〈第1章〉

孤児院にて

 同室のビビが窓を開けたらしい音で、テトは目を覚ました。気持ちのいい、というには冷たすぎる風が頬を撫でる。もう五月も半ばだというのに、世間はやたら寒かった。桜の開花も例年より一週間ほど遅かったという。だが、それにしたって今日は一段と冷えているようだ。窓の外をよくよく見れば、ぽつぽつと小雨が降っていた。そういうことか。テトは掛布団をギュッと体に巻き付けた。

「ねえ、寒いよビビ。」

ビビ、なんて女の子みたいな名前だが、彼はれっきとした男だ。というか、名前が似合っていなさすぎる。髪の毛は短く刈り上げられているし、ソース顔だし、何より体が筋肉質だ。マッチョだ。とてもビビなんて様相ではない。

「おう、目覚ましたか。おはようテト。悪いな。体動かしてるとどうしても暑くなっちゃって。」

「おはよう、ビビ。朝からお疲れ様。暑いんだったら廊下でやったらいいじゃん?」

「それやっちゃうと俺、変な奴みたいにならないか?」

確かに、と二人で笑い合う。ビビは朝に筋トレをするのが日課だ。普段は中庭に出てやっているはずなのだが、あいにくの天気なので仕方がない。ふと枕元の時計を見れば、7時15分だった。もうすぐ朝食だ。テトも覚悟を決め、えいやっと体を起こした。クローゼットから着替えを取り出し、鏡に向かい合う。

 ここは、戦時中に孤児になった子供を集め、街を復興させるために働かせる悪趣味な施設だ。ビビとテトは、10年前ここに引き取られた同期で、しかも共に18歳、同い年である。二人とも名前が無かったので、ここの施設で適当につけられた名前を使っている。と、共通項が多いうえに同室ということで、二人はお互いを双子の兄弟のように思っていた。容姿は全く似通っていないが……。大柄で、力強い印象のビビと違い、テトは中肉中背、少し吊り目であること以外はいたって平凡な見た目だった。鏡に映る自分は、ひどく情けなく見える。くよくよ考えていると、鏡越しに、ビビが筋トレを終えるのが見えた。頭の雑念を振り払い、テトも着替えの手を早める。


 食堂へ行くと、奥のカウンターのそばに見知らぬ人が座っていた。厨房の方を眺めていて顔はよく見えないが、グレーの高そうなスーツに身を包んでおり、それなりの身分がある人のようだ。茶色のおしゃれなハットをかぶっている。見た目の小ぎれいさと裏腹に怪しげな雰囲気があふれ出ているので、他のみんなは、それを避けるように座っているらしかった。

「よう、おはよう。」

声の方を見れば、ドンさんが居た。ドンさんは気さくな太っちょだ。テトやビビと同い年のはずだが、とてもそうは見えない貫禄である。実は筋トレしているビビよりも力持ちで、いわゆる動けるデブだった。

「ドンさん、おはよう。あの人は誰だ?」

ビビが単刀直入にそう聞く。ちっとも声を抑えていないので、テトはやきもきした。もしあいつに聞こえていたらどうするつもりなんだ。ドンさんも同じように思ったらしい。こちらに近づいてきて、あからさまに声を潜める。

「俺が来る前からいたからよく分からんが、さっき院長と話してた。院長、すんごい焦って出てったんだよ。なんか管理の仕方ミスったんじゃねえかな。」

「じゃあ、政府の人?でも軍人って印象じゃあないね。」

「いや、院長が相当ビビってたところを見ると、軍の高官じゃねえかな。院長捕まえに来たのかも。」

「へえ。まあ今の院長はいけ好かないやつだし、辞めてくれるならそれはそれで嬉しいけどな。」

爆弾発言が飛び出したところで、廊下からドタバタと院長が走ってきた。ビビの恐れを知らないぼやきは、間一髪院長に聞かれなかったようだ。ドンさんとテトは二人してビビを睨む。ビビは肩をすくめ、我関せずといった様子で再びスーツ男に注目し始めた。図太いやつだ。言われたい放題だったとつゆほども知らない院長は、食堂の入り口でたむろしていたテトたちには目もくれず、真っすぐにスーツ男の方へ走っていく。

「いや、どうもすみません。なにぶんここも大きな孤児院でして、子供も200人おりますから、資料がなかなか見つからなくて……。」

禿げ頭をさすりながら、いきなり弁明をつらつらと並べ始める院長を、男はジッと睨む。帽子のつばで目元はよく見えないが、キッと結ばれた口が彼の怒りを物語っているようだ。そして、あまり長話を聞く気もなかったらしい。院長の話をいきなり遮って、

