あいつの恋は肉の味

本文

 今晩は生姜焼きにしようと思った。

 肉が余っていた。昨日あれだけ肉を焼いておいて、壁紙には取り返しのつかない染みと臭いが残っているにもかかわらず、赤い生肉が寿命も間近に冷蔵庫の中にいた。


 昨日は焼肉パーティをやったのだけれど、焼肉をやるのにどうして薄切りの豚肉を買ったのかが疑問だった。

 買い出しに行ったときの僕は冷静じゃなかったのかもしれない――いや、僕は買い出しに行っていない。


 つまり買い物下手な誰かがトチ狂って豚肉を買い、僕の小さな冷蔵庫にそれが残っている。


 とにかく今晩は生姜焼き定食なのだ。一日の終わりに待つささやかな楽しみを胸に大学へ向かう。


   ※


「飲みに行くんだけどさー」


 単刀直入と言うのも乱暴過ぎる唐突さで、今関は僕の隣に腰掛けた。

 脚が床に固定されて背もたれだけが動くタイプの椅子だから、彼が座ると机に振動が伝わってくる。


「誰と?」


 溜まっていたルーズリーフの束をファイルに入れながら訊ねる。


「小川」


 今関は草食恐竜のトサカみたいな前髪を繊細に撫でつけながら答えた。


「なんかお前焼肉臭いな?」

「誰もファブリーズ買わなかったからね」


 昨日僕の部屋で開催された焼肉パーティには、今関もいたし小川もいた。他のメンツもいるにはいたが、究極の目的は今関が小川を口説き落とすことにあった。

 つまり僕らは今関の引き立て役――というほど自分達が今関に比べて劣っているとも思ってないけど――みたいな役回りで、しかも飲みに行くというのだから、奏功したらしい。


「昨日の今日で飲みかあ」

「中原も来てくれない?」

「なんでだよ、二人きりで楽しくやってくればいいじゃん」

「そうじゃねえんだよ。他にいるんだよ」

「誰が」

「倉橋」


 登場人物を整理しなければいけない。


 今関が「小川って彼氏とかいんのかな」と言ったのは12月22日の金曜日だった。

 秋学期も終盤。年明けに授業を残しておきたくない教授の多くが試験を終わらせ、僕たち大学生も長い長い春休みの気配に胸を躍らせる時期だ。


「今から?」

「今からって、なにが」

「クリスマス前に彼女を作るにしても、流石に遅すぎると思う」

「違う、違うよ。そんなんじゃねえって」


 キャンパスから駅へ歩きながら言葉を交わす。吹き付ける風がコートを貫くので、それに乗じて身を縮こまらせた。


「別にクリスマス過ぎてもいいんだけどさあ」


 僕と今関と小川は――1年生の最初の講義で3人仲良く遅刻した縁で仲良くなったとかいう馴れ初めは置いておいて――いくつかの被っている講義を一緒に受けて、ときには遊びに行くこともある友人同士だ。

 だから今関が小川を狙っていると聞いて、まず僕が感じたのは嫌悪感だった。


「手出そうとしてんの?」

「ダメかな」

「そもそも今関って女遊びとかしてるんだよね? この前も合コンとか行ってたじゃん」

「それとこれとは別なんだよ」


 何が別なのか分からない。男女関係の云々で友情が崩れるなら、それはやめてほしかった。


「聞いてみりゃいいじゃん、小川に」

「んー、まあなー」


 僕と違って今関は派手な見た目をしている。明るい金髪にはワックスを付けて前髪を遊ばせているし、片耳にはピアスが空いている。

 口を開けば「サークルの女と飲んだ」「バ先の女子高生と遊んだ」ばかりだ。


 女にだらしないチャラい男だと思っていた今関が、いまさら何をぐずっているのだろう。

 彼の言った「んー、まあなー」という曖昧で不甲斐ない言葉の通り、この恋はゴールの見えないままダラダラと進み続けて今に至る。


 では倉橋とは何者か。


 僕と今関には男で集まっているコミュニティがあって、もちろん小川にも女で集まっているコミュニティがある。


 倉橋は男コミュニティに属している。

 1年生の春先にあった学部のコンパで意気投合したグループの一員だ。正確には意気投合なんて大層なものじゃなくて、近くに座っていた男が集まって結果的にズルズルと関係が続いている、というようなコミュニティだった。


