バニーガールと医大生

愛工田 伊名電

はじめ

 この状況を言葉に表そうとすると、どんな言葉がいいんだろうか。今パッと思いついたのは、『バニーガールが落ちている』である。もうちょっと詳しく言うなら、

『ビショ濡れのバニーガールが自宅のマンションのエントランスで丸まっている』である。

 俺は、今どうすべきなのだ。


 そのバニーガールというのが、なかなかべっぴんさんである。が、実に可哀想な格好をしている。

 9月の冷たい雨と世間に晒され、柔らかそうな頬と鼻先と耳先は冷たさに赤くなってしまっている。涙袋はメイクなのか泣き腫らしたのかは知らないが、ピンク色のナメクジが横たわっているようである。唇はへの字を描いており、両足はどちらともくの字を表していた。とにかく、このバニーガールは『可哀想』をこれでもかと体現していた。


 一旦、生きているか確認しなくては。エントランスに座り込み、殺人事件の第一発見者にならないよう祈りながら、彼女自身を抱いていた白い左手首を握った。冷え冷えとしていたものの、彼女手先に血が送られている感覚が自分の親指に伝わってきた。うん、大丈夫っぽいな。

 次に、意識の確認である。肩を軽く叩いて、『大丈夫ですか~』とか、『自分のお名前分かりますか〜』とか呼びかけた。なにか特別な経緯による疲労から来る低い声で、

「むう」

と返ってくるのみだったので、一晩だけでも自宅で保護することにした。左手に握ったままだった折りたたみ傘の水気を切ってリュックサックにしまうと、「スイマセンが、一旦あなたのこと僕の家に運びますね。襲うつもりなんてないので、安心しちゃってください。」

と自分なりの紳士さとにこやかさを持って丁寧に断ると、

「あいがと、ございます…」

と力なく返ってきた。よし。こうなったらやらなくては。人生初の、お姫様抱っこ。

 決心をした俺は彼女の膝と肩甲骨周りの下に手を滑らせ、上に持上げた。思っていたより軽く、

「おうっ」

と驚いてしまった。慣れないお姫様抱っこをしながら階段をのぼり、2階の自宅前へと運んだ。


 「大丈夫ですか、立てますか?」

意識の確認をした後、お姫様抱っこをしてくれたお兄さんが、アタシにそう言った。

「ん、立てる…かも…」

あんなに走ったのに、今のところ足はそんなに痛くないからだ。

「じゃ、お願いします」

お兄さんがそう言うと、両足が傾いて、地面に着いた。着けてくれた。そのままの勢いで、ゆっくり立った。頭の奥がゾワっとしたけど、すぐに治まった。

 お兄さんがお兄さんの家のドアを開けて、「お姉さん、ここが僕の家です。お先にどうぞ。」

と言って、玄関に通してくれた。濃い茶色の靴箱と、上に乗ってる太陽の塔のミニフィギュアが最初に目に入った。その奥は暗い廊下があって、突き当たりに黒いローテーブルとか緑色のソファーとか大きいビーズクッションとかがあったので、多分あそこがリビングだな、と予測できた。

「まず、左の脱衣所に行ってくれますか。僕はタオルを取ってきますんで。体がビショ濡れのまんまじゃ寒いでしょ?」

後ろから聞こえたお兄さんの声に

「はあ~い」

と意味無く子供っぽく返して、脱衣所を探した。

 脱衣所は、玄関の方から見て左の1番目の部屋にあった。


 「体、自分で拭けますか?」

と聞かれた。アタシの中の野生の好奇心が「これ、お兄さんに拭いてもらえるのかな?」と囁いてきた。うん。聞いてみよう。

「良かったら…拭いてもらっても、いいですか?」

一応、拒否はできる質問のつもりだ。お兄さん、なんて言うかな。

ちょっと間があった後、

「…ふふ、しょ〜うがないですねぇ」

 そう言って、お兄さんはアタシのことを自分の娘みたいな目で見ながら、バニー衣装の上からアタシをガサツに拭き始めた。

 …ふつう、衣装脱がせてエッチな展開になるもんじゃないの?『そういうこと』目的で拾ったんじゃないの?

