第2話 姦姦蛇螺2
ヘキオはユミに追いついて、彼女の腕を引いて走る。ヘキオがカメラのライトで前方を照らす。その後ろにいるミカミは、カメラライトでは照らされていないヘキオたちの足下に懐中電灯を向ける。三人は木を避けて、道なき道を走り続ける。
木が月明かりを遮り、闇を濃くする。ライトや懐中電灯が照らす範囲は狭い。光は闇に吸い込まれて、周囲の様子はほとんど見えない。 草や石に何度も足を取られそうになる。それでもどうにか足を止めるずに進む。
ユミが短い悲鳴を上げる。彼女が転んだ。
「ユミ! 行くぞ!」
すぐさま止まったヘキオが、彼女を起こして走り出そうとする。
ミカミは後ろを見る。風で草や木の葉が揺れているが、蛇行しながら近づいてくる様子はない。あれはいない。
「待て! もうあれはいない」
「本当に?」
ヘキオがカメラライトで後ろを照らすが、不審なものは見えない。
「あれ、幽霊なのか!」
浮かれた声を出したヘキオは、ミカミを見る。あれほど必死に逃げていたにもかかわらず、ヘキオは笑顔を浮かべていて、恐怖など感じていない様子だ。
ユミの顔からは血の気が引いていて、ヘキオの腕にすがりついている。だがヘキオは、そんな彼女を意にも介さずに周囲を見る。
「ミカミ、どこにいる?」
ヘキオが言っているのは幽霊のことだ。カメラで周囲を撮影して、ガサガサと草が揺れるとすぐにそこにレンズを向ける。
「あそこ?」
「やめてよ」
ユミが注意する。彼女の顔は青白く、走ったせいか恐怖のためか呼吸が浅い。
ヘキオは「撮れているかな」とカメラを手に取り、画面を操作する。
あれは蛇だった。蛇の幽霊だった。ものに触れることのできる幽霊。
ぞっとする。ミカミは蛇が自らの首に巻きつくところを想像してしまい、背筋が震える。
「帰ろう」
そのミカミの言葉に、ユミはホッと安心する。だが、ヘキオは不満顔だ。
「こんなチャンスなのに帰るなんてもったいない。あの幽霊が撮れれば、登録者数が増える」
カメラに映っていなかったのだろう、ヘキオだけがここに残ると言い出した。ヘキオが手早くカメラをセットして、撮影開始する。
「よし、あそこに戻ろう」
そう言ったヘキオは、ぐるりと見回す。困惑顔になって、指先を彷徨わせる。
「どっちから来たっけ?」
ハッとする。周囲は草木が生い茂っており、道はない。来た道がわからない。
「覚えてないの?」
「走り出しのはお前だろ」
非難するようなユミの言葉に、ヘキオが言い返す。ヘキオはミカミに目を向ける。
ヘキオは首をする。
覚えていない。ミカミはつい先ほどのことを思い出す。しかし、前を走るヘキオとユミを追いかけていて、周囲にはあまり目を向けていなかった。覚えているのは、懐中電灯で照らされた部分だけ。周囲の光景との違いはわからない。
自分たちがいまどこにいるのかわからないことに、ヘキオも焦りを感じているのだろう、あちこちにライトを向ける。
「そうだスマホ」
ユミはポケットからスマホを取り出す。
その光につられて、ヘキオとミカミが顔を寄せる。いつも見ているこの光が、この状況を打破するような、自分たちを救ってくれるようなものに感じるのは、それほどいまの状況に不安を覚えているせいだ。
ユミの指が素早く動き、マップアプリをタップする。だが、画面は変わらない。タップする。変わらない。
「なんで」
何度も何度も何度も、タップするが画面は変わらない。ユミは「なんで」と叫び、スマホを押し続ける。
ミカミは自分のスマホを取り出す。操作しようとするが、反応しない。ロックを解除できない。
「僕のも反応しない」
「俺もだ!」
ヘキオが続く。3人のスマホが使えなくなったことに、ヘキオの顔もこわばる。先ほどまでの余裕は見えない。
3人で話し合い、周囲を見て回ることになった。いまいる場所に枝を刺して、目印にする。暗闇で似た景色の中を歩くため、迷っても枝があれば、最初の場所がわかる。
3人が周囲を照らし、来た道を、見たことのある場所を探す。
1度目は、5分ほど歩き進んだところで引き返した。光を頼りに、少しずつ進んでいたので、そこまで離れることはなかった。だが、目に見えるものがまったく変わらなかったため、元の場所に戻れるうちに引き返した。
1度目の方向を、仮に北とする。
