無明の祈り

@WUiHA_ACRYlYRiC

『無明の祈り』Case01 -犬童- Background Story

  夏蝶の屍を ひきてゆく 蟻一匹 どこまでゆけど わが影を出ず

                          (寺山修司)


  零和一四年七月二九日午後二時 静岡鎮守府内 某施設内部


 白い壁、白い床、白い天井。什器と呼べるのは、簡素な寝台のみ。ちらつく蛍光灯に照らされるシミひとつない部屋の中に、その異様な雰囲気を湛えた老人はいた。

「こいつが、例の」

 青年が、窓越しに老人を眺める。その、実に齢千年を超えるという仙人は黒々としたカラスの羽を織り重ねて編まれたらしい汚いボロを着ていた。

 分厚いアクリルの窓は、向こう側からはこちらの姿は見えていないはず──どころか、収監されているその人物は盲人のはず──であったが、老人は二人の存在に気づき、そのめしいた両眼でじっとりとした視線をこちらに向けているかに思われて、青年は薄気味悪さを感じた。

 高校の制服に身を包んだ彼の名は、渡辺寿限無。数百年に渡り怪異の討伐を生業とする家系に生まれ、そのつてで弱冠一七にして政府の討伐部隊に配属された。

 この老獪な仙人を生け捕りにできたのも、間接的にではあるが学業の傍ら特殊任務に勤しむ彼の功績に依るところが決して小さくない。

「注意しろ、壁を挟んだ程度で安全を確保できる手合いではない」

 女性と間違えそうな、男にしては高い声で渡辺に呼びかけたのは、犬童と呼ばれる青年。渡辺よりも五歳程上の印象を受けるが、常に天狗面を被っていてその素顔を知る者は少ない。年齢含め本名も経歴も何もかも不詳という曰くつきの男であり、彼の部下として任務の間常につき従っている渡辺でさえ、業務上の会話を除いて交流はない。

 だがそれでも怪異にまつわる広範な知識、特に天狗族の複雑な呪術体系に対する造詣の深さには目を見張るものがあり、作戦遂行能力の確かさと共に渡辺は彼に対して純粋な尊敬と信頼を寄せていた。

「これからこいつを、どうするんですか」

「普段と変わらない、処分する。元は人間だろうと百年を超えて生き長らえるなど自然の摂理に反している、そんな奴は皆妖怪だ」

「今の人間は百歳を超えることもありますよ……あと、妖怪は俗語で、正式な呼称は怪異です」

 上司の暴論を、渡辺はさりげなくたしなめた。犬童の口からは時折り時代錯誤の差別発言が出ることがあり、最初の内は辟易したものだった。それでも、半年程の付き合いで渡辺は既に慣れていた。

「知るか、奴は妖怪だ。だが多くを知り過ぎている。黒幕の一角である可能性も視野に入れつつ、奴から洗いざらい聞き出せ。何も吐かなくなったら、その時が奴の死に時だ──以上」

「了解……ってそれ俺がやるんすか⁉ どうしてそんな刑事みたいなこと」

 そそくさとその場を後にしようとする犬童を、渡辺が必死に引き止める。

「お前が適任だからだ」

「そんな訳ないでしょ!何を面倒がってんすか」

 渡辺の手を払いつつ、わざとらしく大きな溜め息をくとようやく犬童はその真意を明かした。

「奴の第一の技は仙術ではない、詐術だ。良いか、ここでの会話は全て録音されている。そこにおあつらえ向きの騙しやすいバカを置く。奴は必ずお前を騙しにかかる。そこから奴の狙いを導き出す。それが狙いだ、分かったらさっさとやれ」

 苛立いらだちをあらわにカツカツと足音を立てて、犬童は去っていった。

「分かりましたけど……それパワハラっすからね」

 呆れつつ犬童を見送ると、天井に据え付けられた監視カメラのLEDが赤く点灯しているのを一瞥し、渡辺は席に着いた。

 机上には数枚の書類が置かれており、目を通すと取調べを行う際の簡単な注意事項と、今回相手に尋ねるべき質問が箇条書きで羅列されていた。

 デスクに据えられたマイクの向きを調整し、数種のボタンで構成された制御盤を操作する。

「えー……では取調べを開始する」

 寝台の上で胡坐あぐらを掻いた老人に反応はないが、毅然きぜんとして見えるよう、音は問題なく入っていると信じて進める。

「まず聞きたいんだが、ここの飯はどうだ」

〈そこが実に残念なところじゃ。どうやらわしは歓迎されとらんようでのう、ここに入れられたきり水の一杯も差し出されてはおらぬ〉

 朽ちた木のような顔から、それに相応しいしわがれた声が発せられた。

「可哀想にな、同情するよ。だがここに来て一〇日余り、飲まず食わずにしては随分元気そうだ」

〈儂はこう見えて、俗人が言うところの仙人じゃからのう、かすみを食うて生きておるわい〉

「なるほどな、見るからにそんな感じだ。それじゃまずお前の名前なんだが、暁鴉ギョウアで間違いないな?通り名なのか知らないが、お前は元は人間なんだろ。普通の名前はないのか」

〈それを知ってどうする。戸籍なぞ最早もはや意味をなさぬと分かっておろうに〉

「その通り、質問の狙いは答えとは別にある。俺たちは、あんたにどの程度協力する意志があるのかを観察してる。返答次第で、その狭苦しい部屋で余生を過ごせる日数が決まると思った方が良い。せいぜい答え方には気をつけろ」

〈あぁ、若造よ……そうはならぬ〉

 老人は呵呵かっかと笑いつつ、大きくかぶりを振った。絶妙に苛つく態度を取る相手への怒りを噛み殺しながら、素知そしらぬ様子で渡辺は続ける。

「あんたは囚人だ、明瞭な返答を心がけろ。そうはならないとはどういう意味だ?」

〈この儂を、いつまでもこの部屋に捨て置くことはできぬという意味じゃ〉

「面白い、脱獄の算段でもあるのか」

いな。そう遠くない内に、御身おんみらは頭を下げて儂に教えを乞うことになる。必ず儂を必要とする時が来る。ここへ来たのはそのためじゃ〉

 呆けた調子で妄言をのたまう老人に、渡辺はたまらずマイクのスイッチを切って悪態をく。だがここで調子を崩されては相手の思う壺。犬童の、お前は必ず騙されるという断言を頭から振り払いつつ、プランを立て直そうと書類に目を走らせる。

〈儂からも質問をひとつ良いか〉

「良い訳ないだろ、訊かれたこと以外何も喋るな」

弥六みろくは……いや違う、犬童は元気にやっとるのかのう〉

 ぴくり、と渡辺の動きが止まり、書類から目を離して窓越しの老人を凝視する。

〈おおよそ居場所の見当はついておるのじゃがな、残念なことにいまだ姿を見ておらぬのよ。もう随分大きゅうなったろう。御身とさほど変わらぬか〉

「今、犬童と言ったのか。彼とはどういう関係だ」

〈彼奴(あやつ)のことは、儂が誰よりよく知っておる。何しろ、儂自らが手塩に掛けて育てた数少ない愛弟子じゃからのう〉

 一体、何が真実なのか既に渡辺には分からなくなっていた。犬童の素振りに、自身がが暁鴉と既知の間柄であると思わせる素振りはなかった。全く興味を示す様子もないまま重要な取調べを渡辺に押しつけて去ってしまった程だ。

 だがもし、この老人の供述にほんの少しでも真実が混じっているとしたら、それら犬童のささやかな振る舞い全てに食い違いが生じる。

 老人の語ったこと全てを嘘と断じるには、いずれにせよ余りにも情報が不足している。なぜなら犬童の経歴はトップシークレット扱い、同じ部内で知る者は誰もいない。つまり、暁鴉の供述の正当性を渡辺が知る術はないということだ。それは彼の役割ではなく、このやり取りの録音を聞く者の仕事。となればこそ、渡辺が今ここで暁鴉の口をふさぐ道理は全くないのだ。

 渡辺は気を取り直して、マイクのスイッチを入れた。洗いざらい全て聞き出せ、という犬童の命令を若干都合よく解釈していること自覚しながら、渡辺は言った。

「……良いだろう、ではまずお前が口走った弥六という名前について。それは一体誰のことだ」



  享保五年七月 駿河藩 高鉢山 山中


 鬱蒼うっそうとした手つかずの雑木林に楽しげな笑い声が木霊こだまする。霧深い霊山の中腹を、一人の少年が無我夢中で駆け下っていく。歳の頃は一三、四。その速度は凄まじく、今にも倒木に足を引っかけ転倒するのではと思わせるほど。だが彼は生まれ育ったこの山をよく知っていた。脇目も振らず駆け抜ける彼の心臓は早鐘のように打ち続け、両の裸足はあちこち擦り向け皮膚がめくれ上がっていた。

 元気な子供たちの、屈託のない笑い声が少年に追い越し追い越されを繰り返しながら、もっと早くとはやし立てる。姿は見えない。

 疾駆する少年の顔を隠していた大きな天狗面が半分ずれ落ち、その下からは上気じょうきした顔が赤々と火照ほてっているのが見える。こんな調子で、少年はかれこれ半刻もの間、年嵩としかさの近い子供たちに追いかけ回されているのだった。

 彼の背後で、大きな翼を持った人影が木々の間を縫うように舞い、その背を追い越す。

 そうして、ばさりと大きな羽ばたきが耳元で聞こえたかと思うと、少年の真横からその翼の持ち主である若い天狗が襲いかかった。

 どっかりとのしかかられ寝転がされた上、加勢した少年たちに両腕までをも押さえつけられる。彼らも皆天狗であり、人間は少年の他に誰もいない。力も体格も圧倒的に勝る彼ら異形にしかかられ組み伏せられては、息を整える暇もない。

 そうして眼前に、一人の天狗の少年がゆっくりとこちらへ向かって来るのを見て、彼は今から為される仕打ちに身震いした。

弥六みろく、お前って奴は……」

 弥六と呼ばれた少年の頬に赤肌のこぶしが打ちつけられる。重たい一撃にガクリと首が落ちる。

「何度言っても懲りない野郎だ」

 周りの悪ガキたちも一緒になって、人間の弱々しく小さい身体を鞠のように蹴っ飛ばす。

 繰り返し繰り返し、骨ばった拳で殴られるのをじっと耐え忍ぶ。今にも脳震盪のうしんとうが起きそうなのをどうすることもできないまま、彼はただ耐えた。

 彼がこんな目に遭った原因というのも、大したものではない。高鉢山たかはちやまの頂に広がる天狗の里にあって唯一の人間・弥六が、天狗の一族に厄介になるにあたって課せられた決まりが、天狗のおもてかぶり決して素顔を明かさないこと、だった。