 実を言うと僕は倉橋のことがそこまで好きでもなく、かといって邪険にするほどの悪さをされたわけでもない。

 だからこそズルズル続いてしまっているわけだが。


 倉橋は脳天は黒い茶髪頭の男で、こざっぱりした色白の肌に眠たげな眼を浮かべている無気力で冷笑的な男だ。

 彼が教授や学生や政治の悪口を言うのを何度も聞いてきた。


 嫌な奴には違いないが、性欲とは縁遠そうな清潔感のある男でもある。

 そんな彼が小川との間柄を妨げようとするなんて、僕にも予想外だった。今関にもそうに違いない。


 本人は高校から付き合っている彼女がいると言っており、捻くれているが見た目は悪くない倉橋のことは完全にノーマークだったのだ。


 まさに灯台下暗し。今関が僕を呼びたくなる気持ちは分からないでもない。


 しかし僕が渋る理由も分かってほしい。



 現在に戻る。


「まず飲みに誘ったのは昨日なわけ?」


 3限にある試験までの時間で、僕らはカフェテリアに来ていた。

 多くの学生はレポートや試験勉強に時間を費やしていて、こんな色恋沙汰に現を抜かすような奴は僕らの他にいない。


 カフェラテから立ち上る湯気の向こうで、今関は口角を微かに上げて頷いた。


「俺もよっしゃって思ったよ」

「そのときは2人だった?」

「そりゃそうだ。誰が好きで倉橋を呼ぶかよ」

「でも来るんでしょ」

「そうなんだよ。なんか小川が倉橋に言っちゃったらしくてさー」

「え、小川が倉橋を誘ったってこと?」

「いや違うっぽい。なんか今朝LINEがきて『倉橋も来るんだね』みたいな」


 そうなると今度は、小川の真意が分からなくなる。


 二人きりで飲みに誘われて、その意味が分からないほど小川は馬鹿じゃないはずだ。もし小川が倉橋に声を掛けたなら、それは遠回しな拒絶に違いない。

 倉橋から名乗りを上げた場合はどうだろう。彼がどういう経緯でデートを嗅ぎ付けたのかは分からない。しかしどの道、彼女には倉橋を断るという選択肢もあった。そして、敢えてそちらを選ばなかった。


