鐘の音は今は遠く

レンズマン

本編

「む?」

 風に揺れる花を見て、ドワーフの軽戦士トジドンは歩みを止めた。

「どうしたんですか、トジドンさん」

 反応したのは、タビットの操霊術師サータだ。トジドンは膝をつき、眼下の花に目を近づける。それから、分厚い髭の生えた顎をさすった。

「この花、故郷に生えていた花にそっくりじゃい」

「そう、なんですか……?」

 人間の少女の双剣士シルバが控えめに聞く。トジドンは立ち上がり、風向きを見た。風は西から東へ、山から麓の街へ向かって流れている。馴染み深い風の流れと風景に、錯覚は確信に変わる。

「間違いない。気付かないうちに、ワシの故郷に近づいておったようじゃい」

 遠巻きに見える、外壁の高い要塞都市。街の中央には大きな神殿があって、てっぺんには飽きるほど聞いたあの鐘が吊られている。けれど、町全体を見下ろせるほどの高地に立つトジドンには、その鐘が今まさに揺れていることもわからず、鳴り響く音を聞くこともできない。

「立ち寄りますか……?」

 おずおずと顔色を窺うシルバに、トジドンは首を横に振った。

「依頼の途中じゃい。用事もない、先を急ごうぞ」

「いいんですか、トジドンさん。次、いつ来るかわかりませんよ」

 サータの言うことはもっともだ。いかにドワーフが長命であり、冒険者が各地を転々とする職業だとしても、もう一度あの街を訪れる機会が訪れるとも限らない。それでもトジドンは、あの街に帰りたいとは思えなかった。

「あの街は、力に驕った男の故郷。今のワシが帰るべき場所じゃない」

 それ以上、トジドンはあの街に関心を示さなかった。サータとシルバは目を合わせるが、肩をすくめて微笑み合うだけで、誰もあの街に行こうとは言わなかった。


 神殿騎士トジドンが腕を怪我したのは、彼の人生における最大の転機だった。

 持てなくなった重い斧を捨て、見下していた身分に身を落とす。己は望まぬ道を選ばされたと憤りながらも、神の導きと思えば主を恨むことはできず、かつての栄光に縋ることでプライドを慰めていた。

 いつの日か、自分を見捨てた者どもを見返したい。そんな思いで、トジドンは冒険者になった。だが、いつしかそんな初心は忘れてしまった。

(人の心は移り行くもの。堕ちてしまったと思うのは、自分の思い一つじゃい)

 それは、境遇に立ち向かった姫から学んだこと。導いてあげたいと思わせる、素直な仲間たちに教わったこと。多くの人の笑顔が、気付かせてくれたこと。

「トジドンさん、敵です」

 斥候を務めるシルバの声かけに、トジドンは頷いて武器を抜く。そろそろ手に馴染んだライトフレイルを肩に担ぎ、左手に取り回しの良いヒーターシールドを構える。かつて、大きな斧を両手で構え、神秘の鎧で全ての攻撃を弾き返していたあの頃と比べて、なんと貧相なことだろう。だけど、これが今の自分だ。見てくれはどうであれ、少なくとも己は、今の自分を気に入っている。それが全てだ。

「先手必勝じゃい!」

 開戦を知らせる角笛の音は聞こえない。陣営を示す旗もない。戦いに適した平地でもない。守るべき神殿の大袈裟な鐘は今は遠い。

 坂に足を取られないように地面を踏みしめて、魔力の籠った一撃をお見舞いする。ここがどこであっても、やるべきことはいつも変わらない。戦い、進み、冒険をする。仲間と一緒に。


 風は高く吹いて、花は踊るように身体を揺らす。希望を失った神殿騎士を笑うように。それでも歩み続ける冒険者の道行を称えるように。

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鐘の音は今は遠く レンズマン @kurosu0928

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