 ところがそのおもては悪ガキ共によって頻繁に隠され壊されて、都度この里の長にして甲斐かい一帯の天狗たちを取り仕切る首領・富士山陀羅尼坊フジサンダラニボウ嫡男ちゃくなん宮毘羅クビラに、弥六少年を一方的に殴る口実こうじつを与えるのだった。

 今回もまた弥六のおもては下半分がぱっかりと割れ、その下のひたいに広がるただれた火傷やけどあとが覗いていた。

 それに加え今回は、天狗の象徴たる肝心の鼻がへし折れているのが、短気な宮毘羅のかんさわった。

「てめェ、まさか明日の元服げんぷくも、そんなおもてで出席するつもりじゃねぇだろうな」

 足下あしもとで倒れたまま震える弥六にげしげしと蹴りを入れながら、宮毘羅がなじる。何も答えない弥六の代わりに、周囲の天狗たちが囃し立てる。

「宮毘羅の兄ぃ、元服の儀は兄貴みたいな立派な天狗のための儀式だぜ。こいつは天狗じゃねえし、天狗にはなれねえ。小便垂れはいつまで経ったって小便垂れのまんまだ」

「ンなことは分かってる──いいか弥六、 金輪際こんりんざい俺たちの前でその低い鼻を晒すんじゃねぇ」

 そう吐き捨て、弱った少年を更に打ちのめした。

 やがてひと通り満足すると、宮毘羅はその場を立ち去り屋敷の方角へと戻っていった。

 宮毘羅を取り巻く少年たちはその後も、恐怖に震えて小さく丸まっている弥六をあおり立てながら何発ずつか蹴りをお見舞いする。

「やーい小便垂れ」

 弥六が抵抗する意志を見せないと確かめてから、微動だにしない彼に各々おのおの小便を引っかける。

 そうして、用の済んだ彼らはようやく宮毘羅を追って飛び去った。

 耳許みみもとまで迫っていた楽しげな笑い声が遠のき、程なく木々のざわめきに吸い込まれていった……


 侮辱ぶじょくされた悔しさとやり返せない腹立たしさで、弥六は一人になってからもしばらくうずくまったまま動けずにいた。

 そんな少年を、杖で突っつく者があった。

「なんと哀れな。手負いの獣かと思えば、人の子ではないか」

 驚いているようなその声は老翁ろうおうのものであった。続いてしわだらけの両手が遠慮なしに弥六の傷ついた身体にべたべたと触れる。

 その不快感に耐えかねた弥六が、乱暴にその手を払い除ける。

「ほうほう、これは威勢の良い。まだ死なぬか。元気はあるようじゃな」

 弥六がギッと睨みつけてはっとする。嬉しそうに呵呵かっかと笑った老翁の両眼はめしいており、その表情からは怪我を負った自分のことを心から心配してくれている様子が見て取れた。

「随分とにおうのう。これは天狗の小便か?いかんいかん、儂は妖怪共が嫌いじゃ。中でも天狗は特に好かん。まずは御身の汚れを洗い流すとしよう」

 そう言って、老翁は川のある方角へ歩き出した。自分に対し敵意を向けない相手は、弥六にとって久方振りだった。


 一体どこからやって来たのか、無数のカラスの羽根で織られた黒いみのに全身を包み、すすで黒く染まった両足に黒い一本歯の高下駄という異様なで立ち。持ち物と言えば、これも錆びついて見すぼらしい錫杖一本のみ。そのおきなは、自らを暁鴉ギョウアと名乗った。仙人であるとう。

 弥六が川に入って汚れを落とし、焚き火でころもを乾かす間、暁鴉は身のうえばなしを語って聞かせた。


 幼少期に山で迷った折、偶然烏天狗からすてんぐに助けられそのまま五年程の間修行をして過ごした。それが、その仙人にとって全ての発端だった。

 修行に勤しむ間、特に故郷を恋しがる気持ちもなかったのだが、ふと思い立って故郷の村落に戻ってみたことがあった。だが、そこはもうすっかり様変わりしていて、住んでいた家があった場所には見知らぬ家が建ち、住んでいるのも他人。

 驚き珍しがってあちこちうろついて見て回っていると、よぼよぼの老婆が涙を浮かべて迫って来た。名を聞けば昔よく遊んでいた近所の子供だった。失踪した頃とさほど変わらぬ姿の自分を見てすぐに神隠しから戻ったのだと悟ったと云う。村中歩いても結局見知った人間はこの女だけだった。

 その老婆の家で厄介になり、仙薬を調合して過ごす日々はそれなりに楽しいものだった。医者のいない村だったこともあり、評判は上々。しかし、半月程経つと山での修行の日々が恋しくなった。結局、来た時と同じようにふらっと立ち去った。書き置き一枚残さなかった。

 以降は、俗世への未練も断ち切れ、再び修行に専念する日々を送った。そうして今に至る……


 それが、よわい八百を超えると云う仙人の語った全てだった。その果てしない歳月を過ごした生涯に、少なからず自身の出自と重なる点があることに気づきつつ、弥六は無心で冷たい川の水に浸っていた。

 異人共に下賤の者として扱われ、惨めに暮らす少年にとって、里は牢獄以外の何でもなかった。この里を逃げ出せるならどんな代償でも払うのにと、常々そう考えていた。

 実際に何度となく試しもしたが、里を取り巻く竹藪に掛けられた術によって、ふと気がつくと、外に向いていたはずの足は独りでに屋敷へ向かって歩き出してしまうのだった。その度に彼は自分の運命を呪った。

 ただひとつ救いがあるとするなら、故郷と呼べる場所がないことだけだ。物心ついた頃からこの里で暮らしてきた彼にとって、顔も知らない両親を恋しがり続けるのは難しい。


「いやはや、まさかお前さんが天狗の里で居候いそうろうをしている身とはな。奇縁なことだ」

 暁鴉仙人はまた呵呵と笑った。妙な気分だった。身の上を話す気など更々なかったのに、老人に尋ねられると、望まれるがままぺらぺらと喋ってしまうのだ。何らかの術にかけられたような気がして釈然としない。だが期待もあった。この出会いが、自分の運命を好転させるのではないかと……


 暁鴉仙人と共に、屋敷の門をくぐる。

 既に日は傾いており門限はとうに過ぎていたが、客人に道案内をしていたとなれば、今日はとがめを受けずに済むかも知れない。

 今頃は食事をしているだろうと見当けんとうをつけて、座敷のふすまを開けた、その瞬間──弥六は、己がとんでもない過ちを犯したことを悟った。


 弥六の背後に影のように立つ、羽色ばいろの蓑を見るや、その場にいた二〇名余りの天狗が一斉に立ち上がった。銘々めいめい錫杖しゃくじょうや短刀を携え臨戦態勢に入っている。その上、座敷の奥には長い間留守にしていた里の長・富士山陀羅尼坊フジサンダラニボウの姿があった。

 張り詰めた空気が漂う中、陀羅尼坊始め全員の刺すような視線が暁鴉に注がれる。彼らの眼差まなざしには憎しみがこもっているように弥六には思われたが、その理由に全く心当たりがない。当の暁鴉は天狗たちの敵意をものともせずに呵呵大笑かかたいしょうした。

「鼻高天狗共よ、それが客人に対する礼儀なのか。見ての通り儂は丸腰じゃ。めしいの杖がそんなに怖いと言うなら、この少童に預けることにしよう」

 そう言うなり、暁鴉は頭を座敷の奥に鎮座する陀羅尼坊に向けたまま、弥六に古びた杖を渡した。

 ほんの数秒が数十分に思えるような長い沈黙の後で、長である陀羅尼坊は仲間たちに武器を下げるよう命じた。そうして脇にいた天狗に、座敷に自分と暁鴉二人だけにするよう伝えた。だがそれはあまりにも危険。その天狗は食い下がったが、陀羅尼坊の意志を曲げることはできないことを悟ると、他の者らに合図した。すぐさまその場にいた全員が速やかに引き下がる。

 呆然とする弥六もまた、その細腕が折れるのではと思われるほど、立ち去る天狗の一人に強く引っ張られながらその場を後にした。

 弥六を引き取り、養子として迎え入れた陀羅尼坊は、ついぞ彼に一瞥いちべつもくれなかった。


「何という不孝者だ!この恩知らずが、よりにもよってあんなけがらわしい老爺ろうやを招き入れるとは!」

 座敷を出るや、弥六はこれまでこんなに痛めつけられたことはないという程の力で蹴飛ばされ鞠のように弾んで、直撃した大黒柱をぐらつかせた。これまでも手酷い仕打ちは何度となく受けてきたが、思えば大人の天狗に暴力を振るわれたのは、これが初めてのことだった。

「あまり騒ぐでない、動揺を悟られる」

「だが参太夫さんだゆう、」

此奴こやつは我らを恨んでおる。そこにあの老人が漬け込む隙があった。我らが自ら招き入れたのだ、あの稀代きだいの悪党を」

 参太夫と呼ばれた天狗のいさめを聞き入れ、弥六に対し更なる暴力を振るおうとしていた若い天狗は両腕を下ろした。

 空腹と全身に走る激痛とで床に横たわったまま身動きが取れずにいる弥六を、参太夫が抱き寄せる。そうして手短てみじかに、暁鴉という仙人の所業について語ったのだった。


 暁鴉自身が語ったことの中で、正しかったのはその通り名と、故郷を出て再び山に戻るまでの部分だけだった。

 短い里帰りを終えた暁鴉は、その後はひたすら修行に専心したと語ったがそれは全くの嘘だった。

 育ての親である烏天狗の里に現れた彼は、それまでとは別人だった。永遠に故郷を失った青年の形相ぎょうそうは変貌し、悪鬼と見間違える程で、彼はそれまでに培った技の全てを駆使して、たった一晩で里を平らげた。生存者は僅か数名。生き残った者らが天狗族の団結を呼びかけるも、彼の動きは単独で掴みにくく、そして速やかであった。結局、対応は間に合わず、青年にされるがまま。全国に点在する烏天狗の里は、軒並み虐殺と滅亡の憂き目を見ることとなる。

 天狗の術を知悉ちしつしたその男を密殺することは難しく、長きに渡ってこれまで一度も成功していないのは見ての通りである。

「彼奴(あやつ)の全身を覆う蓑、あれに使われている羽根は狩られた烏天狗のものなのだ。我らがあの老爺ろうやを恐れる理由が、少しは分かったか?」

 弥六は黙りこくったままうなずいた。参太夫は微笑ほほえんでいたが、その表情にはどこかへつらうような印象が漂っており、その目にはかすかに部外者である自分に対する猜疑さいぎの眼差しが見えた。


 参太夫に連れられて弥六が外に出ると、里にいる天狗総勢三百名余りが松明たいまつを片手に屋敷を取り囲んでいた。弥六もその中に加わり、騒然として落ち着かないまま状況が動くのをただ待った。