 二人きりを拒むということは、脈がないということだろうか。


「でも飲みにオッケーしたんなら完全にノーチャンじゃないよね」

「……だと思いたいけどな」


 今関は腕組みをしてマグカップを睨んでいた。彼のカップには真っ黒なコーヒーが入っている。

 ミルクも砂糖もなし。頑なにブラックコーヒーである。


 今関はサブカル研究会なるサークルに所属していて、そこで出会った先輩にひどく心酔している。ブラックコーヒーを飲んでいるのもその余韻らしい。


 ちなみに今関はフットサルサークルにも入っている。サブカルとフットサルを両立させているのが僕には信じ難い。


「とりあえず倉橋に聞いてみたら?」

「なんて聞くんだよ」

「本当に来るのか」


 我ながら無責任な提案だと思ったけど他人事なんだから仕方ない。とはいえ「知らね」と突き放すような勇気もない。

 今関は「うーん、まあなぁ……」と言い淀みながらコーヒーを飲んだ。顔をしかめる。


 他にどうすることもできない僕は、3限のテストに向けてルーズリーフを開くことにした。テスト勉強なんて柄じゃないので一夜漬けでなんとかするつもりだった。

 次の近代文学史は楽単で有名だ。


 ルーズリーフに目を滑らせて一問一答を反芻している間、今関は冷めるまでコーヒーを睨みつけていた。



「よう今関、中原」


 声を掛けられた。時計は正午を表示していた。

 僕らが振り返ると、丸眼鏡を掛けたウルフカットの男が片手を挙げている。


「あー南条先輩お疲れ様っす」

「おつかれーす」


 この挨拶をしているときが最も自分の大学生を感じるときだ――というのはどうでもよくて、いかにも人の良さそうなこの人こそが、今関の心酔しているサブカルの先輩である。


 紫色のグラデーションが掛かったジャケットの下では、シャツの前面にプリントされた初音ミクが舌を出して怒っている。

 もしかしたら先輩の声にならない憤怒を表しているのかもしれないし、その程度の思想もなしに、試験期間でピリついたキャンパスに着て来てはいけない。


「なにお前ら試験勉強?」

「そーっすよ。先輩は?」

「5限まで暇なんだよ、どうすりゃいいと思う」

「秋葉でも行ってくればいいんじゃないですか?」

「試験前だぞお前」

「関係ないでしょ」

「そうだな、関係ないな」


 いつもこんな調子の会話をしていて、僕はできるだけ蚊帳の外にいたいと思っている。

 しかし残念ながらと言う他ないが、絶妙の浮世離れしている先輩に、顔と名前を覚えられてしまっている。


 おそらく僕も一味の仲間に数えられているのだろう。時間を忘れて駄弁っていると、気付けばいつもサブカル研究会の面々が集まってくるのだ。

 静謐なカフェテリアが不思議と垢抜けないのはそのせいに違いない。


「俺ら昼飯買ってきていいすか?」

「あ、いいよー。俺しばらくここにいるし」


 今関と僕はレジへ発って、サンドイッチとスープを買った。


「倉橋にLINEした?」


 並びながら訊ねたが今関は首を横に振った。


 そして席に戻ると、当の倉橋がそこにいた。

 椅子に座ってトレイを置く。今関が冷めたコーヒーを啜った。


「倉橋はテスト終わり?」


 サンドイッチの包装を開けながら、口を開いたのは僕だ。


「ん、まあね」

「この後何かあんの?」

「いや。もう今日は終わり」

「そりゃいいね」


 会話が止まる。サンドイッチにかぶりついて逃げる。

 暖房が効き過ぎているせいか、下着の中を汗が滴った。今関がコーヒーを飲んで大きく息を吐く。


「お前ら単位取れそうなの?」


 怪訝な沈黙を察知したのか、先輩が出し抜けに口を開く。


「俺は多分取れます」


 今関が言った。僕と倉橋も頷く。僕の周りで単位が危うい学生なんて早々いないが、先輩の住む世界はどうやら違うらしい。ということを、今関は度々口にしていた。


「お前らは無事に卒業できそうだな。つまんねーの」

「おい倉橋」


 不意に今関が口を開く。僕はギョッとした。先輩もギョッとしていた。しかし僕と先輩とでは、受け取り方がまるで違う。

 そしてもちろん、倉橋にとっても。


 いま冷静なのは今関だけなのかもしれない。そう思ったが、サンドイッチに目を落としたまま微動だにしない彼が、心中穏やかでないことは明白だった。


「なに?」


 倉橋は自分に向けられた攻撃性に気付いていないフリ――あんなにも刺々しい語調をぶつけられて何も思わないわけがない――をして、眠たげな声で応じる。


「今日来るわけ?」

「何が?」

「俺と小川で飲むんだけど」

「あー、うん。行くよなんで、ダメ?」

「まあダメってわけじゃあ……うん」


 食い下がれ今関、と僕は奥歯を噛み締める。「小川って?」と先輩が耳打ちするので、彼らの儚い恋模様を簡潔に伝えた。


「ちなみにそれ中原は行かないの? てか行けよ」


 何故か先輩は僕を送り出さんとする。それならいっそ先輩にも一緒に来てほしい。


「中原も来ますよ」


 答えるのは今関だった。再びギョッとした。今度は倉橋もギョッとしていた。


 重ねて言うが、僕は恋の行方がどこに行こうと心底どうでもいい。

 むしろこれで平穏無事な人間関係がこじれるなら、むしろ雲散霧消でもしてくれと思っている。


 今関がいつまで経っても食べないので、彼のサンドイッチにこっそり手を伸ばした。その手をガッと掴んで、今関は「4人で飲みに行くんすよ」と言った。


   ※


 テストの結果は出ていないけど、まるで手応えがなかったのはいつものことだし、その責任は今関に押し付けるつもりだった。

 一体どうして僕が、恋敵を牽制するために飲み会へ行き、あろうことか今関が小川を口説き落とす様を見なければならないのか。たった一言倉橋に「来るな」と言えばいいものを。今関も意気地なしだ。


