【サスペンス短編小説】薔薇の檻で眠り続ける完全な愛の形骸(かたち)約7,700字

藍埜佑(あいのたすく)

【サスペンス短編小説】薔薇の檻で眠り続ける完全な愛の形骸(かたち)約7,700字

第1章:『記憶を喪失した少女と薔薇の囁き 傷痕は語りかける』


 初夏の訪れを告げる柔らかな風が、京都御所の並木道を吹き抜けていった。空気は少し湿り気を帯び、遠くで蝉の声が断続的に響いている。1989年5月のある午後、桐谷薫子は研究室の窓辺に佇んでいた。


 白衣のポケットの中で、ポケットベルが小さく震える。


「はい、桐谷です」


 院内PHSに応答すると、救急外来からの声が響いた。


「桐谷先生、申し訳ありません。救急で困難事例が入っています。統合失調症の疑いがあるのですが……かなり特異な症状で」


「わかりました。すぐに行きます」


 薫子は髪を軽く束ね直し、足早に救急外来へと向かった。29歳になる彼女は、京都大学医学部附属病院精神科の医局員として、日々の診療の傍ら、トラウマ性解離性障害の研究を進めていた。


 救急外来に到着すると、そこには警察官が付き添う若い女性がいた。


「私が桐谷です。どういった状況でしょうか?」


「これが今朝、北山のバラ園で保護された方です。園内のベンチで意識を失っているところを発見されました。意識は戻りましたが、記憶が曖昧で……」


 ベッドに横たわる女性は二十代半ばといったところだろうか。艶やかな黒髪が枕に広がり、その姿は一見、眠れる森の美女を思わせた。だが、その表情には何か言いようのない不安が宿っていた。


「私は桐谷と申します。お名前は?」


 女性はゆっくりと目を開けた。深い茶色の瞳が、薫子をじっと見つめる。


「藤堂……藤堂真理子です」


 その声は、か細く震えていた。


「藤堂さん、今日のことを覚えていますか?」


「いいえ……私、何も……」


 真理子は言葉を詰まらせ、視線を落とした。その手首には、鮮やかな傷跡が残っていた。バラの棘によるものだろうか。


「最後に覚えているのはいつのことですか?」


「昨日の夜……確か、バラ園に行こうと思って……」


 そこで真理子は急に体を強張らせた。


「バラの香り! そうです、あの香りがして……それから……」


 真理子の瞳が恐怖に見開かれる。全身が小刻みに震え始めた。


「大丈夫です。ここは安全な場所です。ゆっくり話してください」


 薫子は静かに真理子の手に触れた。すると、真理子は急に泣き崩れた。


「先生……私、おかしいんでしょうか? 夢を見ているような……でも、この傷は本物で……」


 薫子は真理子の症状を注意深く観察した。意識障害や記憶の欠損はあるものの、明らかな精神病性の症状は認められない。むしろ、強い解離状態を示唆する所見だった。


 付き添いの警察官が薫子に近づいてきた。


「実は、最近同じような事例が続いているんです。この二ヶ月で三件目です。いずれも北山のバラ園で発見され、記憶を失っていた若い女性たち。そして……」


 警察官は声を落として続けた。


「最初の二人は、その後失踪したんです。病院から退院した直後に」


 薫子は眉をひそめた。単なる偶然とは思えない一連の出来事。そして、真理子の手首に残された傷跡。何かが、確実に彼女たちを脅かしているのだ。


「入院での経過観察が必要ですね」


 薫子がカルテに記入を始めると、真理子が小さな声で呟いた。


「先生……あの方は、まだ私を探しているんでしょうか?」


「あの方とは?」


 真理子は首を振った。


「思い出せません……でも、あの赤いバラの香りだけは忘れられないんです……」


 その時、廊下から物音が聞こえた。振り向くと、一輪の赤いバラが床に落ちていた。薫子が拾い上げようとすると、その棘が彼女の指を刺した。小さな血の滴が、真っ白な床に落ちる。


 誰が、このバラを?