 月は既に高く昇って青白く、張り詰めた空気の中で一層輝くようだった。


 陀羅尼坊と暁鴉による会談が終わるのに、さほど長い時間は要さなかった。

 玄関の辺りで聞こえた物音に、天狗たちの緊張がさざ波のように広がる。

 引き戸をくぐった暁鴉は、からりからりと下駄の音も軽やかに道を進んでいった。杖がなくとも何の支障もないようだった。

 ふと思い出したようにくるりと振り返って、老翁は言った。その声色はいかにも親しげだった。

「このもてなしに感謝する。天狗たちよ、今宵こよいは邪魔をしたな。非礼を詫びる。また会う時には手土産を忘れんことにしよう」

 これ以上ないほどの挑発に、天狗一同は赤い顔を一層怒りに染めて今にも乱闘が起きんばかりにいきり立った。が、手出しに及ぶ者はいなかった。その老翁にまつわる数々の逸話は誰もが知るところであり、それが彼らをいくらか冷静にさせた。

 天狗たちが何もできずにただ立ち尽くしているのを満足そうに眺めると、呵呵と笑いつつ暁鴉仙人は陀羅尼坊に振る舞われたと思しき酒瓶をそっと地面に置いた。

 小さな酒瓶に足を入れ、そのまますっぽりと身体を収める。瓶から頭だけ出して、老人は言った。

嗚呼ああそれから。弥六と言ったな、少童よ。儂は御身の母君を知っておるぞ」

 そう言い残すと、暁鴉は出していた頭を酒瓶に収め、そのまますっと宙に浮きどこへともなく飛んですぐに見えなくなった。後には不気味な呵呵という笑い声だけが残された──

「後を追うな、返り討ちに遭うだけだ」

 飛び立とうと翼をばさりと広げた数名の血気盛んな天狗たちを、玄関口から出てきた陀羅尼坊が引き止めた。

「お教えください、奴は何をしにここへ」

「一体何を話されていたのです、いくさになるのですか」

「この里を放棄すべきではないでしょうか、それも今すぐに」

 動揺、困惑、恐怖……そういった感情がその場にいた者たちからせきを切ったように溢れ出る。丈高い天狗たちの中でも一際ひときわ屈強な陀羅尼坊に、自然皆の注目と期待が集まった。

「本日より全員総出で周辺の警護を行う。昼夜二交代、もしくは三交代制の持ち回りでだ。だが警戒を強めていることを奴には決して悟られるな」

 首領の命令に、散漫していた天狗たちの意識が一挙に束ねられた。皆、面持おももちが先程までとは打って代わり、峻険しゅんけんな行者らしい一面を覗かせた。

「里を捨てたところで結果は分かりきっておる、逃げ延びる道は無いと思え。道は二つに一つ、滅ぼすか、滅ぼされるかだ」

 独り言のようにそう呟いたのは、自分自身を鼓舞するためか。静かに頷いた後で、陀羅尼坊は声を張り上げた。

「只今この時より、高鉢山を防衛の要とする!各地に散っている一族郎党・同族に遣いを出せ。集められるだけ兵を集めよ。気取られぬよう慎重に、だが時間に猶予はないぞ。必ずや、同胞の仇をここで討ち取るものと覚悟せよ!」

 応、という短く低い唸り声のような呼応を合図に、大人たちはせかせかと各々おのおの同じ目標のために動き始めた。

 弥六は今頃になって、自分がもたらした事の重大さを理解しつつあった。そして目まぐるしく転がり始めた状況を前に、どうすべきか分からないまま、ただぽつりと立ち尽くしていた。

 だから気づかなかった、人だかりに囲まれていた陀羅尼坊がゆっくりとこちらに近づき、弥六の目の前で止まったことに。こんな急を要する事態に、自分に用があるなど思おうはずもなかった。

 暁鴉を招き入れた罰に身を硬くし、おびえながら遙か上にある陀羅尼坊の赤い顔を見上げた。だが、養父の声は存外穏やかだった。

「弥六。少し歩こう」


 ささやかな月明かりの下、せせらぐ川に沿ってただ歩く二人の間に、言葉はなかった。

 鬱蒼とした木々にさえぎられて月明かりは届かず、まばらに瞬く蛍の明かりだけが頼りである。大天狗はゆっくりと歩いていたが、何しろその歩幅は子供にとっては大きく、弥六は努めて早歩きをせねばならなかった。

 弥六の出自を知る者は里にはいない。ある日突然、陀羅尼坊がどこかから抱きかかえて帰ってきた──これまでずっと、弥六はそう聞いていた。

 初めこそ人間の女に孕ませた落とし子かとも噂された。だが、青白く透き通るような肌に色の薄い白い髪、左右で色の違う両眼と、その容貌のどこにも陀羅尼坊の面影は見い出されなかったことから、そんな不名誉な噂もすぐに消えた。

 赤子に手ずから弥六と名付け、養子として迎えたからには、陀羅尼坊が彼に取り分け目をかけてやっていたかと言うとそうでもない。と疎まれ同年代の子供たちに怪我けがを負わされても、彼がかばってくれたことは一度もなかった。弥六の孤独を癒すものは何もなかった。そんな環境に置かれては、幼子おさなごとて卑屈にもなろうというもの。

 陀羅尼坊に尋ねられても口をつぐんだままであったのも、それがゆえだった。

「誰もが救いを求める状況で、お前だけが答えを求めていた……。何が知りたい」

 その声からは、里の平穏を乱したことに対する怒りなど微塵みじんも感じられなかった。

 だがさりとて、率直に質問するのもはばかられた。

 そもそも、陀羅尼坊が何を知っているのかが分からない。これまで何ひとつ教えてはくれなかった彼が、一体どんな答えを持っていると言うのか。

 その上、弥六は自身の出自に関して長い間、疑問を持つ余裕もなかった。ただ受け容れるしかなかった事柄を今更疑うのは難しい。弥六には覚悟ができていなかった。

「知りたいのは、母君のことか」

ためらって黙りこくる弥六に、陀羅尼坊が平然と言ってのける。

 弥六は耳を疑った。唖然として言葉もなかった。知っていたと言うのか?実の親が誰か知っていながら、お首にも出さず黙り通していたと?取り返しのつかない時間を空費した怒りと、長年抑えてきた寂しさが一挙に溢れ出る。

「……生きて、いるのですか」

 嗚咽おえつしそうになるのを抑えながら、かすれた声でやっと、それだけ言った。陀羅尼坊は少々の間を空けるというしおらしさを示しつつも、その答えは先程よりも更に簡潔だった。

「いや、残念だが。お前を産んですぐに亡くなられたと、そう聞いている」

「どこの、誰なのです」

 言い淀む陀羅尼坊に弥六がにじり寄る。

「教えてください!母上が誰なのか、なぜ死んだのか、どうして私はこの里にいるのか!陀羅尼坊様はなぜ、私を養子にしたのか……」

 嗚咽しながら吐き出すように、一気にまくし立てた少年は、それだけ言うと肩を震わせさめざめ泣いた。打ち割れたままのおもての端から涙が頬をつたう。

 陀羅尼坊は自身の膝程の身長しかない彼を抱き寄せようとしゃがみ込んだが、弥六は拒絶した。

「お前を守るためだったのだ」

「一体何から。ずっと、いじめ抜かれていたんですよ、あなたのご子息に」

「それは、お前が小さく弱いからだろう」

 積年の労苦を平然と一蹴する陀羅尼坊に弥六は歯噛みした。少年の気持ちを微塵も理解しないまま、養父は彼の頭をぎこちなく撫でた。

「だが、事情を知れば誰もお前をののしるまい。明日、皆に話すつもりだ」

「何を、話すと……」

「お前が何者なのかについて。弥六よ、お前は人間などではない。皇祖神こうそしん木花咲耶姫命コノハナサクヤヒメノミコトこそお前の母君。お前は、国津神に類する者なのだ」

「なっ……」

 弥六は耳を疑った。生まれてこの方天狗と共に暮らし、時折里を訪れる人間の高僧以外には何も目にしたことのない彼にとって神など、伝説上の存在に過ぎない。

 その上、木花咲耶姫と?

 不変不死を誇る天神地祇てんじんちぎの中で、歴史上明確に崩御が確認されたのはほんのひと握り。その内の一柱が木花咲耶姫だ。事件が起きたのは宝永四年と人々の記憶に新しいこともあって、弥六もそのくらいは承知していた。だがそれでも、まさか自分の出自と関係があるなどとは。そう聞かされても、真実とは到底思えない。

「木花咲耶姫命をしいしたのが誰であったのか。獄卒の目をかいくぐって地獄から這い出た大妖怪が首謀者であるとも言われるが、その目で見た者は誰も。我々には結果しか分からぬ。即ち富士の山は噴火し、地上は灰に覆われ、季節の経巡りは止まった。以来、地上に春は訪れていない」

 一昨年の嵐による倒木で地肌が露出した場所に出た。程近い場所に聳える富士山の威容は、眩しく反射する雪によって月明かりだけでもその輪郭がはっきりと見て取れる。咲耶姫が亡くなって以後、一年を通して肌寒い晩秋のような気候が続いているために、山頂に積もった雪が溶けることはなくなり、堅い氷と化して人々の足を遠ざけつつあると云う。

 大天狗は立ち止まると、弥六を真正面から見据えた。山の中腹で陀羅尼坊の顔は月に照らされ、いくらか青みがかって見えた。

「一四年前、私にお前を託したのは暁鴉だ。彼奴あやつは崩れ落ちた咲耶姫の中から堕胎児だたいじを救い出し、考えられる限り最も安全な場所に預けた。それがこの隠れ里だった。自分が全ての天狗にとっての仇であることを承知の上で、敢えてそれを利用し奴は私を頼った。無論、脅しながらではあったが。

「奴は語った、その赤子がやがて国土に安寧をもたらすと。母親の権能を受け継いだその子は、長じればいずれは芽吹きを司る者になると。私は信じた、不倶戴天ふぐたいてんの敵といえども、その言葉は真実であると悟った。だからお前を、里に迎え入れたのだ」

 己の出生の秘密を明かされたにもかかわらず、弥六は半信半疑だった。彼の心に巣食った長年の恨みと不信を解消するには、彼は賢く育ち過ぎていて、その話の全てをに受けることはできなかった。

 陀羅尼坊は月を見上げて、構わず続けた。

「だが今日になって、暁鴉はお前を差し出せと言った。何か良からぬことをくわだてているのは間違いない。いな、ともすると初めから、彼奴がお前を救ったのも慈愛の心からではなかったのか。奴が語らない以上は知る術もない。それはともかく、すべきことは決まっている」