 そもそも僕はテストを堅実に終えて、カフェテリアでのんびりとYouTubeでも見てから、帰って生姜焼きでも作ろうと……そうだった。

 大切なことを思い出した。今日中にどうにかしなければ、せっかくの豚バラ肉がダメになってしまう。やはり飲み会なんて行っている場合じゃないのだ。


 キャンパスの中庭――中庭と言っても青臭い芝生と朽ちかけ寸前みたいなベンチだけの狭い広場だ――のベンチに座って時間を潰していた。

 何をもって「潰す」という行為が終わるのかは分からないが、少なくとも今関はまだテスト中だ。


 カフェテリアにはまだ倉橋がいて、ボーっとスマホをいじっていた。彼との不仲は前述の通りだ。僕が一人で過ごしている理由は言うまでもない。


「なかはらー」


 豚肉を長持ちさせるライフハックを調べ始めるのと、伸びやかに声を掛けられるのと、ほぼ同時だった。

 聞き馴染みのある声なので、振り向きもせず「んー」と適当に返事をする。


「テスト終わったの?」

「今日で全部終わり」


 スマホを閉じて顔を上げる。声を掛けてきた張本人は、テーブルを挟んだ向かいのベンチに腰を下ろした。


「小川は?」

「終わり。この後今関たちと飲みに行くんだよねー」

「らしいね」

「中原も来る?」

「僕も呼ばれたんだよ、今日」


 いいねー、と小川は肩までの髪を揺らして笑う。ハッキリした目鼻立ちが快活に歪んで、無垢な笑顔とはこういうものなんだろうな、と思った


「なんか昨日今関に誘われてさ」

「それもあいつから聞いた」

「やっぱ皆来るよねー」


 小川はテーブルに頬杖を突いて言った。これは本当に僕の思い過ごしかもしれないけど、微かに残念そうな響きがないこともなかった。本当に微かに。


「だって、小川が倉橋を誘ったんじゃないの?」

「違う違う。今関だよ」

「ん?」


 ん?

 手のひらがテーブルに触れて冷たい。風向きが変わるのを感じた。


「今関は小川を誘ったらしいよ。でも小川が倉橋を誘ったらしいってなって」

「えーでも倉橋くんが昨日『俺明日も行くから』って言ってたよ」

「じゃあさ、例えばなんだけど。小川が今関と二人でも別にいいわけ」

「えーなにそれ。あいつ私のこと好きなんかな」


 その通りなんだから質が悪い。


   ※


 もう一度だけ言うが、僕は今関と小川がどうなろうがどうでもいい。

 ――どうでもいいっていうのは、もしかしたら照れ隠しというかカッコつけているというか、そういう部分があるかもしれなくて。要するに僕らの拙い友情が壊れないならなんでもいいのだ。


 何も起こらないまま終わっても。

 つまらないくらい呆気なく成就しても。



 僕ら4人、つまり僕と今関と小川と倉橋が繁華街へ繰り出すのは5時半過ぎくらい。

 酒飲みをするには早すぎる時間だと思ったが、案外空いている店は多かった。たとえ多かろうが少なかろうが鳥貴族に入ることは決まっていたが、そんなのは大した問題ではない。


 ダラダラと乾杯をして、まず饒舌になるのは今関だった。


「ここは全員テストが終わってるんだっけ?」

「私は終わった」

「僕は今関と一緒だから」


 小川と僕が答えた後で、何も言わない倉橋に仕方なく「倉橋は?」と話を振る。


「俺も終わったよ」


 それだけを答えるのに、わざわざ彼一人を名指しにして話に参加させてやらないと、ムスッとしたまま一言も喋らないのが倉橋だ。彼が鼻持ちならない理由もここにある。


「春休みだなー。どっか行こうぜ、旅行とか」

「おおーいいね」


 そういう訳で話題は旅行の計画に移った。行き先はどこがいいとか、いつなら混んでないとか、楽しい部分だけを口にする。

 実行されるかどうかは別だし、例の如く倉橋はあまり口を挟まない。彼は彼なりに、自分がそこについて行くのかどうか掴みあぐねているのだろう。


 倉橋も来る? と、そこまでは言い出せなかった。

 僕の好き嫌い以前に、倉橋を含めて4人の場というのが珍しいのだ。僕の属しているグループには小川もいるし、倉橋もいる。しかし小川のいるグループに倉橋はいないし、倉橋のいるグループに小川はいない。