 薫子は廊下を見渡したが、そこには誰もいなかった。ただ、かすかに甘い香りだけが、空気の中に漂っていた。


第2章:『バラ園の秘密と過去の真実』


 翌朝、薫子は北山のバラ園を訪れていた。初夏の陽光が、色とりどりのバラの花々を照らしている。美しい景色だが、どこか異様な雰囲気が漂っていた。


 警察の調書によれば、失踪した二人の女性も、最初はこの場所で発見されたという。いずれも手首に同じような傷跡があり、記憶を失っていた。そして退院直後に、痕跡を残さず姿を消した。


「桐谷先生?」


 声をかけられて振り向くと、昨日の警察官、渡辺巡査部長が立っていた。


「おはようございます。現場を確認に来ました」


「私も同じです。この事件、どうにも気になって」


 二人は並んで園内を歩き始めた。バラの香りが、朝もやのように立ち込めている。


「失踪した二人について、わかっていることは?」


「星野美咲さん、25歳。そして河野亜希子さん、23歳。二人とも独身で、特に接点はありませんでした。ただ、共通点が一つ」


 渡辺は足を止め、声を落とした。


「二人とも、精神科に通院歴があったんです。うつ病や不安障害で」


 薫子は眉をひそめた。昨日の真理子も、何かトラウマを抱えているような様子だった。偶然には思えない共通点である。


「このバラ園、十年前にも事件があったそうですね」


 渡辺の表情が曇る。


「ええ。1979年の『バラ園殺人事件』です。当時、園の管理人だった男性が、若い女性を殺害し、バラの根元に埋めたという……死体は見つかりましたが、犯人は自殺。動機も不明のままでした」


 薫子は、一輪の白いバラに目を留めた。その花びらには、小さな赤い斑点が付いている。まるで血のように。


「あの事件の被害者も、精神科に通院していたそうです」


 渡辺の言葉に、薫子は思わず振り向いた。


「十年前の事件と、今回の失踪事件が関連している可能性は?」


「わかりません。でも、この園には何か秘密が……」


 その時、薫子の携帯電話が鳴った。病院からだった。


「桐谷先生、大変です! 藤堂さんが……」


 電話の向こうで、看護師が混乱した様子で告げる。


「夜中に突然目を覚まして、『あの方が呼んでいる』と言い出したんです。それから、急に暴れ始めて……今、保護室で……」


「すぐに戻ります」


 薫子は渡辺に一礼し、急いで病院へと向かった。


 病院に着くと、真理子は保護室のベッドに横たわっていた。昨日とは別人のように、穏やかな寝息を立てている。


「夜中の様子を詳しく教えてください」


 担当看護師が説明を始めた。


「深夜二時頃でした。突然、『バラの香りがする』と叫び始めて……それから、『私を待っているの? 行かなきゃ』と言って……」


 薫子は真理子の手首を見た。傷跡が、より鮮やかに赤く浮き出ているように見える。


「そうだ……先生、これも」


 看護師が一枚の紙を差し出した。真理子が夜中に書いたという走り書きだ。


『薔薇の檻の中で

永遠の愛を誓って

眠りにつく私たち

誰も邪魔はできない

この完璧な愛の形を』


 詩のような文章。だが、その文字には異様な切迫感が漂っていた。


 薫子は資料室に向かい、十年前の事件の記録を探し始めた。夕暮れが近づき、図書館は薄暗くなっていた。


 古い新聞を繰っていると、一枚の写真が目に留まった。1979年のバラ園。殺害された女性の写真の隣に、園の管理人の写真があった。


 薫子は息を呑んだ。その男の左手首に、バラの棘によるものと思われる傷跡が写っていたのだ。そして、その形は……。


 急いで真理子の診察記録と見比べる。間違いない。全く同じ形、同じ位置の傷跡だった。


 図書館の窓の外で、風が強く吹き始めた。バラの香りが、どこからともなく漂ってくる。


 その時、背後で物音がした。振り向くと、書架の間に人影が。


「どなたですか?」


 返事はない。だが、その影は確かに……バラの花を持っていた。


第3章:『完璧な檻の誘惑 歪んだ愛の正体』


 薫子の悲鳴が、図書館に響き渡った。人影は一瞬で消え、バラの花だけが床に残された。深い赤色の花弁が、夕暮れの光を受けて妖しく輝いている。


 その夜、薫子は研究室で資料と向き合っていた。1979年の事件の詳細が、少しずつ明らかになってきた。


 犯人となった園の管理人、榊原圭一。彼は被害者の女性と深い関係にあったという。二人は密かに愛し合っていたが、女性には婚約者がいた。そして事件の日、バラ園で最後の逢瀬を……。


