじゃん。どこか行きたいとこあったの?」
凄く意外そうに驚かれた。
同じ狛城を受けたかなはスポーツ推薦だったし、普通科を受けた友達たちも私より少し下くらいの成績だったから、いまいち偏差値が高いって実感が湧かない。
あぁ、そういえば部活で優秀な生徒はスポーツ推薦を取ってスポーツ学科に行くことが多くて、私みたいに実力で普通科に行く人はあまりいないから凄いよって、入学時に担任に褒められたのを思い出した。たしかにクラスメイトも私以外は文化部か、運動部のマネージャーだしなぁ。
「特には。友達が行くとこならどこでもよかったのかも」
「ほー。狛城もそこそこレベル高いから選んで後悔したとかはなさそうだけど、先生の気持ちはわからんでもないな。バレーがほんとに好きで、ここ行きたい! とかじゃないなら余計に」
う〜んと悩んでいる莉桜を見て、中学時代の担任を思い出した。
三年の時の担任もこんな感じで悩んでたなぁ。母との三者面談で『うちの子はバレーが好きですし、狛城に行かせます』って言われて、結局折れちゃったけど。
「あー、終わったことだし、たれらば話はいいや。てかさ、結局どうしたいん。物理的に離れたいの、それとも少し頭を冷やす時間がほしい?」
「……物理的に離れたいです」
「そんなら親族とかさ、頼れるとこないの?」
「ないです。私がデキた時、親とかなり喧嘩しちゃったらしくて、縁を切ったから会ったことないんです。お父さんの方は離婚してから連絡取れてないので、どこにいるかすらわかりません」
父の親族も結婚式以来、顔を合わせていないので、頼るつてが無い。
「うーん、親族のつてなしか。そしたらドーミーあたり手配してもらうとか?」
「ドーミー?」
「学生向けのマンションみたいなもんかな。大学生とか浪人生が使うけど、高校生でも入れるとこあるのよ。下手なアパートで暮らすより高いけど、セキュリティもしっかりしてるし、ご飯も出てくるから一人暮らしよりは負担が少ない」
そんなものがあっただなんて知らなかった。でもアパートより高いって、いくらかかるんだろう。
「その……うちにお金あんまなくて、厳しいかも」
「あー、そうねぇ。高校生でも使える奨学金制度を使えば……あ〜、保証人になってくれそうな人がいないのか」
「そうなんですか? 奨学金制度は聞いたことあるけど、借金だから使わなくていいって言われて調べてなくて」
「ありていにいえば借金だね。連帯保証人と保証人ってのがいて、保証人は親以外じゃないとダメなのね。普通は働きに出てる兄姉とか、おじおばとかから名前借りるんだよ。機関保証だと保証料払うから割高になるし、おすすめしたくない。大学の同期も機関保証を使って奨学金貰ってたけど、返済額が高くてあまり貯金できないって聞いたことあるし」
確かにそれなら保証人になってくれる人はいない。それに母は奨学金制度を借金だとか言って嫌っていたし、頼るのは難しいんじゃないだろうか。
「はぁ……やっぱ、戻らなきゃいけないのかな」
話していて少し希望を見い出せたと思ったら、見えない壁に当たったような気がしてしょんぼりしながら背中を丸める。
「あ〜、過保護なお母さんが君を探さなかったの、そういうことかぁ」
「どういうことですか?」
「飛び出しても帰る家が“あそこ”しかないと分かってるからだよ。帰ってこなくても、おおかた友達の家にいると思い込んでたんだろうな。そりゃ知らん人に保護されたとわかったら慌てますわな」
「で、でも家に帰らない可能性だってあるのに」
かなの家だとすぐ連れ戻されるし、走り着いた先がたまたま渋谷駅だっただけで、友達の家に泊めてもらうという発想すらなかった。
「飛び出したはいいけど、金は持ってない、寝るとこもない、頼れる親族はいない。じゃあ近くの友達の家にお邪魔しようかなくらいは考えたでしょ。んで、制服もないし、一旦家に帰らなきゃいけないじゃん、そのまま学校に行くつもり?」
「う……」
莉桜がいなければ、冷静になって心細くなって、時間をかけて泣きながら家まで歩いて帰っていたかもしれない。
「てか、お母さんも渋谷駅まで来てたの、想定外っぽそうだったしな。夜の渋谷は危ないし、あたしが君をそそのかしたんだと思って怒ったんだと思うけど」
「そそのかす……」
「お母さんの言いなりだったんだろ? それなのに知らん人に保護されて、家に帰りたがらん、塾講師のあたしが間に入って話しましょうって言われて、素直にはい、わかりましたって言わないと思うんだよな」
母の言いなり――。
……そう、かも、しれない。ずっと母の言うことを聞いて、母が望む良い子であろうとしてきた。そうすることでしか、母は私を見てくれなかったから。
でも、私は良い子になれなかったんだ。だから、こんな風に怒られたり、あれこれ縛ろうとしたんじゃないの――。
母の期待になんとか応えようと頑張った。なのに、どうして私は褒めてくれないんだろう。
そういえば、わたしがこうこうにはいってからほめてくれた? ううん、ほめてくれたきおくがない……。
ふと、胸の奥がひやりと冷たくなって、心の奥にわだかまりが広がる。
母は何のために私を産んでくれたんだろう。私の父はもういないのに? 私はいったい、何のために生きているんだろう?