 人間関係はかくも難しい。

 もしくは僕が余計に難しく考え過ぎているだけなのかもしれない。


「春休みって結局いつまであるの?」


 カシスオレンジをチビチビと飲みながら、小川が言った。

 隣に座る今関が「あー」とわざとらしく天井を仰ぐ。


「4月までっしょ?」

「なっが。暇じゃん」

「だよなー、俺はもう空いてる日はバイトとか入れようと思ってさ。小川は何すんの?」

「えーでも私もバイトじゃない?」


 そんな話はどうでもいいから、デートにでも誘えばいいのに。暇なんだから。

 僕じゃなくても、客観的に見ていたら誰もがそう思うだろう。しかし同じテーブルにはそう思わない男が座っていることを思い出す。


「あ、じゃあさ。今度あそこ行こうぜ、チームラボ」


 前に小川が行きたいって言ってたとこ。言った後で、今関はレモンサワーをグッと飲み干した。飲み込んだのはサワーだけじゃないのだと思った。


 これは今関の度胸を称える他ない。ウジウジと進まなかった恋路にようやく進展が見られたのは良いことだ。

 枝豆のさやを噛みながら隣を窺うと、倉橋はジッとテーブルに視線を落としている。


「いいね、チームラボ!」


 手を叩きながら、小川がチラリと視線をやった。目が合うと、彼女が一瞬小首を傾げる。真意を掴みあぐねながら頷いた。


「ちょっとトイレ」


 愉快な顛末の結果だけを知りたくて、今関の孤軍奮闘をよそに席を立った。


 トイレから出て、席に戻る突き当りで小川と出くわした。


「女子トイレは奥だよ」


 そんな用件じゃないことは分かっていながら、言った。


「やっぱ今関ってさ――」

「小川はどうすんの?」

「んー……」


 小川は一拍置いた。彼女には珍しいことだった。


「まあデートに誘ってくれたら行ってみようかなって」


 いっそのこと「全然あり!」とか言ってくれたらいいのだが――いや、これ以上は僕の口角が上がっていることの説明がつかないので、やめた。

 戻ったら今関の背中でも叩いてやろうと思った。


 席に戻ると、倉橋が顔を真っ赤にしていた。


「今関って小川のこと好きなの?」

「え、これなんの話?」


 慌てて首を突っ込んだが、どちらも僕の方を見なかった。険悪な雰囲気と言っても差し支えない形相で、互いに睨み合っている。


「別になんでもねえよ」

「嘘だろ、絶対好きじゃん。あんなの」

「なんでだよ」

「言えよー好きなんだろ」


 顔いっぱいに笑みを浮かべて唾を飛ばす倉橋と、無表情で誤魔化すばかりの今関に挟まれて、僕はどうすればいいというのだ。

 倉橋を咎めるのが得策とは思えないし、そうだ今関は小川を狙ってる、と素直にいう訳にもいかない。

 そしてこの空気を放置したまま小川を迎え入れるなんて以ての外だ。


 彼らが何杯飲んだのか分からなかった。時計は7時を指していた。

 そのとき店員がグラスを4杯運んで来たので、心の底から助かったと思った。


 僕に電話が掛かってきたのはそのときだった。南条先輩からだった。



 その後の飲み会はつつがなく進んで、終わった。つつがないと信じている。目下の心配事は小川の心象ただひとつだ。


「いやー飲んだ飲んだ」


 店を出ながら言うと、小川が「中原って意外と酒強いじゃん」と脇腹を小突く。それを今関にやれよ、とは言えない。


「小川は意外に弱いんだな」

「いや全然。顔に出るけどまだ飲めるよ」

「弱い奴はみんなそう言う」


 口では言いつつも、彼女が2軒目も酒豪であることを祈るばかりだ。


「この後どうする?」


 今関が言った。


「帰るんじゃないの」


 倉橋が応じた。


 帰る予定はない。少なくとも僕には。そして多分今関にも。

 のろのろと店の前から動かない僕らを、サラリーマンの集団がよけながら歩いて行った。時折大声を上げて談笑しながら、スーツの背中が遠ざかって行く。


