今夜、月のバスに揺られる
ヲトブソラ
今夜、月のバスに揺られる
月がきれいだと思ったのは、あなたといたからだ。
学生時代のバイト先には、二ヶ月に一度、飲み会をするという行事があった。最初は盛り上がっていたこの行事も、バイトを辞めたり、就職したり、音信不通になったりして、参加者が減っていき、七年間も律儀に参加しているのは、今や先輩と自分の二人だけだ。先輩は後から入ってきた後輩なのだけど、大学の先輩であったから〝先輩〟と呼ばされている。しかし、後になって、やはり〝先輩〟はおかしいと言い出したので、間を取り〝先輩くん〟とした。もちろん、自分も間を取り〝後輩さん〟と呼ばれている。そんな歳上の後輩を〝先輩くん〟と呼ぶ、敬称だけの問題ではないはずの何か引っ掛かる歪な関係。更に当時のバイト先も潰れてしまったのに、皆来なくなってしまったのに、律儀に集まる歪な関係。
二ヶ月ぶりに会った今夜も、ただただ、その酒豪は水のようにお酒を消費していた。その姿を見る度、先輩くんに思うことがいくつかある。このまま歳をとって、腰が曲がっても、こうして話していたいということと、その為にも、身体のためにも、そろそろお酒の量を控えめにして、休肝日を設けてくださいということ。そして、ずっと好きなんです。
「すみませーん!梅酒ロック来てないんですけどー!?」
「あの。先輩くん。そろそろ……時間」
呆れて言っているフリ。先輩くんとの時間が惜しいとか残念がらずに、早く家に帰りたいフリ。恋愛対象じゃないフリ。終電をちらちらと気にするフリ。飲み会を重ねていくうちに、どんどん嘘が上手になっていく。
「ここは出すっつってんのっ!」
「いやいや!ずっと、割り勘ってルールでしょ!」
全く、もう。奢られておけばいいのに、こいつはー……と、妙な先輩風を吹かすのが好き。お店を出た瞬間に「はい、後輩さんが好きな味のやつ」と出してくれるガムが嫌いな味でも、その気遣いが好き。少し上を向いて微笑み、ジーパンのポケットに手を突っ込んで歩く姿が好き。先輩くんのことが好きだというだけで、酔えるくらいに先輩くんが好き。
「ほら……最終逃しましたよ」
「んー?うん。逃したねえ」
「呑気ですね。タクシーに乗るほど生活楽じゃないんですよ……」
「じゃあ、泊まれもしないね?」
そうやって、気持ちを知ってか知らずか揶揄ってくる。その大人びた表情にある瞳は心まで見られているようで、たまに怖くなる。さてと……と、先輩くんがスマホに触ると、すぐに家へ帰るための最終手段、深夜バスがあるのだと教えてくれた。
「この辺り飲み歩いてるんですか?」
「人をただの酒好きみたいに言わない」
「……………お酒、好きじゃないですか」
「うん、好き」
その好きがどうしてお酒のことなんだろうと、ずっと〝お酒に嫉妬〟していたら、バスが走り出していた。車内はお酒を飲んで、だらしなくも終電を逃した乗客で空気が蒸し、不快なはずなのにあなたと不快を感じているのだから、妙に嬉しい。
「前職の退勤時間がさ、よくこの時間だったからねー」
「………辞められたんですね、あそこ」
「んー?んん」
窓枠に肘をかけ、頬杖を突いて窓の外を眺める先輩くんからは、悪い歯切れだけが返ってきた。前の会社になったと聞いた今夜まで、そこは先輩くんが、ぽたぽたと涙を落とすような職場だったから、安心と同時に当時の怒りが込み上げてくる。
窓の外を流れる光と足元から唸るエンジン音と重たい揺れ。〝バス本人〟ではないのに「走るのに疲れたな」と思う気分の重さ。ほんの五分とかだと思う。酔いとバスの揺れと、仕事の疲れで眠ってしまっていた。やっぱり、学生の頃とは違うのだと痛感する。
「ただ〝好き〟と言えない」
そう呟いたのは、今の関係が壊れるのが怖いからだ。そう呟いたのは、ふられるのが怖いからだ。そう呟いたのは、良いパートナーがいるかもしれないと知りたくないからだ。そう呟いてしまったのは、もう簡単にそんな言葉を言える年齢じゃないからだ。そう呟くことしか出来ないのは、そんな年齢まで来てしまったからだ。
「はい。水です」
「……ん。………ありがと」
「ちょっとは楽になりましたか?」
「ん。ごめん」
呆れられたように、もう慣れてます、と言っても「気持ち悪……は、はくかも」と二人して途中でバスを降り、結局、始発まで待つ夜になったことを、嬉しいだなんて思うのが、どんどん強くなって、苦しい。たったひと言だけ伝えれば、この苦しみから解放されるのに、その先に待っているかもしれない新しい苦しみが怖くて、ずっと言い出せない。
「はあ………歳だね」
「先輩はただの飲み過ぎです」
「ガム、いる?」
「いいえ。それ、本当は嫌いな味です」
「じゃあ、好きなのは?ガム以外でもいいよ」
ほらまた意味ありげに揶揄ってくる、この酔っぱらい。空を見上げても星なんか見えないのに、顔を上げると月が出ている夜。とても、きれいだと思った。あなたと並んで見ているから、きれいだと思った。
「先輩のことなら好きです」
今夜に限って、何故、こんなにもするりと〝好き〟だなんて言葉が出たのか分からない。二ヶ月に一度会うたびに一喜一憂して、揶揄われて、吐かれて、介抱してという嬉しい関係の先へ進めないことに、疲れたのかもしれない。都合の悪い答えに恐怖するのが、馬鹿らしくなったのかもしれない。とにかく、月がきれいだと思ったのは、あなたと一緒にいるからだ。
「月が綺麗ですね」
「うん」
そのひと言で充分だった。それが月のことなのか、それともさっきの返事なのかはわからなくても、それで充分だった。
気付いていないと思うけど、今夜、バスに揺られ、月を一緒に見ることができて良かったと思うのは、きみといるからなんだよ。
おわり
今夜、月のバスに揺られる ヲトブソラ @sola_wotv
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