 目の前を横切った蛍を、大きな手で掴み取り、ゆっくりと拳を広げる。ほのかな光が赤い掌で瞬く。

「この里を守る。お前を引渡しもせぬ。あの悪党は必ずや、この地で討ち取る。今まで通り、お前にとってこの里は故郷であり続けよう」

 そう言って、たもとの隠しから真新しい天狗面を取り出し、弥六に手渡した。

 少年を安心させようとした大天狗の言葉は、しかし彼の耳には絶望の響きを伴って聞こえた。少年は無造作にそれを受け取ると、その素顔をいかめしいおもての下に隠した。


 翌午前。一族の伝統である元服の儀は、例年通り首領の屋敷で執り行われた。あわや里存続の危機という状況下、延期の意見は当然首領に近い者たちの口からも聞かれた。だが暁鴉に翻意を気取けどられないよう表面上は普段通りに過ごすべきだという考えで陀羅尼坊の意見は終始一貫していた。その上、今年元服を迎える若者の一人は彼の嫡男・宮毘羅が含まれていることもあって、誰も強硬には反対できなかった。


屋敷の広間には正装で着飾った若者たちが宮毘羅を中央に据えて座し、陀羅尼坊の到着を待った。その中に弥六の姿はない。先だっての自分の脅しが効いたのだろうと、宮毘羅は内心ほくそ笑んだ。

 首領の嫡男である彼にとって、陀羅尼坊の養子であるがゆえに義理の兄弟に当たる弥六の存在は、うとまましいことこの上なかった。例え跡継ぎの立場を脅かされるおそれが微塵もないとしてもだ。

 それに加えて、一族の仇を連れ込むという暴挙。

 天狗ですらない人間の子供がこの場にいて良いはずがない。宮毘羅は、弥六がようやく自分の立場を理解したと知って溜飲りゅういんが下がる思いだった。


 広間とえんで通じている前庭ぜんていには、元服を迎える若者たちの親類を中心に大勢の天狗が参列し、一様にひざまずいていた。皆、陀羅尼坊の到着を今か今かと待っている。


おもてを上げよ」

 一陣の風が吹いた瞬間、一人残らず深々と礼をする。天狗たちの頭上に陀羅尼坊の声が響き渡る。そのねぎらいに応えて、これまた一斉にその赤い顔を首領に向ける。

 一族に伝わる扇を携えた陀羅尼坊が雄々おおしくどっかりと座り込んだのを見て、天狗たちも揃えていた足を崩した。

「今年も無事にこの日を迎えられたこと、首領として嬉しく思う。さ。皆の者、さかずきを持て」

 まだ元服に満たない子供たちが御猪口おちょこを配り、ぎこちなく徳利とっくりを傾けていく。その様子にいくらか場の雰囲気もなごやかになったところで、首領による乾杯の音頭と共に一同呑み干した。

 初めて酒を口にした若者たちは、続いて陀羅尼坊からの書付かきつけを拝領する。そこには各々の戒名かいみょうが記されている。これまでの幼名ようめいを改め、その生涯を術の研鑽に捧げる者として新たに名乗ることになる名だ。

 陀羅尼坊から最初に書付を受け取った宮毘羅が、晴れがましい決意の表情と共に宣誓する。

「我、本日只今ただいまもっ高鉢山タカハチヤマ宮毘羅坊クビラボウ相成あいなりてそうらえば、方々かたがた聞こし召されたくそうろう!」

 彼が下がると、他の者たちも続々と自分の名を告げていく。

 そうして八人全員の宣誓が終わり、屋敷は万雷の拍手に包まれたが、陀羅尼坊はいかめしい表情を緩めないまま、一同に静まるよう手で合図した。

「今日元服を迎える若人わこうどはもう一人おる──弥六よ、これへ」

 陀羅尼坊がその名を呼ぶと、天狗たちはどよめいた。呼ばれた弥六は天狗たちの様々な感情が入り混じった眼差しに晒されながら、すたすたと長い濡れ縁を横切って陀羅尼坊の前に座した。

 深々とひれ伏した後、ゆっくりと顔を上げ、養父から書付をたまわる。

 陀羅尼坊の傍に控える宮毘羅坊が弥六をにらむ。昨日打ち割った天狗面は新調され、弥六の素顔を覆い隠していた。表情を読み取ることはできないが、宮毘羅坊は彼がこの瞬間、自分のことを嘲笑あざわらっているに違いないと信じ込んだ。

 宮毘羅坊の刺すような視線にも動じず、弥六は平然と書付を広げると、朗々と読み上げた。

「我、本日只今を以て弥六芙慈ミロクジ践陀坊センダボウと相成りて候えば、方々聞こし召されたく」

「否!」

 怒りに満ちた短い声が辺り一面に響き渡る。場の空気が凍りつく中、陀羅尼坊だけが頭を動かし自分のせがれに目を向けた。

「弥六は貴様の義兄弟だろう、何故なにゆえに拒む」

「そいつは天狗ではありませぬ。鼻の低い猿が元服すると言うなら、仲間の許に帰すが道理。父上から戒名を賜るいわれはありませぬ」

「ならん。この者は我が養子。血を分けた息子であろうと、この私に恥を掻かせることまかりならぬ。下がっておれ」

 両者は一歩も退かず、ただ言葉もなく睨み合った。その場を収拾する器量のある者は誰もおらず、周囲は皆固唾かたずを呑んで見守った。何しろ宮毘羅坊の主張は至極妥当であり、弥六に目をかける陀羅尼坊の言動は、彼に忠実なればこそ反発心を喚起するものだった。

 宮毘羅坊が元服した今、それは単なる親子のいさかいを超え、里を二分する派閥争いに発展するおそれさえあったが、この時その可能性に気づいていたのは、愚かにも陀羅尼坊一人だけだった。

 宮毘羅坊は弥六に目を移した。天狗とは似ても似つかぬその青白い顔からは、昨日や今日までとは打って変わって義兄に対する怯えが消え、怜悧れいりで底知れぬ何かを感じさせた。そのことに一抹の違和感を覚えたが、宮毘羅坊とて退く気はない。

「おい。お前が名を受け取る気でいるなら、俺はお前を殺す」

 眼前の陀羅尼坊に頭の向きを戻しつつ、宮毘羅坊の視線は弥六の手に握られた書付に注がれた。


 瞬きする僅かな間が一刻にも感じられる程に緊迫した空気の中、弥六が書付を己の袂に仕舞い込んだ──瞬間、ばさりという強風と共に黒い鏑矢かぶらやとなった宮毘羅坊が、弥六目がけて錫杖を振り下ろした。

 衝撃によって襖が飛び散り、揉み合う二人は前庭に投げ出された。

 体格の勝る義兄の不意打ちで組み伏せられながらも、弥六は自前の錫杖でどうにかそれを受け止め、ぎりぎり鍔迫り合いに持ち込んだ。

 土煙が止むや否や周囲の天狗たちの口から感嘆の声が漏れ、それが宮毘羅坊を一層苛立たせた。

「お前らどっちの味方だッ……!」

 屋敷を一瞥いちべつするも、陀羅尼坊はこちらを見てすらいなかった。頭の向きさえ変えずただ正面を見据え、微動だにしない父親の姿に気を取られた宮毘羅坊の横腹を、突然大きな衝撃が襲った。

 完全な不意打ちだった。弾き飛ばされた先でそびえ立つ木にめり込んだまま、宮毘羅坊はしばらくの間身動きが取れなかった。

 頭だけ動かして、弥六を探す。真新しい天狗面に素顔を隠して、彼は組み敷かれていた地点でゆっくりと立ち上がり砂埃をはたいた。その周囲には他に誰もいない。

 宮毘羅坊はてっきり、その場にいた何者かが弥六に加勢したのだと思っていた。先の攻撃は明らかに弥六とは別の方角からぶつけられたものであり、その威力からして人間ごときにできる芸当とは思えない。

 驚いているのは突き飛ばされた本人にとどまらず、周囲の天狗たちも皆一様に唖然としていた──唯一人を除いて。

「双方、そこまでにしておけ」

 陀羅尼坊がさとすように言った。

「これ以上、配下の者たちの面前で祝いの場を穢す非礼は許さん」

 弥六がその場で即座に片膝を突きこうべを垂れる。片や宮毘羅坊は姿勢を正すこともままならず、ただ呆然と座り込んでいた。

「私は長らく、この者、弥六の出自を隠してきた。無用な諍いを避けるためだった。だが天狗殺したる暁鴉が我が里の脅威となった今、お前たちには真実を話さねばならない」

 干潟ひがたに潮が満ちるように、静かなざわめきがその場を覆う。これまで誰にもかえりみられなかった忌み子は今やそのざわめきの中心にいた。

の者、弥六芙慈践陀坊。母君は木花咲耶姫命」

 静かなざわめきが、たちまちどよめきに変わる。

「母亡き今、その権能を継ぐはこの者を置いてほかにない。そして彼をこの里にもたらしたのは、誰あろう暁鴉である」

 陀羅尼坊は誰にも明かさずに秘してきた弥六の出自についてつまびらかに語った。弥六自身に聞かせた内容と寸分の差異もなく、そこに陀羅尼坊の実直さが表れていた。

「暁鴉は必ずやこの地に舞い戻る。我らでは到底及びもつかぬ企みのために、皇祖神直系の血を奪い去らんとしている。

「友よ、兄弟よ。今一度頼みたい。おのが命に代えてでも、我らはこの者を守らねばならない。三千世界さんぜんせかいに秩序を復興するには、この者の力が不可欠なのだ。……どうか」

 言い終えると、陀羅尼坊は深々と頭を下げた。このことには誰もが驚きを隠せない様子ではあったが、反応は様々だった。

 陀羅尼坊に最も近しい者たちは、陀羅尼坊が頭を下げるや居住まいを正して礼をした。だが全員ではない。残りの者たちは互いに顔を見合わせ、ただただ戸惑った。まさか忌み子として疎んじてきた少年が国津神の末裔であったとは。これまで看過してきた仕打ちを思い返せば嘘であって欲しい、信じたくない事実だ。

 むっくりと起き上がった宮毘羅坊が叫んだ。

「笑止!」

 この日のために新調された正装はわずか一撃で破け、殺気に満ちたその表情には同族さえ畏怖する凄味すごみがあった。

「つまり、そいつは災いの種なのでしょう。尚更此処に置いてはおけません。とっとと」

「ならん。弥六がいなければ奴がこの里を温存する意味はない。特段の理由もなく烏天狗たちを執拗に狙い、狩り尽くした男が相手なのだ。我らが生き残るには、此処で討ち取るしかない。弥六は必ずや切り札となる。その身で理解したであろう」

