ルチャート創生秘話

蓮紅ユウカ

ルチャート創生秘話

 第一章「邂逅」


  一



 路地裏通りを、少年が走る。

 荒れ果てた貧民街の中、鋭利なガラスの破片や木片が横たわる小道を、ただひたすらに走っていた。少年は裸足であった。しかし、その柔らかい皮膚を貫通して襲いくる痛みに全く怯んだ様子を見せはしない。一心にして走る、走る。

 しかし、突如少年は動きを止めた。中腰の姿勢のまま、微動だにせずに前を睨みつける。

 前方から、大の男達の醜悪に満ちた怒声が聞こえてきた。静寂と死を司る路地に見合わない、物騒な気配であった。

「こっちに来ているはずだ、探せ!」

「チッ、邪魔しやがって!……あのガキ、絶対痛い目にあわせてやる!」

「……おい、傷物にはするなよ。あれぐらいの歳の子供なら、まだ商品になる」

 少年は普段の温厚な性格に反して、小さく舌打ちをした。素早く辺りを見渡して、目と鼻の先に蝿の集った廃棄箱があることに気付く。そこから漂う人間の死臭を確認し、咄嗟にその陰に身を隠した。間一髪、あの男達が現場に到着する。

「……っう、クセェな。本当にこんなところに来るか?」

「いや、ここは一本道だ。必ず隠れているはずだ」

「折角追い詰めたんだ、とっ捕まえてやる!」

 少年を追跡していた男は三人。どれも屈強そうで、ナタやら剣やらを携えている。まともに相対すれば、一筋の光明すらも掻き消えよう。少年は息を潜めて、無頼漢たちの一挙一動を観察する。限界まで気配を遮断し、音も出さず、逃亡の時を待つ。そして、一人が、少年の潜む廃棄箱に向かって足を踏み出した瞬間、彼は勢い良く飛び出した。勢いを殺さず、男の顎をめがけて渾身の一撃を与える。痩せ細った身体からは想像もつかない強烈な拳に、男は声もなく倒れる。ぐしゃりと崩れ落ちる音と共に、残りの二人が驚いてこちらを向いた。

「……っこの、ガキが…!」

「捕まえろ!」

 大人の長い太腕が、少年を捕らえようと伸びてくる。彼は、避けきれない事が分かると、逆に男の懐に勇猛果敢に飛び込んだ。不意を突かれた相手の動きが、一瞬止まる。その隙を見逃さず、少年は地に手をついて煙のように視界から消え、次の瞬間、男の頬を足で蹴り上げた。鋭い攻撃に、相手が呻く。だが。

 怒りに興奮した男は、その痛みも構わず、少年の足を乱暴に掴んだ。少年の体勢がなす術もなく崩れる。

「おい、早くしろ!」

 小枝のような足を掴んだ男が。苛ついたように喚いた。もう一人の男が来て、必死に逃れようとする少年を殴り飛ばす。漆喰のボロついた壁に叩きつけられて、少年の細い肢体が軋んだ。背骨が圧迫された衝撃で彼は潰れたヒキガエルのような声を出し、受け身も取れずに土に塗れる。

「この野郎、手間取らせやがって…!」

「殺すなよ」

「はっ!殺しはしねえよ。ちょっと思い知らせるだけだ!」

 少年は、まだ動けない。震える右手の指先が、湿った地べたを虚しく引っ掻く。それを見て勝ちを悟った男が、下卑た笑みを浮かべながら近づく。しかし、その時少年の手元に光る物が見え、仲間の男が声を上げた。

「待て、そいつ何か持っているぞ!」

「……!?」

 少年は、諦めていなかった。右手で虚無をかいていたのではなく、それは傍に落ちていた薄いガラス片を握りしめるためであった。

 窮鼠猫を噛む。追い詰められ、殺気を迸らせた目をして、少年は男の眼球に躊躇なく刃物を突き出しそうとし―



「—セタ!伏せて!」



 突然、頭上から強気な少女の声が降り注いだ。少年は一瞬驚愕したように目を見開いたが、素早く地面に胴体を擦り付けた。咄嗟の事態についていけない男らだけが、動揺する。

 そして、彼らが気づいた時はもう遅かった。シャーッと何かが猛烈な速度で滑り落ちる音がしたかと思うと、斜め上から突然、正体不明の黒い物体が襲いかかり、男達はそれと正面から衝突する。巨大な質量のそれは、ガチャガチャと喧しい音を立てながら男達を壁にめり込ませた。打ちどころが悪かったのだろう、そのまま二人は気絶する。同時に、路地裏にいつもの静けさが戻ってきた。情けなく伸びた男三人を見下ろし、恐々として様子を伺う。数十秒、何の変化もないことを確認すると、少年は少し息をついた。なんとかなったようだ。

 先程、少年の窮地を救った少女が、穴だらけの瓦屋根から慎重に降りてきた。おそらく、屋上から粗大ゴミをロープに吊るして滑らせたのだろう。男達が無惨に倒れている傍に、壊れた家具が、緩くなって千切れたロープと一緒に散乱していた。どうやって。この短時間であれ全てを運べたのかは分からないが、おかげで助かった。礼を言おうとして、少女を見上げて、しかし、彼は咄嗟に言葉に詰まる。彼女は、明らか剣幕した様子であった。

「……セタ。また一人で無理をしたでしょう」

「……ごめん、姉さん。……で、でも、他の兄弟達よりとても小さい子が襲われてたんだ。俺に意識が向けば、まだどうにかできると思って……」

 口も、態度も、殊勝に謝ってはいるが、少年には反省する兆しが見られなかった。それも無理はない。彼がそう言って自らを危険に晒すのを、もう幾度となく見てきたのが少女である。姉らしき、豪胆な精神性を感じさせる少女は、呆れたようにため息をついた。

「はぁ、もう…とりあえず、傷を見せなさい、セタ」

「傷?」

「殴られてたでしょ!」

「……い、いや、このくらいだったら……」

「大丈夫じゃない!心配させないでって、いつも言ってるでしょう!早く見せてったら……ああ!やっぱり青くなってる!」

「でも、あんまり痛くない」

「セタが痛くなくても、私が痛いの!……ねえ、どうしてお姉ちゃんの言うこと聞けないの?」

「……ごめんなさい」

 少年は、肩を縮こまらせて俯いた。

 姉が、自分のことを心配して怒っているのは分かってはいるが、やはり見逃せなかったのだ。この国は子供が充分に守られていない。貧民街では育児放棄などよくある事で、今日のあの子も捨てられたのだろう、親が急に居なくなってしまった、と泣きながら歩いていたのだ。そこを、奴隷商人に狙われた。今にもあの子を攫おうとする男達を何とか挑発して、結局自分が逃げる羽目になった。少年は、そういうことを懲りもせずに繰り返していた。

 彼はくだらない蛮勇や根拠のない楽観でしているわけではなかった。セタは、痩せっぽちで貧弱な体つきに見えて、貧民街では誰よりも足が速かった。そして、この年の子供にしては異常な腕力を兼ね備えていた。今回はしくじってしまったが、運が良い時は、倍の数の奴隷商人たちを相手に完全なる勝利を収めたこともあった。逃げる能力のある者が囮になるのは当然である、と。彼はそのように思い、あくまで冷静な考えの下で行動していた。

 だが、そうであったとしても、毎回危険に晒される弟を見て、少女が心配になるのは当然だ。少年は、先の姉を思い出す。いつも明るい彼女に、泣きそうな顔をさせてしまった。喉がきゅう、と締め付けられる感覚に陥る。

 彼は自分のどうしようもない性癖を鑑みて、苦悶に打ちひしがれた。自分はやはり、繰り返してしまうだろう。大切な人に辛い思いはさせたくないのに、気付けば身体は明後日の方角へと走り出し、死神と相対する人生を送るであろう。こんな酷い人間を見捨てずに未だに心配をし続ける目の前の少女には、一生頭を上げられる気がしなかった。

 もしかすると、殴られた時よりも悲惨で鎮痛な面持ちをして黙ってしまった少年を見て、少女はもう一回ため息をついた。他者を助けられると知った時の、考えるより先に動いてしまうといった弟の悪癖は、彼女もよく知っている。人を救うために行動する、というのは美徳ではあるけれども、この貧民街では、ことさら非常に致命的だ。そんな、難儀で不器用な弟を愛しているけれども。

 少女は気を取り直し、声をかける。

「セタ、帰って休もう。他の子たちも待ってるから。全員が揃っていないと、ご飯が食べられないからね」

「……うん、分かった」

「……あれ?セタ、あなた靴は?」

「え、ええと……。この人たちの気を引こうとした時に、投げるものがなくて……」

 しどろもどろな回答をして、さらに小さくなってしまった弟を見て、流石の姉も頭を抱えた。そして、弟の腕をむんずと掴んで、背中に背負う。問答無用な行動にセタは目を丸くしつつ、気恥ずかしそうに頬を染めた。

「靴、拾ってから帰るわよ。見つけたら、おんぶは解いてあげるからね」

「うん……」

 少女は、同じくらいの体重の人間を背負っているとは思えないほどの軽快さで走り出した。心地よい振動に身を預けようとするも、下から伝わってきた振動で、鈍く重々しい痛みに襲われた。予想以上に体にダメージが入っていたのだろう。さっき、あまり痛くない、と言ってみせた無鉄砲な自分を思い出して、苦い笑いが込み上げてきた。背後の弟の変化に敏感に気づいた少女が、愉快そうに鼻を鳴らした。彼女には本当に敵わない。これからもお世話になりそうだ。

 辺りはいつの間にかすっかり暗くなっており、街灯のない死の街は悪霊たちに占領されつつある。恋しい家族の待っている我が家に早く帰ることができるように、少女は弟の怪我を気遣いながらも走る速度を上げた。


「あー!ミラ、セタ!」

「おかえりなさーい!」

「遅いよ!お腹減ってるのに」

 二人は、兄弟の集まっている住処に帰ってきた。七、八歳くらいの男の子や女の子達がミラとセタの周りに群がる。

 彼らは、ミラとセタの兄弟だ。しかし、血の繋がりはない。二人も、そういう点では赤の他人だ。

 ここでは、親に捨てられた、もしくは、物心ついた時から一人だった子供たちが、お互いに助け合って暮らしていた。ミラとセタは年長組で、彼らを取りまとめている。兄弟は全員で十五人以上はいて、毎日人数分の食料を用意するだけでも大変だ。しかし、全てを投げ出したくなるほど辛いと思ったことは、あまり無かった。彼らは、本当の家族のようだった。長い間寝食を共にし、よく喧嘩もするが絆も強い。

 セタが、一人一人の頭を撫でながら言う。

「ごめんね。ちょっと、俺がしくじったんだ。すぐご飯用意するから、いい子で待ってて」

「今日はセタのご飯だあ~!」

「しくじっちゃ、め、だよう!」

 可愛らしい小さな子たちが、ぴょんぴょんと跳ねながらセタの周りをぐるぐる走る。微笑ましい様子を見て思わず笑い、また頭を撫でた。

「そうだね。気をつけるよ」

「はいはい~!皆、手を洗って来なさーい」

「はいミラ姉ちゃん!」

「俺いっちばーん!」

「あーずるい!お水貴重なのにそんなジャボジャボしないでよ!」

「へへ、早い者勝ちだもんね」

 水の入った桶の周りにずらりと並んで、和気藹々とお喋りする兄弟たち。でこぼこな頭を見下ろして、セタは穏やかに微笑む。

 今日も、何事もなく終わることができた。生きることは、本当に大変だ。それでも、朝から日替わりの仕事をして、なんとかお金を集めて、なんとか食料を確保して、水を手に入れて生きていくのだ。

「はい!ご飯を運んでね!今日の配膳当番は〜シルワとアニマ!」

「「はーい!」」

「盛り付け当番、コマ、マナ!」

「「はい!」」

「片付け当番はリーパとアルス!」

「「うぇ〜」」

「そこ!文句言わな〜い!」

「あはは…!」

 めんどくさそうにため息をついた弟たちに、ミラがスプーンをビシっと突きつける。その微笑ましいやり取りに思わず吹き出しながら、セタは自分も夕食の準備を手伝う。

 兄弟たちの手助けがあり、あっという間に食卓に料理が並んだ。兄弟たちは嬉しそうに歓声を上げて、ボロ布の上に胡座をかいた。

 料理と言えるほど、大したものではない。パンとスープがあるだけの貧相なもの。けれど、兄弟の中には、それでさえも満足に食べれていなかった子もいた。できる範囲で、いい思いをさせてやりたい。この子たちの存在が、セタに頑張る理由をくれていた。

 ミラが音頭をとり、全員で声を揃える。いただきます、という元気の良い合図と共に、穏やかな晩餐が始まった。今日は何をした、何があった、そう言えばあれが足りない、補充しよう…。会話は尽きることなく、ゆったりとした時間が過ぎていく。セタは、一日の中でも、この瞬間が特に好きだ。大切な兄弟の溌剌とした様子を見て、また明日への活力を充填することができる。

 それにしても、随分と人が集まったなぁ、とも思う。別に、集まろう、と誰かが言って一緒に住むようになったわけではないのだ。しかし、こうなった理由の大部分は、セタのお人好しな性格によるものだろう。

 最初、セタはミラと二人のみで行動していた。彼女と知り合った当時のことは、よく覚えてはいない。どうも、記憶が抜け落ちているようだった。ミラ曰く、親に身売りされそうになった時、必死に逃げていた途中で自分と出会ったらしい。一人で行動することは何かと危険が伴うため、常に一緒に居るようになった。その後、セタが困っている子を見つける度に対応したため、少しずつ二人に付いてくる子が増え、今のような大所帯になっている。

 その過程のどこでも、セタは自分の状態よりも、相手が気になるようだった。相手がお腹を鳴らしていれば、自分だって何日も食べていないくせに、食べ物を簡単に渡してしまう。子供に限らず、老人や大人が怪我をしているのを見ても同じ行動をした。自分の疲れや何やらを無視してそちらへ向かってしまう。

 最初、ミラは理由が分からなかった。倒れそうになる寸前まで普通の顔をして動くセタを見て、彼は死ぬのが怖くないのだろうか、もはや生きること自体に興味がないのか、と悩んだ時期もあった。そう思わせるほどに、セタには人間の欲という物が感じられなかったのである。人間が、自分のために何かしたい、欲しい、と思うのは当然だ。貧民街なんて、その欲が振り切った奴ばかりだ。なんせ、国は貧民を救おうなどと考えてはいないのだから、自分の為だけに生きてゆかねばならない。

 しかし、セタは、完全に逆だ。潔癖ささえ感じさせるほどに、彼の行動原理は、自分以外の誰かだ。ミラは、それが今でも不可解ではあるものの、間違っているとは思わない。それは、セタの美点だと考えた方が良いだろう。何であれ、長く過ごしてきた大切な弟である。その不可解さも愛しく思えるほど、ミラはセタのことが好きだし、兄弟も皆セタのことが大好きだ。少しくらい変わっていても、誰も気にしない。


  二


 日は完全に姿を消して、外は真っ暗闇になった。晩餐の後片付けも終わり、遊び盛りの兄弟たちを諭して寝かしつける。最後の子が深い寝息を立て始め、セタがほっと息をついた時、外で動く気配があった。

 今日、やるべきことは残っていない。明日の労働に向けて寝るべきなのだが、こんな時間に夜を歩く者は、ろくなものじゃない。無視をしても良いのだが、警戒するにこしたことはなかった。

 ミラとセタは目を交差させ、頷き合う。ミラが、声をひそめて、彼の耳元で囁いた。

「夕方みたいな無茶はしないでね」

「うん。様子を見るだけにする」

「そうね、それがいい」

 セタは、足音を立てないようにして家から抜け出す。貧民街は、道が非常に悪く、がらくたがそこらじゅうに転がっている。気を付けていないと大きな音を立ててしまうのだが、今は、それを逆手に取ることができた。セタは耳の神経を尖らせて、「誰か」ががらくたを踏みつける音を聞いた。足音の重さからして、人間で間違いはない。そして、気配は家の近くにある掲示板の方へと向かって行った。

 掲示板は、何か、とても長い文章を貼り付けるために使われている。セタは、何となくそれが、大切なものだというのは分かっている。何故ならば、その文章は定期的に、身分の高そうな兵士が貼り付け直しに来るからだ。しかし、貧民街では、大半の者は読み書きができない。ミラも兄弟もできないし、セタも例に漏れず、文字を読むことは不可能だ。だから、掲示板というのは、大層な見た目の割には、ハリボテに過ぎなかった。

 それよりも、掲示板の端に雑にピンで止められた「日替わりの仕事依頼」の方が、何倍も需要があった。文字が読めないといったが、セタは、非常に簡単な単語であれば、感覚で意味を理解している。どんな仕事がマシで、どんな仕事が危険か、という区別をつけるのは得意であった。

 例えば、変に単価の高い仕事は、理不尽に拘束されて、商人たちの性奴隷になる恐れがある。または、違法だと言われている薬を運ぶなど、犯罪の片棒を担ぐ仕事も堂々と募集されている。貧民である自分たちは、文字を知らない。悪徳な雇用主は、それを利用して自分たちを騙そうとする。セタも、何度も利用され、辛酸を舐め、時には命の危険に晒された。兄弟には、そのような目に遭って欲しくない。早朝に掲示板の内容をいち早く確認し、兄弟たちができそうな仕事内容を選び、分担するのがセタの役割であった。

 さて、気配は件の掲示板の前で立ち止まった。しばらく、何もせずに佇んでおり、セタは内心首を傾げた。こんな夜中に、わざわざ外を出歩くのも妙だが、謎の人物は、なぜ掲示板の前にいるのだろう。不思議に思っていると、黒い人影は、やっと決心がついたのか、懐から何かを取り出した。そして、掲示板の端の、最も目立たないところにピンを刺す。

 何かを貼っている…?

 セタは、危ない好奇心が湧いてしまった。普段の慎重な彼であれば、絶対にそのような失敗はしなかっただろう。もう少し見ようと物陰から身を乗り出した時、誤って何かの破片を踏んでしまった。

 ぱき、という音が響き渡る。作業をしていた人影が、ぴたり、と静止して、ゆっくりとこちらを振り向いた気がした。

 しまった。消されるかもしれない。咄嗟にそんなことを思ったセタは、反射で落ちていたガラスの破片を拾った。貧民街の良いところは、いざとなればどこにでも武器が落ちていることである。

 しかし、そのようにして身構えたセタの予想は外れた。人影は、じっと考え込んでいたかと思うと、何事もなかったかのようにして踵を返した。そして、セタには何もせず、足早にその場を去ってしまった。一人残った少年は、やや唖然とするも、とりあえず、人影が何かしていたところに行く。不意に風がふいて、ヒラヒラと一枚の紙が落ちた。さっきの謎の者が貼っていたものだろうか。途中でセタが邪魔をしたから、固定が甘かったのだろう。

 見ると、ただの求人募集だった。しかし、使っている紙が非常に質の良いものな気がする。手触りが滑らかで、水分を感じられるような柔らかさがあった。自分が着ている衣服よりも上等な雰囲気を感じて、少しやるせなくなった。

 それにしても、一体どうして夜に、それも、こんな貧民街の掲示板に貼ろうと思ったのか。内容は、憶測であるが、家事をする人員が足りないので、一人雇いたいとのことだった。何の変哲もない。

「……あれ?」

 しかし、給料の項目を見た瞬間、セタの目の色が変わった。

 高い。ものすごく高い。そこら辺の日雇いを1週間するよりも、ここで一日働く方が倍の報酬がかえってくる。しかも、働くのは午前だけでいいという。午後には家に帰ってきて、兄弟の相手をすることができる。最近困窮を極めていた食費も一気に浮く。何より、危ない仕事じゃない。ミラに心配をかけなくていいし、兄弟にいい物を食わせてやることができるなど、もう行くしかない。日雇いじゃないのもいい。安定して生活できるようになる。募集するのは一人だけ。そしてこの紙をまだセタしか見ていない。これ機会を逃すわけにはいかない。

 …いや、しかし、もしかしたらミラは反対するかもしれない。こんなに条件が良いのだ。絶対に裏があるだろう。また心配させることになるし、今日、怒られたばかりだから、さすがのセタもすぐにこの条件に飛び付くのは気が引けた。

 …分かっては、いるのだが。


「セタ、どうだった?誰かいた?」

「…ただの猫の親子だった」

「なんだ、良かった。じゃあ明日も早いし、寝ましょうか」

「うん、おやすみなさい」

 隙間風の多い、少し肌寒い室内で、ミラが横になって丸まる。セタも、蝋燭の灯りを吹き消して、彼女の隣で薄っぺらい毛布に潜り込んだ。お互いに身体をぴったりと密着させて、体温が逃げないようにする。すぐに、ミラの健やかな寝息が聞こえてきた。少年は、優しく頼りになる姉の顔を見つめながら、拳を強く握りしめた。

 …姉に、嘘をついてしまった。罪悪感がふつふつと募る。眠気も全く来ない。何度か寝返りを打って、それでも目は冴えたままだった。きっと、初めて家族相手に嘘をついてしまって、落ち着かないのだ。明日、ちゃんといい仕事だと分かったら、報告して謝ろう。セタは、ポケットに手を突っ込んで、畳んで入れておいた紙をくしゃりと握りしめた。


  三


 次の日。

 セタは、自分が場違いなところに来ていると確信していた。全身に冷や汗を浮かべて、貧民街では有り得ない、綺麗で立派な門を見上げる。これで裏門だと言うのだから、表はもっと、想像もつかないくらい豪華なものに違いない。絶対貴族の屋敷じゃないか。自分で来てしまったものの、やめればよかったと後悔した。

 今朝、セタはいつも通り日雇いの仕事に行くふりをして、途中から道を変えてここまでやって来た。やけに遠いと思ったが、当然だ。こんな建物が貧民街にあるわけが無い。姉の、考えてから動けと言う言葉が頭をよぎった。全くその通りだ。

 今さら帰るわけにもいかず、裏門の前でそわそわと服の裾を握って待機していると、一人の女性が出てきた。深いブラウンの髪を一括りにしてまとめ、清潔感のある襟付きのワンピースに、純白のエプロンを身に付けている。歩いているだけなのに、その優雅さに見惚れてしまった。

 女性と目が合ったことに気がつき、咄嗟に背筋を伸ばす。できるだけ新しい服を選んで着たが、それでも貴族の基準ではみすぼらしいだろう。セタは、すごく気まずそうに襟を正した。女性は彼を一瞥して、簡潔に質問をした。

「募集を見た方ですか?」

「は、はい」

「承知しました。こちらへどうぞ」

「っ……?」

 あっさりと、中に通される。てっきり汚い、とか言われて追い返されると思ったので拍子抜けした。しかし、よく考えると、貧民街の者を雇用しようとして紙を貼ったのだから、別に見苦しい奴が来ても変ではないのかもしれない。

 裏門を抜けると、今度は圧倒されるほど美しい世界が広がっていた。見渡すほどの広大な敷地内に、華やかな森が生まれている。深緑の葉に、赤くて大きな花が沢山咲いていた。女性が育てているのだろうか。貧民街では見られない、新鮮な赤色が、セタの脳内に印象深く残った。

 小さな森を抜け出すと、とうとう屋敷の中についた…と思いきや、まだ玄関にも入っていないようだった。貴族の常識と自分の知っているものが違い過ぎて、すでに目眩が起きていた。しっかりしろ。食費のために頑張るんだ。

 気合いを入れ直して女性の後についていくと、屋外のちょっとしたスペースに、洗濯桶と物干し竿があった。やっと、自分でも知っているものが出てきた。どこも重厚でキラキラとした外観なのに、ここは親しみ深い気配がした。

「こちらの中庭が、あなたの仕事場です。主に洗濯や屋敷の掃除をしていただきます」

「はい…!」

 案内されて、テキパキと洗濯の仕方や掃除のする区域の説明を受ける。仕事内容は、そんなに難しくなかった。いつも兄弟と一緒にしている事だったし、たまに料理の手伝いもあるようだが、それも問題なかった。最初はどうなることかと思ったが、杞憂だったようだ。最後までこのような仕事であれば、ミラに報告しても大丈夫だろう。確定はしていないが、良い仕事を見つけることができたかもしれない。

 一つ気になるのは、屋敷にほとんどと言っていいほど、人がいなかったことだ。こんなに広いのに、使用人の数がそれに見合っていない。詳しく聞きたかったが、案内をしてくれた彼女の、終始有無を言わせない雰囲気に圧倒されていた。口調は丁寧で、洗いざらしの良い匂いを纏った淑女であるが、セタは、彼女から鉄のような強さを感じた。故に、何も言い出せずに頷いてばかりいた。

「では、早速今日からお願い致します」

「はい!」

 そんなことを思っていたら、彼女はさっさとどこかへ行ってしまった。忙しいのだろうか。やはり、邪魔をせずに自分の仕事をするべきだろう。セタは、言われた通りに洗濯から始めた。

 すぐに気付いたのは、洗濯籠に入れてある服が、どれも小さい子供用だったこと。セタは首を傾げた。この屋敷の主人は、誰なんだろう。まさか、こんな小さな子が主なのだろうか。でも、下手に詮索すると不味いかもしれない。

「ううん…」

 まだ一日目ではあるが、雲行きが怪しくなってきた。これじゃあやっぱりミラに言えないかもしれない。

「(…あの女の人は、何も言わなかったけれど。問題を起こさないように気をつけなきゃ)」

 貴族からしたら、貧民の命というものは驚くほどに軽い。「ムカついたから」という理由だけで、知り合いの貧民が三人も惨殺されたことがある。彼らの気まぐれの延長線上に、自分たちは立たされているのだ。あの女性も、貴族の元で働いている以上、セタの命を脅かす側の人である。機嫌を損わないように、細心の注意を払うべきだ。

 一応、無防備でやって来たわけでもない。何か身の危険を感じたら、すぐに脱走する用意はできている。既に、緊急時の脱出経路は頭の中にあった。さすが、貴族の屋敷というもので、敷地を取り囲む冊はセタの身長の何倍も高かったが、それ以上にこの少年の運動神経は常軌を逸していた。

 何があっても、セタはこの類稀なる身体能力を駆使して生き延びてきた。そのせいで、積極的に自己犠牲を働くような悪癖を加速させているのだが、少なくとも今日、死ぬつもりは毛頭なかった。

「(この仕事が危険がどうか、見極める。最後まで油断はしない…!)」

 セタは決意を新たにして、目の前の洗濯に取り掛かった。


 しかし、給料を貰った時、まあいいか、と思ってしまった。紙に書いていた通りの高額だ。実際に渡されると、細かい事など気にならなくなるほど嬉しい。金を短期間で稼ぐには、体を売るのが一番だが、それは死と隣り合わせだ。性病にかかっても、貧民街に住んでいる人を見てくれる医者などいない。いたとしても、治療費がバカでかくて払えるものじゃない。

 セタは、兄弟に体を売ることなんて考えさせないよう、必死に働いている。だから、家事をしただけでこんなに貰えるなら、深く追及する必要などない。ありがたく働かせて貰おう。上手くいけば、何年も安定した生活を送ることができるのだ。セタは来た時とは反対に、蝶のように軽い足取りで帰っていった。

 裏門から出ていくセタの後ろ姿を、部屋の中から見つめる者がいた。その者の側に、茶髪の女性が歩み寄る。一緒に、ふわふわとした走り方で去っていく少年を眺めながら、彼女は人影に問いをかけた。

「あの子が、あなたの背後をとったのですか?」

 聞かれた者は、セタから目を離さず、細くため息をついた。そして、少し掠れた、枯れ木のような声で呟く。

「……そうだ。気配に気付けなかった。俺も焼きが回ったようだな」

「…珍しいですね」

「……それで。あのガキ、今日はどうだった」

 雇い主の言葉に対して、女性は小首を傾げて思案するように報告する。

「この屋敷について、不思議には思っているようですが、何も聞いてはきませんでした。…今回は、今までよりも長続きするかと」

 簡潔に告げられた女性の考察に、男は承知したように瞼を閉じた。彼は、腰に携えた剣の塚の形を確かめるように、ゆっくりと指でなぞった。

「…いいだろう。俺も、みすぼらしい盗賊のように夜に動くのは好きじゃない。長続きするなら、それに越したことはない」

 チャキ、と金属のぶつかり合う音がした。剣を無意識にいじるのは、何か考えに耽っている時の主人の癖であった。女性は、黙ってその動向を見守る。

「…あいつもダメだったら、処分するだけだ。貧民街に居る者が一人消えたところで、支障はない」

 男がこちらに頭を回す。冷たい、暗殺者の目だ。

「ここの『主』の存在を、知られてはいけない。不穏な動きをするようだったら…」

「はい、直ちにご報告致します」

 間髪入れずに、女性が返答する。教育の行き届いた殊勝な姿勢だが、男はそれには無反応であった。

「……俺は仕事に戻る。引き続き、監視をしろ」

「了解致しました」

 うやうやしく頭を下げた女性の隣を、男は素っ気なく通り過ぎる。そして、彼女は、部屋の外に出た男の気配が急速に消え去ったのを感じた。音もなく、亡霊のようにかき消えた男の実力に、何度目かの驚嘆を覚える。

 彼女は、やっと頭を上げて、もう一度窓の外を見た。だが、あの痩せっぽっちで白い少年の姿も、既に密集した住宅街の中へ飲み込まれていた。


 薄暗い書斎に、一人の少年がいた。硬い襟付きのシャツに、黒く染められた上等な半ズボンを履いている。姿は十歳未満で、あどけない顔立ちであった。しかし、少年が纏っている雰囲気は、幼い子供にはない歪な冷たさがあった。窓から差し込む陽光に背を向け、大人でも解読するのに難儀する分厚い書をじっと読んでいる。木製の分厚い作業机の上、傍にある短い蝋燭の火を頼りに、どうやら少年は、勉学に励んでいるようであった。

 集中の海に沈んでいた彼は、ふと何かを感じ、不機嫌そうに片眉を上げる。やや乱暴にして本を閉じたその時、丁度よく部屋のドアが三回ノックされた。扉が開かれると、少年の予想通り、そこには配膳の台を引くメイドの姿があった。

「失礼致します、第八王子。お茶をお持ち致しました」

「…そこに置いておけ」

 それは、声変わり前の透き通った高さを持っていたが、やはり幼さとはかけ離れた調子であった。来る者全てを拒むような威圧に、女性は少したじろぐ。何年も経験しているため、取り乱すことはなかったが、自分の表情筋が引き攣るのを感じた。

 この部屋に足を踏み入れることは、どうやっても慣れない。本当に、これが八歳の子供だというのか。女性は、この王子を監察する任務を負っているが、逆に、こちらを見透かされているような気分にしばしばなった。

 さっさとテーブルに茶器を置いて会釈をした後、彼女は足早に部屋を出ていった。少年は、完全に人間の気配がなくなるのを確かめると、再び本を開いた。

 本は、全てを忘れさせてくれる。世間を知らない馬鹿にもならずにすむ。権力に目がない兄弟を相手にするより、断然良い。今のところ、この延々と続く言葉の羅列だけが、彼の心に安寧をもたらしていた。彼にとって、現実世界こそが一番価値のないものだ。

 しかし、それにしても、だ。

「…よくやるものだ。また貧民街から抜き出してきたのか」

 今日、新しい気配を感じた。どうせ使い捨てるというのに。自分の存在を隠すためにわざわざ手を尽くして、貧民を利用している。王家の大人の勝手な都合で関係ないやつを巻き込むのは腹立たしいことだ。

 しかし、自分にはそれを止める力がない。反抗して目立とうとするなら、即、殺されるだろう。なんのために自分を生かしているのかは分からないが、それならば、わざわざ生き急ぐつもりは無い。少年は自分の非力さを承知の上で、達観していた。

「…いつもと同じだ。誰が来ようと、関係ない」

 自身に言い聞かせるように呟いて、今度こそ少年は、本の世界にのめり込んでいった。


  四


 結論から言うと、セタの企みは迅速に看破されてしまった。午後、帰ってきてすぐに兄弟たちの世話をして、たくましく成長する彼らを誇らしく思っていたのも束の間。突如、背後に隠しきれぬ怒気を感じて振り向くと、まだ仕事をしているはずのミラが、仁王立ちで立っていた。

 今、セタは兄弟の前で正座をさせられている。目の前には、背景に修羅の神像を従えた姉の笑顔。完全にやらかした。まさか、一日であの仕事を始めたことがバレるとは思わなかった。どこで気付かれたのだろうか。

「セタぁ~?どこでバレたんだろう、とか思ってなぁい~?」

「うっ…」

 頭の中を丸ごと殴られた気がして、セタは肩を縮こまらせた。それが面白かったのか、様子を見ていた小さな兄弟たちが、笑顔で近づいて来る。

「セタがまた叱られてる~!」

「悪い子だあ!」

「わぁー!悪い子悪い子!」

「おしおきだぞ!」

 雛鳥のようにわらわら集まってきて、彼らはセタの頬っぺを好き勝手につねり出した。他にも、ミラの真似をして仁王立ちし出す子や、セタの後ろ髪をクイクイ引っ張る子など様々だ。彼は、なすがままに甘受している。

「ひかひ、ほこでふぁれたんふぁ」

 可愛らしい処刑人たちに頬をムニムニされながら、セタが眉を下げてもごもごと呟く。多分、どこで自分の企みがバレてしまったのか気になるのだろう。

「ふっふー!セタ兄もまだまだだな!」

「モノ?……いふぁい、いふぁいから」

 まだ、おしおきは終わっていないらしい。何故か、次は俺がやる、私がやると列ができている。そんな年下の家族を尻目に、モノと呼ばれた少年は、得意げに胸を張った。

「ミラ姉がセタ兄の後をつけろっていうから、頑張って追いかけてたんだぜ!」

「え…?気づかなかった…」

 今朝の自分は、新しい職場に結構不安になっていたのかもしれない。モノを甘く見ているわけではないが、注意力散漫だった。よく背後から襲撃されなかったものだ。

「ふふん。俺の才能が開花したようだな!」

 モノがふんぞり返る。セタはすかさず彼の頭を撫でた。

「うん、とてもすごい。…じゃあ、朝の時点で怪しまれていたんだね。そんなに不自然だった?」

 セタのさりげない質問に、モノはこてんと頭を傾けた。

「ううん?俺は普通だと思ったけど、ミラ姉が、絶対何かある!て言ったから」

「……」

 セタは、長女の勘の鋭さに絶句して、口を開けたまま彼女の方を見上げた。弟の視線を受けたミラは、誇らしげに腰に手を当てる。

「私を騙そうなんて百年早いわね!」

「いや、ミラ姉がセタ兄のこと好きすぎるだけじゃねえの?他の兄弟は全然気づかなかったし」

 ミラの、セタに関する神経は異常なほどに発達している。それは、この大家族ではいたって常識であった。半ば呆れたようなモノに、彼女は満足げに鼻を鳴らした。

「ふ、もっと褒めていいわよ」

「褒めてないよ~」

「そ、し、て!」

 モノの訂正を無視して、ミラがビシッとセタを指さす。セタは、ビクッとなって姿勢を正した。

「昨日の今日で、学ばなかったのかな?また無理しようとしてたのか、ん~?」

 ミラもムニムニに参加し出す。もう誰が、どこを引っ張ってるのか分からない。

「ほーいふふぁふぇふぁふぁい、はんほひほーほほほっふぇふぁ(そういうわけじゃない、ちゃんと言おうと思ってた)」

「本当かな~?…ちゃんと、安全な仕事なんでしょうね。お金より、あなたが大事なのよ」

 優しい姉は、流石に笑顔を崩して、眉を寄せる。また心配させてしまったのだ。セタは、一生懸命に何度も頷いた。

「はいほーふ(大丈夫)」

「むむむ。何かあったら言うのよ?」

「ふむ、ほへんははい(うん、ごめんなさい)」

「…よし、おしおき終わり!ご飯の時間よ~」

 彼女は難しい顔をしていたが、ひとまず理解を示してくれた。セタから離れて、手を二回、パンパンと叩く。釈放の合図と、食事を告げる宣言に、兄弟たちがきゃあ!と黄色い声を上げてはしゃいだ。やっと解放されてじんじんとする頬っぺをさする。その時、手の甲に柔らかい感触があった。見ると、妹の一人のアナであった。セタにおしおきをし損ねてしまったのだろう。不貞腐れた顔で、彼の手をつんつんつんつんしていた。なので、彼女を勢いよく抱き上げて、一緒にくるくると回転する。妹の顔に笑顔が戻ったのを確認すると、そのまま肩車をして食卓へ向かった。


 それから一週間は、特に何か起こることも無く平和に過ぎた。朝になる度に、不安そうな顔でセタを送り出していたミラも、少し安心したようだ。お金が貯まったことで料理のレパートリーも増やすことができ、兄弟も皆喜んでくれている。

「セタの家が最近豊かだ」と聞きつけた貧民の知り合いが、兄弟たちに金をせびるという事件も起きてしまったが、ミラとセタが駆けつけると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。その情けない後ろ姿を見るたび、セタは感心したように姉を称賛した。

『姉さんってすごいね。やっぱり、しっかりしてるから、大人も怖いのかなあ』

 そう言ったセタに、ミラも、襲われた兄弟も微妙な顔をしていた。確かに、貧民街で彼女の武勇は知れ渡っていた。大人の男たち数名に囲まれたら流石に厳しいけれども、それ以上に、彼女の戦い方は賢く、容赦がない。兄弟たちが危険に晒されたとなれば、彼女の手痛い報復が待っている。そのように犯罪の抑止力があるから、幼い子供ばかりの大家族であっても、簡単に壊されずに済んでいた。

 しかし、彼は変なところで鈍いので知らないだろう。ミラだけではなく、自分も恐怖の対象であることに。いや、下手をすると彼女よりも抑止力になっていることに。彼は、自分が頼りない人間であると思っているが、現状は全く異なるものであった。そもそも、複数人の奴隷商人から追いかけられて何度も生き延びている時点で、異常である。彼は、ミラほど厳格で攻撃的ではないが、内に秘められた身体能力は未知数であった。他の貧民は、動物の防衛本能のようなもので彼を避けていると言えるだろう。ともかく、ミラとセタの二人がこの大家族の要であり、最大の守護壁であった。

 さて、セタは今日も屋敷に来て、勤勉に仕事に取り組んでいた。貴族の服は、どれも滑らかな生地でできていて、洗う時にも傷つけないように注意しなければいけない。段々と慣れてきてはいるが、今洗っている物を貴族が着るのだと考えると緊張する。貴族の不興を買って殺された、などというのは飽きるほどよく聞くし、完璧に振る舞ったとしても、彼等はどこで機嫌を損ねるのか分からない。犬やカラスといった動物の方が、まだ理解できるかもしれない。

 不意に、セタはピタリと動きを止めた。

「(人…?)」

 いつもの、茶髪の女性ではない。全く別の人間だ。そこまで把握した上で、彼は解せないように瞬きをした。そして、戸惑った様子で、背後に居る人物に声をかけた。

「俺に何かようか…です、か」

 言ってしまった後で、セタは大きな羞恥心に襲われる。

 敬語は慣れていない。出来れば、学のない自分にも寛容な者であればいいのだが。流暢に言える台詞は、「申し訳ありません」と「命だけはお助けください」の二つである。貴族に対しては、これしか言ったことがない。それ以外の会話など、想像もしたことがないのだ。

 建物の柱から、一人の男が出てきた。簡素なシャツとスラックスに、体の片側だけを覆うマントを羽織っている。左腰に剣を差しているから、騎士か傭兵だろうか。だが、屋敷に住んでいるようには見えなかった。どちらかというと、自分と同じような…「野良」の気配の方が強かった。何故ここにいて、自分を見ていたのだろう。

「この距離で気付いたのか?」

「いや、ここ一週間ずっと視線を感じていたからな…です」

 男は、少年の告白を聞いて内心驚く。彼は、あり得ない暗い気配に敏感らしい。自分の味方以外を特に警戒しているというべきか。もし諜報員になれば、次の日から大いに活躍するだろう。

「無理に敬語を使うな。貧民の癖に身の丈に合わないことするんじゃない」

 歯に衣着せぬ評価に、セタは面食らったように仰け反る。しかし、男が無闇矢鱈に激昂していないことに気付くと、気を取り直して体を向けた。

「…ええと。なんでここに住んでないのに、うろついてるの?もしかして、俺の、見張りとか…?」

「ほう。そこまで勘づいているのか」

 男が、興味深そうに少年を見つめると、彼ははっとして焦ったように見えた。

「べ、別に気にしてない!ここで働かせて貰えるなら、基本どうでもよくて…」

 セタは早口になったが、最後は消え入りそうな声になっていた。

 厄介な奴だと思われただろうか。でも、解雇されるのは困る。明日の生活を守らないといけない。今仕事をやめたら、必死に日雇いをして、腐ったパンを取り合う生活に戻らなくてならない。腐った食材ではなく、まともな食材を買うことができる程度のお金があるのは、非常に大きなことなのだ。兄弟も育ち盛りである。病気や食中毒にはさせられない。何をしてでも、この仕事を失うわけには。

 しかし、必死なセタとは裏腹に、男は無感情にじっとセタを観察していた。そして、突如不適に笑う。身構えるセタの目の前まで歩いていき、男は徐に、こう言った。

「なあお前…騎士にならないか?」

「……え?」


  五


 …どうしてこうなったのだろうか。

 セタは、仕事が終わった後も屋敷に残って、剣術の稽古をすることになった。しかし、こうなるまでに、話がものすごく早かった気がする。木で作られた練習用の剣を見つめながら、セタは珍妙な顔をしていた。

 騎士にならないか、と誘ってきた男は、イーサンと言う名前だ。セタは、イーサンが居る時は実践的な立ち稽古をし、居ない時は、ずっと素振りなどの基礎練習をするようになった。最初、屋敷での仕事があるから断ろうと思ったのだ。しかし、上司であるあの女性は、イーサンが言うなら、とさらりとセタがここで鍛錬することを許可した。

 そうして、セタは半ば強制的に見習い騎士となったのだった。どうして、自分を騎士にしようと思ったのか分からないし、そのようにけったいな身分の者になったところで、何をすればいいのか見当もつかない。貧民であるセタにはとんと縁のないものだった。

 騎士とは、本来貴族のための職業だと聞いている。平民はせいぜい、使い捨ての傭兵にしかなれない。それを、騎士とは。一応、大出世なのだろうか。身の回りに起きた出来事が信じられなくて、頭が混乱していた。

 イーサンに自分が疑問に思ったことを聞いても、

「貧民のガキがでしゃばんな」

 と、素っ気ない。でも、イーサンが給料を少しあげるように女性に言ってくれたので、セタはもう何も文句はなかったのだった。女性とイーサンの関係も気になるが、それも出しゃばらない方が良いだろう。セタは、自分の身の程を知っているつもりだ。いきなり現れたイーサンという男が怪しかったとしても、仕事を続けさせてくれるだけで、余りある恩義を感じていた。

 今日は、イーサンがいないので素振りや体力をつけるための運動をして帰ればいいだろう。最後の洗濯物を干し終わると、セタはいつもの練習場に向かった。この屋敷は、訓練ができる設備が整っているのに、過去に使われた形跡はなかった。セタ以外に使う者もいないので、のびのびと利用させてもらっている。

 剣を使うのは、意外にも面白い。

 剣とは武器であり、人を傷つけるものなので、その表現は不謹慎かもしれない。しかし、剣を振る時、セタは生まれて初めての高揚感を感じていた。一つ振るたび、全身の筋肉がびりびりと呼応し、集中力が高まっていく。ただ、剣を振るという行為が、セタにとってはとても神聖であり、彼の奥底に眠る何かを奮起させていた。

 セタは時間の概念を忘れ、今日も一心不乱に素振りをし続けていた。


 …最近、メイドがくる頻度が高い。これでは、鬱憤は溜まるばかりだ。本を読んでいても、良いところで中断されては意味が無い。少年は、自身のいらだちを制御出来ず、暗鬱として眉間に皺を寄せる。

 監視が厳しくなった。それは、「後継者争い」が佳境に入っていることを意味するかもしれない。少年の父親が病に伏してからは、ずっと兄弟たちは互いを敵視して、牽制し合っている。そんなに王位に拘泥する意味がどこにあるというのか。第八王子であり、権力的に、戦う前に負けている自分には、多分一生理解できない。理解もしたくない。

 最近、外に出てないので少々精神的にも疲弊してきた。というのも、一応、屋敷の敷地内であれば動き回っていいらしいが、少年は自ら部屋に閉じ籠っていたのである。どこに行っても監視されているなら、外に出る意義などないからだ。

 しかし、人間とは面倒臭い生き物だ。太陽の光を浴びないままでは、鬱になってしまう。少年は、久しぶりに部屋から抜け出すことを決めた。

 素直に部屋の扉から出るのではなく、背後にあった格子状の窓を開ける。少年のいる書斎は二階にあり、子供がそこから飛び降りれば、大怪我することは間違いない。しかし、少年は躊躇うことなく、颯爽と窓から飛び降りてしまった。

 落下すると思いきや、空中でゆらりと漂い、危なげなく地面に着地した。少年の周りには黒い、砂の粒子のようなものがまとわりついていた。それは、少年を守るように体を覆っていたが、彼がサッと手を振ると、忽ち霧のようにかき消えてしまった。

 これこそが、エテルニタス王家の者の特徴であった。

「影」と呼ばれるこの力。それを使役できるのは、王家の血を引く者のみであった。

 はるか昔、彼の先祖は、この「影」を使役して様々な国を征服し、圧倒的な軍事力をもって君臨した。「影」の正体は分かっていないが、その王家の特殊な性質らしく、その後も「影」を操る遺伝子を残すために、王家はとにかく血筋にこだわり続けた。

 その努力も虚しく、今では国王と、この第八王子以外に「影」を支配できる者はいない。少年は、極めて特別な者だった。

 しかし、国王は彼を恐れた。何故ならば、息子は自分よりも「影」を使役する才能があったのである。

 幼い頃から自分よりも黒く、濃い影たちを意識することなく操る姿を見て、国王は自分の子供であるにも関わらず、少年を暗い部屋に閉じ込め、王家としての権力のほとんどを剥奪し、存在しないものとして扱った。

 父親から呪われ、何年か経って。少年は数奇な運命を辿り、この屋敷に幽閉されているのだった。

 今日は、いい天気だ。やはり外に出て良かった。特に面白いことなどないが、日差しを浴びながら散歩するだけでも違うだろうと思って、庭を歩く。

 そこには、沢山の薔薇が咲いていた。本物の花を見るのも久しぶりだ。むせかえるほどの芳香が漂う道を、淡々と進んでいく。茨で囲われた緑の壁は、かなり奥まで続いている。

 別に、花を愛でる趣味はない。だから、この庭がどれほど広いのか、少年にも把握できていない。今日は、自分にしては珍しく、散歩をするために外に出たのだ。突き当たりまで行ってやろうと思って、どんどん深くに入っていった。


 はっと気づくと、日もやや斜めに傾いているところだった。何時間経ったのだろうか。セタは太陽の位置を見て気難しそうに唸った。

 ミラに、剣の鍛練をするようになってから、顔が生き生きとしている、と言われた。正直、自分でも楽しいと思っている。セタは、自分が楽しいことのために没頭する、という経験はしたことがなかったので、毎日が彩りに溢れているようだった。

 でも、これは没頭し過ぎではないか。こんなに一つのことに集中できるものだろうか。普段は、常に身の危険があるから、視野を狭くして何かに注力する、なんて行動はしない。自分が別の生き物になったみたいだ。

 そんなことをぼんやり考えていると、どっと疲れが押し寄せてきた。休みなしで素振りをしてたから、当然だ。三百回以上で数えるのをやめてしまったから、どのくらいの数をこなしたのか分からない。今日の訓練はこのぐらいにして、帰ってもいいだろう。すぐ裏門の方へ向かおうとしたが、ふと姉の顔が浮かんだ。そして、セタは困ったように頬をかくと、柱に寄りかかった。少し休んで息を整えよう。疲れて帰ると、心配性の姉がますます過保護になってしまう。

 ずるずると座って、目の前の薔薇園をそれとなしに眺める。いつ見ても綺麗なものだ。兄弟たちに見せてやりたいが、ダメだろうな。でも一本くらいなら、あの女性も持ち帰ることを許してくれるだろうか。

 この場にはいない茶髪の彼女のことを思いながらくつろいでいると、奥からガサガサと音が聞こえてきた。人の気配がする。

 イーサン?違う。足音からして上司の彼女でもない。誰だろう。セタは、いつでも動けるように片膝を立てた。一際大きくガサリと音がする。茨の中から出てきた小さな人影を見て、セタは目を見開いた。

 そこには一人の少年がいた。兄弟と変わらない年頃の、幼い子供。黒い髪に、赤い瞳。肌は白く不健康そうで、あまり部屋から出ないことが分かる。上質なブラウスに半ズボンを着ているが、それとは少々不釣り合いな、素朴でやけにサイズの大きな上着を肩にかけていた。

 その、フリルのついたブラウスが、先日自分が洗濯したものであることに気づく。

 そして、セタと少年は、目が合ってしまった。

「あ……」

 …赤い、赤い瞳だ。薔薇の花なんて霞んでしまうほどに、彩度の強い色だった。今まで見てきた世界などつまらない程に、それは存在を主張して彼の脳裏に焼き付けられる。

 セタの意識の全てが惹き付けられるかの如く、少年に集中した。指の先一つ、瞬き一つすら動かすことが出来なかった。こちらから目を逸らすことも許されない気がして、セタは、呆然と少年を見つめた。

 少年も、暫しの間、じっとセタを見つめていた。驚いている気配が感じられた。まるで、初めて人間を見たような、そんな雰囲気だった。少年の口から、ぽとり、と言葉が零れ落ちる。

「お前…だれだ……?」

 二人の頭上を覆う天蓋は青く、美しく透き通っていた。地上では、日差しが存分に降り注ぎ、二対の宝石の姿をありありと写しとっていた。自分たち以外に誰もいないこの瞬間は、無限のようにも、一瞬のようにも感じられた。この世界の祝福の下、少年たちは運命の邂逅を果たした。

 これこそ、後の偉大なる国王リオン=インヴィクタ=ルチャートと、その騎士であるセタ=ディオネスの、最初の出会いである。





 第二章「形成」



  一



「行ってきます。皆、いい子にしてるんだよ」

「行ってらっしゃい!」

「気をつけてね~」

「お土産買ってきてね!」

 元気いっぱいな兄弟たちに手を振り、セタは仕事場に向かった。ああ、兄弟たちの笑顔はとてもいい。今日も一日、頑張れる。途中までミラと一緒に話しながら歩いて、その後別れて屋敷に行った。イーサンはいるだろうか。毎回ボコボコにされるからそろそろ一太刀はかましたい。

 上司に挨拶して、廊下の清掃から始める。一ヶ月もすれば慣れたものだ。屋敷の間取りも、ほぼ網羅している。セタは手際よく作業していった。屋敷はとても広いが、貧民街と違ってガラクタが落ちていることは無いので、モップがけが楽だ。宿屋や酒場で働いてた時などは、酒瓶のガラス片がそこら中に落ちてて、その片付けからしないといけなかった。昔を思い出しながら、てきぱきと廊下を綺麗にしていく。すると、彼女が向こうから歩いてきた。

「セタ、今日もイーサンはいません。自主練をするように、言伝を頼まれました」

「分かりました。ありがとうです」

「ありがとうございます、です」

「ありがとうございますです…?」

「ですはいりません」

「??」

「まだ、所々修正が必要ですね…」

 呆れたようにため息をつき、彼女は行ってしまった。やはり、目上の人への言葉遣いは難しい。セタも努力はしているのだが、普段と調子が違いすぎて違和感しかない。騎士になれば敬語を使えないといけないので、早目に習得したいのだが。

 それにしても、イーサンはまたいないのか。自分に騎士になるように言っておいて、随分放任主義だと思う。別に、がっしり指導してもらいたいとも思ってないけれど、イーサンしか練習相手がいないのだから、あんまり野放しにされても困るのだ。少し脱力してしまって、セタはとぼとぼ掃除に戻った。しばらく複雑な心境で作業をしていたが、午前の清涼感のある空気のせいか次第と心が静まって、最後には集中して黙々と手を動かしていた。


「また来た…ですか?」

「ん?別にいいだろう」

「た、たしかに問題は……」

 セタは、素振りを中断して、しげしげと目の前の少年を見た。先日知り合った彼は首を傾けて、上目遣いでこちらを見ている。その仕草は可愛らしいものだが、何回かの接触でそれが演技であることに、セタは気付いていた。少年の本質は、恐らく別のところにある。セタは、彼がこんなに幼いうちから本性を隠すために気を使っていることに驚きつつも、詮索するつもりはなかった。誰にでも事情はあるものだ。しかし、セタに見破られていることを悟っているのにやめないのだから、対応に困ることもあった。

 少年は、リオンと名乗った。あの日に邂逅してから、リオンはちょくちょく、セタの自主錬を見にやって来るようになった。何が面白いのか知らないが、このくらいの子供が好奇心旺盛なのは、普段の兄弟たちを見て知っている。しかも、見ているだけで何もしてこないので、セタはリオンの好きにさせていた。「兄弟に似ていますね」、というセタの発言を聞いたリオンは何故か目を半眼にして黙ってしまったが。