「それで、結局見つかったんですか。電脳保持者のリストは。」

「は、はい。もちろんです。こちらに……。」

そうして院長が何かしらの名簿をスーツ男に渡す。テトたちは目を見合わせた。不味い。

 テトたち三人は『電脳持ち』である。戦時中に生物兵器として造られた『電脳持ち』の社会的立場が悪くなっていることは三人も知っていた。そもそも、テトたちは6年前の『電脳持ち』子供の一斉処分で取りこぼされた存在だ。そんなわけで、テトたち含め『電脳持ち』は、いつ処分されてもおかしくない状況だった。

 スーツ男は礼も言わずに名簿を受け取り、ぱらぱらとめくり始める。そして、おもむろに口を開いた。

「ここの孤児院は、電脳保持者を戦災復興ボランティアに使っているんですか。」

「え、ええ。ですがもちろん、やつらにコマンドは“一切”使わせておりません!誓って、誓ってそんなことはさせておりませんので……。」

嘘をつけ。力仕事に便利なドンさんは特に、テトやビビたちも結構頻繁にコマンドを使って仕事させられている。それを言ってしまうとこちらの立場が危ういので、絶対に口には出せないけれど。

「ふん……。まあ、別に電脳保持者を使うのに、届けを出せなんて取り決めはありませんからな。特にそこを責めるつもりはないです。」

「は、はは……。どうもありがとうございます。」

「政府も最近ちょっとしたプロジェクトを始めましてね。せっかくの電脳保持者、有効活用しようということになったんですよ。」

「……ハーグ条約があるのに、ですか。」

「他国だってあれをきっちり全部守っているわけじゃないのでね。けしからんことですが、むしろあまり守られておりません。まあ、そんなわけで、院長に相談があるのですが。」

「あ、あの、さっきから思っていたことなのですが、人払いした方がよろしいのでは……。」

院長がもっともらしい提案をするのを、スーツ男は手で制した。

「いえ、これだけ子供たちが集まっていればむしろ都合がいい。相談というのは、ここの電脳保持者6名を、こちらで引き取りたいというものです。ここに大方揃っているでしょう?私の前に連れてきてください。」

言葉遣いこそ丁寧だが、それは有無を言わさぬ力を孕んでいた。


 「まさか、こんな形でここを出ることになるなんてなあ。」

ビビが感慨深そうにそうつぶやく。テトも同感だった。結局あの後、院長はスーツ男の要求を丸のみした。それで、テトたち電脳持ちは政府に引き取られることになったのだ。いや、正確には引き取られるのは軍の方らしい。スーツ男の正体はドンさんの想像通りだったということか。今、テトたちは荷造りのために一度それぞれの部屋に戻っている。そうは言っても、ここの孤児院の子供はろくに持ち物を持っていなかったが。それに、院長から支給されたザックは小さすぎて、着替えを詰め込むので精いっぱいだった。衣服でぱんぱんに膨らんだザックが完成し、ふう、と一息ついてテトは立ち上がった。

「こんなものでいいか。」

見れば、隣のビビも荷造りを終えたらしい。彼としては、筋トレの相棒であるマット(廃品の中から拾い、ビビが一昼夜かけて洗いまくった逸品だ)を置いていくことに未練があるようで、何度もザックに入れようと苦悩していたのだが、もう諦めることにしたらしい。二人で出来上がったザックを背負ってみれば、悲しいほど軽い。思わず顔を見合わせて苦笑いした。

「行くか。」

「うん。確か、エントランスの前で集合だったよね。」

 テトたちが部屋を出ると、丁度近くの部屋からドンさんたちが出てくるところだった。ドンさんの同室はシンという少年だ。まだ16歳でひょろっとした小柄な子だった。ドンさんとは真逆の体型だったが、あれで案外仲がいい。そして、シンも電脳持ちだ。

「シン、おはよう。朝はやっぱり寝坊してたのか?」

「おはよ、ビビ。テトもね。うん、寝坊した。ドンさんが部屋に戻ってきて吃驚したよ。まさかこんな形でここを出ることになるなんて。」

シンは奇しくも15分前のビビと同じ感想を述べた。いや、これは今回ここを出ることになった全員が感じたことだろう。皆、複雑そうな表情を浮かべている。

「なんか、別に寂しくはないんだよな。」

ドンさんがぽつりとつぶやいた。これも、同感だった。ビビもうんうんと頷いている。ここの職員はあんまり好きじゃないし、他の子供たちだって、別に家族ではないのだ。いや、家族なんてテトたちに居たことはないけれど。