 宮毘羅坊の表情が苦渋で歪む。信じ難いが、今しがた宮毘羅坊を突き飛ばしたあの力こそが弥六が隠匿してきた神通力であったらしい。

 錫杖を拾い上げた宮毘羅坊が、父親のいる屋敷に背を向け一歩進み出る。

「宮毘羅坊。さといお前なら分かるはずだ、今の我々に反目はんもくしている余裕はない」

 父親の言葉に立ち止まって、それでも振り向かないまま宮毘羅坊は言った。

「最後にひとつ教えてください。暁鴉が現れなかったら、いつ明かすつもりだったのです」

 これまで淀みなく語っていた陀羅尼坊が黙り込む。実子を自分の手に引き戻す言葉を思案している様子だったが、しばらくすると溜め息をつき、諦めたように言った。

「彼を身請みうけしてより今日こんにちに至るまで、常に公表の機を伺ってきた。今がその時だったと信じている。機をいっしたとは思わぬ」

「答えになっておりまぬ」

 父親の言葉を聞き届けると、宮毘羅坊はもう立ち止まることなく里を離れていった。そして一人、また一人と若い者たちがその後をついて行く。方々ほうぼうからそんな彼らを叱責する声が上がるが、陀羅尼坊は制した。長である彼だけが気づいていた、彼らが里を脅かす敵への恐怖から逃げたのではないことに。彼らの行動は陀羅尼坊が採った有事の対応への声なき批判であり、彼に代わる頭目とうもくとして宮毘羅坊を擁立ようりつするという宣言であった。

 嘘も虚飾もない陀羅尼坊の実直さが、今この時だけは不利に働く結果となった。


 波乱の儀式を終えて、自室に戻るや弥六は力いっぱい錫杖を投げつけた。

 その杖は彼の部屋で盃を傾けている暁鴉には当たらず、黒い煤のような煙となった仙人の身体を通り抜けて壁にぶつかった。その拍子に、杖に仕込まれた直刀ちょくとうがまろび出て研ぎ澄まされた白刃はくじんが妖しく光を放った。

「どうじゃった……いや、言わずとも良い。さぞ胸のすく想いであったろう。力を得た御身おんみかなう者は、この里にはおらぬ」

義兄上あにうえを、殺すところだった……」

 仙人はいつものように呵呵かっかと笑ったが、その表情にはいつになく悪意がにじんでいた。

「天狗風情ふぜいに情が湧くとは、御身も歳相応に未熟よのう。あめ羽衣はごろもがあれば着せてやりたいところじゃが、生憎あいにく持ち合わせがない──ほれ、その美しい顔を見せてみよ」

 弥六が自らの手で外すまでもなく、暁鴉がひょいと指を振り向けると結んでいた紐ははらりとほどけ、天狗面は空中で静止した。黒い煤煙ばいえんがそろりと近づき、光を失った老人の両手が少年の顔をべたべたと触った。

「傷は痛むか」

 老人の手を払いけて背を向ける。額にあった火傷の痕は、昨日までよりも大きくなっていた。爛れた傷痕は今や左眼に達し、おもてで隠すのも難しくなりつつあった。


 昨日の晩、陀羅尼坊との会話を終えて部屋に戻ると、そこには今日と同じように暁鴉の幻影がくつろいでいた。

 追い払おうと語気を荒らげる弥六を制して、仙人は言いつのった。

「先刻は随分な言いようであったのう。天狗共にどう思われようとわしの知ったことではないが、愛弟まなでにあらぬ誤解を吹き込まれるのは看過できぬ」

「誰が貴様の……ッ」

 落ち着いてそこに座れ、と老人が手でうながすが、少年は引き戸の前で廊下に立ったまま従わない。

「儂は妖怪が嫌いじゃ。中でも天狗が取り分け好かん。御身とてそうであろうに」

 弥六は口を閉ざしたまま暁鴉を睨んだ。

「儂はありとあらゆる怪異を人間の足下あしもとひざまずかせたい。否、そうあるべきなのだ」

 老人の言葉を遮るように、少年は鼻を鳴らして笑った。

「俺は人間ですらないようだが」

「陀羅尼坊は語ったか。だがどこまで話した?御身が麗しき女神の一人息子で、赤子の時分じぶんに儂がこの里に預けたと、そう語ったか。それだけか?」

 月明かりさえさない暗い廊下で立ち尽くしたまま、弥六は動揺を気取られないよう必死だった。

「お前の顔を醜くしておるその火傷について、奴は何か言ったか。何も言うまい」

 暁鴉はそれだけ言うと、ぶつぶつと何かを呟きながら少年に背を向ける。

「……おい」

 仙人の言葉に耳を傾けようと一歩踏み込んだ瞬間、ぴしゃりと引き戸が閉じると少年の身体は宙に浮いたままぐいと引き寄せられ、盲人の節くれ立った左手にその細い首が収まった。呼吸もままならないのでは、神であろうと陸に打ち上げられた魚も同然。しばらくの間手足をじたばた暴れさせたが、それも数十秒の後はだらりと垂れて老人の為すがままとなった。

「己の敗北を決して認めようとせん所にこそ、天狗の天狗たる所以ゆえんがある──良いか。奴は、陀羅尼坊は、儂の力を前に屈したに過ぎんのだ」

 顔だけを真っ赤にしてすっかり伸びきった弥六を畳の上に寝転がすと、額の火傷に手を当てて何やら聞き慣れない呪文を唱え始めた。その言葉の響きは真言しんごんにも似ていたが、もっと得体の知れない、出自の古いもののように思われた。

 息も絶え絶えに抵抗の意思さえ見せなかった弥六の身体が、苦痛に悶え始める。溶錬ようれんされた鋳鉄ちゅうてつを体内に流し込まれるような、極度の痛みに少年は悲鳴を挙げかけたが、声を抑えるべく仙人は、彼が深く息を吸い込む前にその見えない力によって細い喉をきつく締めつけた。


 屋敷にいる他の誰にも、少年の助けを求める声は届かなかった。


 朝を告げる陽の光が窓から射し込んで、そこで初めて弥六は自分がいつの間にか気を失っていたことに気づいた。黒いもやはとうに掻き消え、そこに暁鴉がいたことを示す形跡は何もなかった。

 鈍痛が響く額をさすると、ただれた皮膚の感触が昨日までよりも広がっていた。だが、それが示す意味を、この時の彼はまだ知らなかった──


「傷は痛むのか」

 昨晩この部屋で何があったのかを思い出して呆然とする弥六に、暁鴉はもう一度尋ねた。

「俺に何をした」

「御身に宿る神通力を目覚めさせた。知らなかったのも無理はない。封印は強く、未だ完全に破れたとは言えぬ。本来の力を十全に振るえば、あの程度は造作ぞうさもないと知るじゃろう」

 自分の両手を見つめたまま、弥六は黙り込んだ。自分の身に起きた事実を理解できたとは到底思えなかった。脆く貧弱な身体のどこにそんな力が眠っていたのか。暁鴉がまじないを解いた時、少年が感じたのは純然たる痛み、ただそれだけだった。

 そんな得心しかねる様子の弥六に失望したかのように、暁鴉は溜め息をつくと得意の見えない力を緩めて彼を解放した。紐をほどかれた天狗面が、からりと音を立てて床に落ちる。

「御身の神通力は特別で、力そのものに意志がある。一度目覚めさせれば、外に出ようと御身の中で暴れ始める……昨晩感じたのはその痛みじゃ。加えて、御身にかけられたまじないはちと厄介だったようだのう。力が目覚めた途端、より頑強な封印の術式が展開しおった。そうなるよう細工がほどこしてあったようじゃ」

「あんたほどの知恵者ちえものが、それに思い至らなかったと」

 弥六が不機嫌に唸ると、仙人はまたお決まりの笑い声を上げ、その古びた顔に貼りつけられたおきなめんのような笑みを彼に向けた。

「いやはや、そこを突かれると儂も弱い。忌々いまいましいことじゃが、天狗の術は妖怪共の中でも屈指の複雑さを誇る。儂はきっかけを与えたに過ぎぬ。亀裂を広げ、破るのは御身の役目」

「どうすれば良い」

「すべきことは変わらぬ。術者を殺せ、陀羅尼坊を。御身は今日、絶好の機会を逸した……授けた杖をかしこく使え」

 弥六は足許に転がっていた仕込みの錫杖を拾い上げ、鞘に戻した。

努努ゆめゆめ忘るな、その杖は刀でなく暗器。通用するのは一度きりじゃ。御身をしいたげた者らに慈悲を施そうなどとは、思うでないぞ……」

 暁鴉を取り巻く靄が濃くなり、その姿が黒く溶けていく。

「せいぜい、存分に足掻あがくが良い。御身を封じるおりは堅く厚い……」

 仙人が跡形もなく消えるのを見届けた後で、弥六はその顔を天狗のおもてで覆った。


 それからの数日、弥六は養父である陀羅尼坊にぴったりと付き従って過ごした。それは勿論、技量において圧倒的に格上である大天狗を破るには、油断しきったところで急所を突く以外に方法がないゆえの戦略であったが、しかし彼のその行動は周囲には異なる印象を与えた。

 首領の嫡男たる宮毘羅坊が去った今、その跡を継ぐ者として弥六が急浮上したのだ。ましてや不倶戴天の仇敵きゅうてきと合間見えようというこの時、神のげんを担げるのを頼もしいと感じる者も多いようだった。賛否は分かれていたが、それでも表向きには里にいる全ての天狗が弥六に対し敬意を示すようになったのは、散々かろんじ疎ましく扱ってきた負い目があったからか。

 だからこそ、高鉢山一帯が防備を固める中、暗殺を実行に移すその時まで、周囲に不自然さを与えずじっくりと好機を伺うことができた。時勢は彼に味方していると言えた。

 その日、陀羅尼坊は自室で早朝から瞑想にふけっていた。ふすまの隙間から覗き込むと、すぐ目の前で背を向けて胡座あぐらを掻く養父の姿があった。

 好機が訪れた。それには違いない。だが弥六は迷った。確実に急所を狙うなら、襖を開け放ち首に刀を突き立てるべきだろう。しかし、襖を開けた時点でほぼ確実に察知されて防がれる。

 ならば襖越しに狙いを定めて刀を突き立てるか。曉鴉から授かった仕込みの刀であれば届くだろうが、急所を突くのは難しく、外せば失敗。翻意を見抜かれ再起不能となる。

 自らが取るべき行動について、ここまで思いを巡らせたところで、彼は打つ手なしと結論づけるほかなかった。

 取るべき首は眼前にあるというのに、このもどかしさ。隙を見せて裏切るか試しているのではとの考えが頭をよぎるが、それはすぐに棄却した。そこまで疑心暗鬼に陥っては、いよいよ身動きが取れなくなる。

