宰相の影と名誉の鎖

翌朝、波雲は昨日から続くこの異質な世界にまだ慣れることができないまま、メイドから支給された服に着替え、軽くパンを食べた後、メイドに連れられて、いかにも王が使うような豪華で気品あふれる宰相の執務室へと向かった。

これから、昨日与えられた役職の内容について、宰相から詳しく説明を受ける予定だ。


緊張を抱えながら宰相プロフェスの執務室の扉を数回ノックした。


「入って良いぞ」という冷ややかな声が内側から返ってくる。


「失礼します」と、波雲は一歩ずつ部屋へ足を踏み入れ、できる限りの敬意を払って静かに扉を閉じた。


部屋は豪華絢爛でありながら、どこか冷たい印象を漂わせている。金の刺繍が施された重厚なカーテン、真紅の絨毯、そして精緻に彫刻が施された家具。壁には、この世界の象徴ともいえる装飾が施されており、王の威厳を誇示するかのようだったが、むしろこの空間全体が、宰相プロフェスの圧倒的な権力を象徴しているようだった。


プロフェスは机の向こうに腰かけ、手元の書類にペンを走らせていた。彼は視線を上げることなく、冷ややかな声で言った。

「どうだ、この世界の食事は? 不味くて食えたものではなかろう」


プロフェスは書類に集中したまま、目も合わせずに話しかけてくる。俺との会話は、その書類以下の価値しかないということか。


それにしても、部屋に入るなり一言目から「飯はまずいだろ」と嫌味を飛ばしてくるあたり、どうやら俺はあまり好かれていないらしい。まだ一度もまともな会話を交わしていないというのに、この冷たい対応はいったいどういうことだろう。もしかすると、単に俺個人が嫌われているだけでなく、という存在そのものがプロフェスに疎まれているのかもしれない。


「いえ、もちろん少し味は違いますが、それは他家で食べたときの味付けの差と同じようなものです」


本音を言えば、この世界で出されたパンは、日本で慣れ親しんだあのふっくらとしてもちもちした食感とは程遠い。ふすまが多く混ざった黒パンは水分が少なく、硬くて噛みしめるたびに粉っぽさが口に残る。スープに浸してようやく食べられるといった代物で、正直なところ、これを「美味しい」とは到底言えない。宰相の嫌味を受け流すために「大丈夫です」と答えはしたが、内心ではこの食事に異世界の厳しさそのものを感じていた。


「ふっ、そうか。それは何よりだ。本来なら私たち貴族には狩猟でとれた上等な肉が届くのだが、君は来たのが突然で用意できなかったんだ。しかし、こんなにも早くこの世界のの食事に慣れてくれるとは、さすがは日本人だ」


「これから共に大王様を支える仲間だと思うと、実に頼もしい」と、プロフェスは皮肉めいた笑みを浮かべながら言った。


宰相め、「肉が出せなかった」とは言っているが、どう考えてもわざとだ。庶民の食事を出しておいて、俺がそれを当然のように食べる姿を見下すための策略に違いない。さらに、「庶民の食事」とあえて侮蔑的な言葉を選んでいることも明らかだった。まるで俺が粗末なものに慣れ親しんでいるかのように仕立て上げ、日本人という存在やその文化を貶めようとしている意図が透けて見える。


これ以上、揚げ足を取られるわけにはいかない。


「食事の話はまた今度にしましょう。私がここに来たのは、役職の詳細について伺うためです。本来、宰相は一人で十分に職務を全うするはずです。二人も宰相がいれば、逆に王を混乱させることになりかねませんが、あなたはどう対処されるおつもりですか?」と、波雲は意識して挑発を交えた言い方を選んだ。


プロフェスはようやくペンを置き、書類から目を上げて鋭い視線を波雲に向けた。

「ふむ、良い質問だな、波雲殿。だが、その懸念は不要だ。私は王の信頼を長年にわたって得てきた。この立場を、お前ごとき新人が容易に乱せるほど軽いものではない。お前の役職はに過ぎない。つまり、実質的な政務や重要な決定には一切関わらぬ。表向きだけの地位ということだ」