 分からない人だなぁ。

 

 お兄さんがアタシの体を拭くのに満足したのか、

「ようし」

と言って、青いタオルをドラム式洗濯機に放り込み、後ろにあるお風呂場に向かった。お風呂を沸かしてくれるみたい。バスタブの蓋のじゃらじゃらした音と操作盤の軽い音が聞こえてきた。

「お風呂、沸いたら自分で入っちゃってくださいね〜」

見ず知らずのアタシにここまでやるだなんて。お礼しなくちゃ。

「ありがとうございます、お風呂の用意まで」

「そりゃあ、あんなに弱ってる人見たら…ね」

お兄さんはこちらに振り向き、アタシに笑いかけてきた。分からない人だけど、いい人なのかもなぁ。


 お姉さんがお風呂に入った後、彼女の着替えを用意しようとしたが、合うものが見つからなかった。全部ブカブカになっちまうぞ。

 数分悩んで、白地のYシャツと黒地のインナーシャツ、ゆるいトランクス、ネイビーのハーフパンツを選んだ。これ以外に彼女が受け入れてくれるものが思いつかなかったためである。それらの衣服を風呂場の前にそっと置いて、晩御飯を用意を進めた。


 雨にまみれたバニー衣装とうさ耳を珪藻土マットの上に畳んで、お兄さんが沸かしたあったかいお風呂に入った。

 冷え冷えした体に熱が染み込んで、体の表面にじわじわした感じがあった。思わず、

「はあ〜っ」

と口から安心が出てきた。人生の中でこんなにあったかいお風呂があっただろうか。

 ぽやぽやした頭で『お兄さんにどうお礼をするのか』ということを考えた。お金でお礼するのは、倫理的に違う気がするな。何かしらの奉仕をしたらお礼になるのかな。だったら、何の奉仕をしようか。

 やっぱり、体で?

 お兄さんも、口ではああ言ってるけどやっぱり本心は『そういうこと』を期待してのこの行動なんじゃないかな。

 アタシは幾千回は他人に体を売ってきたし、これからもきっとそう。この1回も、幾千回の内の一つなんだ。

 天井の照明が湯けむりで揺れていた。手を下腹部からバスタブの端に置いて立ち上がった。ざばあっと音が鳴って、雫が前髪から落ちた。


 女性がいる食卓に出せる冷食がボロネーゼくらいしか無かったので、レンジで2つのボロネーゼを2つの平皿に乗せて温めた。ボロネーゼだけでは彼女の腹は満たされない気がしたので、冷蔵庫にある豚汁をコンロの火にかけて温めた。それに加えて、明日の朝食に取っておいたナイススティックも食べさせることにした。

 これだけ出せば彼女も満足してくれるだろう。自分の口角が上がった感覚が頬に伝ってきた。


 豚汁をよそっていると、脱衣所のドアが閉まる音の後にこちらに歩いてくる足音が聞こえた。8分くらいでお風呂上がっちゃうんだなあ、と思って、また豚汁に目をやった。

 お姉さんがこちらに来る雰囲気がして左を見ると、ビックリして大声を出してしまった。

 真っ裸じゃないか!

「は!? えぇ!?」

そんなに俺のチョイスが気に入らなかったのか

?男子大学生の家に上下揃った女性下着があると思ったのか?


 彼女はにやついた顔を見せつけながら、情欲を誘うようなマネをしてきた。

「おに〜さん、こ〜いうもくてきでひろってくれたんじゃないのぉ?」

彼女は手を後ろに組んで胸を突き出し、またしてもニヤついた顔を見せてきた。豊かな乳がぷるんと揺れたものの、彼女の口調のあまりの『バカさ』に呆気にとられ、ペニスは少しも反応しなかった。なんであんたなんかとワンナイトしなくちゃならないんだ。ふざけるな。

 とにかく、『俺にはあなたとエッチなことをしたい欲求などないのだ』ということを示さなくてはならないな。

「いいえ、全く。」

かなり強い口調で言ってやった。

「ん〜、嘘ついちゃってさ〜…うり!」

その豊かな乳を俺の脇腹に押し付けニヤニヤしながら上目遣いをしてハグしてきやがった。だめだなぁ、まったく聞いてないぞ。

「エッチしたいからひろってくれたんじゃないの〜?」

「ぜ〜んぜん!全くもってあなたとなんかエッチしたくありませんよ。僕はあなたが困ってそうだから、助けたんです。」

もっと強い表情ともっと強い口調で言ってやったぞ。さあ、折れてくれ。

「え…嘘ぉ」

彼女の眉がハの字になり、口が歪んだ。もう一押しかな。

「ですから、早く服を着てきてください。本当に不愉快です。」

『不愉快』の所は音量を大きくした。頼むから、折れてくれ。あなたと肉体関係を持ちたいわけじゃないんだから。


 『不愉快』。その言葉を言われた瞬間、頭にガンっと強い衝撃が訪れた。そんな!あなたぐらいの歳の人はいちばんエッチしたい時期でしょう!?そんな〜!!