 ひとまず諦めて、襖を開けた弥六はその光景に目を丸くした。陀羅尼坊は奥の座敷で、こちらを向いて座っていたのだ。ついさっきまで、すぐ目の前に背を向け胡座を掻いた養父を確かに見て、気配も感じ取っていたと言うのに。

 もし行動を起こしていれば、どちらを採ったにせよ虚空に刃を突き立てることになっていた。陀羅尼坊の術か、それとも自らの弱さが見せた幻か。だがその戸惑いを、気取けどられる訳にはいかない。

 弥六は一礼して、何食わぬ素振そぶりで陀羅尼坊と向かい合わせになって胡座を掻き、瞑想するふりをしながらその威容を見据えた。

 丈高い大天狗は座っている状態でも弥六の身長を超えていて、その丸太のような首を落とすのにどれほどの苦労があるだろうと考えずにはいられなかった。

 弥六の視線が養父のうなじを這った、その時だった。陀羅尼坊は大きな両の目玉をカッと見開き、泰然と弥六を見下ろした。そうして右手でぽん、ぽんと首をさすった。瞬間、弥六は自らの血が一瞬で青ざめていくのを感じた。

「ずっと考えていた、お前が真に欲している物とは一体何なのか」

 まさしく蛇に睨まれた蛙。頭の中でこそ、その場から逃げ出すべきか考えていたが実際のところ行動に移すだけの胆力はなく、ただ黙って話を聞いているより外ないのだった。

「お前には、この首の使いみちに当てがあるのか。ならば教えてくれ、己の命の遣いどころを。この艱難かんなんを乗り越え里の者らを生かすことができるなら、喜んでこの首差し出そう。どうだ」

 自分の顔をしっかりと見据えてそう話す陀羅尼坊の目を、弥六はついぞ見ることはできなかった。

 今の話が冗談などでないことは分かりきっていた。その男の言葉は常に本心。駆け引きも打算もない。それゆえにこちらの作為も通じないのだ。

 弥六の頭は真っ白になっていて、何も手につかずただこの部屋に入るべきでなかったと、そればかりを際限なく後悔していた。

 気がついた時には、目の前に座っていたはずの陀羅尼坊は、襖を開け外の様子を伺っていた。

 緊急を告げる鐘が鳴り響いている。いつから鳴っていたのか、頭の裏側で血がのぼりぐわんぐんとうるさい耳鳴りがして聞こえていなかった。

「私は先に行く。お前も来い」

 そう言って、大天狗はふところから扇を取り出しやおら振り上げた。瞬間、姿は消え去り跡にはかすかなつむじ風だけが残された。それでようやく、少年は息をつけた。わずか数分の出来事であったものの、これほど生きた心地のしない時間はこれまでなかった、そう思えるほどに際どい瞬間だった。だがこれで危険を回避できたとは到底思えない。結局のところ陀羅尼坊は自分の翻意を察知しているのか、思い返しても判然としない。

「気を引き締めよ、我が弟子。これより先は正念場。いよいよ失敗は許されぬ」

 大げさな程ぜいぜいとあえぎ込む弥六のそばに影が忍び寄り、声と共にその影の中から背の低い老人が現れる。

「貴様の弟子に、なった覚えは、ない……」

 呵呵と笑って差し伸べられた暁鴉の手を振り払う。黒い霞でできた幻が煙のようにたなびき、やがてまた濃くなり像を結ぶが、その手は杖に置かれて元のように差し伸べられてはいない。

「その通り、御身は一人で立ち上がるより外ない」

 ようやく呼吸を落ち着けると、弥六は膝を突きつつ静かに立ち上がった。

「奴の真意がどうであれ、御身の為すべきことに変わりはない。陀羅尼坊を殺せ。頭さえ潰せば勝ちいくさじゃ。この先で何を見ても、それだけは努努ゆめゆめ忘るるでないぞ……」

 囁く暁鴉の幻を薙ぎ払ってから、弥六は騒がしい声のする方角へ走った。

「誠、操りやすい愚か者……じゃが、儂の跡目は臆病者では務まらぬ。これは試練じゃ、御身のためにあつらえたこの好機を必ず活かせ……」


 騒ぎは、里の唯一の出入口である正門付近で起きていた。

 駆けつけた弥六が目にしたのは、何者かと応戦する陀羅尼坊の姿だった。周囲の天狗たちはどうすることもできないまま、その成り行きを固唾を呑んで見守っている。

 争っている相手が一体誰なのか、見定めようと有象無象うぞうむぞうを押しのけ最前に出る。

 激しい鍔迫つばぜり合いで陀羅尼坊はじりじりと押されながらも持ちこたえていたが、遂に均衡は崩れて大天狗が倒れ込む。驚くべきことに、相手は鍔迫り合いを右手のみでいなしつつ、空いていた左手で懐に忍ばせた短刀を取り出し陀羅尼坊を正面から複数回に渡って突き刺した。

 陀羅尼坊が倒れ、その向こうにいたその相手とは──彼の嫡男・高鉢山宮毘羅坊だった。

「すまない、父上。事態は急を要するのだ」

 言葉こそ穏やかだったが、生来の峻険しゅんけん人相にんそうは悪意に毒され歪んでしまっている。

 実父の陀羅尼坊などまるで眼中がんちゅうにない様子で、落ち着きなく何かを探していた。その異様な様相にひるみ、地面に伏せったまま微動だにしない陀羅尼坊には誰一人として駆け寄ることができない。

 取り囲んでいた天狗たちは皆、錫杖を携えて応戦の構えではあるが、何しろ相手は首領のせがれ。この狼藉ろうぜき狼狽うろたえ、目に見えて躊躇している。

 変わり果てた義兄の両眼が弥六を見つける。瞬間、散漫していた殺気が一点に集中して自分を包み込まんとするのを、弥六は肌で感じた。

「「寄るな!」」

 宮毘羅坊を遠ざけようと本能的に振り上げられた右腕が大気を掴み、凄まじい震動を巻き起こす。刹那、神通力が発動し地割れを伴った猛烈な衝撃波が一帯を襲った。


 一瞬の出来事であったが、その後に辺りを覆った地煙じけむりはいつまでも吹きすさんで止む気配がない。

 まともに目も開けない中、いつ宮毘羅坊に襲われるとも知れないまま弥六は倒れ伏した養父を手探りで捜した。

 ようやくそれと思しき巨躯きょくを見つけて肩にかつぐ。自身の三倍はある大天狗を担ぎ上げることなどまず不可能であったが、幸いにも彼の意識ははっきりしていて、弥六を支えにして何とか歩き始めた。

 ぜえぜえと荒い息を吐く口からぼたりぼたりとしたたり落ちる血が弥六の覚束おぼつかない足取りを急がせた。

 屋敷から離れいくらか小高い丘を登りきった頃、十数分余りに渡って吹き続けた地煙もようやく止んだ。そうして辿ってきた道程みちのりを見下ろしてようやく、未熟な少年は己の所業を悟ったのである。

 そこにあったはずの立派な屋敷は半分余りが消し飛び、大きく割れた地面は剪断せんだんを起こして断層が露出していた。衝撃波で吹き飛ばされた天狗たちはあちこちに散らばり、その多くは動かない。

「これは……?」

「何だお前、動揺してるのか」

 宮毘羅坊の声が上空から聞こえたと思った次の瞬間には、急降下した彼に身体を掴まれ、そのまま空へと昇っていく。


「まともに制御もできない力を振りかざして勝った気でいるとは、呆れて物も言えない」

 あっという間に、振り落とされれば命がない高さに達して弥六は抵抗をやめ義兄の腕にすがりつく。

「俺はまさに、こうなることを警告に来た。最早もはや手遅れになったが、まぁ安心しろ。一族の頭目とうもくとして始末はつけてやる」

 ぐんぐんと高度を上げ、まばらに漂っていた雲よりも高くなってようやく宮毘羅坊は静止した。

「悪く思うなよ、貴様に恨みはない。俺たち一族は代償を支払ったまでのことと理解している。穢らわしい泥人形を神と見誤りたてまつった、その代償として滅亡の憂き目に遭うのは妥当なところだろう」

 その時になって弥六は初めて気づいた。以前までのような殺気が宮毘羅坊にはない。その取りつくろったような言葉に裏があるようには感じられず、純粋に首領としての務めを完遂させようとしている。それが今の弥六には身震いする程恐ろしかった。元来抜け目のない宮毘羅坊が冷静さを保つ限り、弥六に勝機などないからだ。

「この里も我が一族も、没落はまぬかれ得ない。だからと言って貴様のような化け物を世に放つことは断じて許されん。元よりこの里は貴様を封じるための檻。どの道、貴様はここで死ぬ運命さだめなのだ」

 弥六の焦りも虚しく、その両手は造作もなく振りほどかれた。雲を突き破り急激に落下していく。その速度たるや凄まじく、まともに目も開けられず呼吸もままならない。そんな極限の状況に置かれてはあらゆる思考が消し飛び、個人的な葛藤は急速に過去のものとなっていく。

 数秒の後に確実に訪れる一瞬の激痛が繰り返し脳裏で想像される。弥六が気を失わずにいるには、それだけが頼りだった。

 彼の生命いのちにとって決定的な終焉しゅうえんが刻一刻と迫る。茂った竹林の竹一本一本が彼の身体を串刺しにすべく待ち構えているかのよう。だが、無力な少年は抵抗するすべを思いつくこともないままただ落下に身を任せた。最早観念する外には彼にできることはなく、瞼を閉じ、地上に達するのを待った。


 弥六の小さな身体が地面に激突するその間際、大きな黒い影が矢のように打ち上がって彼を捕らえた。緩やかな放物線を描いて落ちていき、そのまま固い地面の上を転がっていく。そうして大木たいぼくにぶつかって止まるまでの間、弥六は自分が誰かに抱きかかえられていることをほとんど意識しなかった。

「……六……、弥六、無事なのか……」

 少年の頭を包んでいた両腕がほどかれる。彼を掻き抱いていたのは果たして、陀羅尼坊であった。凄まじい速度で転がり落ちながらもかすり傷ひとつなく無事で済んだのは、一重ひとえに彼の献身にった。

 感謝よりも驚きが先に立って、目を丸くする弥六に養父は微笑する。

「何も可笑おかしくはあるまい……お前には、世界を造り変える、力が……」

 言いかけて、大天狗が吐血する。飛び起き助けを呼ぼうと周囲を見回す弥六をなだめて彼は言った。

「私に残された時間は僅か、手短てみじかに話す……ゆえ、心して聞け」

 浅く息を整え彼は言った。

「私を殺せ」

 陀羅尼坊は真実を語った。弥六が探し求めていた真実を。いわく、彼の母親・木花咲耶姫命は妖怪に滅ぼされたことを恨むあまり、弥六を操って復讐を果たそうと動くおそれがあったのだと云う。