 剣の素振りが終わると、リオンに手を引っ張られて、薔薇園の、特に茂みが深いところに連れていかれる。そこで、リオンはセタに、世間話を強請るのだ。

 セタは、この時間が嫌いではなかった。むしろ、日々の生きがいの一つになっていた。リオンは貧民街の様子を真剣に聞いてくれたし、服装からして貴族のはずだが、セタがうまく敬語を喋れなくても、絶対に怒らなかった。

 二人は身分が違うが、馬が合った。セタは、リオンの聡明さに心を惹かれた。リオンは、セタのどこが気に入ったのか分からないが、イーサンや彼女が居ない時を狙って、飽きることなく会いに来るのだった。

「…じゃあ、貧民街にいる奴らは、飲料水をどうやって確保してるんだ」

 今日は、貧民街での水事情について話していた。自分は頭が良くないので、間違ったことを言っているかもしれないが、それでもリオンの疑問に答えたくて、普段の生活をさらけ出す。

「店で取り合いしてる、ます。店にも水がない時は、雨水を貯めたり、そこら辺に貯まっていた水を何回もろ過して飲んだり…」

 リオンが、体全体を不自然に硬直させた。心なしか、引かれているような気がする。

「待て、ろくな設備も無いのに、ろ過だと?衛生面はどうなんだ」

「え、衛生面?」

「飲んでも体に毒ではないのか、ということだ」

「ええと…変な味はするけど、食中毒にかかるかどうかは五分五分だです」

 セタの素直な回答に、彼はげっそりとした顔をした。

「はあ?よく死なないで生きてこれたな。そんな博打みたいな水、飲もうとも思わん」

「でも…半分安全だと分かっているだけでも、マシだです」

 きょとんと、目を丸くして話すセタに、リオンは何も言えなくなった。

「そう、か…」

 リオンは顎に手を当て、地面を睨みながら考え始める。集中することで演技が解けたのか、先程とは打って変わり、周囲を威圧するような雰囲気になった。セタは、空気すらも震えているような錯覚に陥る。生まれながらにして人を支配する者の風格だ。こっちが、本当のリオンなのだろう。このまま接してくれても構わないのに。そう考えていると、ぱっとリオンが顔をあげてセタの灰がかった髪を見た。

「もしかして、髪や身体も汚い水で洗ってるのか。道理で臭いと思った」

「え」

 心当たりがあって、セタは上擦った声が出てしまった。確かに、飲料水として使うわけではないので、ちょっと濁ってても構わず洗っていたが、まさかずっと…臭いだなんて、そう思われていたとは。セタは青ざめた顔で、額にたっぷりの冷や汗を浮かべながらずりずりと後ずさる。

「待て、待て。離れなくていい」

「だ、だけど」

 リオンが、珍しく焦ったようにして手を伸ばしたが、それ以上に動揺しているセタは気付かない。半分泣きそうになっている彼に、リオンは、自分が思いつく限りに擁護の言葉を並べようとした

「落ち着け、セタ。確かに、臭いはする。するが、俺の機嫌が悪くなったことは、ないだろ」

「それは、たしかに。でも」

「落ち着けって。お前のせいじゃないんだから」

 リオンは、視線を彷徨わせて何かを躊躇したが、意を決したように顔を顰めると、一気に距離を詰めた。ひたすら離れようとするセタの手首を掴んで、どうどう、と宥める。セタは何回か深呼吸して自身を落ち着かせた。

 …?俺が触れても、怖がらない。不思議な奴だ。

 リオンは、自分から触っておいて、目の前の少年に違和感を覚えた。誤解のないように言っておくと、セタはリオンの声に従って、自分を落ち着かせただけだ。そこに、不思議も何もない。ごく一般的な、人間同士のコミュニケーションである。

 ここで常識から外れているのは、実はリオンの方であった。彼は、自分の「体質」のせいで、誰かに触れることを避けていたのだ。だから久しぶりに人間に触れた時に…セタの反応が予想していたものとは違って、拍子抜けしたのである。

 だが、その全てはリオンが勝手に感じたことで、彼には関係がない。リオンは気持ちを切り替えて、言葉を続ける。

「セタ。お前、一回屋敷の水で髪を洗ってみないか。見苦しい、とかじゃなくて、本当の髪の色を見てみたい」

「髪の色?」

「そうだ。今お前の髪は灰色だろ。しかもあちこち黄ばんでる。…枯葉みたいなのも、くっついてるし」

「ううっ」

 ついに泣き出してしまったセタは、どこかに隠れようとした。しかし、リオンはその手首を掴んだまま離さない。

「待て、逃げるな。だから、お前の髪の色が気になっただけだ。もしかしたら珍しい色かもしれないしな。…子供の好奇心だ。よくあることなんだろ」

 最後、ひねくれたような声がして、セタは目をぱちくりとさせる。涙を流すことも忘れて、唇を尖らせたリオンを見つめた。セタの青い瞳に、赤い色が差し込む。

「…もしかして、前に、俺の兄弟たちと比べられたことについて拗ねてる…ですか?」

「断じて拗ねてない」

 食い込むように告げられた否定の言葉は、ほぼ肯定と捉えて良かった。大人びた少年の意外な一面に、セタは頬を染める。

「そうなんだ…」

「じゃあ、洗うか」

「え、今?」

「今以外にいつがある」

「あ、ちょっと…!」

 グイグイ引っ張られて、中庭の隅にある井戸まで連れていかれる。初めてこの井戸を見た時は、目が飛び出てしまうくらい感動したものだ。綺麗な水が、こんなに溜まってるなんて、すごいことだった。貧民街にも、井戸はあるにはあるが、大抵枯れてしまっているか、何かの毒で汚染されているかであった。まさか、自分の髪を洗うために、貴重で綺麗な水を使う日が来るとは思わなかった。リオンは、桶に水を入れて、腕まくりをした。セタは数秒間、何とはなしに眺めていたが、突如、真顔になる。

 信じられないがこの貴族、もしかして、貧民であるセタの髪を洗おうとしているのか。

「あ、あの、自分でやれる、ます!」

「お前どうせ遠慮してちびちび使うだろ」

「そんなことはない、です!」

「おお、今のは奇跡的に自然な言い方だったな。でもお前、語尾にですますつければいいと思ってるだろ」

「ぬ、」

「自分でやりたかったら、綺麗な言葉で話してみろ。出来なかったら黙ってろ」

「……………」

「それでいい」

 完全にすんとして黙ったセタを満足そうに見て、リオンは本格的に髪を洗い始めた。セタに屈むように指示して、低くなった頭にふんだんに水をかけてやる。生え際までしっかりと洗い頭皮を揉む。本当は石鹸や香油を用いて大々的に洗ってやりたかったが、セタの精神がもたないと思うので、次の機会にしてやる。

 そして、洗ってみて分かったのだが、セタの髪の汚れのほとんどは、灰を被ったことによるものだった。少し流してやるだけで、どんどん白くなっていく。何回か流すと、彼の髪は見違えるほどに純白に近い色になった。

 もういいぞ、とセタに声をかける。目を開けたセタは、汚れの溜まった桶を見て引いてしまった。こんなに汚れがついてたら、臭いのは当たり前だ。リオンが汚いなあ、と感想を述べる。率直な意見にしゅんとしたセタを、リオンは面白そうに見た。いっそ声を出して笑ってくれたらいいのに、リオンの表情はなかなか変わらない。感情が無いわけではないが、きっと表情筋が固いのだ。

「ほら、これで拭け。」

「……………」

「もう喋っていいぞ?」

「…………………」

「うーん、やり過ぎたか…?」

 セタの顔を見ようとしてもぷいっとそっぽを向いてしまう。まずい、虐めすぎた。むっすりして髪を乾かすセタの周りをリオンは何となくグルグル回る。それが兄弟たちと全く同じ行動だったので、一気に不貞腐れてた気持ちが吹き飛んで、不覚にもセタは吹き出してしまった。

「あ、不敬だぞ」

「だって………んふっ……ふ」

「笑うな笑うな」

 気恥ずかしくてセタの頬っぺをつねった。それがいつかの可愛らしいおしおきと重なって更にセタは笑ってしまう。なんとか笑いを堪えようとしていると、急にリオンがはっとした。セタは突然固まったリオンを不思議そうに見る。

「お前、髪」

「あ、乾いてきた……」

 セタの髪が太陽の光に反射して、光の輪を作っていた。濡れている時はまだ灰色に見えていたが、乾いたことで本来の色に戻った髪は見事な銀色だった。光の加減によって、その光沢が美しく変化する。リオンの黒い髪とは正反対の、どこまでも白く輝く髪だった。一瞬目を奪われて、リオンはそこで、いつかに読んだ古い文献が頭を過ぎった。途端、頭がどんどん冷えていく。もし自分の予想が合っているとしたら、こいつはもしかして。

「……どうしたの、です?」

 質問するセタを無視して顔を両手で挟み、リオンはセタの瞳を凝視する。青い瞳だ。前髪が長くて色までよく分からなかった。美しい湖を閉じ込めたような、深い青。

 銀髪に、青い目。

 その二つの情報が結びついた時、リオンは桶に入っていた汚水を躊躇なくセタの頭にぶちまけた。怒涛の展開にセタが目を白黒させる。

「え?え?」

「うん、お前はやっぱり汚いままでいいな」

「え!」

「服が濡れたな。乾かして帰れよ」

「そ、そんな…」

「さて、俺はやることができた。部屋に帰る」

「う?」

 リオンはサッと立ち上がり、脇目も振らずに去っていってしまった。残されたセタは、ぽかんとした後、自分の濡れた服を見下ろす。

「あの子…まだ分かんないなぁ…」

 初めから終わりまで、散々振り回された。しかも、あの子は勝手に自己完結して帰ってしまった。自分はまだ、リオンという少年について全く知らないのだ。セタは、長い溜息を吐いた。


 リオンは部屋に戻り、机に一直線に向かった。机の二段目の引き出しに、鍵がかかっている。リオンはその鍵を開けて、中から少し黄ばんだ古い紙を取り出した。リオンがここに来た時、この文献はもう引き出しの中に入っていた。何気なく全てに目を通してはいたが、ここに書いてあることは全て現実感がなく、リオンは誰かの作った御伽噺なのだろうと思っていた。しかし、今日のセタを見て、もう一度この内容を確認しなければならなくなった。メイドの気配がないことを確かめて、リオンは文献を読み始める。

 そこには、はるか昔、この国の王家に仕えていたある一族についての事柄が書かれていた。

 その一族は、皆一様に身体能力が高く、戦争において他のどの人間よりも武功を立て、勝利に貢献し、王に従順であったという。

 彼らはこの国では非常に珍しい、銀髪に青い瞳を持っていた。彼等が戦場に現れた途端に敵が逃げ出すほど、その容姿は他国にも印象深く刻まれていた。

 しかし、この国の王家は、どうしてかその一族を皆殺しにし始めたのだ。これは推測だが、その一族の高い戦闘力が、いずれ自分たちの権威を脅かす存在になる事を危惧したのだろう。

 その一族は、簡単に抵抗できたのにも関わらず、王家に文句も言わず無惨に殺されていったらしい。最期まで、王家への忠誠心を証明しようとして、しかし、結局は自分の祖先たちにことごとく蹂躙されたのだ。最後の行に、こんな一文が書かれている。


【誇り高き戦士たちが集うディオネス族には、ほとんど生き残りは確認されていない】


 しかし、リオンは、今ではそれが真実ではないことを確信していた。世界は広いから、探し回れば銀髪に青い目の人間など数多にいるだろう。けれども、この国や隣国では銀髪の者などいない。黒やブロンド、灰色は沢山いるが、あのように光を受けて輝く、美しい色を持つ者ははないだろう。

 セタは、物心ついた時から親がいなかったらしい。それは、彼が捨てられたからではない。セタの親は、セタが最も生き延びられる所を選んだのだ。

 …貧民街が最良の選択だったとは、かなり余裕が無かったのだろう。恐らく、彼の両親はもう殺されている。セタは、もしかすると、ディオネス家の最後の生き残りなのかもしれない。

 リオンは、つい先程のセタの様子を思い出して、苦虫を噛み潰したような顔をした。あの少年は、自分の価値も、自分が置かれている状況すらも把握していないのだろう。

 リオンが生まれた王家は、ディオネスである彼の命を狙っている。セタは、祖先の醜い劣等感や自己保身とは全然関係がないし、そのようにくだらないことで戦う余裕などない。だのに、自分たちの権力のためにあいつを殺そうとする奴が、俺の家族なのだ。

 …こんな王家があるというのか。かつて、国を興した先祖も、今の国王たる父も、保身ばかり考え、民の事など見もしていない。

 王とは、民を導くものではないのか。王とは、民を守るためにいるのではないのか。自分に力があるならば、全て壊して一から作り直してしまいたい。

 リオンは、生まれて初めて、王になりたいと思った。罪のない奴が犬死にする腐った国など、無い方がマシだ。セタだけじゃない。貧民街にいるやつは、終日死ぬほど働いて、いつ死ぬかも分からない状況に怯えながら、必死に生きている。

 リオンは、部屋にずっと籠っていたので分からなかった。民が人間としての尊厳すら奪われ、苦しみながら生活していることも、自分と同じくらいの子供が奴隷に売り飛ばされたり、捨てられて飢え死んだりすることも、そして、国がそんな彼らを見ても一切救おうとしないことも、セタに会って初めて分かった。

 セタから、沢山のことを学んだ。リオンは、達観していた自分を恥じた。俺は王子だ。権力など無いにも等しいが、それでも、この国の王子なのだ。一族の不祥事は、自分が始末しなければいけない。それが、弾圧されてきた民へ、唯一することの出来る報いなのだ。

 …俺は、王になる義務がある。

 リオンは、心に固く決意した。人生で初めてできた野望はあまりにも大きく、実現することは不可能に近かった。しかし、弱音などもう吐けない。自分はこの国を変えなければいけない。王家に存在しないことになっている自分だからこそ、出来ることがあるかもしれない。

 脳裏に、再びセタの顔が過ぎった。そうだ。無知から俺を解放してくれたあいつが納得するような、そんな国を作らねばならない。後継者争いはまだ続くはずだ。その間に、強くなる必要がある。「影」を本格的に操る訓練を始めた方がいい。あれは、使い過ぎると自分の精神を侵食してくる。完全に支配する方法を会得しないといけない。剣術も身に付けた方がいい。知識も。やることは沢山ある。どこまでできるか分からないが、国の転機となる大きな出来事が起こるまでに、俺は王になる準備をしよう。

 薄暗い部屋、自身を閉じ込めるための檻にいながらも、リオンはその赤い瞳に、強い闘志を灯らせた。さながら、他者を威圧する百獣の王のように、リオンの目からは強く、揺らぐことを知らない一筋の光が見えた。まっすぐ前を向いて道を進まんとする少年の顔は、既に王のそれであった。


  二


 家への帰路を辿っていると、曲がり角の先から、言い争う声が聞こえてきた。

「おい、今日稼いだ金を持ってるんだろ?」

「貸してくれよ、なあ。ちゃんと返すぜ」

「そ、そんなこと信じれない。あっちにいって!」

「冷たいなあ…大人には敬意を払えよ」

「ひっ」

 大人の野太い声と幼い少女の怯えた声。子供が、不届者らに絡まれているらしい。

 セタは影からそっと様子を伺う。男らは二十代から三十代の外見で、四、五人ほどいる。貧民街によくうろついている職のない者たちだ。彼らは働かず、人から金銭を奪うことで生活している。

「(…いや、あれはもしかして…)」

 セタは、目を凝らして男たちの顔の特徴を掴んだ。そして、やや呆れたような顔をする。恥ずかしいことだが、知っている顔だったのだ。

 貧民街には、二種類の人間が存在する。

 一つは、セタたちのように、年齢に関係なく労働によって生活費を稼ぎ暮らしている人間。もう一つは、彼らのように、働くのは割に合わないと言って他人を襲うようになった人間だ。彼らは何人かで徒党を組んで行動するため、急に襲われたら対応が難しく厄介である。

 といっても、セタ個人は、後者を考えなしに責めることはできない。真面目に生活している自分たちの敵ではあるのだが、何かあれば、いつでもあちら側になってしまう恐れがあるからだ。これだけ苦しい思いをしているのに、生活は一向に良くならない。何年経っても死の危険からは逃げられない。彼らは大人だから、この過酷な環境を、地獄に等しい世界を、自分よりも長い時間ずっと彷徨っている。「真面目でいることなんて意味がない」と、自暴自棄になるのは当然だ。

「(それにしたって…目撃してしまったし…)」

 今、最低最悪なことをしている彼らとは、普段から仲が悪いというわけではない。困ったことがあれば助けるし、少ない確率ではあるが、逆に助けてもらったこともある。追い詰められているだけで、根っから悪い人たちではないというのは分かっていた。憎みきれない性格の彼らなので、犯行を繰り返しているという事実には目を瞑ることが多かった。

 だからといって、弱い人間を虐めることが許されるものではない。今晩の彼らの食事はなくなるだろうが、我慢してもらおう。セタは、少女を逃すべく、ゆっくりと彼らの背後に近付いた。

 しかし、次の瞬間、セタの目の色が変わった。ここで、知り合いであるごろつきたちへの同情は、一気に冷める。

 大人に囲まれていたのは、あろうことか、レナだったのだ。彼女はセタの大家族の一員で、それも、一番小さい末っ子だ。そう言えば、今日レナは初めて日雇いの仕事をするために、他の兄弟と外出していた。

 この国では、六歳以上から働くことができる。ちょうど昨日、誕生日を迎えたレナは、初めの経験にとても緊張していた。しかし、慣れない仕事帰りに運悪く彼らに遭遇してしまったのだ。彼女はミラを見習っているのだろう、気丈に言い返してはいるが、体が震えていた。それにいい気になった男たちが、更に詰め寄る。少女がビクッとして目をつぶる。

 セタの頭の中で、何かが切れる。彼は、奇襲も何もなく、怒りに任せて走り出した。その辺にあった石を拾って、男の頭部を目掛けて勢いよく投擲する。

「がっ………?!」

 石は見事に後頭部に命中し、1人が呻いて倒れる。異変に気付いた仲間が、こちらを向いた。セタは大声で叫ぶ。

「レナ!逃げろ!」

 そう言いながら、セタは男たちに向かって突進した。まずは派手に動いて、自分に注意を向けさせる。その後、袋小路におびき寄せて一人ずつ相手をするしかない。この前は二対一でも、ミラが来なければ捕まっていた。今回はそれよりも人数が多く、はっきり言って最悪の状況だ。だが、とりあえずレナを逃がすことができれば良い。セタは懐で拳を握りしめた。最も近い男に焦点を当てて、腕を振りかぶる。その時、男の一人が叫んだ。

「くそ、こいつセタのところのガキかよ!」

 仲間の大声に反応するように、彼らはギョッとした顔をして、年甲斐もなく慌て出した。

「お前らずらかれ!やばいぞ!」

「早く逃げろ!」

「え、」

 予想外すぎる展開に思わず止まったセタに見向きもぜず、彼らは青ざめて、反対方向に一目散に走り去っていった。

 セタは思考が止まっていたが、はっと我に返り、彼らに向かって大声を上げる。

「ジル!コーヴス!」

 逃げていくごろつきたちの中で、呼びかけに反応した男性二人が、弾かれたようにこちらを振り向いた。ジル、と呼ばれた若白髪の男は、気まずそうに冷や汗をかきながら、大声で言い返す。

「し、仕方ねえだろ!俺たちも命かけてんだよ!」

「抵抗できない子供を襲うことに命をかけているのか!」

「お、怒るなよ〜!お前のガキだって知らなかったんだよ!」

 鬼神のごとき剣幕顔のセタに、ジルの汗の量が増えていく。普段、穏やかで怒ることのない少年だからこそ、ベールを取り去って現れた殺気の威力は凄まじいものだった。

「なんだよセタ、しけてんな!お前、最近稼いでるんだろ」

 たじたじとしているジルの隣で、陽気な声がする。お調子者のコーヴスだ。全身に痛々しい火傷の跡があり、レナが怖がって、セタの腰にぴったりとくっついた。

「あちこちで噂になってるぜ。最近羽振りが良いってな」

「…それは」

「なあ、ちょっとなら良いじゃんよ。助け合いだろ?」

「……」

 黙り込んでしまったセタに、コーヴスは顔色を伺いながら、詰め寄っていく。

「頼むよ、なあ、セタ。めちゃくちゃ腹減ってんだ。妹に怖いことしたのは悪かったけどよ、このままだと死んじまう。お前のことだし、かなり貯めてんだろう?」

「……」

 コーヴスの予想は的中していた。セタは、どれだけ稼いでも自分の欲のためには金を使わない。全て、家族が生きていけるように、何があっても対応できるように、貯蓄している。今では、貴族や商人が見たら鼻で笑うだろうが、貧民である彼らからしたら、大富豪と呼べるほどの財を持っていた。今日、ジルとコーヴスにお金を渡したとしても、困ることはなかった。

「いつか必ず返すからさ!今は人助けだと思って、な!」

「た、頼む…三日は食ってねえ…仲間も限界で…」

 強気のコーヴスの隣で、ジルが懇願するように見つめてくる。その顔を、改めて見たのが駄目だった。くまができて、げっそりとした表情は、彼が嘘をついていないことを示していた。セタは、二人の様子を見て瞳を震わせて、唇を強く噛んだ。それを見たレナが、困ったように眉を下げた。兄の葛藤に寄り添うようにして、彼の服の裾を弱く掴む。

「…だめ。助けられない」

 吐き出された声は、少し震えていた。彼にできる、精一杯の決断だった。あえて無表情で告げたセタに、ジルは絶望したように顔を歪め、コーヴスは諦めきれず、乱暴に肩を掴んでくる。

「なんでだよ!一日くらい良いだろ!」

「…一度貸したら、また強請りにくるでしょ」

「なんだよ!じゃあお前、お前が助けなかったこの一日で俺らが死んだら、責任取ってくれるのかよ!」

「…取らないよ。コーヴスが死んだって、俺には関係ない」

「てめえ!」

 コーヴスが腕を大きく振りかぶる。レナが悲鳴を上げて、目を瞑った。直後、人体に強い衝撃を与えた音が響いた。

「…っゔ、…くそ…」

 地面に崩れ落ちたのは、コーヴスの方だった。みぞおちを庇うように背を丸めて、苦しそうに呻いている。その頭上では、固く拳を握りしめたセタが、やや息を乱して立っていた。大人であるコーヴスではなく、痩せ細った小さな少年が引導を渡している光景は、異質であった。

「金持ってるくせに…!」

 悔しそうに絞り出されたコーヴスの声が、セタの心に突き刺さる。

「お前も…!お前も、金持ったら貴族の連中と同じってことだろ…!」

「……っ」

 耐えきれず、セタの顔がくしゃりと崩れた時、ジルがしゃがんで、コーヴスの背中に静かに手を置いた。

「…もういいだろ。行こうぜ、コーヴス」

「…くそっ」

 ジルに肩を貸されて、なんとかコーヴスは起き上がる。セタから受けた打撃は想像以上に強く、内臓がいまだに圧迫されている気がして、彼は何度か咳き込んだ。親友の情けない様子を見て、ああ、またセタの武勇伝が増えたな、とジルは苦笑する。そして、コーヴスに完勝したくせに、酷い顔色をしているセタを見て、なんとも言えない表情になった。

「あ〜、またな、セタ。ええと…お前の家族は襲わないから、今度は見逃してくれよ」

「……子供を襲ってたら、見逃せない」

「じゃ、大人は?」

「……うん。本当は、だめだけど…」

「……ははっ!」

 悲しそうな顔をして頷いたセタに、一周回って笑ってしまった。まったく、不思議な子供であった。普通に考えて、悪いのはレナを襲っていた自分たちの方である。しかし、彼はただ怒るのではなく、ジルたちの心配までしていた。その思考は、一体どこからやって来るのだろうか。貧民街で生まれ育ち、奪い奪われの生活が当たり前だったジルからしたら、非常に珍しい感覚だった。

「ふん。セタなんて知らねー!野垂れ死ね!」

 完全に拗ねて、大人気なく呪詛を吐いたコーヴスの頭を叩き、ジルは踵を返した。まだ足元がおぼつかない親友を支えながら、ヨタヨタと歩いていく。彼らの後ろ姿が見えなくなるまで、セタはレナの手をしっかり握って、沈黙していた。

 貧民街では、人を助けてはいけない。これは、姉であるミラの口癖でもあった。一部、正しいと思う。特に、守るべき兄弟が増えた今のセタは、人間に優先基準をつけなければいけなかった。

 しかし、それは彼の性格に大いに反する行為であった。目の前に困窮した者がいるのであれば、それがどんな人間であれ、助けない理由はない。心からそう思っているからこそ、先ほど彼らを見捨てるような発言をしたのは、セタの中で深い傷となった。

「(…もう少し、お金があれば。あの貴族の屋敷みたいに、頑丈で大きな家があれば、もっと沢山の人を手助けできるのかな)」

 では、どうして貴族は、貧民を救わないのだろう。お金があって、安全な住処があって、美味しいご飯が食べられるのに、どうして貧民を手助けしないのだろう。

 答えのない疑問に、セタは立ち尽くした。

「(お金があっても、守れないものがあるとしたら…)」

 頭の中に、暗いもやがかかっていく。未来に向けた道が、狭く閉ざされていくような、そんな感覚。足元の地面が崩れて、急速に奈落へ落ちていくような気がした。

 彼を現実に引き戻したのは、純粋無垢な妹の称賛だった。

「セタ兄すごーい!!騎士様みたいだった!」

 からんからん、と教会の鐘のような声に、セタは唐突に焦ったような顔つきになる。

「レナ!大丈夫?怪我はない?」

「うん!セタ兄が助けてくれたから平気だよ!ねぇねぇ、凄くカッコよかったよ!あんなに怖い人たちが全員逃げちゃった!」

 ニコニコして元気いっぱいの妹を、強く抱きしめる。ああ、よかった。怪我もないし、トラウマにもならなかったようだ。早く助けることができてよかった。

「将来はセタ兄とけっこんするー!」

「あはは…ありがとう、嬉しいな」

「セタ兄強いんだねえ!」

「い、いや…たまたまだよ」

「たまたまじゃないもん!きっとセタ兄に驚いて、びゃーってなったんだよ!」

 両手を上げて喜ぶ彼女に、セタの口元が自然と緩んだ。

「んー…そっか。レナも一人でよく頑張ったね。カッコよかったよ」

「えへへー」

 レナは安心したようにふにゃりと笑った。本当に無事で良かった。彼女はいつも明るく笑っている子だから、あんなに怯えた顔など二度とさせたくはない。次からはもっと気をつけねば。

「騎士様!騎士様~!」

「き、騎士じゃないぞ…まだ…」

「私をお城へ連れて行って!」

 レナがキラキラした目でこちらを見上げてくる。城とは、家のことか。お姫様ごっこするつもりだろうか。今日はずっと仕事で、おままごとを出来てなかったもんな。セタは妹の成長と、変わらない愛しさに破顔して、レナの目線に合わせて跪く。

「…手をどうぞ、お姫さま」

「!うむ、くるしゅーない!」

 レナの手を取って、歩調に合わせてゆっくりと歩く。騎士の所作など分からないので、見よう見まねなのだが、レナは気に入ってくれたようだ。きゃっきゃっと笑いながら、セタの手を握り返して、スキップしている。可愛い。セタはくすりと笑って、家のある方向に目をやった。今日は、レナはとても頑張ったから、好きなものを作ってやろう。

 夕焼けが二人の影を伸ばしていた。周りの家は晩御飯の支度をしていて、あちらこちらから白い煙が立っている。皆、今日も必死に生きた。そして、安らぎを感じるために家に帰っていく。各々の家の薄い壁から、楽しそうな話し声が聞こえてきた。ジルやコーヴスのように、笑って一日を終えられない者もいる。それでも、苦しくても正しくいようとする貧民街の人々だっている。どちらも、頑張って生きている人間だ。どう足掻いても、同じ血が流れている仲間だった。

 セタは、辺りの穏やかな喧騒を聞きながら、複雑な心地で歩いていった。


  三


 段々と、悪い方へ状況が進行しているのは確実であった。掲示板を見つめ、ミラと目を合わせる。彼女もまた、美しい金色の瞳を曇らせ、険しい表情をしていた。

 最近、日雇いの仕事でさえも求人が少なく、人々の生活は限界をとうに超えて困窮化している。加えて、窃盗や拉致などの犯罪の増加。貧民街には、いつにも増してごろつきどもが増え、一人で出歩くことは到底出来なくなった。

 風の噂で聞いたが、王子同士の権力争いが激化しているのだという。上の権力争いの状況など気にしている余裕はないが、貧民街にいる者にとって、この話題は無視できないものだった。

 まず、セタたちの住んでいる地区は、第二王子の住む領地に近い所に位置しており、よって、第二王子の一派が幅を聞かせている。王家の権力の威を借る貴族が、不当な税金の徴収に来たり、もしくは、気に入らない店を思いつきで潰したりしても、貧民街にあった店、と言うだけで罪に問われなくなる。

 前は、本当にどうしようもない貴族が、ぽつぽつと来て憂さ晴らしをして帰っていく、という傾向が強かったが、今はそれよりも不味いかもしれない。

 何故ならば、貴族たちが本格的に金を巻き上げ始めたからだ。貧民から絞れるだけ絞りとるつもりだ。貴族の言う土地代などの税金の値段が、分かりやすく跳ね上がり、それを払えない者から破産していく。ここ一週間で十軒以上の店が潰れた。食料品店などは辛うじて経営できているが、それも危うくなってきた。食料や水を確保出来なければ死んでしまう。

 否、それが貴族の狙いなのだ。食べ物を求めて他に手がなく、追い詰められに追い詰められ、仕方なく貴族に頼った人たちを脅して、奴隷にするつもりだろう。彼等はそれぐらい普通にするはずだ。それに、後継者候補たちにとって、財力や従えた奴隷の数が権力の拡大に繋がると、リオンが言っていた気がする。

 貧民である自分たちの苦難は、これだけでは終わらない。

 セタは、やるせなさに手を強く握りしめた。いい仕事を見つけて生活が安定したとしても、買うべきものが買えなければ意味がない。これから成長期に入る兄弟も沢山いるのに、これじゃあ、何もしてやれない。どうして、どうして国はこうも邪魔してくるのだろうか。ただ普通に生活出来ればいい。富も名声も望まない。大切な家族と、大切な日々を過ごしたいだけなのに、何故、干渉してくるんだ。

 国王は何をしているのだろう。俺たちのために何かしてくれたことなどあっただろうか。この国に住んでいる民の一員であるのに、俺たちの命などどうでもいいというのか。

 …悔しい。自分は、何も出来ない。貧民の一人がこの扱いに反対を唱えたところで犬死にするだけだ。無力だ。

 セタは心がぐしゃぐしゃになって、息苦しくて、胸の当たりを強く抑えた。ああ、苦しい。どうして。


 リオンのような人も、いるというのに。


 心の声が、ストン、と落ちてきた。

 セタは、リオンの思案に耽る横顔を思い出す。貴族なのに自分の話を聞いてくれた。貴族なのに、自分に対して侮蔑も何もしてこなかった。薔薇園に引っ張られて、二人で内緒の話を沢山した。笑わないけれど、楽しそうにしてくれた。もし自分が騎士になったら、リオンに仕えたいと思うほどに、魅入られていた。リオンは、自分の事など要らないかもしれないけれど、あんなに対等に扱われたのは初めてだった。

 自分が仕える人は、自分が尊敬出来る人がいい。貧民である自分には選択権などないのは承知の上だ。それでも、もし叶うのであればリオンの下で剣を振りたい。

 そこで、イーサンの言葉を思い出す。

『貧民が、身の丈に合わないことをするな』

 ズキ、と胸が傷んだ。それが真実だ。変えようのない現実だ。自分は貧民で、あの子は貴族。住んでる世界も何もかも違うのだ。

 …騎士になってしまったら、あそこで訓練することはもうないのだろうか。リオンにも、会えなくなるのだろうか。そう考えた時、体の芯が一気に冷えて、立っているかどうかも分からなくなった。リオンがいない世界。一ヶ月前まで当たり前だったはずなのに、セタはそれがとても恐ろしく感じられた。心に穴が空いて、暗闇が吹き出し、セタを覆い隠していく。呼吸が早くなった。

「セタ…?顔色が悪いわよ…」

 ミラの声によって、意識が現実に引き戻される。ハッとして隣を見ると、眉を下げて心配そうにこちらを見る姉がいた。ミラは、セタの額に手を当てる。冷たくて心地よい温度に、セタは大人しく目を瞑る。

「熱はないみたい…でも今日は仕事を休んだ方がいいわ。顔色が酷いもの」

「姉さん、俺は平気だから…」

「何言ってるの、そんな調子で。私が代わりに行ってくるから、家で寝てなさい!」

「それは、」

 リオンに会えなくなる、と言おうとして踏みとどまった。

 リオンの存在は、伝えていなかった。セタは生まれながらの鋭い直感で、リオンが屋敷の謎に迫る鍵なのだと理解していた。自分は、危険に片足を突っ込んでいる状況だ。頭の隅で理解していながらも、リオンの隣で過ごすことがやめられなかった。

 しかし、自分に何かあった時、ミラや他の兄弟たちに害が及ぶことがあってはならない。言い淀んだセタを見て、ミラはセタの内心とは少し違う解釈をした。ミラは憂いげにため息をついた。

「どうせ具合悪いのに休むつもりなかったんでしょ?無理する性格、ほんとに直らないんだから…モノ!来てちょうだい!」

 掲示板の近くにあるゴミ置き場で遊んでいたモノに、ミラが声をかける。モノは積み上げられたゴミ袋から器用に飛び降りて、こちらへ駆けて来た。

「ミラ姉、どうした?」

「今日は私がセタの仕事場に行くから、セタが働かないように見張っててくれる?」

「まっかせとけー!」

「姉さん、俺は」

「問答無用!対セタ用特攻隊、いけー!」

「え?え?」

 え?と慌てるセタの周りに、小さな兄弟たちがわあわあ集まってくる。一番前にレナが進み出し、セタのお腹に抱きついてきっと見上げた。

「セタ兄は動くのだめ!禁止!」

「レ、レナ。俺は大丈夫だから離して…」

「だーめー!」

「隊員たち!もっと引っ付いて身動き取れなくしてあげなさい!」

「はい隊長!」

「いえっさー!」

 ミラ(隊長)の指示に従い、小さな隊員がセタの背中や足にくっいていく。

 く、重い…!初めてあった時は、羽のように軽かったのに…!兄弟たちの成長に感動しながらも、セタは全く動けなくなってしまった。ミラが得意げに頷く。

「セタは力が強いから、振りほどこうと思えば無理矢理でも振りほどけるでしょうけど。まさか、可愛い兄弟を傷つけてまで仕事に行きたいなんて言わないわよねー?」

「うっ…!」

「さあ!そのまま家に連行よ!」

「いえっさー!」

「ぅぅぅ…!」

 何も言い返せずにウンウン言っているセタを、兄弟たちが連行していく。妹や弟が背中やお腹に張り付いたまま歩いているので、ややおかしな光景だ。無事運ばれていった弟を見送って、ミラは再び満足気にうなづいた。そして、ふと真顔になる。

「セタにあそこまでの表情をさせる、『存在しない誰かさん』を探しに行かなきゃ…」

 ミラは、セタの変化を人一倍見てきた。セタは自分の為には動かない。必ず、絶対に、助けたい人や力になりたいと思った人がいて、その人の為に行動するのだ。

 しかし、最近のセタは兄弟のためだけではなく、自分のためにも仕事に行っているように見える。もちろん、セタが剣に魅入られたことは知っている。剣を習い始めた時から、セタの表情は生き生きとしていて、前より人間らしくなった。それは好きなものができたからだ。好きなものについてミラに語る彼は、兄弟をまとめる兄ではなく、ただの無邪気な少年であった。彼女も、それに関しては素直に嬉しかった。

 セタの行動原理は、好きなものができたところで変わることはなかった。相変わらずセタは困っている人、苦しんでいる人を見捨てられないし、自分を蔑ろにしてしまう。剣は、セタにとって好きなものではあるが、セタの根幹を変えるまでには至っていない。

 だから、さっきの顔は明らかにおかしい。あんな顔は見たことがない。まるで『自分の為に行動したいという欲を持つ』人間の顔だ。セタの様子はとても切羽詰まっていて、一瞬、もしや兄弟も何もかも投げ出してあの屋敷へ行って帰って来ないのではないか、という錯覚に陥った。

 ミラにとって、セタは汚れのない綺麗なものだった。人間の欲望に侵されることのない、白くてまっさらなもの。でも、あの時のセタは確かに人間だった。屋敷に行きたい、行かなければならないという強い思いが滲み出ていて、そんな姿を初めて見たミラは、全身に衝撃が走った。

 だから、確かめないといけない。セタに『人間の顔』を出させた存在がなんなのか。その理由は、セタの姉として彼を心配していたからでもあるし、長年彼と付き合ってきた自分を差し置いて、セタを変えてしまったものに向けた、少しの嫉妬からでもあった。

 セタは、自分にその存在を知らせなかった。という事は、訳ありである。心配かけさせまいと黙っていることにしたのだろう。後でお仕置きだ。

 …セタの代わりに突然自分が来たら、警戒されるだろう。こちらも屋敷には気を張って突入せねばなるまい。ミラは気を引き締めて、屋敷への方角を見据えた。

 …別に、セタが分かりやすいわけではない。ただこの姉、最愛の弟の事に関して、造詣が深すぎるほど深いのである。


  四


「…ああ、なるほど。セタの姉ですか」

「はい、弟が体調を崩しまして。ご挨拶がてら、代わりに来ました」

 表情を変えないメイドの女性に対して、ミラはニコニコと愛想笑いを浮かべる。

「…あまり似ていませんね」

「それは当然です。血は繋がっていませんので。そこらの貴族よりは仲良しですけれど」

 セタの上司である彼女は、ミラの顔を見つめた。

 随分と大胆な娘だ。喧嘩を売っていると思われても仕方の無い文句を言いつつも、笑っている。

 そして、この娘は恐らく、セタの働くこの屋敷に疑問を持っている。セタは、思うことはあっても何も自分らに求めてくることはないが、この娘の目は、明らかにこちらを糾弾するものだ。

 しかし、命知らずではないのだろう。あのセタの家族、というなら、蛮勇のみで生き残ってきたわけではないはずだ。

「…良いでしょう。セタの代わりに、今日は洗濯物をお願いします」

「はい!一生懸命やらせていただきますね」

 元気に返事をして、ミラは屋敷の敷地内へと上がった。メイドに案内されて、長い渡り廊下を歩いていく。庭に咲く薔薇が良く手入れをされていて綺麗だ。これが、セタの言っていた薔薇なのだろう。確かに、これ程立派な薔薇園は生まれて初めてだ。それらを眺めながら、ミラは前をいく彼女に話しかけた。

「弟は剣術の稽古も受けさせてもらっているそうですね。どこで練習をしているのですか?」

「…薔薇園のすぐ隣です」

「後で行ってみても?」

「時間が余れば、良いでしょう」

「ありがとうございます」

 会話はすぐ途切れて、靴音だけ廊下に響いていた。セタはこんなに無愛想なメイドと働いているのか。彼は、本当に不平不満を言わないから、こうして実際に来て職場を確認しないと安心できない。今日は本当の目的の他にも、屋敷の使用人の態度を見定めなければ…。

 ミラの思考は完全に過保護寄りだが、その事に一切気付かないのだった。


 洗濯を初めてすぐ、子供用の服しかないことに気付き、あのメイド以外の使用人が居ないことに、続けて気付く。そして、もしかしたらこの屋敷は一人の子供が主なのかもしれないという結論に至った。

 これは想像以上にやばいかもしれない。洗濯中、ミラの頭は警報が鳴りっぱなしだった。明らかにこの家は様子がおかしい。セタが黙っていた理由が分かった。ミラは早くも家に帰りたくなったが、そういうわけにも行かない。セタの訓練場に行ってみないと。そこで、セタがミラに言えない『誰か』に会えるかもしれないのだから。

 よし、洗濯は終わった。干すのはメイドがやると言っていたから、遠慮なく訓練場に行かせてもらおう。ミラは歩幅を大きくして目的地に向かった。少しの緊張があった。


 訓練場は広かった。ここを、セタ一人で使っているらしい。いくつか、木で作られた練習用の剣が置いてあって、随分と使い込まれていた。そのすり減り具合から弟の努力が伺えて、ミラは口元を緩めた。

 屋敷には、まだ解消されていない疑問点がたくさんあるのだが。セタがここで伸び伸びと練習できているのは、褒めてやっても良いかもしれない。

 弟思いならではの不敵な評価をしていると、ふわりとした風が吹いた。薔薇のかぐわしい香りが鼻をくすぐる。

「いい匂い…」

 思わず呟いて、薔薇園に顔を向けたその時、後ろから突然気配を感じた。

「!」

 ミラが反射的に振り返ると、そこには黒髪の少年がいた。ミラやセタよりも幾分か背が低い。未発達の骨格や顔つきから、おそらく十歳未満だろう。整った顔と、陶器のように白い肌。まるで、人形のような子供だった。血のように赤い瞳だけが爛々と光っていて、落ち着かない。

 しかし、よく見ると、少年は若干驚愕しているようだった。ミラを少しの間見つめると、口を開いたり閉じたりする。感情を言葉に出来なくて戸惑っているみたいだ。ミラも突如現れた少年にどう声を掛けたらいいかわからず、困惑する。二人の間に気まずい沈黙が流れる。

 ついに少年が、意を決して口を開いた。

「お前…お前、灰色の髪の少年を知らないか」

「灰色の髪の少年?」

「…そうだ。青い瞳の、俺より少し背の高くて痩せている奴だ」

「もしかしてセタのこと?」

 少年が目を見張る。大きな目がさらに大きくなって、こぼれ落ちそうだと思った。

「セタを、知っているのか?あいつは今どこにいる!生きているのか!」

 少年はミラの腕を掴み、捲し立てた。少年の纏う雰囲気は暗く冷たいのに、縋るようにこちらを見つめる目の温度は高く、情熱的だ、と思ってしまった。

 ミラは思いの外強い腕の力と少年の放つ鋭い気に一瞬気圧され、しかし、この時理解してしまった。

 この子だ。この子がセタを変えたんだ。

 それは、完全に直感であり、根拠になる事実などなかった。ただ、そう思わせるほどの何かが少年にはあって、ミラは雷に撃たれたような衝撃を味わった。

「(そう、何となくわかったわ)」

 確かに、この子は他の貴族とは違う気がする。貧民である自分の腕を気持ち悪がらずに触って、こんなにまっすぐな視線を送ってくるのだから。セタが、感動してしまうわけだ。

 ミラは、少年の手を空いている方の手で包んで、落ち着かせる。少年はミラの腕が、自分が掴んだせいで赤くなっていることに気付き、すまない、と言ってぱっと離した。そのさりげない動作一つも、ミラにとっては目から鱗であった。

「大丈夫。セタはね、私の弟なの」

「弟?」

「そう。今日はちょっと具合が悪そうだったから、代わりに私が来たの」

「ああなんだ、そうか…」

 少年はそっと息を吐いた。セタのことを心配したのだろう。でなければ、こんな反応はできない。なんとも変わっている貴族だ。

「あなたは…セタの友達なの?」

「友?いや…どうだろうな。俺もよく分からん。あいつも、そんなこと意識してないだろうし」

「じゃあ、セタの主人?」

「…あいつはここで働いているが、俺の使用人ではない」

 友だちではない。かといって、主従でもない。それではこの少年は、一体セタのなんだというのだろうか。セタは、何故この少年に心を奪われているのだろう。

 少年は頬をかいて、所在なげにしていた。先程取り乱したことを気にしているみたいだ。誰にでもあることなのだから、別に引きずらなくともいいのに。やはり、貴族は変なところでカッコつけなのだろうか。

 そう言えば、と少年が話題を変えた。赤い瞳がまっすぐこちらを見る。さっきと比べると、あまり威圧感は感じない。警戒を解いてくれたのだろう。こうして話すと、結構親しみやすい子なのかもしれない。

「セタは、よくお前のことを話していた。ミラと言う名前だろう。」

「ええ、そう。あなたは?」

「俺はリオンだ」

「リオンね。私はあなたのこと、今日初めて知ったの」

「…まあ、俺の存在はないことになっているからな」

 思ったよりも素直に告白した彼に、ミラは肩をすくめた。

「やっぱり。セタは危険だと思ったら、まず自分で抱え込むんだもの。何か隠してると思った」

「…あいつの言っていた通りの人物だな」

「あら!セタはなんて言ってたの?」

「そう食い気味に聞くな怖い。…豪気で、活発で、いつも明るい美人だと」

「やだあ…後で抱きしめなきゃ…♡」

「(うわぁ)」

 身悶えてくねくねし始めたミラに、リオンは顔を引き攣らせる。セタは、姉は少し心配症だと言っていたが、全然違うじゃないか。これ、過保護とかブラコンまでもを通り越した何かじゃないか?ミラがくねくねし終わると、全速力で走った後のように顔が上気していた。まだ余韻が残っているのか、表情筋が緩みまくっている。セタもなかなか問題のある姉を持ったものだ、とリオンは遠い目をした。

「はっ……!セタの尊さに気を取られて本来の目的を忘れるところだったわ!」

「目的?」

「ええ。もう半分は達成されているけれどね。私は今日、貴方を探しに来たの」

「…好奇心は猫を殺すぞ」

 声を低くして言うリオンに、ミラがうっすらと微笑んだ。

「ええと、言葉が難しくて分かんなかったけど…多分警告?」

「…そうだな」

「ありがとう。でも、好奇心だけで来たわけじゃないの。ねえ、リオン。あなたは、セタのことを大事に思っている?」

 率直な問いかけに、リオンは一つ瞬きをする。彼女の芯の通った目に見つめられるのは、少し居心地が悪かった。まるで、裁きの女神と相対しているようであった。

「…あいつは俺に色んなことを教えてくれている。感謝しているし、それなりに大きな存在になってる」

 それは、真摯な回答だった。ミラの中で、小さくない罪悪感が生まれ、彼女を責め立てるほどには、彼は誠実な少年であった。貴族であっても、どこか憎めない子だった。

 しかし、ミラは、家族を守ることを優先する。いつも他人を守ろうとするセタを守るのは、自分しかいない。腹に力を込めて、薔薇よりも赤い彼の目を見つめる。

「…そっか。じゃあ、聞いて欲しい。もしセタを大切に思ってくれているのなら、セタと会うのをやめて欲しいの」

「……」

 リオンの瞳が動揺に揺れた。リオンは、表情は変わらないが、その分目が語りかけてくる。しかし、ミラの声ははその様子を見ても淀みなかった。

「あなたとセタの仲が良いのは知ってる。正直、私の方こそ感謝してもし足りないくらい、あなたはセタを変えてくれた。でも、分かるでしょう。セタは危険を承知であなたに会ってる。あなたも、見つかればセタが殺されることを分かっている。だからさっき、セタじゃなくて私が居たから焦ったんでしょう。もしかして殺されたんじゃないかって」

「……」

 何も弁明することはなく、小さく拳を握った少年に、胸の中がずきりと痛んだ。

「…ごめんなさい。酷いこと言ってるのは、理解してるの。でも、私はセタが一番大事よ。他の何よりも、弟が傷つく事が嫌なの」

 口の中が乾いていくのを感じる。もう、これ以上は言いたくない。でも、譲れない思いがある。私は、それを大切にしなければならない。…この子を否定することになっても。

「もし、何かあった時、あなたは弟を守ってくれるの?無理でしょう?…勘違いしないで。あなたがセタを蔑ろにしてるって言いたいんじゃない。この国にいる限り、貧民である私達は、自分たちだけしか信じられないの。たとえあなたが他とは違ったとしても、貴族だという時点で私はあなたのことを信用できないのよ」

 リオンは終始、言い返してこなかった。唇を噛み締めて、何かに耐えている。貧民にこれだけ言われて、さぞ屈辱だろう。しかし、これだけは言っておきたかったのだ。セタはいつも家族のために命を張っているのだから、セタを守るために姉が命を張るのは当然だ。ここには、それくらいの覚悟で来たのだ。

 リオンの体が震えている。ミラは、その理由が怒りなのだと思った。罵倒されて、殺されてしまうだろうか。それでも、セタに無事でいて欲しいのだ。いつも心配をかけるなと言っている自分がこれでは、セタに説教出来ないな、と内心で苦笑する。

 そこで、リオンが顔をあげた。もうその表情にも目にも、なんの感情も乗っておらず、冷静にこちらを見据えていた。こんな小さい子が、感情をコントロールして本心を包み隠したことに、ミラは心底驚いた。

「そうだな。俺は危険を知りながらあいつと会っていた。今後は控えよう」

 ミラは目を見張った。この子は、私からの言葉を全て飲み込んで、その上で怒ることなく、冷静な判断をしたのだ。少し、見誤っていた。この子は間違いなくセ、タを大事に思っていたのだ。

「…ごめんなさい」

「なぜ謝る?お前は正しい。…もう行った方がいい。メイドに気付かれるぞ」

「そうね。……リオン」

「なんだ」

「もし、この国が良くなって、貧民の私が貴族たちを信じられるようになったら…。その時また、あなたに会いたい」

 そう言うと、薄く微笑んで彼女は行ってしまった。残されたリオンは、その言葉を反芻する。

 この国が良くなったら、その時は。

「……ああ。良くして見せるとも」

 リオンの声が、広い訓練場に吸い込まれて消えていった。


  五


 最近、リオンが会いにこない。セタは剣を振って、気持ちを紛らわせようとするが、何回も中断して周りを見渡し、小さい影を探してしまう。

 リオンがぱったりとセタの前から消えてから、二週間が経過していた。はじめは用事があったのだろうと思っていたが、一日、二日と過ぎても、リオンはセタのもとを訪れない。

 セタは、不安に駆られていた。やはり、貧民と会うのは、リオンにとってただの気まぐれで、一緒にいたのも本当は楽しくなかったんじゃないか。そう思ってしまうと、思考はどんどん消極的な方へと沈んでいく。どうして、来てくれなくなったんだろう。

 そこで、あれ?とセタは思う。最初はどうして会いに来るのか不思議に思っていたはずなのに、いつの間にか、それが普通になっていた。この短期間で、隣で話すことが当たり前になっていたのだ。今更ながらに、唖然とする。

 俺は、兄弟たちとの夕餉と同じくらい、リオン様と語らう時を楽しみにしていたのか。セタは握りしめた剣の先端をじっと見つめた。自分でも気付いていなかった。

 そうか。俺は、リオン様に会えなくて寂しかったんだ。

「…なんだ、サボってるのか」

 急に低い声が聞こえた。セタは驚いて顔を上げる。イーサンだ。この距離になるまで分からなかった。そんなにぼけっとしていたとは。セタは己の隙を恥じた。

 イーサンが、セタと同じ木の剣を持って歩いてくる。その姿に、高鳴る鼓動を抑えながら、セタは平静を取り繕う。

「今日は居ないって聞いてた」

「予定が変わった。たっぷりしごいてやる」

「うん、ありがとう」

「…張り合いのないやつだな」

 するん、と感謝の言葉を言うセタに、イーサンは呆れたように目を細めた。リオン様もそうだが、彼も表情の変化が乏しい。だからか知らないが、自分の変な言動に師匠が何かしらの反応を示すと、恥ずかしいよりも、嬉しい感情の方が勝っていた。

 両者はそれぞれ好きに構える。途端、辺りは緊張感で満たされた。お互いの間合いを見定め、じりじりと動く。セタは深く息を吐いて、神経を集中させた。

 イーサンと稽古をするのはもう何十回にもなるが、未だに攻撃の一つも満足に当てることができていない。師匠である彼は、屋敷にいない日の方が多く、こうやって本気で相手をしてくれるのは貴重だ。次に来るのはいつか分からないから、技の一つや二つは盗んでやらなくてはいけない。セタは低く腰を落とした。

 対して、イーサンは鋭く前方を捉えながら、口角を上げる。今日はこの子供は、どんな手を使ってくるのか。毎回、セタは違う手を使って攻撃してくる。剣の型を教えたのはイーサンだが、セタはそれを自分の動きやすい流れに変え、技を組み合わせて新しい型を作ってくる。まだ、力もそれほど強くなく、体も出来上がっていないが、それらを補うためなら、セタは手段を選ばない。全く貧民らしい泥臭さだ。

 そう思っていると、セタが従来の構えとは少し違う体勢をとった。そろそろ来るな。イーサンは剣の切先を弟子に向け、悠然と構えながら、不敵に笑った。

 緊張の糸が限界まで張り詰め、ある点でプツンと切れる。刹那、師弟は同時に動き出した。

 セタが大きく踏み出し、一気に間合いを詰める。低い。そして、勢いが死んでいない。セタは剣を振り上げた。下から恐ろしい速さで、イーサンの顔に影が迫る。常人ならば、その剣撃を避けることはもちろん、目視することすら難しい。しかし、イーサンは余裕を持ってそれを弾く。渾身の一撃をいなされたセタは、それに気にせず後ろに回り込んだ。イーサン相手ならば、自分の手札は全て弾き返されることは想定しておいて、その上で切り込む数で勝負した方がいい。

