第6話

 奈々恵のこの4年間の生活の真相は、こうだった。


 佳奈恵の時の奈々恵は、基本的に鬱状態だった。それが、奈々恵になった途端、家事をこなす。あたかも姉の看病をしているように、自分の部屋を片付け始めたりする。佳奈恵の時には全く食べないが、奈々恵の時は普通に食事を摂る。父親と一緒に。父は、そんな奈々恵に何と声をかけてよいのかわからず、会話は最小限になった。


 奈々恵の時は、地味な格好をしており、「仕事に行ってくる」「今日は一人休むから残業になるかも」などと言って出掛けるが、大抵、食材や生活用品を買って帰ってきた。

 本人は、派遣社員として、どこかの企業に勤めている気になっていたらしい。


 佳奈恵に偏り、絵を描き始めると、父親にも手がつけられなかった。奈々恵の貯金を全て使い切るのではないかというほど散財した。それでも、時々奈々恵に戻り、それらを売りに行く。

 ホストクラブに出入りし、男を連れて帰ってくると、部屋で行為をしている声が家中に響いた。流石に父親は聞いておられず、その間、家に戻らなくなった。奈々恵の時は極端に地味な格好をしているので、男たちは、佳奈恵の妹だと信じていた。躁状態の時の記憶は混乱している。

 画家としての佳奈恵になる直前には部屋から出なくなった。部屋に鍵をかけた。奈々恵として外にいる時は、外から鍵をかけ、姉が中にいて仕事をしようとしているので邪魔をするなと、男を追い出した。


 精力的に絵を一枚仕上げると、ボロボロになる。また鬱状態に戻っていく。この精力的な時には、佳奈恵である奈々恵は、「躁状態」であり、そこから何もできなくなって泣いたり食べなくなるのは、「鬱状態」。

 佳奈恵としての奈々恵自身が「躁鬱病」だったのだ。だが、奈々恵に戻ると、そんな姉を甲斐甲斐しく看病した。


 しかし、奈々恵は、そんな自分の中の佳奈恵が嫌いになり始めていた。佳奈恵などいなくなればいいのにという思いが、自分の中から、無理矢理、佳奈恵を追い出してしまった。

 そして、急に自分の中から佳奈恵がいなくなったことでパニックを起こし、倒れてしまったのだった。



 何度も何度も混乱を重ねながら、何度も何度も入退院を繰り返しながらも、奈々恵は落ち着きを取り戻していった。


 いつの間にか3年の月日が流れていた。



 何度目かの退院の後のことだった。

 奈々恵は、長い間かけていたアトリエの鍵を、父に開けてもらった。

 

 姉のだと思っていたアトリエに入る。

 姉のだと思っていた絵を見つめる。


 そうだ……私は、幼い頃から、絵を描くのが大好きで、ままごとの好きな子だった。

 兄弟姉妹がいなかったので、うさぎのぬいぐるみを「お姉ちゃん」と呼んでいた。



 そっと、画材に触る。

「ああ……」

 覚えている。この感覚。

 既に下塗りされたキャンバスを見つけ、パレットに絵の具を絞る。

 覚えている。この感覚。

 「私は一気にパレットナイフで描くスタイルだった……」そう思い出しながら、キャンバスに色をザッザッザッと乗せていく。

 ああ……覚えている……。


 奈々恵は泣きながら絵を描いた。

 

 一息つくと、父親の元へ向かう。


「……思い出したわ、お父さん」

 目に涙を溜めて言う娘の頭を、父はそっと撫でる。

「そうか……」


 絵を描くことを通して、奈々恵は、佳奈恵をまた自分の中に吸収することができたのだった。



 その後、奈々恵は、長い間アトリエに籠もって、絵を書き始めた。

 いつもとは違う、白く輝くような、柔らかな人物画だった。それは美しく儚げでいて強い印象を受ける女性の絵。



 後に「姉」というタイトルをつけられたその絵は、個展で披露され、多くの人が高額での買い取りを申し出た。


 しかし、奈々恵は、誰にも売ることはなかった。

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緋雪 @hiyuki0714

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