月下美人

入江 涼子

第1話

   私は一日しか咲かない。


  そうなる定めだと誰かに言われた。けど私は神様に乞うた。


「……神様。ちょっとだけでいいの。私を育ててくれたお兄さんに会わせて」


  見えない神様に空を見上げながらお願いしてみる。喋れないはずだが。私は人の姿の精霊といえる存在だった。そうだ、だから喋れたのだ。


  ある日、満月の夜に不思議な女性が地上に降り立った。女性は白銀の髪と琥珀色の瞳のこの世の者とは思えないほどの美貌だ。そして彼女は私を見て告げた。


「……お前はこの間、わたしに願いを言っていた花の精霊だね。名は?」


「……私は。美花(みか)。月下美人の花の精霊です」


「そう。美花というの。いい名だわ。では名を教えた見返りに一晩だけ人間にしてあげる。お前が言っていた男は近くにいるはず。早速、会いに行きなさい」


  女性はにっこりと微笑んだ。そして私に近寄る。額に指を当てると不思議な呪文らしきものを唱え始めた。すると体に感じたことのない重さと熱が一気に押し寄せてくる。呪文を唱え終わる頃にはいつもは軽やかな体が生身といえるものに変わっているのが自分でもわかった。


「さあ、人間の体に一時的に変えたわ。でもタイムリミットは明日の朝方まで。行きなさいな」


「ありがとうございます。あなた、神様なのね」


「そうよ。わたしは月の女神。お前は月の眷属だから。それで願いを聞くことにしたわ」


  私は再びお礼を言うと立ち上がった。急いであのお兄さんを探したのだった。


  息を切らせながら走ると慣れない生身の人間の体なのですぐに息が上がる。それでもお兄さんの姿を目で追う。

  サラサラの黒い髪に薄い茶色の瞳。白い肌の和風の美男子だと私の近くを通った女性たちが言っていたのを思い出した。お兄さん、あなたは一体どこなのか。が、なかなか見つからない。諦めかけたその時、サクサクと土を踏みしめる足音が聞こえた。俯けていた顔を上げると確かにその人はあのお兄さんだった。


「……あれ。ちょっと月下美人の花が気になって公園まで来てみれば。君、こんな夜中に何しているんだ?」


「……あの。お兄さんに昔助けていただいた事があって。お礼を言いたくて。それでここにいたんです」


「お礼かあ。そう言われても。君とは初対面のはずだ」


  お兄さんは訝しげな顔をする。そりゃそうだろう。いきなり言われたってお兄さんも困るだろう。でも私には時間がない。仕方なく説明をする事にした。



  その後、私は自分が月下美人の花の精霊である事、名前や月の女神様に願いを叶えていただいた事、そして人間になってここにいる事までを話した。お兄さんはふうんと言いながらも何故か聞いてくれた。


「俄かには信じがたいけど。そうか。君は俺が育てたあの月下美人の花の精霊なのか。人間になれたというのはまた不可思議な話だな」


「うん。私もそう思います」


「……確か美花さんと言ったっけ。今夜一晩しか人間の姿でいられないんだったよな。じゃあ、俺の名前を教えてもいいか?」


  私はこくりと頷いた。するとお兄さんは私の長い黒髪を撫でてきた。これには驚く。


「あ。ごめん。なんか、他人じゃない気がして」


「こっちこそごめんなさい。でも撫でてもらうのは嫌じゃないです」


  そっかと言ってお兄さんは髪や頭を撫でる。その温もりを私は忘れないようにとじっと動かずにいた。


「……俺の名前は伊織。上谷伊織だ」


「伊織さんって言うのね。私をずっと育ててくれてありがとう。後、私ね。あなたの事が好きだったの。この二つを伝えたくて。それで神様にお願いして人間の姿にしてもらったの」


「そうか。美花さん。もう会えないのかな」


「ごめんなさい。それは約束できないの。けどもしかしたら。私が人間に転生できたら会えるかもしれないわ」


「そうか。引き留めてごめん」


  私は首を振っていいのと笑う。伊織さんは私の事を不意に抱きしめてきた。けど私はされるがままだ。心の中でもう一度神様にわがままを言ってみた。

  月の女神様。私、本当の人間になりたい。そして伊織さんの側にいたいの。そう願うと体がじんわりと温かくなる。そして私は銀色の光に包まれた。もう、タイムリミットのようだ。


「……伊織さん。短い時間だったけど。ありがとう。私、あなたの事は忘れないわ」


「美花さん。もう行ってしまうのか?」


「うん。もうタイムリミットみたいね」


  私は体が半透明になっているのを見て取った。手を振りながら目をそっと閉じたのだった。



  あれから、十年は経っただろうか。私は何故か本当に人間に生まれ変わっていた。月の女神様。けっこういい仕事をしてくださったわ。私は慣れた小さな手や体にため息をつく。


「……美花。もう、学校は終わっただろう。行こうか」


  そう声をかけてきたのは私の近所に住む伊織さんだ。実は私が月下美人の花の精霊であった時、伊織さんはまだ十六歳だった。あれから十年が経ち、伊織さんは二十六歳になっていた。


「はい。じゃあ、行こっか」


  伊織さんは私が生まれた時から何かとお世話になっている。不思議な事に私の前世の記憶を小さな時に話したら「君があの月下美人の花だったのか」と感慨深そうにしていた。それ以来、伊織さんは片時も私を離さない。私を歳の離れた妹のように世話を焼く。私が月下美人の花だった時も彼はせっせとお世話をしていたっけね。


「美花。俺、考えてたんだけど。君が大人になった時に結婚をしてくれないかな。今じゃなくてもいいから」


「……伊織さん。けどたぶん、後十年はかかるよ。結婚できる年齢になるまで」


「それまでは俺も待つよ。もう待つ事にも慣れたからな」


  伊織さんはそう言って私の頭を撫でる。あの時と同じように。夕暮れの空の下、私と伊織さんは手を繋ぎあって帰り道を急いだのだった。

 ー完ー

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