 緩急など付けずに、息つく間もなく背中に向かって振り下ろした。イーサンはその攻撃も冷静に受け止め、それから二、三撃の打ち合いをする。力で押され始めたセタは、イーサンが剣を振り上げた瞬間を狙って体を捻り、回転を付けて鳩尾に足蹴りを食らわそうとした。彼は空いた腕でそれを受け止め、バランスを崩そうと足首を掴む。セタはそこで足に力を入れて、掴まれていない方の右足を強く蹴り、宙に飛び上がった。そして右の踵を師匠の脳天に勢いよく落とし込む。両手が塞がっていてガードができない彼の頭はがら空きだった。

 しかし、そう上手くは行かなかった。イーサンは目を少し細め、掴んでいたセタの足を叩き落とし、両手でしっかりと上からの攻撃を防ぐ。失敗だ。迅速に次の手を打たないと。セタは宙返りして地面に降り立った。しかし、体勢を立て直す間もなく、イーサンの鋭い突きがセタを襲う。それを弾いて、弾いて、時々拳を突き返す。訓練場に剣のぶつかり合う音が絶えず響き渡った。

 そして、何回か目の撃ち合いで、セタの体が後ろへ仰け反る。イーサンは躊躇いなく畳み掛け、次の瞬間、セタの持っていた剣が遠くに飛んで行った。からん、と空虚な音がする。今回も、イーサンの勝ちだ。

 また何も当てられなかった。セタは息を乱して、目の前の師匠を悔しそうに見た。彼は変わらず余裕そうだ。疲労困憊なセタに対して、息一つ乱れてはいない。

「まだ、剣捌きが甘い。使いやすい体術に頼るな。剣ばかりでは柔軟性に欠けるが、お前は今のやり方だと上達しない」

「………」

「悔しそうだな。いい気味だ。だが、俺に勝ちたいからと言って、慣れている体術を多用するのはバカのやることだぞ。俺は今、剣を教えているんだ。剣を使え」

「大雑把な教え方しかしてくれないくせに…」

「一からベッタリくっついて教えるなど気持ち悪いだろうが。貴族にでもなったつもりか?小さい子供じゃないんだから、自分で考えて学べ」

「…次は勝つ」

「はっ言ってろ」

 鼻で笑ってから、イーサンは遠くにあるセタの剣に顎をしゃくった。言外に、早く拾ってこい、と言っている。どうやらもう一回付き合ってくれるらしい。

 セタは急いで走り出した。その背中はどこか嬉しそうで、イーサンはセタの見えないところで頭をかいた。どうも、普段の仕事で付き会う相手が相手なので、セタの素直なところに拍子抜けしてしまう。こんな子供相手に戸惑うとはらしくない、とイーサンは小さく息をついた。


「お疲れ様です、イーサン様」

「…サラ」

 セタを家に帰し、何することも無く訓練場に残っていると、後ろから声がしたので振り向く。名前を呼んだきり、無言でいるイーサンに、サラ、と呼ばれたあのメイドが歩み寄った。

「水をお持ちしました」

「ああ、悪いな」

「いえ」

 淡々と言葉を交わして、イーサンは受け取った水を一気に飲んだ。

 今日は、なかなか歯応えのある打ち合いだった。セタは、己の予想を軽々と超えて急成長している。自分からすればまだまだ未熟だが、大抵の大人よりは圧倒的に強くなった。これからもっと身長が高くなり、肉体が仕上がってくれば、更に化けるだろう。せいぜいしごいてやる。

 サラは、無言で空を眺めているイーサンの横顔を、気付かれないようにそっと見つめた。

 最近、上司の機嫌がずっと良い。十中八九、セタが理由だろう。あの少年は、もしかしたら、イーサンと同等以上の剣使いになるかもしれないからだ。彼が、自分よりも高い実力を持つ者を探していることに、随分前からサラは気付いていた。

 イーサンは、他の騎士より桁違いに強く、しかし、貴族階級はそれほど高くは無かったので、嫉妬を買って左遷された過去がある。それ以来、表舞台ではなく、裏で汚れ仕事を受けることが多くなった。騎士としての矜持を汚された彼の心境は、彼女には計りかねる。

 サラは、小さい頃イーサンに拾われ、後をついて回りながら、諜報や暗殺の技術を教えられた。ただの貧民だった彼女は、今ではイーサン直属の部下である。

 そして、こんなに機嫌の良さそうなイーサンは久しぶりに見た。サラはその驚きを表情には欠片も出さず、彼から空のコップを受け取った。彼は一息着くと、すっと仕事の顔になる。

 ああ、馴染みのある目に戻った。無機質で、深い穴の底を思わせる暗い目だ。

「今日の様子はどうだった」

「いつも通り、一日中部屋にいらっしゃいました。…読む本が無くなって、些か暇だとおっしゃっておりました」

「では、新しい本を持ってこよう。最近はどんなものを好んでいる?」

「遠目から見たものですと、政治についての専門書が多かったと思います」

「政治…」

 イーサンは、その単語を呟くと、黙り込んでしまった。そこには、ある懸念があったからだ。サラも、その可能性には気付いている。

「イーサン様。これは良くない傾向ではありませんか?これまでは大人しくしていらっしゃいましたが、最近は以前よりどこか意欲的な雰囲気を感じます。いつ政治に介入しようとお思いになるか、分かりません」

 少し早口で警告してくるサラを、イーサンはチラリと一瞥する。そして、目線を遠くへやる。何か考えているようだった。けれども、次にこちらを向いて言った言葉は、サラが期待していたものではなかった。

「いくら政治に興味を持ったところで、己の無力に心が挫けるだけだろうよ。懸念材料にもならん。お前は変わらず、監視をしていろ」

「しかし、」

「…同情でも湧いたか?」

 冷たく吐き捨てられた言葉に、彼女は口をつぐむ。

「あれは『化け物』として、国王から恐れられた。幼い姿に惑わされるな。気を許すなよ」

「……はい」

 サラは素直に頷いたが、あまりにも彼らしくない、とも思った。イーサンは徹頭徹尾、任務に関して妥協が無く、対象の少しの変化でも緻密に分析する。このように、熟考せずに結論を出すことはしないはずだ。サラはイーサンの真意が掴めず、納得がいなかった。少し訝しげな表情が出てしまったらしい。イーサンがそれを指摘して、まだ半人前だな、と笑う。

「サラ、俺のやり方が不満か?」

「…いいえ、理解は出できなくとも、私はあなたの部下ですので、従うのみです」

「…お前はやり易いな。セタもこのぐらい思い通りに動いてくれればいいんだが。あいつ、反抗的なくせに妙に素直だから調子が狂う」

 そう言って肩を竦めながら、イーサンは訓練場から立ち去って行った。サラもその後を追う。

 そうだ。私は何があろうと、イーサン様に着いていくだけだ。イーサン様は死にかけた私を拾って、わざわざ育ててくれた。だから、私はイーサン様の決定に反対する理由などない。便利な道具として使ってくれれば、それに超したことはないのだ。


 今日も一人、本を読んでいる。

 だが、気付くと窓の外を見てしまう。意志の弱い自分を叱咤し、活字に目を戻す。

 ミラに言われたことは、少なからずリオンの精神を揺さぶっていた。

『 私は、この国の貴族と言うだけであなたの事を信用出来ない』

 この国の王家も貴族も、貧民にとっては敵だった。貧民が受けてきた迫害の歴史を考えれば、ミラのように考える者が大多数であることは容易に想像出来たが、実際の拒絶の言葉は、はるかに重みがあった。リオンは、思い出すたび己の血を呪った。悔しくて、情けなかった。この国は、民に見捨てられるほど腐り果てていたのだ。そして自分はのうのうとここで生きていた。毎日戦っている民を知らず、自分の命だけを考えて生きてきた。それは普通の人間であれば許されるかもしれないが、王家の者は違うとリオンは考えていた。

 一番先頭に立って導く立場の者が、楽をしてどうする。命をかけずに、そこにいる意味があるというのか。後ろではこの手に収めきれないほどの民が必死に生き足掻いているというのに、それを見て見ぬふりをするというのか。…いや、現にそのような、最悪の状態になっていたのだ。

 リオンは疑問に思う。王になると豪語しておいて、その権利が果たして自分に残っているのか。自分は、民に王として認められるのか。考え出すときりがない。

 それでも、リオンは考える。皆が再び王家を信頼できるようになる道は、あるのだろうか?

 痩せた少年の姿が浮かび上がる。セタからは、嫌悪の感情を一切感じなかった。あれは恐らく、貧民街でも特殊なのだろう。初めて会った貧民がセタだったせいで、感覚が麻痺していた。これなら、この国はやり直せるかもしれないと思ってしまった。自分が万が一王になった時に多く相対するのは、ミラのように、リオンの存在に否定的な者だろう。

『 リオン様は聡明な人だと思う』

 薔薇園の片隅で、いつかのセタが言った言葉だ。ポカンとしてセタを見てしまった。セタは本気で言ったらしく、その真っ直ぐな瞳にリオンは貫かれた。ふと、この者が騎士見習いであったことを思い出した。

 リオンは、騎士の正装に身を包み、剣を掲げて忠誠を誓うセタの姿を想像した。美しい姿勢でお辞儀をしたセタが顔を上げ、凛々しく前を向く。

 …ああ、その目線の先に、自分が居たのなら…。

 そこまで考えて、リオンは頭を振った。

 駄目だな。あいつといると、夢と現実の区別がつかなくなる。俺は、自分の存在が認められることを期待してはいけない。呪われた王家の血は、俺の体にしつこくこびりついて、死ぬまで付きまとうだろう。俺はそれに向き合い、責任を負うことで民に報いるのだ。だから、あいつの甘い言葉に酔いしれることは、あってはならない。

 …しかし、セタが出会ったから、王になろうとしたのも事実だ。俺は、あいつが、「ここが好きだ」と言えるような国を作ると決めた。大切な人と共に、ありきたりの日々を送れるような、そんな国を。

 俺は、勉強しなくてはいけない。国のこと、他国のこと、政治、経済、果ては軍事まで。時間は限られている。だが、絶対に間に合わせる。

 もし、俺が王になることを認められたら、その時俺は、初めて胸を張ってお前に会える。必ず成し遂げて見せるから、どうかこの国を見捨てずに見ていて欲しい。

 世界を教えてくれたお前に、俺は誓おう。

 俺は民を、必ず幸せにしてみせる。




  六


「……やっぱり、元気ないよね?」

「そだね。どんよりしてるね」

「ずーんてしてるよ?」

「……はあ」

「「「「……………!!!」」」」

 兄弟たちがひそひそ話してたところに、丁度よくセタが溜め息をついたので、皆でビクッとする。

 最近、大家族の優しい長男は覇気がない。下の子が遊びを強請れば相手をするし、その時はニコニコしてくれるのだが、ふとした瞬間にこのように悲しげに溜め息を吐くのだ。

「気の所為じゃないね?」

「うん。どしたのかな」

 セタに背を向けて、またヒソヒソと相談する。セタは兄弟たちの不審な動きに全く反応せず、空中をぼんやり見つめている。

「…あ、そういえばミラ姉もなんか変だよね」

「たしかに!定期的にどんよりしてるね」

「…セ、セタ?大丈夫?」

「「「「………………!!!!」」」」

 ミラの話題が出たところで丁度よく本人が登場したので、皆でビクッとする。

「…姉さん?」

「う、いやあのね、喉乾いてないかなあと思ったの、よ?」

「…大丈夫だよ、ありがとう」

「セタ、あの…」

「………はぁ…」

「!……うぅ」

 また、無意識に溜め息をついてしまうセタを見て、ミラが右往左往する。しょんもりしている弟に何か声をかけようと口を開閉して、アワアワしている。しかし、兄弟たちが固唾を飲んで見守る中、ついにミラは何も言えずに肩を下ろして、周りに暗いオーラを纏いながら部屋を出ていってしまった。セタは変わらず、宙を見つめて物思いに耽っている。

「二人とも変だね…」

「でも、あんなに落ち込むような原因になる出来事、最近あったかなあ?」

「…………はわ!もしかして」

 末っ子のレナがばっと立ち上がる。なにか閃いたようだ。しかし、隣に座っていたモノは嫌な予感がした。レナは兄弟の中でも屈指の恋愛脳である。もしや。

「セタ兄、失恋しちゃったんだんだよ!」

「「「ええ?!」」」

「ああ、やっぱり言うと思った…」

 腕をぶんぶん振り回してレナが興奮気味に話す。目がすごくキラキラしている。兄を心配してるんじゃなかったのか。

「こいわずらい、って言うんだよ!」

「へぇ~!レナ、よくそんな言葉知ってるな!」

「すげぇ~!」

 レナの勇姿に、兄弟たちは尊敬の眼差しを向ける。頭が痛くなってきたモノは、のっそりと口を開けた。

「いや、お前ら、セタ兄が恋とかする訳ないだろ。ちゃんと考えろ」

 素っ気なくレナの仮説を否定してきたモノに、末っ子の妹は不機嫌そうに頬を膨らませる。

「む、分かんないよ!『しんきょう』のへんかとか、あったかもだよ!」

「心境の変化って……」

「この間もね!」

「え、うん…」

 レナがモノの言葉を遮って、勝手に回想シーンに入った。


『 ん?あいつセタじゃね』

『 ミラと一緒じゃないのは珍しいな』

 壊れかけた家の塀にぽつんと座っているセタをごろつきたちが見つける。セタはこちらに全く気づかない。空を見つめて、ふわふわしている。

『おい、すごくぼーっとしてるぞ 』

『今なら倒せるんじゃ… 』

『 で、でもよ。ちょっと落ち込んでるように見えないか?』

『 なんだお前。同情してるのか?』

『 違うけどよぉ、あんな無防備にされると心配になるというか…』

『 やっぱり絆されてんじゃねえか!』

『 じゃあお前殴ってこいよ!』

『 え?いやあの俺は今日はいいかな…』

『 はあ?お前、普段一番セタのこと敵視してるだろ』

『 …今行くのは、せこくねえ?』

『 せこさは邪道だが悪じゃないって言う迷言残してんの誰だよ!』

『 はあ……』

『 『 !!!』』

 セタが溜め息をして、それにごろつきたちはビクッとする。そーっと全員で振り返ると、セタは相変わらず遠くに目線をやっていた。

『 もう、倒すとか関係なしに誰か話しかけてこいよ。あの調子だと貴族のとこの奴隷商人に捕まっちまうぞ』

『 それはそれで俺たち楽になるけど』

『 …そうだったな!あいつとミラのせいで、俺たち子供から金巻き上げれないんだわ!』

『 うわ、言葉で言うと最低だな』

『 お前もだろ!』

『 まぁいい、友よ、恨むなよ』

『 は?……ぐえ!』

 一人が仲間を力強く突き飛ばす。不意をつかれた男はかなりの距離を飛んで、セタの目の前までごろごろ転がって行った。人が倒れたり、その辺のガラクタが派手に鳴ったりする音を聞いて、ようやくセタは現実に戻ってきた。転がってきた男と目が合う。

『 よ、よぉセタ』

『 ……ジルさん』

『おお、普通に話せるんだな!』

『 どういうこと…?』

『 い、いや、かなり落ち込んでるみたいだったからよ。お前、いつもはニコニコしてるか怖い顔してるかなんで…』

 ジルは、子供に絡んでいる自分を殴りに来る時の、修羅の顔を思い出してスンッとなる。

『 ジルさんはどうしたの?迷子?』

『 俺をお前の兄弟と一緒にすんな…お前がしけた面してるから、からかいに来たんだよ!』

『 ……そうなんだ。ありがとう』

『 …まじでお前、変なやつだな〜』

 するん、と感謝の言葉を述べたセタに、ジルは鳥肌が立ってしまった。良い奴すぎて、気持ち悪いのである。

『 まさかジルさんたちにも心配されてるとは思わなかった。そろそろ立ち直らなきゃな…』

『 お前、何かあったのか?』

『 いや…人には話したくないんだ。ごめん』

『それは別に気にしねえけど』

『 ジルさんはいい人だね。ごろつきじゃなければ』

『 うわしょんぼりしてるから可愛げあったのに、今ので台無しだわ』

『 事実だもの』

『 ちっ』

『 ………はぁ』

 セタはまた遠い目をする。ジルは仲間に目配せした。もういいだろ、そっち行くぞ。え?だめだぁ?もう一押し?何言ってんだあいつら。セタが何で悩んでるか賭けてるから答えを聞けって?殴ってでも聞けって…それは無理だろまず勝てねえし。お前まだ金返してないだろって?それはうん、まあね…くそ、分かったよ聞けばいいんだろ!覚えてろよお前ら!

『 なあ~セタ~』

 ジルはセタの方を見て猫なで声になる。何か企んでる時のジルの声だと分かっているセタは、一瞥だけしてまた視線を外した。取り付く島もないような態度も気にせず、ジルはズカズカと近付いていった。

『 ええと、な。もし良ければ、お前の悩みを聞いてやるぜ~困ってんだろ?』

『 話したくないからいらないよ』

『 そんなこと言うなって、抱え込むより楽チンだぜ~』

『はぁ… 』

『 セぇタぁ~~』

『 はぁ………』

『 …おい、無視はすんな』

『 はぁ………』

『 っだぁー!もう可愛くねー!!ぼやっとしてるてめぇが悪いんだからな!喰らえ、必殺大人パーンチ!!』

『 ………はぁ!』

『 ぎょえ!』

 潰れたカエルのような声をあげて、ジルは地面に倒れた。セタに、的確に鳩尾を殴られたようだ。悶絶するジルを見て何度目になるか分からない溜め息をし、セタはジルの仲間の方をチラッと見た。仲間はビシッと固まり、あははと冷や汗をかきながら笑う。そして速やかにジルを回収して、風よりも早く逃げていった。

 後に、誰もいなくなった通りを見つめて、セタがポツリと声を落とす。

『 悩みで終わるなら、どんなに良かったか…』


「ね?!絶対恋だよ!思い通りに行かない、切ない恋に違いないよお!」

「恋じゃないと思うけど…」

「思い通りに行かないとなれば、やっぱり禁断の恋だよね?何かな?セタ兄、貴族のお嬢様に恋してるのかな!…え、何それ、許せないんだけど。」

 モノの引き気味の意見など眼中になく、レナの妄想は加速していく。勝手に舞い上がって、勝手に仮想の敵を作って、鬼のような顔になっている。繰り広げられるレナの劇場に、モノの後ろから否定の声が上がった。貴族が嫌いなジジの声だった。

「やめろよ!貴族とか嫌だよ気持ち悪い」

「じゃあなんだったらいいのー!」

「なんだったらとかの前に絶対恋じゃねえよ!だってセタ兄だぜ?」

「むむむ。あ、でもセタ兄は私と結婚するから、浮気はダメだよ!」

 レナとジジのやり取りは、放置していたら喧嘩になりそうだ。だが、モノはそれを止めることも億劫で、半眼になったまま兄弟たちの会話を見守った。

「ハイハイ、お嫁さんだもんな。レナは本当に夢見がちで羨ましいぜ」

「何そのたいど!ジジ!きらーい!」

「俺もお前のそういうところは嫌いだー!」

 わあわあ騒いで、モノとジジの取っ組み合いになった。兄弟たちがそこだ、いけー!とそれぞれを応援する。末っ子のレナに加勢する兄弟が多く、ジジがかなり劣勢ではあるが。どったんばったん大きな音が出て、隣の家から「うるせえ静かにしろ!」と怒鳴り声が聞こえてきた。

「あ!」

「やっべ、オレナが怒っちゃった!」

 隣人のオレナは、普段は頼もしい女性なのだが、酒癖が非常に悪い。態度や口調が粗暴になり、ところ構わず物に当たり散らすのだ。前に割れた酒瓶を持って家に乗り込んできた前科もある。その後、ミラとセタが兄弟の身の安全を守るために、「オレナが怒るほどの大声を出してはいけない」というルールを作った。

 大切な規則が破られてしまったことに気付き、兄弟たち全員でハッとなる。思わず一斉にセタの方を見ると、長男もこちらをじっと見ていた。特にモノは、自分の監督不足を指摘されるような気がして、青ざめた。ちくしょう、レナのやつ許さない。

 全員、ゴクリと唾を飲む。何秒か沈黙が続く。

 そして不意に、セタがクスリと笑った。意図せず笑みが零れてしまったようだった。

「わ、わ、…」

「「「笑ったー!」」

「え?」

 目を丸くするセタに、兄弟全員で突進する。一番早く着いた子からどんどん兄に飛びつき、ケラケラ笑った。

「セタ兄久しぶりに笑ったね!」

「そんなに怖い顔してた…?」

「怖くなかったけど、悲しそうな顔してた!」

「しょんぼりしてたー!」

「ミラ姉と一緒にどんよりしてた!」

「ね、姉さんも?…ごめんな、心配させちゃった。本当にごめん…」

 ぎゅうぎゅう抱きつく兄弟を一気に抱き寄せて、セタは俯いた。色んな人に気を遣わせてしまっている。情けないことだ。

「セタ兄、すぐ謝る~」

「だめだよ!簡単に謝ったら、『つけあがらせ』ちゃうよ!相手になめられないように、常に『じここうてい』しないと!」

「レナは誰と戦ってるんだ…?」

 難しい言葉を乱用するレナに、モノの突っ込みがすかさず入る。しかし、そんな小さなことは兄弟たちの嬉しそうな笑い声で包まれて見えなくなった。セタは、兄弟を眩しそうに見つめた。

 俺は家族に恵まれた。こんなに良い子たちが自分を兄として慕ってくれている。貧民街でも、俺ほど幸せな奴は居ないだろう。

 …大丈夫だ。家族がいれば、辛いことも乗り越えられる。

 セタはもう一度、兄弟たちを強く抱き締めた。彼らは痛い痛い、とふざけて声をあげる。肌を通して伝わる温もりがくすぐったくて、なんだか心がふわふわして、セタは声を出して笑った。全員で大きな団子になりながら、部屋に笑い声が響き渡る。突然、「うるせえって言ってんだろうが!」と再び怒声が聞こえた。皆であ、と止まって、それさえもおかしくて、隣人の彼女を怒らせないように小さく笑いあった。

「…大丈夫かな。乗り込んでこない?」

「いや…最近、オレナさんは友だちと住んでるらしくて。その人のおかげで正気に戻ることが増えたって」

 セタからあっさりと告げられた新情報に、モノたちは目を丸くする。

「本当?さっき怒鳴ってたけど?」

「あはは…お酒って難しいね…。でも、前よりは怒鳴る頻度が減ったとは思うよ」

 セタの言う通り、思い返してみると、ここ数ヶ月の彼女は比較的大人しい気がした。

 酒への依存を治すことは非常に難しい。食べ物ではなく、酒を飲むために無駄に金を使い、死んでいった知り合いもいる。彼女の友人のおかげで改善しつつあるのであれば、セタたちにとっても喜ばしいことだった。

「…オレナさんを刺激しないように、もう寝ようか」

「うん、一緒に寝ようよ、ミラ姉も誘って!」

「いいね。呼んでくるから毛布準備しててくれる?」

「いえっさー」

 パタパタと各々が動き、あっという間に寝床が出来上がる。ミラはぎこちない様子で来たが、セタの顔色が少し良いのを見て、少しホッとしたように胸を撫で下ろした。

 明かりが消えて、真っ暗になる。全員で寝るのは久しぶりなので、最初は興奮して話していたが、一人また一人と微睡み、起きているのはセタとミラだけになっていた。兄弟が寝静まったことを確認すると、ずっと背中を向けていたミラがもぞもぞと動いてこちらを向いた。目を合わせると、彼女はやはり気まずそうにする。そんな姉を急かさないように、セタは黙って待つ。ミラは深呼吸をして、一言だけ呟いた。

「セタ…ごめんね」

「……どうして?」

「……いや、ううん。何でもないの…」

 目をウロウロさせて、ミラは黙ってしまう。

 リオンに向かって、セタに会わないよう説得したのは自分だ。そして、リオンはちゃんとセタに会わないよう配慮してくれた。…セタが寂しがるのは予想していた。でも、セタが無事に生きれる確率が上がるなら、問題ないと思っていた。

 まさかこんなに落ち込むと思っていなかった。弟に暗い顔をさせてしまったことが、分かっていたはずなのに辛くて、ミラは自己嫌悪に陥っていた。

 ミラのせいでリオンに会えなくなったと知ったら、セタに嫌われてしまうかもしれない。それはとても怖いことだった。だからといって、素知らぬ顔で心配そうな顔をするなど、出来なかった。ミラはセタよりも手段は選ばないが、そこまで割り切りが良いわけではなかった。眉をくにゃりと下げて落ち込んでる姉を見て、弟がそっと声をかける。

「…姉さんは、いつも俺を大切に思ってくれてる。俺は、それに感謝してる。だから、姉さんが今なんで悩んでるか分からないけど…少なくとも俺は、姉さんが何をしたとしても嫌いになることはないよ」

 穏やかな声に、ミラはやるせなくなった。

 時々、驚くほどこちらの欲しい言葉をくれるのだ、この子は。ミラが何も喋っていないのに、ミラの悩みの核心を突いてきて、かつ、何も知らないのに許してくれる。セタは、本当に不思議な子だ。

 守りたい、と切に思う。この優しい弟と、可愛い兄弟たち達だけで生きていけるのなら、どんなに嬉しいだろう。ミラの両親は、彼女を愛さなかった。彼女に初めて愛情を注いでくれたのは、血の繋がらない弟だった。だから、他に代わるものなどないのだ。かけがえのない、大切な大切な家族。

 セタが大事で、でもリオンについてどう告白すればばいいか分からなくて、ミラの目尻から一雫の涙が流れた。セタは無言でそれをすくう。

「姉さん、おやすみ」

「……おやすみなさい…」

 セタは、ミラを優しく抱き締めた。姉はしっかり者で頼りになるけれど、一人の少女なのだ。心が疲れてしまったら、休めるところが必要だろう。

 ミラに、セタの温度が伝わる。二人の距離はとても近く、とくん、とくんと、心臓の音が聞こえるほどだった。ああ、ちゃんと生きている。安定したその音に耳を傾けて、ミラは目を静かに閉じた。

 起きているのは、セタだけになった。腕の中の少女の寝息が深くなったのを確認して、セタもいよいよ目を閉じる。…

 でも、一人になってしまうと駄目だった。リオンの姿が勝手に浮かぶ。できるなら、また会いたかった。薔薇園で他愛のない話をして、のんびりと過ごすだけで良かった。

 でも、それは幻のようなものだった。俺にはもう、会ってくれないのだろうか。折角、剣も上達してきたのに。

 …思えば、剣を習う目的は、ただ楽しいからだった。イーサンが強く勧めてきたこともあるけれど、単純に剣を振ってれば、何もかも忘れて夢中になれたのだった。

 今では違う。リオンの下で働くために鍛錬している。家族以外にあまり興味のなかった自分が、どこでどう変わったかはよく覚えていないけれど、セタは騎士になったら、リオンに仕えたいと強く思うようになっていた。

 とても不思議な感覚だった。出会ってから一年も経っていないのに、セタの心の、ものすごく近いところにリオンはいた。笑わない子供。兄弟とは全く違い、遊びを強請ることもなく、自分の我儘を一切言わない、大人びた子供。身に纏う空気は冷たいのに、目は優しく感じられた。

 セタは、記憶を丁寧に掘り下げる。いつも薔薇園にセタを引っ張っていって、茨の茂みに二人で隠れる。完全に死角に潜り込んだことを確認すると、表情は変わらないが、得意げそうにしていた。大きくて赤い瞳が、綺麗に光を反射していた。薔薇の花とのコントラストが美しく、セタは両方の赤を同時に見るのが好きだった。

 利発そうな唇が動く。静かな話し方だ。行動の端々に気品があって、時々セタはドキリとする。リオンはまるっきり違う世界の住人で、そんな人が自分と会話をしていること自体が、夢のように覚束無いものだった。でも、リオンに対してだけは劣等感を感じたことがなかった。それは、リオンが当たり前のように、セタを人として扱ったからだった。

 セタは思う。リオンなら、この国を変えてくれるのではないかと。その考えにはなんの根拠もなかったが、妙に当たっているような気がした。この国には、リオンのような人が必要なはずだ。

 ならば、俺はもっと強くなりたい。リオン様が力を必要とした時に、一番に駆けつけられる者になりたい。人を人として見ない他の貴族よりも、俺という人間を見てくれたあの方に、仕えたいと思うのだ。

 俺はきっと、ものすごく傲慢で我儘なことを願っているんだろう。騎士になったからといって、あの方に仕えられる確証はないし、あの方が俺を望むとも限らないのに、こんなに自分勝手な思いを抱えてしまっているのだから。

 それでも、夢を見られるうちは、夢を見よう。あの方の役に立てるように、必要だと思って貰えるように、努力しよう。これが、俺の人生で初めてできた目標なのだ。

 …そして。

 セタは薄く目を開けて、姉の様子を伺った。ミラは穏やかな顔をして寝ている。無意識に、流れるブロンドの髪をそっと撫でた。

 とても大切な人だ。明るくて勝気で、しなやかな強さを持っている。でも、たまに儚くて、脆い。

 守りたい。ずっと前から、毎日それだけを思い続けて生きてきた。泣きたくなるくらい大切だった。

 俺は大切な人たちのためにならなんだってする。今ここにいる家族のためにも、俺はもっと、強くならねばいけない。もっと、強く。

 明日から、素振りの回数を増やさなきゃなぁ、と呟いて、セタはゆっくりと目を閉じた。









 第三章「反乱」





  一



 その日の朝は、不気味な静けさだった。


 セタは、リオンと出会ってから二年経ち、14歳になった。少し背が伸び、筋肉もうっすらとついてきた。毎日の鍛錬の成果が体に現れてきているようだ。

 さて、今日もセタは屋敷に行き、訓練に励む予定であったのだが。

「(何か、嫌な予感がする)」

 セタは漠然とそう思った。

 空を見上げる。いい天気だ。雲ひとつない晴れた空。

 だが、生き物の気配が全くと言っていいほどない。恐ろしく閑散とした朝だった。得体の知れない影が心に巣食っている。どうして、こんなに胸騒ぎがするのだろう。

「…セタ?どうかした?」

 隣のミラがこてんと頭を傾けてこちらを覗き込む。この心境をどう説明すればいいか分からなくて、少し考え込んでから、セタは一言だけ言った。

「動物が、いないんだ」

 ミラはそれを聞いて、周囲を見渡した。

 確かに、言われてみれば、ゴミ捨て場にいる黒い鳥も、家の下から聞こえるネズミの足音もない。人間以外の生き物がいないと、こうも不気味な景色になるのか。音のない貧民街は、死の匂いすら漂っている気がした。

「…異様ね」

「胸騒ぎがする。気のせいかも知れないけど」

「いいえ、そういう直感は信じた方がいい。今日は、下の子たちは家で待機させましょう。何かあった時も、家が一番安全だわ」

「…そうだね。姉さん、もしも…」

「ええ、杞憂なことを祈るけど、何かあったら私もすぐに家に帰るわ」

 ミラはにっこり笑う。

「セタ、大丈夫よ。うちの子達たちもどんどん逞しくなってるし、心配ないわ」

 安心させるように、声を和ませる。セタは少しだけ気が楽になった。こういう時の姉は本当に頼りになる。人に、力を与える声を持っているのだ。姉には何度励まされたか分からない。二人で掲示板のところにいると、モノがこちらに駆けてくる。

「お?ミラ姉、セタ兄、まだいたのか?いつもなら、とっくに仕事に行ってるだろ」

「モノ。ちょうどいいところに」

「?」

 首を傾げるモノの前で、ミラがしゃがんで、目線を合わせる。そしてニヤッと笑った。イタズラに成功した子供のような顔だ。

「じゃじゃーん!今日はモノたちは、お仕事お休みでーす!」

「ええ~!」

 モノが歓喜と驚きが混ざったような声をあげる。セタの兄弟たちは、できる限り皆で働いていた。セタの仕事だけでも生活はしていけるのだが、兄一人に任せず、家族で協力することを学ばせるために、ミラが全員で働くことを推奨したのだった。貧民街の状況を知るいい機会にもなるし、彼らが大人になり独立しようとした時にもきっと役に立つ。

 そんなわけで、兄弟たちは社会勉強として出稼ぎに出ているのだった。でも今日は、遊んでも良いらしい。

「ねえミラ姉、ほんと?ほんと?」

「本当よ~!皆いつも頑張ってるから、ご褒美ね。あ、でも何かあると心配だから、家の中で遊んでるのよ」

「セタ兄、これってほんと?」

「ああ、いっぱい楽しんでおいで」

「やったぁ~!やりぃ!」

 俺、皆に伝えてくる!と言って、モノは意気揚々と去っていった。モノは、ミラとセタを抜かせば年長者組になる。最近、ますます兄としての自覚が強くなり、小さい子たちの面倒も積極的に見てくれるようになった。モノに任せておけば大丈夫だろう。

 俺の家族はすごいなあと、セタがしみじみ思っていると、モノが何故か戻ってきた。しかもぷんぷん怒っている。二人が不思議そうにしてると、彼は憤慨して訴えた。

「二人だけ仕事ってダメだろ!たまには、ミラ姉とセタ兄もゆっくりしないと!」

 それを聞いて、長女と長男は同時に吹き出してしまった。なんて可愛い弟だ。こんなに優しく育ってくれているとは、嬉しすぎるだろう。

「なんだよ二人して笑ってさー!」

 モノは悔しがって地団駄を踏む。頬が気恥ずかしさやら怒りやらで紅潮していた。ごめんごめん、と笑いながら謝っていると、他の兄弟もわらわら出てきた。

「お休みって本当ー?」

「セタ兄、遊ぼ!」

「いや、セタ兄とミラ姉はいつも通りだって」

「えーそんなあ!」

「ミラ姉もセタ兄も、早く帰ってきてな!」

「おうちで待ってるね!」

「うん、兄さんできる限り早く帰ってくるから、いい子で待っててくれ」

 口々に言う弟や妹の頭を撫でて、セタは言う。兄弟たちは皆笑顔で待っていてくれるだろう。モノもいるし、何も心配はないはずだ。

 だけれど、胸のしこりは、まだ消えていない。暗い予感が、離れてくれない。安心したくて、いつも以上に長く一人一人を抱きしめた。兄弟たちは、仕事遅れちゃうよ、と言いつつ、照れながら抱擁を受け入れてくれる。好きだなあ、とセタはほんのり思った。温かくて、いつでも陽だまりの中にいるみたいだ。ぬるい体温から離れるのを名残惜しく思いつつ、セタは立ち上がった。さあ、仕事に行かなければ。

「皆、危険だから家からなるべく出るなよ。何かあったら、俺か姉さんが迎えに行くまで待っててくれ。いいかな?」

「「「はーい!!」」」

 元気の良い返事がかえってくる。どの子も満面の笑みでこちらを見ていた。セタはつられて笑って、行ってきます、と呟いた。


  二


「セタ、私は今日用事があるので、終わったら私のところに挨拶に来なくても結構です」

「分かりました。イーサンは来ますか?」

「そこは、イーサン様はいらっしゃいますかと言うべきところです」

「?い、いら……?」

「はあ、いくらかマシになりましたが、まだまだ改善の余地がありますね…」

 彼女は溜め息をついて、去っていった。またダメ出しをくらってしまった。難しい。

 それにしても、用事とはなんだろう。セタのいる時に、彼女が屋敷を離れるのは初めてだ。まあ、聞いたところで素っ気なく返されることは分かっているのでやらないが。

 今日のリオン様の洗濯物は、ちょっと少ないなあと思いつつ、セタは手を動かす。

 会わなくなってから、既に二年経っていた。しかし、セタの気持ちは変わることはなかった。強くなって、いつかリオンに仕える。そして、家族が幸せに暮らせるように尽力する。それらの目標を胸に、二年間鍛錬を続けてきた。この先もずっとそうだ。どうやったら騎士になれるのか、イーサンは教えないが(こういう所はとても不親切だ)、今も騎士になってからも、自分の決めたことに向かって突き進むのみだ。

 手前の、水に濡れた衣類に目線を落とす。前よりも少しずつ大きくなっている服。どのくらい背丈が伸びているんだろうか。いつか、貧民街の大人よりも高くなるんだろうか。未来のあの方は、どんな人になっているんだろう。想像するだけで、セタは楽しかった。あの方に仕えて、またあの時のように話をして、兄弟たちを紹介したい。きっと、自分の家族のことも歓迎してくれるだろう。

 そこで、ふと、家に居る兄弟たちはどうしてるか気になった。あまり不安がらないように意識していたが、何かのきっかけで家のことを思い出すと、心配が止まらなかった。ミラも大丈夫だろうか。いや、姉は機転も利くし、女性にしては非常に身体能力がいいから、襲われても逃げられるだろうけど、なんだろう。

 どうして、こんなに怖いんだろう。背筋がザワザワする。少し鳥肌が立っていた。秋が深くなってきて風が冷たいこともあるが、それだけではないとセタは思った。兄弟たちが気を利かせて肩にかけてくれた上着の裾を掴んで、引っ張る。大丈夫、大丈夫だ。

 きっと、何事もなく終わるはずだ。


「じゃあ次は、モノが騎士役で、私がお姫様ね!」

「えー…お前また姫かよ。好きだなあ」

「将来はお姫様になりたいから、今から練習しておくの!」

「お姫様とか、なれるわけないじゃん」

「むー!分かんないよ!」

「分かる分かる。一生無理だな」

「モノきらーい!」

「俺もきらい!」

「あ、モノとレナが取っ組み合いしてる」

「いいぞーやっちゃえー!」

 ミラとセタ以外の兄弟が全員揃っている家は、とても賑やかだった。誰かが黙っても誰かが喋り、誰かが疲れて寝たら他の誰かが遊び出す。その中でも、モノとレナの些細な喧嘩は頻繁に起こっていた。大家族の次男と、末っ子の妹は、気が合うのか合わないのか、年々衝突することが多くなっていた。前は、レナと他の兄弟が言い合いをすることが多かったのだが、最近はなぜか、この二人の絡みが急増していた。

 二人が喧嘩をし出すと、他の兄弟たちも加勢してお祭り騒ぎになる。モノは喧嘩を買う度に、二人から面倒を見るように頼まれたのになあと後悔するのだが、言い合いをするうちに、まあいいかと開き直ることを二、三度繰り返していた。レナはレナで、セタ兄に全員で仲良くするように言われたのに、と反省はしているのだが、結局ギャーギャー騒いでしまうのだった。

「ほんとに二人は仲良いなー」

「「仲良くない!」」

「揃った~」

「あはは!」

「くそ…レナ、お前セリフを被せてくるんじゃねえよ!」

「モノが勝手に私と同じこと言ったんでしょ!」

「はあ?何言ってんだお前」

「モノこそ何言ってるの!」

「「レナ(モノ)なんてもう知るか(知らない)!」」

「お~息ピッタリだ」

「すげぇ~」

 モノとレナは二人で頭を抱えた。ミラ姉、セタ兄、早く帰ってきてくれ。

「あ、喧嘩したら仲直りしなきゃダメだよ」

 妹のトリアが、すまして言う。喧嘩したら、ごろつき以外とだったら仲直り、というミラ姉からの教えだ。二人は嫌そうな顔をする。

「そうだそうだ!仲直り~」

「仲直りしない子は、いい子じゃないよう」

「ふぐ…!」

 レナが絶大なダメージを受けた。セタ兄が、いい子で待ってるように言ったからだ。

「モノってたしか、ミラ姉とセタ兄に俺たちを任されたんじゃなかったっけ~?」

 ニヤニヤと、ジジも茶化してくる。くそ、三ヶ月誕生日違うからって弟ぶりやがって。

 でも、そうだ。任されているのだった。俺が模範にならないと、ミラ姉とセタ兄が困ってしまう。

「く、むむ。…レナ」

「……あぃ」

「レナの夢、バカにして、ごめん……」

「うん…私もゴメンなさい」

「…仲直り、しようか」

「うん…そうする」

 わあ~!と歓声が上がった。なんだこれ。

 レナは顔を真っ赤にしていた。わかる。いざ改まって謝ったりするのは、普段距離の近すぎる家族では、少々気恥ずかしい。でも、謝ったら少しすっきりした。これがミラ姉の言ってた和解ってやつか。うん、なんだか大人に近づいた気がする。モノは、レナに向かって、声をかけた。

「レナ、あのな」

「?どうしたの」

「俺は、お姫様になることは難しいと思うけど、でもお前が頑張るなら、応援したい」

 レナは数秒ポカンとして、弾けたように笑顔になった。

「うん、うん…!レナ、頑張る!」

「大変だぞ?」

「大丈夫だよ!レナには家族がいるもん!ミラ姉もモノもセタ兄も、皆いるから、頑張れるよ!」

「…そっか」

「そうだよ!私ね、夢があるの。お姫様になったら皆をお城に招待して、盛大にパーティー開くんだよ!私がお姫様になったら皆美味しい食べ物食べて、綺麗なお洋服着て、素敵なお家に住めるよね!」

 レナは、キラキラして夢を語る。そんなこと思ってたのか。モノは、レナのそういう考えを初めて知った。こいつ、結構すごいなあ。そう思って、レナの話に耳を傾ける。

「そしてね、そしてね。私がお姫様になったら強い人たちが、家族のことも守ってくれるでしょ?皆、もう怖がらなくてすむよね!そしたら家族全員で――――――――」

 最後の方が突然聞こえなくなって、モノは不思議に思った。

 否。

 巨大な轟音によって、全ての音が掻き消されたのだった。

 一瞬、理解が追いつかず、頭がはっきりとしたのは、二回目の爆発音を聞いてからだった。地を震わす程の振動が、家中に響き渡る。

「な、なに?」

「やだあ!助けて!」

「怖い…怖いよ……!」

「うわあああん!」

 兄弟たちが、次々とパニックに陥る。振動は止まず、三回目の爆撃音が聞こえた時、とうとう泣き出す子が出てしまう。

 モノは焦った。こんな事態になったことはない。何をすればいいんだろう。弟や妹の泣き声が大きくなる。不味い、なにか、なにかしなくちゃいけない。こんな時どうすればいいのだろう。ミラ姉やセタ兄ならすぐに皆に指示を出せるのに。家族を任されたのに、俺が守らなくちゃいけないのに!

 モノもまた、冷静さを失っていた。自己嫌悪に陥りかけたモノの腕を、誰かが力強く掴む。

「モノ!しっかりして!」

「…レナ」

「…大丈夫、大丈夫だもん。セタ兄は、何かあっても待ってるように言ってた。絶対、迎えに来てくれる…!」

 ハッとする。そうだ、今するべきことは、ミラ姉とセタ兄を信じて待つことだ。モノは声を張り上げた。

「皆!家は壊れてない!安心しろ!ここにいれば、外より安全だ!頭を低くして、静かに待とう。振動で落ちてきそうなものはあるか?あったら床に下ろして…そうだ。よし、ミラ姉とセタ兄の二人が帰るまで、待機だ。落ち着けば大丈夫だから、怖がらなくていい」

 モノの堂々とした声に、兄弟たちはいくらか動揺を小さくする。すすり泣く子もいるが、先程よりは大人しくなっていた。自分の次に年上であるジジとトーリが、率先して下の子を落ち着かせてくれている。とりあえず、家族を纏めれたようだ。モノは息をついた。隣にいるレナに、礼を言う。

「…ありがとう。助かった」

「ううん、気にしないで」

 頭を振って、レナは小さく笑った。そうは言っても、モノはこの先、レナには頭が上がらない気がした。家族の中で一番幼いのに、さっきは一番冷静だった。慌てるモノを諌めてくれた。これが、セタ兄の言ってた『敵わない 』ってやつか。

「…待つしかないな」

「そうだね…ミラ姉とセタ兄も、大丈夫かな」

「あの二人なら、絶対生きてるよ」

「…ふふ、確かにね」

 四回目の爆発音が聞こえてくる。レナと顔を見合わせる。そして、泣いている兄弟たちに声をかけて、皆でしゃがんで頭を守った。音がくもっているから、少し遠くの場所なのだろう。理由は分からないけれど、今、貧民街は敵襲を受けているんだ。正直、かなり怖い。怖くて逃げ出したい。でも、二人が待っててと言ったのだから、待つだけだ。もう迷わない。信じて二人の無事を祈ろう。全員で息を潜め、時が過ぎるのをまった。


 数十分、いや、数時間経ったような気がする。どこかで家が燃えているようだ。窓から見えた景色で、遠くに黒い煙が幾つも昇るのを確認する。外も、逃げる人達の叫び声や罵声が聞こえてきて、その度に不安になった。兄弟たちは身を寄せあって、互いを抱きしめる。早く、早く帰ってきて欲しい。いい子にしているから、どうか無事に帰ってきて。

「ねえ、セタ兄とミラ姉、大丈夫かな…」

 レナが泣きそうな声で囁いた。他の兄弟も、これ以上大人しく待つのは難しそうだ。モノも、不安でいっぱいだ。いても立ってもいられない気持ちになって、逃げ出したい衝動で胸が焼けそうだ。しかし、グッとこらえる。

「もうちょっとだ。もうちょっとで必ず来てくれる…!」

「でも、遅くない…?」

「遅くても、俺たちは待つしかない。外は危険だ。この人数で動くのは不味い」

「…うう、セタ兄…」

 顔を覆って俯くレナの背中をさする。何もできない現状に、モノは独り、悔しそうに目を伏せた。

 今、ミラとセタはどこにいるんだろう。二人が俺たちを置いて逃げるなんでのは、世界がひっくり返ってもない。だから、何時間経とうとも絶対来てくれる。

 でも、もしだ。考えたくないけれど、もし、二人がこの渦中で死んでいたら…?

 モノは、自分の立っている地面が急になくなったような気がした。

 俺じゃ、まとめきれない。それに、悲しい。二人が死んだら、嫌だ。すごく嫌だ。ミラ姉、セタ兄、二人ともどこにいるんだよ…!

 モノがプレッシャーに耐えられず目を強くつぶった時、ガチャ、と玄関が開く音がした。皆一斉に玄関のある方のドアを見る。レナが俊敏に立ち上がった。安心したように、はしゃいで言う。

「ほら!来たよ皆、もう大丈夫だよ!」

「ミラ姉……?」

「セタ兄も一緒…?」

「私、迎えに行ってくるね!!」

 レナが勢いよく駆け出した。モノは、少しの違和感がした。

 そして、悪寒が全身を走り抜けた。

「待てレナ、出るな!!!」

「セタ兄!おかえりなさ―――――」


「…へえ、ガキが住んでたのか」

 そこには、甲冑に身を包んだ男が複数人立っていた。手には、鈍く光る剣を持っている。レナは戸惑って、後ずさりをした。

「セタ兄じゃ、ない…」

 怯えるレナを見下ろして、男の一人が嗤う。

「貧相な体だな。貧民とは総じて無様な格好をしている」

 モノが叫んだ。

「レナ!早く戻ってこい!お前ら、全員立て!ここから逃げ―――――」

「全員、殺せ」

 無機質な声が、響き渡った。


  三


 はっと顔をあげる。遠方から、聞きなれない音が聞こえた。不審な音は一回だけにとどまらず、二回三回と続けて起こる。心臓が早鐘を打つ。今のは、爆発音?

 そんな、まさか。聞き間違いだ。しかし、セタの期待を裏切って、四回目の爆音が無常に落とされる。違う、そんなわけない。家族のいる貧民街から、それが聞こえるなど、嘘だ……!

 今朝から感じていた不吉な影が、形のある悪夢となって現れてしまった。セタは剣を放り出して駆け出した。一刻も早く帰って、家族の無事を確かめねばならない。どうか、どうか何も起こらないでくれ……!

 しかし、一目散に走り出したセタの目の前に、突如黒い影が躍り出る。勢いを殺せずそのまま突っ込み、足がもつれて転んだ。セタはがむしゃらにもがいて立とうとする。邪魔しないでくれ。一秒も無駄に出来ないんだ。暴れるセタに、影はさらに止めようとまとわりついてくる。そして、頭上から大声が聞こえた。

「……ぉい、おい、セタ!」

「!?」

「やっと聞こえたか。お前、取り乱しすぎだ」

 セタは唖然として声をかけた人物を見上げた。

 黒髪に、赤い瞳の美少年が立っていた。

 リオン様だ。どうして。

「…リオン様」

「そうだ。一瞬忘れられたのかと思ったぞ」

「な、なんで」

 俺に会いたくないんじゃなかったのか、と聞きそうになってこらえた。この人は優しいから多分困らせてしまう。しかし、どうして今。セタは完全に混乱していた。リオンはその様子を見るも、セタの疑問などに一切触れようとせず、簡潔に言った。

「貧民街には行くな」

「…っなぜ…!」

 衝撃を受けるセタに対して、リオンはどこまでも淡々と言葉を紡ぐ。

「あそこは今、襲撃を受けている。無理に行っても死ぬだけだ。家は諦めろ」

「でも……!」

「命には変えられんだろ。ほら、屋敷の中に入るぞ。ついてこい」

 リオンはついてこい、と言っておきながらセタを「影」で捕らえて、強制的に引きずって歩き出した。セタは初めて見る黒い何かに面食らいながらも抵抗するが、器用に力を受け流される。セタは焦って声をあげた。

「違う!違うんです!俺の家族が…!」

 リオンの足がぴたっ、と止まる。リオンは少し目を開いてこちらを振り返った。

「お前の、家族?」

「そうです!早く帰るって約束したから、行かなきゃいけない!」

「家族……」

 リオンは複雑そうな顔をした。前に、セタが話していた子らのことだろう。

 セタの帰りを待っているだと?

 しかし、この状況ではもう…

 セタがさらに訴える。

「皆は俺のことを信じて待っています。だから、お願いです。離してください!」

 かなり狼狽えている。こんなに取り乱すセタは初めてだ。余程、兄弟たちを可愛がっているのだろう。全く、自分の兄たちとは違って人情味に溢れたやつだ。

 しかし、俺だって、お前に死なれては困る。


「…やめておけ。いくらお前が強いとしても、凶器を持った連中には敵わない」

「駄目です、きっと待っている!リオン様、お願いです…!」

 セタが縋るようにリオンを見る。青い瞳が、不安で大きく揺れていた。普段より色が深く、様相がガラリと変わっているそれに、リオンは一瞬たじろいだ。

「……お前は、命が惜しくないのか?」

 ぽつりと疑問を口にする。何故セタは、そんなに他人のために動けるのだろうか。

 セタの瞳は、剣を振っている時、早朝の清らかな空のように澄んでいる。リオンと話していて笑う時は、太陽に光を受けて輝く湖のようにキラキラしている。困ったり悲しそうにしている時は、深い海の底を思わせる。

 今は、そのどれでもなかった。こんなに過激で心を突き刺してくる青を、リオンは知らない。

 これも、こいつの一面なのだ。人のために動く時、セタはこんな顔を見せるのだ。

 俺は、分からない。ずっと自分のために生きてきた。生き残るために、王子であることに背を向けて、ひっそりと隠れていた。何故お前は、そんなに簡単に死地へ行くことができるのか。

 セタが、きょとんとして答えた。

「…それは、大事な人たちだからです」

 今度はリオンが目を見張る番だった。

「……それだけ、か?」

「はい」

「…馬鹿なのか」

 思わず出てしまった言葉に、セタが困ったように笑う。本当に、それだけなのだろう。全然意味が分からない。しかし、こいつは現にそうやって生きてきたに違いない。さっきの鬼気迫る表情は、生半可な覚悟では出せないものだ。

 リオンは、セタにまとわりついていた「影」を切り離した。気は進まないが、行かせるしかない。こいつを説得するのは、今は無理だ。

「!…ありがとうございます」

「……おい、セタ」

「はい、リオン様」

「兄弟たちと合流したら、せめてここに避難してこい。絶対だ」

「え、でも…」

「この屋敷は無駄に広いんだ。お前の兄弟くらいなんとかなる」

 リオンはそこで一息ついてから、噛み締めるようにセタに言った。

「…戻ってきたら、話すべきことがある。必ず生きて、帰ってこい」

「……はい!」

 セタは強く頷いて、リオンに背を向けて走り出した。リオンはその背中を見送る。ただひたすら、歯を食いしばって念じた。

 お前は、俺の元に戻ってこい。

 他のやつに、命をくれてやるなよ。


 あちこちから硝煙が上がっている。家に近づくほど、心臓の音がうるさくなっていく。貧民街は、阿鼻叫喚の景色になっていた。崩れた家、泣き叫ぶ人々、大きな瓦礫の破片から覗く、体の一部。

 セタは、避難する人たちとは反対方向に全速力で駆けていく。ただ兄弟たちのことだけを思い、がむしゃらに走り続ける。こんなに速く走るのは初めてだ。でもまだ足りない。もっと、もっと速くなければ…!

 視界の端に、倒れた人達が映る。爆発に巻き込まれたのだ。力なく呻いて、苦しんでいる。決して少なくない量の出血を見て、セタはさらに鼓動が激しくなった。

 速く、速く、速く……!