おかあさんといっしょにいること?
それって私である必要はないんじゃないの? それとも、母の代わりに生きていくことが、私の存在意義なの?
おかあさんはどんなわたしが、おかあさんにとっての、りそうのこどもなの?
わたしはおかあさんをまんぞくさせてあげることができなかった? だから、いつもおこっているの?
はは、そっか。おかあさんにとって――わたしはできぞこないのこなんだ。だから、ほめてくれないし、わらってくれないんだ……。
「……した、おい! うがみ……? うがみさん!! ぁ……」
だれかのこえがきこえる。めのまえがぐにゃぐにゃで、とてもくるしい。
水の中に引きずり込まれるような、息苦しさで胸をしめつけていて、それがとても怖く感じた。
それ以上に、ずっと耳に入ってくる声がとても……優しく感じて、もっと聴いていたかった。
「――っそが、ひな!!」
自分の名前が聴こえた瞬間、かくんと落ちるような感覚がして、ハッと我に返った。目の前の莉桜は険しい顔をして、肩を大きく上下させている。
「────あ、れ……? どうした、の」
「っ……はぁ〜。ビビらせんな、もう。……なぁ、泣くなよ……」
私の頬に莉桜の指が触れて、ぬるりと涙を拭われた。その瞬間、初めて自分が泣いていたことに気付く。
さっきまで考えていたことが頭の中でぐるぐると巡り、母に見捨てられるのではという不安が胸を締め付ける。抑えがきかなくなり、涙が溢れ出て止まらなくなった。
「……っ、おかあさんにみすてられるの、いやだ……っ! おかあさんがいないと──っ、わぁぁ〜〜っ!!」
へたり込んで赤ちゃんにでもなったかのように、莉桜に抱き締めながらわんわん泣き出した。
心の中に覗かせてきた、どす黒い感情が押し寄せてきて震えが止まらなかった。
「っ……なぁ、あたしの話聞いてくれ。頼むから泣き止んでくれ。子供に泣かれるの、苦手なんだ……」
さっきまでされるがままだった莉桜が、ふいに私を強く抱き締め返し、耳元で優しく囁いてきた。
「ぁ──な、に……っ?」
本能的に泣き止まなきゃ、見捨てられるかもしれないと感じ、嗚咽を漏らしながら答える。
「お母さんに逆らってみないか」
「さから、う?」
「このままじゃ君は君でいれなくなる。っつーかあたしがそうさせちまったかもしんない。それは謝る、すまない」
わたしが、わたしでいれなくなる──。
そもそも、わたしってなに?
「さからったら、どうなるの」
「おかあさんが折れてくれたら、あとは自由だ。そっから先は君が決めろ」
「わたしが、きめる?」
「そうだ、君の人生なんだからな。やりたいこともおのずと見つかるだろうし、お母さんはきっと何も言わなくなる。それと、依存先も増やすんだ」
「ふやす……?」
「あぁ、今の君はお母さんにだけ依存しているから、見捨てられるのが怖いんだ。友達とか頼ったりして、働いてお金を稼いで、趣味を楽しんだり、恋人作るなりして、お母さんがいなくても生きていけるようにするんだ。この世に生まれた者はそうやって生きている」
「……おかあさんがいなくても、いきていける?」
「子供はいずれ親から巣立つんだよ。そうしてみんなは大人になっていくんだ」
「できる……かな」
力無く答えると、いきなり私を引き剥がし、私の目をじっと見つめてきた。
「お母さんといたくないって言っただろ。それは嘘か?」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、どうしても目を逸らすことが出来なかった。同時に、もし目を逸らしたら、莉桜は失望するんじゃないかという恐怖が押し寄せてきた。
「……や、だ。いやだ、おかあさんと、いたくない。でも、おかあさんがいないと……」
必死に言葉を紡ぐが、舌がうまく回らず、莉桜に伝わっているかも分からなかった。それでも、必死に縋るしかなかった。
「一緒にいたくないんだな。その気持ちがあるならやれる。あたしはひなを信じる。だから、君の言葉で──お母さんと決別しろ」
こんな私を見ても、莉桜は揺るがない。目を逸らすことなく、真剣に向き合ってくれる。
あぁ、莉桜にとって自分が信じたものが正しいんだ。だから、私がやろうと思えば出来ると信じてくれる。
その時、私は、莉桜なら何があっても何とかしてくれると信じてしまっていた。いや、むしろそう思い込まされていたのかもしれない。莉桜の自信に満ちた目が、そう影響を与えていた。
「……うん」
この、心の温かさにどうしようもなく涙を流してしまった。
今度は、莉桜が私を優しく抱き締めてくれた。
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