無明の祈り
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『無明の祈り』Case01 -犬童- Background Story
夏蝶の屍を ひきてゆく 蟻一匹 どこまでゆけど わが影を出ず
(寺山修司)
零和一四年七月二九日午後二時 静岡鎮守府内 某施設内部
白い壁、白い床、白い天井。什器と呼べるのは、簡素な寝台のみ。ちらつく蛍光灯に照らされるシミひとつない部屋の中に、その異様な雰囲気を湛えた老人はいた。
「こいつが、例の」
青年が、窓越しに老人を眺める。その、実に齢千年を超えるという仙人は黒々としたカラスの羽を織り重ねて編まれたらしい汚いボロを着ていた。
分厚いアクリルの窓は、向こう側からはこちらの姿は見えていないはず──どころか、収監されているその人物は盲人のはず──であったが、老人は二人の存在に気づき、その
高校の制服に身を包んだ彼の名は、渡辺寿限無。数百年に渡り怪異の討伐を生業とする家系に生まれ、その
この老獪な仙人を生け捕りにできたのも、間接的にではあるが学業の傍ら特殊任務に勤しむ彼の功績に依るところが決して小さくない。
「注意しろ、壁を挟んだ程度で安全を確保できる手合いではない」
女性と間違えそうな、男にしては高い声で渡辺に呼びかけたのは、犬童と呼ばれる青年。渡辺よりも五歳程上の印象を受けるが、常に天狗面を被っていてその素顔を知る者は少ない。年齢含め本名も経歴も何もかも不詳という曰くつきの男であり、彼の部下として任務の間常につき従っている渡辺でさえ、業務上の会話を除いて交流はない。
だがそれでも怪異にまつわる広範な知識、特に天狗族の複雑な呪術体系に対する造詣の深さには目を見張るものがあり、作戦遂行能力の確かさと共に渡辺は彼に対して純粋な尊敬と信頼を寄せていた。
「これからこいつを、どうするんですか」
「普段と変わらない、処分する。元は人間だろうと百年を超えて生き長らえるなど自然の摂理に反している、そんな奴は皆妖怪だ」
「今の人間は百歳を超えることもありますよ……あと、妖怪は俗語で、正式な呼称は怪異です」
上司の暴論を、渡辺はさりげなく
「知るか、奴は妖怪だ。だが多くを知り過ぎている。黒幕の一角である可能性も視野に入れつつ、奴から洗いざらい聞き出せ。何も吐かなくなったら、その時が奴の死に時だ──以上」
「了解……ってそれ俺がやるんすか⁉ どうしてそんな刑事みたいなこと」
そそくさとその場を後にしようとする犬童を、渡辺が必死に引き止める。
「お前が適任だからだ」
「そんな訳ないでしょ!何を面倒がってんすか」
渡辺の手を払いつつ、わざとらしく大きな溜め息を
「奴の第一の技は仙術ではない、詐術だ。良いか、ここでの会話は全て録音されている。そこにお
「分かりましたけど……それパワハラっすからね」
呆れつつ犬童を見送ると、天井に据え付けられた監視カメラのLEDが赤く点灯しているのを一瞥し、渡辺は席に着いた。
机上には数枚の書類が置かれており、目を通すと取調べを行う際の簡単な注意事項と、今回相手に尋ねるべき質問が箇条書きで羅列されていた。
デスクに据えられたマイクの向きを調整し、数種のボタンで構成された制御盤を操作する。
「えー……では取調べを開始する」
寝台の上で
「まず聞きたいんだが、ここの飯はどうだ」
〈そこが実に残念なところじゃ。どうやら
朽ちた木のような顔から、それに相応しい
「可哀想にな、同情するよ。だがここに来て一〇日余り、飲まず食わずにしては随分元気そうだ」
〈儂はこう見えて、俗人が言うところの仙人じゃからのう、
「なるほどな、見るからにそんな感じだ。それじゃまずお前の名前なんだが、
〈それを知ってどうする。戸籍なぞ
「その通り、質問の狙いは答えとは別にある。俺たちは、あんたにどの程度協力する意志があるのかを観察してる。返答次第で、その狭苦しい部屋で余生を過ごせる日数が決まると思った方が良い。せいぜい答え方には気をつけろ」
〈あぁ、若造よ……そうはならぬ〉
老人は
「あんたは囚人だ、明瞭な返答を心がけろ。そうはならないとはどういう意味だ?」
〈この儂を、いつまでもこの部屋に捨て置くことはできぬという意味じゃ〉
「面白い、脱獄の算段でもあるのか」
〈
呆けた調子で妄言を
〈儂からも質問をひとつ良いか〉
「良い訳ないだろ、訊かれたこと以外何も喋るな」
〈
ぴくり、と渡辺の動きが止まり、書類から目を離して窓越しの老人を凝視する。
〈おおよそ居場所の見当はついておるのじゃがな、残念なことに
「今、犬童と言ったのか。彼とはどういう関係だ」
〈彼奴(あやつ)のことは、儂が誰よりよく知っておる。何しろ、儂自らが手塩に掛けて育てた数少ない愛弟子じゃからのう〉
一体、何が真実なのか既に渡辺には分からなくなっていた。犬童の素振りに、自身がが暁鴉と既知の間柄であると思わせる素振りはなかった。全く興味を示す様子もないまま重要な取調べを渡辺に押しつけて去ってしまった程だ。
だがもし、この老人の供述にほんの少しでも真実が混じっているとしたら、それら犬童のささやかな振る舞い全てに食い違いが生じる。
老人の語ったこと全てを嘘と断じるには、いずれにせよ余りにも情報が不足している。なぜなら犬童の経歴はトップシークレット扱い、同じ部内で知る者は誰もいない。つまり、暁鴉の供述の正当性を渡辺が知る術はないということだ。それは彼の役割ではなく、このやり取りの録音を聞く者の仕事。となればこそ、渡辺が今ここで暁鴉の口を
渡辺は気を取り直して、マイクのスイッチを入れた。洗いざらい全て聞き出せ、という犬童の命令を若干都合よく解釈していること自覚しながら、渡辺は言った。
「……良いだろう、ではまずお前が口走った弥六という名前について。それは一体誰のことだ」
享保五年七月 駿河藩 高鉢山 山中
元気な子供たちの、屈託のない笑い声が少年に追い越し追い越されを繰り返しながら、もっと早くと
疾駆する少年の顔を隠していた大きな天狗面が半分ずれ落ち、その下からは
彼の背後で、大きな翼を持った人影が木々の間を縫うように舞い、その背を追い越す。