 家が見えてきた。全体的に崩れている様子はない。爆撃はまぬがれたのだろう。兄弟たちは、ミラは無事だろうか。

 セタは急いで玄関のドアを開こうとして、固まった。少し、開いている。いつもしっかり戸締りするように伝えてあるのに。

 ドアの向こうは暗く、静かだった。セタは震える手で取っ手を掴み、引っ張って家に入った。

「姉さん、皆……?」

 セタの声が、部屋に吸い込まれて消える。返事がない。聞こえなかっただろうか。セタは奥の部屋に行こうとして、足に何か柔らかいものが当たったことに気づいた。下を、見る。

「……?……あ、ぁ……?」

 どろり、と黒い液体が流れた。セタは理解出来ずに、『それ』を見る。

 暗闇に目が慣れてくる。それの輪郭が、徐々に浮かび上がる。細い手首、二の腕、茶色の癖毛。丸い頬。そして、『それ』と、目が合った。

「ぁ……そん、な…」

 そこには、変わり果てた姿になった、レナがいた。

 おびただしい量の血溜まりとともに、床に倒れ伏していた。体のあちこちがずたずたに引き裂かれ、恐怖に歪んだ顔で、セタを睨んでいる。

「うそ、嘘だ嘘だ嘘だ!」

 セタは血溜まりに膝をつけ、レナを掻き抱く。抱きしめた拍子に、ずろりと腸のようなものがはみ出した。首がごろん、と大きく傾く。セタはこれ以上レナが崩れてしまわないように、強く自分の体に押し付けた。まだ乾かぬ血が、セタの上着を染めていく。

「嫌だ、レナ、いやだ…」

 レナの体はまだ温かかった。セタは妹の体温を必死に求める。いつものように、抱きしめてくれ。笑ってくれ。この子は、もっと元気が良くて明るい子なんだ。

 笑って、わらって……。

 レナは、何も喋らない。光のない目が、セタを見ている。

「レナ…レナ…」

 弱々しく名前を呼んで、震える。これは夢だ。早く覚めなきゃ、早く元気なレナに会わなきゃ……。

 そこで、血痕が奥の部屋へと続いていることにセタは気付いた。レナが寒そうだったので、上着をかけて、よろよろ奥の部屋へ進む。むせ返るような、鉄の匂いがする。

「みんな……?」

 そして、目の前の光景を見て、ついにセタは立てなくなった。足から力が抜け、ずず、と壁に寄りかかりながら座り込む。

「あ、ぁあ……」

 血だ。黒い血が、辺り一面に広がっていた。

 手足がない子。胸から、何かぐちゃぐちゃした塊が飛び出ている子。皆、虚ろな顔でセタを見つめている。ひゅ、と息が漏れた。口が、あ、あ、と意味の無い音を発している。

 思考の働かない頭で、辺りを呆然と見渡す。そして無意識に、セタは、四つん這いでのろく進んで、一人の兄弟の前で止まった。その子は、首から上がなかった。兄弟を庇うように、うつ伏せに倒れている。他の子より、一回り背が大きかった。

 モノだ。

 途端、喉に熱いものが押し寄せる。

「う…!…ぉえ……っ」

 びちゃ、と吐瀉物が床に落ちる。止めることができなくて、セタはしばらく吐き続けた。

 どうして、どうしてこんなことに。

 セタは何も考えることが出来ず、頭はなぜ、という文字で覆い尽くされた。

 だって、朝は皆笑っていたじゃないか。俺と姉さんを元気に見送ってくれたじゃないか。分からない、分からない!

 セタは耐えられなくなって、乱れに乱れた感情の行き先を見失い、手を床に叩きつける。血が滲むのも構わず、狂ったように叩き続けた。そして、不意に動きを停止する。

「俺の、せいだ……」

 セタは蹲って、消え入りそうな声で呟いた。

 兄弟たちは、セタとミラの帰りをずっと待っていた。最後まで信じて、待ち続けていたのだ。

 俺が、家で待てなんて言ったから、兄弟たちが死んでしまった。俺が、俺が構わずに逃げろと言っていれば、こんな目に会わずに済んだのかもしれないのに!

 セタは、モノの体にすがりついた。

「ごめ、ん……怖かったよな、不安だったよな…俺のせいで、ごめん…ごめん……っ」

 涙が、モノの体に落ちていく。

「ごめ…っ…ごめんなさい……」

 もう、彼らは笑わない。元気に外を走ったり、喧嘩したり、成長するとも出来ない。


 もう、あの夕餉の一時はやって来ない。


 セタは泣き叫んだ。慟哭が響き渡る。声の限りを尽くして、叫び続ける。悲しくて悲しくて、死んでしまいたかった。大切な人達は自分のせいでいなくなってしまった。守ると決めたのに、その為に生きてきたのに、どうすることも出来なかった。

 俺に、生きる価値などない。

 セタは、おもむろに目線を漂わせる。モノの手に小さなナイフが握られていた。抵抗しようとしたのだろうか。セタは、モノの指を一本一本丁寧に剥がし、ナイフを手に取る。

 そして、その刃を首筋に当てた。


「やめなさいセタ!」

 ビリビリと空気を引き裂く声に、セタはハッとした。次の瞬間腕に衝撃が走って、ナイフを取り落とされる。落ちたナイフを誰かが蹴って、それは遠くに行ってしまった。セタは、自分の前にいる生きた人間を見上げた。

 ミラが、息を切らして立っていた。困っているような、怒っているような顔で、こちらを睨んでいる。目は透明な薄い膜を張っていて、それを見たセタは、ああ、またこんな顔をさせてしまったなとぼんやり思った。

 やっぱり、俺はダメなやつだ。自分の大切な人達を自分の手でなくして、逆に生き残ってしまった。無力だ。剣など習っても無意味だった。俺は結局、何も守れない。

 俯くセタを、ミラが力強く抱きしめる。少し痛くて、しかしその痛みが、セタに生きている感触を思い出させた。

「何を、何をしてるの…!あなたは悪くないでしょう!この子達の命を奪ったのは、あなたじゃないでしょう…?」

「…違う。俺が、逃げるように言っていれば、助かったかもしれない…」

「何が良かったかなんて誰も知るはずない!貴方は最善を尽くして、この子たちも最善を尽くしたの!貴方が死ぬ必要なんてないのよ!」

 ミラは唇を噛み締める。

 どうして、この国は邪魔ばかりするのだ。勝手に上の方で争っていればいい。勝手に死ねばいい。私たちは、あいつらが生活の邪魔さえしないのなら文句などない。それなのに、この将来ある兄弟たちを、優しい弟を、なぜこうも踏みにじることができる…!

 玄関でレナを見て絶句した。何箇所も弄ぶように刺されていた。あんなに怯えた顔をして、息絶えていた。怒りが、込み上げた。

 セタの上着がかけられていたので、帰っていることに気づいてゾッとした。奥の部屋に急いでいくと、己を殺そうとする弟がいた。全身がカッと熱くなって、死んでしまうかと思った。今、セタは自分の腕の中にいる。赤く腫れた目で、ブツブツと何か言っている。

 そんなに、自分を責めないで欲しい。お願いだから、自分を粗末にしないで欲しい。

 だってあなたは、

「唯一生き残った、家族なのに…」

「………」

「お願い……セタは死んじゃ嫌……っ」

「…ふ、……う、ぁ」

 セタの瞳から、新たな涙がこぼれ落ちる。ミラの目からも、堪えきれなかったものが一気に流れ落ちる。二人はお互いを抱きしめて、大声で泣きわめいた。相手から発されるその声が、生きている何よりの証拠だった。


  四


「これから、どうしよう…」

 しばらく泣き続けて、少し落ち着いた二人は、周りを見渡す。血で濡れた部屋に横たわる物言わぬ兄弟達に、また暗い気持ちになる。死んでしまった人達が戻ってくることは無い。でも、どうしてもまだ生きているかもしれないという、有り得ない幻想を抱いてしまうのだった。兄弟に触ることを躊躇うセタに、ミラが声をかける。

「まだモノ達を襲った奴らがいるかもしれないから、簡単な弔いをして避難しましょう。

 …セタ、大丈夫。モノたちは怒ってない」

「…うん」

 セタはぎこちなく兄弟に手を伸ばし、いつもするように頭を撫でる。手触りも頭の形も変わらないけれど、あの明るい笑い声は聞こえなかった。でも、ミラが傍にいてくれたお陰で、セタは幾分か平静を保てていた。兄弟たちの目を閉じてやる。

「…みんな、頑張ったな…偉いよ…」

「そうね…私達の、自慢の家族よ」

 その後は兄弟たちの体を並べて、手を繋がせた。内蔵は元通りにしてやって、外見はいつも通りに見えるようにする。…モノの頭は、見つからなかった。せめて胴体と一緒に供養したかったのだが、それ以上は探せなかった。

 二人で黙祷する。立派な祈りの言葉も何もしてはやれないが、ただあの世で安らかに過ごせるように祈った。

 目を開けると、兄弟たちは眠っているように穏やかな顔をしていた。もう、セタを睨みつけてはこなかった。


 外に出ると、まだ正午だった。しかし、遠くで色んな人の悲鳴が聞こえる。まだ敵襲は終わっていない。二人は気を引き締めた。

 そこでセタは、リオンの言っていたことを思い出した。家族と合流したら、屋敷へ戻る。そう約束したのだった。ああ、そうだった。待ってくれている人がいるのだった。今生きている人との約束だけは、違えてはいけない。

「姉さん、俺の仕事場に行こう」

「え?貴族の邸に?」

「うん、戻ってくるように言われたんだ」

「……それって」

 リオンのこと?と聞こうとして、慌てて口を閉じた。ミラはリオンの存在を知らないことになっている。少し逡巡してから頷いて、セタの後をついて行った。


 ミラは歩いている時、一つの疑問が浮かび上がっていた。

 リオンは、何故今日に限ってセタの前に現れたのだろう。セタの様子からすると、随分と会っていなかったのに、襲撃を受けたこの日に、見計らったように接触してきたのだろう。リオンはもしかして、私たちの街がこうなってしまった原因を知っているのだろうか。

「姉さん?」

「うぇ?どうしたの」

「着いたよ?」

「あっ…」

 いつの間にか、目の前に巨大な門が見えている。裏門だと言うのに、相変わらず無駄に豪華だ。売ったらどのくらいの生活費になるんだろう…とミラは現実逃避する。だって何となく入りたくないのだ。入ったら、戻れなくなる気がする。途方もなく大きな渦に、飲まれてしまうような、そんな予感がしていた。しかし、ミラがうだうだしている間に、セタは門を開けて、中に入ろうとしていた。

「サラさんは…いないな。用事、まだ終わってないのかな」

「サラって、あのメイドのこと?」

「うん。あの人から名前を教えてくれたことはないんだけど、イーサンがそう呼んでた」

「今、いないの?」

「……うん。大丈夫かな」

 いや、それは別の意味で大丈夫じゃない。ミラは背中に汗が伝うのを感じた。

 こんな襲撃があった日に、容易に外を出歩くことが出来るだろうか。貧民街以外の貴族や商人が住んでいる地域は安全かもしれないが、ここは比較的貧民街に近い場所にあるから、主人の無事を確かめに帰ってきてもいいはずだ。はっきり言って、あの女性は怪しい。本当にメイドなのだろうか。

 それに、だ。彼女も誰もいないということは、今、屋敷にはリオンしかいない。

 リオンは、何か企んでいる。メイドという監視役がいなくなったこのときに、動こうとしているのではないか。

 その時、セタは。

「セタ、」

 やっぱりここから出よう、と伝えようとした時、前方から黒い「影」が見えた。それは中心を軸に渦を巻き、縦横無尽に形を変えている。そして、それが霧のようにふっと消えると、中からリオンが現れた。ああ、間に合わなかった。

 そう思った時、彼がこちらを見た。

 目で問いかけてくる。

 お前だけか。

 ミラは小さく首肯した。

 リオンは、よく見なければ分からないくらいに一瞬眉をひそめ、セタの方を見て、その目尻が少し赤いことに気付く。リオンは、少し諦めたような、泣きそうな顔をして目をつぶった。

 しかし、数秒後に顔をあげた時は、もういつもの彼であった。

「…リオン様、」

「良い、言うな。よく戻ってきたな」

「はい…」

「それと、初めて会うが、こいつがお前の言っていた姉貴か?」

「そうです。ミラと言います。初めまして」

 あくまで、初対面を装うつもりだろう。ミラもそれに従って、リオンに挨拶する。リオンは彼女の白々しい自己紹介を受けて、よろしく、と小さく言った。

「さて、ここでは場所が悪い。訓練場にでも行くか…」

「そういえば、話す事があると」

「…ああ」

 リオンは少し言い淀んで、それでもしっかりと返事をした。三人で渡り廊下を歩き始める。

 話?話とは、なんだろう。ミラは不安が拭えず、前を行くリオンの背中を見つめた。その雰囲気はどこか近寄り難く、初めて会った時の少年の気配とは全く別のもののように感じられた。セタは、何も言わない。セタもこのリオンの様子は初めて見るのだろうか、と横を伺って、ミラは驚く。

 セタは、少し目を細めて、眩しいものを見るかのようにリオンを見つめていた。

 …その目はいけない。その、人を慈しむように見る目は、家族にしか向けてはいけない。

 ミラはヒヤリとする。セタの中で、リオンの存在は想像以上に大きくなってしまった。セタがリオンを大切な人だと認識すれば、もう駄目だ。セタは、大切な人達のためなら自分がどうなろうと動き続ける。それは正に諸刃の剣だ。人のために最大以上の力を発揮して、しかしその後の傷ついた己自身に目を向けない。ミラは焦燥感に襲われる。不味い状況だ。どうにかしてリオンからセタを離さなくちゃいけない。もしリオンの考えていることにセタを巻き込むつもりだったら、それを阻止する必要がある。

 …そうだ。これは自分のエゴなのだ。リオンを勝手に悪者にして、セタと二人で生きていこうとしている。その自分に気付いてしまって、また苦い気持ちになった。二年前も今も、私はリオンに対して随分と身勝手になってしまう。訓練場に着いてしまった。自分はセタを守りたい。でも、だからと言って目の前の少年をこちらの都合で悪にするのは、理性として残っていた良心が許してくれなかった。

 どうしよう。

 ミラは自分の気持ちに整理がつかないまま、リオンの言葉を待った。

 リオンが、こちらを振り向く。


 ざわり、と空気が動いた気がした。ミラは突然変わった周囲の雰囲気に息を呑んだ。赤い瞳に、動けなくなる。意識せずとも他者を威圧するその容姿は、もはやただの貴族ではなかった。


「改めてお前たちに告げよう。我は、この国の第八王子。なを、リオン=イクオム=エテルニタス」


 ミラは、目を見開いた。

 この国の第八王子。

 王子、王子ですって?

 なぜ、それほどの人物がここにいるのだ。何か事情があることは勘づいていた。でも、そんな。想像を遥かに超えてきた事態にミラが硬直していると、セタが、間をおいて喋る。

「…それが、話すべきことですか?」

「ああ、そして俺はお前たちに謝罪しなければならない」

 リオンは沈痛そうな面持ちを見せた。

「…すまなかった。俺の家族が、くだらない権力争いのために、お前の兄弟を殺した」

 胸が震えた。貧民である自分たちに、王家の者が謝罪をしている。有り得ない。有り得ないことが現実に起きている。

「…父は一昨日、正式な継承者を決めた。第二王子を新たな王とすることを、王子たちに伝えた。それに納得しなかったのが第一王子だ。あいつは、第二王子を蹴落とすために、貧民街に目をつけた」

「…どういうこと?」

 リオンの言うことが理解出来ず、ミラが問う。

「お前たちの住んでいる地域は、ちょうど第二王子の権力下だ。貧民とて、かき集めれば戦力にも労働力にもなる。王家では領域内の貧民の数ですら権力の対象になるからな」

「じゃあ、私たちの街が、襲われたのは」

「…第一王子は、貧民を殺すことで、第二王子の権力を失墜させようとした。貴族でも商人でもない貧民ならば、後にも支障はない」

「そんな、そんなことって…!」

 ミラの腹の底から、どす黒い怒りが込み上げてくる。

 はっきり分かった。王家は、自分たちのことを使い捨ての奴隷にしか思っていなかったのだ。今まで税率ばかりあげられて苦しめられたのも、不当で不平等な扱いに枕を濡らしたのも、王家にとっては取るに足らないこと。王家は私たちに興味がないんじゃない。私達のことを人じゃなくて、いつでも捨てることが出来て替えのきく、便利な駒だと思ってたんだ。

「…貴方は!王子のくせに今まで何もしてこなかったの?」

 怒りに任せ、リオンを追及する。やっぱり王家なんて信じられない。私の家族が死んだのは、こいつらのせいだ。リオンだってきっと、私達のことを大事になんて思ってない。だって、今謝罪したって、意味が無い。セタから貧民街の様子を聞いていたのに、今日まで何もしてくれなかったじゃないか。すました顔の裏では、ずっと嘲笑っていたに違いない。

 ミラの怒りを、リオンは受け止める。瞳孔を開いて責め立てる彼女を、無礼だと激昂することも、騒がしいと切り捨てることもなかった。

 そして、静かに言う。

「俺には力がなかった。この現状を変えられるような権力も、知識も持たない。お前達が俺を責めるのも当然だ」

 リオンは地に視線を落とす。

「ずっと、後悔してきた。俺はあまりにも誠実ではなかった。この国の民に、俺は一生かかっても償いきれない罪を作っている」

「……」

「……殺してもいい。そこに武器がある。俺を殺せば、この国に蔓延る悪が、一つ消えよう。お前たちに任せる」

 そこで、小さく笑ったように見えた。殺されるかもしれないのに、満足そうに。

 ミラは、何も言えなくなった。

 混乱した。王家なのに、王家のくせに、なぜ、リオンはこんなことを言うんだ。早く本性を表せばいい。私達を蔑んで罵倒して、嘆いても無駄だと言えばいい。その方が、心置きなく憎めるのに。

 その時、ずっと黙っていたセタが声を発した。

「……いえ、殺すことはしません」

 緩く首を振って、セタはそう言った。薄く微笑みすら見せるセタに、リオンが瞠目する。

「なぜだ。俺は、この国の王子だぞ。お前たちを苦しめた王家の、その王子だ」

「…違います」

「……何を考えている」

 リオンの瞳が揺れる。喜べばいいのか、泣けばいいのか、はたまた否定すればいいのか分からなかった。セタが、リオンをしっかりと見つめて言う。

「貴方は、俺を人間として扱ってくれた。今もそうです。俺たちに選択権を与えてくれている。貴方は普通の王子ではない。俺は王家が嫌いだけれど、貴方は違う」

 リオンは思わず震えた。

 こいつは、こちらが喉から手が出るほど欲しい言葉を、いとも簡単に言ってみせる。王子である自分が必要とされているのだと錯覚してしまうから、やめて欲しいのに。こいつのお人好しの性格は、どこまでいっても変わらない。

 リオンは、諦めたように目を閉じる。

「…そうだな。お前はそういう奴だ」

「はい。俺は、馬鹿のようですので」

 セタが笑って言った。リオンはため息を着く。

「そして、リオン様。言いたいことはそれだけではないのでしょう。」

「…ああ」

「え?そうなの?」

 まだ混乱しているミラが、セタの服の袖を引っ張る。姉を背中を優しくすって、落ち着くように促した。リオンは二人のその様子を何となく見つめながら、ある覚悟を決める。

 深呼吸してから、リオンは二人に向き直った。

「俺は今まで、計画を立てていた。もし、兄たちが過ぎた行動を起こした時、今度こそ後悔しないために。二年間、ずっと隙を待っていた」

「…リオン=イクオム。無価値なライオンという意味だ。俺は、生まれながらにして父から捨てられ、早くから権力を剥奪された。…だが、言い換えれば誰も俺の奇襲を予想はできまい」

 セタは、ハッとする。

「それは、つまり…」

「反乱を、起こす。俺は今日父を殺し、兄弟を殺し、この国の王となる」

 ミラは絶句した。この小さな少年が、この国の王を殺すと言ったのだ。

「どうやって…」

 呆然と呟くミラに、リオンが先程の「影」を出して見せた。影は一つ一つの粒子が意志を持つかのように動き、リオンの手の上を踊る。ミラは思わず目を顰めた。彼女の直感が、それを「関わってはいけないものだ」と言っていた。

「これは、俺が生まれた時からまとわりついていたものだ。父も、この『影』を操る能力を持っている。これこそが、王家が王家として成り立ってきた理由だ」

「それが…?」

「先祖はこの『影』を駆使して戦を勝ち抜き、今の王国を建国した。人々は、この力を恐れて、王家に絶対服従をしたんだ」

 すっと、目を細める。

「つまり、この『影』は、その気になれば何人もの人間を殺すことができる、ということだ。これがあれば、俺一人でも父を殺せるだろうよ」

「…俺も行きます」

「セタ?」

 隣にいるセタに、ミラは否定の声を張り上げる。彼はそれに構わず、なおもリオンに詰め寄った。

「剣術はある程度使えます。足手まといにはなりません」

「ちょっと!危険すぎるわ、何言ってるの!」

「…死ぬかもしれないぞ」

 リオンは声を低くして警告する。確かに、セタは戦力になるかもしれないが、人を殺したことなどないだろう。自分はもう覚悟を決めているが、セタまで人殺しにさせるつもりはない。俺の一族の不始末なのだから、こいつがそこまでする必要はないのだ。

 しかし、脅すように言うリオンの声音にも動じず、セタは譲らない。

「行きます。これは俺の意思です。リオン様一人では行かせません」

「セタ、なんでそこまで…」

 ミラの切ない声に、セタは顔を俯かせる。

 二年前の、薔薇園で過ごしたほんの一時を忘れたことはない。二人で色んな話をした。くだらない日常のことから国の政治まで、沢山話したし、リオンは丁寧に教えてくれた。自分より小さな子が、難しい話を淀みなく説明するのを見て、常人には出来ないほどの努力をしてきたのだろうと思った。

 リオンは寂しい子だった。友達が居なくて、外との世界を唯一繋ぐのはセタしかいなかった。時々、諦めたような、とても悲しい顔をしていた。セタはそれを見る度、どうしてそんな顔をするのか、自分に出来ることはないのかと思い悩んできた。

 今なら分かる。リオンはずっと自分を責めて、苦しんでいたのだ。セタが兄弟を殺されて初めて感じた無力感や絶望感を、一人でずっと抱え込んできた。悲しくて悲しくて仕方の無いはずなのに、リオンはそれを全て飲み込んで進もうとしている。

 一人で、遠くへ行こうとしている。

 それは嫌だ、とセタは思う。あの苦しみを、この先も背負って生きていこうというのか。自分を許さず、止まろうとせず、民に報いるために地獄より恐ろしい道にその身を堕とそうというのだろうか。

 リオンがそれでいいと思っていても、自分が駄目なのだ。リオンが全てを尽くして終わらせて、自分達をこの圧政から解放してくれたとしても、リオン自身はその時どうなるのだろう。きっとこの人は一生自分を罰し続ける。燃え尽きることの無い人々の怨念の中で身を焦がし、何も残すことなく消えてしまうに違いない。

 そのくらい、この人は情熱的だった。表に出にくい表情とは裏腹に、その瞳は痛いくらいに強烈だった。

 だから、俺は。

「これだけは、譲れません。…絶対に」

 しっかりとリオンを見つめて、セタが言った。


 ミラは、これ以上なく焦っていた。

 不味い、とても不味い。セタを、リオンについて行かせる訳にはいかない。国王を殺すには、城内へ行く必要がある。つまり、手練の近衛騎士とも衝突する恐れがあるということだ。そんな危険な場所に行かせられない。命の保証なんて誰もしてくれない。しかし、セタはもう説得できる状態にはない。弟は、一度決めたらどこまでも一直線だ。悔しいことに、長年の付き合いの中でこのセタを止められたことは無かった。私じゃ、止められない。セタの行動を決めるのは、リオンの言葉のみだ。

 リオンの方を懇願するように見つめる。

 お願い、セタを止めて。ここにいろと、避難していろと言ってちょうだい。

 ミラは無言で訴える。必死な様子のミラを一瞥し、リオンはセタに向き直った。そして。

「…好きにしろ。どう行動するかは、お前の自由にすればいい」

「は……、なん、で……」

 ミラは唖然として言葉を落とした。なんで、なんでそんなことを言うんだ。そんなこと言ったら、セタは。

「……ありがとうございます!足手まといにならないようにします」

「…しょうがないな」

 ミラは、目の前が真っ暗になった。

 止められなかった。セタは、リオンのためにどこまでもついて行く。また、自分のことなど考えずに、どこまでも…!

 ミラはリオンを睨みつけた。どうして駄目だと言わなかった。セタは、たった一人生き残った私の家族なのに、どうして奪おうとするんだ。また、黒い感情が込み上げてくる。激情で、体がぐちゃぐちゃに引き裂かれそうだった。

 リオンは、こちらを見ようとしない。

 やめて、とミラは心の中で叫んだ。

 もうたくさんだ。こんな悪夢いらない。早く、早く家に帰りたい。起きたら、いつもの朝なんだ。この夢から起きることができさえすれば、家で兄弟と笑い合えるのだ。

 セタが心配そうに顔色を除く。その優しさが、今のミラにはとても辛かった。私を心配するなら、ここにいて欲しい。城になんか行かないで、安全な所にいて欲しい。戦いたくない、怖いと言いながら生き残って欲しい。臆病に逃げることの、何が悪いというのだ。

「…さん、姉さん」

 セタの声に、現実に引きずり出される。ミラは、のろのろと緩慢に顔をあげた。

「姉さんは、危ないからここにいてくれないか。終わったら戻ってくるから」

 そんな保証は、どこにもない。朝はあんなに明るく笑っていた子たちだって、数時間後には屍になってしまったのだ。

 今別れたら、もう会えないかもしれないのだ。何かできることはないのか。自分にしか出来ないこと。

「…いいえ、私も行く」

「それは…」

「自由にしていいんでしょ。ね、リオン」

 リオンに、棘のある声で確認する。少年は肩を竦めて、そうだな、と肯定した。それに対して、セタが眉をひそめて反論する。

「姉さん。貧民街みたいに罠は仕掛けられないよ」

「舐めないで。ずっと奴隷商人から逃げてきたんですもの、攻撃の回避くらいできるわ。戦えはしないけど、陽動は得意よ」

「陽動って、一番危険じゃないか」

「……貴方が、それを言うの」

 問い詰めるように言うと、セタは言葉に詰まる。

 ほら見なさい、人のこと言えないじゃない。

 私にできることは、セタが突っ走らないようにせめてもの重りになること。私がいると意識していれば、セタは簡単には無理できない。気休めにしかならないし、互いに危険な場所に行くことには変わりがないけど、いくらかマシだ。

「話はついたか?そろそろ行くぞ」

 リオンが踵を返して外に向けて歩き出す。ミラは躊躇わずにその後を追い、セタもしぶしぶといった風に足を進めた。

 こうしてたった三人だけの反乱が、静かに始まったのだった。


  五


 城に足を踏み入れるのは初めてだった。いや、貧民だから当然ではあるのだが。自分が住んでいたところとは格段に何もかもが違った。リオンの屋敷よりも巨大にそびえ立つ門。国の紋章が真ん中に彫られており、そこから流れ落ちるように装飾されている月桂樹の模様が美しい。城壁はどこまでも白く、柵は金箔をあしらっていて、全体的に白と金で統一された外観は壮観なものだった。しかし、それも自分たちの税金から作られたと思うと複雑だった。

 物陰に潜んで、門にいる衛兵の様子を伺う。でっぷりと脂肪を余らせた中年の騎士だった。欠伸をして、退屈そうに立っている。

 リオンは、どうやって国王を殺すのだろう。セタは隣に目配せして指示を仰ぐ。リオンは、じっと門番の様子を伺っていた。

 そして、それは一瞬だった。

 リオンの体から「影」がぶわりと湧き上がり、男の背後を襲う。「影」は男の顔全体を包みこむ。数秒その体が痙攣し、そして力なく倒れた。

 ミラとセタは唖然として一連の流れを見ていた。セタが、恐る恐る聞く。

「……殺したのですか?」

 リオンは首を振った。セタは少しほっとする。

「眠らせた。むやみに殺す趣味はないからな。基本、隠密行動をしながら進む。番人がいたら眠らせる。無駄な戦闘は避けて、国王のみを速やかに暗殺する」

 余計なものを省いた作戦に、二人も頷いた。

「もし見つかったら戦闘だ。自分の身は自分で守れ」

「分かりました。その時は、」

「ああ。殺されるよりだったら、殺せ」

 セタはごくりと唾を飲み込んだ。兄弟の死体が脳裏をよぎり、それを頭を振って霧散させる。リオンを一人にさせないと決めたのだ。ここまで来てしまった。腹を決めるしかない。

 眠ってしまった門番から鍵を奪い、門を開ける。城の前の庭園は広く、セタの家が十個以上は入りそうだった。

 開けた場所に子供がいたら目立ってしまう。三人は庭に植えてある茂みの中を、草まみれになりながら、姿勢を低くして進んだ。

 人は、思ったほどいなかった。たまに、見張りの衛兵が暇そうに空中を見つめていたり、仲間と雑談をしていたりしたが、難なく抜けることができた。

 城の敷地内に入ってから数十分経った。一行は、特に問題もなく、中心部に向かって侵入していく。

 しかし、セタは、これは上手くいきすぎている、と思った。貧民街にしばしばくる人攫いを追い返す時も、こんなに苦労しなかったことはない。少し、嫌な予感がした。リオンと目を合わせると、彼も同じことを危惧していたようだった。

「これは、何かあるな。いくら見張りが間抜けだったとしても、城内の兵士がこんなに少ないのはおかしい。俺が城にいたのはもう何年も前のことだが、その時はもっと無駄なくらい護衛騎士がいた」

「そうかしら。考えすぎじゃなくて?だって、皆怠だらしなく仕事をしているわ。やる気がないだけじゃないの」

 ミラは辛辣に兵士の質を評価する。彼女の意見も、一理あった。やり甲斐などないかのように惰性で突っ立っている者が多く、随分と堕落しているものだとリオンも少し呆れた。

 しかし、あの父が、こんなに無防備にしているものだろうか。俺が生まれた時、この「影」に怯えて権力を取り上げ、赤ん坊である自分を警戒していた国王が、だ。

 今、三人は一階にいる。その中の、使用人たちの専用通路を歩いていた。ここは道は狭いが、分岐が多く身を隠しやすいからだ。

 しかし、リオンたちが最大限の警戒を払って進んではいるものの、まだ数人ほどとしか遭遇していなかった。どれも側用人のような非戦闘員で、眠らせるのも簡単だった。人の少ないルートを通っているので、比較的すんなりと進めるようにはなっているが、それでも異常だ。

 まるで、誰かに誘導されているみたいだ。

「しっ…」

 ふと、リオンが気配に気づいて、手を制する。三人は音のする方向に耳をそばだてた。重そうな靴音が、徐々に近づいてくる。相手との距離が数十メートルくらいになった時に、かちゃ、と金属音が聞こえた。一行は顔を見合わせた。

 騎士だ。

 それも、手練かもしれない。足音は一定で乱れることがなく、隙もない。ここに来るまでに見たどんな兵士よりも機敏さが感じられた。

 リオンは「影」を使うにあたって、相手との意志の差が重要だと言っていた。「影」に襲わせる対象が、自分の意思も何もない人間であればあるほど支配しやすく、リオンは自由に「影」を操ることができる。しかし、対象がリオンと同じか、それ以上に強い自我を持ち、かつ、抵抗できる戦闘力を持っているならば話は別だ。「影」の強度はやや弱くなってしまう。そういう相手に当たると、今のリオンが勝つのは難しいだろう。

 足音はどんどんこちらへ向かってくる。もしかしたら、相手を眠らせることができず、戦闘になるかもしれない。ここは、隠れてやり過ごすしかないだろう。音を消して、ゆっくりと動く。

 しかし、三人が手身近な部屋に入ろうとした時、不意に足音が止まる。

 セタは、急に背筋が冷えるのを感じた。

 この、気配は。


「…よう、セタ。そこにいるんだろう」


 低く、少し掠れた声。この二年間、何度も聞いた。

 ……イーサンだ。

 どうして、とセタは思い詰めたように呟く。

「出てこい。それとも、俺の言うことを聞かないで殺されたいか?」

 感情のない声が、廊下に響き渡る。

 完全に気づかれている。咄嗟にセタが出ようとして、ミラが止めた。リオンがミラの思惑に気付き、セタの腕を引っ張る。

 ミラが手を挙げた。そして、三本の指を立てる。セタはハッとして、息を潜めた。

 ミラの手が動く。


 3、


 2、


 1…


 辺り一面に、リオンの黒い霧が暴れだした。

 それらは不規則にうねる塊となって、イーサンの元へ四方八方から襲いかかる。彼は、それを睥睨したかと思うと、剣で全てを一刀両断にした。無駄のない、恐ろしいほど早い剣筋だった。これで、リオンの「影」が通用しないことが分かってしまった。

 ミラが「影」の中から躍り出て、懐にあった石を投擲する。石は小さいが、的確にイーサンの目に吸い込まれるように向かっていく。彼がそれを弾いている間に、三人は反対方向に全速力で駆け出した。

「…へえ、追いかけっこか」

 イーサンは不敵に笑い、自らも駆け出した。


 右に曲がり、左に曲がり、また左に。三人は、迷路のような通路を駆け抜ける。

 リオンは長年城にいなかったにも関わらず、迷いなく複雑極まる道を進んでいく。城から移されてあの屋敷に軟禁されたのは、自分が四歳の時だが、記憶力は良い方だ。それに、生まれた時から王子としての扱いなど受けていない。この使用人たちが使う通路の方が、馴染みがあった。あの騎士一人を巻くなど普通は造作もないことだった。

 だが、三人は今、窮地に立たされていた。

「あいつ…っ化け物か……っ?」

 イーサンは、どこまでも追ってきた。リオンの「影」で視界を塞ぎ、ミラとセタが石を投げて牽制したり、どこへ進んでいるのか混乱させるためにわざと音を反響させたりしているのに、どんどん一直線に近づいてくる。

 しかも、気付いたら音もなく前方に待ち構えているのだ。リオンたちは彼を巻くことができずに、ぐるぐると迷宮をさまよっていた。このままでは持久戦になってしまう。子供の体力ではイーサンに勝てない。リオンは解決策が思いつかず、唇を噛んだ。

「おい、セタ…!あいつはお前に剣を教えていただろう!どうやってこちらの位置を掴んでいるか、分かるか…!」

 走りながら、セタに聞く。セタは少し考えて、もしかしたら、と一つの仮説を立てた。

「前に、稽古をつけて貰ったあと…!イーサンが、急にサラが来るって言って…!俺は全然分からなかったけど、数分後に足音が聞こえて、本当にサラさんが来たんです!」

「じゃああいつは、聴覚が発達している可能性があると…!」

「はい!音だけではなく、こちらの気配を読み取ることにも長けているはずです!」

「それは、厄介、ね……!」

 ミラが苦々しく吐き捨てる。セタの話が本当ならば、イーサンはこちらの足音だけを正確に聞き取って追いかけているのだろう。どうりで、逃げても逃げても無駄なわけだ。

 いよいよ息が切れてきた。対するイーサンは、きっとまだ余裕がある。この二年間、セタは彼が息を乱しているのを見たことがなかった。いつも、余裕そうに不敵な笑いを浮かべていた。

「どうして、ここにいるんだろう…?」

 ずっと思っていた疑問が漏れる。イーサンは、自分のことを騎士だとしか言わなかった。どこの貴族に仕えていて、普段どんな仕事をしているかを話したことは一回もなかった。屋敷と同じく、名前以外は本当に謎の人だった。

 セタの疑問に、リオンが鼻を鳴らす。

「あいつがなんであれ、騎士であるということは父の手先だ。屋敷にちょくちょく来ていたのだから、あいつが俺の監視役を預かったんだろうな。俺が脱走したから、殺しに来たんだ」

「……城に来ることも、予期して?」

「それは、」

 それは、リオンも疑問を感じるところだった。リオンが屋敷にいなかったからといって、すぐに城に行ったのだと分かるものだろうか。イーサンたちにとって、リオンは王になる気のない、無力な第八王子であるはずだ。彼は、イーサンを始めとする監視役たちが、小さな王子が一人で城に行けるような度胸など無いとたかをくくり、街を捜索するだろうと推測していた。こんなに早く追手がくるのは、計算外だ。

 二年間、静かに過ごしていた。外に出ることはなく、本の虫になり、全てを諦めてしまったように振舞った。だから、最近はメイドが様子を見に来ることも減った。リオンはそのことにも油断せずに、無気力な子供を演じ続けた。

 今日の俺の行動を、完璧に予想できるやつなどいない。そう言いきれるくらい、俺は息を潜めてきたのだ。だが、現実にあの騎士が俺たちを追いかけてきている。一体、どうやって勘づいたというんだ…?

 リオンは思考の海に沈む。自分にどのような隙があったのか。あの騎士は何者なのか。考えても、答えに辿り着くことは出来なかった。様々な要素が頭に浮かぶものの、それらは繋がらずにばらばらとこぼれ落ちて行く。

「リオン、とりあえずここを抜けて、中庭に出ましょう。昼だから目立つけど、どうせ人もいないでしょうし、あいつに捕まるより良いでしょ?」

「…そうだな。一回仕切り直そう」

 ちょうど、中庭に繋がる道に出ていた。ここを走り抜けて行ければ、このいたちごっこも終わるだろう。とにかく、体力を回復しないといけない。まだ目的の階に辿り着けてもいないのだから。

 出口が近づいてくる。三人とも息が荒い。早く小休止できる所を見つけなければ。

 しかし、その時セタが目を見開く。

「……リオン様!」

 鋭く叫んで、セタはリオンの体を自分の後ろに突き飛ばした。

「な…っ!」

 突然のことに対応できないリオンの体を、ミラが反射的に受け止める。その直後、黒い影が横道から俊敏に飛び出し、セタの胴体を蹴りあげる。セタは受身を取るも、一気に中庭までふきとばされてしまった。

「セタ!」

 ミラが悲痛の声をあげた。助けに行こうとするも、リオンに止められる。

 セタと二人の間に、イーサンが立っていた。

 追いつかれた。もう少しだったのに。リオンは悔しそうに立ちはだかる男を睨みつける。イーサンは軽く笑って、ぐるりと三人を見渡した。

「全く…ガキどもが手を焼かせやがって。俺の仕事がいらなく増えるだろうが」

 そう嘯く師匠は、いつもの素朴ないで立ちではなかった。明るいところで改めて姿を確認して、セタは、彼の変貌を認める。

 黒を基調とした、上等な布地の隊服。首元や肩には優雅な銀の刺繍が施され、その厳しい風貌をさらに引き立たせている。刃こぼれ一つなく磨き上げられた刀身の剣を携えて、冷たくこちらを見下ろしてくる彼に、セタは目を見開く。

「イーサン…どうして」

 腹の痛みに耐えながら立ち上がるセタを見て、イーサンはふっと表情を失くす。

「お前はもっと賢いと思ってたんだが…どうやら思い違いだったな」

 そう言って、剣の切先を真っ直ぐセタに向けた。練習用の木剣ではない、本物の鋼でできたもの。殺気を乗せたそれに、その場が緊張に包まれる。

「俺は、王家直属の近衛騎士、イーサン。第八王子の監視及び『処分』を、国王陛下から承った者」

 虚に乾いた声が、セタの脳内に反響する。

 近衛騎士。王を守る、最強の親衛隊。イーサンは、その内の一人だったのだ。

 そして、処分?リオン様の処分………?

「さて、セタ。お前は王家の秘密について知りすぎた。よって、今からお前を殺す」

 イーサンは剣を構えた。一分の隙もない、流麗な動き。それだけで、本気で殺すつもりなのだと分かった。リオンが声を張り上げる。

「おい、お前の任務の優先度は、そいつより俺の方が高いだろう!そいつは殺すな!」

 必死に叫ぶリオンを一瞥し、イーサンは見下すように口角を上げた。

「先程、第八王子殿の使役する『影』と相対させて頂いたが、よく分かったよ。陛下のものよりも幾分劣る。あなたはいつでも殺せるだろう」

 目を見張るリオンの方に顔だけ振り向いて、さも可笑しそうに男は笑う。

「こいつが終わったら。王子殿だ。それまで、震えながら逃げればいい。あなたはどうせ、陛下を殺すことなどできやしない」

 言葉が鋭利な刃となって、リオンを突き刺す。こいつには勝てない。セタを守ることもできない。無力なただの子供であることを、無理やり自覚させられる。見ないようにしてきた事実を突きつけられ、リオンの心の壁は崩壊寸前だった。悔しそうに噛む口から、血が滲む。

「……リオン様。イーサンは俺が食い止めます。先に行ってください」

 セタが、意を決して宣言する。だが、それはあまりにも無謀なことだった。イーサンには誰も勝てない。彼は強すぎた。できる手を尽くして逃げたが、いとも簡単に追いつかれ、このざまだ。

 それでも、無謀だと分かっていても、セタは言ったのだ。リオンを先に行かせるために。

 リオンは、セタの顔を見る。窮地に立たされた少年は、思いのほか、落ち着いた様子だった。

「リオン様、俺は必ず勝ちます。貴方は、国王を殺してください」

 きっぱりと、彼は言い切った。その瞳は、リオンが成し遂げることを信じて疑わなかった。

 俺を、信じる者がいる。

 リオンはグッと腹に力を入れた。そうだ。立ち止まるな。絶望している暇など、無い。

「はっ!俺に一太刀も噛ませないくせに、言うようになったな」

 イーサンは、来たる戦いを楽しむようにして吐き捨てた。そして、セタ以外は用済みだと言わんばかりに、どこか気怠げに肩を竦めた。

「……さあ、早く行ったらどうです、存在しない、無価値な王子よ?」

 こちらを振り向きもせず、イーサンが挑発する。視線はセタに集中されていて、既に戦闘態勢に入っていた。

 少し冷静になったリオンは、そこで気付く。

「(こいつもしかして、始めからセタを、俺たちから分断するのが目的だったのか…?)」

 一瞬浮かんだ考えは、ミラの大声でかき消される。

「駄目よ!殺されてしまう!今すぐそこから逃げなさいセタ!」

「姉さん…」

「いい姉貴だなあ?…まあお前が逃げたらこの二人を殺すだけだ」

「……っ」

「セタ!そいつの言うことは聞かないで、逃げて!逃げなさい!!」

 ミラの声が泣きそうに揺れた。セタがそれにたじろいで、苦しそうに顔を歪める。

 俺は、今から勝ち目のない戦いをする。武器は、モノから貰ったナイフ一つ。イーサンは、本物の剣を持ってこちらを冷徹に見据えている。

 死ぬかもしれない。リオン様が国王を殺すのに成功したとしても、その時生きていないかもしれない。姉さんを残して逝くのは駄目だ。

 ……でも、でも。自分が死ぬとしても、俺は…。

「……二人とも。どうか先に」

「セタ!」

「……」

 イーサンが、無言で笑みを深くする。セタは腰を低くして、いつでも戦えるように準備した。それを見たリオンが、最後の確認をする。

「セタ。…いいんだな?」

「はい、先に進んでください」

「そうか…分かった。ミラ、行くぞ」

 リオンは背を向けて、歩きだした。あまりにもあっさりとしたそれに、ミラが憤慨する。

「ちょっと!見捨てるの!?」

「…あいつは進めと行ったんだ。それにあいつ以外にこの騎士に勝てる可能性のあるやつはいないだろう。任せるしかない」

「ふざけないで!ふざけないでよ!」

 ミラは髪を振り乱し、怒りに声を荒らげる。リオンが呼応するように叫んだ。

「お前はセタの足手まといになりたいのか!?自分のやるべき事くらい見分けろ!俺たちはここで止まることはできないんだぞ!」

「…それはっ!」

 リオンは、ミラが何か言う前に先に駆けて行った。残されたミラは、目を潤ませて再度セタを見る。

「姉さん。……行って」

「……!」

 諭すような声に、彼女はくしゃりと顔を崩した。その顔を、透明な雫が伝い落ちる。

 そして、今度こそミラは走り出した。もう、セタの方を向くことは無かった。

「……やっと邪魔な奴らが消えたな」

 二人の足音が完全に消えると、イーサンがぼそりと呟いた。改めてセタを向くと、彼は片眉をあげた。

「お前、俺相手にそんなもので抵抗しようとしていたのか?馬鹿も大概にしろ」

 彼は呆れたようにため息をついて、セタが逆手に構えていたナイフを指差す。そして、腰にさしていた二本目の剣を、セタの前に放った。カラン、と自分の目の前に転がった剣を、セタは信じられないという風に見つめる。

「持て。構えろ」

 イーサンが端的に言い放った。セタは一度イーサンを見て、また地面に落ちている剣を見る。

 どうしても、心に突っかかることがあった。セタは、その胸のしこりをイーサンに伝える。

「…あなたは、矛盾している」

「何が」

「どうせ俺を殺すなら、剣を渡したりしない。始めから処分するつもりの貧民に対して、剣を教えたりなんかしない。イーサンは、言葉と行動が噛み合っていない。」

「……」

「リオン様を監視するのが目的なら、俺に構うことなくあちらを追うべきだった。なぜあなたは、俺を優先した?」

「先程言っただろう。お前も第八王子も、ついでにあの小娘だっていつでも殺せる。お前たちくらいの弱い連中など、どういう順番で殺そうとも同じことだ」

「じゃあ貴方は、リオン様が二年前、部屋の外に出た時に殺すべきだった」

 イーサンが目を細める。その体から発せられる殺気が増した。セタは、それに緊張しながら、なおも言い募る。

「貴方ほどの人なら、リオン様と俺が遭遇していたことくらいとっくの昔に気付いていた。その時に俺たち二人を殺せたはずだ」

「…ガキが。調子に乗るなよ」

「それに、貴方がリオン様の監視役だと言うのなら、リオン様の生活空間を整えたのは貴方だろう。その時なぜ、本を準備したんだ。余計な知識を付けることができないように、世間と隔離されたあの屋敷に閉じ込めたと言うなら。どうしてあの人に知識を与えたんだ」

「……黙れ」

「監視するだけなら、そこまでしない。専門的な本を用意して、知識をつけさせて、国のことに興味を持たせるなんてこと絶対しないはずだ。だから、あなたはリオン様を殺す気なんてないんじゃないのか。あなたは本当は、」

「黙れ!」

「……っ!」

 イーサンが大きく足を踏み出す。一瞬でセタの目の前まで迫り、剣を振りかぶった。セタは地にある剣を取って、柄でかろうじて受け止める。ぎり、と押し付けられ、セタの腕が強く力を入れることにより、ぶるぶると震える。

 イーサンが光のない目で、セタのことを睨んだ。その暗闇に、閉じ込められる錯覚を覚える。彼の口から、地獄の底のような低い呻きが出る。

「…どうやら、救いようもなく馬鹿だったみてえだな?」

 剣を受け止めるのに精一杯で、身動きが取れないセタの横っ腹を、力に任せて蹴る。セタは、かは、と息をもらして転がった。そのまま中庭の中央に位置する噴水に盛大にぶつかり、背骨が悲鳴を上げる。

「どうした、セタ。俺に、勝つんだろう」

 イーサンが、ゆっくりと歩いてくる。セタは、軋む身体を叱咤して、何とか片膝を立てた。蹴られた横腹が、ズキズキと痛む。

 痛い。痛くてたまらない。でも、この痛みは生きている証拠だ。俺はまだ、死ねないのだ。

 セタはぎらりと前を睨む。その苛烈な青をとらえて、イーサンはうっそりと笑った。

「さあ、俺を殺してみろよ」


  六


 リオンとミラは、無言で渡り廊下を駆けていた。先ほど二階に上がり、三階へと繋がる階段を目指して走っている。

 国王は、城の最上階である五階で療養中のはずだ。そこまで行くには階段を登らねばならないが、ここの階段は、敵の侵入速度を遅くするために、それぞれの階で真反対の位置に設置されていた。例えば、一階から二階に登った時に、次の階段へと行くには、広い城内の反対側まで行かねばならない。普段の移動も大変にはなるが、城が建てられてから一回も改築されなかったところをみると、歴代の王の誰もがその造りを合理的だと思っていたのだろう。小さい時はそこまで意識しなかったが、今みると、何ともまあ臆病なことだとリオンは思う。一体、父も先代も、何に怯えていたのか。

 そこで、後ろの足音がぴたりと止んだ。不思議に思って、ミラの方を振り返る。彼女は廊下に突っ立ったまま、動こうとしなかった。俯いているため、表情は見えない。

「おい、もたもたしてると見つかるぞ…」

 リオンがそう言って、ミラに手を伸ばすと、彼女はその手を拒絶するように、強く弾いた。驚いて、少し上の方にある相手の顔を見る。

 彼女は泣き腫らした目でこちらを睨んでいた。

 低く、怒気を孕ませて彼女は言う。

「…これだけははっきりさせなくちゃいけない。そうでなければ、私はあなたのことを信じることはできない」

「…それは、何だ」

 リオンは静かに問う。ミラはこちらを睨めつけたまま、リオンにある質問をする。

「なぜ、あなたは、セタを巻き込んだ。命の危険に晒されることを知っていたくせに、なぜ私の弟を選んだの」

「………」

「一人で行ってしまえばよかった。セタのことを守るべき民だと考えているのなら、あなたはセタを無理矢理にでも説得して屋敷に待機させるべきだった…っ」

 リオンは目を伏せる。ミラがそれを疑問に思うことは、予想出来ていた。確かにあの時、自分は矛盾していた。好きにしろ、と言えばセタがついてくることが分かっていたのに、気付けばそうなるように仕向けていた。

「……味方が欲しかったんでしょう。自分を肯定してくれる都合の良い存在が欲しかったんでしょう?あなたは、権力も何もなかった。無価値な存在なのだから」

 そうなのだろうか。自分はそう思っていたのだろうか。セタじゃなくても、俺は自分の欲求を満たすためなら、誰でも良かったのだろうか。

「……違う。俺は」

 道に迷って途方に暮れているような声だった。それでも、はっきりとリオンは言った。

「誰でも良くなかった。セタが良かった」

「俺は、セタに認めて欲しかった」

 その答えに、ぎり、とミラは歯を食いしばる。もう、耐えられなかった。

 ミラはリオンに掴みかかる。自分より小さな体を乱暴に揺らして、叫んだ。

「…どうして、どうしてセタの特別になってしまったの!」

 ぼろぼろと涙が零れ落ちる。鬼気迫るその様子に、リオンは為す術もなく揺らされる。

「セタは!あの子は、大切な人のためなら何でもする!それがどれだけ危ういことか、あなたは本当は分かっていないでしょう!」

 ミラの力で、肩がみしりと軋んだ。リオンは痛みに眉を寄せる。

「セタはきっと、あなたのために役に立つでしょうよ。あなたのために剣を振って、貴方のために全てをかけて尽くすでしょう!たとえ、どんなに自分の心がすり減っても、傷ついたとしても、あの子は走り続ける。そして、あなたのためにその身を地獄に投じて、一生立ち止まることはない!」

「……!」

 そうだ。あいつはどこまでも愚直で美しい。俺はそれを分かっている。だけど、だけど。

 救われたいと、思ってしまった。

 …赦されたい。この身が罪に穢れていても、幸せになる権利がなかろうとも、ただ一度でいいから、あの光が欲しいと願ってしまった。

 俺はずっと、暗闇の中にいた。それが道理だと思っていた。だが、道標の様に足元を照らす光を見つけてしまった。

 あいつは、俺の光だった。無価値な俺のことを、初めて人として認めてくれた。駄目なのに、祈ってしまった。

「なんで、セタに会ってしまったの…?会わなければ、あなたがいなければ…!」

 俺がいなければ、あいつは剣を持って戦う必要はなかったかもしれない。今、こんな危険な城に来て、人殺しの共犯になることも有り得なかった。

 ミラが崩れ落ちる。肩を揺らして泣き咽ぶ彼女は、普段の頼もしい姿はなりを潜め、消えてしまいそうなほど儚かった。

「ごめんなさい、ごめんなさい…わたし…」

 自分が嫌になる、とミラは声を絞り出した。

 リオンはそれに何を言うこともなく、黙って下を向いていた。ミラの啜り泣く声だけが、廊下に響いていた。




  七


「ぐ、あ……っ」

 剣が服を引き裂いて、肩から血が飛び散る。セタは防戦一方で、じりじりと削られていた。既に胴体や大腿部に鋭い切り傷が無数につき、全身が鈍い痛みを訴える。痛みで、思考が上手く回らなくなってきていた。

 イーサンの鋭い突きが、また眼前に迫る。なんとか弾くものの、ビリビリと伝わる振動に疲弊した体が悲鳴をあげた。

「さっきの威勢のいい口上はどうした?防ぐだけじゃ俺を殺せないぞ」

 そう言って、間髪入れずに複数回、体の健を狙って突きを入れてくる。一瞬でも対応を間違えば、死ぬ。セタは瞳孔を開いて、剣の動きを見極めた。右に流して、上に弾いて、後ろに飛び退く。しかし、それでも新たな傷ができてしまう。セタが全身血だらけなのに対して、イーサンは無傷だった。

 セタは、どうしても剣を向けられなかった。初めての真剣に、体が上手く動かなかった。木剣とは全く違う、人を殺すためだけにある凶器。今、自分がそれを持っているのだと自覚すると、手に力が入らなくなるのだった。

 俺は今、殺し合いをしている。

 恐怖に身を強ばらせるセタを、イーサンは嘲笑う。

「…これが剣を持つということだ。お前は人を殺すための訓練を受けていたんだよ。でも、あんなに目を輝かせて剣を振っていたんだから、そんなの分かっていただろう?」

 自分の剣を防ぐのに手一杯で、無防備になったセタの鳩尾に、膝で打撃を与える。

「が…っ」

 細い体が宙を舞う。受身を取れず地面に体を打ち付け、血濡れの哀れな子供は息を乱した。イーサンはそれを凍った瞳で見つめて、セタが立ち上がるのを待つ。いつでもトドメをさせるにも関わらず、セタをなぶって時間を稼いでいた。

「ほら、立てよ間抜け。人を殺す覚悟なしに、のこのこと来たわけじゃないだろう」

「……っ」

「はは。しぶといな」

 全身切り傷だらけになりながら、セタの目は一欠片も諦めていなかった。いつもはこんなに激しい目をしないのに、何がこいつを動かしているのか。…一人、心当たりはあるが。

「…そんなに第八王子に執着して、お前はどこへ向かうというんだ」

 ぴくりと、セタが身動きする。

「あの王子が、お前の願い通りの奴だと思っているのか。本当に国王を殺せるとでも?お前らの望む国を作ってくれると、本当に信じているのか?」

 心底つまらない、とでも言うようにイーサンはセタに尋ねる。イーサンは目の前の少年が理解できなかった。不確定要素の多いあの王子について行く神経も、そのために、今ここで命を張ろうとする気持ちも、分からなかった。

「…少なくとも、貴方はそうなんじゃないのか」

「……何?」

「貴方は、信じたかったのではないか。リオン様が、この国を壊してくれることを。だから、意図的にあの屋敷を用意して、外敵からあの方を守っていたんじゃないのか」

「……ふん。思考もガキだな」

 鼻で笑ってみせるイーサンに、セタは咎めるように目を細めた。

「しかし、そう考えなければ説明がつかない。きっと、あなたはずっとリオン様を守ってくれていた。だから、俺はあなたを殺せない……」

「……へえ」

 その台詞を聞いたイーサンの顔から、表情という表情が抜け落ちた。もはや人間の皮すらも投げ捨てられた彼の内側から、巨大な穴か見える。

 セタの全身を、悪寒が走り抜けた。突然、許容量を遥かに凌駕する恐怖に蝕まれ、反応が遅れる。

 刹那、セタの左の上腕を、イーサンの剣が貫いていた。

「……っ、ぅ゛ああ!」

 腕を貫通した剣が、さらに深く突き刺さってくる。ぐり、と抉られて、痛みで気が狂いそうになった。額から脂汗が滲む。痛みに叫んだセタを、イーサンは無感動に見下ろす。その目には、弟子に対する同情など見受けられなかった。

「お前は本当に俺を苛立たせるのが上手い。遊びは終わりだ。今度こそ、死ね」

 一気に、剣をセタの腕から抜く。肉を引きずり出される感覚と吹き出す大量の血に、兄弟の死に顔が思い出されて、セタは絶望に目を見開いた。直後に、焼け爛れるような痛みが襲い、腕を抑えて悶絶する。

 イーサンはうずくまるセタのこめかみを蹴り、無理矢理体を起こさせた。セタの血で濡れた剣を一回振って、びちゃり、と体液を落とす。それから、容赦も手心もなく、セタの心臓めがけて刃を突き出した。必死に防いで距離を取ろうとしても、上背のあるイーサンにはほぼ無意味だった。ざく、と、また肉の削れる音がする。

 こいつも駄目だったな、とイーサンは内心ため息をつく。セタは、これまでに出会ったどの貧民よりも、剣士としての素質があった。彼ならば、自分と張り合えるほどの実力者になるかもしれないと、どこか期待していた。

 だが、恐らく無理だ。セタは甘すぎる。

 俺が体を傷つけ、腕を貫き、死の恐怖を与えているというのに、まだ俺を殺そうとしない。俺のことを、王子を守った善人だと思って疑わない。

「(馬鹿なやつだ。俺も変わらない。俺はクソみてえな貴族たちと同じだ。弱いくせに生き足掻く貧民と同じだ。何もできない無価値な人間など、そこらじゅうにいる。)」

 イーサンの脳内に、しわがれた声が響き渡る。彼を何十年も屈服させている、この国の王の声が。


『…息子だ。しかし、そんなことはどうでも良い。あれは化け物だ。神などではない、悪魔だ…!』


 ……疲れただけだ。この腐った国に仕えることに辟易して、些細な嫌がらせをしてやろうと思っただけ。あの王子が反乱を企てることなど、賭けだった。守ろうなどと、思ってもいなかった。

「(…ああ、いや。昔は願っていたのだろうか。こいつのように、ありふれた理想を持っていただろうか)」

 頑なにこちらを攻撃しないセタを痛ぶりながら、彼は昔に葬った記憶のかけらを手繰り寄せる。どうも、この少年は自分の調子を狂わせることだけは得意なようだった。強く擦って落とされた錆のように、思い出したくもないものが、脳内に浮かび上がった。

「(そういえば、昔は……)」


 蛇が、悠々と地面を這いずり回る。見たこともないほど、黒い色をしていた。赤い瞳孔が、薄暗い部屋の中で目立っていた。誰も、あの生き物に逆らうことはできずに、大人しく震えて時が経つのを待っていた。一人の、馬鹿な騎士以外を除いては。

 王の威厳を象徴する、謁見の間。その空虚な部屋の中央に自分は立ち竦んでいた。しかし、耐えきれずに、怒気を含んだ顔で相手を見上げる。

『…今、なんと』

 あの中で、自分だけが恐怖を忘れていた。その身を震わせるのは、沸々と湧き上がる恩讐の炎だった。

 剣に手をかけ、殺気を迸らせて睨んできた自分を、あれは不敬だと言って罰することはなかった。実験動物でも見るかのように、興味深く微笑んだ。

『聞こえなかったか。カビ臭かったから、殺したと。帰っても良いが、お前の家族はもう、この世にはおらぬぞ』

『…何故、です。いいえ、冗談では、』

 王は、そこで耐えられぬ、と言いたげに吹き出した。自分の後ろで控えていた他の騎士も、脇に待機していた使用人たちも、同じように口元に手を当て、笑うふりをする。

 そこで、理解してしまった。この王は、嘘など言っていない。文字通り、カビ臭いから殺したのだと。

 瞬間、その喉元に刃を突きつけていた。胸にあるのは憎悪のみだった。このイカれた男を殺して、内臓を引き摺り出してやらねば気が済まなかった。背後から悲鳴が上がる。男爵の息子が国王に盾ついたのだから、それは一大事だ。この瞬間に、自分は大罪人となったのだ。

 だが、どうでもよい。家族が死んだのであれば、守るものなど何もない。ここで命を落としたとしても、この男を道連れにできるのであれば何も…!