「かと言って、ずっと生活してた場所から離れるのはちょっと違和感あるんだよな。」

ビビが柄にもなく繊細なことを言う。その様子が可笑しかったのか、シンがにやにや笑う。それに目ざとく気づいたビビがシンの首を軽くしめようと手を伸ばす。それを読んでいたシンが「うひゃあ」とドンさんの背後に逃げ込んだ。ビビがそれを追いかけ、ドンさんを中心に追いかけっこが始まってしまった。いつも通りだ。ドンさんと顔を見合わせる。しょうがないなあ、と笑いあった。

「ま、ぐだぐだしててもしょうがないし行こうよ。」

テトは、まだ現実を捉えきれていない心を静めて沈めて、そう声をかけた。


 エントランスに出ると、他の二人は既に外に出ていた。実はこの二人のことはあまりよく知らない。孤児院の子供たちは仕事内容や仕事場所によって数十のグループに分けられている。会話は基本グループ内でしかしないので、別グループに属している場合、顔を見たことすらなくても不思議ではない。ちなみに、孤児院のグループ名はそのまま子供たちの名字として使われている。書類上名字があったほうが、都合がいいのだそうだ。テトたち四人のグループは「今井」と呼ばれていた。最も、子供たちはあまり自分の名字に頓着していなかったが。テトも、街でたまに名前を聞かれたときに「そういえば」と思い出すくらいである。そこにいた二人は、たまに顔を見たことがある程度の二人組だった。確か「上田」組の子たちだったと思う。一人は男の子で、もう一人は女の子だ。どちらもこちらにはあまり興味がないようだ。スーツ男は、少し離れた壁際で優雅に佇んでいたが、六人揃ったのを確認して近づいてきた。食堂のときより近くで見れば、男はかなり厳格そうなやつだった。歳は50代前半といったところか。適度にしわを刻んではいるものの精悍な顔立ち、衰えを一切感じさせないピシリと整った振る舞いは、見るものを自然と緊張させた。男は近づいてくるなり、

「いきなり連れだすことになってしまって申し訳ない。君たち、準備はもう済んだかね?」

皆警戒して答えようとしない。ビビがただ一人、

「おう。」

と返した。流石だ。男は返答を期待していなかったらしく、驚いてビビの方をちらっと見た。シンがまたにやにやとしている。こいつもこいつで大物だな。

「いい返事をありがとう。さて、今回君たちには、軍からの収集がかかった。君たちのように電脳手術を受けた人材は貴重だ。軍の学校で丁重に育成させてもらおうと考えている。そこで、君たちに聞きたいのだが、この決定に不満があるものはあるかね?」

今度こそ、誰も声をあげる者はいなかった。男は満足そうに頷いて、

「よろしい。では、外に車を待たせているから、順番に乗り込んでくれたまえ」


 外の車は、今まで見たことがないほど綺麗な、黒光りしたやつだった。運転席には、黒いスーツを着こなしたサングラスの男が座っている。車といえば、戦争が始まる前から使われているオンボロか、軍需工場から廃棄された屑鉄を組み合わせて造られたガラクタしか知らなかったので、感動すら覚えた。他の面々も少なからずそういった感慨を抱いているようだ。だが唯一、先ほどまでビビの奇行ににやついていたシンが、打って変わって浮かない顔をしている。テトは、男が車の反対側、運転席の方へ歩いて行ったのを見て、シンに声をかけた。

「おいシン、大丈夫か?」

「うん、いや、大丈夫じゃないかも。」

「え?」

「あのオッサン、嘘ついてるぜ。」

「なんだと!?」

盗み聞きしていたらしい。ビビが相変わらず大きな声でこちらを振り返った。こんな時くらい静かにしろ。指を口に当てるジェスチャーでビビを黙らせる。スーツ男に聞こえていないかひやひやしてそちらを見れば、男は運転手と何事か話しているようだ。こちらに気づいた様子はない。助かった。

「で、何が嘘だったんだ。」

ドンさんも真剣な顔でシンに問いただす。

「みんな知ってると思うけど、おれは電脳のおかげで人の心がちょっとだけ読めるんだ。もちろん、人の心って複雑だから、詳しくどう思ってるかは言葉にするのが難しいんだけど。」