そうして、ばさりと大きな羽ばたきが耳元で聞こえたかと思うと、少年の真横からその翼の持ち主である若い天狗が襲いかかった。
どっかりとのしかかられ寝転がされた上、加勢した少年たちに両腕までをも押さえつけられる。彼らも皆天狗であり、人間は少年の他に誰もいない。力も体格も圧倒的に勝る彼ら異形に
そうして眼前に、一人の天狗の少年がゆっくりとこちらへ向かって来るのを見て、彼は今から為される仕打ちに身震いした。
「
弥六と呼ばれた少年の頬に赤肌の
「何度言っても懲りない野郎だ」
周りの悪ガキたちも一緒になって、人間の弱々しく小さい身体を鞠のように蹴っ飛ばす。
繰り返し繰り返し、骨ばった拳で殴られるのをじっと耐え忍ぶ。今にも
彼がこんな目に遭った原因というのも、大したものではない。
ところがその
今回もまた弥六の
それに加え今回は、天狗の象徴たる肝心の鼻がへし折れているのが、短気な宮毘羅の
「てめェ、まさか明日の
「宮毘羅の兄ぃ、元服の儀は兄貴みたいな立派な天狗のための儀式だぜ。こいつは天狗じゃねえし、天狗にはなれねえ。小便垂れはいつまで経ったって小便垂れのまんまだ」
「ンなことは分かってる──いいか弥六、
そう吐き捨て、弱った少年を更に打ちのめした。
やがてひと通り満足すると、宮毘羅はその場を立ち去り屋敷の方角へと戻っていった。
宮毘羅を取り巻く少年たちはその後も、恐怖に震えて小さく丸まっている弥六を
「やーい小便垂れ」
弥六が抵抗する意志を見せないと確かめてから、微動だにしない彼に
そうして、用の済んだ彼らはようやく宮毘羅を追って飛び去った。
そんな少年を、杖で突っつく者があった。
「なんと哀れな。手負いの獣かと思えば、人の子ではないか」
驚いているようなその声は
その不快感に耐えかねた弥六が、乱暴にその手を払い除ける。
「ほうほう、これは威勢の良い。まだ死なぬか。元気はあるようじゃな」
弥六がギッと睨みつけてはっとする。嬉しそうに
「随分と
そう言って、老翁は川のある方角へ歩き出した。自分に対し敵意を向けない相手は、弥六にとって久方振りだった。
一体どこからやって来たのか、無数のカラスの羽根で織られた黒い
弥六が川に入って汚れを落とし、焚き火で
幼少期に山で迷った折、偶然
修行に勤しむ間、特に故郷を恋しがる気持ちもなかったのだが、ふと思い立って故郷の村落に戻ってみたことがあった。だが、そこはもうすっかり様変わりしていて、住んでいた家があった場所には見知らぬ家が建ち、住んでいるのも他人。
驚き珍しがってあちこちうろついて見て回っていると、よぼよぼの老婆が涙を浮かべて迫って来た。名を聞けば昔よく遊んでいた近所の子供だった。失踪した頃とさほど変わらぬ姿の自分を見てすぐに神隠しから戻ったのだと悟ったと云う。村中歩いても結局見知った人間はこの女だけだった。
その老婆の家で厄介になり、仙薬を調合して過ごす日々はそれなりに楽しいものだった。医者のいない村だったこともあり、評判は上々。しかし、半月程経つと山での修行の日々が恋しくなった。結局、来た時と同じようにふらっと立ち去った。書き置き一枚残さなかった。
以降は、俗世への未練も断ち切れ、再び修行に専念する日々を送った。そうして今に至る……
それが、
異人共に下賤の者として扱われ、惨めに暮らす少年にとって、里は牢獄以外の何でもなかった。この里を逃げ出せるならどんな代償でも払うのにと、常々そう考えていた。
実際に何度となく試しもしたが、里を取り巻く竹藪に掛けられた術によって、ふと気がつくと、外に向いていたはずの足は独りでに屋敷へ向かって歩き出してしまうのだった。その度に彼は自分の運命を呪った。
ただひとつ救いがあるとするなら、故郷と呼べる場所がないことだけだ。物心ついた頃からこの里で暮らしてきた彼にとって、顔も知らない両親を恋しがり続けるのは難しい。
「いやはや、まさかお前さんが天狗の里で
暁鴉仙人はまた呵呵と笑った。妙な気分だった。身の上を話す気など更々なかったのに、老人に尋ねられると、望まれるがままぺらぺらと喋ってしまうのだ。何らかの術にかけられたような気がして釈然としない。だが期待もあった。この出会いが、自分の運命を好転させるのではないかと……
暁鴉仙人と共に、屋敷の門をくぐる。
既に日は傾いており門限はとうに過ぎていたが、客人に道案内をしていたとなれば、今日は
今頃は食事をしているだろうと
弥六の背後に影のように立つ、
張り詰めた空気が漂う中、陀羅尼坊始め全員の刺すような視線が暁鴉に注がれる。彼らの
「鼻高天狗共よ、それが客人に対する礼儀なのか。見ての通り儂は丸腰じゃ。
そう言うなり、暁鴉は頭を座敷の奥に鎮座する陀羅尼坊に向けたまま、弥六に古びた杖を渡した。
ほんの数秒が数十分に思えるような長い沈黙の後で、長である陀羅尼坊は仲間たちに武器を下げるよう命じた。そうして脇にいた天狗に、座敷に自分と暁鴉二人だけにするよう伝えた。だがそれはあまりにも危険。その天狗は食い下がったが、陀羅尼坊の意志を曲げることはできないことを悟ると、他の者らに合図した。すぐさまその場にいた全員が速やかに引き下がる。
呆然とする弥六もまた、その細腕が折れるのではと思われるほど、立ち去る天狗の一人に強く引っ張られながらその場を後にした。
弥六を引き取り、養子として迎え入れた陀羅尼坊は、ついぞ彼に
「何という不孝者だ!この恩知らずが、よりにもよってあんな
座敷を出るや、弥六はこれまでこんなに痛めつけられたことはないという程の力で蹴飛ばされ鞠のように弾んで、直撃した大黒柱をぐらつかせた。これまでも手酷い仕打ちは何度となく受けてきたが、思えば大人の天狗に暴力を振るわれたのは、これが初めてのことだった。
「あまり騒ぐでない、動揺を悟られる」
「だが
「
参太夫と呼ばれた天狗の
空腹と全身に走る激痛とで床に横たわったまま身動きが取れずにいる弥六を、参太夫が抱き寄せる。そうして
暁鴉自身が語ったことの中で、正しかったのはその通り名と、故郷を出て再び山に戻るまでの部分だけだった。
短い里帰りを終えた暁鴉は、その後はひたすら修行に専心したと語ったがそれは全くの嘘だった。