 蛇が、王を守るようにして素早く動いた。鼻先寸前のところで、硬い鱗とぶつかり、剣の勢いが完全に相殺される。万感の力を込め、全てを絞り切る勢いで押し込んでも、その防御を突き破ることはできなかった。悔しそうに顔を歪めた青年に対して、王は愉しげに目を細めた。

『…イーサン。お前は炎にはなれぬ。炎を消す水でしかない。お前が我を殺すことは、生涯ないだろう』

『黙れ!この人でなしめ、悪魔め!殺してやる!!』

 悲憤に満ちた断末魔のような糾弾とともに、彼はさらに剣を持つ力を強めた。「影」に対して臆するどころか、殺気を強めてみせたその胆力に、王の目が変わる。

『…やはり、お前は逸材だ。数百年に一度あるかないかの、奇跡と言えよう』

『…殺す。絶対に、殺す…!』

『いいや。殺せはしない』

 王は、憤怒の形相をした勇者に対し、満足げに笑った。

『何故ならば、お前にはまだ守るものがある。そうだろう?たしか…貧民街で拾ったのだったか、あの女は』

 イーサンの目が動揺に見開かれた。剣を持つ手が震え、王につけいる隙を許す。

『ぐ、ぁ…っ』

 彼の左のこめかみに、「影」が、ずぶりと突き刺さった。その触手は、彼自身の身体を傷つけることはなく、脳内へ速やかに到達する。思考が、国王の声で覆い尽くされ散っていく。精神へおびただしい量の負荷をかけられ、筋肉がびくりと硬直した。

 その端正な顔に黒いあざが走り、彼は脂汗を流して膝をつく。しかし、余人とは違って、簡単に「影」の恐怖に侵され発狂することはなかった。瞳に正気の光を残しているのを認めて、王が笑みを深くする。

『何故、サラのことを…っ』

『当たり前だ。王は、全てのことを知っている。…楽しみではないか。お前が死んだ後、女がどうなるのか』

『…卑怯者が…!…づ、ゔ?!』

 喉から何かがせり上がってきて、二、三度激しく咳をする。手のひらを見ると、そこには、ぶよぶよとした黒い物体が蠢いていた。背筋に悪寒が走る。自分の身体を侵略しようとする「影」に、本能で忌避感を覚える。それでも、剣の柄を握り直して抵抗しようとしたが、彼は、王の言葉が的を射ていたことに、皮肉にも気付いてしまった。

 先ほどよりも、剣を持つ手に力が入らない。王への憤りは間違いなくあるのに、身体が、それに連動しない。

 その原因を、彼は理解していた。

『…話が早いな。それが、お前の致命的な弱点だ』

 唖然としてこちらを見たイーサンに、王は密かに蛇を仕向ける。あまりの惨さに思考停止をしている彼は、その毒牙を感知することができない。

『お前が我に剣を向けたのは、失うものがなかったからだ。逆にいえば、守りたい人間がいるお前は、何もできない、無力な有象無象に過ぎない。いくら、憤然と炎を燃やしたとしても、その冷静さが、全てを流してしまうのだ』

『……っ』

『だが、お前のような実力者を失くすのは惜しい。よって、機会を与えよう』

 蛇が、口を大きく開けて、彼の首元に牙を突き立てた。身体中に、黒い渦が広がっていく。この世の悪を煮詰めたような不協和音が耳元で響き渡り、イーサンはわけもなく声を出し、酸素を求めて荒く呼吸を繰り返した。

『…イーサン=トランクィリタース。お前を近衛騎士に任命しよう。死ぬまで、その剣を我に捧げるが良い』

 その声を最後にして、彼の意識は途切れた。

 それから、再び覚醒するまでに、ずっと底なしの沼にいるような感覚があった。汚泥の中に攫われ、幾重もの鎖に巻きつかれ、息すらもままならない。時間を認知できず、永遠に悪夢の中に囚われ続け、数度発狂しかけた。その度に、自分の中にあった忌むべき「冷静さ」が泥を流し、かろうじて人間としての形を思い出した。

 …目を開けると、見知らぬ部屋にいた。あとで、そこが王の自室だと判明した。絶対的な支配者は、無言で跪く彼を見下ろした。そして、ある意味で信頼の笑顔を浮かべた。

 その時には、もう、逆らおうなどという感情はなかった。


 王の傀儡となってから何年か経ち、自他ともに認める「右腕」となった彼は、同僚からも恐れられていた。近衛騎士長ではないものの、実質、イーサンはそれ以上の価値があった。剣技で彼に勝る者はなく、王の思考と「影」に誰よりも詳しく、そして、金や権力で釣れることはない。

 彼は、王の模範の臣下であった。だからこそ、王は「化け物」の討伐を、彼に託した。

『……殺せ。あの化け物を殺すのだ、イーサン』

 …ただ、王に身も心も潰された自分が、再び小さな抵抗をしたのは。


 水底に落ち込んだ、あの苦い記憶。それは、セタによって掻き乱され、湖の表面に顔を出す。イーサンは、そうやって感情を引き出されてしまった自分ごと、くだらない、と吐き捨てた。

 理由があるとすれば、ただ、見てみたかったのだろう。もし、あの王子が立ち上がると言うならば、この国が壊される瞬間を、特等席で見たかった。

 でも、もういい。王子が反乱を起こすには、時期尚早であった。あの王子の力不足ではなく、時代が悪かった。

 そして、こいつは最後まで俺を殺せないだろう。俺のことを大切なものだと、「守るべきもの」だと感じているのであれば、未来永劫、殺せはしない。

 ならば、早めに死なせてやるしかない。この地獄のような国では、セタのような人間は生きていても苦悩しかない。こいつを殺して、俺はまたのうのうと生きていく。

『そうだ、お前ならば殺せるだろう…この国で最も強い、我の剣であるお前ならば、人智を超えた怪物とて…!』

 王の歪な期待が、脳内に駆け巡る。いつまでも、この呪いからは解放されないようだ。停滞した泥水と化した自分を自嘲して、彼は弟子に向かって渾身の一撃を放った。


 殺られる。イーサンはもう、手加減などせずにセタの息の根を止めにくる。セタは、剣が一筋の光となって自分の喉元に向かってくるのを見た。全ての物体が、ゆっくりと動いてるように感じる。死は、そこまで迫ってきていた。

 嫌だ。俺はまだ死にたくない。

 姉さんが、俺を待っている。

 リオン様が、俺を信じている。

 思い出すのは、兄弟の顔。あの夕餉の団欒。

 皆の笑顔が眩しくて、辛い時も悲しい時も、あの子たちがいれば乗り越えられた。

 兄弟の真ん中で皆の世話をする、姉の姿。こちらに気づくと、満面の笑みで出迎えてくれる。

 この笑顔のおかげで、何回も救われた。

 貧民街に住む人々。生活するために仕方なくごろつきをしている人も、食料品店の頑固な店主も、根は陽気で、良い人たちだった。何か嬉しいことがあると、皆で騒ぎまくってバカみたいに笑いあった。セタは、ここに住んでて良かったと、毎日思った。


 そして、薔薇園に座る小さな少年。

 赤い瞳が、穏やかにこちらを見つめて言った。


『……良い奴らだな』


 ああ、貴方は。


 貴方は、俺の大切な人だ。


 その瞬間、イーサンは、少年の髪が白銀に輝くのを見た。

 自分の全てを飲み込む青に、釘付けになる。


「あぁ、あああ゛あ゛あ!!!」


 セタが全身全霊をもって叫ぶ。彼の剣は、真っ直ぐにイーサンへと向かい、そして。

 ずぶり、と音がした。


 セタの荒い息が、やけに辺りに響いていた。死闘の後の中庭は思いの外静かで、ざあざあと流れる噴水の音しか、聞こえなかった。

 セタは呆然と、己の師を見上げた。

 その頬に、雫が一滴、滴り落ちる。

 心臓を貫かれたイーサンが、咳き込む。黒い血が口端からぼたぼたと落ち、セタの髪を汚した。男は、自分の血を浴びたセタを見て、薄く笑った。

「は、は…!汚れちまったな…」

 その声を聞いて、セタは状況を理解する。

 俺が、イーサンの胸を。

「……ひっ…」

 ガクガクと、滑稽なほどに手が震える。咄嗟に剣を離そうとして、イーサンに強く捕まえられた。心臓を貫かれたとは思えぬ剛力で、無理矢理に柄を持たされる。セタは、怖くて恐ろしくて、頭を左右に振って抵抗した。初めてのことに、半狂乱になっているようだった。

 イーサンが自身の体を支えれなくなり、地面に膝をつく。手を拘束されているセタは、逃げられずに共に地に倒れた。

「イーサン、イーサン……っ」

 掠れた声で、助けを求めるように、セタは師匠の名前を呼び続けた。自分よりも死にそうなその顔に、イーサンは内心苦笑する。

「いい、か。最後にいいこと、教えてやるよ…っ」

「!ひっ……や…」

「セタ、いいか…」

 目の前の男が、らしくもなく、真っ直ぐに目線を合わせてきた。そして、自分に突き刺さっている剣を、さらに深く押し進める。

 ぐちゅ、と嫌な音がする。何か、繊維状で弾力のあるものを無理やり引き裂くような、そんな感覚。それが、剣を通してセタの手に敏感に伝わる。

「覚えておけ。これが、肉を断つ、感覚だ…」

「……!!」

 恐怖に喘ぐセタを離さず、イーサンは自分の心臓をえぐる。最後の教えを、その魂まで刻みつけるために。

 人の心臓を、かき混ぜている。

 鉄の匂いがする。家と同じ、死の匂い。

 これが、人を殺す感触。

「ゔ………あ…」

 イーサンの鼓動が、急激に弱まっていくのを感じた。剣から伝わる残酷な死の気配は、セタの精神を侵食する。

 俺が、イーサンを殺してしまった。

「……その顔、傑作だな……かはっ」

 また血を吐いて、イーサンは仰向けに寝転んだ。陽の光に当てられて、その患部が丸裸にされた。目を凍りつかせて己の心臓を凝視するセタを、面白そうに眺める。男は、これから死のうとしているのに、どこか愉快そうだった。

「イーサン、俺…俺…」

 俯くセタの瞳を見る。恐怖で彩られてはいるものの、先ほどの殺気など微塵もない、いつものお人好しの目だった。

 暗く落ち込んだ色のそれに、深い海に沈んでいような幻覚を見る。ろくでなしの自分にしては、穏やかすぎる最期だ。

「本当にお前は、調子が狂う、よ……」

 お人好しのお前に負けるなんて、俺も本当に、焼きが回っちまったんだろう。

「(…だがな、そんなに甘い考えで、生きていける世の中ではないんだ。少なくとも、俺はそれで馬鹿を見た)」

 だから、お前は。

 そんな馬鹿の二の舞になってはいけない。

 イーサンは、最期の力で、セタの手首を力いっぱいに握りしめた。想像以上に頑固で優しかった弟子は、小動物のように体を震わせ、こちらを見る。

 …男は、凄絶に笑った。


「人を殺すというのは、こういうことだ」


 彼の声。表情。握りしめた手の体温。その全てが、セタの魂に、焼印として刻まれる。


「俺を殺した、この感触を、忘れるな……!」


 それは、呪いのような言葉だった。

 男は薄ら笑いを貼り付けたまま、絶命した。




 セタは、男の死に顔をじっと見つめている。師は、己の命を以て最後の稽古をつけた。セタに、剣を持つことの意味を伝えた。…憎らしいけれど、分かってしまった。

 セタは師の目を閉じさせて、ゆっくりと立ち上がった。その顔に、もう迷いはなかった。

「……は、い。忘れません」

 生々しく思い出される、断肉の音。手にまで伝わってきた、命の振動。

 それら全てを奪う、自身の手。

 これが、剣を持つ者のさだめ。

 全ての感情を、今は飲み込む。地面に横たわる彼に跪き、震える己を叱咤して、声を出す。離別と、感謝の言葉を。

「…ありがとう、ございました。」


 目を瞑り、短い黙祷を捧げる。そして、師の亡骸に踵を返し、セタは二階へと通じる階段を探しに歩き出す。

 ふと、急ぐような足音が聞こえてくる。敵か、と一瞬身構えて、次に現れた人物にセタはハッとした。

「……サラ、さん?」

「セタ。イーサン様は…っ」

 サラが珍しく焦った顔でセタに問いかける。いつものメイドの制服ではなく、全身、黒を基調とした戦闘服に着替えていた。手に握りしめた暗器には、黒い血液がこびりついていた。彼女も、おそらく普通のメイドなんかじゃなかった。でも、それに驚くことはなかった。自分でも空恐ろしくなるほどに、セタは落ち着いていた。

 彼女にどう説明しようか、少しの間考える。結果、彼は黙って、道の脇によけた。彼女が、少年の辿ってきた道の先を目で追う。そして、血溜まりを作って倒れ伏すイーサンの姿を認めて、ひゅっと息を飲んだ。

 しかし、彼女はセタを攻撃することはなく、静かにイーサンの元へ歩いていった。傍らに座り込み、目を開けない男の頬を撫でる。そして、セタの方を振り向いた。

「…人払いは、イーサン様と私で済ませてあります。今、国王を守る衛兵はいません。階段を登ったら、とにかく反対側に進んでいけば次の階段があります。早く、王子の元に行きなさい」

 淡々と、彼女は伝える。すぐそばに、己の主人の死体があり、それの命を奪った犯人もいるというのに。

「サラさん…俺は。」

「無駄口を叩くのはお止めなさい。あなたは、あなたのやるべきことをしなさい」

 有無を言わせぬその言葉に、セタは場違いにも懐かしさを覚えた。初めてあの屋敷にきた時に、何度も彼女の粛々とした態度に面食らったのだ。それでも、サラの仕事に対する真面目さや、セタの努力を素直に認めてくれるところは、好きだった。もう、出会ってから二年も立つのが、早く感じた。

 彼女からは、こちらを責めるような感情が一切感じられなかった。黒曜石の瞳が、静かにセタを見据えている。何も言わなくとも、強く背中を押された気がした。

 深呼吸して、気持ちを切り替える。今はただ、出来るだけ早く二人の所へ。セタは、二階へと行くために駆け出した。


 サラは、幼くも勇敢な少年の背中を見送る。小枝のように細い体が見えなくなると、視線を下の主に戻した。

 眠っているように見える顔の輪郭を丁寧になぞる。それが終わったら、少し隈のある目元を労わるように撫で、再び頬を優しく触った。サラは目を細めて、微笑んだ。

「…良かったですね、イーサン様。セタが、あなたを殺してくれたのですね…」

 声は僅かに震えていた。

 …死んでほしくなど、なかった。セタが来てから、イーサンは少し楽しそうだった。昔の、出会った頃の彼に戻った気がして、いつか心の底から笑ってくれる日も近いかもしれないと、期待していた。

 彼の精神は、長年国王によって酷使されたせいで、原型も残らず、すり減っていた。でも、自分だけは、彼の最後の灯を知っていた。「最後はせめて、騎士として死にたい」という、必死の祈りを。

「(あなたは冷静な人だった。でも、乾いていたわけじゃない。全てを流したわけでもない。ずっと、ここで燃えているものはあった。…そうでなければ、何故、私を守ってくれたというのでしょう。どうしてリオンを、セタを、見守ろうとしたのでしょう)」

 何もできない、歯がゆい思いだけが、虚しく消えていく。

 イーサンは、自分を殺させるために、セタを育てた。貧民である彼に、自分以上の実力者になることを求めた。それは、王の傀儡となった悪の象徴に天罰を与える者を求めていたからだった。彼は、生き残る理由ではなく、死ぬ手段を求めて、セタに頼った。

 死ぬことが彼の唯一の救いであったなら、サラにとって、それほど悔しいことはなかった。早く、人生を終えて楽になってほしいなんて、思うわけがなかった。当たり前だ。彼がいなくなる未来だなんて吐き気がする。生きて、幸せになってほしかった。

 しかし、彼女がどれだけ懇願したとしても、イーサンは結局、剣によって殺されることを望んだ。満足そうに眠る彼は、確かに救われていたのだった。

 認めるしかなかった。イーサンにとって、この世の富や権力に価値はない。セタという自慢の弟子を育て切って、彼に殺されることが、一番の名誉だったのだ。

 …サラは、この国が嫌いだ。自分を育ててくれたイーサンを殺したこの国が、とても嫌いだ。

「(だから、お願いです…)」

 セタ。あの王子と、この国を壊して。私はもう、あなたたちの行く末を見ることはないけれど、願っているから。

 最後に、孤独な王子の横顔が脳裏によぎった。

 …あなたも、ごめんなさい。もっと愛してあげられたら。

 一つだけ残った後悔が、彼女の氷の心にひびを入れる。ただし、その分厚い氷塊を溶かすまでには至らなかった。彼女の身も心も、最初から主人のためにあった。

 サラは、愛しの彼の胸元に口付けをする。

「イーサン様。只今、お傍へ参ります」

 太陽は高く昇り、中庭に植えられた花々を照らし、その美しさを際立たせている。噴水から湧き上がる水はキラキラと輝き、慈雨のように辺りに命を振りまく。

 その光の中に、二人の遺体が重なって、ひっそりと横たわっていた。


  八


「…ミラ。顔を上げろ」

 泣き叫んだ後、黙って動かなくなってしまった彼女に、リオンが声をかける。

 ミラは、言う通りにすることができなかった。リオンにとても酷いことを言ってしまった。でも、後悔はできなかった。ミラにとっては、セタの安全が一番なのだから。

 セタの命と、リオンの背負う業。

 その二つに挟まれて、心がかき乱されていた。

「ミラ」

 リオンがなおも声をかける。リオンは片膝をついて、彼女と目線を同じくした。

「俺を、許さなくていい」

「………っ」

「お前は、セタの為に動け。そして、俺のことを憎み続けてくれ」

「なに、を」

 思わず、リオンの顔を見る。リオンは表情を見せず、平坦な声で続ける。

「許さなくていい。ただ、俺が王になった後のことを、見ていて欲しい」

「……」

「俺はお前たちに約束する。この国の悪政を正して、民が幸せになれる国を作ることを俺は誓う。もし、俺が父と同じような罪を犯そうと言うのならば、その時は」

 リオンが、真っ直ぐミラを見つめる。

「お前とセタが、俺を罰してくれ」

「あな、たは…」

 今日だけで、幾度この少年から衝撃を受けただろう。たった十歳の少年が、こんなにも自己を犠牲にして、何ともないようにしている。セタと、同じだった。リオンは、きっと民のためならどんなことでもするのだろう。

「本当に、どうしようもない…あなたたちは…」

 ミラは涙を拭った。

 この二人は似たもの同士で、どっちも馬鹿だ。

 私が、ちゃんと重りになってやらないといけないのだろう。世話のかかる兄弟が一人増えた気分だった。

 ミラは、しっかりと立ち上がった。リオンが不安そうにこちらを見る。

 そんな顔しなくても、殺したりしないわよ。

「とりあえず、リオンのことを信じるわ。一緒に行きましょう」

「……!感謝する」

「それはまだ早いわ。なんせ、国王の部屋の前にもたどり着いていないもの」

「…そうだな。無駄に広い城だしな」

「ほんと、嫌になるわ」

 二人はそう軽口を叩きあって、再び廊下を駆け出した。先程の冷たい緊張感はなく、リオンは不思議と力が湧いてくる気がした。

 セタのことは、正直気がかり過ぎて戻りたいが、あいつを信用して俺たちは進んだのだ。追いつくのを待つしかない。生きていれば、あいつの足なら必ず合流出来る。


 城内は、拍子抜けするほど人がいなかった。リオンとミラは、既に四階に到達していた。走っても走っても人がいないので、もうろくな探知もせずにひたすら駆けていた。

「ちょっとリオン!いくらなんでも、ここの兵士は仕事怠けすぎなんじゃないの!?」

 走りながら、ミラが声を張り上げる。確かに、いっそ寒気がするほど人の気配がない。リオンは首肯しながら大声で返す。

「ああ!でもやっぱりおかしい、あの臆病者がこんな無防備にしてるとは思えない!」

「まさか、最上階に固まってるとか…!」

「イーサンとかいうあの騎士がそう指示しているのなら、有り得る話だ。だが、あいつの狙いは多分違う。むしろ人払いしてくれたのもあいつの可能性が…!」

「あの騎士、なんなの!」

「知らん!セタに聞け!」

「もう……!」

 カンカン、カンと大理石を鳴らして、二人分の足音が響き渡る。硝子窓から差し込む陽の光は、徐々に傾いていた。二人の足から伸びる影が、隠れたり現れたりする。

 今は午後何時だろう。今日中に決着をつけて、明日には混乱が冷めやまぬうちに他の兄弟を屠らないといけない。自分の足が遅く感じる。もっと、もっと早く進まねば……!

「……待ってリオン!あれ…」

「……?」

 ミラが前方を指す。リオンは一回立ち止まり、目を凝らした。

 五階へと通じる階段の前に、人影があった。しかし、それは人間にしては黒く、うようよと形を微妙に変えてそこに立っていた。その周りを、黒い粒子が渦巻いている。

 リオンは息を飲んだ。

「父の使役する『影』か…!」

 そう認識した瞬間、「影」の兵士がこちらを向き、一直線に向かってきた。そして、それはぐにゃりと変形し、分裂し出す。

 一、二、三体、いや更に増えていく。兵士たちは剣のような形状をした黒いものを手にとり、振りかぶってくる。

「くそ!不味い、どれだけの強度か分からない…!ミラ!一旦逃げるぞ!」

「……でも、さっきイーサンって人、切ってたわよね」

「ミラ……?」

「じゃあ、触れるってことよね」

「おい、何して」

 ミラが、近くにあった高級そうな壺をごと、と動かした。それを両手に抱えて、敵の動きを見極める。

「お前まさか、」

「っりゃあーー!!」

 ミラが、自分の頭ほどの大きさの壺を敵に向かって投擲する。勢いよく放物線を描いた鈍器は、「影」の胴体部分に命中し、小麦粉が袋から舞い散るが如く、盛大に霧散した。

 パリン!と音がして、陶器の破片が散らばった。

「なんだ。いけるわね」

 そう言ってまた、近くの花瓶を持ち始めるミラを、リオンは唖然として見つめた。

「影」は、対象との意志力の差によって強度が変わる。国王の「影」を、貧民があんなにいとも簡単に。

 差別をしているわけではない。貧民は、王家や貴族に恐怖で支配されているために、自然と権力者に相対すると身が竦んでしまうものなのだ。それによって意思の力が低下し、王の「影」の格好の餌食になってしまうのである。

 だが、彼女は違う。恐れるどころか、殺す気しかない。

 彼女にとって、権力者とは本当に畏怖を抱くような存在ではない。ミラの末恐ろしさの片鱗を垣間見たリオンは、内心少し震えた。

「リオン。ぼさっとしてないで手伝って。イーサンはあんなこと言ってたけど、多分あなたの『影』の方が強いわよ」

「え?あ、ああ……」

 ミラに急かされ、リオンは自分の「影」を展開し、漆黒の兵士たちを迎撃した。ぶつかった瞬間、兵士たちは形を崩し、姿を変えて伸びたり縮んだりしながら徐々に消えていった。

「影」に、抵抗された。リオンは愕然とする。

 父と俺の「影」の力は、おそらく拮抗している。もしかしたら、何かきっかけがあれば、殺せる可能性はある。

 それをこいつ、大したことないように……。

 リオンは半分感心し、半分呆れてミラを見た。そんな彼女は、既に三つの花瓶を割っていた。それは、多分国一番の芸術家たちに作らせた、国宝級の遺産だと思うんだが。価値が分からなくても、偉人たちの意匠が繊細に施されており、一目見ただけで圧倒されるものだ。躊躇なく壊せるの、本当にすごいと思う。

 また、新たな割れ音が響く。「影」たちも若干引いているように見えた。

 リオンにはまだ不可能だが、「影」を使い慣れると人型の兵士として使役することもできる。その時、使役者の性格が少し反映されるのだ。高価なものを大切にする王家や貴族にとって、ミラがそれらを残酷に割っていく姿は、相当刺激的だろう。こいつがいて良かったかもしれない、とリオンは遠い目になった。

「数が少し減ってきたわね…リオン、『影』って再生できたりするの?」

「できるにはできるが、一回形を失ったものを再現するには結構労力がいるな。時間が経てばまぁ…」

「じゃあ、この兵士全部壊しちゃえば、国王の戦力は実質ゼロになるの?」

「…『影』はこれが全てではなく、一部温存してると考えた方がいい。人間の兵士よりも自在に操れるこれは、最後の砦だから、な!」

 リオンは「影」を蛇のようにうねらせて、兵士の腹を貫通させる。少し抵抗されているせいか、人間の肉を貫いているような錯覚に襲われ、気持ち悪い。だが、確実に数は減っている。あと数人かき消したら終わりだ。一息つけるだろう。

 と、そこで兵士たちがうぞ、と流動して粒子になる。急に人型をとることをやめた「影」に、リオンは眉をひそめた。

 黒い泥水が、蛇のような形状を持ち始める。

 俺の作った「影」を学習した……?

 その時、彼はそれの意図に気付き、ハッとする。

「ミラ!避けろ!狙いはお前だ!」

「え…っ」

 大声で叫んだ瞬間、「影」がシュッと変則的軌道を描き、リオンの真横を通過する。蛇は、彼の後ろにいたミラに音速で迫り、口を大きく開けた。それは、人間には到底太刀打ちできない速さであり、彼女がいくら足掻いても、避けることはできなかった。

 蛇が狙うは、彼女の首元。人体の急所である。

「……っ」

 リオンは素早く「影」を向かわせたが、間に合わない。細い首に、黒い牙がかけられて…。


 …一つ、訂正しておきたい。蛇は確かに、彼女の息の根を止めることができた。リオンも、最善を尽くしたが間に合わなかった。彼らは特異な能力があっても人間であり、人間である以上、音速で動く物体を捉えることなど、不可能だった。

 だが、「彼」は別だった。常軌を逸した規格外の身体能力を持ち、国内最強の騎士の剣を見切った彼だけは。


 ミラは、恐る恐る目を開けた。覚悟していた痛みは、一向に訪れなかった。何かに支えられている。どこか安心する、少し骨張った手。

「姉さん、大丈夫…っ?」

「……セタ!」

 セタが、蛇の胴体を一刀両断していた。黒い泥に戻ったそれは、ミラに毒牙をかけることなく、地面で虚しく暴れながら朽ちていく。

 ミラは、セタに思いっきり抱きついた。

「セタぁ~~~~~~~!」

 喜びの声を上げる。勢いよく飛びついてきた姉をよろけつつもしっかり受け止め、セタも破顔した。

「セタ、セタ、会いたかった……!」

「うん、ただいま姉さん」

「おかえりぃ~…うう」

 ミラが感極まって泣き始める。弟の体はボロボロだったが、生きて帰ってきてくれてよかった。うん?ボロボロ…?ボロボロ…………

 ミラはふと、セタの左の上腕に目がいく。

 そして、断末魔のような叫び声をあげた。

「ぎょあ~~~~!!!!?!??!??!」

 叫んでいる間、ミラは自身の服の袖をちぎって包帯にし、セタの流れる血を止血しながら的確に正確に巻いていく。一連の流れはプロの看護師も顔負けのお手並みであった。セタは、あははと笑いながら手当てされていく。リオンはそれら全てをドン引きしながら見つめていた。

「…あっ!リオン様、戻りました」

「お、おう……その傷、深そうだが……」

「ああこれはちょっとグサリと…」

「剣で?!ぐさり?!?!?!?!」

 ミラがクワッとしてセタに詰め寄る。

「あんまり痛くないから大丈夫」

「違う、そうじゃないわ!!」

「本当に大丈夫だよ?ほ、ほら、姉さんの応急処置は早いし、丁寧だから」

「誰のせいで上手くなったと思ってるの!」

 ぎゃあぎゃあ騒がしくなる。これから国王と相対するんだよな…?と、リオンは一人宇宙の中にいる気分になった。ミラは、怒ったり泣いたりして情緒不安定だし、セタはセタで、見るに堪えないほどの切り傷を負っているのに、けろりとして笑っている。いや、無事であったのは喜ばしいことだ。戻ってきてくれて安心した。

 リオンはセタの全身を眺めた。服が剣によってところどころ切り裂かれ、そこからじくりと血が滲んでいる。あの男、弟子相手に大人気ない。いや、セタという強者が相手だったからだろうか。左上腕ほどの深い傷は他にはないが、空気に晒されるだけで痛みが走るだろう。

 髪も、黒い血が付着していた。白い髪が汚れてしまって、なおさら痛々しく見えたが、おそらくそれは、セタのものではない。リオンは、確信を持ちながら、そっとセタに聞く。

「セタ、あの騎士は…」

「……はい。殺しました」

 その、落ち着いた眼差しを見て、ああ、こいつは覚悟を決めてしまったのだと分かった。

 セタは、立派な俺の共犯者となった。王家に仕える騎士に手を出したセタは、もはや貧民街の少年ではなく、国家に仇なす大罪人だ。

 俺たちが人殺しでなくなるためには、もっと多くの人間を殺す必要がある。国王を、王子を、私腹を肥やす奸臣を殺さねばならない。それらを排除することで、人殺しから貧民を救った英雄になるだろう。よくある皮肉だ。しかし、できなければ、俺もセタも罪人として捕まえられて、死ぬだけだ。

 ミラが、心配そうにセタの顔色を伺う。セタはそれに気付き、少し微笑んで、大丈夫だよ、と言った。ミラは納得いかないようにして、真剣な顔でじぃっと見つめる。

「…ミラ。そんなに見るとセタに穴が空くぞ」

「そんなに見てません~」

「まぁ、穴はもう空いてますが」

「笑えない冗談ね……」

「……あと、その、なんか…」

「どうしたの、セタ?」

「やっぱり見られすぎて穴ができたんじゃないのか?」

「ちょっと黙っててリオン」

「……なんというか」

 セタがそこで、頬をかく。二人を不思議そうに見るので、リオンとミラは顔を見合わせた。

「………仲良く、なってる?」

「「なってない(ません)!!!!」」

 二人同時に振り向いて声をはもらせたので、セタは驚いて目を丸くした。




  九


 とうとう、五階に到達した。

 三人は、雰囲気の少し変わった内装に、辺りを警戒して見渡した。今までの階とは格段に違う重い空気が漂っていた。一歩進むごとに、外界からの光が少なくなっていく。地下にある牢屋と勘違いしてもおかしくはないくらい、鬱々とした匂いが染み込んでいた。廊下にぽつぽつとある蝋燭の灯火だけを頼りに、慎重に進んでいく。

 ここは、言うなれば王のための生活空間であり、リオンも来るのは初めてであった。他の階と比べると、やはり豪華絢爛な装飾品や調度品がより多かった。それらは国王の権威を思わせるものだったが、リオンはどこか息苦しさを感じた。

「影」の兵士は、セタが斬ったものを最後に再び現れることはなかった。だからといって、油断はできない。王は、想像以上に臆病で狡猾であると、リオンは睨んでいる。

 リオンは、父との思い出などないが、あの男が自分を見る時は、いつもその目を恐怖で塗りつぶしていたことだけを覚えていた。およそ息子を見るような目ではなく、化け物を見るようなそれだった。そのことについて寂しさを感じていた時期もあったかもしれないが、今となっては忘れてしまった。リオンは、親から愛を受け取ることを早々に諦めていたからだ。父も、自分を産んだ母でさえ、幼い第八王子に怯えていた。

 …母親。そういえば、自分の母はどうしているだろうか。あの人も、権力に取り憑かれていた。国王からの寵愛を受けることに必死で、リオンを見たことなどなかった。彼がいくら努力したところで、所詮は王の八人目の子供である。リオン自体に価値はなかったため、彼を口実にして他の妃よりも王に近付くことなど、できるはずもなかった。

 分かっている。自分に力がなく、利用する価値もないことは。自分は無力で、期待に応えられない呪われた子。それが、母からもらった初めての教訓であった。

 リオンは、黙って廊下を進んでいく。王の部屋は、この螺旋状の道を突き進んだ先にある。階の中央に寝室があり、そこを守るようにして蛇がとぐろを巻くように道ができている。襲撃が無ければ、すぐに父の休んでいる寝室に辿り着くだろう。

「…本当に兵士がいない。でも、サラさんたちが手配してくれていたとしても、おかしい…」

 セタがボソリと呟く。

 そうだ。あの男はこんなに無防備ではない。

 お得意の、「影」の兵士はどうした。リオンは物音一つさえしない、暗澹とした廊下の向こうを見つめる。ジリジリと精神が削られるようだ。誤魔化しようのない不安が、少しずつ理性を奪っていく。

 ああ、自分はこんなに緊張しているのか。あれだけ自分に怯えていた父に、怖気付いているというのか。いざ相対するとなったらこのザマとは、笑ってしまう。

「リオン。寝室ってどこなの?」

「正確に把握してるわけではないが、ここは父のためだけの居住空間だ。王の執務室や書斎、後は、休憩室と寝室しかない。一番奥にあるのが寝室だから、部屋を全て通り抜ければ自然と着く」

「あら、ややこしい作りね。こんなに大きな建物の中央って、光とか風が通らなさそう」

「そうでも無いぞ。天井の一部がガラス張りらしいからな」

「へぇ…。…レナ、こういう所に住みたかったのね」

「……」

 また、静寂が訪れる。三人はもう何も言わず、各々が決戦のための心の準備をしていた。延々と続く螺旋回廊を、ひたすら歩く。騎士も使用人も出てこない。国王が、リオンたちを意図的に誘い込んでいるとしか思えなかった。

 さて、最初の部屋が見えてきた。リオンはその扉に手をかけ、躊躇なく開く。

 どうやら客室のようだ。白い磨かれたテーブルがあり、複数椅子があるだけの部屋だが、それだけでも高級な匂いがする。ミラが真顔で脳内そろばんを叩き出す。いくらなんだろう。これも、私たちの税金から作ったのだろうか。リオンがミラの様子を見て声をかける。

「壊してもいいぞ。どうせ、そこにいつも座っているだろう貴族も、俺の敵だからな」

「……やめとく」

「?…さっきお前、花瓶とか壺バンバン割ってなかったか?」

「そうなのか姉さん」

「割っておりません~私はか弱い女の子ですので、そんな乱暴なことしませんよ!」

「こいつセタの前だからといって猫被りやがって……」

「俺は、勇敢な姉さんも好きだよ」

 セタがそう言った瞬間、ミラがテーブルに突進してそのままそれをひっくり返す。派手な音を立てて床に転倒したテーブルに、少しひびが入ってしまった。テーブルの下敷きとなった哀れな椅子が、重みでバキン!と悲鳴を上げて壊れる。

「……あ~、スッキリした」

「こいつ……」

「姉さんカッコイイ」

「本当~っ?もっと頑張っちゃおうかな!!!」

「お前、扱い慣れてるな……」

「でも、姉さんがカッコイイのは事実です」

「やだぁ!そんなことないわよう!」

 ミラはだらしなのない顔になって、余りある愛を伝えるべくセタを強く抱き締めた。セタが、ぐえっと声を上げる。おい、そいつ満身創痍なんだから手加減してやれよ。

 開放されたセタが、脇腹の辺りをさする。イーサンに執拗に蹴られた箇所がまだ痛い。あの人、体術使うなとか言っといて、自分は凄い頻度で使ってくるじゃないか。しかし、リオンが遠慮がちに大丈夫か?と聞いてきたので強く頷いた。

 その後、部屋の中を丹念に確認してみたが、「影」の気配を感じとることはなかった。ここでも、王は何もしてこない。狐につままれた顔で、一行は顔を見合わせた。

「変すぎてもう、夢の中にいるみたい。夢の中って、なんでも上手くいくでしょう?」

「…いや、そろそろあの『影』たちが出てきてももいい頃なんだがな…」

「…国王にとっては、人間の兵士よりも、『影』に護衛させる方が良いのですか?」

 ふと、セタが質問する。鋭いな、とリオンは目を細めた。

 確かに、生まれた時から傍に存在する「影」を使った方が、不確定要素の多い人間よりもはるかに信用できる防御機能となる。その理論でいくと、騎士がいないのは当然だった。重要な守りは、他人にやらせるのではなく、自分の「影」に任せる。全くかの王らしい、合理的な動きだ。

「…でも。イーサンの方が、何倍も強いのに」

「…そんなに強かったのか」

 リオンの、男に対して感心するような問いかけに、セタは深く首を縦に振った。

「…先ほど、蛇のような物体を切った時も…こんなことを言って良いか分からないけれど、ただ速いだけでした」

 イーサンは、もっと。そこまで呟いて、彼は口を閉ざした。寂寥感に満ち溢れた青い瞳からは、師匠への敬意と、国王への疑念が感じられた。

 セタの違和感は正しいと、リオンは考える。王は病気で伏せっていたはず。「影」が信頼できるものだとして、イーサンや他の実力者をこの階に配置しないのはおかしい。また、看病のための使用人までもいないのは非常に奇妙であった。

 雲を掴むように漫然とした状況だ。父は一体、何を企んでいる…?

「(いや、考えても無駄なことだな)」

 リオンは悄然とした顔で瞼を閉じた。元々、父の心を理解できたことなどない。どうせ、会って話すのは今日で最後だ。俺は、俺の務めを全うしなければならない。

 次の部屋が見える。リオンは気を引き締め直して、ゆっくりとその扉を開けた。

 そして、三人が足を踏み入れた時、セタが声を上げた。

「リオン様、あれは…!」

「…来たか!」

 先へ進むための道を塞ぐように、黒い塊が蠢いていた。怒り、怨念、殺意…それらを塗り固めたような、おどろおどろしいものを感じる。王が激怒しているのだ。全くもって最高の歓迎じゃないか。リオンはふるりと震えて、自身の「影」を大きく広げた。

 リオンの敵意に気づいた「影」の集団が、こちらに向かって容赦なく押し寄せてくる。数が先ほどよりも多い。一つ一つがそんなに強くないとしても、一斉に襲いかかれば十分な脅威になる。リオンは後ろの二人に叫んだ。

「気をつけろ!先のようにはいかない、いよいよ相手も本気を出してきたからな!」

「言われなくても!」

 ミラが力強く応えて、近くに積み重なっていた本を投げる。ここはきっと王の執務室だから、文献や本が多いのだろう。手に持って投げられる物が豊富だから、ミラにとっては武器庫にも等しいかもしれない。

 と、リオンにも「影」の塊が嵐のように迫ってくる。彼はそれを冷静に捌いていく。学習されないように、敢えて形を取らず、「影」を消していく。具体的なイメージがないと攻撃し難いが、全くできないわけじゃない。五体くらい捌いたところで、死角から隠れていた「影」がぶわりと巻き上がり、リオンの頭部を狙う。リオンはそれに気付くが、対応するよりも先に、後ろの騎士が俊敏に動いた。

 セタが強く踏みしめて、一瞬で間合いを詰めて「影」を斬る。それは抵抗する余裕もなく、鋭い一閃によって泡のように消えていった。

「助かった」

 リオンが伝えると、セタは無言で頷き、自分の戦闘に戻っていった。リオンは、彼の様子を少しうかがう。

 先程見た時より、剣筋が速くなっている気がする。そして、速いだけではなく、一振り一振りが重い。敵を確実に仕留めていくその姿には、一切の迷いが感じられなかった。

 何より、気になるのは。

 リオンは目線を上にやる。セタの髪が、僅かではあるが白銀に輝き始めていた。目の色も変わっている。色素が薄くなり、まるで、長年地中で眠り続けてできた結晶のようだった。人間にはない、無機物的な美しさだった。暗い室内の中、彼の瞳だけが煌々と光り、その敢然とした動きに合わせて、青い光の筋を描いていた。

 あれが、ディオネス族の戦闘中の姿なのか。

 リオンは文献に書かれた言葉を思い出す。

『偉大なる国王の下、白銀の獣たちが集う。その瞳は、男女揃えて青。戦う姿は軍神のごとく、強さと苛烈さを持って敵を屠る。王に厚い忠誠を誓い、常人では有り得ない強き肉体をもってして仕えるその一族の名は、ディオネス』

 その資料には、ディオネスの勇猛さと圧倒的強さを称える文章が多かったが、自分たちに制御出来ない存在である、彼等への畏怖や恐れが滲み出ているように思われた。事実、人は自分たちが理解できないものを、化け物だとか、恐ろしい獣だとか言って、決めつけるのだ。俺は、あいつを恐いと思うことはないけれど。

 リオンは目の前の敵に意識を戻す。父に忠実な彼らは、リオンを殺そうと、なおも襲いかかる。喉をかき切ろうと、手をもごうとしてくる。その様子は、不敬な侵略者を排除しようとしているものにも見えるし、自分たちを脅かすものを必死に振り払って赤子のようにも見えた。

 何が怖いのです。

 父よ、貴方は一体、何に怯えているというのですか。

 その時、「影」が動きを変える。リオンへの攻撃が突如なくなり、視界から影が消える。リオンが不思議に思った時、セタが焦った声を上げた。

「まずい、姉さん……!」

 リオンもハッとして後方を振り向く。ミラに、影たちが集中して向かっていく。一人ずつ潰すつもりだ。

「この、卑怯者…っ」

 ミラが顔を歪めて、憎々しげに吐き捨てた。敵は彼女の攻撃をすり抜けて、間合いを詰める。避けきれない。

「させるか!」

 リオンが護衛の影を送る前に、セタが動いた。横を、一筋の風が通り過ぎる。

「セタ、私に構っちゃ……!」

 ミラが、焦って弟を静止の声をあげた。自分のせいで、怪我をしてほしくない。

 しかし、彼は止まらなかった。ミラの頭部を潰そうとして迫った「影」を、被弾する寸前に剣で刺突する。驚く彼女を残して、セタは「影」を斬り続けた。

 セタの速さは凄まじく、「影」が彼女を傷つけることを許さなかった。目にも止まらぬ速さで、ミラを襲う敵を屠っていく。剣が届かぬのなら足で蹴り、時には手で力任せに引きちぎる。その苛烈な戦いぶりに、ミラは思わず息を呑んだ。セタに守られたまま、その背中を見つめる。

 先程の弟の顔が、頭から離れなかった。

「(…ああ。こんなに、怖い顔をしてたんだ)」

 普段、セタは温厚で、兄弟にも自分にも、穏やかに微笑んでいたけれど。家族を傷つけようとする敵には、ああいう表情を見せていたんだ。ごろつきたちが、情けない顔をして逃げていくのも納得できた。

 端正な顔は怒りに歪んで、鬼神のよう。

 爛々と光っているのは、殺気立った青い瞳。

 怖くて、強くて、すごく綺麗。

 …でも、やっぱり君は優しい。だって、その表情はきっと、自分のためじゃない。自分以外の誰かのために、そうやって魂を燃やすのだ。


「影」が標的を変えて、セタに向かっていく。リオンとミラは瞬時に悟る。あれらは「怖がっている」のだと。

 彼という、他者のために命をかける人間を。自分たちから最も遠く、理解し難い存在を、消そうとしている。

 セタが逃げられないように、全方位から黒い波が押し迫る。リオンが陽動の「影」を送るが、歯牙にもかけない。恐怖の権化、その塊が、セタの視界いっぱいに映り込んだ。流石の彼でも、全てを斬るのは無理だろう。

 彼は、せめてミラに余波がいかないよう、進んでその魔の手の中に足を踏み入れようとした。リオンと目が合う。やめろ、と訴えているような気がしたが、もう止められなかった。

「…だめ。これ以上血を流したら、死んじゃうでしょう」

 予想外に近くで声がして、セタは驚く。続いて、とん、と優しく押されて、尻もちをついてしまった。

 弱い力なのに、何故だか、抵抗できなかった。

 声の主を見上げる。ミラがにっこり笑っている。その陽だまりのような笑顔に、いつもの日常が戻ったような錯覚を覚えた。

 彼女の背後に、黒い死神がぶわりと立った。


 体じゅうに、漆黒の刃が突き刺さる。

 肩に、太ももに、背中に、…ああ、もうどこが刺されているのか分からない。

 目の前の、傷だらけの少年が、必死に手を伸ばしてくる。悲痛そうな顔だ。何か、叫んでいるけれど、聞こえない。

 口から、何かが溢れる。鉄の匂いが一気に広がって、血を吐いたのだと分かった。崩れ落ちる体を、少年が受け止めた。叫んでいる。私に向かって、何度も叫んでいる。

 ああ、痛い。

 すごく痛い。

 ねえセタ。あなたもこんなに痛かった?


