さしすせそ

香久山 ゆみ

さしすせそ

「えーと、砂糖・塩・お酢・せ……醤油でしたっけ? そ? あ、味噌!」

 ぽんと手を打った私に、男が即答する。

「違う」

 カウンターの上の紙ナプキンには、「さ」「し」「す」「せ」「そ」と男が書いたひらがな五文字が並ぶ。トントンと男の指がそれを叩く。

「男が喜ぶさしすせそがあるんだ」

「へえー、そうなんですか」

 正直どうでもいい。けど、なるべくやる気のなさがばれないよう少し前のめりぎみで返事する。

 なんでこんなことになっちゃったんだろ。吐き出したい溜息を何とか堪える。

 恋人と別れたのだった。

 それで、むしゃくしゃしてバーに入った。バーに独りで入るのは初めてで緊張していたのと、恋人と別れた寂しさとで、つい話し掛けてきた男に応じてしまったのだった。

「きみ、恋人に振られたんだね」

 と男は言った。

「すごい、どうして分かるんですか」

 私が驚くと、寂しそうな顔をしてたから、と男は口角を上げた。

「彼女にブルームーンを」と、バーテンダーに注文して男は私の隣に席を移した。できあがったカクテルを私の前に差し出して、「キザだったかな」と白い歯を覗かせて肩を竦める。

「いいえ。身につけてらっしゃるもののセンスがいいから、キザだと思いません。洗練された雰囲気のせいかしら」

「そりゃどうも」と男がグラスを上げ、私達は乾杯した。

「きみのように魅力的な女性を振る男がいるなんて、信じられないな」

 じっと私の瞳を見つめて、男が言う。そりゃどうも、と私の方こそ言いたかったけれど、口には出さずに、ただもじもじと俯いた。

「相談に乗ろうか?」

 男が言う。

 案外僕はもてるんだよ。なかなか経験豊富だから、いい相談相手だと思うよ。そう言いながら、男は名刺を差し出す。大手企業の営業主任とあるが、名刺を受け取るまでもなく、男のスーツの襟元に社章バッチが輝いていることには先程から気づいていた。

「ルックスもいい上に、お勤め先も一流だなんて、さすがおもてになるのね」

「まあ何事にもコツみたいなものがあるんだよ。それさえ掴めば、人生変わるぜ」

 ウイスキーで唇を湿らせて、男が目を細める。

「うそうそ、そんな簡単に人生が変わるなんて。信じられないわ」

「ほんの些細なことさ。例えば……」

 と言って、男は紙ナプキンに「さ」「し」「す」「せ」「そ」と書き込んだ。

 へーえ、と応えて、私はそれを覗きこむ。振りをする。

 汚い字。

 この人、もてないだろうなって思う。

 店には恋人と何度か訪れたことがあるから、その時に私の顔を見知っていたのだろう。なのに今日は一人でやって来たから「恋人と別れたのか」と訊いたのだろう。当たっていようがいまいが、会話の糸口になればどちらでも構わないだろう。にしても、男は「恋人に振られたのか」とのたまった。失礼な話だ。恋人のことは私から振ったのだ。あまりにも嫉妬深い奴だったから。

 ええと、それからなんだっけ。そう、これ。「ブルームーン」。ブルームーンのカクテル言葉は「叶わぬ恋」。失恋したばかりの女に贈るには皮肉が利きすぎている。最近ドラマで話題になっていたから選んだだけで、酒には詳しくないのだろう。男の前のグラスはさっきから全然減っていないし、私はもっと強い酒が飲みたい。

 んで、「さしすせそ」? 令和の世に、今更「さしすせそ」で喜ぶ男なんているのかしら。いや、いるね。目の前に。

「さ」は「さすが」で、「し」「信じられない」、「す」「すごい」、「せ」「センスある」、「そ」「そうなんですか」。上機嫌で講釈を垂れる男に、そうなんだーと愛想笑いを返す。

 新しい出会いを求めて立ち寄ったものの、「なし」だな。

 そう結論づけた私は、さっさと片をつけるため、NG言葉の「たちつてと」で巻き返しを図ることにする。

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さしすせそ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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