 こんなことになったら、謝らなきゃダメだよね。仕方なく腕をお兄さんの胴から離した。

「…ごめん、なさい」

意識せずに頭が下を向いた。アタシはお兄さんに不愉快な思いをさせてしまったのか。申し訳ないなぁ。いいお礼になると思ったのに…

「わかったらよろしいんです。さあ、服を着てきてください。」

「はあい。」


 沈んだ気持ちで脱衣所に向かって、用意してもらっていた服を着た。下着はいい具合だったけど、シャツとハーフパンツがワンサイズ大きくてブカブカしていた。『彼シャツ』はこういう良さがあるんだな、と実感した。なんだかお兄さんの恋人になった気がして、沈んだ気持ちがちょっと浮かんだ。

 脱衣所から出ると、お兄さんはキッチンからリビングのローテーブルの前にあるソファーに移動していて、中くらいのテレビで『アメトーーク』を見ていた。徳井さんがピンクの法被を着てハチマキを巻いて電子レンジを紹介していた。お兄さんがアタシの方を振り向き、

「スイマセン、僕のやつ着てもらっちゃって」

と微笑んだ。アタシはなんだか気まずくなって

「いやいや、アタシもお兄さんにあんな迷惑かけちゃったし…」

と、またしても気まずくなる言葉を放ってしまった。

 ちょっとの間があった後、思い出したようにお兄さんが

「ああ、晩御飯…」

とローテーブルの上に目を移した。なんだろうと思ってアタシもローテーブルの上を見ると、ボロネーゼの皿と豚汁のお椀とナイススティック2本が三角形に並んでいて、フォークとナイフが2組ずつ置いてある。その三角形とフォークたちは、ローテーブルの上に隣合って2つあった。

「晩御飯って…アタシに?」

晩御飯まで用意してくれるの?こんなアタシに?めっちゃいい人〜!でも、申し訳ないなぁ。いいの?本当に?

「あ、もう食べちゃいました?」

「いや、まだ」

「じゃ、一緒に食べましょうか」

お兄さんはそう言うと、ソファーから絨毯に降りて左の三角形の前にあぐらを組んだ。お兄さんは右の三角形が置いてあるローテーブルの下をとんとんと優しく叩き、

「ほら、遠慮せずに!お腹すいてるでしょ?」

ほんとに優しい人だなぁ。胸の右らへんがゾワっとして、またあったかい気持ちになった。

「…失礼します」

アタシはお兄さんが示してくれたスペースに正座した。


 俺とお姉さんは隣合って座り、『アメトーーク』の家電芸人スペシャルを見ていた。欲しい家電が同じだったし、笑い声が意外に派手で嬉しかった。

 いつもの芸人さん方が様々な家電を紹介し、ゲストの飯塚さんが笑える一言を最後に言い放ち、CMが始まった。そして、俺は全ての晩御飯を食べ終えた。よし、今しかない。

「そういや、お姉さん」

「はいっ」

あまり進んでいない豚汁をすすっている時に話しかけられて驚いたのか、体がちょっと跳ねていた。ローテーブルには、豚汁の他にナイススティックが2本残っていた。お腹すいてないのかな。