「ミラ!」

 動けなくなった彼女にとどめを刺そうとする「影」を、リオンの「影」が阻む。それらは衝突しあい、激しい攻防を繰り広げたあと、リオンの方に軍杯が上がった。最後の敵を潰した後、ミラの方へ駆け寄る。

 セタが止血を行っている最中だった。彼は震える手で、傷口を塞いでいる。だが、傷が多すぎて、正直手に余っている様子だった。リオンが近付くと、泣きそうな顔でこちらを見る。

 リオンは、ミラの状態をざっと見渡した。

 視認だけでも十箇所は刺傷がある。背中側にも見えない傷がいくつかあるだろう。先程血を吐いていたから、内蔵が傷ついているかもしれない。早く医者に見せなければまずい。

「…セタ。今すぐミラを抱えて城の外に行け。治療しないと死ぬ」

「……!」

 現実をありありと突きつけられ、セタは怯えたように目を開いた。兄弟の虚ろな顔、イーサンが死んだ時の顔を思い出す。腕の中で横たわる姉を見る。ミラはぼんやりとしていて、目の焦点が定まっていなかった。

 嫌な汗が、伝い落ちる。

「すまない。俺はついて行ってやれないが、お前はちゃんと、姉を助けろ。一人しかいない、大切な家族なんだろう」

 セタを落ち着かせるように、ゆっくりとリオンは言葉を紡ぐ。

「…でも。俺は、決めた。あなたについていくと、決めたのです」

 俯いたまま、セタは言う。

 俺は、あなたを一人にはさせたくない。一生孤独にはさせないと、強く思った。でも。

 …姉さん。俺は、どうすればいいんだろう。

「いいんだ、セタ。今はミラを優先しろ。俺と違って、そいつはお前の大切なものだ。家族だ。だから、迷わなくていい。避難しろ」

 違う。あなただって、俺の大切な人だ。

 姉さんにもあなたにも、傷ついてほしくなんてないんだ。どちらも守りたいんだ。

 …全てを守ることなんて出来ないって分かってる。それを望むことが傲慢であるということもよくわかっている。

 さっきだって、姉さんは俺を庇って怪我をしてしまった。俺には、俺の望むような力が何一つもない。身のほどをわきまえて、家族を大切にして、早く姉さんと逃げるべきだって、本当は知っているんだ。だけど、

 それでも、あなたを選ばないなんて、出来ない。

「……セ、タ」

 小さな声が上がった。リオンとセタはハッとしてミラを見つめる。彼女はセタを見て、少し微笑んだ気がした。

「…良かった。ちゃんと盾になれたみたい」

「なん、で」

「だって、それ以上血を流したら、国王と対峙できないでしょ」

「ミラ…?」

 リオンは訝しげに彼女を見た。

 この少女は何を言っているんだ。彼女はこれから、セタとともに医者のもとへ行かなければいけないのだ。セタが父と会うことはない。しかし、ミラはセタに向かって端的に言葉を放った。

「行きなさい、セタ」

 セタが、ゆっくりと目を見開く。

 彼女はなおも言い続けた。

「貴方が決めたことなんだから、最後まで責任を持たなきゃだめ。一人にさせないって、決めたんでしょう?」

 そこで、喉が詰まって、彼女は咳をする。おびただしい量の血が床へと落ちるが、その金色の目には、強い光が灯されていた。

「…決めたのなら、迷わずに行きなさい。今この場に限って、あなたが選ぶべきは、私を助けることじゃない」

「……」

 凛とした眼差しが、セタを諭していた。彼女はどこまでも強く、美しいものに見えた。

「…分かるよね。……ね、セタ。優しくて強い君なら、できるんだよ」

 ミラは微笑んで、セタの手を握る。

 セタは、その手を強く握り返した。

「…だめだ。お前、死ぬかもしれないんだぞ」

 リオンの声が、無意識に低くなる。

 これは、俺が始めた反乱だ。最初は一人で行って、一人で終わらせるはずだった。二人がこんなに傷つくのを望んでいたわけじゃない。民を無駄に死なせないために、俺はここへ来た。お前たちが死んだら、本末転倒じゃないか。

 怒気さえ孕んだリオンの声にも、ミラは怯まずに、真っ直ぐこちらを見た。力強い眼差しが、リオンを射抜く。

「じゃあ、私が死ぬ前に国王を殺してみてよ」

 そう言って、彼女は不敵に笑った。

 傷だらけで、今この瞬間にも血を流しているのに、死の気配など感じさせずに笑う。

 リオンは、眉を寄せた。

「……敵わん」

「当たり前よ。あなたより生きてるんだから」

 セタの腕に寄り掛かりながら、満足そうに笑みを浮かべている。その様子を見て、リオンはとうとうため息をついた。

「お前の姉貴、強すぎるだろ……」

 半分呆れてセタを見ると、セタは少し嬉しそうにして笑った。

「そう、ですね。いつも助けられています」

「さ、私の血がなくなる前に早く行ってくれないかしら?結構痛いのよこれ。むかつくわね」

 照れたようにミラがそっぽを向く。セタはミラが負担のかからないような体制にして、刺激を与えないようそっと離れる。リオンは、念のために少しの「影」を置いて、ミラの周りを囲わせた。父ほどの精度ではないが、しばしの間であれば護衛として機能するはずだ。

「行ってきます、姉さん」

「……行ってらっしゃい。リオンもね」

「…ああ。死ぬなよ」

「こっちのセリフよ。逃げてきたらぶっ叩くからね」

「それだけ元気なら大丈夫だな…」

 リオンは身を翻して、奥の扉へと向かった。セタがミラに手を振ってから、その後を追う。がちゃん、という音とともに、二人の姿は完全に消えてしまった。

 ミラは、だるそうに頭を下げて、ゆっくりと横たわった。

 見栄を張るのも楽ではない。少し、眠ってしまいたかった。彼女は、明かりの消えたシャンデリアを眺めながら、ぽつりと、呟く。

「…本当に、死なないでよね……」

 泣きそうな声は、大理石の床へと吸い込まれていった。


  十


 二人は、無言で目の前の扉を見つめた。

 無限に続くように思われた螺旋の道の最後に、この部屋があった。間違いない。この先に、この国の王がいる。

 これ以上なく重苦しい空気が、両肩にのしかかる。まだ部屋にも入っていないのに、体が無意識に竦んでしまう。セタは深呼吸して、自分を落ち着かせた。ここで、びびってはいられない。

 これを開けたら、全ての元凶がいる。貧民として虐げられて苦しい思いをしたのも、無力さに歯を食いばりながら泣き寝入りしたのも、今日までだ。俺は、リオン様と国王を殺す。

「セタ」

 視線を前に向けながら、リオンが声をかける。

「はい、リオン様」

「…部屋に入ったら、何もしなくていい。無理は絶対にするな。敵に襲われたらちゃんと迎撃しろ。だが、父が何か言ってきても、相手にするなよ」

 セタはぽかんとした。まさかここまで来てそんなことを言われるとは。

「…では、リオン様を守るために動くこともしてはいけませんか?」

 その問いに、リオンは少し面白そうに眉を動かした。リオンがこちらを向く。

 赤と青が、交差した。

「………許そう。守ってくれよ、俺の騎士」


 古めかしく寂れた黄金の扉が、悲鳴を上げる。セタは、リオンの前に立ち、中腰の姿勢でひっそりと足を踏み出した。頬の産毛が、ざわり、と逆立つ。彼の本能のようなものが、奇妙な警戒音を発していた。

 何故だろう。ここに来たことなど、一度もない。胸にあるのは未知への不安と、国王への恐怖である。それなのに、なぜか…自分は、懐かしさを覚えていた。まるで、「ここが、本来帰るべき場所だった」とでも言いたげに。

 寝室の内装は、貧民である彼にちってはこれ以上なく豪華だった。床に敷かれた長毛のカーペットや、大の大人が何人も寝転ぶことができそうな、腰の深いソファー。気取った丸いテーブルに、何本の薔薇が生けてある。上から差し込む鈍い光。その入口となる、正円の天井窓。王家の紋章が立てかけられた石造りの壁も、何もかも、セタの常識から逸脱するものだった。しかし、今までの道のりからして、このような部屋すらも、王にとっては簡素なものであるのだろう。

 だが、この部屋には、権威を示すものはあれど、人間の持つ生命の輝きというものは全くなかった。蝋燭の灯りすらなく、天井から降り注ぐ光が、辛うじてこの巨大な空間の一部を曝け出していた。

「何故か、懐かしいと感じます。…おかしい、ですよね」

 遠慮しながら、素直に吐き出された彼の言葉に、リオンはふと、目を伏せた。

「…ああ。そうだな。考えてみれば、当然だ」

「…え?」

 返ってきた意外な言葉に、青い瞳が丸くなる。真っ直ぐに向けられた視線から逃げるように、黒髪の少年は手を上げた。

「…『いる』ぞ。気をつけろ」

「……!」

 部屋の奥に、巨大な檻があった。洒落たレースと刺繍が施された、重厚そうな長布が、それを囲うようにして幾重にも巻かれていた。セタは、初めて気付く。人間が何人もすっぽりと入ることができそうなあの塊は、どうやら、王の寝床であるらしい。

 セタは、ゾッとした顔をした。それは、城で見てきたものの何よりも、彼にとって悪寒のするものであったのだ。こんな、世界で安寧を象徴する数少ないものの一つが、このように乾いているものだろうか。夜の風を感じることも、隣で寝ている家族の温もりを感じることもない。これが、権力を極めた者の安らぐ場所だと言うのか。

 中はよく見えないが、その蛇の穴のような暗い隙間から、一人分の気配が感じられた。耳を澄ますと、ひゅー、ひゅー、と、か細い呼吸が聞こえてくる。

 国王が、今そこにいるのだ。

 周りに残存兵がいないか警戒しながら、慎重に足を運ぶ。そして、二人が天蓋付きのベッドへ数メートルほど進むと、低くしわがれた雷鳴の音がした。

「……誰、だ」

 深く、脳裏を突き刺すような声だ。何もない記憶の片隅が刺激され、視界がぐらり、と傾いた。よく響き、セタの鼓膜を震わす。耳にするだけで、身体中が危険信号を発した。これが、国王の声か。

 セタが思わず固まったのとは反対に、一回り小さな少年が、怖気付く様子もなく前に出た。その理性的な瞳は恐怖など知らず、形の良い唇が流暢に言の葉を紡ぐ。

「お久しぶりでございます、我が父よ」

「父、だと…?お前は…」

 訝しげな声を上げる相手に、リオンの目元の筋肉がわずかに引き攣った。しかし、密かな傷心の時間は続かなかった。蛇が這いずるように、布の擦れる音がする。あの男が起きたのだ。少年はすぐさま、心を切り替える。眦を釣り上げ、手の内に密かに「影」を生成した。

 少しずつ帳が開かれ、闇色の繭の中から、とうとう国王が姿を現した。

 初老の、黒髪にところどころ白髪が混じっている男だ。顔は土気色で、眉間に深い皺が刻まれている。赤い目は鋭く、獲物を見つけた蛇のようにこちらを睨めつけてくる。がっしりとしているであろう体躯は、病気のせいか、少し痩せ細っていた。

 絹でできた白い生地の部屋着に、柔らかな光沢を放つ腰帯。これといって、特別な装飾品は身につけていない。しかし、骨ばった指には、ごてごてと宝石をはめた、金の指輪がはめられていた。

 それは、些かセタの想像していたものとは違った。それでも、学のない自分にも、これだけは分かった。彼は、間違いなくリオンの父親であった。

 風貌から滲み出るものに、リオンから感じた優しさなどない。セタを温めた、太陽のような情熱はない。ただ、乾いている。虚な空洞に覆われている。しかし、あの赤い瞳は誤魔化しようもなかった。彼らが血のつながった親子であるのだと、セタは強く認識する。

 対する国王は、リオンを視界に納めてはいるが、何も気付いていないようだった。信じられないことに、男は既に、息子のことを忘れていたのだった。怪訝そうに、自分の前に立つ小さな子供を見つめる。

 リオンが続けて声をかけた。やや芝居じみたように腕をひろげて、己の姿をよく見せる。

「ああ。父上、もしや…覚えていらっしゃらないのですか?…それは奇妙だ。あんなに怯えていらしたのに?」

「……」

 セタは、彼の表情が、段々と変わっていく様子を見ることができた。初め、王は、この不躾な子供がどこから忍び込んだのかに思考を割いていた。しかし、彼が昔に仕舞い込んだ罪の断片が、ふと浮き上がったのだ。目が飛び出そうなくらいに見開き、リオンの顔を何度も見つめては、明後日の方向へと動揺したように視線を逸らす。否定しようがない現実と、自分の中の虚構の落差をやっと認めた時、彼は、わなわなと震え始めた。

「…まさ、か。有り得ぬ。そんなことは絶対に有り得ぬ。よりにもよってお前が、生きているなど…っ!」

「おや、やはり俺を殺したおつもりでしたか」

 リオンは父の言葉に、興味深そうにして目を細めた。

 男は完全に取り乱し、半ば狂ったように頭を掻き回した。血の塊のようなガラス玉が忙しなく動きまわり、手が所在なさげに震える。

「…イーサンは!イーサンは何をしている!あいつが一番強い、一番強いあいつに殺すように命じたはずだ…っ」

「死にましたよ、あの男は」

「そんなはずはない!」

 国王の言葉を、リオンはバッサリと切り捨てる。しかし、国王は彼の発言を真っ向から否定し、殺気に満ちた顔で睨みつけた。男は、激情によって支配され、冷静に話すことができなくなっていた。

「お前ではまだあの男に勝てぬ!だから我は、早いうちにお前を摘み取ろうと奴に命じた!どうやって、どうやって生き延びたと言うのだ……っ」

 糾弾と悲鳴が混じり合った声に、セタは違和感を覚える。彼らの会話の全てを理解できないが、自分の感性が当たっていれば…王は何故か、リオンに怯えているようだった。

 今、この場を支配しているのは、もしかするとこの小さい少年であるかもしれなかった。父と同じ瞳を持つ彼は、抑揚のない声で淡々と告げる。

「確かに、陛下のご采配は英断でした。私はイーサンには勝てない。この先も、勝てるかは分からない。…だから、単純なことです。私以外の者が、あれを殺したのです」

「お前以外、だと……?」

 唸るように呟いたあと、国王はがばりと顔を上げた。興奮で黄ばんだ目が充血し、怒りに顔を引き攣らせたせいで皺が幾重にも寄っている。その醜さに、リオンは生理的な嫌悪感から顔を顰めた。

「……ふざけるなぁ!あああああああああっ!」

 感情に任せ、国王が突如「影」を放つ。それは、今まで相手をしてきたどんな「影」よりも強大で、闇を切り抜いたように黒い。ぽっかりと世界に穴が空いて、見てはならない深淵から噴き出したそれが、リオンに迫りゆく。しかし、彼はそれを、微動だにせずに見つめていた。己の身を守ろうとする気配も見せない彼に、王の中に残った理性の欠片が、疑問符を受かべる。その直後。

 輝く白銀が、リオンの前に躍り出た。光を拒絶したこの空間に見合わぬ、目に煩い銀の彗星であった。リオンを守るようにして現れた彼に、国王は愕然とする。

 それは、一人の少年だった。触ったらすぐに折れそうな骨と皮だけの身体で、なんとも貧相な出で立ちだった。リオンより少し背が高いだけの、ただの子供だ。しかし、その子供は流れるような動きで次々に「影」を一刀両断にし、後ろで悠然と佇むリオンにまで、決して行かせない。その太刀筋に、王国最強の騎士の幻影が見える。王が唯一信頼した、あの男の姿を、どうしてか思い出してしまった。

 呆然としていると、いつの間にか、自分の放った「影」は全て消滅させられていた。

 干上がった泥のように崩れ落ち、儚く霧散した「影」の向こうに、赤い瞳を不気味に発光させた息子が、再び現れる。その目が。誕生した日から、自分を真っ直ぐに見つめていたこの子供の視線が、おぞましい。自分には全く理解できない。だが、今日、悪夢は再来した。殺したはずの息子が、新たな化け物を携えて、自分に歯向かってきた。

 己が主人を守るようにして、痩せぎすの少年が前に立ち、剣を構え直した。王は、まだ信じられないような顔で、白銀の鉛を持つ彼を見る。

「もしや、その小汚い小僧が、イーサンを殺したとでも言うのか…?」

 リオンの眉がピクリと動く。

「小汚い…?いいえ、陛下。私は、これ以上に美しい騎士など知りません」

 そう言って、彼は口角を上げてみせた。緊張の糸が張られた現場に不釣り合いな、やたらと綺麗な微笑み。初恋でもしたかのような、純粋無垢な表情が、国王にとっては心底気持ちが悪かった。

「博識な陛下はご存知でしょう。この者の美しさと、強さと……私達が起こした、愚かな悲劇を」

「何を世迷言を……」

 薄ら笑いを浮かべるリオンを気味悪そうに見て、それから、血だらけの、汚い少年を見る。印象は、先程と変わらない。何も変哲のない、ただの貧相な子供だ。

 ……いや。思えば、銀髪は、この国では珍しい。それも、このように妙に輝いているような髪は。

 ……まさか。

 いや、有り得ぬ…!

 そんなことは、絶対に有り得ない……!!

 その時、セタの瞳が、国王の視界にチラついた。

 青い、色。


「ああ、ああああああああああああ!!?!」


 国王は、発狂して金切り声を上げた。髪を振り乱して叫ぶその姿に、セタは驚いて肩を硬直させた。

「ディオネス!!ディオネスの亡霊め!くそ、やっと殺し尽くしたのに!あの夫婦で最後だったのに!倅を隠していやがったか!!」

「ディオネス…?」

 聞きなれない言葉に、セタが眉を顰める。

「くそ、クソが、ついに復讐しに来たのか?!我を殺しに来たというのか!!」

「復讐…?それは、どういう……」

「とぼけるなバケモノめ!ディオネスの死に損ない目が!………いやちょうどいい。今殺してしまえばいい。それで、我はもう解放されるのだ……!」

 国王は、新たな影を出現させる。その気迫は、寝所にて伏せっていたとは思えないほどに強烈であった。腐っても王だな、とリオンは独りごちる。

「死ね、死ね……!」

 王は、呪詛のようにどす黒い言葉を吐き出し、「影」たちを集約させていく。確実に殺すつもりだ。セタは気を集中させて、身体の全神経を励起させる。そのまま、体勢を低く剣を上段に構えた時。リオンが、ふらりと足を踏み出した。

「…リオン様?」

 セタは、目線だけを横に向けた。そして、主人の変化に戸惑ったように口をつぐむ。リオンは虚空を眺めて、セタをそっと下がらせた。

「……これ以上、王家の醜い所を見せるわけにはいかないだろう。これの始末は、俺がやる」

「リオン様、」

「セタ」

 言いかけた言葉を遮り、リオンはこちらを振り向いた。

「……お前はどうか、見ていてくれ」

 圧政の限りを尽くした国王が死ぬ、その瞬間を。

 この国に自由が訪れる瞬間を、お前は民の代表として見届けて欲しい。

 そして、目の前の男を殺すことで、俺の最初の贖罪を民に捧げよう。

 セタは、その透き通った赤い目をじっと見つめた。

 この赤が、好きだった。普段の静謐さとは矛盾する、情熱的なものをうちに潜めたこの赤に、出会った時からずっと惹き付けられていた。

 威風堂々たる、王者の目。

 自分が心から尽くしたいと思った瞳。生きる意味を、生きる権利を教えてくれた、大切なあなたの……。


 セタは、剣を鞘に収めて、臨戦態勢をとく。

 騎士から、一人の民へと戻ったセタを見て、リオンは頷く。深い深呼吸と共に、国王へと向き直る。

 そして、己の影を最大限に展開した。空気が揺れ動き、リオンの背後におどろおどろしい何かが蠢き出す。泥のように噴き上げられたそれは無数の蛇となり、自分の父親へと牙を向いた。開始の合図はなく、互いに鬨の声を上げることもなく。ただ粛々と、王と反逆者の殺し合いが始まった。


 十一


 闇と闇が、ぶつかり合う。

 影を壊し、潰し、蹂躙する。狙いは一点、国王の肉体のみ。これは権威を示すためではなく、迅速なる暗殺のための戦いだ。。無駄なく、慈悲もなく、殺す。

 力の差は、リオンの予想していた通り、拮抗していた。しかし、あちらの方が長く生きている分、いくらか「影」の使い方に年季が入っている。リオンは勢いで辛うじて押し込んでいたが、あちらの方が些か余裕があった。

「(もっと、出力を…!)」

 リオンの顔の左側面から、黒々とした痣が浮かび上がる。正しくは、それは左脳から流れ込んできた「影」であった。

『殺せ!殺せ!殺せ!』

 自分の頭の中で、悪魔たちが合唱する。生命の冒涜を賛美する。精神への侵食が一気に進み、リオンは歯を食いしばった。己の内側から溢れ出す、父への憎悪。「こいつは、痛めつけて、生まれたことを後悔させなければいけない」と、誰かが楽しそうに哄笑する。

『殺せ!殺せ!内臓を引き摺り出せ!』

『殺せ!殺せ!俺は、それをする権利がある!』

「影」の声は、やがてリオンの声に変わっていく。胸を弾ませて、楽しそうに父を踏みつける姿が脳裏にちらつく。苦しみから解放されて、さっぱりとした顔で微笑む自分がいる。

「(落ち着け、惑わされるな、耐えろ…!)」

 一歩間違えれば、戻ってくることはできない。あの沼に飲み込まれてはいけない。この男を殺しても、自分がイカれてしまえば歴史は繰り返される。リオンは、丹田に力をこめて、鋼の決意と共に前方を睨みつける。

 負けるわけにはいかない。父にも、自分の「影」にも、負けられない。自分には、背後にいる民を守る義務がある!

 リオンは、更に大きく影を伸ばした。部屋全体を容易く飲み込まんとする勢いに、徐々に国王が押される。「影」たちが、二人の人間の殺し合いを堪能して、嬉しそうに騒ぎ出す。

 天井を知らないその伸びしろに、王は瞠目する。なんという力の解放か。我らは太古の神の力を受け継ぐ者。しかし、それにも才能が存在する。生まれながらにして、絶望するほどの力の格差がある。そういう意味で、目の前の、自分より遥かに幼い者は、既に人間のできる範囲を凌駕していた。いまだに正気でありながら、「正気ではなくなった自分」と競り合っていた。

「(やはり…あの時に…っ確実に殺してさえいれば!)」

 その後悔は、今は悪手となって現れる。動揺して、攻撃が弱まったのを見て、リオンはすかさず攻勢に乗り込んだ。「影」は、精神に大きく影響を受ける。自分の心が揺らげば、分かりやすく弱体化する。誰よりも強くと願うのであれば、当然そのようになる。どちらかが諦めたら、それで勝負が決まるのだ。

「生意気な…っ息子の分際で…!」

 は、とリオンは腹から震えた笑い声を漏らした。

「…ご冗談を。私のことを、息子だと思ったことなど、ないでしょうに……!」

 リオンの影が、勢いを増して国王のものを喰らい尽くす。縦横無尽にうねり、統合して、一つの生き物となって襲いかかった。大きな蛇のようなその影が、がばりと口を開ける。

 とった。このまま、父を殺す。

 その時、国王が笑った。彼という息子そのものを、真っ向から否定する。

「それは、そうだろうよ…!お前には、何も価値がないからなあ!」

 完全に勝勢となっていたはずのリオンが、その一声で瞳を震わせる。彼の使役する黒い蛇が形を歪ませたのを、国王は見逃さなかった。

 下から杭のような尖った影が瞬時に伸びて、蛇の胴体に突き刺さる。蛇は痙攣してから、霧となって儚く消えてしまった。それを見たリオンが舌打ちをする。弱味を見せてしまった。

 国王が面白い玩具を見つけたようにして、顔を歪ませた。

「ははははは!当たり前だろう!お前のような気味の悪い子供など要らぬわ!リオン=イクオム、無価値な者よ!その名の通り、お前は誰からも必要とされることはない!」

 背後で、セタが剣を手にかける気配がした。それがあって、リオンはかろうじて冷静を保つ。あの心優しい騎士の手を汚させはしない。この男は、俺自らが。

「……っ」

 しかし、剥げかけたメッキの効果など、たかが知れていた。取ってつけた合理的思考が崩れていくように、リオンの「影」の色が薄まっていく。

「どうした、威力が弱まったなあ!分かっているのだろう、今自分が、どれだけ愚かなことをしているのか!」

 ……ああ。あれだけ、覚悟していたのに。

 毎日、毎日、この日のために、ずっと準備はしていたのに。どうやら、俺は駄目らしい。

「その小僧を従えて力をつけた気になって、身の程を知らずに我に歯向かった結果がこのザマだ!お前は何も出来ないんだよ!お前は無力で無価値な、ただの子供だ!」

 ……あなたに罵倒されることが、こんなにも、悲しい。


 形勢が、逆転する。

 影は脆くなり、簡単に壊されてしまう。新しく展開しても、すぐに掻き消される。

 頭が重く感じられた。手も、足も満足に動かない。精神が摩耗していた。劣勢に立たされる焦燥感から、集中が散漫して影の形をイメージ出来ない。しかしそうしている内にも、どんどん影が迫ってくる。完全に悪循環に陥っていた。


 …やはり、俺は何もできないのか。屋敷に籠って本を読み漁ることしか能のない人間なのか。

 だって、救えなかった。第一王子である兄が行動を起こすことを予感しておいて、何もしなかった。結果、あいつらの家族は死んだ。

 俺が弱いせいで、セタは人を殺した。

 俺が弱いせいで、ミラは大怪我をした。

 だから、俺はとても弱い人間なのだ。


 相手の放つ蛇が、リオンの頬や膝小僧を鋭く切り裂く。傷口から「影」が侵食してきて、目の前が絶望に染まっていく。力いっぱいに差し出した両の手が、虚しく宙をかすっていく。

「(……そういえば、あなたが俺のことを見てくれたのは、これが初めてなのだろうか)」

 重たい思考が、ふと、罪深いことを考える。こんな、民のことなど一切考えないろくでなしに、自分は執着している。攻撃されていることですら、仄暗い喜びを見出してしまう。

 ずっと必要とされたかった。本当は悲しかった。愛されたかった。一回でもいいから、両親に笑いかけて欲しかった。それが、絶対に叶わないことだと分かっているのに、父に認められる幻想を、抱いていた。父に……


 その時、少年の顔が浮かび上がった。

 興味津々に、こちらを覗き込む幼い表情。

 天真爛漫に、喜びを分かち合おうとする微笑み。

 長い冬の終わりを告げる、豊かな青の瞳。

 声が聞こえる。夜を振り払って、「影」も全て薙ぎ払って、こちらに呼びかけてくる声が。


 ……ふざけるな!


 リオンは、意地でその場で踏ん張る。自分への怒りを、全て力に注ぎ込む。

 ふざけるなよ、リオン=イクオム。お前は何故、この場に立っている?目の前の男を殺すためだろう。

 俺はこの国を変えるのだろう。何も出来なかった自分から脱却するために、あいつを幸せにするために、父を殺すのだ。何を感傷に浸っている、甘ったれるな!


「影」、が勢いを取り戻す。国王はつまらなそうに鼻を鳴らして、忌々しそうにこれを迎撃した。どうやら、リオンの力を完全に見切ったつもりらしい。

「ここまで馬鹿だと、逆に清々しいものだ。何をそこまで必死になる?」

 父の問いかけに、リオンは柳眉を逆立て、「影」の出力を強める。

「…俺は、約束した。この国を変革することを、誓った…!」

「約束?約束だと?はは…っ」

 国王はさも可笑しそうに笑う。黄ばんだ歯を見せて、ニヤニヤと下品に嗤う。

「下々の者たちと、そのようなおままごとをしていたのか!道理で青臭いわけだ!王は、下賤な奴らなどに意識は向けぬ!ただ上を見るのみ!」

「それは違う!王とは民を守る者だ!民に寄り添い、民と信頼し合うのが真の姿だ!」

「はは、ははは、はははははははは!信頼!この世で一番愚かな言葉だ!我は他人など信じぬわ!我自身以外に信用できるものなどない!」

 その言葉をリオンは見過ごせなかった。怒りを露わにして叫ぶ。

「愚かなのは貴方の方だ!人は自分だけでは生きていけない!誰かを信頼しなければ不安で押し潰されてしまう!現に貴方は、イーサンの実力を信頼したから俺を殺すのを任せたんだ!」

 それに、国王はつり上がった目を細めた。

「あれは、命じればなんでもこなした。使いやすい駒だった。しかし、最後に我を裏切った。お前を生かし、無断で隠し続けた挙句、そこの小僧に負けて野垂れ死によった!」

 後ろで、セタの気配がざわりと変わる。明らかな殺意と憎悪がこもっていた。びりびりと焼け付くようなそれを背中に感じながら、リオンは国王を糾弾する。

「イーサンは野垂れ死になどしていない。散々あの騎士を消費した貴方が、とやかく言う権利は全くない!あいつは俺たちをここへ連れてきてくれた。貴方という国の病巣を取り除くために、最善を尽くしたのだ。あいつは間違いなく、忠義の騎士だ…!」

「…そうだ。あれはお前たちをここへ辿り着かせてしまった。珍しく城の警備を名乗り出たから、様子を見ていれば、予想通り裏切った!」

 国王は恍惚そうに顔を歪める。

「ああ、やはり他人は裏切るのだ!我の周りに居る者はもう一人も要らぬ!はは、は!はははははは!!」

 王が、狂ったように笑う。大口を開けて、この世をかき抱くように両腕を広げる。限界までぎょろりと目を剥き出した男は、愉悦に満ちた顔で、快哉を叫んだ。


「……だから、だから!皆殺してやった!!」

「……は?」


 リオンは最後の言葉が理解出来ず、瞬きをする。

 皆、殺した?

「…貴方は、誰を、殺したと」

「わからないのか?全員だよ、全員!どうせ裏切る者など、我には必要ない。騎士も、使用人も、妻も、全員殺してやったのさ!」

 リオンは、これまで通ってきた道を振り返る。異様に人のいない廊下。騎士はおろか、使用人でさえ一人も見当たらないがら空きの部屋。生きている人間と言えば、城の外にぽつぽつといた、下っ端の兵士のみ。

 この王は、自分の部下を、自分で殺したのか。


 リオンの中で、プツンと何かが切れた。


 急に黙りこくったリオンを、国王は訝しげに見つめる。俯いた彼は、少し肩を震わせていた。

 異常を感じ取ったセタが、声をかけようと動いた時、リオンが手を口に当てた。

「……ふ、ふふ、………」

 国王は眉を顰めた。思わず、攻撃の手を止めて様子をうかがう。

「ふ、は…」

 リオンが、堪えきれないように手を離した。

「はは、あははははははははは!」

 高らかに、笑い声を響かせる。愉快そうに、楽しそうにリオンは笑う。無邪気な笑顔に、国王は本能的な恐怖を感じて後退りをした。

 リオンが目を細め、かくんと首を傾けながら国王を見る。赤い目だけが、爛々と光っていた。

「ああ、ああ父上…!もはやそれほどまでに狂っていたとは!」

「な、なんだ、何が可笑しい…!」

「あは、あはははは!これが何故可笑しくないと言えましょうか!臆病も過ぎれば勇猛さに変わるというのか!自分に仕える者を信じれずに殺すとは、なんて憐れで、滑稽な!」

「な…っ黙れ黙れ黙れ!お前に何が分かるというのだ!常に背後を狙われ、命を狙われ!失脚を望まれる我の立場が分かるものか!」

 そこで、すっとリオンが真顔になる。冷たい視線が国王に突き刺さった。

「…分かりませんとも。分かりたくもない。父上、よく理解できました。俺は貴方の愛など要らない。いや、愛がどういうものかを知らない貴方に、期待した俺が馬鹿だった」

「…なんだと、貴様、」

「…だから、終わりにしましょう」

 リオンが、一歩踏み出した。

 足が地に触れると、その中心から円を描くようにして黒い粒子が這い上がる。

 また、一歩進む。

 黒い、黒い「影」が、リオンの足を包み込んでいく。それはゆっくりと増殖し、彼に寄り添うように流れを作る。

 それは、漆黒の闇だった。闇よりも暗い闇であった。底の知れないその穴の中心に、リオンが立っている。

 こんなに黒い「影」は、見たことがない。国王の出すものよりも格段に「大きく」、おぞましいもの。

 国王には、それをまとって歩いてくるリオンが、死神にしか見えなかった。

「影」が増大する。それは、いとも簡単に部屋全体を飲み込みつつあった。寝室に入ってきた時の少年と、この小さな悪魔は、別物だった。唯一、天井から差し込んでいた光さえも遮られ、辺りは本当の深淵に包まれる。その暗がりの中で、二つの赤い目だけが光っていた。

 殺される。直感で、そう感じた。

「ひっ……来るな、来るなぁ!」

 腰が抜ける。上手く動けず、無様に足掻き、必死に逃げようとする。黒衣を纏った少年は、それを冷徹な目で見つめる。歩みを止めず、確実に迫る。

「やめろ、化け物め……!」

 リオンは、止まらない。

 国王から目を逸らさず、捕食者が獲物を逃さぬように、間合いを詰める。そして、とうとう国王の目の前で、リオンは立ち止まった。

 口角が歪に吊り上がる。その表情が恐ろしくて、国王はぶるぶると情けなく震えた。

「…父上。お覚悟を」

「やめろ……やめろ……」

 リオンの背後から、黒い蛇がゆっくりと這い上がる。それは先程よりもくっきりとした造形を保ち、こちらに向かって近づいてくる。

 それの口が開いた時、国王は自分を殺すための長い牙を見た。

 頭が、死の恐怖で埋め尽くされる。

 錯乱した国王は、無駄だということもわからずに、後ずさって喚き散らした。

「ふざけるな、何故我がこのような目に合わねばならぬのだ!間違っている!致命的に間違っている!」

「……」

「お前たちは黙って命令に従えばいいのだ!忌々しい奴らめ、不敬な輩め!お前たちのせいで我はこんな目に合うのだ!」

「……」

「ああ、くそ、くそ!そうだ、お前がいなければよかったのだ!お前など、」


「生まれて来なければよかったのだ!!」


 リオンは、心残りのない顔で美しく笑った。

「さようなら、父上」


 蛇が目にも止まらぬ速さで動き、国王の首に、噛み付いた。ずぶ、と肉の切れる音がする。

 数秒遅れて、国王の苦しみに叫ぶ声が耳障りに響き渡った。喉を掻きむしり、目をぎょろりとむきだして床をのたうち回るその姿は、傍から見れば大層滑稽な、道化師の踊りのようだった。

「ぎ、ああああああ゛あ゛あ゛あ!!」

 断末魔が、鼓膜を揺さぶる。

 リオンは目を瞑り、その音色に耳を傾けた。

 一瞬のようにも、永遠のようにも感じられるその叫びの余韻まで、彼はじっくりと聴き入る。

 そして、不協和音がピタリとやんで、部屋に静寂が訪れたあと、ゆっくりと目を開いた。

 足元を見ると、醜い肉の塊が落ちていた。


  十二


 暗闇の中、一筋の光が差し込んだ。

 リオンの「影」が徐々に消えて、隠されていた天井窓が顔を出す。部屋を侵食していた影はやがて完全に彼の中に帰っていき、辺りは来た時と同じ景色に戻った。

 セタは、小さな背中を見つめる。

 目の前の少年はピクリとも動かずに、ずっと父親の亡骸を見ていた。首を重く垂れているため、その表情はうかがえない。セタは、何となく声をかけるのが躊躇われて、黙っていた。

 暫しの間、部屋が沈黙で満たされる。

 唐突に、不安になる。こちらを振り向かず死体を眺める少年が、どこかに消えてしまいそうで心配になった。セタは、リオンの元へ近づこうとする。

 その時、少年が顔を上げた。だが、いつもと明らかに様子が違う。彼は決して、セタの方を見ようとしなかった。

 セタを、拒んでいるように思われた。

 感じたことのない雰囲気に、セタは困惑する。

 どうすれば良いか分からず、リオンの横顔をただ見つめた。彼は空を見つめたあと、眉を少し下げて、笑った。

「……終わったぞ」

 ポツリと、それだけつぶやく。

 セタは不安が拭いきれず、リオンの名を呼ぼうとした。しかし、口を開けようとした時、遮られる。

「最後まで威厳も何もなく、無駄に騒いでいた。これが、国を治めていたなど、全くもって信じられないな」

 平坦な声だった。 何も感じていないように、リオンは飄々としていた。

 けれども、セタにはそれが、感情を抑圧している時の彼の声だと分かっていた。

「……リオン様、」

「ああそうだ。先ほど、これが、お前のことをディオネスと呼んでいただろう?あれはお前の苗字だ。お前の先祖は昔、王家に良く仕えた一族だったんだ。でも、王家はその忠誠を、自分達が臆病なあまり裏切ってしまった」

「……」

「全く、救いようのない者たちだ。これも、先祖も、自分たちからディオネスの存在を排除しようとしたくせに、その恐怖に狂ってしまうほど囚われていた」

 リオンは無意識に、手を握りしめる。

「自分の臣下を信用しない、独り善がりな王に、貧民の命など考えずに、権力に取り憑かれた王子たち。やはり、この国に、この王家は必要ないだろう」

 セタは、無表情で言葉を紡ぐリオンを見て、胸が張り裂けそうになった。リオンが何を思って生きてきたのか、想像するだけで心臓が悲鳴をあげた。

 この人は、ずっと、自分の存在を呪っている。

「俺は、兄を殺す。争いの発端となった兄たちを殺して、それ以外の兄も殺す。姉も妹も、関係ない。全て無にしなければならない」

 握りしめた手が、力を入れすぎて白くなっていた。しかし、不意にその手が緩められた。

 くは、と諦めたように笑う。

「……俺も、そうだ。俺はどう足掻いても王家の血を引く者だ。だから、」

 いっそ穏やかな表情で、彼は歌うように言葉を紡ぐ。

「全てが終わったら、俺も、この男のように死ぬべきなのだろう」

 もう、聞いていられなかった。セタは、細い腕を咄嗟に掴む。そうでもしないと、すぐに死んでしまいそうだった。それはすごく嫌だった。セタは必死に喋る。

「あなたは、この人とは違います…!貴方は、民を思うが故に、ここへ来たんでしょう」

 リオンはそれに答えない。自分に言い聞かせるように、ぶつぶつと言い続ける。

「俺は、許されてはいけない。この血は穢れすぎている。誰がなんと言おうが、それが変えようのない事実だ」

「どうして、そんなことを思うのですか」

 セタは絞るように声を出す。リオンが自分を傷つけることがつらくて、苦しい。

 あなたは、十分苦しんだじゃないか。一人でずっと抱え込んで、それを隠して耐え続けた。あなたはむしろ、報われなければならないのに、なぜまた傷つこうとするんだ。

「忘れてはいけない。俺は、この男の息子なんだ。今は何もなくても、この先、俺は狂ってしまうかもしれない。生きていれば、無自覚に民を苦しめるかもしれない。それだけは、あってはならない。罪を重ねることは、許されない」

「リオン様……っ」

 リオンの瞳が、暗く濁る。

「…この男の言う通りだ。俺は、生まれてきてはいけない存在だった」


「違う !!!」


 セタは、自分でも信じられないほど大きな声を出した。リオンが驚いて、こちらを見る。

 やっと目が合った。その赤を逃すまいと、セタはじっと見つめて視線を逸らさなかった。

 セタは、リオンに問いかける。

「…あなたは。あなたは、どうしたいのですか」

 リオンは、目を大きく見開いた。目の前の少年は、真剣な眼差しでこちらを射抜く。

「何をしなくちゃいけないとか、何をすべきかとか、俺はそんなことをあなたから聞きたいわけじゃない。俺は、あなたが何を求めているか知りたい。あなたの本当の気持ちを知りたい!」

 その言葉は、あまりにも真っ直ぐにリオンの身体に突き刺さった。単純で、誤魔化しも何もない直球の言葉。それゆえに、いとも簡単に冬の城壁は崩れ落ちる。

 心臓が震えた。鼓動が苦しくて、胸を掴む。

 ……どうして、

 お前はどうして、いつも………!

 リオンは、奥歯をぎりりと噛んだ。思わず、強く目を瞑ってしまう。

 やめてくれ。俺に光を見せるな!

 俺は、許されてはいけないんだ。この身に生まれ落ちた瞬間から、罪を背負っているのだ。

 王子として生まれたこと自体が、俺の罪だ。

 俺は王家が嫌いだ。民を、お前を傷つけ苦しめてきた王家が大嫌いだ。

「(…だから、自分のことも、大嫌いだ)」

 申し訳なかった。不甲斐なくて、情けなくて、何度もこの身を呪った。そして、やっと分かったんだ。

 俺は己の存在をこの世から失くすことで、初めてお前に償えるのだ。

 王家を滅ぼして、国を再興させて、できる限りの贖罪が終わったら、最後に俺は、俺を殺さなくてはいけない。だって、この国の民に、俺たちは忌み嫌われているのだから。それだけのことをしてきたのだから。


 殺して、殺して、殺し尽くす。

 俺が死ぬまで、止まることは出来ないのだ。

 だから、これ以上勘違いをさせないでくれ。

 優しく、しないで。

 お前の傍は、温かくて泣きたくなる。


 リオンは、セタの言葉に対して、馬鹿らしいと言おうとした。

「これから王になろうとする者が自分の私情を挟もうとするなど愚鈍の極みだ。ただ民のためだけに生きるのだ。お前の問いかけは、全く意味の無いものだ」

 そう、言おうとした。

 しかし、口から出た声は、それとは真逆の音を発した。


「……ゆるされたい」


 くしゃりと顔を歪める。

 苦しい。苦しい。

 本当は嫌だ。否定されるのは、怖い。


「一度で、いい……っ。一度でいいから、この世に存在しても良いのだと、肯定されたい……!」


 やめろ、黙れ。そんなことをほざく権利は、俺にはない。


「おれ、は、生きていたい………!」


 だ ま れ!!!


 口を手で強く押さえる。余計なことを言わないように、くだらないことを口走らないように、強く押し込む。


 なんて、なんて見苦しい……!

 こいつらを巻き込んで、悪人とはいえ実の父を殺して、まだ赦しを請うか。

 無様にも光に縋ろうというのか……!

 いっそ罵倒してくれ。殴ってもいい、蹴ってもいい。この口を封じて、その剣で喉をさいて、殺して欲しい。

 愚かな間違いを犯す前に、早く……!


「……でも、あなたは戦ってくれた」


 セタの声が、静かに降ってくる。

 彼は、リオンの手をそっと取る。なおも口を塞ごうとするそれを宥めるように撫でて、大切な物に触れるように、ゆっくりと持ち上げる。

「一人で戦い続けることは怖いのに、俺たちのためにそれを成すことを決意してくれた」

 リオンは、恐る恐る顔を上げた。セタの瞳に、自分が写っていた。

 青に、優しく包み込まれる。


「貴方には、民を愛する覚悟がある」


 それは、とても穏やかな声だった。

 セタを見返すと、彼は微かに口元を綻ばせる。

 そして、彼はリオンの前に跪いた。

 片膝を立て、こちらを見上げてくる。

 リオンは目の前の光景を疑った。

 信じられないようにセタを見つめる。

「貴方は、既に俺たちを愛してくれている。見返りを求めず、危険をかえりみず、名前も知らない沢山の人達のために戦ってくれた。だから、リオン様。いえ……」


「……陛下」


 リオンが、開いた目をさらに大きくした。

「…陛下。私は、あなただからこそ、この身を捧げたいと思ったのです。民のために過酷な道を選んだあなたに、ついて行こうと決めたのです」

 セタは姿勢を正して頭を垂れる。

 リオンの手を恭しく取り、その甲にそっと口付けた。その神聖な姿に、くらりと目眩がした。

「誰がなんと言おうとも、私の王はあなたです。それが、私にとっての全てなのです」

 セタは、恐れることなど何も無いかのように笑ってみせる。その顔は、誇らしく輝いていた。

「私は、ここに誓います。親愛なる陛下。私は、どこまでもあなたとともに在りましょう」

 そう言って、再び彼は深く頭を項垂れた。


 それは、騎士の誓いだった。

 見習い剣士だった少年は、この瞬間にリオンの唯一の騎士となったのだ。

 リオンは、その美しい存在を見つめる。

 何度も夢に見た光景が広がっていた。


 お前は、俺を赦してくれるのか。

 大切な騎士の誓いを、この俺に捧げてくれるというのだろうか。

 何よりも、俺を王として認めてくれるのか。

 ……ああ、ああ。

 これ以上に、幸福なことがあっただろうか。


 ぽと、と床に水滴が落ちた。

 リオンは、頬から伝い落ちたそれを認めると、不思議そうに見つめた。

 指で目から出たものを拭う。


 ああそうだ、怖いことなど何も無い。

 俺には、最高の騎士がついているのだから。


 セタが顔を上げた時には、もういつものリオンに戻っていた。

 しかし、その目に一切の憂いはなく、憑き物が落ちたような顔をしていた。セタはそれを確認して、眩しそうに目を細めた。

 完全に、王の顔つきになられた。

 貴方はこんなにも尊くて、愛おしい。

 リオンが口を開いた。

「セタ。お前は俺に誓ってくれた。ならば、俺はそれに応えるのみ」

 新たな王は、朗々と声をあげる。その威風堂々たる姿は、鮮烈に輝く太陽のようだった。

「…セタ=ディオネス。お前を我が騎士に命ずる。今この時から、我を支え、我を守る剣となれ。汝の命を、我に捧げよ!」

 セタは胸に手を当て、敬礼した。

「陛下の、御心のままに」

 リオンは満足気に笑った。

 赤い瞳が、誇らしげに己の騎士を見ていた。


  十三


 頭に霧がかかったようにぼんやりとしていた。意識が浮遊したり、暗闇に落ちたりして、世界が夢のように変化する。

 かろうじてここが現実だと分かるのは、傍で絶えず流動する「影」の存在があったからだ。自分の周りをゆったりと、渦を巻くようにして動いているそれは、止まることなく大きな円を描く。

 まるで、守られているかのようだ。知らない人から見れば得体の知れない黒い物体だが、一度知ってしまえば別だった。これと一緒にいると、血を多く流している自分の状況が芳しくないことは理解しているが、根拠もなく大丈夫だと思えてくる。そんなところまで本人そっくりとは、少し笑ってしまう。「影」は、やはり持ち主の影響が色濃く反映されるものなのだろう。

 不意に、静かな世界に音が介入した。

 足音だ。急いでいるように、真っ直ぐこちらに向かってくる。

 ミラはハッとして、意識を覚醒させた。


「ミラ!」

 乱暴に扉が開く音がして、自分の名を呼ぶ声がした。

 帰ってきたんだ。

 生きて、帰ってきた!!

 ミラは嬉しくて、傷の痛さも忘れて飛び起きる。少し目眩がしてよろめいたが、その背中を一緒にいた影がすかさず支えた。ミラは、走って目の前の人物を思いっきり抱きしめた。

「セタぁ~!」

 良かった。本当に良かった…!

 ミラは離れまいと、ぎゅうっと抱擁する。

「もう!本当に心配したんだからね!怪我はないよね?よかったあ~!」

「ちょ……」

「一人で寂しかったんだからね!」

「いや、だから……ぐえっ」

「ああもうこんなにボロボロになって……過酷な戦いだったのね、少し小さくなってるし…

 ……ん?セタのサイズじゃない……?」

「…だぁーーー!俺はセタじゃないわ!いくら戦いが酷くたって縮むことあるか!!!」

 どん、と刺されていない方の肩を強く押される。見ると、確かに目の前にあるのは黒い頭で赤い目の少年であった。リオンは、力強過ぎる抱擁から解放されて咳き込んでいた。

「ちっ、セタじゃないじゃない」

「普通間違わないだろ!」

「うるさいわねー」

「姉さん、傷は……」

 神妙そうな顔の弟が扉から顔を覗かせた。

 ミラは、セタ~!と再び歓喜の声をあげた。

「何はともあれ、二人とも無事で良かったわ!ささ、姉さんの所へおいで、セタ。ちょうど切らしてたの」

「何を?」

「補給を」

 リオンの問いかけに間髪入れずに答え、素直にトコトコ歩いてきたセタを胸いっぱいに抱きしめる。二人とも血だらけだったけれど、心臓の音は、確かに脈打っていた。ミラは今度こそほっとして、息を吐き出す。

「ああ~~……あー……」

「うわ、だらしのない顔だな」

「黙りなさい」

 セタから見えない角度なのをいいことに、ミラはリオンをギロっと睨みつけた。怖い。

「姉さん、医者のところに早く行って、手当してもらおう」

 セタが心配そうにミラの背中をさすった。そうだ、いくら元気に見えるからといって重傷なのに変わりはない。リオンは「影」を広げて、ミラをゆっくり持ち上げる。ミラは大人しくそれに抱えあげられた。

「あ、そうだ」

 思い出したようにミラがリオンの方を向く。

「?…なんだ」

 首を傾げると、少女はにっこり笑った。

「お疲れ様ね、新しい国王陛下?」

 リオンは虚をつかれたように目をぱちくりさせた後、目線を上にずらした。

「……まあ、確定したわけではないが、そういうことになるのか……?」

「照れなくていいのよ~?」

「…断じて照れてない」

 その時、そのやり取りを聞いていた隣のセタが突然ハッとした。

「じゃ、じゃあ俺もしかして、とんだフライングを…?すみません、さっきの誓い無かったことにしてくださ」

「はん?!ダメだダメだ!許さんぞ!」

 焦ったようにリオンがセタの言葉を遮って、服をグイグイ引っ張る。二人のあわわとした様子に、ミラは不思議そうに質問した。

「何かあったの?」

「ん?…んー、それはそうなんだが……」

「あ、あのやっぱりやり直させてください……」

「絶対ダメだ」

「うう…」

 リオンが畳み掛けるようにセタに迫る。

「大体な、あれはポンポンやり直せるほど軽くないだろう?お前もあの時、雑に言ったわけじゃないだろうが!…ないよな?」

「それはそうですが、」

「ならいいだろ。俺が良いんだから、お前もそれで良いんだよ。取り消しダメ、絶対。分かったか?分かったな?」

「わ、分かりました……?」

 怒涛の勢いで捲し立てるリオンに押されて、セタはこくんと頷く。

「ねえ、だから何があったのよ?」

 ミラが困ったようにもう一度聞くと、セタが真面目な顔でこちらを見た。その、重大な告白をするような雰囲気に思わず姿勢を正す。

「……姉さん、俺。リオン様の、騎士になった」

「ほほん。リオンの騎士。えーと、騎士?」

「うん」

 大真面目に、セタが頷く。ミラは彼から言われた言葉を反芻した。

 騎士。騎士、騎士かぁ………

「………は?!?!」

 やっと二文字の言葉を解読したミラに、リオンが追い打ちをかける。

「事後報告で悪いな」

「あ、あんた…セタに危険なことさせないって……」

「いや、こいつから言ってくれたしなあ?」

「こ、この……」

 ミラはプルプル震え始めた。握りしめた拳がリオンに発射されようとしている。

「そういうことで、セタは俺の騎士になってくれたから。これからよろしくな、お義姉さん」

 ミラの怒声が、城内全体に響き渡った。

「お前に義姉さんと言われる筋合いは一切無いわボケーーーーーー!!!!!!!!」


 一行は城を出て、一番近くの病院に来ていた。病院と言っても、外見は一般的な貴族の屋敷と変わらない。分かってはいたが、医者といえば、貧民嫌いの彼らの世話になるしかない。乗り気ではないミラとセタを引っ張って、リオンは半ば強制的に玄関を突破した。

 突然バタバタとして現れた血だらけの子供を見て、看護師たちが悲鳴をあげる。あまりにうるさくて、リオンは眉をひそめた。職業柄、血に慣れているはずなのだが、何故こうも落ち着きがないのだろう。リオンたちが彼らに構わず中に入ると、騒ぎを聞きつけた責任者らしい男が出てきた。

「…なんだね、君たちは」

 やや細った身体の、陰湿そうな男がじろりとリオン達を見る。品定めをするような不躾な目線に、ミラはムッとしてリオンに囁いた。

「こいつ、本当に医者なの?そもそも私たちに治療する気ある?こんなに分かりやすく怪我してるのに、悠長にしてるわよ」

「これでも腕の良い奴だと思う。貴族たちに重宝されているらしいからな」

 ボソッとリオンが返答する。三人が何も言ってこないのを見て、医者はさらに嫌そうな顔をした。いきなり来て無作法な挙句、三人のうち二人はどう見てもみすぼらしい貧民だ。汚いし臭いし、相手をしたくないのが本音だった。

「私は軍医じゃないし、君たちの治療をするほど暇でもないんだ。帰った帰った」

 手を振って、追い払う仕草を見せる。苛立ったミラが声を上げた。

「どう見ても暇そうじゃない。それとも、医者のくせに治せる自信がないの?」

「…なんだと?貧民が生意気な口を…」

 医者は途端に不機嫌になり、ミラの方を睨みつけた。ミラは鼻を鳴らす。

「だってそうじゃない。怪我人を治すのがあなたの仕事でしょ。それを放棄するなんてなんて情けないのかしら」

「なんと生意気な…。金も払えないお前たちなど治療する価値もない!」

「は?何それおかしいでしょ…!」

 二人の間で火花が散る。セタは、ミラの体が心配で気が気じゃなかった。この医者に診てもらうのは嫌だが、早くしないと血も足りないし、傷口から菌が入って更に悪化してしまう。

 不安でソワソワするセタを、リオンが小突く。セタがそちらを向くと、彼は少し口角を上げた気がした。何か策があるのだろうか。

 リオンは、医者に向かって喋り出す。

「いやぁ突然の来訪、申し訳なかった。部下も気が立っていてな、勘弁してやってくれ」

「ちょっと、リオン?!」

 怒ってこちらを振り返るミラを落ち着かせるように、セタが彼女の手を握る。ミラは納得できない、という顔をしたが渋々後ろに下がった。

「本当に迷惑をかけてしまうが、二人の手当をして欲しい。ここには国一番の医者がいると聞いてなあ。きっと、貴方のことだろう?」

 明るく和やかな声を出して、リオンがスラスラと言葉を並べ立てる。普段との変わりように、ミラがおえ、と吐く仕草をした。

「…む、ごほん。まぁ、事実ではあるな。君は比較的、話の分かる者らしい」

 医者は少し機嫌を直し、一回咳払いをした。リオンは更に饒舌に褒め讃える。

「有難いことだ。俺たちはこんなにも立派なお医者様と巡り会えて良かったなあ。さぞや名医なのだろうなあ?」

「ふ、ふふ。それほどでもない」

「では、早速お願いできるだろうか」

「ああ、してやってもいいだろう。…だが、こちらも商売だからな。そちらの二人は、ちゃんと金を払えるのか?」

 医者がチラリとこちらを見る。確かにお金は持ってきてなかった。セタとミラは顔を見合わせる。しかし、二人が何か言う前に、リオンが徐に「影」を展開させた。その深い渦の中から、謎の物体が出てくる。見ると、丁寧になめした皮でできた袋だ。どっしりと重みが感じられる。何が入っているのだろうか。

「そ、その黒いものは一体……?」

 医者が引いた顔で、一歩後ろに下がった。ミラは、目を半眼にさせて呆れた。何よ、さっきまで威張ってたくせに、自分が理解できないものにはとことん臆病なんだから。

 リオンは、いっそ綺麗なほどにっこり微笑む。

「『影』のことか?これは、王家特有の奴でなあ、俺でもわからんのだ」

「な、なに?」

 医者が困惑した声を発した瞬間、リオンが袋の中身をぶちまけた。

 医者はそれを見た瞬間、口をあんぐりと開けた。彼だけではなく、セタとミラも驚愕に目を見開いてしまう。

 床に、おびただしい量の金貨が散らばっていた。銅貨や銀貨は混ざっていない。全て、ことごとく金であった。そのギラギラ輝く小山に、周りの者は目を釘付けにされた。

 今までに見たことの無いその量に、医者は目を白黒させる。貴族でも、一度にこれぐらいの金を払える家はない。それを、目の前の子供はいとも簡単に差し出して見せた。些細なことだとでも言うように、あっさりと。

 一体、何者なのだ、と医者は思い、ふと、ついさっきリオンの言ったことを頭に甦らせる。

 王家。たしか、王家と言っていなかったか?