育ての親である烏天狗の里に現れた彼は、それまでとは別人だった。永遠に故郷を失った青年の
天狗の術を
「彼奴(あやつ)の全身を覆う蓑、あれに使われている羽根は狩られた烏天狗のものなのだ。我らがあの
弥六は黙りこくったまま
参太夫に連れられて弥六が外に出ると、里にいる天狗総勢三百名余りが
月は既に高く昇って青白く、張り詰めた空気の中で一層輝くようだった。
陀羅尼坊と暁鴉による会談が終わるのに、さほど長い時間は要さなかった。
玄関の辺りで聞こえた物音に、天狗たちの緊張がさざ波のように広がる。
引き戸をくぐった暁鴉は、からりからりと下駄の音も軽やかに道を進んでいった。杖がなくとも何の支障もないようだった。
ふと思い出したようにくるりと振り返って、老翁は言った。その声色はいかにも親しげだった。
「このもてなしに感謝する。天狗たちよ、
これ以上ないほどの挑発に、天狗一同は赤い顔を一層怒りに染めて今にも乱闘が起きんばかりにいきり立った。が、手出しに及ぶ者はいなかった。その老翁にまつわる数々の逸話は誰もが知るところであり、それが彼らをいくらか冷静にさせた。
天狗たちが何もできずにただ立ち尽くしているのを満足そうに眺めると、呵呵と笑いつつ暁鴉仙人は陀羅尼坊に振る舞われたと思しき酒瓶をそっと地面に置いた。
小さな酒瓶に足を入れ、そのまますっぽりと身体を収める。瓶から頭だけ出して、老人は言った。
「
そう言い残すと、暁鴉は出していた頭を酒瓶に収め、そのまますっと宙に浮きどこへともなく飛んですぐに見えなくなった。後には不気味な呵呵という笑い声だけが残された──
「後を追うな、返り討ちに遭うだけだ」
飛び立とうと翼をばさりと広げた数名の血気盛んな天狗たちを、玄関口から出てきた陀羅尼坊が引き止めた。
「お教えください、奴は何をしにここへ」
「一体何を話されていたのです、
「この里を放棄すべきではないでしょうか、それも今すぐに」
動揺、困惑、恐怖……そういった感情がその場にいた者たちから
「本日より全員総出で周辺の警護を行う。昼夜二交代、もしくは三交代制の持ち回りでだ。だが警戒を強めていることを奴には決して悟られるな」
首領の命令に、散漫していた天狗たちの意識が一挙に束ねられた。皆、
「里を捨てたところで結果は分かりきっておる、逃げ延びる道は無いと思え。道は二つに一つ、滅ぼすか、滅ぼされるかだ」
独り言のようにそう呟いたのは、自分自身を鼓舞するためか。静かに頷いた後で、陀羅尼坊は声を張り上げた。
「只今この時より、高鉢山を防衛の要とする!各地に散っている一族郎党・同族に遣いを出せ。集められるだけ兵を集めよ。気取られぬよう慎重に、だが時間に猶予はないぞ。必ずや、同胞の仇をここで討ち取るものと覚悟せよ!」
応、という短く低い唸り声のような呼応を合図に、大人たちはせかせかと
弥六は今頃になって、自分がもたらした事の重大さを理解しつつあった。そして目まぐるしく転がり始めた状況を前に、どうすべきか分からないまま、ただぽつりと立ち尽くしていた。
だから気づかなかった、人だかりに囲まれていた陀羅尼坊がゆっくりとこちらに近づき、弥六の目の前で止まったことに。こんな急を要する事態に、自分に用があるなど思おうはずもなかった。
暁鴉を招き入れた罰に身を硬くし、
「弥六。少し歩こう」
ささやかな月明かりの下、せせらぐ川に沿ってただ歩く二人の間に、言葉はなかった。
鬱蒼とした木々に
弥六の出自を知る者は里にはいない。ある日突然、陀羅尼坊がどこかから抱きかかえて帰ってきた──これまでずっと、弥六はそう聞いていた。
初めこそ人間の女に孕ませた落とし子かとも噂された。だが、青白く透き通るような肌に色の薄い白い髪、左右で色の違う両眼と、その容貌のどこにも陀羅尼坊の面影は見い出されなかったことから、そんな不名誉な噂もすぐに消えた。
赤子に手ずから弥六と名付け、養子として迎えたからには、陀羅尼坊が彼に取り分け目をかけてやっていたかと言うとそうでもない。
陀羅尼坊に尋ねられても口を
「誰もが救いを求める状況で、お前だけが答えを求めていた……。何が知りたい」
その声からは、里の平穏を乱したことに対する怒りなど
だがさりとて、率直に質問するのも
そもそも、陀羅尼坊が何を知っているのかが分からない。これまで何ひとつ教えてはくれなかった彼が、一体どんな答えを持っていると言うのか。
その上、弥六は自身の出自に関して長い間、疑問を持つ余裕もなかった。ただ受け容れるしかなかった事柄を今更疑うのは難しい。弥六には覚悟ができていなかった。
「知りたいのは、母君のことか」
ためらって黙りこくる弥六に、陀羅尼坊が平然と言ってのける。
弥六は耳を疑った。唖然として言葉もなかった。知っていたと言うのか?実の親が誰か知っていながら、お首にも出さず黙り通していたと?取り返しのつかない時間を空費した怒りと、長年抑えてきた寂しさが一挙に溢れ出る。
「……生きて、いるのですか」
「いや、残念だが。お前を産んですぐに亡くなられたと、そう聞いている」
「どこの、誰なのです」
言い淀む陀羅尼坊に弥六がにじり寄る。
「教えてください!母上が誰なのか、なぜ死んだのか、どうして私はこの里にいるのか!陀羅尼坊様はなぜ、私を養子にしたのか……」
嗚咽しながら吐き出すように、一気に
陀羅尼坊は自身の膝程の身長しかない彼を抱き寄せようとしゃがみ込んだが、弥六は拒絶した。
「お前を守るためだったのだ」
「一体何から。ずっと、いじめ抜かれていたんですよ、あなたのご子息に」
「それは、お前が小さく弱いからだろう」
積年の労苦を平然と一蹴する陀羅尼坊に弥六は歯噛みした。少年の気持ちを微塵も理解しないまま、養父は彼の頭をぎこちなく撫でた。
「だが、事情を知れば誰もお前を
「何を、話すと……」
「お前が何者なのかについて。弥六よ、お前は人間などではない。
「なっ……」
弥六は耳を疑った。生まれてこの方天狗と共に暮らし、時折里を訪れる人間の高僧以外には何も目にしたことのない彼にとって神など、伝説上の存在に過ぎない。
その上、木花咲耶姫と?