 記事の切り抜きを読んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。


「どうぞ」


 扉が開き、渡辺が姿を現した。


「桐谷先生、大変です。河野亜希子さんが見つかりました」


 薫子は椅子から立ち上がった。


「どこで?」


「バラ園です。ですが……」


 渡辺の表情が暗く沈む。


「遺体で発見されました。バラの根元に、まるで眠るように横たわっていて……手首には、あの傷跡が」


 薫子は震える手で資料を掴んだ。


「渡辺さん、十年前の事件の被害者の名前は?」


「ええと、確か……榊原美奈子さん。なぜ?」


「管理人の榊原圭一と、同じ苗字なんです。実は二人、兄妹だったんです」


 渡辺の目が見開かれた。


「まさか……」


「そう、禁断の愛でした。そして、その愛を永遠のものにするため、圭一は美奈子を殺し、自らも命を絶った。バラの園で永遠の眠りにつくことを選んだ」


 薫子は真理子の書いた詩を取り出した。


「『薔薇の檻の中で、永遠の愛を誓って』。この歪んだ愛の物語が、今、再び繰り返されようとしているんです」


 その時、廊下から悲鳴が聞こえた。二人は急いで飛び出す。


 保護室の前で、看護師が青ざめた顔で立ちすくんでいた。


「藤堂さんが、いなくなりました……窓が、開いていて……」


 部屋の中には、真っ赤なバラの花びらが散りばめられていた。そして壁には、血文字で書かれていた。


『完璧な愛の形へ』


 薫子は即座に理解した。


「バラ園です! 急ぎましょう!」


 満月の光が、うっすらと靄のかかったバラ園を銀色に染め上げていた。微風に揺れる無数の花々は、まるで月の光を纏った妖精たちの舞踏会のように見える。その銀色の輝きは、現実とも幻想ともつかない境界を作り出していた。


 甘美な香りが、波のように押し寄せてくる。赤、白、ピンク、黄色……色とりどりのバラたちが、月光の下で本来の色を失い、まるで白銀の彫刻のように佇んでいる。花弁の一枚一枚が真珠のように光を湛え、露の滴がダイヤモンドのように煌めいていた。


 薫子は思わず息を呑んだ。暗闇の中で、バラの棘だけが黒い影となって浮かび上がる。その鋭い先端は、まるで何かを警告するかのように、不吉な存在感を放っていた。


 蒸し暑い空気が、肌を這うように纏わりつく。バラの香りは、官能的な甘さを増しながら、次第に濃厚になっていく。その芳香には、かすかな腐敗臭が混ざっているような気がした。深夜の植物園特有の生命の匂い、土の湿り気、そして何か別の……説明のできない異質な臭気。


 足元の砂利が、かすかに軋む音を立てる。その音が、異様なまでに静寂な空間に、不協和音のように響いた。頭上では、枝々が不規則に揺れ、月光を遮っては開く。その度に、光と影のコントラストが、まるで息づくように変化していく。


 バラの蔓が、まるで意思を持つかのように絡み合い、不規則な網目模様を空間に描き出している。その影が地面に落ち、歪んだ迷路のような模様を作り出していた。


 遠くから、誰かの囁くような声が聞こえる。しかし、耳を澄ましても、それが風の音なのか、葉擦れの音なのか、それとも人の声なのか、判然としない。ただ、その音は次第に近づいてくるような……。


 薫子は思わず背筋を伸ばした。この美しさの中に潜む何か、底知れない不安。それは、人間の理性が捉えきれない何かの気配。バラたちは、その神秘的な姿の奥に、どんな秘密を隠しているのだろうか。