 そのスーツの群れを掻き分けて、こちらに歩み寄って来る影があった。

 近づいてくるに連れて、朗らかな笑みがくっきりしてくる。僕と目が合って、片手がひょいと挙げられた。


「うぃーお疲れお疲れ」

「南条先輩?」


 素っ頓狂な声を上げるのは今関だ。


「何してんすか」

「秋葉行ってたんだよ。インディーズでボカロPやってる人のイベントがあってさ」

「ボカロPってみんなインディーズみたいなもんですけどね」

「だよな。ほらやっぱ中原は分かってんだよ!」


 先輩は馴れ馴れしく僕に肩を組んでくる。顔をしかめて腕を振り払う、なんてことはせず、むしろ先輩の肩に手を回して「最高っス!」と適当な相づちを打った。


 小川が小声で「誰?」と今関に耳打ちしていた。


「そう、でさ。アルバム買ったから中原と聴こうと思ったんだよ。そういえばあいつら今日飲み会とか言ってたよなーって」

「というわけで僕はこれから先輩とアルバム聴いて来ます!」

「ちなみにお前ら来る?」


 俺はいいっす、と今関が言った。次いで小川が「私も」と首を横に振る。


 倉橋は何も言い出さない。そう、何も言い出さないのだ。


「せっかくだから倉橋も来いよ。お前ボカロ好きだったろ?」


 先輩の電話と、僕が店先で立ち止まっていた理由は、それだった。


 ええでも昔は聞いてたけどでも……と言い淀む倉橋を、半ば無理矢理――半ばどころではなく無理矢理引っ張って、僕と先輩は駅へ向かった。

 去り際に小川に目配せをして、ついでに今関へシッシッと手を払った。


   ※


 僕が住む狭いワンルームにCDラジカセがあることを、先輩はどこで嗅ぎ付けたのだろう。カラクリを紐解くとどうせ今関に辿り着きそうだが、だとしたら彼は思わぬ形で自らを助けてことになる。


「ちょうど豚バラが余ってたんですよねー」


 僕はと言えば、昨日の焼肉から続く壮大な計画が結実し、生肉を傷めることなく調理することができて、なんて素晴らしい一日なのだろうと感動していた。

 面白くないのは倉橋だろう。訳も分からぬまま部屋に連れ込まれて、大して親しくもない先輩とボカロ曲を聴いているのだから。


「いやーごめんね倉橋君。なんか急に誘っちゃって」


 片手に缶ビール片手にiQOSを持つ先輩に言われて、倉橋は渋々「ああいえ、まあ……」とボソボソ答えた。

 床には酒やつまみの類が散乱していて、全部先輩のおごりなのだから、僕も倉橋も文句が言えなかった。


「なかはらー、生姜焼きってどんくらいあんの?」

「結構ありますよー」


 嘘だ。本当は500gが1パックである。


 皿に盛り付けて運ぶと、案の定先輩は「一人前じゃねえか!」と言った。


「嫌なら食わないでくださいよ」

「分かったよ俺らはカルパス噛むよ」

「なあ倉橋」


 腰を下ろして本題に入る。


「お前は小川のこと好きなの?」

「いや、俺は別に……」

「でも今関と恋のライバルみたいになってたじゃん」


 ヒューと先輩が口笛を吹いた。まるで他人事のように笑う先輩に「早くアルバム流してくださいよ」とラジカセを持ち出す。


 倉橋は俯いたまま無言だった。何だか僕の方が申し訳なくなって、とりあえず缶チューハイを差し出した。


「とりあえず倉橋さ、肉食えよ」


 箸を差し出した。倉橋は受け取った。肉を一切れつまみ上げて口に運び、


「あの旅行は俺も行っていいの?」


 ――最初からそう言えばいいじゃないか。


「もう一回焼肉やろう。話はそれからだ」


 人間関係はかくも難しい。


「よしいくぞー」 


 先輩が気の抜けた声で言うと、初音ミクの甲高い声が流れた。


「出だしからシャウトかよこれ!」


 倉橋が大声を出したので、思わず笑ってしまった。

 生姜焼きの味は我ながら格別だった。

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