不変不死を誇る
「木花咲耶姫命を
一昨年の嵐による倒木で地肌が露出した場所に出た。程近い場所に聳える富士山の威容は、眩しく反射する雪によって月明かりだけでもその輪郭がはっきりと見て取れる。咲耶姫が亡くなって以後、一年を通して肌寒い晩秋のような気候が続いているために、山頂に積もった雪が溶けることはなくなり、堅い氷と化して人々の足を遠ざけつつあると云う。
大天狗は立ち止まると、弥六を真正面から見据えた。山の中腹で陀羅尼坊の顔は月に照らされ、いくらか青みがかって見えた。
「一四年前、私にお前を託したのは暁鴉だ。
「奴は語った、その赤子がやがて国土に安寧をもたらすと。母親の権能を受け継いだその子は、長じればいずれは芽吹きを司る者になると。私は信じた、
己の出生の秘密を明かされたにも
陀羅尼坊は月を見上げて、構わず続けた。
「だが今日になって、暁鴉はお前を差し出せと言った。何か良からぬことを
目の前を横切った蛍を、大きな手で掴み取り、ゆっくりと拳を広げる。
「この里を守る。お前を引渡しもせぬ。あの悪党は必ずや、この地で討ち取る。今まで通り、お前にとってこの里は故郷であり続けよう」
そう言って、
少年を安心させようとした大天狗の言葉は、しかし彼の耳には絶望の響きを伴って聞こえた。少年は無造作にそれを受け取ると、その素顔を
翌午前。一族の伝統である元服の儀は、例年通り首領の屋敷で執り行われた。あわや里存続の危機という状況下、延期の意見は当然首領に近い者たちの口からも聞かれた。だが暁鴉に翻意を
屋敷の広間には正装で着飾った若者たちが宮毘羅を中央に据えて座し、陀羅尼坊の到着を待った。その中に弥六の姿はない。先だっての自分の脅しが効いたのだろうと、宮毘羅は内心ほくそ笑んだ。
首領の嫡男である彼にとって、陀羅尼坊の養子であるが
それに加えて、一族の仇を連れ込むという暴挙。
天狗ですらない人間の子供がこの場にいて良いはずがない。宮毘羅は、弥六がようやく自分の立場を理解したと知って
広間と
「
一陣の風が吹いた瞬間、一人残らず深々と礼をする。天狗たちの頭上に陀羅尼坊の声が響き渡る。その
一族に伝わる扇を携えた陀羅尼坊が
「今年も無事にこの日を迎えられたこと、首領として嬉しく思う。さ。皆の者、
まだ元服に満たない子供たちが
初めて酒を口にした若者たちは、続いて陀羅尼坊からの
陀羅尼坊から最初に書付を受け取った宮毘羅が、晴れがましい決意の表情と共に宣誓する。
「我、本日
彼が下がると、他の者たちも続々と自分の名を告げていく。
そうして八人全員の宣誓が終わり、屋敷は万雷の拍手に包まれたが、陀羅尼坊は
「今日元服を迎える
陀羅尼坊がその名を呼ぶと、天狗たちはどよめいた。呼ばれた弥六は天狗たちの様々な感情が入り混じった眼差しに晒されながら、すたすたと長い濡れ縁を横切って陀羅尼坊の前に座した。
深々とひれ伏した後、ゆっくりと顔を上げ、養父から書付を
陀羅尼坊の傍に控える宮毘羅坊が弥六を
宮毘羅坊の刺すような視線にも動じず、弥六は平然と書付を広げると、朗々と読み上げた。
「我、本日只今を以て
「否!」
怒りに満ちた短い声が辺り一面に響き渡る。場の空気が凍りつく中、陀羅尼坊だけが頭を動かし自分の
「弥六は貴様の義兄弟だろう、
「そいつは天狗ではありませぬ。鼻の低い猿が元服すると言うなら、仲間の許に帰すが道理。父上から戒名を賜る
「ならん。この者は我が養子。血を分けた息子であろうと、この私に恥を掻かせること
両者は一歩も
宮毘羅坊が元服した今、それは単なる親子の
宮毘羅坊は弥六に目を移した。天狗とは似ても似つかぬその青白い顔からは、昨日や今日までとは打って変わって義兄に対する怯えが消え、
「おい。お前が名を受け取る気でいるなら、俺はお前を殺す」
眼前の陀羅尼坊に頭の向きを戻しつつ、宮毘羅坊の視線は弥六の手に握られた書付に注がれた。
瞬きする僅かな間が一刻にも感じられる程に緊迫した空気の中、弥六が書付を己の袂に仕舞い込んだ──瞬間、ばさりという強風と共に黒い
衝撃によって襖が飛び散り、揉み合う二人は前庭に投げ出された。
体格の勝る義兄の不意打ちで組み伏せられながらも、弥六は自前の錫杖でどうにかそれを受け止め、ぎりぎり鍔迫り合いに持ち込んだ。
土煙が止むや否や周囲の天狗たちの口から感嘆の声が漏れ、それが宮毘羅坊を一層苛立たせた。
「お前らどっちの味方だッ……!」
屋敷を
完全な不意打ちだった。弾き飛ばされた先で
頭だけ動かして、弥六を探す。真新しい天狗面に素顔を隠して、彼は組み敷かれていた地点でゆっくりと立ち上がり砂埃を
宮毘羅坊はてっきり、その場にいた何者かが弥六に加勢したのだと思っていた。先の攻撃は明らかに弥六とは別の方角からぶつけられたものであり、その威力からして人間ごときにできる芸当とは思えない。
驚いているのは突き飛ばされた本人にとどまらず、周囲の天狗たちも皆一様に唖然としていた──唯一人を除いて。
「双方、そこまでにしておけ」
陀羅尼坊が
「これ以上、配下の者たちの面前で祝いの場を穢す非礼は許さん」
弥六がその場で即座に片膝を突き
「私は長らく、この者、弥六の出自を隠してきた。無用な諍いを避けるためだった。だが天狗殺したる暁鴉が我が里の脅威となった今、お前たちには真実を話さねばならない」
「
静かなざわめきが、たちまちどよめきに変わる。
「母亡き今、その権能を継ぐはこの者を置いて
陀羅尼坊は誰にも明かさずに秘してきた弥六の出自について
「暁鴉は必ずやこの地に舞い戻る。我らでは到底及びもつかぬ企みのために、皇祖神直系の血を奪い去らんとしている。
「友よ、兄弟よ。今一度頼みたい。
言い終えると、陀羅尼坊は深々と頭を下げた。このことには誰もが驚きを隠せない様子ではあったが、反応は様々だった。
陀羅尼坊に最も近しい者たちは、陀羅尼坊が頭を下げるや居住まいを正して礼をした。だが全員ではない。残りの者たちは互いに顔を見合わせ、ただただ戸惑った。まさか忌み子として疎んじてきた少年が国津神の末裔であったとは。これまで看過してきた仕打ちを思い返せば嘘であって欲しい、信じたくない事実だ。
むっくりと起き上がった宮毘羅坊が叫んだ。
「笑止!」
この日のために新調された正装は
「つまり、そいつは災いの種なのでしょう。尚更此処に置いてはおけません。とっとと」