 月の光が、一瞬、雲に覆われる。その時、バラの花々が、かすかに赤み帯びて見えた気がした。まるで、地下に眠る何かの記憶が、花々を通じて蘇ろうとしているかのように。


 そして、再び月が顔を出した時、バラ園は完全な静寂に包まれていた。しかし、それは嵐の前の静けさのように、何か途方もないものの到来を予感させる沈黙だった。


「藤堂さん!」


 薫子の声が、闇の中に吸い込まれていく。渡辺が懐中電灯で園内を照らす。


「あれは!」


 奥まった一角に、白いワンピース姿の人影が見えた。真理子だ。


「待ってください!」


 近づこうとした時、薫子の足が何かに引っかかった。低い位置に張られたワイヤーだ。その瞬間、周囲のバラの木々が不気味に揺れ始めた。


「先生、上を!」


 渡辺の声に顔を上げると、バラの蔓が網のように張り巡らされているのが見えた。まるで檻のように。


 その中央で、真理子が両手を広げて立っていた。


「やっと来てくれましたね、圭一さん」


 真理子の声は、別人のように澄んでいた。


「藤堂さん、私です。桐谷です」


「違います。私は美奈子よ。今度こそ、永遠の愛を……」


 真理子――いや、美奈子の意識に憑依された真理子は、ゆっくりとバラの檻の中心へと歩み寄る。その足元には、深い穴が口を開けていた。


 月光がバラの花びらを銀色に染める中、真理子の白いワンピースだけが、まるで蛍のように淡く光を放っていた。彼女の動きは、人形のようにゆっくりとして不自然だった。両手を優雅に広げ、まるでバレリーナのように爪先立って歩む。長い黒髪が、無風にもかかわらず不気味に揺れている。


「美しいでしょう? 私たちの愛の園」


 真理子の口から発せられる声は、少女のように甘く、どこか懐かしい響きを持っていた。それは明らかに、彼女本来の声ではない。


 足元の穴は、直径およそ二メートル。深さは目測できないほど深く、底が見えない。穴の周囲には赤いバラが不自然なほど密集して咲き誇り、その花びらは血のように鮮やかだった。甘美な香りが、渦を巻くように立ち昇っている。


「ほら、見えるでしょう? 私たちの永遠の寝床」


 真理子は穴を覗き込んだ。月光に照らされた彼女の表情には、この世のものとは思えない恍惚の色が浮かんでいる。両目は虚ろに開かれ、瞳孔が異常なまでに開いていた。その目の奥には、もう一つの意識が潜んでいるかのようだった。


 彼女の足が穴の縁に掛かる。バラの蔓が、まるで愛撫するように彼女の足首に絡みつく。白いワンピースの裾が、夜風にたなびくように揺れた。


「さあ、抱きしめて。永遠に……」


 彼女の声が、夜の闇に溶けていく。


「圭一さん、もう誰にも邪魔されない。永遠に、二人で……」


 薫子は真理子の目を見つめた。その瞳の奥に、かすかな揺らぎを感じる。


「藤堂さん、あなたはあなた自身です。美奈子さんではない。目を覚まして!」


「違う! 私たちの愛は……」


「あなたの中にある傷、私にも見えています。でも、それを癒すのは死ではありません」


 薫子は静かに手を差し伸べた。


「一緒に、生きる方法を探しましょう」


 真理子の瞳に、涙が光った。


「先生……私、何を……?」


 意識が戻った瞬間、真理子の体がバランスを崩す。薫子は咄嗟に飛び込み、彼女を抱きとめた。


 最初に聞こえたのは、乾いた枝が折れるような音だった。バラの蔓が編み上げた檻が、まるで生き物のように身震いする。月明かりに照らされた赤い花々が、不気味に明滅した。


「危ない!」


 頭上から、太い蔓が鞭のように振り落とされる。薫子は真理子を抱きしめたまま、反射的に身を屈めた。蔓が二人の横をかすめ、地面を打つ。バラの棘が、月光を浴びて無数の牙のように光っている。


 軋みが大きくなる。バラの枝が絡み合う音は、まるで誰かの呻き声のようだった。甘美な香りが、突如、濃密な霧となって辺りを包み込む。


「こちらです!」


 渡辺の声に、薫子は我に返る。彼は懐中電灯で安全な経路を照らしていた。


 その瞬間だった。檻全体を支えていた主軸の蔓が、大きな音を立てて裂ける。それは人間の悲鳴にも似ていた。網目状に張り巡らされた無数の蔓が、重力に従うように崩れ落ちてくる。