 これに気づいた陀羅尼坊は弥六にまじないをかけた。母親の意志に抵抗できる力が身に着くその時まで、力を封印しようと考えてのことだった。

「だが今はその呪われた力に頼るべき時だ。そうせねば、お前が生きてこの里を出ることは適わぬ」

 陀羅尼坊と弥六が墜落した方角から、苛立った声が響いた。

「どこに消えた?いるんだろう弥六。姿を現せ、とどめを刺してやるから」

 周到な宮毘羅坊は、弥六の遺体を確かめない限り諦めないらしい。幸い、二人は木陰に隠れていてひとまず宮毘羅坊が迫る気配はない。

 ──陀羅尼坊が少年の細腕を揺すって話を戻す。

「良いか弥六、お前に掛けたまじないを解くには、術者である私を殺す外ない。それ以外の方法では解けぬのだ。私がそう細工した」

 弥六が落下の衝撃で脇に落としていた仕込みの錫杖に陀羅尼坊が手を伸ばすのを見て弥六は肝を冷やした。

「奴からの授かり物なのだろう。斬れ味は申し分ないはずだ」

 杖のつかを半ばまで抜いて刃を確かめると、呆然とする弥六の胸にその得物を押しつけた。弥六はただただ、浅ましくも彼を裏切ろうとしていた愚に恥じ入るばかりだった。

「里の存続とお前の命、その両方を選べれば本望ほんもうだったが……どちらか一方を捨てる外に道がないのなら、私はお前を選ばねばならない」

 仕込み杖を受け取りながらも、弥六にはそれを育ての親に突き立てる決心はなかった。

「なぜ……あんたが大切にしていたものは何ひとつ残らなくなる、それなのに……」

「お前が特別だからだ。ことわりを立て直し、この世界に秩序をもたらせるのはお前を置いて外にない。いずれ誰もが分かることだ」

 努めて気丈に養父は言った。

「別れを惜しむいとまはない、刀を抜け。くれぐれも力に呑み込まれるな、自分を見失うなよ」

 弥六は言われるがまま立ち上がって刀を振り上げ、陀羅尼坊の首に狙いを定めた。未だ覚悟はまらず、その手は震えて得物を落とさずにいるのが精一杯だった。

「「やめろォオッッ!!」」

 遠くで宮毘羅坊の絶叫が聞こえた。着地の際についた地面のえぐれた痕跡を辿ってこちらの位置に気づいたのだろう。弥六は脇目も振らず、かと言って陀羅尼坊の眼を直視することもできないまま無闇に刀を振り下ろした──瞬間、左眼を覆っていた火傷の痕を灼けるような痛みが貫き、たちまち少年の全身を駆け巡った。

 激しい痛みの中で瞼を開くと、遠くに女性の姿が見えた。燃え盛る視界の中で一層光り輝きながら、こちらへと向かって歩いている。

 あの人に、追いつかれてはいけない──直感でそう思った。彼は自分の身体もまた業火ごうかに包まれ燃えていることを理解していたが、しかし歩くこともままならず、周囲に水辺もない。

 ふと意識を取り戻すと、輝く女性の輪郭に宮毘羅坊の姿が重なった。その脅威はより分かりやすい形で、速やかにこちらへ迫っていた。

 義兄の姿が眼前まで迫ると、弥六は痛みをこらえつつ右手で物をつまむ形を作り、軽く手首を捻った。瞬間、若天狗の身体は大きく横に逸れ、紙風船のように吹き飛んだ。

 多少の時間を稼いで、弥六は抜き身の刀を支えに立ち上がった。

 輝く女性は更に近づいて、その距離六尺ばかり。神通力で排除することはできない。彼女自身の力だからだ。

 彼の中で眠っていた咲耶姫が一歩近づく度、燃え盛る炎は凄まじく、少年の身体を焼き尽くさんばかりに思われた。しかし、彼は憔悴しょうすいしていたもののその呼吸は規則正しく吸っては吐きを繰り返した。やがてその拍子に従うかのように、徐々に彼を包む炎も燃えては弱まり、また燃えてと一定の調子を保ち始めた。そうして目覚め暴れようとする力を再び、今度は自力で抑え込み、遂には完全に掌握した。

 怨嗟えんさの炎をその身に鎮めると、岩に打ちつけられ未だ立ち上がれずにいる宮毘羅坊の許へと歩き始めた。

「誰に操られてる……父上を殺す覚悟が、お前如きにある訳がない。誰だ?暁鴉か、咲耶姫か」

義父上ちちうえは俺を信じてくれた。それにこたえただけのこと」

「くッ……!」

 その超然的な態度に向かっ腹を立て、上半身だけは飛びかかろうとした宮毘羅坊だったが、足腰はへたり込んで全く動かないようだった。

 宮毘羅坊の目の前で弥六が立ち止まると、彼は掴みかかろうと伸ばした両腕を力なく垂らして敗北を認めた。

義兄上あにうえこそ、誰に入れ知恵された。義父上ちちうえを斬りつけるなんて、らしくもない」

 宮毘羅坊は既に虫の息であったが、弥六の問いかけに答えようとしないのは彼自身のかたくな意思だった。その様子が、何か魂胆が別にあるように見えて、弥六は未だ警戒を解けずにいた。

「俺の首を落とせよ。父上にしたのと同じように」

「あんたはじきに死ぬ、手を下すまでもない。答えろ、義父上ちちうえ深傷ふかでを負わせてまで俺を止めようとした理由は?」

 宮毘羅坊がこと切れる前に何かを聞き出そうと、弥六は内心焦っていた。だがそれを見越したように彼の両眼は弥六を見据えゆがんだ笑みを浮かべた。

「いい気になるなよ、泥人形……。お前は未だ、奴のてのひらの上……」

 そう囁くと、彼の口の中で何かを噛み砕くガリッという音が響いた。聞き逃さなかった弥六が、頑として閉じられた宮毘羅坊の口をこじ開け奥歯の辺りを探った。指に何かが触れて取り出すと、それは黒く、丸薬がんやく欠片かけらのように見えた。

「何なんだこれは……毒か」

 里に伝わる仙薬のいくつかは弥六も見知っていたものの、どれとも異なる。

 茂みからガサッという音と共に、生きながらえた一〇名余りの天狗たちが現れた。距離を取りつつ弥六と宮毘羅坊を囲み込む。油断なく構えた錫杖の先端には激しい雷撃がほとばしり、到底見逃してくれそうにはない。

「穢らわしい忌み子め、宮毘羅坊殿から離れよ」

「この災厄は貴様がもたらしたもの。陀羅尼坊殿並びに宮毘羅坊殿弑殺しいさつかど、尋常に成敗してくれる」

 皆好き勝手に罵りつつ、徐々にその輪を狭めていく。頭に血が上った彼らが弥六の言葉に耳を貸すはずもなかった。彼は自らが感じていた不吉な予感に従い、天狗たちに背いて宮毘羅坊の亡き骸を固く抱きかかえたままでいた。

「この期に及んで投降せぬとは往生際の悪い、観念なされよ」

 その場を動かずにいる弥六から、首領の倅を引き剥がそうと数人がかりで躍起になる。

「待て、何かがおかしいんだ。離れろ!」

 叫ぶ弥六が見上げた先で、動かなくなったはずの宮毘羅坊の片腕が天狗の頭を掴んで持ち上げていた。泡を吹く天狗の首がボキリと折れて投げ捨てられる。

 咄嗟とっさに両手を離し、義兄から距離を取る弥六をよそに、天狗たちは尚混迷する状況を掴めないまま曖昧に錫杖を向けた。その先は弥六であったり宮毘羅坊であったりと、彼らの困惑ぶりを如実に表していた。

「見て分からないのか、義兄上は既に身罷みまかった!あれは傀儡くぐつ、ただの傀儡だ!」

 弥六の叫びに呼応するようにピクリ、と倒れ込んだ宮毘羅坊の頭が彼に向いた。そうして通常では有り得ない起き上がり方をすると、弥六の許へ一足飛びに迫り両手を広げた。鉤状に化成した十の爪は明確に喉を狙って戦慄わなないた。

 宮毘羅坊の両腕をすんでのところでくぐり抜け、崩れた体勢を整えるとすぐさま敵の横腹に蹴りを見舞いつつ突き放して距離を取る。だがその動きを見透かすように、先回りした宮毘羅坊が蜘蛛のような敏捷さで彼を捕らえた。

 黒ずんだ汚い鉤爪が薄く白い肌を貫く。赤い鮮血が蜜のように滴り、同時に傷口から痺れるような痛みが混じり込む。

 体格で劣る弥六の技ではびくともせず、かと言って不用意に神通力を使うのは生存者を巻き込むおそれがある以上避けねばならない。死人同然にすっかり青ざめた宮毘羅坊の両腕を振り解こうともがいても意味はなく、ただ毒の巡りを早めるだけだった。

「義兄上、もうやめてくれ!…義兄、上……」

 麻痺毒に脳を冒され薄れゆく意識の中で、一度は退けた燃え盛る女性の姿が瞼の裏に浮かぶ。

仰向けに転がされ、薄く開いた瞼から射し込む太陽の白い輪郭が天から舞い降りた女性と重なり、やがて視界が光で満たされていく。

 そっと優しく弥六の頬に口づけすると、その女性──木花咲耶姫命は弥六と一体になった。

 静かに瞼を開くと、弥六は宮毘羅坊の両腕をがっしりと掴んだ。そうしてみなぎる力に任せて凄まじい勢いで身体を回転させ、その強引な体術で自らの身を起こした。義兄の身体はじり上げられ、暴れて弥六の手を離れようとする。

 宮毘羅坊が長い鉤爪で反撃を企てる、刹那弥六はバッと手を離し身を翻して五尺余り退いた。

 途端に宙に置き去りにされた宮毘羅坊の肉体は、両腕両脚を大の字にひろげたまま静止した。弥六は両手を宮毘羅坊に向け、その全神経を彼に注いだ。

 微動だにしない弥六の頬に大粒の汗が滴る。彼と一体化した咲耶姫が発動させた神通力は今、宮毘羅坊を包み込み、生殺与奪の権の一切を握っている状態だった。そして弥六の中では彼と咲耶姫の二人が力を取り合っていた。

 想像を絶する繊細さで、宮毘羅坊の身体を傷つけないぎりぎりの力で神通力を操る一方、支配の度を増した咲耶姫がひと思いに殺してしまえとの囁きを繰り返す。ほんの僅かでも集中が途切れれば彼女に負けてしまう。そのことを、弥六はよく理解していた。

「ようやっと、力を受け容れる気になったか」

 背後に滞留した黒い靄の中から暁鴉が呟く。彼以外の物音が聞こえたと思ったその刹那、天狗の悲鳴と共にばさりと倒れる音がした。生き残っていた天狗が暁鴉に立ち向かったのだろう。恐怖を堪えて決死の覚悟であったはずだ。同じ断末魔がいくつも続いていくのを、弥六は耳を塞ぐこともできないままただ聞いていた。