「ならん。弥六がいなければ奴がこの里を温存する意味はない。特段の理由もなく烏天狗たちを執拗に狙い、狩り尽くした男が相手なのだ。我らが生き残るには、此処で討ち取るしかない。弥六は必ずや切り札となる。その身で理解したであろう」
宮毘羅坊の表情が苦渋で歪む。信じ難いが、今しがた宮毘羅坊を突き飛ばしたあの力こそが弥六が隠匿してきた神通力であったらしい。
錫杖を拾い上げた宮毘羅坊が、父親のいる屋敷に背を向け一歩進み出る。
「宮毘羅坊。
父親の言葉に立ち止まって、それでも振り向かないまま宮毘羅坊は言った。
「最後にひとつ教えてください。暁鴉が現れなかったら、いつ明かすつもりだったのです」
これまで淀みなく語っていた陀羅尼坊が黙り込む。実子を自分の手に引き戻す言葉を思案している様子だったが、
「彼を
「答えになっておりまぬ」
父親の言葉を聞き届けると、宮毘羅坊はもう立ち止まることなく里を離れていった。そして一人、また一人と若い者たちがその後をついて行く。
嘘も虚飾もない陀羅尼坊の実直さが、今この時だけは不利に働く結果となった。
波乱の儀式を終えて、自室に戻るや弥六は力いっぱい錫杖を投げつけた。
その杖は彼の部屋で盃を傾けている暁鴉には当たらず、黒い煤のような煙となった仙人の身体を通り抜けて壁にぶつかった。その拍子に、杖に仕込まれた
「どうじゃった……いや、言わずとも良い。さぞ胸のすく想いであったろう。力を得た
「
仙人はいつものように
「天狗
弥六が自らの手で外すまでもなく、暁鴉がひょいと指を振り向けると結んでいた紐ははらりと
「傷は痛むか」
老人の手を払い
昨日の晩、陀羅尼坊との会話を終えて部屋に戻ると、そこには今日と同じように暁鴉の幻影が
追い払おうと語気を荒らげる弥六を制して、仙人は言い
「先刻は随分な言い
「誰が貴様の……ッ」
落ち着いてそこに座れ、と老人が手で
「儂は妖怪が嫌いじゃ。中でも天狗が取り分け好かん。御身とてそうであろうに」
弥六は口を閉ざしたまま暁鴉を睨んだ。
「儂はありとあらゆる怪異を人間の
老人の言葉を遮るように、少年は鼻を鳴らして笑った。
「俺は人間ですらないようだが」
「陀羅尼坊は語ったか。だがどこまで話した?御身が麗しき女神の一人息子で、赤子の
月明かりさえ
「お前の顔を醜くしておるその火傷について、奴は何か言ったか。何も言うまい」
暁鴉はそれだけ言うと、ぶつぶつと何かを呟きながら少年に背を向ける。
「……おい」
仙人の言葉に耳を傾けようと一歩踏み込んだ瞬間、ぴしゃりと引き戸が閉じると少年の身体は宙に浮いたままぐいと引き寄せられ、盲人の節くれ立った左手にその細い首が収まった。呼吸もままならないのでは、神であろうと陸に打ち上げられた魚も同然。しばらくの間手足をじたばた暴れさせたが、それも数十秒の後はだらりと垂れて老人の為すがままとなった。
「己の敗北を決して認めようとせん所にこそ、天狗の天狗たる
顔だけを真っ赤にしてすっかり伸びきった弥六を畳の上に寝転がすと、額の火傷に手を当てて何やら聞き慣れない呪文を唱え始めた。その言葉の響きは
息も絶え絶えに抵抗の意思さえ見せなかった弥六の身体が、苦痛に悶え始める。
屋敷にいる他の誰にも、少年の助けを求める声は届かなかった。
朝を告げる陽の光が窓から射し込んで、そこで初めて弥六は自分がいつの間にか気を失っていたことに気づいた。黒い
鈍痛が響く額をさすると、
「傷は痛むのか」
昨晩この部屋で何があったのかを思い出して呆然とする弥六に、暁鴉はもう一度尋ねた。
「俺に何をした」
「御身に宿る神通力を目覚めさせた。知らなかったのも無理はない。封印は強く、未だ完全に破れたとは言えぬ。本来の力を十全に振るえば、あの程度は
自分の両手を見つめたまま、弥六は黙り込んだ。自分の身に起きた事実を理解できたとは到底思えなかった。脆く貧弱な身体のどこにそんな力が眠っていたのか。暁鴉が
そんな得心しかねる様子の弥六に失望したかのように、暁鴉は溜め息をつくと得意の見えない力を緩めて彼を解放した。紐を
「御身の神通力は特別で、力そのものに意志がある。一度目覚めさせれば、外に出ようと御身の中で暴れ始める……昨晩感じたのはその痛みじゃ。加えて、御身にかけられた
「あんたほどの
弥六が不機嫌に唸ると、仙人はまたお決まりの笑い声を上げ、その古びた顔に貼りつけられた
「いやはや、そこを突かれると儂も弱い。
「どうすれば良い」
「すべきことは変わらぬ。術者を殺せ、陀羅尼坊を。御身は今日、絶好の機会を逸した……授けた杖を
弥六は足許に転がっていた仕込みの錫杖を拾い上げ、鞘に戻した。
「
暁鴉を取り巻く靄が濃くなり、その姿が黒く溶けていく。
「せいぜい、存分に
仙人が跡形もなく消えるのを見届けた後で、弥六はその顔を天狗の
それからの数日、弥六は養父である陀羅尼坊にぴったりと付き従って過ごした。それは勿論、技量において圧倒的に格上である大天狗を破るには、油断しきったところで急所を突く以外に方法がない
首領の嫡男たる宮毘羅坊が去った今、その跡を継ぐ者として弥六が急浮上したのだ。ましてや不倶戴天の
だからこそ、高鉢山一帯が防備を固める中、暗殺を実行に移すその時まで、周囲に不自然さを与えずじっくりと好機を伺うことができた。時勢は彼に味方していると言えた。
その日、陀羅尼坊は自室で早朝から瞑想に
好機が訪れた。それには違いない。だが弥六は迷った。確実に急所を狙うなら、襖を開け放ち首に刀を突き立てるべきだろう。しかし、襖を開けた時点でほぼ確実に察知されて防がれる。
ならば襖越しに狙いを定めて刀を突き立てるか。曉鴉から授かった仕込みの刀であれば届くだろうが、急所を突くのは難しく、外せば失敗。翻意を見抜かれ再起不能となる。
自らが取るべき行動について、ここまで思いを巡らせたところで、彼は打つ手なしと結論づける
取るべき首は眼前にあるというのに、このもどかしさ。隙を見せて裏切るか試しているのではとの考えが頭をよぎるが、それはすぐに棄却した。そこまで疑心暗鬼に陥っては、いよいよ身動きが取れなくなる。
ひとまず諦めて、襖を開けた弥六はその光景に目を丸くした。陀羅尼坊は奥の座敷で、こちらを向いて座っていたのだ。ついさっきまで、すぐ目の前に背を向け胡座を掻いた養父を確かに見て、気配も感じ取っていたと言うのに。