 で、では目の前の子供はもしや……。

 その時、リオンが床にある金貨を、勢いよく蹴った。散乱するそれに、医者はびくりとなる。

 顔を上げると、先程のにこやかな少年は消え、冷たい赤い瞳がこちらを突き刺していた。

「何を突っ立っている?愚鈍の極みだな。俺は手当をしろと言ったのだ。早く動け」

 その場全体を威圧する重い声に、医者はひゅっと喉を鳴らした。

「も、申し訳ありません!まさか王族の方でいらっしゃったとは……!」

 震える声で弁明をする医者に、リオンはすっと、見下すように目を細めた。

 失敗した。絶対的支配者の不況を買った。

 恐怖に、頭の中を蹂躙される。

 医者はその場に平伏し、申し訳ありませんと必死に謝り続ける。リオンはそれを表情一つ変えずに見つめた。そして、一言。

「俺に何度言わせるつもりだ?…殺されたくなければ、さっさとその醜い手を動かして働け」

「ひっ……!」

 医者は真っ青になって、ドタバタと立ち上がる。同じく恐怖で震えている周りの看護師達に、大声で怒鳴った。

「おい、早く部屋を用意しろ!一番良いやつだ!いいか、丁重に扱えよ!失敗は俺が許さんからな!!」

「は、はい……!」

「さ、さあお二人共こちらへどうぞ。御案内致します!」

 セタとミラは、対応の変わりように唖然とした。ぽかんとして、リオンの方をみる。彼は慌てふためく医者や看護師たちを見て、呆れたように鼻を鳴らした。

「金と権力を出せばこんなもんだ」

「す、すごい……」

「本当はこんなめんどくさいのやりたくないがな…今回はしょうがない」

「え、いつもこんな手厚い歓迎してくれるならいいものじゃないの?」

 ミラが疑問の声を出すと、リオンは微妙な顔をする。よく分からなくて首を傾げたが、三人の元へなだれ込んできた看護師たちを見て、何となく察する。

「奥の、一番良い休憩室に御案内します!」

「お好きなお飲み物はございますか?すぐに準備致します!」

「何かご要望はございますか?なんなりとお申し付けくださいませ!」

「上着をお預かりします!」

「………ほら、こうなる」

「あ~………大変ね」

 うんざりした顔のリオンを見て、ミラは貴族じゃなくて良かったかもしれない、と心の底から思い、遠い目をした。三人は、あれやこれやと運ばれ、セタとミラは数人がかりで迅速に手当をされた。

 服を脱がされ、砂や塵などを拭き取られる。ついでに髪も洗われた。血でべっとりしていたから、これは助かった。次に、消毒液をぶっかけられた。痛い、と言う暇もなくどんどんガーゼを押し付けられる。大きな怪我は麻酔を打って、綺麗に縫われた。小さな怪我は薬を塗って包帯を巻いた。部屋は消毒液や湿布の匂いが充満していた。

 セタは、正確で的確な人の動きに感動した。

 ミラは、どんどん包帯でぐるぐる巻きになるセタを見て、応急処置なら負けてない…!と謎の敵対心を燃やした。

 リオンは、絶えず送り付けられてくる過剰な給仕を片っ端からあしらって疲れた。

 波乱とも呼べる治療が終わった時、三人とも何故か息が上がっていた。

「…今度から、金で解決するのはやめよう」

「それが……いいわ……」

「です、ね……」

 あたりはいつの間にか暗くなり、太陽が頭の先っぽだけ出していた。リオンは窓からそれを認めると、盛大に息を吐く。

 ああ、疲れた。後半は無駄に体力を消費した気がするが、今日は本当に沢山の事があった。

 落ちていく日を、じっと見つめた。間もなく、夜がくる。全てを包む闇がくる。

 ふと、あの亡骸を思い出す。薄暗いあの部屋で、今も独り倒れているであろう。誰にも知られず、国王は朽ちているのだ。

「リオン様。もう寝ましょう」

「…そうだな。明日も、やることは残ってるからな…」

 そういうリオンに、セタが頷く。

「明日も、生き延びなきゃいけません。だから寝ないと。疲れた時は、早く寝るんです」

 セタは腕を伸ばして、リオンの手を掴んだ。

 リオンはキョトンとしてそれを見つめる。

 ミラがニヤニヤしていた。なんなんだ。

「疲れてる時は人肌よね~~」

 軽い調子で言いながら、リオンの空いた手を掴む。そして、二人でリオンをベッドに引きずり込んだ。

「はあ?」

 訳が分からず、リオンは二人の間にすっぽりはまった。頭に疑問符を沢山並べるリオンに構わず、セタが灯りを消す。

「おい、なんだこれ。ベッド人数分あるだろ」

「分かってないわね~これだからいいのよ」

 ミラが面白そうに足をパタパタさせた。なんでそんなに浮かれているんだ。隣のセタに助けを求めると、彼は一つ瞬きして、さも当然のことのようにこう言った。

「皆で寝る方があったかいですよ」

 サラッと言うと、モゾモゾ布団に潜り込んで、本格的に寝る体制に入り始める。リオンは、まだ納得がいかないようにすっぽりはまっていた。

「ええ……」

 困惑しているうちにも、既に二人は寝息を立て始めていた。なんでこんなに早く寝られるんだ。健康良児過ぎるだろう。すやすやと眠る年上二人にはさまれて、力が抜けてしまった。

 しかし、とリオンは思う。

 思えば、自分は人とこのように寝たことなどなかった。誰かの呼吸を聞きながら眠りにつく、なんていうのは、とんと縁がなかった。

 とても不思議な気分だ。夜は静かなもののはずなのに、こんなに賑やかだ。気配を感じる。落ち着いた寝息と、時々布の擦れる音が聞こえる。そして何より、両隣から伝わる体温が心地よい。

 …確かに、これはいいかもしれない。人生初の経験で無意識に浮かれているだけかもしれないが、一度知ってしまうと戻れないと思う。少しずつ、うとうととしてきた。ベッドに入っても一時間は眠れなかったのに、今日はどうしたことだろう。

「…ん……」

 セタが、寝返りを打ってこちらを向いた。リオンはその寝顔を見つめる。なるほど、身近な者の普段以外の様子を見れると言う意味でも、添い寝とはなかなかに良いものだ。

 セタが、口を少し開けた。

「あ……モ、ノ…」

 リオンはその名前に、ピクリと体を動かす。

「レナ……」

 セタは、リオンに手を伸ばした。そのまま、体を抱き寄せて、肩に顔を埋める。

 家族の夢を見ているのだろうか。俺と同じくらいの兄弟が、沢山いたのだろう。セタの腕はどこまでも優しく、良い兄だったのだなと、ぼんやり思った。少し震えたのを見て、どんな夢を見ているのか気になる。

「……モノ………レ……ナ…………」

 最初の二人だけしか聞き取れなかったが、その後も、他の兄弟らの名前をセタは呼び続ける。

 どんな、夢なんだろう。

 リオンは安らかであれと、願いを込めてセタの背中をそっと撫でた。セタの瞼が、震える。

「リ…オン、さま……」

「……なんだ」

 返ってこないと知りながら、リオンは呼びかけた。セタの唇が、ゆるりと開く。

「りおんさまは………そん、な…ムキムキじゃ………ないよ、レナ…………」

「本当に、何の夢だ?」


  十四


 遠くで、発砲音が聞こえた。

 ベッドで眠っていたセタは、それを聞いて急激に意識が覚醒する。

 勢いよく起き上がると、窓の方へ駆けた。食い入るようにガラスの向こう側を見つめる。確かに、遠くの方で硝煙が上がっていた。

 貧民街への襲撃は、まだ終わっていない。

 後ろを振り返ると、二人も起きたようで、セタの隣に小走りでくる。

 リオンが不機嫌そうに昇る黒煙をみる。

「結構なことだ。朝から人殺しとは、兄の兵士はよほど勤勉なのだな」

「ねえ、あれどこから上がってるの?」

 ミラが焦って、食い入るように窓に張り付く。自分たち以外の貧民が、どこかに避難しているはずだ。彼らも助けなくてはいけない。

「…くそ。ここからだと、方向を把握するのが限界だな。セタ、出るぞ」

「はい」

「え、私は?」

 慌ててこちらを見る彼女に、リオンはため息をついた。

「お前、昨日全身を刺されたこと忘れたのか?少しだが、内蔵も傷ついていたんだ。大人しく寝ていた方が良い」

「え、ええ~!でもでも!」

「セタ、やっちまえ」

「はい」

 小声で言うリオンにセタは頷き、ミラの方へ一歩進んだ。ミラの手をそっと握る。ミラは、弟の顔を見てハッとした。

「姉さん…とても心配なんだ。姉さんが苦しそうにするのを、俺は見ていられない…」

 そう言って、セタは弱々しく首を振る。目も心なしか潤んできたセタに、ミラは雷が落ちたような衝撃を受ける。

「俺、心配で心配で堪らないんだ…もし姉さんがついてきて倒れてしまったら、俺はショックで死んでしまうかもしれない…」

「だ、ダメよ!それはいけません!!!残ります、残って療養致します!!!!」

 死んでしまう、と儚げに言うものだから、ミラは考えるより先に口が出た。弟は死なせん。

「残りますよ?!元気に休んでるから死んじゃいけませーーーーん!!!!」

 肩を掴んでブンブンゆする。セタは首をぐらつかせながらぱあっと顔を輝かせた。

「よぅしミラも納得したことだし行くとするか!セタ、ついてこい!」

「はい!」

「へ?」

 あんなに可哀想なくらい落ち込んでいたのに、何事もなかったかのようにセタは駆け出す。あまりの温度差に、ミラは一瞬フリーズする。

「ミラ、寝てるんだぞ~」

 リオンがニヤニヤしてドアの方へ向かっていった。セタも意気揚々と続く。

「……ん?ちょっと待って、私もしかして嵌められた?」

「なんのことだ?」

「え、ちょ、ちょ」

「行ってきます、姉さん!」

「行ってらっしゃい……え?」

 リオンは、手をひらりと振って部屋を去った。ぽかんとしていると、セタが扉の向こうからひょこっと顔だけ覗かせる。

「休んでてね?」

「は、はい……?」

 返事とも呼べない返事を受け取って、弟は満足したように頷くと、今度こそドアを閉じて去ってしまった。

 ポツーンと一人だけ残される。

 ミラは唖然として、ドアを見つめた。

「うえぇ……?」

 しばらく放心状態になったまま、少し部屋をウロウロする。やる気の抜けた顔で、白いベッドを見る。

「……」

 無言でそれを見つめた後、がくんと首を落として脱力した。そしてそのまま、ミラはふわふわの布団にモゾモゾと潜って行ったのだった。


「セタ、傷の調子は?」

「少し痛みますが、我慢できないほどではないです。戦闘に支障はないかと」

「いいだろう。今日も働いて貰うぞ」

「はい!」

 二人は病院を出て、貧民街に続く大通りを駆け抜けていた。道行く通行人が、何事かと少年たちをチラチラ見る。特に、セタは全身包帯だらけなので悪目立ちしていた。

 しかし、それを気にしている場合ではない。まずは貧民街の被害状況を確認しなければならない。避難している人たちが沢山いるはずだ。そこにはセタの知り合いも必ず居るだろう。もう一人も死なせるわけにはいかないのだ。

 セタが走りながら、少し気まずそうに身を縮こませる。

「し、仕方ないけれど、浮いてますね……」

 自分の格好のことを言っているのだろう。ここは貴族や商人たちの住んでいる領域だから、包帯を抜きにしてもセタの粗末な服は目立つ。リオンの服も、昨日の戦闘であちこち破けて、ボロ布のようになっていた。

「気にするな。足が鈍るぞ」

 リオンはそう言って、さらに走る速度を上げた。街中だから、「影」は迂闊に出せない。ミラやセタなどという例外と一緒にいるので忘れそうになるが、これは剣や大砲といった殺し合いの武器と同じである。軽率に乱用すれば、絶対に混乱状態に陥るだろう。生身では遅く感じるが、今は自分の足で走るしかない。

「……いや、しかし…っお前早いな!」

「え?あ、すいません!」

「別に良いんだが!良いんだが……!」

「少し速度を落としますか?」

 セタが気を使ってスピードを緩める。昨日は、言ってしまえば「影」で自身を浮かせて移動していたので、セタの速さに気づかなかった。よく考えると、あれに着いてこれたこいつとかミラってなんなんだ?本当に人間か?それとも自給自足で生活してれば皆こうなるのか?くそ、もうちょっと運動しておけば良かった。

 リオンはぐぬぬと歯を食いしばる。自分の体力のなさが、今は恨めしい。

 不意に、体が持ち上がる。ん?と疑問を感じていると、視線が急に高くなった。これは………

「……おんぶだ」

「はい、多分こっちの方が速いです」

 セタがリオンを背負って、走るのを再開する。体勢は崩れることを知らず、先程と全く遜色ない速さだ。この細い体どこに、そんな力があるというのだろうか。

「ぐぬぬぬぬぬ………」

「拗ねないでください」

「断じて拗ねてない」

「そうなのですね」

 セタはさらりと流すと、走ることに集中しだした。どんどん、加速していく。

 速い。景色が後ろへと水のように流れていく。顔に風が当たって、気持ちがいい。

 人の視線など気にならない。音が消えた世界を思うままに踏みしめているような、そんな感覚だった。二人以外の人間などいないように感じられて、リオンは腹の底が震えてきた。

「なるほど!速い!」

「あ!暴れないでください!」

「行っちまえセタ号!」

「楽しんでます…?」

「割とな!」

 セタの首に腕を回してリオンは体を押し上げる。セタが危ないからと声を上げたが気にしない。強くなった風に、楽しそうに目を細めた。

「あ、危ないですよ…!」

 セタはそう言いつつも、リオンの好きなようにさせる。その変わり、背中の主の足を抱え直してしっかりと固定した。

「飛ばします、落とされないでください…!」

「もっと速くなるのか?……うおっ?!」

 びゅん、という音が聞こえた気がした。リオンは思わず「影」で自分の体を支える。セタは、光のように速く駆けていく。その残像すら肉眼で捉えることは難しく、通行人たちは突如通り過ぎた強い風に、驚いて目を瞬かせた。

「(おいおい、速いのにも程が……?!)」

 リオンは目を開けるのも辛くなり、ただセタにしがみつくことしか出来なかった。何か喋ると舌を噛みそうなので、大人しく黙る。薄目を開けると、セタの髪が白銀に輝くのが見えた。

 うん、人間だけど人間じゃなかったわ。ディオネスだわ。

 突然黙ったリオンに、セタが焦る。

「リオン様?!もしかして足だけ残って後は吹っ飛ばされたんじゃ…!」

「ちゃんと生きてるから!物理的に喋れないだけだから!お前の発想、時々すごく物騒なんだけど!」

「はっ…!すいません、人を背負ったまま本気で走るのは初めてで…!」

「うん、人は乗せるべきじゃないな!」

「え!リオン様は人じゃないんですか?!」

「人です!『影』を操る人間です!!」

「そうなんですか?!ど、どうしましょう下ろしますか????!」

「ええいまだるっこしい!!とにかく俺以外のやつにするんじゃないいいいい!!!」

「分かりましたあ!!!」

 セタは元気に返事をして、さらに風と一体化する。リオンは何故かとても疲れて、ぐったりとその背中に寄りかかった。病院帰りたい。

「リオン様!貧民街に着きました!」

「え、もう?」

 パッと顔を上げると、確かに景色はがらりと変わっていた。レンガ造りの洒落た家々や綺麗に舗装された道路は全くなく、あちこちにゴミが散乱している。崩れかけのあばら家が狭苦しく並び、不衛生な匂いが湧き上がっていた。


「……ここが、お前の住むところか」

 セタの背中から降りて、街の様子を見渡す。

 ぐちゃぐちゃと物が多く、統一感も何もない。ガラクタを積み上げて壁にしている家や、皮の布一枚をかけて屋根にしている家があった。所々にバケツが大量に置いてある。雨水を貯めるためだろうか。

 貴族が捨てたであろう家具が、ゴミ捨て場にあった。いや、彼らにとってはきっとゴミではないのだ。生活するために必要なものを調達するために、あそこから漁って来るのだろう。リオンは目の前の光景を見て、唖然とした。

 そこには、矜恃というものがなかった。

 生きるためには手段など選ばないという、貧民の意地が滲み出ていた。泥臭い執念を感じた。あまりにも生き汚くて、目眩がした。

 しかし、それは決して生理的な嫌悪によるものではなかった。彼らがずっと置かれてきた状況に、再度、事態の緊急性を感じたからだった。

 だって、酷すぎるだろう。

 ここは人間の住むところじゃない。だが、彼らは選択など出来なかったのだ。ここで住むしかなかったのだ。

 人間としての、最低限の誇り。彼らは、それまでも捨てるしかなかった。

 元々、セタから貧民の生活を学んでいた。だから、何回もその様子を聞いてはいた。

 …何回も、聞いただけだった。

「お前、よく生きてたな」

 リオンは目を少し揺らして、つぶやく。セタはその顔を見て、困ったように首を傾けた。

「よく、生きててくれたな……」

 噛み締めるように、リオンは言った。そして、視線を地面に落とした。赤い瞳が暗く翳っていて、セタは心配になる。

 また自分を責めているのだろうか。

 貴方は何も悪くないのだから、気にする必要なんてないのに。もう自分を投げ捨てるような言葉を言って欲しくない。

「リオン様……」

 声をかけると、彼はこちらを見上げた。透き通るような赤に、何を言っていいか分からなくて口ごもる。すると、リオンは少し口を緩めた。

「…もうあんなことは言わない。俺には、お前がついているのだから」

「あ……」

 セタが目を丸くすると、リオンは身を翻した。

「さて、やるべきことをするぞ。セタ、お前の知り合いは何処にいる?」

 リオンのしっかりとした声にはっと我に返ると、セタは背筋を正した。

「一応、貧民街には共同避難所があります。目立たないところにあるので、地形をよく知らない貴族が見つけるのは難しいと思います」

「なら、間に合うかもしれん。生き残っている面子は城に避難させよう。まだ誰も国王が死んだことに気付いていないから、城が抜け殻になっていることなど考えはしまい」

「了解しました。では案内します」

 セタの後に続いて、リオンは足を踏み出した。

 貧民街の通りを、一直線に駆け出す。

「……だから、速いんだって!!!」

「あ、すいません!」


  十五


 また、どこかで爆発が起こった。

 避難所にいる奴らは皆怯えて、冬眠している動物みたいに縮こまる。中には泣き出す子供もいた。すすり泣きが伝播して、誰かの葬式をしているように暗くなる。葬式ができる金なんて、ここにいる奴らは持っていないだろうが。

「や、やだよう…殺されちまう」

「お、おい…泣くなって」

「やだ、死にたくない…オレナ、オレナ…」

「…ったく。泣き虫だねぇ」

 ジルの耳に、二人の女性の会話が入ってくる。両手で顔を覆ってめそめそと泣いているのを、もう一人が困ったように撫でていた。彼女は懸命に友人を励まし続けていたが、ある時にため息をつき、手元の酒を一気にあおる。しかし、アルコールで紅潮した顔に娯楽の感情は見えなかった。こんな状況では、酒に溺れることも許されなかった。

 周りを見ても、項垂れて泣く者ばかりで、ジルは胃の中がぐるぐるとして気持ち悪くなった。

 ああもう辛気くせえ。俺だって怖い。今だって泣いてちびりそうだわ。でも、うじうじしてたら、いざって時に逃げれないだろ。避難所っていっても、こんな粗末な豚箱みたいな所に、何日も大勢で暮らせるわけがないし、どこかで誰かが外に出なきゃ行けないんだ。

 で、その出なきゃいけない生贄みたいな奴が俺たちなんだよ。なんせ、いつもごろつきやってるからな。伊達に嫌われてねーよ。何年も働けずに、か弱い子供や年寄りから金なんて巻き上げてんだ。まあ、報いってやつだよなあ。

 嫌だなあ、早くあいつら、貧民街から出てってくれねえかなあ。突然来て、家を壊しまくってよ、こっちは丸腰なんだよな。ご大層な剣だの槍だの向けて、まるで人殺しを遊びみてえに楽しみやがって。怖いんだよ、すごく怖い。ヘラヘラヘラヘラ笑いやがって、このクソ野郎。

 ……そういえば、あいつら居ねえな。

 ジルは、仲間の一人に声をかけた。

「な、なあ。あいつらは?」

「誰だよあいつらって」

「セタとミラだよ。あと、その兄弟。昨日もいなかったし、何か知らないか?」

「さあ……お前知ってるか?」

 仲間が、向こうで見張りをしていたコーヴスに聞く。しかし、ジルよりも情報通の彼も、首を横に振った。

「俺も、おかしいとは思ってたんだ。あいつら目立つから、見たらすぐ分かるんだけどな」

「じゃ、じゃあ誰も見てないのかよ」

「なんだお前、心配してるのか?」

 まじまじと見つめてくる仲間たちに、言葉に詰まる。

「いや、気になるだろ。だってあいつらがよ、もし、もしだけど、」

 死んでいたら。

 言おうとした言葉を察して、コーヴスたちは顔を曇らせる。そして、気まずそうに目線を逸らした。

「…そうだとしても、何もできねえだろ」

「……」

 当たり前だ。神でもなければ、死人を生き返らせるなんて無理だろう。あいつらが奇跡的に生きていたとしても、相手は凶器を持っているんだ。セタがいくら強くたって、素手じゃ限界がある。ましてや、俺たちは抵抗も出来ずに殺されてしまうだろう。他人のことを考えている余裕など、本当はないのだ。

 ……でもあいつ、殴り込みに来る時はすげえ怖いけど、俺の心配とか、してくれたんだ。

 黙ったジルに、コーヴスが耐えきれなくて舌打ちをした。

「おっまえ、全然らしくねえぞ?要らなくなよなよしてさあ、名前だけじゃなくて心まで女になったんじゃねえのか?ジルちゃんよお!」

「はあ~!?名前は母ちゃんに文句言えやあ!!表出ろコノヤロウ!」

 ジルはくわっと目を向いて親友に掴みかかる。周りの野次馬がやんやとやんやと騒ぎ立てた。女どもは向こうでドン引きして見ている。勝手にしやがれ、男には譲れない時があるんだよ!

 しかし、殴ったり蹴ったりしてボカスカ喧嘩していると、急に見張りの一人が声を荒らげた。

「静かに!足音が聞こえる!」

 辺りはたちまち水を打ったように静まり返った。俺たちは拳を握った状態のまま、ぴたりと止まって息を潜める。

 足音が聞こえて来た。ガシャン、と金属音が聞こえてゾッとする。逃げる時散々聞いた。あれは、兵士の鎧が擦れる音だ。

「ひっ……」

 知らない女が、顔を青くしてぶるぶると震え出した。おい、悲鳴は上げるなよ。見つかっちまうだろうが。

「隊長。こちらも見つかりません」

「そうか…?全く、何処に隠れているのか」

 兵士の会話に、固唾を飲んで耳を澄ます。お願いだ、こっちへ来るな、来るな……。

「…仕方がない。あちらの方を探そう」

「了解しました」

 仲間と顔を見合わせる。ひとまず助かった。ほっとして、ジルは体勢を崩した。

 その時、隊長と思われる男が声を発した。

「うん…?この柵…不自然な位置にあるな。動かせ」

「?…はい、これですか?」

「「!」」

 虫のように丸まっていた俺たちは、全員仲良く青ざめる。

 まずい。不味い不味い不味い!!!

 そこは、避難所の入り口だ。そこを通られたら、すぐにこの狭い部屋に気付かれちまう。そしたら全員終わりだ。逃げ道もねえ、抵抗する道具もねえ、殺されるだけだ。

「……ねえ」

 焦って口を噛んでいると、背後の女に声をかけられる。苛立ってそちらを向いて、ジルはその女の様子に息を飲んだ。

 彼女は青い顔をしながらも、血走っためでこちらを睨みつけていた。憎悪すら含んでいるそれに、思わずたじろぐ。

「あなた、何とかしてきてよ」

「…は?何とかって、なんだよ……?」

「出来るでしょ、体を張るのよ。ごろつきなんて、こういう時にしか役に立たないでしょ?」

「おい、ふざけんなよ……!」

 理不尽な言い分に、つい声を荒くする。女は怯まず、ジルに詰め寄る。

「あんたたちが囮になる間に、私たちは何とかして逃げるわ。あんたたちは死ぬけど大勢の人が助かるのよ!」

「誰が好き好んで死にに行くんだよ!」

「まさか、自分たちも生き延びようとしてるの?あんたたち、いつも人に生かしてもらってるくせに、ただの害虫のくせに、いざとなったら自分たちも逃げようですって?!」

「そうだよ!俺は死にたくねえんだ!死なないために生きてるんだ!」

「私だってそうよ!死にたくない!死にたくないから、あんたが死んでよ!!!」

 ジルは頭が痛くなった。こんな終わりのない言い合いをしている時じゃないのに、目の前の女はしつこく食い付いてくる。ジルもカッとなって相手にしてしまった。

 だから、自分たちが思っている以上に声が出ていたことに気付かなかった。

「……今、声がしたな」

「!」

 目の前の女が泣きそうな顔をした。

「ああ、ああ…!どうしよう、死にたくない死にたくない!」

 手で頭を抱えてしゃがみこんでしまう。

「おい、立て…っ逃げれないだろ!」

「逃げれない……怖い……!」

 ジルはぐ、と奥歯をかみしめる。

 …そう、怖いんだ。誰もが。

 死が近付いてくる。怖くて怖くてたまらない。

 なあ、お前。お前はなんでそんなに勇敢に立ち向かえるんだよ。奴隷商人からも、体の大きな俺たちに対してだって、なんで突っ込んでいけるんだよ。

 分かんねえよ。

 教えてくれ、俺はどうすればいいんだ。

 なあ、セタ……っ

 無情にも、ドアは開かれた。外界から強い光が差し込み、目を細める。複数の兵士たちの姿が見えた。ああ、ああ、来ちまう。

 鎧を騒がしく鳴らして、奴らが入ってくる。全員部屋の隅に後退して、恐怖に震えていた。生まれたての小鹿のように震える俺たちを、兵士が追い込むようにして取り囲む。

 すぐには殺されなかった。奴らは、隊長の指示を待っているようだった。武器を見せびらかすように、俺たちの眼前にチラつかせる。

 奴らが笑う。悪魔たちが、笑い出す。

「…なあんだ、ここに隠れてたのか」

「狭苦しいところだ。貧民にお似合いだな」

「次はどうやってやる?」

「…ああそういえば、昨日子供の首を持ってきた奴がいたな」

「あれか?槍に突き刺してぶん投げてたな。そんなに面白いのか?」

「はっ知らん。暇つぶしだろう」

「「ははははは!」」

 ジルは、目の前で下品に笑う兵士を信じられないように見つめる。これが、自分と同じ人間なのだろうか。こんな奴らに、殺されなければいけないのだろうか?

「隊長、まだですか?」

「まあ待て。すぐ楽しくなるからな」

 隊長、と呼ばれた男は身を竦めて固まる女たちに目線をやる。品定めする様なそれに、彼女たちは絶望の表情を見せた。ジルも、いやでも察してしまう。

 強姦する気か。

 自分の拳を、握りしめた。気に入らない奴だっているけれど、女たちが理不尽に犯される光景など、見たくなかった。

 だが、抵抗する勇気もなかった。

 怖い。

 あの光る剣が、恐ろしい。

 それを見ただけで、体は動かなくなった。自分の情けなさと押し寄せる恐怖に挟まれて、苦しかった。

「……よし、決めた。あの女からだ」

 そう言って男が指を指したのは、先ほどジルと言い合った女だった。女は息をはくはくと浅くして、さらに顔を青くした。大きく開かれた目から、壊れたように涙が溢れ出す。

 男が、こちらに近付いてくる。周りの兵士たちはこれから始まる見世物を、期待した目で見ていた。ニヤニヤと笑う口が憎たらしい。本当に、俺達のことを人間だと思っていないのだ。

「やだ……やだ……っ」

 哀れにも標的となった女は、腰を抜かして後ずさる。男はその表情さえも楽しんでいるようで、ゆっくりと歩いて逃げ場をなくす。

「た、助け……っ」

 女が後ろを振り向いて救いを求める。

 が、誰一人として応えるものはいない。

「あ、あ……」

 ボロボロ、涙が零れていく。男が笑って女の腕を掴み、床に引き倒した。周りの兵士たちが歓声をあげる。

 その顔を絶望で染めた女は、ゆらゆらと視線を漂わせた。口から、いや、と言う吐息が何回も落ちていく。逃げようともがいて、顔を上に仰け反らせた。

 その時、目が合った。

 懇願する瞳を見たら、もう堪えきれなかった。ジルは、考えるより先に体が動いていた。

 女を押し倒す男の顔を、思いっきり蹴る。そして体ごと突き当たって、女から引き剥がした。有り得ない事態に、兵士たちが騒然となる。

 貧民が、貴族に抵抗した。

「無礼者!!!」

 兵士たちが武器を構えて、ジルの喉元に突きつける。鋭利な武器の先端が喉元に当たり、はじめてジルは自分のしでかしたことを悟った。

「隊長!指示を!」

「……!」

 兵士の一人がそう言ったと思ったら、頬に衝撃を受けた。ジルはぐらりと世界が反転して、地面に倒れ込む。口に違和感を感じて咳き込むと、歯が一本出てきた。少なくない血が、口から溢れ出す。

 顔を上げると、ジルが殴った男が、怒りで顔を引き攣らせて目の前に立っていた。

「身の程知らずの奴隷め、お前はこの私が、全身切り刻んで、嬲り殺してやる!」

 男は、剣を振り上げる。

 ジルは身を丸めて、強く目を瞑った。

「ジルさん!」

 …ガキン、と固い音が部屋に響いた。頭上から降ってきた少年の声に、ジルはハッとして目を開ける。

 白銀の少年が、兵士の剣を受け止めていた。男は唖然として、急に現れた子供を見つめる。その力が弱まったのを見逃さず、少年は気合いの声と共に男を突き飛ばした。

 後ろによろめいた男が、困惑の声を上げた。

「な、なんだこいつは……?!」

 ジルはぽかんとして少年を見つめる。白銀に輝く髪。そして、手に構えられた、本物の剣。

 それは、知っている姿とはかけ離れていた。だが、そうとしか考えられなかった。

「セタ、なのか……?」

 少年が振り返る。そして、ほっとしたように笑った。

「良かった。間に合ったみたいだ」

「セ…タ……」

 ああ、セタだ。こいつはセタだ。だって、こんなに優しく笑う奴、一人しか知らない。

「セ、セタぁ~~」

 ぶわ、と我慢していた涙が溢れてきた。そのままセタの足にすがりついてわんわん泣き出す。今度はセタがぽかんとしてそれを見つめた。

「お前遅いんだよ~~どこ行ってたんだよ~心配して損したわあ~!」

「ご、ごめんジルさん…」

「謝って解決するなら国王なんて要らねえんだよ!うわーーん!!!」

 ジルはおいおい泣いてセタに抱きついた。セタがオロオロしてそれを受け止める。

 と、急に彼らの再会は妨げられた。何か黒い物体が二人の間に入り込み、ジルは後方に吹っ飛ばされる。

「いってえ?!」

 頭を擦りながらばっと起き上がると、目の前にはセタ以外に、小さな少年が一人居た。何故か不機嫌そうにしている。

「……近い。離れろ」

 いや、そういう前に離してきただろ。なんか、俺にだけ当たりがキツかったし。

 ジルは言いたいことをぐっと堪えて、少年の姿を見つめた。

 黒の短髪に、血のように赤い目。顔は白くて、無駄に整っているせいで人形みたいだ。所々切れてはいるが、上質なブラウスと半ズボンを履いて、靴下をガーターベルトで固定していた。明らかに、貧民ではない。

 さらに異様なのは、その少年の周りに蠢いている黒い「影」の存在だった。それが流動する度に、ザワザワと人間の声が重なり合ったような雑音が聞こえてくる。ジルは、どことなく不安を拭えず、落ち着かないように腕を組んだ。

 誰だ、と聞こうとした時、今まで黙っていた男が声を荒らげた。

「き、貴様ら何者だ!私たちを第一王子の使いだと知っての行動か?!」

 切っ先をジルたちに向けて、脅してくる。黒髪の少年はぴくりと眉を動かすと、そちらをゆっくりと振り向いた。

「…頼りない足腰だな。まるで『兄』のようじゃないか。やはり臣下とは、主に似るのか?」

「は?兄だと……」

「……リオン様、指示を」

 セタが腰を低くして、剣を上段に構えた。合図があればいつでも男の首を掻き切れるだろう。その一分の隙もない型に、只者ではない気配を感じて男は身じろぐ。ジルは、リオンと呼ばれた少年の方を見た。

 殺すのだろうか。

 リオンは、じっと兵士たちを見て、何か思案しているようだった。ジルはゴクリと唾を飲んで、彼の決定を待つ。今、初めて出会ったが、ジルはこの少年には逆らってはいけないような気がしていた。何となく威圧感があって、こんなに小さいのに、存在が大きく感じるのだ。

 しかし、彼が決めることは正しい気がした。正しい、と言うのは曖昧な表現だけれど、とにかく、彼について行けば大丈夫な気がしたのだ。何も知らない子供に安心感や頼もしさを抱くのは不思議だったが、ジルの直感が、この子供なのだと叫んでいた。

 リオンは顔をあげて、采配を下す。

「…いや、殺さなくていい。兄のもとに返してやろう」

「……良いのですか?」

 セタの疑問に、リオンは頷いた。

「ここには一般人もいるしな。そして…」

「……!?ひっ……」

 リオンの背後から黒い蛇が現れ、瞬時に男の体を拘束した。蛇は胴体をきつく締め上げ、男が宙浮き上がる。足が頼りなく空をかき、暴れることによってさらに締め付けが酷くなる。

「お使いをしてもらわねばな?」

 そう言って、リオンは男に向かって歩みを進める。男は拘束から逃れようともがいていたが、リオンの赤い瞳に睨めつけられると、怯えて顔から血の気をなくした。

「ば、ばけもの!来るな、来るなあ!……おい、お前ら何してる!早く助けろ!」

 喚いて部下の方を見るが、その声に応えるものは居なかった。誰もがリオンの姿を恐れ、武器を下ろしている。

 リオンが形の良い唇を吊り上げた。笑っているのに、笑っていない。人間味の一切ないその表情が近付いてくるのを、本能が拒絶する。

「どうしたんだ?先ほどまで笑っていただろう。助けを求める人間を見て、楽しそうに嘲笑っていただろう。…はは、そんなに震えて、可哀想になあ?」

 耳元で、蛇が口を開ける気配がした。シュル、と言う嫌な音がする。

「…そいつは、お前の首が気になるようだな」

 リオンは良いことを思い付いたかのように笑って目を細めた。善悪を知らないような、無垢で無邪気な顔に、背筋が凍る。

「……噛ませてみようか?」

 さも面白そうに、呟いた。

「ひっやめ、やめてください!殺さないでください!お願いです!」

 殺される。目の前の子供はなんの躊躇もなく殺しにくる。きっとアリを踏み潰すのと同じように、自分のことも殺しにくる。

「お願いです!お願いです!」

「……煩いな」

「殺さないで、ころさ、ぐあっ」

 ダンッ、と大きく背中を打ち付けられる。背骨が軋んで悲鳴を上げたが、それに構わず少年が自分の体を踏みつけ、顔を近付けた。

 少年は瞳孔を開き、低く唸るように言う。

「ならば、即刻ここから立ち去るがいい。無様に逃げて、そこの腰抜け共と仲良く、兵隊ごっこでもしているんだな」

「あ、あ……」

「なんとも傑作な顔だな。それだけ良い顔ができるのなら、我からの使いも完璧にこなしてくれるだろう」

「なに……」

 リオンはにんまりと笑った。ギラついた瞳が、心臓を抉りとるように突き刺してくる。

「兄に伝えよ。国王は我が殺した。この、第八王子たるリオン=イクオム=エテルニタスが、あの老いぼれめに引導を引き渡してやったと、そう言え」

 ジルは、大きく目を見開いた。

 この少年は、今なんと言ったのだ。

 国王を、殺した?

 こんな小さな子供が?

 信じられなくて、セタの方を凝視する。

 セタは視線に気づくと、無言で目を合わせてきた。それは、肯定の意だった。

 そんなことが、有り得るのか?

 いや待て、確かに信じられないことだが、セタがこの少年と一緒にここへ来たということは、その光景を見ていたというのか?

「セタ、お前……」

 呼びかけても、少年は返答しなかった。腰に剣を携えて、リオンの行動をただ見守っていた。ジルは、セタが遠くの存在になった気がして、胸にぽっかりと穴が空いた。

「ひ、ひえぇぇぇぇ!」

 裏返った声に、意識が戻される。リオンの方に視線を戻すと、隊長の男と部下たちが、命からがら逃げ出すところだった。部屋に入ってきた時はあんなに怖かったのに、今では哀れに感じるほど情けなかった。

 リオンが、こちらを振り返る。先ほどまで纏わせていた、緊張感のある雰囲気はなかった。体を押さえ付けるような重圧感が消えて、ジルは無意識に張り詰めていた息を吐いた。

「これから忙しくなるな。早めに全員片付けねばなるまい。セタ、一層働いてもらうぞ」

「はい、リオン様」

 その返事にリオンは目元を緩め、それからジルを見た。何となくジルは姿勢を正す。

「お前が時間稼ぎしてくれたから間に合った。礼を言う」

「へ?」

「ほら、ジルさん、あの人のこと一回殴っただろ?あれがなかったら、色んなことが手遅れだったかもしれないんだ」

 セタが補足するように言葉を付け足す。礼を言われたことがないジルはしばらく固まって、リオンの発言を咀嚼していた。そして、カッと目を見開く。

「うええええええ!!!!!????」

「わ、うるさい」

 リオンは両耳に素早く手を当てる。高すぎて馬の嘶きみたいな叫びだった。

 ジルが、両手を上下に動かして慌てる。

「だ、だって俺何もしてねーよぉ……?その後すぐボコボコにされたし…」

「そ、そんなことない!」

 後ろから声がした。三人が振り返ると、先ほど男に襲われていた女性が震えながらも、ジルの袖を掴んでいた。俯いて、ボソボソと喋る。

「さっきはごめんなさい、あんな事言って…怖くて、何も考えられなくて……」

 そこで、彼女は顔を上げて、眉を下げながら、笑顔で言った。

「ありがとう…助けてくれて」

 ヒュー!とどこかで口笛が鳴った。コーヴス辺りがふざけて吹いたのかもしれない。ムカつく奴だ。

 ジルは、一旦外野の声を隅に置き、彼女の言葉を聞いて少し首を傾げた。そして、ビタッ、と固まる。目は真剣に前を見つめているのだが、どこを見ているか分からない。

 リオンがジルを覗き込んでギョッとする。

「おい、こいつどうしたんだ。死んでるぞ」

「恐らく、人生ではじめて謝罪されたり謝られたりしたから、気持ちが追いつかなくなったのかと…」

 セタが真面目に説明する。

「そんなに…?」

「本当に、初めてだったのでしょうね…。ジルさん…いい人だったのに」

 残念そうにセタが俯く。その肩を、ガシッと掴むジル。

「死んでねえから?!」

「あ!ジルさんおかえり」

「ったく、勝手に殺すなよなあ」

 ジルはまだ照れくさそうに頭をかいて、話題を無理やり変える。

「ところでセタ、さっきから気になってるんだが、こいつ誰だよ?」

 セタは目をぱちくりさせた。

「あれ?さっき言ってなかったっけ?」

「え、ええと、なんか色々あり過ぎて、覚えてねえ……」

「そうか、なら改めて自己紹介だな」

 リオンがそう言って、ジルに向き直る。

「俺の名前はリオン。この国の第八王子だ。よろしくな」

「……ん?」

 ジルは見かけない単語を聞いて、反応に遅れる。セタを見ると、どうしたの?とでも言うようににっこり笑われた。

「……ん?」

 もう一回リオンを見る。リオンはどうしたんだ?とでも言うように真顔でこちらを見返す。

 最後に、後ろの女性と顔を見合わせる。彼女も魂の抜けたような表情で、しばらくお互いの間抜けな顔を眺めていた。

 そして。

「「うええええええ!!!!!????」」

 二人で、大きな悲鳴を上げた。

「お前ら、仲良いな」

「貧民街の人たちは、皆仲良しです」

 後ろでのほほんとした会話が聞こえるが、それを気にしている余裕はジルになかった。

 彼は光の速さで手を地面につき、頭を擦り付ける。リオンは少し驚き、ジルを見下ろす。

「すすすすみませんでしたーーーーー!」

「え、いや別に」

「やばい、王族に会った時ってこの対応で良いんだっけ?どうだったっけ?!」

「た、確か十秒土下座した後に靴を舐めればいいんじゃなかった?!」

 女性が慌ててジルに助言する。そこで、同じく動揺した様子のコーヴスが遠くから叫んだ。

「それであってるぜ!でもその後靴を舐めた罪で殺されるんじゃなかったか?」

「うえええじゃあ舐めなきゃ良いのか?!」

「いいえ!舐めなくても敬意が足りないとかで殺されるって母さんが言ってたわ!!!」

「うええええええ!!??」

「いや、おまえら……」

「ぎゃあああ何でしょう何でもするから殺すのだけは勘弁をーーーー!?」

 ジルは地面にビッタンビッタン頭を打ち付けて謝罪する。リオンは、過剰なそれにドン引きして、セタの背中にすす、と後ずさった。貧民街に染み付いてる偏見は怖い。

 ジルがばっと顔を上げると、目の前にはセタしか居なかった。

「あれ?セタかよ。さっきの方は?」

 何か喋る前に、リオンがセタの腕をガシッと掴み、目で強く訴える。

 セタは何かに気付いたようにハッとすると、ジルに向き直った。リオンが一回咳払いして、低い声で喋り出す。

「たった今、我はセタに乗り移ったぞ」

「な、なんだってー?!」

 リオンの声に合わせて、セタは適当に口をパクパクさせる。ジルが目をむき出して、驚きの声を上げた。

「驚いたか。そうだろう。だって我は王族だからね」

「すげえ…!そんなこともできるのか!」

「そうだよ」

「すげえーー!……あ、あれ?じゃあ今、セタはどうなってるんだ?大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫大丈夫。元気だ」

 ほら、と急に振られたセタは一瞬戸惑い、とりあえずジルに向かって両手を何回もふる。

「そうか、良かったあ…なんでいきなり消えちゃったんだ?」

「うん、我が前に来ると君たち緊張してしまうだろう。セタに乗り移ってみたよ。これなら見た目はセタだよな?」

「確かに……」

「何かを話す時はセタに乗り移るから、よろしく頼む。何でも相談するが良い」

「そっかー!あんた良い奴だな!」

 ジルはセタに向かって目をキラキラさせる。童心に返ったようなその笑顔を見て、セタは遠い目をした。ジルさん、それはちょっと、純粋すぎる。

「さて、これからのことだが」

 いきなり喋り出したリオンに、ぼんやりしてたセタは慌てて口をパクパクする。

「お前たちは、城に避難してくれないか?怖い兵士などは全然いないから、好きに使ってくれ。ここより広いし、襲われないし」

 リオン、もといセタの話に、ジルは驚いた顔をする。

「城?国王様が住んでるお城か?」

「そうそう、国王は我がパーンと倒したからね、安心して避難してね」

「ほ、本当に安全なのか?」

「そこは、我とセタが守るから」

「あ、そうか。セタがいるから大丈夫かあ」

「……いや、俺はそんなに強くないよ?」

「ん?」

 急に自我を持ったセタに、彼はきょとんとした顔をする。リオンが誤魔化すようにして、無理やり話を戻した。

「あー空耳空耳。とにかく、皆と一緒に早く動いてくれ。まとめ役をお願いしても良いか?」

「お、俺…?!……いいぜ!やってやんよ!!」

 ジルは胸をどんと叩いて、威勢よく返事をした。人に頼られるという経験がなかった彼は、意気揚々として他の人達に向き直る。

「よっしゃーお前らついてきな!!ジル様が先導してやるよ!」

「ええ~ジルが?」

「不安だな……」

「うっせー!!!」

 ジルの大声に、どっと皆が笑い出す。

 死の恐怖から解放され、人々の雰囲気はいつもの和気藹々としたものに戻りつつあった。リオンはセタの背中から隠れたまま、こっそりと囁いた。

「ジルたちを避難させたら、兄たちを暗殺しに行く。体力をとっておけ」

「はい…リオン様。あ、あの…俺に乗り移っているという設定は、いつまで…?」

「…どうしようね」

「……あ、あはは」

 リオンらしくもなく、後先を考えずに実行していたらしい。意外な一面を見てしまって、セタは破顔した。

「…とにかく、ここを出るぞ。大人数での移動は目立つから、迅速に動かねばならない。俺の指示は、お前が橋渡しをしてくれ」

「分かりました」

 リオンはその返事を聞くと、セタの背中に寄りかかって一息ついた。顎に手を添えて、これからのことを考える。

 ジルたちの他にも、避難している民はたくさんいるだろうが、逐一助けていればキリが無い。それよりも、民を襲う兵士を退散させた方がいい。ならば、本陣を叩くしかない。最優先に殺さなければいけないのは、第一王子だろう。その後順番に殺す。王子を全員片付ければ、ひとまず自分が王になれる。単純ではあるが、一番早く即位できるだろう。残党処理は、それからでも遅くはない。権力に頼りきりの腐敗した貴族や僧侶たちの始末もある。やるべきことの半分にも到達していないのだ。

 リオンは、背中越しの体温に意識を集中させる。標準よりも細い体だ。骨が出ていて、心配になる。毎日良いものを食べてきた自分とは全然違う。

 でも、今の自分にとっては、これ以上に頼りになる背中などなかった。

「セタ」

 リオンは頭上に向かって声をかける。相手の視線を感じ取りながら、言葉を続ける。

「最後まで、見ててくれ」

 そう言った彼の表情は、残念ながら背中越しにいるために見えなかったけれど、きっと覚悟を決めたような、強い眼差しをしているのだということは容易に想像できた。

 セタは少し微笑んだ。

「……はい、どこまでも、お供致します」


  十六


 初代国王リオンが起こした反乱に関する情報は、あまりにも少ない。後に、国王リオンと騎士長セタの人生を綴った「ルチャート神話」原本が発見された時も、不自然なほどにこれに関することは言及されていなかった。しかし、城の書庫の最奥部に残っていた軍事記録には、彼らの戦いがざっくばらんに記されている。それは、小説よりも奇妙な展開であり、全く再現性のあるものではなかった。齢十歳の主導者と、十四歳の新人騎士。そして、有象無象に過ぎなかった貧民たちが、わずか十日間でこの大反乱に終止符を打つなど、誰もが夢物語だと思っただろう。


 一日目。国王暗殺。

 二日目。第一王子暗殺。

 三日目。第三、第四王子との睨み合い。既に城を占拠していた反乱軍側がやや優勢を保っていたらしい。

 四日目。第三王子暗殺。第四王子と武力衝突をしたが、約一時間ほどで、新人騎士のセタが敵将の首を獲って帰ってきた。

 五日目。第二王子との最終決戦の準備をするべく、貧民たちが集結して武装する。貴族側も、この反乱を鎮圧するべく兵士を召集したが、統率が全く取れなかった。

 六日目。最終決戦の準備期間の最中、潜伏していた第五王子を発見。これは、当時の第八王子リオンによって即暗殺されたという。

 七日目。潜伏している王子の捜索が進んでいたが、第六王子と第七王子は、既に死亡していることが発覚した。よって、残る王位継承者は、第二王子と王子リオンのみだということが、ここで明確になる。

 八日目。ついに、第二王子側の勢力と衝突する。情勢は終始拮抗していたが、互いに戦死者が続出した。ここで、はじめて貧民という人口の多さと、その脅威が白日の元に晒された。また、新人騎士のセタだけではなく、既に何人かの貧民は頭角を表し、仲間を指揮する様子が見られたという。

 九日目。王子リオンが自ら最前線に立ち、昇竜の勢いで第二王子の布陣を突破する。最後は、王子たち本人が真正面から戦い、王子リオンが引導を渡した。こうして、王位継承権は彼のものになった。

 十日目。残党兵の一掃が主な内容である。降伏して王子リオンに従う意思を見せた者は保護し、反抗の意思を見せる者は、老若男女問わず排除された。あらかた始末すると、王子リオンは教会へ赴き、大司教に謁見を申し出た。大司教は王位継承権のことや、王子リオンの君主としての威厳を認め、新国王になることを推薦。ルチャート史実最大の反乱は、このようにして終結した。


「…馬鹿な。どうやって…!」

 そこには、自分とよく似た顔の兄がいた。顔を見るのは初めてであったが、確かに血の繋がりを感じた。年は三十代後半。濡羽色の髪に、赤い瞳。詰襟の豪奢な服に身を包み、やたらと芸術的な造形の剣の柄を握っていた。

 兄が驚くのも無理はない。彼は、王家にしては地味すぎる、皮のテントが貼られた森の陣地に潜伏していた。これまでの兄弟は、最後まで虚栄心を捨てられず、見た目だけは豪華な屋敷などを本拠地としていた。リオンはその違いに気付き、満足げに口角を上げた。

「そうですね。セタが進言しなければ、私も兄上がここにいるなんて思わなかった。最後に残ったのが貴方で良かった。…こんなに馬鹿な奴らが王家の一員なのかと、絶望していたところでしたので」

 そこで、リオンの背後にかかっていた天幕が破られ、武装した貧民が乗り込んできた。

「さぁさぁ、観念しなあ!」

「コーヴス、調子に乗らない!集中しなさい!」

 派手な金髪の少女と、全身火傷だらけの男が喚きながら先陣を切る。しかし、そのやかましさの割に、陽動を意識した動きは無駄がなく、視界に否応なしにちらつく。

「ジル!そこの空間、がら空きだぞ!もっと詰めな!」

「お、おう!お前も酒飲むなよオレナ!」

 気付けば、後ろにも伏兵が紛れ込んでいた。どうやって音もなく移動してきたのか、予想以上の人数が、木々の隙間から顔を出し、武器を構えていた。

「…全員、そのまま。無理に出ようとしなくて良い」

 静かな少年の声がした。前を振り向くと、リオンの隣に、白銀の騎士がいた。剣を構え、こちらの間合いを測りながら、上手く動きを牽制している。一か八かの特攻を仕掛けることも、彼の前では不可能な気がした。

 寄せ集めの人間にしては、妙に息の合った連携で、脱出経路が巧妙に塞がれた。第二王子の側で武器を構えていた臣下たちが、驚愕に目を見開く。

「…いつ、どこで教育していた?読み書きもできないような奴らだろうに」

 兄の問いかけに、リオンは肩を竦めた。

「いいえ。これに関しては私の力ではありません。ただ、貧民たちの方が、貴方たちよりも、戦がなんたるかを知っていたのです」

「そのようなはずは…」

「想像してみてください。奴隷商人に追われ、貴族の目を盗み、潜伏する日々を。身を隠す術はもちろん、追い詰められた人間がどこへ逃げようと思うか、彼らは感覚的に分かっているのです」

「……」

「極限下において、食糧をどう確保すれば良いのか?強い敵をどう捌けば良いのか?誰と、いつ、どこで協力すれば生存確率が上がるのか?いつも、そのようなことに思考を回している。『極限下』とは、彼らの日常です。毎日戦場にいる人間が、貴方たちのように安全な場所しか知らない者に遅れをとると思いますか?」