「お名前を聞いてませんでしたね。伺っても?」

名前を聞いてから話すのが俺の生涯通しての礼儀である。口に含んだ豚汁を飲み込んで、

「あ、えっと、井桁いげたっていいます。井桁弘海いげたひろみ。」

と教えてくれた。井桁ヒロミさん。いい名前じゃないの。

「僕は笠松将太郎かさまつしょうたろうです。将太郎のショウは、『将軍』のショウ。」

「へぇ〜、いいですね、『将軍』のショウ。」なんだよ『良い』って。

「かわいいと思いますよ、『ヒロミさん』も。」

「いひひ…」

目を細め、左眉毛を左薬指で掻いていた。なんだか照れた様子である。

 名前を聞けたので、本題に入った方がいいな。

「それで、どうされたんです?なぜエントランスで、あんな…?」

言いかけたところで、ヒロミさんがしゅんとした顔になった。デリケートな問題だったかな。でも、聞いたからには引き返せないぞ。

 ちょっとの間があって、ヒロミさんは口を開いた。

「格好で分かってたと思うんですけど、アタシ、水商売やってるんです。」

あれ、コスプレじゃなかったんだ。納得の意を込めてふむ、とだけ返した。

「それで、今日もいっぱいおじさんの相手して…エッチなことも沢山…」

大きなため息が吐き出された。相当嫌なことがあったらしい。

「そりゃ、辛いですねぇ。」

共感など出来やしないが、彼女の苦しさの形容はできる。

「ええ、はい。それで今日もおじさんの…アソコを口に入れて…」

口が歪んだ。表情がだんだんと暗くなってきた。眉間に暗雲が立ちこめている。

「なんか、アタシずっとこんな生活なのかな、って不意に頭によぎって。学もないし。」

だよな。『学歴がない』って不安だろうな。

「それで…なんて言うか…その。」

「無理に話さなくてもいいんですよ。」

「んやぁ、言葉に迷ってて。『気がおかしくなっちゃって』って言えばいいのかな。」

ん?怖い雰囲気になってきたぞ。

「おじさんのアソコ…ガブ〜って噛んだんです。」

ひえ〜っ。なんて女性なの!

「おあーぁっ」

思わず口から驚きが飛び出した。申し訳ない。

「ひひ…あんまり男の人に話すことじゃないか。」

ほんとだよ。意中の男性に話しちゃダメだよ、その話。

「それで、風俗店から逃げちゃったんですか?」

「そ〜なんです〜ぅ」

そう吐き捨てて、ヒロミさんはソファーに背中と頭を預けた。顔はまるでザブングル加藤さんの『悔しいです』を緩くした感じになっている。

「他に、稼ぎ口とかは?」

「カフェくらいしかないの〜ぉ、ほとんど生きてけないの〜ぉ」

急に敬語のフィルターが取っ払われ、肩の力がすっかり抜けている。ちょっと危ないかもな、この人。


 話を聞いていくうち、ヒロミさんは『客のアソコを噛んで風俗店から逃げ出してしまったがために、この一日で食い扶持をほとんど無くしてしまった』ようだ。

 そして、俺の心理学の知識全てから見るに、彼女はうつ1歩手前の状態に陥っているらしい。

 まず『あれだけ弱っていたのに、あまり食べていない』ということ。そして『嫌だったことを聞くと一気に情緒が乱れた』ということ。正常な人間とは思えない。やはり、彼女はうつ1歩手前の状態に陥っているらしい。

「んんんん〜。」

顔をしかめるヒロミさんのうめき声が食卓に響いていた。


 あ〜。やだやだやだやだやだやだ。もう。あーあ。思い出しちゃった。小汚いおじさんのチンポの微妙な塩っぽさ。醜い血の味。聞き苦しい怒号。雨と視線の責められるような冷たさ。もう〜。やだやだやだやだやだやだ。将太郎さん。ダメだよー。こんな女の子に嫌なこと思い出させちゃさ。あ〜。

「ヒロミさん、大丈夫ですか。」

大丈夫じゃないよ。

「大丈夫じゃないよお」

「本当にごめんなさい、思い出させてしまって。」

将太郎さんの方を見ると、両手と頭を床に着け正座をして謝っていた。土下座だ!

「うえ、そんな、土下座せんで!顔上げて…」「あなたをうつにしたのは僕です!ごめんなさい!」

え?うつ?

「え?うつ?」

 将太郎さんは顔を上げて、アタシに話をしてくれた。

「僕は今大学生で、心理学を学んでいます。将来は精神科医になれるよう、日々励んでいます。」へえ、そうなんだ。かっこいい〜。

「そうなんだ。かっこいい」

「ふふ、ありがとうございます。」

あ、口に出てた。恥ずかしいな。

「あなたの話を聞くにつれ、僕はあなたを『うつ』手前の状態にあるのだ、と判断しました。」

「はあ。そうなんですか。」

「そこで、あなたにお願いしたいことがあります。」

お願い?アタシなんかに?

