セカイの歪む音

 ぼんやりと星を眺める。6年前の研究所閉鎖以来、杏は星を見ることが多くなった。『姫』は「特別だから」殺処分されずに済んだ。そして、私は『姫』のお世話役として残された。生き残ってしまった、という気持ちが強い。私は元々殺される予定だった、とは、病気で退職してしまった前所長が言っていたことだ。なんでも、檜扇おじさんが私を守ってくれたらしい。もちろん嬉しかったが、死んだ方が楽だったのではないか、とも思う。おじさんはあの後何度も、仲間たちを守れなかったことを謝ってきた。最近では殆ど無くなったが、研究所が閉鎖した最初の1,2年はすごく憔悴してしまっていて、日に何度も何度も謝られた。うんざりしたけど、おじさんのことが嫌いな訳ではなかったし、おじさんのメンタルを考えるとジッと聞いてあげるのが一番だろうと思った。でも、おじさんをあんなに憔悴させてしまったことすら自分のせいだと思えて、おじさんの謝罪は当時の私に重たく伸し掛かった。その重みは今も消えていない。瞬く星は、それを軽くしてくれている、のだろうか。あまり分からない。でも、気が付くと星を見上げてしまうから、何となくそういうことなのだろうな、と思い込むことにしている。

 今、旧研究所に残っているのは4人だけ。『姫』と私、檜扇おじさんに食堂管理の女の人。食堂管理の人はつい2年前入ってきた新人さんだ。名前を聞く気は無かった。ご飯時だけ出勤してきて、すぐに帰ってしまうから。中央は、新しい所長をよこさなかった。「秘密を知る人間を極力少なくしたいんだろう」とおじさんは言っていた。『姫』はそんなにすごい秘密なのか。実は私は、『姫』がなぜ特別扱いされているのか知らない。それも現状の疑問につながって、より私を苦しめているようだった。

 寒くなってきた。そろそろ建物に入ろうかな。建物は、あまり6年前と変わっていない。日頃おじさんが無心で管理しているおかげだ。そうでもしていないと、辛くてとてもまともで居られないのだろう。目指すは三階の廊下の奥。『姫』の部屋だ。

 部屋に入ったとき、『姫』は窓から髪の毛を垂らしてジッとしていた。

「何してんの?」

「渡さんが新しく持ってきてくれた童話にこういうお姫様がいてさ。」

「渡さん?」

「え?ほら、食堂の人だよ。嘘だ、まさか知らないの?」

「名前知らなかった。ていうか、仲良かったんだ。」

「うーん?仲良いのかな。多分向こうは私のこと怖がってるだけだよ。」

ふうん。まあ、あまり深く聞くことでもないか。

「それより、窓枠から髪の毛垂らすとどうなるのさ。」

「この髪が地面に付くくらい伸びたら王子様が来るんだよ。」

「ええ。そんなわけないじゃん。絶対なんか勘違いしてるって。」

「むう。だったら杏ちゃんも読めばいいじゃん。」

拗ねた。可愛いやつだ。整った顔をした子だから、頬をふくらませる仕草だけで芸術作品みたいになる。ずるい。こんな子が国の最重要機密だなんて絶対嘘だ。

「ま、また今度読ませてもらおうかな。それより、今が何時か分かってる?そろそろ寝る時間だよ。」

ホントだ!とすぐさま窓枠から離れ、『姫』はドタドタ寝る準備を始めた。檜扇おじさんはもう寝てしまったろうか。

「おじさんは?」

「さっき部屋の電気消えてたよー。」

じゃあ、おやすみの挨拶はいいか。杏もパジャマに着替え、布団にもぐりこんだ。

電気の消えた暗闇の中、寝つきが良くないときいつもそうしているのだが、杏は考え込む。この生活はいつ終わるのだろう。いつか私たちは幸せになれるのだろうか。杏は外の世界をあまり知らない。情報源がおじさんと食堂の人しかないので、外の生活は薄らぼんやりとしかイメージできない。あと知っていることといえば、10年前に戦争が終わったことくらいだ。もう10年だ。私たちだってそろそろ許されてもいいじゃないか。だって私たちは何もしていないんだから。ただ生まれただけで、なぜこんなに苦しまなければならないんだろう。なぜ。考えても仕方がないなぜばかりだけれど、それが今の杏を形作っている大切な、大切な要素だった。


 朝、目が覚めると玄関が騒がしかった。こんなことは今までにない。何となく胸騒ぎがして、急ぎ足で階下へ向かうと、檜扇おじさんが誰かに縋り付いているのが見えた。

「頼みます。宮内さん頼みます。あの子たちは何にも知らないんだ。そっとしておいてあげて下さい。あの子たちはここで一生を終えるんだ。それでいいでしょう?」

「射干玉さん。絆される気持ちは分かります。何せあの子たちが生まれた時から一緒にいるんですからねえ。でもあんたは軍属だ。命令には従わなくちゃならない。」

「何が軍属ですか。戦争は終わったんです。もう10年も前にです。」

「はあ。長く引きこもりすぎましたね。何も知らないんだから。いいですか。正式に執行されるのは一週間後です。それまでじっくりお別れを済ませて下さい。それに、少なくとも『ID:8128』に関しては死ぬわけじゃないんだ。ただ中央で引き取る。それだけです。だから、ああもう。そんなに泣くことないでしょう。じゃあね。また一週間後に来ますから。」