「見る程に惚れ惚れする力よのう。どれ、姿を顕せ。儂によく見せてみよ」

 生存者をまとめて片付けると、暁鴉は空中に印を刻んだ。すると、見る見るうちに目の前に巨大な女性の両手が顕わになった。

「何のつもりだ、これは……」

 神経を途切れさせないように注意を払いつつ、宮毘羅坊を見つめたまま目の端でそれをなぞる。

その骨張ってほっそりとした両手は、空中に浮かんだ宮毘羅坊の身体を虫のようにつまみ上げ、今にも彼をちぎろうとしている。

「これが御身の、神通力の正体よ。驚く程のことはなかろう。御身の力は所詮借り物、母親抜きでは何も為せぬのだ」

 暁鴉が挑発する理由ははっきりしていた。弥六と咲耶姫命による力の均衡を崩し、弥六の意識を飼い殺し同然に貶めるつもりだ。そのくらいは弥六にも察しがついていた。だがそうと分かって気を鎮めるには、彼はあまりにも動揺し過ぎていた。

自惚うぬぼれの過ぎる者ほど挫く労は少ない。そうは言っても陀羅尼坊め、こうも易々と殺されてくれるとはな。御身もさぞ楽であったろう」

 弥六は答えない。ただ無心に、狡猾こうかつな老翁の言葉に耳を貸すまいとして指先に意識を向けていた。

「里の天狗は三〇〇匹余り。皆、天狗に相応ふさわしい犬死にっぷりであった。この儂に一矢報いようとした者らには、呆れを通り越して甘心かんしんすら覚えたが。とは言え一匹漏らさず潰したとは考えにくい。逃げた者がいたはずだ──のう弥六よ、早うその身体を姫神に明け渡してはくれんか。御身の母親の力は虫を潰すに都合が良いのじゃ」

 その言葉が耳に入った途端、宮毘羅坊を優しく包むように展げていた両手がわなわな震え、徐々に義兄をつまむ形に変化していくのを、弥六はどうすることもできなかった。暁鴉のくぐもった笑い声が耳障りに響く。背後にいる彼の姿は見えないが、そのしたり顔は目に浮かぶようだった。

 宮毘羅坊の身体がミシリ、と音を立てる。

「「やめろォォオオオオ!!」」

 弥六の叫びと共に、宮毘羅坊の身体が左右にちぎれた。両手を突いて倒れ込む弥六の身体に、義兄の血溜まりが達する。

「ようやった!弥六よ」

 手を叩いて喜びながら、仙人は弥六の身体をやたらに揺すった。

「御身はよう頑張った!弱さゆえに憎むべき相手を憎めず!高潔を気取り気休めの慈悲を与えようともがき!その弱さがあだとなった!何ひとつ!御身は何ひとつ救うことはできんかった!己さえもじゃ!愚かで美しい、目にたのしいひと時であったぞ!イッヒッヒッヒヒヒヒ」

「……お前なんだろ、義兄上あにうえに入れ知恵したのは」

 義兄の血に染まった両手を静かに見つめたまま、弥六が低くうなる。

「種明かしが必要か?興醒めじゃが、良かろう、稀代の道化を演じた御身に免じて教えて進ぜよう」

 小躍りしていた暁鴉が弥六に向き直る。

「宮毘羅と陀羅尼坊の仲違なかたがいは儂の見立てから大きく外れた動きじゃった。宮毘羅を里から離せば反抗の芽を育てることになる。それ故、舞い戻るよう仕向けたのだ。頭に血が上りやすい奴のことじゃ、望む物を与えさえすれば、丸め込むのに苦労はなかった。奴が欲していたのは、御身を討ち倒す正当な理由、それだけじゃった。誰の言葉であるかなぞ、頓着する素振りも見せなかったわい」

 目を閉じて深く息を吸い込む。あれだけ強く、すぐ近くに感じていた咲耶姫の存在を今は感じない。麻痺は薄れ、今なら身体を自分の意志で動かせる。それを確かめた。

「どうせ、お前には分からない……全てを見下し、踏みにじるお前には」

 落ちていた錫杖を掴み取り、背後に立っていた暁鴉の眼前へと瞬時に迫る。

「父上を…、侮辱するなァッ!!」

振り向き様に抜刀しつつそのニヤついた口に思いきり刀を突き立てた。

 弥六にとって恐ろしく長い沈黙が、その場を支配した。腕には斬った手応えが全くない。

 彼の振るった白刃はくじんは右の口角に達し、そのっ先は後頭部を貫いていた。それでも老翁の笑みが崩れることはなかった。

「掛かったな」

 暁鴉は左掌ひだりてのひらに載せた粉をふっと弥六の顔に吹きかける。その途端に喉を激しい炎症が襲い、まともに呼吸できなくなる。弥六が握った刀を通して、黒い靄にけた暁鴉が彼の身体へと流れ込む。刀のつかから手を放そうとしても張りついて離れない。

「陀羅尼坊の術式を真似てみた。奴が御身に掛けたまじないと同じものじゃ。儂が与えた刀で儂を斬るか、これは賭けじゃったが、杞憂であったのう」

 黒い靄がすっかり弥六の身体に取り込まれて消えると、刀はするりと彼の手を離れ、独りでに宙を漂った。そうして靄の背後に控えていた別の暁鴉の手に収まった。老翁は呵呵かっかと笑いつつ語る。

「笑止千万!裏切られて尚、他人を疑うということをしない。親に似て憐れだ」

「クッ、どこまでも、ふざけた奴……」

 術式の発動によって黒く染まった刀身を満足げに眺め終えると、弥六が握っていた錫杖を念力で取り戻して刀を鞘に納めた。

「力までは奪わぬ。愚かな駒にも使いみちはある故」

 倒れ伏した弥六に背を向けつつ、暁鴉は言った。

「御身には、これより先は儂の手足だけでなく目と耳も務めてもらう。ほんの片時に浮世は様変わりしたぞ。政府に潜り込み、そのようを探れ」

「誰が、貴様の手下になんか……!」

 必死に抵抗の意志を示そうとしたものの、自由に動くのは口だけであることに気づいて彼は最早発狂寸前だった。

「御身の苦しみを取り除いてやろう。少し眠れ」

 暁鴉が自身の人差し指を口に当てると、弥六の口は閉じられ声も出せなくなり、その次には瞼も閉じられた。

「陀羅尼坊、宮毘羅、母親……儂のこともだ。起きた時には、今日の出来事は全て忘れておる。周りの者は御身を天狗殺しと呼んで畏怖する。御身は妖怪共を根絶やしにすることのみに心を砕きおればそれで良い」

 誰にも届かない悲鳴を叫びながら、弥六の意識はゆっくりと遠のいていく。闇の淵を沈んでいく中で、最早誰とも知れない老人の声だけが、深い無意識に響いていた。

「御身はこれより、犬童と名を改めよ。いずれ自らの力で辿り着き、儂の元へ戻って来い。今日の真相を教えてやろう。儂を殺しに来るのを楽しみにしておるぞ……」



  零和一四年七月二九日午後六時

          静岡鎮守府内 某施設内部


 無機質な部屋の中で、老人の笑い声だけがむこともなく響いていた。

すべて世は事もなし。若造よ、この世は巫山戯ふざけ徒夢あだゆめなのだ。たぶらかし、もてあそぶ者だけが、真実を造り変えることを許される。神であろうと、その法則に従う外ないのじゃ」

 窓の向こうで聞いていた渡辺青年は、机に伏してただ怒りに身を震わせていた。老人の高笑いを黙らせるすべを、彼は何ひとつ持っていなかった。

 できれば嘘と思いたかった。だが、普段の犬童の言動に感じていた違和感を、暁鴉の話を組み合わせればあまりにも自然に辻褄が合ってしまうのだ。老人の話を嘘と断じるということは、それさえも無視することになる。

 犬童は口癖のように妖怪が憎いと言っていた。中でも特に天狗が気に入らないと。敵を知ることは兵法の基本だが、しかしそうは言っても彼の知識は書物で補える領域を超えて実践的なものが多く、それどころか彼独自の戦闘体系の根幹を成してすらいる。敵の体術まで己の武術に取り入れる道理がどこにあるのか?それがずっと不思議だった。だが、幼少期に天狗の里で育っていたとすれば身に染みついた所作だったのだと合点がいく。

〈だとしても、全てが真実だとは……〉

「まだそんなことを抜かすか。良かろう、全てを信ずる必要は無い。御身が知るべきことはひとつのみじゃ。犬童は儂の手に落ちておる、とうの昔にな。この部屋にお前一人残して立ち去ったのも、儂がそう命じたからじゃ」

〈それで、本人は気づいてすらいないってのかよ……話ができ過ぎてる〉

「儂は御身に嘘などかぬ、御身にだけはな。疑わしいのなら今のこの会話が録音されているか、確かめてみよ。録音などされてはおらぬ。何者かが切断したからだ。では誰が?犬童よ、監視カメラも切れている故、証拠は一切ないがな。じゃが、奴を置いてそんなことをする者は他におらぬ。そうであろう?

「奴は暁鴉の手下なのだ、この国の怪異討伐の戦端を担う柱は腐っておるのだ。奴は危険分子だ。それを知る者はこの儂と、御身だけじゃ」

 渡辺はいても立ってもいられなくなった。彼にとって犬童は怪異の討伐に全身全霊を懸けていた人物だった。そんな彼をこの短時間で信用できなくなるとは思ってもみなかった。

「速やかに動けよ、くれぐれも慎重にな。決して気取られるでないぞ」

 席を立ち、スマートフォンで電話帳をスクロールする渡辺に仙人は野次を飛ばしたが、その声は既に彼の耳には届いていない。焦って去っていくのを満足そうに眺めながら、暁鴉はひとちた。

「この世は巫山戯た徒夢……そう、あの出来損ないは母親が死んだ後に生まれた、死んだ後に。妖怪共に神を殺す力を与えたのも儂じゃ。奴らになぶり殺しにされ原形を失った姫神は、どうすることもできぬまま怨嗟の声を撒き散らし這い回っておった……。そんな成れの果てを眺めて、儂は閃き実行に移した。姫神の肉で造った泥人形、それが犬童だ。奴もまた弟子を作り、こうして儂に献上して奉った。此度こたびこそは、完全な成就を……」

 時は零和一四年、木花咲耶姫命の崩御から三二五年目の夏が訪れる。大地母神の加護を失って、今年も地上に芽吹きはなく実りもない。緩やかに死にゆく世界で人知れず、終焉までのカウントダウンが静かに始まっていた──

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