「何、それ…」

「僕と『患者と先生』の関係になってくれませんか!」

澄んだ目に見つめられてプロポーズみたいなことを言われたせいで、アタシは混乱している。

「へ?」

「僕を先生として。あなたを患者として。あなたと一緒に心理学を勉強していきたいんです。それが、あなたがするお礼なんです。」


 よし。言えたぞ。あとは納得してもらうだけなんだ。

「…付き合うの?」

違う違う。付き合わないよ。

「あなたとは恋仲にも、セフレにもなりませんよ。あなたのうつ病を治したいだけなんですから。」

「へぇ。」

理解出来てんのかい?あなた。

 ヒロミさんは十秒ちょっと宙を見て黙ると、だんだん口角が上がってきた。理解できたのか、くるっとこちらに振り向くと、自分で要約した内容を忙しない身振り手振りと伴って話してくれた。

「だから…アタシとセフレにはなんないけど、患者さんと先生の関係にはなりたいんでしょ?それがお礼になるからって。それで、アタシのうつ病を治してくれるんだ!」

そうそう!それで合ってるよ!

「そうです!合ってます合ってます!」

「合ってる!?」

「合ってる!合ってる!」

2人はローテーブルの前で盛り上がり、数回軽くハイタッチをして、ヒロミさんが不意に

「じゃあっ、じゃあ! 将太郎さんのこと、『将ちゃん先生』って呼んでも良い?」

と、とびきり嬉しそうな顔で提案した。『将ちゃん先生』か。ま、いいだろう。

「…OKです!」

「やったぁ!はい、将ちゃん先生!」

ヒロミさんは手のひらを顔の隣に持ってきて、挙手をした。挙手をしたのだから、当てなくてはならない。

「なんです、ヒロミさん。」

「アタシにもあだ名をつけて欲しいです!」

「あ、なるほど。」

実は、俺はあだ名をつけたことがほとんどない。周りの人が言っているあだ名に合わせて呼んでいるだけなので、自分からあだ名をつけたことがないのだ。

 ヒロミさん。ヒロミさんだろ。うーん。

「じゃ…『ヒロさん』でもいいですか?」

そう言うと、ヒロミさんは口を開けたまま数秒固まり、彼女の手を俺の肩に乗せた。その直後

「アリです!」

と叫んだ。良かった〜。アリだった。


 お互いのあだ名を決めたあと、アタシは将ちゃん先生に『ここに住んでもいいか』ということを相談した。風俗店にほぼほぼ泊まり込みで働いていたので、アタシに寝る場所はなくなってしまったためである。

 結果は『超OK』で、リビングのビーズクッションと冬に使う羽毛布団をアタシに貸してくれた。ほんとにいい人だな。ありがたいなぁ。

 将ちゃん先生は食器類の片付けをアタシに任せて、お風呂に入りに行った。鼻歌バージョンのスピッツの『楓』がうっすら聞こえてきて、胸がほっこりした。

 将ちゃん先生、スピッツ好きなのかな。


 ボロネーゼがあった平皿を洗っていたら、不意に働き始めた時のことを思い出した。

 中学を卒業してすぐに家から1番近い風俗店で働き始めた。『1番近い』とは言え、家から自転車で40分はかけて行かなきゃならないところにあったから、毎日疲労困憊でおじさん達の相手をしていた。

 引っ越そうにも、あまり働けない病弱な母と風俗店勤務の娘が稼ぐ年収と生活保護費では、生活費を払うのが精一杯で出来そうもなかった。

 おおよそ8年、色んな風俗店で働いてきた。どんな役もこなしてきた。山ほどの嘘をついた。それでも、恋心を持つことがなかった。自分のことを気に入ってくれる客は何人も見てきたが、アタシが気に入ることは無かった。誰も彼もがアタシの体だけを気に入って接しているような気がしたから。

 でも、将ちゃん先生は違う。あなたの体に興味は無いと言い、こんなダメなアタシを養ってくれるのだ。さっき見た将ちゃん先生の『OKです!』の時のきれいな笑顔が脳裏に浮かんだ。今までのおじさん達とは違う、きれいな笑顔。胸の右側がゾワゾワ渦巻いている感じがして、思わずニヤついてしまった。

 恋って、こういうことなのかな。


 

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