耳を塞ぎたくなるような問答を終え、宮内という男は去っていった。おじさんは地べたに縋るように突っ伏している。居た堪れなくて、思わず駆け寄った。

「おじさん!檜扇おじさん!大丈夫?」

おじさんは返事をしない。すすり泣きがおじさんから洩れだす。騒ぎが食堂まで聞こえたらしい。渡さんがいそいそと顔を出した。

「渡さんだっけ。おじさん運ぶから、手伝って。」

渡さんは名前を呼ばれたことに少し吃驚したようだったが、すぐに手を貸してくれた。一緒におじさんの脇を片方ずつ抱える。おじさんは抵抗せず、立たされるのだと分かると、自分から立とうとしてくれた。酷く震えている。何度も何度も失敗しながら、ようやく立ち上がったおじさんを二人掛かりで支え、食堂へと運んだ。

 水を飲み、しばらくしておじさんは少しだけ落ち着いたようだった。

「『姫』を呼んできてくれないか。」

「う、うん分かった。私が行きます。渡さんはおじさんのこと見ててね。」

とても大事なお使いだ。人生が大きく動く直前の。自然、早足になった。

 扉を開けると、『姫』は童話集を眺めていた。思わずイラっとしてしまう。おじさんが、私が苦しんでいるのに、この子はいつもそうだ。自分は何も関係ないみたいに振る舞う。6年前のことだって、とっくに気づいているはずだ。自分たち以外の皆が殺されたことなんて。今だって、部屋の窓は空いているのだから、外の騒ぎは少しくらい聞こえていたはずだ。なぜこんなにいつも通りに振る舞えるのだろう?語気が強まってしまうのを感じるが、杏は苛立ちをそのままに吐き出す。

「何のんきにしてるの。聞こえてたでしょ、外の声。おじさんが呼んでるから早く下来て。」

「うん?分かったよ。ごめんね、いつも。」

「は?」

耳を疑う。ごめんねだって。『姫』が謝るのなんて初めてのことだ。いつものほほんと生きているだけなのに。いつも何にも感じないみたいな顔しているくせに。なんで今、そんな悲壮な顔をするんだ。

「ほら、いつも私のことで迷惑かけちゃってるから。今回もそうなんでしょ。何ていうか、いつも知らんぷりしておいた方が良いことが多いから。ごめんね。」

深く、息を吐く。この子はどこまで分かっているんだろう。

「もう、いいよ。私たちにはどうしようもないことだから。それより早くして。」


 『姫』を連れて食堂に戻ると、渡さんが居なくなっていた。檜扇おじさんが追い出したのかな。と、こちらの姿を認めたおじさんがおもむろに口を開いた。

「なあ、『姫』。名前は欲しくないか。」

どういうことだ。さっきまでの切迫した雰囲気はどこへ行ったのだ。困惑する杏と対照的に、『姫』は目を輝かせる。

「うん、欲しい。おじさんが付けてくれるの?」

「ああ。ずっと考えていたんだ。ほら、ずっと『姫』だけだとあんまり他人行儀すぎるからな。」

「ありがとう。うれしい。聞かせて。」

それを、杏はジッと聞いていることしかできない。おじさんは、心の中で何か大事な覚悟を決めている途中なんじゃないか。この名づけをさせてしまったら、もう元の、いつものおじさんではなくなってしまうのではないか。その予感がありながら、杏は何もできない。

「ああ。電脳保持者には番号が振られるだろう?杏も、俺も、『姫』にも首筋に彫られてるはずだ。『姫』の番号はID:8128だったな。実はそれは国内最後の電脳番号だ。珍しいぜ、これは。」

ははは……とおじさんが乾いた笑いをあげる。

「でな、それ見て思いついたんだ。『出射いでやいつは』、良いと思わないか。ほら、俺の名字のさ、『射』を入れてみたんだ。」

なんだそれ。まったく可愛くない。不器用にもほどがある。そんなダジャレで名前を付けるくらいなら、とっととこの話は終わって、これからの話をしないと。杏が、私自身が切り出さないと。でも口は動かない。焦りだけがじわじわと胸を焼いている。

「いつは、いつはかあ。良いね。おじさん、ありがとう。すごく嬉しい。」

杏の焦りを置いて、『姫』が、『出射いつは』がおじさんに感謝を述べる。やめろ。受け入れるな。お前はどこまで分かっているんだ。なぜこの状況で、そんなに落ち着いていられるんだ。

「そうか、気に入ってくれたか。そうか。そうか。ようやく、何というか。なんだか、肩の荷が降りた。じゃあ、もう一個大事な話をみんなにしないとな。」

そういうと、おじさんは大げさに、芝居がかった様子で深呼吸する。

「あのな、ちょっと考えたんだけどな。あの、な」

おじさんが言葉を詰まらせる。見ていられない。次に紡がれる言葉を、絶対に聞き逃してはならないその言葉を、絶対に聞きたくない。


「二人とも、おじさんと一緒に、ここを出ないか。」


その瞬間、けたたましい音を立てて、正門が吹っ飛んだ。

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