 自分と同じ瞳を持つ彼は、険しい顔でこちらを睨め付けていた。しかし、合点がいったのか、無念そうに瞼を閉じる。リオンはそれを見て、あのような父でも見る目はあったのだと、評価を改めた。複数人いた兄の中で、彼だけが、自らの行いを反省するような殊勝な態度が見受けられた。

「…なるほど。てっきり、そこにいるディオネスの力だけで何とかしてきたのだと思っていたが。真に警戒するべきは、有象無象と侮った凡人たちであったか」

 ディオネス、と呼ばれて、後ろで控えていたセタが少し身じろぐ気配がする。いい加減慣れてしまえ、と言いたかったのだが、彼の気持ちも理解できた。ここ数日間は、王家の者と遭遇する度に、その名前を言われたのである。自分の一族どころか、苗字という概念も薄い貧民街で生きてきたのに、急に「白銀の獣」扱いをされても困るだろう。

「…兄上、いかがされますか。降伏なさいますか?」

 静かに問いかけたリオンに、彼はゆっくりと顔を上げた。

「…まさか。父上が見限ったお前に下る不名誉など、死んでも願い下げだ。ここで殺す」

「気が合いますね、兄上。私も、あんな父親に媚を売る貴方は嫌いですよ」

「ああ、そうか…。お前は、ああなる前の父を知らぬか」

 彼は、少し眉を下げて明後日の方へ視線をずらした。何を追慕し、目に影を落とす兄は、リオンに新たな感情を芽生えさせた。

「…知りたくもないですね。あれは、擁護のしようもない大罪人だ」

「お前はそれで良いだろう。そして、何も知らず、新しい罪を重ねていけ。…『影』を使えるのだろう?」

 うっそりとして笑った兄の言わんとすることは、リオンにも理解できた。父親は、「影」を扱えるが故に、「影」に支配されて狂ってしまった。先祖代々、暴君が生まれてきたと言われるエテルニタス王家。その裏側には、いつも悪魔の如き神の力があった。

「影」を使役できるという時点で、リオンの未来は決定している。いずれ、人間の手に余る大きな力によって彼の自我は崩壊し、最も忌むべき怪物と成り果てるだろう。そうして、歴史は繰り返すのだ。

「私から見れば、お前はとうに狂っているとも。これほどまでの大虐殺は、父上ですらしなかった。本当に、お前のしていることは正義であると?」

 リオンは、これまでの数日間を顧みる。

 国王を暗殺し、自分以外の王子を殺してまわった。立ち塞がる者には慈悲をかけず、その息の根を止めた。敵勢力である王家の親戚や兵士を殲滅するように味方に指示を出して、この国は何千人もの血を大地に流すことになった。

 それは確かに、虐殺に近いものだった。国内の人間全てを巻き込み、戦を嫌う者も、平和を望む者も、表舞台に引き摺り出した。広大な視点で見れば、父親よりも、兄弟たちよりも、リオンこそが悪魔であった。

「認めましょう。私はきっと、狂っている。兄上の方が理性的だ。無難に、権力争いで勝とうとした。貧民を利用して、貴方たちからすれば最小限の犠牲で、利益を得ようとした」

 少年は、「影」を展開した。辺りの色彩が急激に失われ、敵の精神を恐怖で蝕む。覚悟なき者から、順番に剣を落としてうずくまる。黒い支配者は、一歩一歩、第二王子の元へ近付いていった。

 父を超える濃度のそれに、彼は瞠目する。その小さな体のどこに隠していたのか、皆目見当もつかなかった。

「…しかし。私は、どうせ狂うなら、何に狂うのかだけ自分で決めたかった」

「それが貧民だと…っ?正気か?富も、力も、知恵もない。肩入れをしたところで、自分に利益が還元される保証はどこにもない、ただの…」

「はい。それが、私と貴方たちの違いです。兄上の言葉をお借りするならば、私は…」

 リオンは、理知的な顔立ちを少し緩めて、微笑んだ。

「私は、最初に。一生をかけても返せないほどの利益を、彼らから得ていたのです」

 化け物とはかけ離れた人間らしい表情に、彼が固まる。その隙を逃さず、リオンは黒い蛇を生成した。セタをはじめとする貧民が固唾を飲んで見守る中、第二王子は首の肉を噛みちぎられ、地に倒れた。


  十七


 ついに第二王子も死んでしまったと分かった貴族たちは、面白いほどに躍起になって、領地内の親衛隊や傭兵を向かわせた。もはや、リオンの他に取り入る王族などまともに残っていないのに、彼の即位を断固として認めなかった。

 しかし、城を本拠地にしているリオンたちにとっては、たとえ兵団が相手であっても敵とはならなかった。罠を張り巡らせることを得意とするミラの指示に従い、貧民街の住民は一致団結し、全員でそれらを退散させた。

 罠を掻い潜って侵入してきた猛者も、セタの敵ではなかった。全て、イーサンの足元にも及ばない実力だった。

 貴族たちの間には、たちまち混乱が訪れた。なんせ、今まで聞いたこともないような名前の子供が王子を名乗り、国王を殺して、反乱を起こしたのである。さらに、その王子は国に住む貧民をことごとく味方につけて、城を本拠地にしてしまっているのだ。

 それは、権力者にとって恐ろしい事実であった。

 貧民一人ならば大したことなどないが、貴族たちにも完全に把握出来ていないような、おびただしい数の民を相手にするならば、これ以上にない脅威となり得る。それも、国王を殺すことができる力を持つリオンが、主導者となって彼らを率いているならば、いつ自分たちが殺されるかも分かったものではない。

 ほとんどの貴族たちは、情勢の悪さを理解すると、すぐさまリオンに降伏した。彼は、素直に服従する者は許し、それ以外にはとことん容赦をしなかった。旧王家を支持するものは、その後も殺して、殺して、殺し尽くした。

 どこまでも強硬な態度に出るリオンに対して、分が悪いと悟っていても反発してくる者がいた。しかし、どんな強い戦士も、彼を捕らえることなく散った。

 唯一生き残った兵士が貴族の元へと逃げ帰り、震えながらこう告げた。

「黒い悪魔の下には、白銀の化け物がいる。そいつがいる限り、絶対に勝てない!」

 声の限りに叫び、直後に兵士は自身を未だに苛む恐怖に捕らわれ、死んでしまった。彼の壮絶な死を目の前で見た生き残りの貴族たちは、ついに抵抗を諦め、リオンに全面降伏をしたのであった。








 第四章「誕生」



  一



 リオンは、全ての貴族が自分の配下に下ったことを確認すると、国で一番大きな教会へ赴き、そこの大司教と面会する。そして、即位式で自分に冠を与えるように命じた。大司教は、生前の国王とは色んな意味で深い関係であったため、最後まで何かと理由をつけて渋っていた。しかし、「影」を出して少し脅すと面白いくらいに話は進み、即位のための話し合いは順調に進んだ。

 新しい国王となる少年に対し、世間の反応は様々だった。

 貧民は、希望や期待を胸に抱いた。彼が国を変えてくれるやも知れぬと、浮き足立った。

 貴族たちは不平不満を隠さなかった。機会があれば引きずり落としてやろうと、虎視眈々として狙っていた。

 凄まじい波乱の中で生まれようとする国王は、国民にとって良くも悪くも強烈な存在であり、人々は、リオンの動向に絶えず注目した。

 そして、即位式前日の夜。

 リオンは、城の中庭で宴を開いていた。

 言うなれば、前夜祭というものだ。貧民しか参加していないが、数が多いもので、どこを見てもお祭り騒ぎで賑やかだった。庭の中央には大きな火が灯り、野菜や肉をこれでもかと焼いている。人々はその周りで酒を飲み、歌い、踊って笑いあっていた。

 食料は、城の厨房からわんさか出てきたので、これだけあるなら良いだろうと全て持ち込んできた。貧民達はその量に驚き、喜び、今はバクバクと死にそうなほど食べている。曰く、人生でこれだけ食べられるのはもうないかも知れないから、死んでも食べる、ということだ。

 リオンは、楽しそうに話す人々を遠くでじっと眺めていた。燃え盛る炎に照らされて見える彼らの表情はとても明るく、数日前の怯えた顔が嘘のようだった。

 火の粉が、パチパチと飛ぶ。暗い夜に映える妖精たちの踊りは幻想的で、美しかった。それらと共に踊る彼らが、リオンには何より尊かった。

 …ああ、良かった。笑ってくれている。

 リオンは空を見上げ、一息ついた。

「とりあえず、ひと段落はついた、か……」

 目を瞑って、穏やかな風を受ける。秋の風は冷たいけれど、不思議と寒くなかった。

 ふと、隣に気配を感じて、リオンは視線をやる。

 いつの間にか、セタが傍らに立っていた。

「リオン様、ここ、座っていいですか?」

「ああ、構わない」

 そう言うと、セタはリオンが座っている長椅子に来て、隣に腰を下ろした。

 セタは、傍に来たにも関わらず、口を閉ざしたまま黙っていた。リオンは、横目で彼の顔をチラリと見た後、視線を踊っている人々に戻した。

 暫く、二人は底抜けに笑い合う人々を見ていた。どちらからも積極的に話しかけることはなく、ただ心地よい喧騒に耳を傾けていた。

 何分か経って、リオンがぽつりと言う。

「……別れは、済ませてきたか?」

 じっと、虚空を見つめた後、セタはゆっくり頷いた。


 モノの頭部が見つかったのは、国王を殺してから三日目辺りだった。道端に投げ捨てられていたのを、偶然ミラが発見して、泣きながらセタの元へやって来た。その時は、他にやることが沢山あったために相手をしてやれなかったので、布で丁寧に包んで、今日まで城に安置していた。つい先ほどまで、セタは死んだ者たちに最後の挨拶をしていた。

 今回の襲撃で死んでしまった者は城に集められ、司教によって弔いの祝詞を読み上げられた後、共同墓地に埋められた。一人ずつ墓を作ってやりたかったが、顔や体が潰れて身元が分からない者が多かったので、やむなくこのような処置となった。セタは、兄弟の人数分の花を手に墓地に訪れ、思い出話をした。

 楽しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。全て話した。次に来るのはいつか分からないから、ありったけの思いを込めて、噛み締めるように話をした。

 そして、リオンを守ってくれた二人の恩人に挨拶をした。一人は剣の師匠で、国一番の偉大な騎士だった。一人は騎士としての言葉や振る舞いを教えてくれた、美しい女性だった。お礼を言って、また花を添えた。

 静かに零れた涙は、土に吸い込まれていった。


 セタは顔を上げた。リオンの方を見て、そっと微笑む。

 青い瞳が、焔に照らされゆらゆらと揺れていた。その深い海のような、引き込むような色に、リオンは心臓を掴まれた気分になる。

「……あなたに会えて、良かった」

 穏やかな面持ちだった。セタは感じ入るように目を閉じ、言葉を紡ぐ。

「…二年前のあの時、あの場所で会えて、本当に良かった。俺は、最初からあなたに仕えたいと思っていた。これからも、この選択を後悔することはないでしょう」

「……」

「…たしかに、悲しいことは消えません。家族にも、あの二人にも死んで欲しくなかった。乗り越えるにはまだかかります。……でも」

 そこで、セタは急に黙った。

 リオンは疑問に思って彼を見る。重なり合った視線の先、彼の青が、自分の赤と混じって不思議な色を彩っていた。

 セタは、縋るように切ない声を出した。

「…どうか、忘れないでください。あなたは、俺の大切な人なんです」

 その言葉に、目を開く。不意打ちで落とされた銀の矢は、新たな国王には効果的だった。

 リオンは困ったように笑う。

「そいつは手厳しい。俺に、自分を大事にしろと言うのか」

「…貴方がそうしないなら、無理やりさせるだけですが」

「はは、国一番の剣士殿が強行手段に出る前に、なんとかしなくてはな」

「…真面目に言ってるんです」

「分かっているとも。さらに言えば、お前が大切なものには目が無いことも、そのためにしか動けないことも知ってる」

「……」

「だがな、セタ。俺は王だ。王となる者だ」

 リオンは不敵に笑ってみせる。

「王とはいつ何時も、勝手なものだ。お前の一存で、我の意志を止められると思うなよ」

「……!」

 セタは面食らったようにリオンを見る。確かに、この方は王なのだ。自分の願いで動くような人では決してなかった。

「我は、無茶をするぞ。なんせこの国は腐り果てているからな。再興するには、やり甲斐があり過ぎるというものだ。政策を変えるためならば何時間でもこの身を削ろう。敵から民を守るためならば、何処へでも駆けていこう。我には暇などないのだ。着いてこれない奴は蹴り落とすし、足でまといになるくらいなら全て一人でやる。だから、」

 真剣な面持ちで、リオンは真っ直ぐに己の騎士を見た。

「お前が、我に自愛せよと言うのであれば、何処までもしつこく付いて来い。沢山の知識を身につけろ。今よりもっと、強くなれ。そして、一番近くで仕えて、我を支え続けるが良い。…そうすれば、忠実な騎士の言うことくらいは、耳に入れるだろうさ」

 セタはぽかんとしてリオンを見た。堂々と言い放った彼の瞳に、不安げに揺れるあの影は一切存在しなかった。

 それよりも、今、かなりの無理難題を押し付けられたような気がして、セタは目を右往左往させた。

「つ、つまり、突っ走るリオン様を止めるには、俺が一番の臣下になる必要がある、と……?」

「そうだとも。まさか、我に仕えることだけがお前の目的だったと抜かすか?甘いことを言うなよ。お前は我の、この反乱全てを見届けたのだ。今更一介の騎士なぞに戻れると思うなよ」

 あんぐりと口を開ける。出し抜かれたような顔をするセタを見て、リオンはからりと笑った。

 これから一生仕えるであろう主の満面の笑顔を見ながら、セタは内心頭を抱える。

 リオンの一番になるには、政治も経済も軍師としての知識も身に付けなければいけない。国の王の側近は優秀でなければ務まらないのだ。勉強などしたことのないセタにとって、果てしない道のりが急に現れた気分だった。

「やることが…増えました……」

 愕然として、セタが言う。リオンは面白そうにセタを小突いた。

「はっは、そうだろう。我は容赦などせん。ビシバシ鍛えてやる」

「うう……」

「まず敬語からだな。お前は、まだ言葉遣いがところどころ幼い。貴族に冷笑されるぞ」

「ぐっ……」

「あと、その髪。前髪が長すぎて陰気臭い。正式な場に出ることが多くなるんだから髪型も変えろ。明日、美容師に頼むから覚悟しろ」

「……」

 完全に沈没したセタに、またリオンが笑う。楽しそうな様子の彼を見て、一部の人々が興味深そうにわらわらと近づいてきた。酒がよく回っているようで、赤い顔をしてフラフラしながら歩いてくる。

 ……いや、一人突進して来ている。

「リオーン!!!あなたまたセタを困らせたんじゃないでしょうね?!!」

 ミラが怒り心頭でリオンの首根っこを掴みあげる。ぐえっと呻く声を聞いて、セタが慌ててミラを止めた。

「げほっげほっ……明日王になる我に躊躇なさすぎ……」

「言い換えれば明日までただのリオンですうーー!!!つまり今日が締め上げる絶好の機会なのよ!私がベッドで眠っている間にセタをこき使った罪、ここで贖えーーーー!」

「お、いいぞミラーー!」

「よっ貧民街のゴリラ!」

「スーパーブラコン!」

 人々が野次馬となって群がり、調子に乗って声をあげる。

「お前、褒められているのか貶されているのか分からん通称を持ってるな……」

「うっさい」

「いや、待て待て!明日、本当に即位式だからね?」

「安心して、顔は避けてあげる」

「やめるんだ力馬鹿!助けて俺の騎士!!!」

「すいません、この姉さんは俺でも止められません」

「嘘…ぐえ?!?!」

 みぞおちに、綺麗に右ストレートがきまった。

 ミラが拳を上げて、雄叫びを出す。会場は大盛り上がりであった。

 ちなみに、ミラ以外は、普段リオンに対してかしこまっているが、酒が入っているため、かなり気が大きくなっている。明日、可哀想なくらいに震え上がる者と、全ての記憶が飛んだ幸福な者に分かれるのは、また別のお話である。


  二


 前夜祭の、次の日。

 国一番の規模の広場で、大勢の民衆が王の姿を今か今かと待ち受けていた。貴族と貧民とで境目がはっきりしているものの、皆、新たな王が現れる凱旋門の方を見つめている。城と凱旋門は直接繋がっていて、新国王であるリオンが登場すれば、すぐに分かる。

「うわー…すごい人の量………」

 ミラはそっとカーテンを開けて、外の様子を伺う。そして、その数の多さに舌を巻いた。城は、国内で最も高い位置にある。そこから、世間の様子を眺めることができた。大衆が集める広場までは少し距離があるが、こんな遠くからでも波のようにして動く人だかりが確認できた。

 前に即位式があったのは、ミラたちが生まれる前だった。だから、即位式がどんなものか分からなかったのだが、それにしてもこれだけ人がいるなんて知らなかった。リオンは、この大勢の民すべてを纏めあげていくのだ。いまいち現実味がなくて、でも、リオンがとうとう王様になるのだと思うと、何だかお腹がムズムズした。

「姉さん、準備できたよ」

 弟の声がしたので、後ろを振り向く。

 そして、ミラは目を開いて固まった。

「……やっぱり変かな」

 そこには、正装に身を包んだセタが立っていた。驚いている様子のミラを見て、不安そうに服の袖を引っ張っている。

 ミラは、セタの頭から足先までじっくり見る。

 銀色の髪は青いリボンで後ろに纏められ、香油を塗っているのか美しい光沢を放っていた。長かった前髪は大胆にかき上げられて、横に軽く流されている。端正な顔立ちがはっきりと見え、普段とは雰囲気がガラリと変わっていた。

 服は、深い青を基調とした詰襟の上着に、銀の刺繍が丁寧に施され、若々しくも上品な仕上がりになっていた。セタの体に寄り添うように美しいラインを描き、美しい姿勢を一層引き立てる。腰に差された剣の鞘も、その正装と色を統一させており、その姿はとても洗練されていた。

 ミラは気付けば両手を合わせて拝んでいた。

「ありがたい……」

「え、やっぱり変……?」

「そんなことなーい!!!国一番、いや世界一カッコよくて尊いです!!!」

「そう?でも、姉さんが言うなら安心だね」

「そうよ!自信を持って!!!」

 ミラはセタの腕を持ってブンブンと激しく振る。

 ああ、神様ありがとうございます。弟の晴れ姿がこんなにも格好良いです。アーメン。

 セタの騎士姿にデレデレしていると、扉が豪快に開けられた。驚いてそちらを見ると、そこには今日の主役が立っていた。

「お、やっぱり前髪あげた方が良いじゃないか。うんうん」

「リオン様」

「ああ、リオンだ」

 そう言って、彼はこちらへ歩いてくる。セタがじいっとその姿を見た。視線に気付いたリオンが、得意げに全身を見せる。

「どうだ?結構、良いだろう」

 リオンは、白地に金の刺繍が豪華に入っている、国王のための衣装を身にまとっていた。胸元には国の紋章が入っており、そこから、流れるように月桂樹の模様が降りてくる。首元の飾りには赤く輝くルビーが嵌め込まれており、リオンの瞳と良く調和していた。その上から、国王を象徴する色であるワインレッドのマントを背負い、様々な宝石を散りばめた銀の杖を携えていた。

 セタは、少し頬を赤らめて頷いた。

「と、とても格好良いです」

「ふ、そうだろう、そうだろうとも。我の見立てに狂いはないからな」

「すーぐ調子に乗るんだから……」

「何も聞こえんな?」

「もう……まあ、良いと思うけど」

 ミラがそっぽを向きながら、ボソッと呟く。リオンは少し意外そうに彼女を見た。ミラは明後日の方向を向きながら、言葉を続ける。

「別に、貴方が立派なことくらい分かるわよ。王様になったら気安く話すことはできないかも知れないから、せめて最後くらいは褒めてあげようと思ったの」

「……なんだ、ミラ。殊勝過ぎないか?」

「なに?悪口?」

「明日は槍が降るかもしれんな……」

「あのねえ、結構真面目に言ったのよ?」

「はは、そうなのか?」

「……ああ、言わなきゃ良かった………」

 ミラは苛立ちのこもったため息を吐いた。耳が少し赤くなっている気がする。無駄に恥ずかしい思いをしてしまったじゃないか。らしくないことは、絶対にしない方が良いということか。

 黙ってしまったミラに、リオンが笑いかける。

「別に、国王になった後も友人でいてくれるのだろう?」

「……は?」

「ならば、いつでも話せるさ。お前は唯一、俺に敬語を使わない者だから、俺も気が置けない」

「……友人」

 ミラはリオンの言葉を小さく習った後、照れくささを誤魔化すように髪をいじる。そして、吹っ切れたように笑った。

「……ふふ、そうね。友達って、相手が国王になったからって変わるものじゃないものね」

「だろ?」

 リオンは満足そうに口角をあげると、踵を返した。どうやら、即位式の会場へ向かうようだ。

「お前たちは、並んで待ってろよ。俺の晴れ姿を見せつけてやろう」

「はい、お待ちしてます」

「早く来なさいよー?」

「了解了解」

 後ろ手に手を振ると、リオンは控え室を出ていった。扉が開いた瞬間に、きちんとした正装に身を包んだ者がいたので、きっと案内人のような者が先導するのだろう。あれも貴族なのでどう思っているか知ったものではないが、リオンならまあ大丈夫だ。

「セタ、私たちも行こっか」

「そうだね、ジルさん達も待ってるだろうし」

 二人は控え室を後にし、大勢の人達が待つ広場へと向かった。


「え?お前誰……?」

 開口一番に言われた言葉であった。

「セタだよ、ジルさん」

「まじで……?別人過ぎねえか……?」

「そう思うよね…」

 セタは苦笑して頬をかいた。自分でも鏡を見て驚いたのだ。他人から見たらよっぽど変わって見えているのだろう。

「でも、格好いいでしょ?でしょ??」

 ミラが身を乗り出してジルに同意を求める。ジルは勢いに押されて必死に首を縦に振った。

「なーんか、心が篭ってないわね?」

「そんなことねえよ?だからその、右に握りしめてる拳はしまってくんねえ?」

「ね、姉さん……」

「むーん。しょうがないわね」

「ほっ……」

「お!始まるみたいだぜ〜!」

 ずっと爪先立ちで前方を見ていたコーヴスが、弾けたように大声を上げる。彼の言葉に反応して、皆一斉に凱旋門の方を振り向いた。新国王が、あそこからチャリオットに乗って来るはずだ。セタやミラ、そしてジルたちは、緊張と期待を持ってその時を待った。

 しかし、その時セタは、強く腕を引かれた。

 突然のことによろめき、自分の手を掴んだ犯人を認めようとする。顔をあげると、一人の女性がセタの顔を覗き込んでいた。

 ミラでもジルでもない。他の貧民でもなかった。誰だろう、とセタが疑問に思っていると、その女性は悪戯っぽく微笑んだ。

「君の待機場所はこっちですよ。来る途中で、教えてもらわいませんでしたか?」

 セタは、驚いてその人の顔を見る。長いまつ毛に、エメラルドグリーンの透き通った瞳。鼻筋はすっと高く、唇は花のように可憐でふっくらとしている。髪は艶々と輝くブロンドで、ミラの髪よりも少し色彩が薄かった。服装も、童話の中から出てきたような綺麗な衣装だ。貴族だろうか?しかし、貴族にしては柔らかく優しい雰囲気を持っていた。本当に、怖いくらいに美人な人だ。でも、

「(お、男の人の、低い声……?)」

 その人は、セタの様子を見て苦笑した。

「おや、びっくりさせましたか?…しかし、申し訳ありません。今は話している暇はなく…。最前列へ行きましょう」

 にっこりとして話し続ける麗人に、セタはしどろもどろになりながらも、懸命に言葉を紡ぐ。

「え?でも、役人の方が、俺は貧民の列にいるようにって……」

 その一言を聞いて、彼はぽかんと口を開けた。その表情すら絵になっていて、こんなに美しい人がこの世にいたのかと、セタもびっくりしてしまった。

「……君、そんな恰好をしておきながら、そんな奴の言葉を信じたのですか?」

「……?」

「いやぁ、鈍くて可愛い騎士もいたものですね」

「あ、あの……」

「新国王陛下の意志を汲み取ることも、君の仕事ですよ。覚えておきなさい、セタくん」

「え、あ、はい!」

「ふふ、元気なお返事ですね」

 その人はふわりと微笑むと、セタの手を引いて、人の波を掻き分けて行った。人々は最初、遠慮なく進む彼に訝しげな目線を向けたが、その美貌を見た瞬間に、男女関係なく顔を赤らめ、そそくさと道を譲った。彼に手首を掴まれたまま、セタはその後をついて行く。

「あの、あなたのお名前は…」

「私?おっと、名乗ってもいませんでしたね、失礼。セリン=ネクロメシア。気軽にセリンさんとお呼びください」

「セリン、さん?」

「はい。貴族の中では、一応上位の方に属する者です。…ああ、どうか警戒しないでくださいね。私は、新国王陛下のようなお人を待っていたのですから」

「リオン様を……?」

 セリンは一つ頷くと、視線を前に戻してひたすら進んだ。最前列へは、まだ少し遠かった。

「早めに君を見つけることができて良かった。即位式が始まってからでは、面倒ですので」

「……俺、何かしましたか?」

 不安げな表情で首を傾げたセタに、セリンはこれ以上ないほど嬉しそうに破顔した。

「ふふふ、何もしてませんね!強いて言えば、これからするのですかね〜!」

「?」

 彼の言っていることが理解できなくて、セタは頭の中で沢山の疑問符を浮かべた。何知らないうぶな少年を見て、セリンは、本当に純粋ですね、と苦笑した。

 その時、祝砲が辺りに鳴り響いた。後ろの方から、貧民たちの歓声が聞こえてくる。

「さぁ、セタくん。……新たな王がお見えです」

 セリンが呟く。セタはハッとして爪先立ちをして、リオンの姿を見ようと躍起になる。

「ふふ。一番前に行くから、よく見えますよ。そこまでは案内させていただきます」

「ありがとうございます!」

「いえいえ、なんの!」

 最前列は、すぐそこまで迫っていた。リオンの姿が見れる。そう浮き足立ったところで、ふと、セタは我に返った。気付けば周りには貴族しかおらず、いつも見ている面子の影はどこにもなかったのだ。当然だ。ここは、貴族たちの領域で、本来セタが入れるところではない。

 セタは、無意識に身を縮めた。服装…は、正装であるため悪目立ちはしないが、貧民だとバレたらどうなるだろうか。今は、リオンの即位式なのだ。下手に行動したら、迷惑をかけてしまう。

「…大丈夫ですよ」

 セタの不安を見計らったようにセリンは言う。不適に笑う麗人は、気にしてはいけないとでも言うように、さらに強くセタを引っ張った。

「……見えました。我らが王です」

「……!」

 セタは身を乗り出して、最前列に顔を覗かせた。凱旋門の道の向こうから、馬の嘶きと共にチャリオットが駆けてくる。

 そこに、リオンがいた。赤いマントを翻しながら真っ直ぐ前を見て、民衆たちに自身の姿を見せつける。

 その誇りに満ち溢れた表情に、セタは感嘆のため息をついた。

 青空の、光り輝く太陽の下、リオンは気高く降臨した。

 小さな体を感じさせない堂々とした態度と、絶対的支配者の空気に、まだこれだけの距離があるのに圧倒される。貴族たちも、目を見開いてリオンを見ていた。きっと、内心で悔しがっているのだろう。子供だと見くびっていたのが、完全に覆されたのだから。

 セタは、リオンがチャリオットから降りて、広場の式台に上がるのを見守った。その動作の一つ一つを見逃さまいと、瞬きもせずに一心不乱に見つめる。

 ずっと待ち望んでいた時だった。あの人が式台に上がって、国王として降り立つその日を、セタはずっと思いこがれていた。

「綺麗だ……」

 心で思ったことが、そのまま口に出てしまう。

 何人かに見られた気がしたが、リオンに夢中なセタは、他人の存在は頭から抜け落ちていた。

 国の大司教が出てくる。

 傍らには、従者の者が輝く王冠を持って付き従っていた。

 リオンが、大司教の前に立った。

 さあ、いよいよ即位の時だ。


  三


「…リオン=イクオム=エテルニタス。ここへ」

 厳かな声が響き渡る。徳のある老人の、落ち着いた声がリオンの名を呼んだ。

 リオンは大司教の眼前に立ち、片膝をつく。

 セタはその一連の流れを、固唾を飲んで見た。自分があの場にいるわけではないのに、心臓の鼓動が段々と速くなる。胸に何かが込み上げてきて、咄嗟に手を当てた。

 大司教が王冠を手に取った。キラキラした、金の冠。あれがリオンの頭に乗せられるのだ。

 ドキドキする。鼓動が止まらない。

 しかし、そこで後ろから低い囁き声が聞こえてきた。

「………あんな子供が…」

「……頼りないな…………」

「……………なに、すぐにぼろを………」

「…………務まるわけないさ…………」

 セタは、その耳障りな音を拾ってしまって、眉を顰めた。後ろをちらりと見ると、複数の貴族が不躾な目線を向けてきた。

 そこで、セタは、自分が周りから注目されていることに初めて気付いた。

 貴族たちは皆、騎士の恰好をしているおかしな子供を訝しげに見ていた。この国では珍しい銀髪ということもあって、完全に目立ってしまっていた。珍しいものや、奇異なものとして見られているような、晒しものにされたような気分になる。セタは気分が悪くなって、視線を振りほどくように前を向いた。

 それでも、貴族たちの視線は消えない。セタの存在を拒絶するように、冷たい圧力が襲いかかる。

 貴族のこの雰囲気が、小さい頃から怖かった。自分たちを丸ごと「物」だと思っているような、いつでも簡単に処分しにくるような、無機質で温度の低い人たちが恐ろしかった。

 ミラのように、強く意見を言うこともできなかった。家族を守らねばいけないから、機嫌を損ねるなんて言語道断であったし、実際、彼らが物を売ってくれなければ、貧民は生活できなかった。

 …現実は、変わっていないのではないか。自分は、弟たちを殺された時と同じく、無力なままではないか。暗闇に一人ぼっちで取り残されたような気持ちになる。闇から、怖い目がセタを睨んでくる。

 冷たい。痛い。

 リオン様がもうすぐで王になるから、こんなことで気分を台無しにされたくはないのに。

 セタは、ぎゅっと目をつぶった。

『大丈夫ですよ』

 近くで、声が聞こえた気がした。その声の主の存在を思い出して、セタはバッと顔を上げる。

「(セリンさん……?)」

 辺りを見渡すが、目的の人物は見つからなかった。そう言えば、案内すると言ってはくれたが、一緒に付いていてくれるとは言わなかった。きっと、彼の立ち位置に戻ったのだろう。後でお礼を言わなきゃ。

 セタは少し落ち着いて、息を吐いた。セリンのおかげで、いくらか正気を取り戻せた。リオン以外にも、貧民に優しい人がいるのだ。深呼吸を何回かして、ゆっくり前を向く。周りの雑音を気にしないようにして、リオンに意識を集中した。

 不意に、大司教が王冠を手に持ったまま、動作をピタリとやめる。セタは不思議に思ってそれを見た。

「…王冠を授ける前に、改名の儀を行います」

 貴族がどよ、とざわめく。

 即位の前に改名?なんだそれは。今までの伝統の通りに、式が進んでいないぞ。どういうことだ。

 大司教が咳き込む。人々はまだ小声で囁き合いながらも、リオンの方を見つめた。

「新国王の名を、神の下に改名します。リオン=イクオム=エテルニタス改め……」

 国民の視線が、老人に注がれる。彼は腹に力を込めて、少年が背負った思いと共に、新しい名を告げた。

「其は、リオン=インヴィクタ=ルチャート。」

 セタは心の中で、その名を反芻する。

 輝かしき、無敵の王。はるか高みで誇り高く咆哮を上げる、美しく強い百獣の王。

 それが、リオン様。

 …とても、ぴったりだと思った。

「名は体を表し、人生を表します。この名に恥じぬよう、堂々と生きなさい」

「謹んで、お受け致します」

 リオンがお辞儀をして、改名の儀は終わった。大司教はさらに声を大にして告げた。

「…リオン=インヴィクタ=ルチャート。汝は民と共に生き、語り合い、良き王であることを誓いますか?」

 跪いたリオンが、朗々とした声で応える。

「我が名と民の下に、誓います」

 彼の返事を聞き届けた聖者は、承諾するように頷いた。

「では、こちらに。汝に神の祝福を捧げます」

 リオンは立ち上がり、大司教の元へ歩む。その背中が眩しくて、セタは目が潤んだ。

 大司教の目の前に来ると、リオンは目を瞑って静かにその時を待つ。銀の杖を自分の前につき、両足でしっかりと地面を踏みしめた。


 さあ、見るがいい。

 無価値だと、無力だと言われた子供が栄光を手にする瞬間を、焼き付けろ。

 父よ、母よ、兄たちよ。その地獄から、悪魔の逆襲劇をご覧あれ。この身が朽ちるまで、貴様らの死骸の上で高らかに笑ってやろう。

 俺は後ろなど振り向かない。

 俺は顔など下げない。

 ただ、この信念を突き通すのみ。

 そして俺は、


 …「我」は、王となる。


 そっと、彼の頭に王冠が乗せられた。

 誰もが息を呑んで見つめる中、新たな国王が民衆の方を振り向く。

 ざあっと風が吹いて、彼の赤いマントが翻る。

 彼は赤い瞳を輝かせ、強く笑った。

 新国王リオンが、今この瞬間に君臨した。

 セタはその姿に、ほう、と見惚れた。

 なんと、尊いことか。

 貴方はついに王となった。ずっと耐え続けて、苦渋を全て飲み込んで、やっと咲いた貴方は本当に美しい。

 俺は、とても幸せだ。

「ここに、新国王リオンが誕生したことを宣言する!」

 大司教のその言葉を皮切りに、後ろから大歓声が上がった。リオンはそれに応えるように手を振る。

「新国王様、万歳!!」

「国王陛下に、栄光あれ!!」

「万歳、ばんざーい!!!」

 貧民たちが喜びの声をあげ、両手を振る光景が遠くからでも分かった。セタもあの場に混じりたくなる衝動に襲われる。

 貴族たちの領域は、冷えきっていた。苦々しく舌打ちをする者もいれば、汚いものを見る目で貧民を睨みつける者もいた。彼らを味方につけるのはもう暫くかかるだろう。自分はリオン様のために、全てを努力せねばならない。彼の力になれるように、今からこの雰囲気に慣れておかないといけないだろう。先ほどよりは恐怖は感じなかったが、これからも対処に手間取ることを予期してセタは肩を竦めた。

 大司教が手を叩いた。よく響くそれに、会場は段々と落ち着きを取り戻す。

「新国王の誕生に先立って、騎士の宣誓を行います。騎士長は前へ」

 セタは内心驚いて厳かな老人を見つめた。騎士の宣誓とはなんだろう。てっきり、リオンが即位したら終わりだと思っていたので、セタはその存在を知らなかった。一応自分も騎士の恰好をしているものの、何も伝えられていないためどうすれば良いか分からない。騎士長、と言っていたから、多分自分とは関係ないだろうけど。

 中年の男が前に出てきた。あれが騎士長でいいのだろうか。必要以上に胸を張って、顎を上に突き出して偉そうに歩いている。明らかに貴族色濃厚な騎士だった。そういえば、騎士とは普通、貴族がなるものだったか。セタは当たり前の事実を思い出して、ぽかんとした。イーサンが全然それっぽくなかったので、失念していた。

 セタは、立ち会い稽古で染み付いてしまった癖で、男の動作を観察する。足の持ち運びが雑で洗練されていない。手は何故か、偉そうに後ろ手に組んでいる。あれでは突然の敵襲に対応できない。剣もゴテゴテした装飾がついて持ちにくそうだ。

 何だか、もやもやする。本当にこの男が騎士長で合っているのだろうか。もっと師匠のように、しっかりした騎士はいないのだろうか。

 男は得意げそうに周りをチラチラ見る。貴族らは興奮気味に喋っていた。

「まあ…!カーヴェア家のご子息ではありませんか?」

「騎士の中でも有力な方ではないか!」

「これなら少し、安心ね……」

 ヒソヒソと、理解できない会話が聞こえてくる。騎士長とは、実力よりも権力が優先されるのだろうか。国王を守らねばならないのに、そんなのでいいのか。あの人はちゃんと、リオン様を守ってくれるのだろうか。

 セタは、不安になってリオンを見た。リオンは無表情で、男が来るのを待っている。

 騎士長だと言う男は、重たそうに体を動かしてリオンの前に跪いた。腰に下げた剣がカチャカチャと音を鳴らし、セタは剣を大切に扱おうとしないその態度に少し不快になる。

 男が口を開いた。

「ここに、騎士の誓いを立てます。えー、わたく「いや、要らないぞ」……え?」

 男は、驚いて顔を上げる。他の貴族も、セタも、貧民たちでさえも拍子抜けした表情になってリオンを見つめた。一体この王は、騎士の誓いを遮って何を言っているのだろう。

 リオンは綺麗な顔で笑った。

「聞こえなかったか?お前の誓いなど欲しくないと言ったのだ。下がれ」

「……は、でも私は騎士長で……」

「我の騎士は我が決める。お主らが決める権利は鼻からないわ」

「……?!」

 口を開けて固まる男をバッサリと切る。そして、こう付け足した。

「それに、お前みたいな弱そうな騎士など、心もとなくて眠れもしない」

「な、な、な……っ」

 有り得ない屈辱に、男は顔を真っ赤にして震え始める。辺りは痛いくらいに静まり返っていた。信じられない、という風に、全員リオンの方を凝視する。それらの視線を気にもせずに、リオンは相変わらず綺麗な笑顔であった。

 不意に、どこかで吹き出す音がした。貴族たちはその方向をばっと振り向く。セタもそれにならうと、有力貴族が並んでいる中央あたりに、必死に笑いを堪えている人がいた。セタは目を何回か瞬く。

 セリンさんだ。

「……く、ふふ、ふ……!」

 口を抑えて、心配になるほど震えている。ブロンドの艷めく髪が一束さらりと落ちて、騎士長の男は一瞬見とれてしまったが、我に返ると勢いよく立って怒鳴りつけた。

「おい、私を誰と心得る…!不敬だぞ!」

 その言葉に、セリンの何かが決壊した。

「は、もう無理、くは、はは、あーーーはっはっはっはっはっ!!!」

 涙さえ零して、セリンは大声で笑った。それを見た従者が目をまん丸くする。普段は笑顔の一欠片も見せない人なのに、こんなに豪快に笑う方だったのか。

「はは、はははは、は、はっはは!」

 笑いが止まらず、座っていた椅子にすがりついてヒィヒィと声をあげている。周りの者たちは、セリンのその行動を引いて見ていた。自然と、彼の周りに空間ができる。セリンはそれにも構わず、おかしくてたまらない、とでも言うように背もたれを何度も叩いた。

 リオンは眉を上げて、興味深そうに言った。

「貴族の中にも、ユーモアの分かる奴がいるな…」

「……ふざけるな!」

 飄々と呟くリオンに、騎士長の男が声を荒らげた。式がめちゃくちゃになり、大司教が顔を青くしてオロオロしている。リオンは手を上げて大司教を落ち着かせた。そして、遺憾そうにため息をつく。

 騎士のくせに、何ともまあ感情的だ。どうせ、権力に物を言わせて、まともな鍛錬などせずに騎士になったのだろう。リオンはつまらなさそうな顔を彼に向けた。

「私が騎士長にならなければ、誰がなるというのだ!私以外に相応しい者などいない!!」

「何故そうだと言いきれる?」

「私が一番強いからだ!見ろ、この特注の剣を…」

「はあ……何を言い出すかと思えば」

 リオンは呆れたように首を振った。男は悔しそうに歯噛みしたが、突然良いことを思いついたか、ハッとした後に笑ってリオンを指さす。

「ならば陛下、私より相応しい者を連れてきてはどうですか!私より立派で、騎士長になる価値のある者を見せてみて下さいよ!」

 どうせできないだろう、と言外に言う男は、勝ち誇って胸を張った。自分は貴族の中でも、一位二位を争う権力を持つカーヴェア家の息子だ。自分以上の騎士など、すぐ連れてこれるわけがない。この生意気な子供に、現実を見せてやる。

 リオンは男をじっと見つめたあと、ふっと笑った。含みのある笑みに、セタは何をするのだろう、と疑問に思った。

「…いるぞ」

「え?」

「お前より騎士長に相応しい、真の忠誠心を持った者がいる。お前など足元にも及ばない」

「あ、有り得ない!だって私は」

「セタ!」

 リオンが男の声を遮って、大声で叫んだ。セタはその響く声に、心臓を貫かれたような衝撃を受けた。黙っているセタを探して、リオンはなおも叫び続ける。

「セタ=ディオネス!どこに隠れている!さっさと我の前に来い!」

 会場は困惑の波が広がった。あの貴族の男より価値があるという人物は、誰なのか。そもそも貴族なのか。ディオネスなどという苗字は聞いたことがない。

 人々の喧騒の中、セタは動けなかった。

 だって、そんなことあるわけない。俺は貧民で、騎士になったばかりの未熟者で、子供だ。だから、今のはきっと幻聴なんだ。

 男は暫く焦った顔をしていたが、誰も出てこないのを知るとほっときたように笑って、それから意地悪そうな顔でリオンを見る。

「おやおや、どうやら新しい国王陛下は虚言癖があるようだ!ディオネス家なぞ、聞いたこともありませんからね!」

「……」

 リオンは男の言葉を無視し、視線を巡らせる。絶対にいるのだ、見つけ出す。

 あの白銀を、あの青を、リオンは探す。

「何かおっしゃったらどうですか陛下!」

 完全に調子に乗った男が、リオンを追い詰めるように言い募った。

 その時。

「……いた」

 リオンは、赤い瞳を鋭く光らせた。晴れやかな祝典とはかけ離れた、凄絶な笑みを浮かべる。

 彼の視線の先に、待ち焦がれた青がいた。

 そうだ、お前だ。

 離す気は、一生なかった。


  四


 焼け付くような、強烈な赤に射止められる。

 セタは自分の呼吸さえも全て奪われたような感覚に陥った。リオンが、真っ直ぐこちらを見ている。

 こんなに人がいるのに、自分だけをその瞳に映して、自信に満ちた顔で笑う。

 まるで、この決断は絶対に間違っていないとでも言うように、迷いなく自分を選ぶ。リオンが、口を動かした。

『来い』

 そう、言っていた。

 セタは何かに操られるように、足を一歩踏み出した。

 前に進む度、視線が突き刺さる。

 数多の目が、セタの姿を舐め回す。

 騎士長だった男が、驚愕に目を見開いてこちらを見つめてくる。その全てが、どうでもいい。

 セタは、歩く。

 規則的な歩調で、背筋を伸ばし、顎は引き。

 無駄な足音を立てず、姿勢を正して歩く。

 それは隙のない、美しい動作だった。

 貴族たちは、相手が子供だと言うことも忘れてセタの所作に見惚れる。リオンの前に辿り着くまでには、会場は静まり返っていた。皆、セタの姿に釘付けだった。

「…ようやくのご登場か。我が騎士」

 リオンが静かに微笑む。セタはその発言に困ったように眉を下げた。

「……実は、一切伝えられておりません」

「…そうだったか?では、今伝えた」

「あなたは……」

 セタはあっけらかんと言うリオンに少々脱力する。そして、こんな状況だというのに笑ってしまった。この方は、どこまでも他人を引き回す人だ。それさえも彼の魅力なのだけれど。

 リオンの満足気な顔を見ていると、横から震えた声がした。

「そんな…っ。この、子供が私よりも相応しいだと……?有り得ない……」

 リオンは男を一瞥し、追い払うように手を振った。セタに向けていた笑顔などなかったように、冷たく言い放つ。

「下がれ。お前にもう用はない」

「く、この……っ」

 男は暴言を吐きそうになり、すんでのところで堪える。これ以上何か言っても、さらに惨めになることは明白であった。男は、セタをギリリと睨みつけた後、逃げるように走って会場から出ていった。「邪魔だ、どけ!」という怒声が聞こえてくる。

 リオンはその姿を鼻で笑った後、大司教の方を見た。

「これが我が騎士だ。意見はあるか?」

 老人は疲れたようにリオンを見つめると、首をゆるりと振った。

 長い人生の中でも、これだけ掻き回された式典はない。なんと身勝手な王だ。急に教会に来た時もそうだったが、とにかく存在自体が強烈なのだ。濁った水の中にいきなり飛び込んできた、一筋の光。表現するとすれば、それが一番合っている。全く、自分の代でこんな反乱が起こったことは、誠に残念ではあるが、神のご意志ならば仕方がない。自分は責務をこなすだけだ。

 老いた聖者は咳払いをし、もう一度厳かに告げる。

「騎士の誓いをここに立てます。新国王と新騎士長は、向かい合うように」

 え、とセタは戸惑う。こういう時は、どうすれば良いのだろうか。困った。立派な文句なんて考えてないし、そもそも、騎士の誓いって何をすればいいんだろう。リオン様、なんで即位式前に教えてくれないんですか。

 頭が真っ白になって固まるセタに、リオンが小声で話しかける。

「……そんなに、難しく考える必要はない」

 いや、難しいです。

 セタは困りに困り果て、一周回って、非常に厳格な真顔になってしまった。

「ほら、貴族たちが訝しげに見始めたぞ。早くお前の忠誠を見せてやれ」

 …見せるって、どうやって?

 セタの瞳が、ふるふると揺らいでいる。リオンは動じず、彼を諭すように、ゆっくりと言葉を繋いだ。

「…自分が考えていることを、そのまま言え。きちんとしてなくても良い。…どうか、お前の言葉で、俺に伝えてくれ」


 俺の、言葉で?


 セタは、これまでの自身の道筋を思い返す。

 どうして、騎士になりたいと思ったのか。何故、リオンに仕えたいと思ったのか。自分は、何のためにこの足を踏み出したのか。

 ……全ての答えは、単純だった。

 それは、生まれて初めての、自分のための欲望。

 願いと言うには、あまりにも泥臭かった。傲慢で、浅はかな思考だった。

 自分とは、こんなにも愚かな人間であったのだと、この数日間で痛感した。それでも、欲しいと思ってしまった。


 …姉さん。どうか、許してください。

 俺はきっと、あの家に戻ることはないのでしょう。


 セタは左足を引き、右膝を立てて臣下の礼をとった。ゆっくりとした動作であった。しかし、怠惰な気配も鈍重さも感じさせない、洗練された形であった。

 深く、息を吐く。

 彼の身に纏う雰囲気が変わる。

 リオンは、急激に変化したそれに面食らうも、眩しそうに目を細めた。まるで、あの寝室での光景が戻ってきたようだ。今度は正式な場で、彼の誓いを受け取ることができる。

 セタが、口を開いた。

「偉大なるこの国の太陽に拝謁出来ること、傍でお仕え出来ることに、深く感謝します」

 周りが動揺したように息を詰めた。それくらい王に跪く少年は人々の予想を裏切り、心を奪って離さなかった。

「この大恩に報い、騎士の誓いとします」

 セタは恭しく頭を下げ、朗々と言い放つ。


「我が身は国に、心は貴方に。そして、剣は国の民全てに捧げます。騎士長として、その役割を果たします」


 顔を上げて、自分の王と瞳を合わせる。

 セタは誇らしげに微笑んだ。


「貴方が望むのならば、私はその全てを、叶えてみせましょう」


 誓いを受け取ったリオンは、暫くその瞼を震わせていた。だが、やがてふわりと笑った。

 翳りの一つもない、輝く表情。それは、人々が今日初めて見た、彼の本当の笑顔だった。

 君臨する王と、それに跪く騎士。

 まるで、神話の一部を切り取ったかのような神聖な光景に、誰もが感嘆のため息を漏らした。

 一瞬にも永遠にも感じられた静寂を破ったのは、他でもない国王だった。

「……その誓いを受け取ろう。汝の忠誠に敬意を払い、御身を初代騎士長に命ずる。……その剣を、預かろう」

 リオンが厳かに告げた。

 少しの沈黙。

 そして、次に割れんばかりの歓声が起こった。

 大気にさえひびを入れる勢いのそれに、貴族はぎょっとして身を萎縮する。

 貧民が、全員手を上げて喜びの声を上げていた。彼らは嬉しさに満ちた表情で叫び、新たな時代の幕開けを祝った。

 リオンが大声で呼びかける。

「お前らー!!そんな遠くで叫んでも分からんわ!こっちへ来ーい!!!」

 貧民は、それにさらなる歓声を出して走り出した。警備の者が「おい、止まれ!」と道を制すが、構わず投げ飛ばす。地を鳴らす足音と共に押し寄せてくる大群に、貴族たちは悲鳴を上げ蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。大司教は再度溜息をついて、悩ましげに頭を抱える。

 セタが振り返ると、走ってくる人々の先頭にミラやジルの姿があるのを見つけた。ブロンドの髪を靡かせた少女は、セタにかけより、勢いよく抱きつく。

「セタ~!もう、どこ行ってたかと思ったら、まさか二人してサプライズしてくるなんて最高ね!大好き!」

「姉さん!…あ、その、俺もさっき伝えられたんだけど」

「なんでも良いわよ!ほら、皆も来たわ!」

 ミラの言う通り、たくさんの人達がリオンとセタの周りに群がる。

「陛下おめでとう!」

「セタ、セタ!頑張れよ!」

「二人ともすげーや!」

 色んな方向から口々に言葉が行き交い、二人を祝福する。セタはもみくちゃにされながらも楽しそうに笑った。こんなに愉快で優しい人たちに恵まれて幸せだ。この人たちのためならどこまでも頑張れる。リオン様と、みんなを守ることが俺の最大の役目だ。

 ふと、リオンを見て首を傾げる。彼は顔を下に向けてふるふると震えていた。もしかして恥ずかしがってるのだろうか。セタが声をかけようとすると、彼はがばりと顔を上げた。そして、大声で叫んだ。

「お前らーーーーーー!!!」

 何故か怒った顔をしている。人々はポカーンとしてリオンを見つめた。

「こっちへ来いと行って本当に来るやつがいるか!今は式典だと言うことも分からんのか!」

 人々はポカーンしたまま、あんぐりと開口する。

 ミラが、「えぇ…理不尽…」と呟いた。セタもびっくりしてリオンを見つめる。新国王となった少年は、静まり返った彼らに向けてさらに言い放った。

「俺が国を変えるにはまず、お前らが変わらなきゃいけない!ろくに働いてないやつ、教育を受けていないやつ、正式な場での振る舞い方が分かっていないやつ!全て今よりもマシになってもらう!俺は手加減などしない!貴族もお前たちも同等に扱う!習っていないからといって知ろうともしないことは絶対に許さん!」

 拍子抜けした人々の表情が、段々と明るいものに変わってくる。

「お前ら全員に役割を与える!怠ける奴は俺が蹴り飛ばす!人にぶら下がって生きる根性無しなど俺の国には要らんわ!」

 誰かが、耐えられずに嬉しい悲鳴を上げた。


「お前たち!『人』になる準備はできているかーーーー!」


 拳を上げて叫んだリオンに、人々は今日最大の歓声でもって応えた。会場はわああああ、という響きで満たされ、空気さえも振動していた。皆、嬉しすぎてはち切れた感情を、隣にいる相手と抱きしめ合うことで分かち合う。知り合い、他人は関係なく、全員一体となって、この体に満ちる幸福を伝えるべく共鳴した。

 リオンは王冠を与えられた壇上に飛び乗った。大司教に向かって、話しかける。

「国王になった記念に、国の号を変える」

 さらりと告げられたそれに、大司教は目を丸くした。

「今、ですかな?」

「そう、今だ。認めてくれるか?」

「もう勝手にしなさい。陛下の心のままに」

 老人は諦めたように首を振り、それから一周回って笑いが込み上げる。

「こんなに愉快な式典は初めてですな」

 リオンはその言葉を聞いてニヤリと笑い、民衆に向き直った。

「さあお前ら、生まれ変わる時だ!この国は新しくなる!それと共に、お前たちは今後たくさんの可能性を知り、たくさんの壁に当たる!」

 人々ははっとして、真剣な表情で彼の言葉に耳を傾ける。ただ一人の、年端もいかぬ少年の声に、何万もの人間が聞き入る。

「だが、恐れることなどない!この我が、お前たちと共にある!そして、王国最強の騎士が、全ての災難からお前たちを守るだろう!」

 人々は頬を興奮で赤らめ、リオンの言葉を嬉々として聞く。皆、この国王に既に心を奪われていた。ソワソワとしながらも健気に自分を待つ彼らに、新国王は愛しそうに微笑みかけた。


「民よ、我が道を進め。その手で栄光を掴め。光り輝く其方らが住まうこの国の名は、……ルチャート」



 リオンは手を上げて、声高らかに宣言した。


「…これよりは、ルチャート王国の誕生である!」






















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ルチャート創生秘話 蓮紅ユウカ @aruten_koyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画