もし行動を起こしていれば、どちらを採ったにせよ虚空に刃を突き立てることになっていた。陀羅尼坊の術か、それとも自らの弱さが見せた幻か。だがその戸惑いを、
弥六は一礼して、何食わぬ
丈高い大天狗は座っている状態でも弥六の身長を超えていて、その丸太のような首を落とすのにどれほどの苦労があるだろうと考えずにはいられなかった。
弥六の視線が養父のうなじを這った、その時だった。陀羅尼坊は大きな両の目玉をカッと見開き、泰然と弥六を見下ろした。そうして右手でぽん、ぽんと首をさすった。瞬間、弥六は自らの血が一瞬で青ざめていくのを感じた。
「ずっと考えていた、お前が真に欲している物とは一体何なのか」
まさしく蛇に睨まれた蛙。頭の中でこそ、その場から逃げ出すべきか考えていたが実際のところ行動に移すだけの胆力はなく、ただ黙って話を聞いているより外ないのだった。
「お前には、この首の使い
自分の顔をしっかりと見据えてそう話す陀羅尼坊の目を、弥六はついぞ見ることはできなかった。
今の話が冗談などでないことは分かりきっていた。その男の言葉は常に本心。駆け引きも打算もない。それゆえにこちらの作為も通じないのだ。
弥六の頭は真っ白になっていて、何も手につかずただこの部屋に入るべきでなかったと、そればかりを際限なく後悔していた。
気がついた時には、目の前に座っていたはずの陀羅尼坊は、襖を開け外の様子を伺っていた。
緊急を告げる鐘が鳴り響いている。いつから鳴っていたのか、頭の裏側で血が
「私は先に行く。お前も来い」
そう言って、大天狗は
「気を引き締めよ、我が弟子。これより先は正念場。いよいよ失敗は許されぬ」
大げさな程ぜいぜいと
「貴様の弟子に、なった覚えは、ない……」
呵呵と笑って差し伸べられた暁鴉の手を振り払う。黒い霞でできた幻が煙のようにたなびき、やがてまた濃くなり像を結ぶが、その手は杖に置かれて元のように差し伸べられてはいない。
「その通り、御身は一人で立ち上がるより外ない」
ようやく呼吸を落ち着けると、弥六は膝を突きつつ静かに立ち上がった。
「奴の真意がどうであれ、御身の為すべきことに変わりはない。陀羅尼坊を殺せ。頭さえ潰せば勝ち
囁く暁鴉の幻を薙ぎ払ってから、弥六は騒がしい声のする方角へ走った。
「誠、操りやすい愚か者……じゃが、儂の跡目は臆病者では務まらぬ。これは試練じゃ、御身のために
騒ぎは、里の唯一の出入口である正門付近で起きていた。
駆けつけた弥六が目にしたのは、何者かと応戦する陀羅尼坊の姿だった。周囲の天狗たちはどうすることもできないまま、その成り行きを固唾を呑んで見守っている。
争っている相手が一体誰なのか、見定めようと
激しい
陀羅尼坊が倒れ、その向こうにいたその相手とは──彼の嫡男・高鉢山宮毘羅坊だった。
「すまない、父上。事態は急を要するのだ」
言葉こそ穏やかだったが、生来の
実父の陀羅尼坊などまるで
取り囲んでいた天狗たちは皆、錫杖を携えて応戦の構えではあるが、何しろ相手は首領の
変わり果てた義兄の両眼が弥六を見つける。瞬間、散漫していた殺気が一点に集中して自分を包み込まんとするのを、弥六は肌で感じた。
「「寄るな!」」
宮毘羅坊を遠ざけようと本能的に振り上げられた右腕が大気を掴み、凄まじい震動を巻き起こす。刹那、神通力が発動し地割れを伴った猛烈な衝撃波が一帯を襲った。
一瞬の出来事であったが、その後に辺りを覆った
まともに目も開けない中、いつ宮毘羅坊に襲われるとも知れないまま弥六は倒れ伏した養父を手探りで捜した。
ようやくそれと思しき
ぜえぜえと荒い息を吐く口からぼたりぼたりと
屋敷から離れいくらか小高い丘を登りきった頃、十数分余りに渡って吹き続けた地煙もようやく止んだ。そうして辿ってきた
そこにあったはずの立派な屋敷は半分余りが消し飛び、大きく割れた地面は
「これは……?」
「何だお前、動揺してるのか」
宮毘羅坊の声が上空から聞こえたと思った次の瞬間には、急降下した彼に身体を掴まれ、そのまま空へと昇っていく。
「まともに制御もできない力を振りかざして勝った気でいるとは、呆れて物も言えない」
あっという間に、振り落とされれば命がない高さに達して弥六は抵抗をやめ義兄の腕に
「俺はまさに、こうなることを警告に来た。
ぐんぐんと高度を上げ、まばらに漂っていた雲よりも高くなってようやく宮毘羅坊は静止した。
「悪く思うなよ、貴様に恨みはない。俺たち一族は代償を支払ったまでのことと理解している。穢らわしい泥人形を神と見誤り
その時になって弥六は初めて気づいた。以前までのような殺気が宮毘羅坊にはない。その取り
「この里も我が一族も、没落は
弥六の焦りも虚しく、その両手は造作もなく振りほどかれた。雲を突き破り急激に落下していく。その速度たるや凄まじく、まともに目も開けられず呼吸もままならない。そんな極限の状況に置かれてはあらゆる思考が消し飛び、個人的な葛藤は急速に過去のものとなっていく。
数秒の後に確実に訪れる一瞬の激痛が繰り返し脳裏で想像される。弥六が気を失わずにいるには、それだけが頼りだった。
彼の
弥六の小さな身体が地面に激突するその間際、大きな黒い影が矢のように打ち上がって彼を捕らえた。緩やかな放物線を描いて落ちていき、そのまま固い地面の上を転がっていく。そうして
「……六……、弥六、無事なのか……」
少年の頭を包んでいた両腕が
感謝よりも驚きが先に立って、目を丸くする弥六に養父は微笑する。
「何も
言いかけて、大天狗が吐血する。飛び起き助けを呼ぼうと周囲を見回す弥六を
「私に残された時間は僅か、
浅く息を整え彼は言った。
「私を殺せ」
陀羅尼坊は真実を語った。弥六が探し求めていた真実を。
これに気づいた陀羅尼坊は弥六に
「だが今はその呪われた力に頼るべき時だ。そうせねば、お前が生きてこの里を出ることは適わぬ」
陀羅尼坊と弥六が墜落した方角から、苛立った声が響いた。
「どこに消えた?いるんだろう弥六。姿を現せ、とどめを刺してやるから」
周到な宮毘羅坊は、弥六の遺体を確かめない限り諦めないらしい。幸い、二人は木陰に隠れていてひとまず宮毘羅坊が迫る気配はない。
──陀羅尼坊が少年の細腕を揺すって話を戻す。
「良いか弥六、お前に掛けた
弥六が落下の衝撃で脇に落としていた仕込みの錫杖に陀羅尼坊が手を伸ばすのを見て弥六は肝を冷やした。