「しかし、そんなこと王が許すはずがないのでは?正に昨日、王は『共に支えてくれ』と言っていました。いかに宰相といえど、王が自ら仰ったことを覆せるとは思えませんが」


「そのことだが、先ほど私が言った内容を、大王様はすでに承諾してくれたよ。」


「大王様が本当に承諾したという証拠はあるのですか?」


「ああ、証拠ならある。直接大王様に聞くといい」


プロフェスの完璧な返答に、波雲はやり返す言葉を失った。プロフェスは、波雲をその地位に縛り付け、王の側近という表向きの役職を利用し、実質的には一切の影響力を持たせないつもりだったのだ。波雲の存在がただの飾りでしかないと決定づけられたその瞬間、彼は己の無力さを痛感した。


プロフェスは再び書類に視線を戻し、淡々とした声で告げた。

「君には、表面上の栄誉だけが与えられ、実務はすべて私が取り仕切る。それ以上の役割はないと思うが、何か異議でもあるかね?」


波雲は握りしめた拳に少し力を込め、冷静を装いながら首を横に振った。

「……いいえ、ありません。」

「それでは、大王のもとへ真実を確かめに行くため、これで失礼いたします。」


波雲は、肩に重くのしかかる無力感を抱えながら、まるでその場で役目を失ったかのような空気をまとい、宰相の執務室を後にした。


プロフェスは満足げに頷き、冷たい微笑を浮かべた。その微笑には、波雲の立場が徹底的に管理され、彼がただの飾りであることを誇示するかのような冷酷さが宿っていた。


△▼△▼△▼△


ボフッ。宰相の言ったことが本当かどうか王に確認した波雲は、自室へと戻り、ベッドに仰向けに倒れこんだ。

「まさか、本当に大王様が承諾していたとは……」


王はこう説明したのだった。「この国は今までも、宰相の手腕によって栄えてきたと言っても過言ではない。そんな中で、波雲殿が意見することで栄華が失われる可能性がある。しかし、名誉の高い波雲殿に何も地位がないのは、他国や国民から非難されかねないため、このような対処をしたのだ」


この世界に来てまだ一日も経たないうちに、状況が次々と変わり、波雲の精神はすでに疲労しきっていた。その中でも、宰相の用意周到な計画に踊らされていることが、波雲の心に最も重くのしかかっていた。


波雲には友達も信頼できる人もいない。ただ皆という肩書きに対して興味を抱いているだけで、そこに温かさや信頼はなかった。宰相の態度を見て、波雲は思い知った。


俺はただ、この肩書きを利用するための都合のいい人形に過ぎないのだ。この肩書きさえなければ、宰相から敵対的な態度を取られることもなかっただろう。

という肩書きが諸刃の剣であることを、波雲はこの日、身を持って痛感した。


「俺はこれからどうすればいいんだ……」

このまま黙って従い、固いパンを食べて過ごすしかないのか。宰相の望み通り、身動きできず、王の傍でただの飾りでいるのが最善の選択肢なのだろうか。無力感に苛まれながら、彼はふと遠い日本での日々を思い出した。自由で気ままな生活が、今では遥か遠い夢のように感じられる。


それに、宰相はこの国で王に次ぐ権力を持ち、大王様の信頼も厚い。すでに敵対視されているうえ、先ほどのように噛みつけば、肩書きだけを頼りにしている俺にはなすすべもない。宰相がその権力を存分に発揮すれば、どんな理由をつけてでも俺を排除することができるだろう。


宰相に敵対視される限り、いずれは完全に追い詰められることだろう。すべてを飲み込んで耐え忍ぶべきなのか、それとも抗うべきなのか。その答えはまだ見えない。ただ、この異国で一人ぼっちの自分がどれほど孤独で、そして無力な存在かを痛感しながら、波雲は自らの無力さと向き合っていた。

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異世界創国譚 Hum @humoment

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