もしもボクが〈短編小説の主人公〉だったなら、この恋が成就する未来もあるのだろうか？

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　自分の不快な姿かたちがこころの底から大キライだったから。

　〈鏡に映らない〉ことはそれだけで、わりとなかなか気分がよかった。

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　ボクはいま、〈男子トイレ〉にいる。鏡のまえにいる。授業がはじまって間もない校舎は重力がちょっとだけ強くなったみたいな静かさがあって、厳かな気配があって、悪くない。悪くない気分のまま、ボクは目のまえの鏡にそっと指をのばす。触れた指はすり抜けてすっと壁にめり込む。身を乗り出す。からだ全体も抵抗なく吸い込まれて壁を抜け、向こう側へと通り抜ける。誰もいない女子トイレ。見るべきものはなにもない。ボクはさらにまえへ進み、新たな壁を抜け、廊下に出る。どこか遠くの授業の声が、くぐもった聖歌隊のコーラスみたいにローテンション気味に低く聞こえる。

　別の壁をすり抜ける。窓ガラスをすり抜ける。授業中の黒板だってすり抜ける。そうやってボクは最短距離で目的地であるボクの教室に向かう。さえぎるものなく、一直線に、ボクはボクのいきたい場所へと進んでいく。

　ボクは〈幽体離脱〉をしている。

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　いや、ないから。

　〈幽体離脱〉とか、ありえないから。

　半年まえ、はじめてそれを経験したとき、ボクは当然ながらそう思った。フィクションじゃないんだ。現実に幽体離脱なんてあるはずない。確かに幽体になったボクは眠ってる自分の姿（キモい）を見下ろしてるような気がする。でも、〈見る〉っていうのはそもそも〈光〉を媒介とした純物理的な行為のはず。水晶体も網膜もない幽体ごときがものごとを〈見る〉なんて、そんなこと、原理的にできるはずがない。〈考えごと〉だって、いってみれば脳細胞が生み出したネットワークをめぐる〈電気信号〉の集まりでしかない。肉体をはなれたら、電気信号もクソもなく、だからこんな面倒くさい考えごとなんて実行できる理屈はないはずだ。

　幽体離脱なんて、〈フィクション〉だから。

　現実にはありえないから。

　でもそのひと月後、ボクはまたしても肉体をはなれ、ふわふわと世界をただよった。

　眠っている自分の姿（相変わらずキモい）を見下ろしたし、相変わらずあれこれ面倒くさい考えごとを発生させていた。

　否定しようもなく、それは起こった。

　そこでようやくボクは重要な事実に思い当たることになる。

　そうだ、〈フィクション〉なんだ。

　ボクは〈短編小説の主人公〉なんだ。

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　その仮定を受け入れてみると、いろいろなことが理解できたような気がした。

　不条理だらけでクソみたいなボクの人生も。うだうだと面倒くさいボクの性格も。むなしい願いも。苦しみも。そのすべてにつながりが見えたように思えた。

　フィクションなんだ。これはひとつの〈物語〉なんだ。だから、すべてに意味があるんだ。そうであれば、多少の物理的矛盾くらい目をつむるべきじゃないか。きっとその矛盾にだって意味がある。それらを全部含みこんだこの物語を、ボクは受け入れるべきじゃないか。受け入れてやろうじゃないか。

　そんなふうに考えてみると、残る問題はシンプルだ。

　〈幽体離脱〉という特別なチカラに目覚めたボクが、じゃあいったいなにに巻き込まれるのかということだ。このあとにどんな展開が用意されてるかということだ。

　〈物語の主人公〉であるボクは、〈幽体離脱〉をするボクは、おそらくこの能力のおかげでなにかとんでもない秘密を知ることになるだろう。それは〈物語的必然〉だ。そしてそのことが物語を大きく展開していくはず。例えば、もしかしたらボクは学校襲撃を計画する〈武装テロリスト〉の陰謀を察知するかもしれない。クラスメイトに危険が迫っていることを知るかもしれない。当然ボクはそれを阻止しようと奮闘するだろう。でも、失敗するかもしれない。物語に困難はつきものだから。そしてけっきょく学校はテロリストの襲撃に巻き込まれてしまうかもしれない。ボクは奮起して、少数の仲間とともに立ち向かうことになるかもしれない。命がけの戦いのすえ、例えばボクは〈片想い中のクラスメイト〉のピンチを救うことになるかもしれない。手を握りあったまま、お互いの目を見つめ合って、唇を重ね、この〈片想いの恋〉がみごと成就するかもしれない。ピース。拍手。ハッピーエンド。