「奴からの授かり物なのだろう。斬れ味は申し分ないはずだ」
杖の
「里の存続とお前の命、その両方を選べれば
仕込み杖を受け取りながらも、弥六にはそれを育ての親に突き立てる決心はなかった。
「なぜ……あんたが大切にしていたものは何ひとつ残らなくなる、それなのに……」
「お前が特別だからだ。
努めて気丈に養父は言った。
「別れを惜しむ
弥六は言われるがまま立ち上がって刀を振り上げ、陀羅尼坊の首に狙いを定めた。未だ覚悟は
「「やめろォオッッ!!」」
遠くで宮毘羅坊の絶叫が聞こえた。着地の際についた地面の
激しい痛みの中で瞼を開くと、遠くに女性の姿が見えた。燃え盛る視界の中で一層光り輝きながら、こちらへと向かって歩いている。
あの人に、追いつかれてはいけない──直感でそう思った。彼は自分の身体もまた
ふと意識を取り戻すと、輝く女性の輪郭に宮毘羅坊の姿が重なった。その脅威はより分かりやすい形で、速やかにこちらへ迫っていた。
義兄の姿が眼前まで迫ると、弥六は痛みを
多少の時間を稼いで、弥六は抜き身の刀を支えに立ち上がった。
輝く女性は更に近づいて、その距離六尺ばかり。神通力で排除することはできない。彼女自身の力だからだ。
彼の中で眠っていた咲耶姫が一歩近づく度、燃え盛る炎は凄まじく、少年の身体を焼き尽くさんばかりに思われた。しかし、彼は
「誰に操られてる……父上を殺す覚悟が、お前如きにある訳がない。誰だ?暁鴉か、咲耶姫か」
「
「くッ……!」
その超然的な態度に向かっ腹を立て、上半身だけは飛びかかろうとした宮毘羅坊だったが、足腰はへたり込んで全く動かないようだった。
宮毘羅坊の目の前で弥六が立ち止まると、彼は掴みかかろうと伸ばした両腕を力なく垂らして敗北を認めた。
「
宮毘羅坊は既に虫の息であったが、弥六の問いかけに答えようとしないのは彼自身の
「俺の首を落とせよ。父上にしたのと同じように」
「あんたはじきに死ぬ、手を下すまでもない。答えろ、
宮毘羅坊がこと切れる前に何かを聞き出そうと、弥六は内心焦っていた。だがそれを見越したように彼の両眼は弥六を見据え
「いい気になるなよ、泥人形……。お前は未だ、奴の
そう囁くと、彼の口の中で何かを噛み砕くガリッという音が響いた。聞き逃さなかった弥六が、頑として閉じられた宮毘羅坊の口をこじ開け奥歯の辺りを探った。指に何かが触れて取り出すと、それは黒く、
「何なんだこれは……毒か」
里に伝わる仙薬のいくつかは弥六も見知っていたものの、どれとも異なる。
茂みからガサッという音と共に、生きながらえた一〇名余りの天狗たちが現れた。距離を取りつつ弥六と宮毘羅坊を囲み込む。油断なく構えた錫杖の先端には激しい雷撃が
「穢らわしい忌み子め、宮毘羅坊殿から離れよ」
「この災厄は貴様が
皆好き勝手に罵りつつ、徐々にその輪を狭めていく。頭に血が上った彼らが弥六の言葉に耳を貸すはずもなかった。彼は自らが感じていた不吉な予感に従い、天狗たちに背いて宮毘羅坊の亡き骸を固く抱きかかえたままでいた。
「この期に及んで投降せぬとは往生際の悪い、観念なされよ」
その場を動かずにいる弥六から、首領の倅を引き剥がそうと数人がかりで躍起になる。
「待て、何かがおかしいんだ。離れろ!」
叫ぶ弥六が見上げた先で、動かなくなったはずの宮毘羅坊の片腕が天狗の頭を掴んで持ち上げていた。泡を吹く天狗の首がボキリと折れて投げ捨てられる。
「見て分からないのか、義兄上は既に
弥六の叫びに呼応するようにピクリ、と倒れ込んだ宮毘羅坊の頭が彼に向いた。そうして通常では有り得ない起き上がり方をすると、弥六の許へ一足飛びに迫り両手を広げた。鉤状に化成した十の爪は明確に喉を狙って
宮毘羅坊の両腕をすんでのところでくぐり抜け、崩れた体勢を整えるとすぐさま敵の横腹に蹴りを見舞いつつ突き放して距離を取る。だがその動きを見透かすように、先回りした宮毘羅坊が蜘蛛のような敏捷さで彼を捕らえた。
黒ずんだ汚い鉤爪が薄く白い肌を貫く。赤い鮮血が蜜のように滴り、同時に傷口から痺れるような痛みが混じり込む。
体格で劣る弥六の技ではびくともせず、かと言って不用意に神通力を使うのは生存者を巻き込む
「義兄上、もうやめてくれ!…義兄、上……」
麻痺毒に脳を冒され薄れゆく意識の中で、一度は退けた燃え盛る女性の姿が瞼の裏に浮かぶ。
仰向けに転がされ、薄く開いた瞼から射し込む太陽の白い輪郭が天から舞い降りた女性と重なり、やがて視界が光で満たされていく。
そっと優しく弥六の頬に口づけすると、その女性──木花咲耶姫命は弥六と一体になった。
静かに瞼を開くと、弥六は宮毘羅坊の両腕をがっしりと掴んだ。そうして
宮毘羅坊が長い鉤爪で反撃を企てる、刹那弥六はバッと手を離し身を翻して五尺余り退いた。
途端に宙に置き去りにされた宮毘羅坊の肉体は、両腕両脚を大の字に
微動だにしない弥六の頬に大粒の汗が滴る。彼と一体化した咲耶姫が発動させた神通力は今、宮毘羅坊を包み込み、生殺与奪の権の一切を握っている状態だった。そして弥六の中では彼と咲耶姫の二人が力を取り合っていた。
想像を絶する繊細さで、宮毘羅坊の身体を傷つけないぎりぎりの力で神通力を操る一方、支配の度を増した咲耶姫がひと思いに殺してしまえとの囁きを繰り返す。ほんの僅かでも集中が途切れれば彼女に負けてしまう。そのことを、弥六はよく理解していた。
「ようやっと、力を受け容れる気になったか」
背後に滞留した黒い靄の中から暁鴉が呟く。彼以外の物音が聞こえたと思ったその刹那、天狗の悲鳴と共にばさりと倒れる音がした。生き残っていた天狗が暁鴉に立ち向かったのだろう。恐怖を堪えて決死の覚悟であったはずだ。同じ断末魔がいくつも続いていくのを、弥六は耳を塞ぐこともできないままただ聞いていた。
「見る程に惚れ惚れする力よのう。どれ、姿を顕せ。儂によく見せてみよ」
生存者をまとめて片付けると、暁鴉は空中に印を刻んだ。すると、見る見るうちに目の前に巨大な女性の両手が顕わになった。
「何のつもりだ、これは……」
神経を途切れさせないように注意を払いつつ、宮毘羅坊を見つめたまま目の端でそれをなぞる。
その骨張ってほっそりとした両手は、空中に浮かんだ宮毘羅坊の身体を虫のようにつまみ上げ、今にも彼をちぎろうとしている。