 バラの花弁が、血の雨のように降り注ぐ。棘のある蔓が、まるで最後の抵抗のように、三人の周囲に振り落とされる。


「伏せて!」


 渡辺が素早く駆け寄り、薫子と真理子を抱くように引き寄せた。彼の背中に、鋭い棘が突き刺さる。だが、彼は歯を食いしばって二人を守り続けた。


 崩壊する檻の中から、かすかな声が聞こえた。


「なぜ……私たちの愛を……」


 美奈子の声だった。それは次第に遠ざかり、夜風に溶けていく。


 渡辺は二人を庇ったまま、バラの雨が降り注ぐ中を、必死で安全地帯まで導いた。彼の制服は棘で引き裂かれ、血に染まっている。


 ようやく檻から脱出した時、最後の蔓が大きな音を立てて倒れ込んだ。土埃が立ち上る。そして、すべてが静寂に包まれた。


 三人は肩で息をしながら、崩れ落ちたバラの檻を見つめていた。月の光が雲間から差し、散り散りになった赤い花弁を銀色に染めていく。かすかな風が吹き、甘い香りが最後の名残りのように、夜空へと消えていった。


「大丈夫ですか?」


 薫子が真理子の顔を覗き込む。彼女は小さく頷いた。その瞳には、もう迷いの色はなかった。


 渡辺は黙ってその場に立ち尽くしていた。彼の影が長く地面に伸びる。バラの花弁が、静かに舞い落ちていた。永遠を夢見た歪んだ愛の物語は、こうして幕を閉じたのだ。


第4章:『魂の檻からの解放 心の枷を解くとき』

 それから一週間が経過した。真理子は急性の解離性障害と診断され、治療を続けていた。記憶は断片的に戻りつつあった。


 薫子は診察室で、真理子の話に耳を傾けていた。


「私の母も、統合失調症で苦しんでいたんです。幼い頃から、母の症状に振り回されて……結局、母は自殺して」


 真理子の声が震える。


「その後、私は完璧を求めるようになった。仕事も、恋愛も、全てを。でも、どれも上手くいかなくて。そんな時、バラ園で……」


「あの方に出会った?」


「ええ。穏やかな声で語りかけてきて。『あなたの痛みがわかる』って。それが、榊原美奈子だったんですね」


 薫子は静かに頷いた。魂の痛みに共鳴し合った二人。しかし、それは歪んだ救いでしかなかった。


「先生。私、生きていていいんでしょうか?」


 真理子の問いに、薫子は真摯に答えた。


「はい。それが、あなたが自分自身に与えられる最高の愛なのです」


 窓の外では、新しいバラが咲き始めていた。純白の、無垢な花びらを広げて。


第5章:『白き薔薇の目覚め 新しい朝の光の中で』


 初秋の風が吹く頃、薫子は再びバラ園を訪れていた。事件から三ヶ月が経ち、園内は穏やかな空気に包まれていた。


 真理子も退院し、新しい生活を始めていた。週に一度のカウンセリングで、彼女は少しずつ自分の言葉を取り戻していった。


 バラの根元から掘り出された遺留品の中に、一冊の日記が見つかった。それは榊原美奈子が、兄への想いを綴ったものだった。


『愛は時として、人を檻の中に閉じ込める。完璧な形を求めるあまり、魂を縛りつけてしまう。でも、本当の愛は自由なはず。それに気づくのが、遅すぎた』


 最後のページには、そう書かれていた。


 薫子は、バラの花に手を伸ばした。もう棘は、彼女の手を傷つけない。


「桐谷先生」


 振り向くと、真理子が立っていた。彼女は穏やかな笑みを浮かべている。


「お花を、植えに来ました」


 真理子が差し出したのは、小さな白いバラの苗。


「新しい命の始まりですね」


 二人で苗を植えながら、薫子は思う。人は誰しも、心の中に檻を持っている。完璧を求める檻。過去に囚われる檻。しかし、その檻は決して永遠ではない。


 白いバラは、優しく揺れていた。その花びらに、朝日が温かな光を投げかける。新しい一日の始まりを告げるように。


(了)

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