「そんなことはいいぜ。何がどう嘘だったのか、早く教えろ。」

せっかちなビビが、今度こそ声を潜めて先を催促する。それ自体結構な天変地異だったが、今はそれどころではない。

「軍の学校で丁重に育てる、とか何とかの部分だよ。あそこは百パー嘘だ。それで、ここからは多分だけど。」

ここでシンは一瞬言いよどんだが、すぐに意を決して、

「俺たちは多分、殺されるかそれに近い状態にさせられる。と思う。とにかく嫌なイメージが頭の中に流れ込んできたんだ。」

そう言った。その時、車のエンジンがかかる音が響いた。

「待たせてしまって申し訳ない。準備ができた。さあ、乗り込んでくれたまえ。」

車の反対側から、男がそう声をかけてくる。

「どうする。」

ビビがシンに声をかける。

「頭に流れ込んできたあの男のイメージ、マジで嫌な感じだった。俺は絶対に乗りたくない。」

「今の話、本当なんですか?」

シンが震えた声でビビに答えるのに被せて、「上田」の女の方がそう聞いてきた。

「どうせ噓でしょ。軍からの給料とかを独り占めしたいから俺たちを騙そうとしているんじゃないの。」

こちらが何かを言い出す前に、「上田」男がそう決めつける。給料は別に独り占めできるものじゃないだろ、とつっこみたくなった。そんな場合じゃないのに。

「おいお前、今何つった?」

案の定、ビビがすぐさま「上田」男ににじり寄った。と、

「何をぐずぐずしているんだね。今更おびえることもないだろう。」

スーツ男が異変を感じ取った。こちらに歩いてくる。不味い。ビビがお構いなしに「上田」男の胸倉をつかんで持ち上げた。ビビはあれで案外冷静で、脅す、というより黙らせるためにああしているようだ。その証拠に、ビビはスーツ男に

「すいません。なんかいきなりこいつがゴネ始めちゃったんです。」

平然と嘘をついた。持ち上げられている「上田」男は信じられないものを見るような目で、「違う!」と叫んだが、すぐにビビに睨まれて黙った。ちょっと可哀想になってきた。相方の「上田」女は、どうしたらいいのか分からずオロオロとしている。

「ゴネる?さっき君たちの意思確認はしたはずだが。」

「いや、それがこいつ、なんかアンタが嘘ついているって言い出したんですよ。」

と、絶賛現在進行形で嘘をつきながら、ビビがスーツ男にそう明かした。またビビの腕の中で「上田」男が暴れるが、ビビはびくともしない。日頃の筋トレの成果が出ている。一方のスーツ男は困惑し、どうしたものか決めかねているようだ。そりゃそうだ。その隙を見逃さなかったドンさんが更に、

「こいつによると、オッサンが俺たちを殺そうとしているって言うんです。」

そうカマをかけた。上手い。これでシンがコマンドを使える。

「急に何を言い出すかと思えば、酷い言いがかりだな。」

スーツ男は、ドンさんの言葉を笑い飛ばすようにそう言った。その瞬間、ビビとドンさんがシンとテトの方を振り返る。テトは頷いて、口を開いた。おぞましさに、今すぐ逃げ出したい衝動を抑えながら。

「そうだね。。」


 「模倣するコマンド」。テトのコマンドは、直前に見た他人のコマンドを模倣するというものだ。今回、シンのコマンドを模倣して使わせてもらった。当然ビビもドンさんもこのことを知っているので、先ほどのようなリアクションになったというわけである。にしても、シンはよくこの心を読んで卒倒しなかったものだ。あまり具体的なイメージが流れ込んできたわけではないが、