「これが御身の、神通力の正体よ。驚く程のことはなかろう。御身の力は所詮借り物、母親抜きでは何も為せぬのだ」
暁鴉が挑発する理由ははっきりしていた。弥六と咲耶姫命による力の均衡を崩し、弥六の意識を飼い殺し同然に貶めるつもりだ。そのくらいは弥六にも察しがついていた。だがそうと分かって気を鎮めるには、彼はあまりにも動揺し過ぎていた。
「
弥六は答えない。ただ無心に、
「里の天狗は三〇〇匹余り。皆、天狗に
その言葉が耳に入った途端、宮毘羅坊を優しく包むように展げていた両手がわなわな震え、徐々に義兄をつまむ形に変化していくのを、弥六はどうすることもできなかった。暁鴉のくぐもった笑い声が耳障りに響く。背後にいる彼の姿は見えないが、そのしたり顔は目に浮かぶようだった。
宮毘羅坊の身体がミシリ、と音を立てる。
「「やめろォォオオオオ!!」」
弥六の叫びと共に、宮毘羅坊の身体が左右にちぎれた。両手を突いて倒れ込む弥六の身体に、義兄の血溜まりが達する。
「ようやった!弥六よ」
手を叩いて喜びながら、仙人は弥六の身体をやたらに揺すった。
「御身はよう頑張った!弱さゆえに憎むべき相手を憎めず!高潔を気取り気休めの慈悲を与えようともがき!その弱さが
「……お前なんだろ、
義兄の血に染まった両手を静かに見つめたまま、弥六が低く
「種明かしが必要か?興醒めじゃが、良かろう、稀代の道化を演じた御身に免じて教えて進ぜよう」
小躍りしていた暁鴉が弥六に向き直る。
「宮毘羅と陀羅尼坊の
目を閉じて深く息を吸い込む。あれだけ強く、すぐ近くに感じていた咲耶姫の存在を今は感じない。麻痺は薄れ、今なら身体を自分の意志で動かせる。それを確かめた。
「どうせ、お前には分からない……全てを見下し、踏みにじるお前には」
落ちていた錫杖を掴み取り、背後に立っていた暁鴉の眼前へと瞬時に迫る。
「父上を…、侮辱するなァッ!!」
振り向き様に抜刀しつつそのニヤついた口に思いきり刀を突き立てた。
弥六にとって恐ろしく長い沈黙が、その場を支配した。腕には斬った手応えが全くない。
彼の振るった
「掛かったな」
暁鴉は
「陀羅尼坊の術式を真似てみた。奴が御身に掛けた
黒い靄がすっかり弥六の身体に取り込まれて消えると、刀はするりと彼の手を離れ、独りでに宙を漂った。そうして靄の背後に控えていた別の暁鴉の手に収まった。老翁は
「笑止千万!裏切られて尚、他人を疑うということをしない。親に似て憐れだ」
「クッ、どこまでも、ふざけた奴……」
術式の発動によって黒く染まった刀身を満足げに眺め終えると、弥六が握っていた錫杖を念力で取り戻して刀を鞘に納めた。
「力までは奪わぬ。愚かな駒にも使い
倒れ伏した弥六に背を向けつつ、暁鴉は言った。
「御身には、これより先は儂の手足だけでなく目と耳も務めてもらう。ほんの片時に浮世は様変わりしたぞ。政府に潜り込み、その
「誰が、貴様の手下になんか……!」
必死に抵抗の意志を示そうとしたものの、自由に動くのは口だけであることに気づいて彼は最早発狂寸前だった。
「御身の苦しみを取り除いてやろう。少し眠れ」
暁鴉が自身の人差し指を口に当てると、弥六の口は閉じられ声も出せなくなり、その次には瞼も閉じられた。
「陀羅尼坊、宮毘羅、母親……儂のこともだ。起きた時には、今日の出来事は全て忘れておる。周りの者は御身を天狗殺しと呼んで畏怖する。御身は妖怪共を根絶やしにすることのみに心を砕きおればそれで良い」
誰にも届かない悲鳴を叫びながら、弥六の意識はゆっくりと遠のいていく。闇の淵を沈んでいく中で、最早誰とも知れない老人の声だけが、深い無意識に響いていた。
「御身はこれより、犬童と名を改めよ。いずれ自らの力で辿り着き、儂の元へ戻って来い。今日の真相を教えてやろう。儂を殺しに来るのを楽しみにしておるぞ……」
零和一四年七月二九日午後六時
静岡鎮守府内 某施設内部
無機質な部屋の中で、老人の笑い声だけが
「
窓の向こうで聞いていた渡辺青年は、机に伏してただ怒りに身を震わせていた。老人の高笑いを黙らせる
できれば嘘と思いたかった。だが、普段の犬童の言動に感じていた違和感を、暁鴉の話を組み合わせればあまりにも自然に辻褄が合ってしまうのだ。老人の話を嘘と断じるということは、それさえも無視することになる。
犬童は口癖のように妖怪が憎いと言っていた。中でも特に天狗が気に入らないと。敵を知ることは兵法の基本だが、しかしそうは言っても彼の知識は書物で補える領域を超えて実践的なものが多く、それどころか彼独自の戦闘体系の根幹を成してすらいる。敵の体術まで己の武術に取り入れる道理がどこにあるのか?それがずっと不思議だった。だが、幼少期に天狗の里で育っていたとすれば身に染みついた所作だったのだと合点がいく。
〈だとしても、全てが真実だとは……〉
「まだそんなことを抜かすか。良かろう、全てを信ずる必要は無い。御身が知るべきことはひとつのみじゃ。犬童は儂の手に落ちておる、とうの昔にな。この部屋にお前一人残して立ち去ったのも、儂がそう命じたからじゃ」
〈それで、本人は気づいてすらいないってのかよ……話ができ過ぎてる〉
「儂は御身に嘘など
「奴は暁鴉の手下なのだ、この国の怪異討伐の戦端を担う柱は腐っておるのだ。奴は危険分子だ。それを知る者はこの儂と、御身だけじゃ」
渡辺はいても立ってもいられなくなった。彼にとって犬童は怪異の討伐に全身全霊を懸けていた人物だった。そんな彼をこの短時間で信用できなくなるとは思ってもみなかった。
「速やかに動けよ、くれぐれも慎重にな。決して気取られるでないぞ」
席を立ち、スマートフォンで電話帳をスクロールする渡辺に仙人は野次を飛ばしたが、その声は既に彼の耳には届いていない。焦って去っていくのを満足そうに眺めながら、暁鴉は
「この世は巫山戯た徒夢……そう、あの出来損ないは母親が死んだ後に生まれた、死んだ後に。妖怪共に神を殺す力を与えたのも儂じゃ。奴らに
時は零和一四年、木花咲耶姫命の崩御から三二五年目の夏が訪れる。大地母神の加護を失って、今年も地上に芽吹きはなく実りもない。緩やかに死にゆく世界で人知れず、終焉までのカウントダウンが静かに始まっていた──
無明の祈り @WUiHA_ACRYlYRiC
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