夫が初出勤したら、会社がなかった日

九月ソナタ

 一話完結


 その昔、私がアメリカ中西部の留学先から帰国、日本の職場に戻って一年たった頃、ミシガンの大学で勉強を続けていたJ《ジェイ》から就職が決まったという電話が来た。

 当時の国際電話代は高いので、すごい早口。

「きみが行きたいと言っていたカリフォルニアに仕事をゲットしたから、来てほしい」という。

 北海道は寒くて、電話が来るたびに「さむいさむい」と愚痴ったし、「カリフォルニア、いいね」なんて言ったりはしたけど、まさか、そんなことを聞いて仕事先を決める人、いないよね。

 ただ言っているだけとは思ったのですが、私のために仕事を決めてくれたというのですから、応えないとね。

 長続きはしないかもしれないけど、人生は冒険。どこまでできるかやってみよう、と自分の仕事を辞めて、ウェデングドレスを肩にかついで、再び米国へ。



 彼の就職先はロスアンゼルスから車で二時間くいらのところにある町の石油会社で、そこの開発部。

 会社が引っ越し代はもちろん、飛行機ふたり分も出してくれるそう。彼が飛行機でなくて、レンタカーで行っていいですかと訊いてみたら、オッケ―。ホテル、食事も会社もち。七月一日に出社してくれればよいと。

 こんなうまい話ってあるかな? 

 おかしくない?

「この会社、信用していいの?」

「大企業だよ。インタビュー、六回あったんだから」


 でも、私は不安。 

 というわけで、まあ、とにかく、棚ぼた二週間のハネムーンの始まり。

 でも、こんなうまい話、あるわけがない、と私の本能がびんびんと告げる。

 私のカン、当たるんだよね。

 だから、食事もホテルも、自分で払わなきゃならない時のことを考えて、主にファーストフッドか自炊、安ホテル。

 

 というか、一日目に高いレストランでステーキを食べたら、一回で飽きてしまった。シカゴでお米とキムチを買って、夏でも雪をたたえるグランドティトン山を眺めながら、キャンプみたいにして炊いて食べたのが、一番おいしかった。


 ワイオミングのドライブは最高だった。

 いくら心配を抱えていたって、ここで行くのをやめたって帰る場所がないんだから、うん、行くしかないのよと居直った。


 Jは目がいいので、夜の運転のほうが、車が少ないから好きだと言っていた。あの頃はパトカーもいなくて、夜のフリーウェイ、好き放題に飛ばした。若かったなぁ。

 ある夜は雷。ワイオミングの空は大きくて、見渡す限りが空。その真ん中を稲妻があみだくじみたいに、連発で落ちる。これ、映画の世界。アメリカは広いなーと実感した。

 

 夜にフリーウェイを走る時、窓をあけて風をいれながら、Jが歌う。音楽をかけたいけど、ラジオからはカントリーウェスタンしか流れてこないから、歌うしかない。   Jは、クラシックが好き。 私も歌いたいけど、オペラとか、知らない。

 ようやくクラシックチャンネルがはいり、ラジオからベートーベンの「喜びの歌」とか、いろいろ流れてきた。

 

 お、その曲、わたし、知ってる。

 ホンダのコマーシャルなのかな。一緒に「ホンダバイク、ホンダバイク」と歌ったら、「それ、ヴンダバーだとよ」とJが言った。「すばらしい」という意味だって、さ。

 

 ラスベガスで一日遊んでしまったから出勤日に一日遅れた。

 私は遊びたくはなかったのに、Jがせっかくのラスベガスだと興奮していた。

 そういうの、だめだって口をすっぱくして言うのに、Jときたら、平気だ。

 日本なら、ありえないよ。


 次の夜、会社のあるベーカーズフイルドという町に着いて、手紙にあった住所のところに行ったら、ピザハットの店があった。

「仕事先はビザ屋だったの?」

「いや。ここのはずなんだけど、会社がない」

 ほら。

 私のカン、当たるのよね。


 翌朝、Jが早く出かけたら、あっという間に帰ってきた。

「本社は見つかったけど、ドアが閉まっている。誰もいない」

 一難去って、また一難というやつだ。

 仕事を始める前に、もう倒産なの?


 この町にはカマキリのお化けみたいな採油機がいたるところにあり、地面を枯れたタンブルウィードが丸まってころがっている。風が吹いて、砂ぼこりが舞ったら決闘が始まるような、まるで西部劇の舞台。

 

 仕事がなかったら、どうしよう。私はまだ英語がうまくなかったけれど、昼間、チャイニーズレストランを見つけたから、あそこでなら雇ってもらえるかもしれない。まっ、なんとかなるっしょ、と考えるしかない。

 

 その翌日に出かけていったら、代用休日中だったということで、会社は倒産してはいなかった。ただ今、新しい建物を建築中で、彼の所属する開発部はピサハットの建物を使用しているのだそう。

 私はここまでカンと運で生きてきたと内心自負していたけれど、ことごとく外れて、よかった。その晩、初めて熟睡した。


 Jがホテルや食べ物の領収書をおそるおそるもっていくと、ボスが驚いた。

「たったこれだけなのか」

 会社にはビジネスアカウントというものがあり、一日いくらと定額が出るから、いちいち領収書はいらない。私がマクドナルド何ドルとか、細かいレシートを集めていたので、笑われたそうだ。


 それから、いろんな国に赴任して、いろんなことがあった。初出勤日のことも、外国であったことも、後になれば笑い話になる。

生きていればね。


 ある時、知人のお葬式の帰り、Jが言った。

「自分の時には好きな音楽をかけてほしい。ちゃんと書いておくから」

「了解。わたしはあの海に撒いてほしい」

 と私が指さした。

 あそこだね、よし。

 あの時の海は夕日が映えて、金色のビールみたいに輝いていた。

 海の向うは日本だから、広い太平洋を漂って、日本とアメリカを行き来するわ。疲れたら、途中で、ハワイにも寄ろうかな。

 

 でも、彼は曲名のリストを残さないで突然逝ってしまったから、私を海に撒いてくれる人がいない。





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