　そうだ、そうに違いない。

　そんなふうに確信して、〈その日〉に備えて、ボクはひそかに腹筋をはじめた。

　危険な戦いに巻き込まれることへの、〈鉄のような覚悟〉を胸のなかで暗唱した。

　テロリストに立ち向かうために必要な、非情なる、〈殺人者の思考回路〉をイメージした。

　準備はできている、いつでも来い。血も涙もないテロリストども！

　そして血も涙もないテロリストは、けっきょくのところ、ぜんぜんやっては来なかった。

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　いや、おかしいだろ。

　なにも起こらないなんて、おかしすぎるだろ。

　そんな焦るような気持ちとは裏腹に、でも見事なまでに、なにもなかった。肉体を抜け出したボクがいくら熱心に周囲を散策してみても、散策しつづけても、目に映るのはいつもいつも退屈で平凡な日常的光景の連続でしかなかった。静止画のような校舎。熱意のない授業。無音の体育倉庫。日当たりのいい屋上。放送室。月に一度、30分ほどの時間を、ボクはくり返し無意味にプカプカと浮かんでいるだけだった。事件もなく。陰謀もなく。離脱を終え、肉体に戻ったあとの気だるさを感じながら、ボクは次第に怒りをつのらせていく。なんだ、いったいこの物語はなんなんだ？　明らかに重大な伏線が用意されているのに、一向に回収もされず、なにも起こらず、無意味な時間が消費されていくだけじゃないか。

　そんなことはありえない。

　〈物語〉として、これはありえない。

　そしてボクはひとつの疑念を抱くことになる。

　ボクは〈ハズレ〉を引いたのか？

　原因は作者にあるのかもしれない。

　もしかしたら〈この物語の作者〉は、純粋に能力が、低いのかもしれない。物語をつくる能力というものが、決定的に致命的に欠如しているのかもしれない。短編小説だかなんだか知らないけど、物事に意味を与えることも、鮮やかなプロットを用意することも、物語にいきいきとした生命を与えることも、この無策極まりない作者にはなにひとつ、できていないんじゃないか？　する能力がないんじゃないか？

　〈無能作者〉にボクは、つかまってしまったんじゃないか？

　ねえ、どうなのさ、〈バカ作者〉？

　　＊　　＊　　＊

　最後の壁をすり抜けて、ボクはいま、〈ボクの教室〉にいる。

　ボクの席は空いている。ボクはそこへ腰を下ろし、授業がおこなわれている真正面の黒板ではなく、すぐ右どなりの席へ目を向ける。

　そこに座る、〈ひとりの女子〉を見つめる。

　　＊　　＊　　＊

　ねえ〈バカ作者〉。

　誰かを好きになったことはある？

　　＊　　＊　　＊

　ねえ〈バカ作者〉。

　その人のこと、考えずにはいられなくて、なにをしていても頭からはなれなくなるような、そういう感情を味わったことはある？

　ねえ〈バカ作者〉、いったいあんたはどんな人なんだろう？　当ててみようか？　きっと人間には興味がもてないやつなんじゃないかとボクは思う。理屈っぽくて、実際的で、博愛主義ぶってるくせに人間のもつ欲求なんかにはぜんぜん関心が向かない、そんなやつなんじゃないかとボクは、思うよ。

　ねえ〈バカ作者〉、恋の苦味を知ってる？　焼きただれるように好きなのに、墜落するように好きなのに、相手は自分のことを好きになる可能性がこれっぽっちもなくて、それなのにあきらめるという考えも浮かばないような、地獄のような、拷問のような、そんな苦しみを味わったことはある？

　ねえ〈バカ作者〉、こんなことを聞いたことはある？　初恋の相手と結婚できる確率って、ちょうど〈１％〉くらいらしいよ。まあボクの場合は完全に〈０％〉、どれだけ甘く見ても〈0.01％〉くらいのものだけど。でも、これは〈フィクション〉だから。ありえないこともぜんぜん起こる世界だから。確率なんて、意味がないのかもしれない。

　ねえ〈バカ作者〉、好きな人に触れられることのうれしさって、理解できる？　相手にはたぶんなんの意図もないよ。ただのスキンシップ以上のものじゃない。それなのに、そうとわかっているのに、好きな人にそっと触れられたときのうれしさを、感じたことはある？　その行為に意味のない深読みをしちゃって、苦しくなる、そんなこと、あった？

　ねえ〈バカ作者〉、むこうには一切なんの意図もないボディタッチに、からだが〈反応〉してしまう、その後ろめたさを感じたことはある？

　ねえ〈バカ作者〉、気づけば好きな人の〈ハダカ〉ばかりを想像してしまってる、気色悪さについて理解できる？　振り払っても、振り払っても、気づけばそんなことばかり考えてしまってる自分自身の気持ち悪さ。もう、いやなんだ、こんなの。

　ねえ〈バカ作者〉、代わりにボクがこのあとのプロットを考えてみようか？　ある朝めざめるとボクのからだがすっかり変わっているんだ。大キライな姿かたちがすっかり変化して、なんなら声も低くなって（彼女は〈イケボの男性〉が好みらしいから）、そして新たな人生が幕を開けるんだ。ちょっと都合が良すぎるって？　いいじゃん、どうせもう、大した物語じゃないんだ。

