檜扇のセカイ

 「そう上手くはいかないよな。」

おじさんがポツリと呟く。何を言っている。そんな悠長に構えている場合ではないのに。研究所の警音がけたたましく鳴り響く。侵入者を阻む機能は、次々と解除されているらしい。足音が近づいてくる。おびただしい数だ。隣のいつはを見ると、きょとんとした顔をして玄関の方を振り返っている。まただ。こいつはいつも表情を取り繕う……。

「急いで話すぞ。二人ともよく聞け。」

さっきまでと打って変わって、おじさんは厳しい口調で話し始める。杏が知らないおじさんの顔だ。この人は、こんなに気丈な人だったのか。

「二人とも、とにかく逃げるんだ。事前にほら、食堂の上の窓を開けておいた。あそこだ。見えるだろう。」

こうなることが分かっていたのか、この人は。おじさんの指さす方には、確かに開け放された窓がある。しかし、

「なんであんな高い窓にしたの。届かないよ私たちじゃ。」

窓まではおよそ3mある。食堂のドームのような天井は特別高く設計されている。その一番上の窓だ。届くはずがない。

「まだだ。最後まで聞け。いいか、いつは。お前のコマンドのことだ。」

急に話を振られたいつはが、普段と異なる真剣な顔でおじさんに向き合う。

「お前のコマンドは、『翼』。自分の背中に翼を生やすことができる。ほら、丁度ここの天井に書かれている天使みたいにな。だから、その翼で杏を運んであげるんだ。そして、ここから運動場の方角に向かってずっとずっと飛べ。海を越えて、九州本土まで逃げるんだ。」

正気だろうか。ここから鹿児島までは50kmほどもある。とてもいつはだけで渡れる距離ではないだろうに。

「いいか、いつは。お前は最後の電脳だ。国の最高傑作だ。お前の電脳は疲れを知らない。飛ぼうと思えばいくらでも飛べるだけの力がある。だから、自分を信じて飛び続けろ。いいな。」

「うん。分かったよ。」

以外にもあっさりと、いつははおじさんの言葉を受け入れた。なんで本人じゃなくて横で聞いている私の方が混乱しているんだ。いつはは続けて、

「でも一つだけ教えて。」

「なんだ。」

「私は疲れない。じゃあ杏だけじゃなくておじさんも運べるよ。おじさんは、どうするの。」

それは、あまりにも残酷な問いかけだった。檜扇おじさんの覚悟は、誰の目にも明らかだった。いつはだって分かっているはずなのに。しかしいつはの語調は、普段と打って変わってしっかりとしたものだった。いつはは、おじさんの覚悟を受け止めるつもりなんだ。

「俺はお前たちを守るよ。」

おじさんは短くそう答えた。

「そう。ありがとう。」

いつはも多くを語らなかった。それだけで、二人は満足したようだった。待って。私はまだ何も決めてない。私の心はまだ、6年前のままなのに。

「行くよ、杏。」

いつはが私の腕を取る。いつの間にか、彼女の背には、眩いほどに純白の大翼があった。

「待って!」

ようやく、声が出た。酷く震えていて、掠れたような声だった。

「嫌だ!おじさんも来て!じゃないと私、行かないから!」

おじさんは私の方を見てくれない。何も言ってくれない。じっと食堂の入り口を睨んでいる。侵入者が食堂の扉の前に到着した気配がした。

「おじさん!!」

「もういいでしょう、杏。行くよ。」

「何も良くないっ!!」

杏はいつはの手を振りほどこうとする。しかしその時、杏の体がふわりと浮いた。踏ん張れない杏は、いつはを振りほどけない。思っていた以上に力強い羽ばたきで、いつはは食堂を飛び出した。


 背後でいつはと杏が飛び立ったのを感じ取って、ようやく檜扇は安堵した。目の前の扉はついに大きく開け放たれた。一つ心残りなのは、杏に別れの言葉を言えなかったことか。言わなかったのではなく、言えなかった。何か言おうとはしたが、言葉が出てこなかった。何か言ってしまうと、今張りつめている力が全部抜けてしまう、と思った。

「ごめん、杏。」

誰もいない背後にポツリと呟く。

「残念です、射干玉さん。」

侵入者たちを率いていたのは宮内だった。やはり帰っていなかった。ジッと待っていたのだ。

「僕としても、半信半疑だったんです。あなたの真面目さも、情の深さも知っていましたから。結果として、疑っておいて正解といったところですがね。」

言いやがる。最初から疑ってかかっていただろう、お前は。

「……今やあなたは軍紀違反者だけれど、その処分は私に一任されている。私はあなたを殺したくないんです。だから、コレどけてくれませんか?」

コレ、とは食堂を覆いつくす黒煙のことだろう。古いものだが、これが檜扇のコマンドだった。これしかできないが、あの二人を逃がすうえでは十分だ。

「一つ教えてくれませんか、宮内さん。」

そして、これは最後の確認だ。これが通れば、あの二人の安全度は飛躍的に上がる。

「なんですか。それに答えたらコレ、どけてくれるんですかね。」

「お生憎様。死んでもどかさないですよ。まあ大したことではないです。」

「じゃあ、それに答えたらあなたを殺さなければなりませんね。どうぞ、何ですか。」

息を吸って、吐く。あの人は信頼できる。あの二人を眺める目は、いつも慈しみに満ちていたから。残念ながら、杏は最後まであの人に心を許していなかったようだけれど。これさえ通れば。覚悟は決めた。

「ここに配属されていた渡さんは、どこへ行ったんですか?一応あなたの部下だったんでしょう。」

それを聞いた途端、宮内の形相が変わった。

「渡、急に連絡が途絶えたと思っていた。そうか、そういうことか。」

その様子では、関東への電信も盗聴されているまい。檜扇は唇をニヤッと釣り上げた。

「悪いな、宮内さん。俺の勝ち逃げだ。」

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