「胎児の摘出・怨嗟・使い捨ての肉・巨大な脳・『絶対に理想を具現化する力』・人骨・コントロール・期限切れの人肉・内臓の独り立ち・強制交配……。」


無理やり言語化するなら、思い出せる限りではこのような感じになる。映像は思い出したくない。説明もしたくない。テトはあまりの気持ち悪さにクラクラしそうになりながら、

「やっぱりそのオッサンは俺たちに嘘ついてたよ。シンの言う通り、単純に殺されるってわけじゃないけど、むしろ殺されるより悪いことになる気がする。」

シンも頷いた。

「二回読んで分かった。そのオッサンについて行ったらやばい。おれは絶対に行かない。」

「て、ダチがそう言っているんですが、本当のところどうなんですか、オッサン。」

いつの間にか「上田」男を地面に放り出していたビビが男に詰め寄る。男は意外なことに、全く取り乱さなかった。ただ静かに、こう呟いた。

「できれば君たちには無抵抗でいて欲しかったものだ。」

瞬間、スーツ男の腕が巨大な獣(例えば熊のような)の腕に書き換わり、ビビのわき腹から横へ、容赦なく振り抜かれた。ビビの体がひしゃげる……。

「体を液体化するコマンド」。スーツ男の腕はぬるり、とビビの体をすり抜けた。二度目になるが、あれで意外とビビは冷静なやつだ。何の警戒もせずに危険に近づくタイプではない。ビビのコマンドは、体を一部でも全部でも、任意の場所を液体と化すことができるのだ。スーツ男が厄介だな、と呟く。すぐさまドンさんと息を合わせてスーツ男に飛び掛かる。「体の質量を上げるコマンド」。ドンさんのコマンドを模倣したテトは、ドンさんと二人掛かりでスーツ男を突き飛ばしにかかる。ビビごと突き飛ばしそうな角度だが、前述のとおりビビの体は今、物理的干渉をほぼ受けない……。

しかし、インパクトの瞬間、スーツ男の体がフッとその場から消えた。すかされた形のテト、ドンさんは思わず転倒しそうになる。それを前から、液体化を解いたビビが支えた。慌てて周囲を見渡す。油断した。コマンドは一人一つのはずだ。なぜスーツ男は瞬間移動など出来たのだ……?その時、後ろでぐしゃり、と不快な音が響いた。

 

「シン!!」

一人、そちらを向いていたビビが叫んだ。まさか。慌ててそちらを振り返れば、孤児院の壁に打ち付けられたシンがぐたり、と地面にへたり込んでいた。意識を失っている。熊の爪に掴まれた痕だろうか、シャツが所々破れ、ちらりと見えている肌には痛々しい穴が空いている。血反吐も吐いたらしい。辺りには見たことがないほどの血が飛び散っていた。途端に震えが止まらなくなる。シンが危ないのにも関わらず、誰も動き出せない。

復興ボランティアで行った町では、喧嘩など日常茶飯事だった。流血沙汰だって初めてではない。しかし、コマンドを使った闘いはこれが初めてだった。勝てると思った。相手は一人で、コマンドも厄介そうではなかった。少し脅せばすぐに帰ってくれると、心のどこかでそう高を括っていた。しかし現実には、シンが傷つけられ、地面に倒れ伏している。テトが、テトたちがうまくやらなかったせいで、シンが命の危険に晒されている。今相手はコマンドを少なくとも二つ使ったのだ。わけが分からない。わけが分からないものは、怖い。テトは怖かった。分からない。分からない分からない分からない分からない分からない分からない。

「いやああああああああああああああっ!!!!」

その時、「上田」女がつんざくような悲鳴を上げた。スーツ男が、今度は「上田」男を持ち上げたのだ。「上田」男の首に、スーツ男の熊の爪が喰いこむ。その瞬間、「上田」女から、白いガスが周囲一帯を覆うように噴出した。どうやらコマンドを使ったらしい。何も見えない。テトのパニックは輪をかけてひどくなる。動悸が止まらない。呼吸が浅くなる。

「おい、逃げるぞ。」

ビビの声だ。そちらを振り返ると、ぼんやりとビビの姿が見えた。動けない。足が、動き出さない。

「まったく、しょうがないやつだ。」

ビビがテトの腕を掴み、それを肩に回してテトの体を持ち上げる。

「おい、動け。俺も余裕ないんだ。頼む、テト。動け。動いてくれ。」

見れば、何とあのビビが、声を震わせ、歯をガタガタと言わせている。腕を回された肩も、気づけばブルブルと震えていた。少し勇気が出た。勇気とは違うかもしれない。決心と言った方が近いだろうか。お互いに助け合わなければと、そう思った。しかし、

「でも、シンが。」

「シンは、多分助からない。俺も直接見たわけじゃないけど、多分内臓をやられた。あれは、あれは……。」

ビビは、最後まで言い切れなかった。テトもそれ以上聞きたくなかった。

「ドンさんはどうするの。」

「ドンさんが先に俺に言ったんだ。逃げるぞ、って。後で落ち合おう、とも。」

「……分かった。」

まだ震えは止まらなかった。ビビも震えている。テトたちは、二人三脚で何とか走り出した。白いガスは、いつまでも体にまとわりついて離れなかった。

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