　ねえ〈バカ作者〉、本当にこころの底から落ち込んでいるとき、それを見透かすような救いの言葉をかけてもらったことはある？　〈暗いことばっか考えちゃダメだよ〉って、本当に〈暗いこと〉を考えちゃってるときに、やさしくからだに触れながら、笑いかけてきてくれる、そんな女子のことを、ねえ、好きにならずにいることはできる？　ボクには無理だよ、もちろん。

　ねえ〈バカ作者〉、やっぱり〈武装テロリスト〉呼んじゃおうよ。だいじょうぶ、もう都合の良すぎる妄想はしない。無理に彼女がボクに惹かれる展開にしなくてもいい。そうじゃなくて、ボクは死ぬんだ。攻撃から彼女をかばって、ボクの命と引換えに、彼女を救う。彼女はボクを忘れられなくなる。そういう仕方で、彼女のこころのなかにボクは残る。残りつづける。死んでしまったボクは、もしかしたらいまこうしているみたいに〈幽体〉になって、ふわふわと彼女のことを見守るかもしれない。いつまでも、いつまでも、見守ろう。なにもかもを秘密のままにして。

　永遠に友達のままとして。

　ボクの気持ちの悪い感情の一切を、彼女に知られないままで。

　最初からなにもなかったことにして。

　ピース。拍手。ハッピーエンド。

　　＊　　＊　　＊

　嫌だ。

　唐突に生じたその言葉とともに、熱をもった液体がさらりと頬を伝う。

　嫌だ。

　幽体のボクは音もなく立ち上がる。そのことに気づく人は誰もいない。社会科教師のボソボソとした声と、黒板の内容を生真面目にノートに書き写す単調な作業が、妨げられることなく進行している。

　彼女もノートを書き続けている。生真面目なその横顔を、ボクは見下ろす。

　そして。

　好きです。

　幽体のボクはそう声に出す。

　なにかが決壊したようにあふれ出し、壁をすり抜けるみたいに抵抗なく、するすると言葉はつづく。隠してたけど、好きでした。この気持ちをなかったことになんか絶対にできない。みっともなくても、情けなくても、ボクという存在はあなたのことが、どうしようもなく、こころの底から、好きです。好きだったんです。

　と、ボクはいった。

　その言葉は言葉じゃない。かたちをもたない幽体のボクが吐き出したかたちのないただの文字の羅列。それはなんの振動も生まず、なんの意味もなさず、誰にも読まれないみじめな短編小説の1ページのなかへと吸い込まれていくだろう。永遠の闇に溶け込むだろう。

　でも、彼女は振り向いた。

　まるでその言葉を受け取ったかのように。

　そしてボクの目をじっと見つめた。

　ボクが本当にそこにいるかのように。

　ボクが本当にその言葉を投げかけたように。

　そして。

　　＊　　＊　　＊

　感覚が徐々に戻っていく。

　廊下を行き来する生徒たちの発する音が、笑い声が、授業がおわって休み時間に入ったことを知らせてくれる。

　気だるい。

　ねっとりとした重みをもった思考回路のなかで、離脱の最後に見た、ボクと目を合わせた彼女の顔がぼんやりと浮かぶ。それがどんな表情だったのか、すでにもう、はっきりとは思い出せない。そもそもあれは、本当の出来事だったんだろうか？

　涙出るくらい痛かったの？

　その言葉を耳にして、はじめてボクは、すぐそばに誰かがいること、その誰かがボクの目尻にそっと指を触れていることに気づいた。

　だいじょうぶ？

　〈彼女〉がいる。彼女がベッドに横座りして、ボクの顔を心配そうに覗き込んでいる。涙の跡を、彼女の指がそっと拭う。

　ボクはかろうじてちいさくうなずく。

　そう？　彼女はやわらかく微笑む。いたわるような声で、ささやくような声で、彼女はボクのからだにそっと手を触れながらいう。そっか。〈重い〉と大変だよね。ね、次の授業は、出られそう？

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　保健室から廊下に出るところで、ふいに彼女は飛びつくように腕をからめてくる。遠慮なくからだを密着させ、いたずらっぽく口を開く。ね、教室戻るまえにお手洗い寄ってもいい？

　イイヨ。ボクはこわばった気持ちでそう答える。

　まだ体調わるい？　と彼女はたずねる。嫌なこととかあったら、なんでもいってよね。

　ソウスル、とボクは答える。そう答えるしかボクには、なかったから。

　廊下に据えられた姿見が、予期せずボクらふたりの姿を映す。心臓が凍る。ボクは顔をしかめたかもしれない。大キライで不快なその姿かたちに硬直したかもしれない。ちいさくふるえたかもしれない。ボクはいつかこの、〈制服〉というものに慣れることができるだろうか。

　くっつき合う、仲の良い女子生徒ふたり組の姿がそこにあった。ボクの大好きな人は、楽しそうにボクとくっつき合っている。もちろんそれは、いろんな意味において、ボクの望む姿ではなかったけれど。