2度目は、1度目とは正反対の南に向かったが、こちらも結果は振るわなかった。なにも成果を得られない。不安が大きくなる。そうなると、周りの暗闇が濃くなったいくような気がする。自然と、3人は身を寄せ合うように歩くようになる。
3度目は、東にあたるの方向に進む。こちらも5分ほど経つが、道はおろか風景に変化はなかった。そろそろ諦めて戻ろうとしたとき、ユミが声を上げてライトを向ける。
「ねえ、これって縄だよね。ほら、あれ、しめ縄」
ライトを左右に向ける。しめ縄は多くの木々に張り巡らされているようで、明かりで見える範囲はしめ縄がある。
汚れてくすんでいるしめ縄を見て、蛇の幽霊が想起する。2匹の蛇が体を絡め合い、獲物を待っているようだ……。
違う。
化け物はしめ縄の中にいる。
幽霊の青年が言っていたことを思い出す。このしめ縄は、化け物を、姦姦蛇螺を閉じ込めている封印だ。
「危ない気がする」
そう言ったのはヘキオだった。
「こういうところは入らないほうがいい。映画とかも怪談でも、入るとろくなことがない」
「でも、しめ縄って神社とかにある奴でしょ。前も動画でやってたじゃん。神様がいるところを穢さないようにするためのものだって」
ユミは中に入ったほうがいいんじゃない、とヘキオに言う。ユミが言う動画を作ったのもヘキオであるため、彼女の言葉を否定しきれないようだ。
ヘキオが困ったようにミカミを見る。
ミカミは、首を横に振る。
「確かに、俗世と神聖な場所を区切る意味があるけど、それ以外にも、こういう心霊スポットでは注意を促すために使われることもある」
ユミが言った動画には、ミカミも手伝っていた。そのときにしめ縄の起源について調べたことがある。日本神話に登場する話に天岩戸がある。詳しくない人でも知っている話だ。天岩戸に隠れてしまった天照大御神を外へ出したあと、天岩戸に入れないように入り口に張ったのがしめ縄だ。
神聖なものが入れないようにするためにも使われている。
幽霊の青年の言葉通りなら、このしめ縄の中には、神聖とは真逆の化け物がいる。
考えにふけっているミカミの顔は強張り、冷たい汗が顎から落ちる。
そんな表情に、ヘキオとユミもしめ縄から、不穏な気配を感じ取ったのか、顔がこわばる。
ここから離れたほうがいい。
枝の場所に戻り、3度目のこことは正反対の場所に向かえば、元来た道に戻るはずだ。
「もど――」
ミカミの言葉に重なるように、声が響く。何人もが思い思いに絶叫を上げたような、ミカミたちの体の中に反響するような低い声だ。不安を駆り立て、神経を逆なでするような声に、ミカミたち3人は体をすくませる。
自分を守るように、体を硬くする。
「なにいまの」
小さな声で言うユミの足は小刻みに揺れている。
ミカミもヘキオも答えることはない。声はどこから出たのかはわからない。声を出した存在に対し、ミカミもヘキオも警戒する。
声が響く。聞くだけで心が締め付けられるような声だ。
ユミは泣きはじめ、嘔吐く。恐怖が限界を迎えて、涙となって出た。呼吸は浅くなり、口から漏れる嗚咽もだんだんと大きくなる。
そんな彼女を気にかける余裕は、ミカミにはなかった。
だが、ヘキオはユミの肩を引き寄せて抱きしめる。ヘキオの歯の根が合わないようで、カチカチと音が鳴る。
草がこすれる音。地面を這いずる音。
その音がしたほうを向くと、草の間にある目と合った。
ひ……、とミカミが、ヘキオが、ユミが声を漏らす。
目はこちらをジッと見据えたまま、向かってくる。グググと、そいつの目が、顔が、体があらわになる。
男だった。歳は四十代ぐらい。髪の毛と眉毛はない。目はうつろで、顔には感情がない。つるりとした顔だが、土なのか垢亜なのか、その顔は薄茶色に汚れている。
だが、人間ではない。肋骨の浮き上がった上半身には腕はなく、下半身が蛇になっている。人間の胴体ほどある蛇の体が、その男にくっついていた。
姦姦蛇螺。
姦姦蛇螺のうつろな目がこちらを向いている。見られているだけで、心臓を鷲掴みにされたように息苦しくなる。
ユミが悲鳴を上げる。
彼女の体に姦姦蛇螺の上半身が巻き付いている。姦姦蛇螺の上半身がぐにゃりと間借り、ユミの胴体を締め付けている。
ごふ、とユミの口から空気が漏れる。
ユミと目が合う。その瞳は生気がなくなったように、黒い。まだ彼女は生きている。だけど、すでに彼女は悟っているのかもしれない。
次の瞬間、ユミの姿は消えた。姦姦蛇螺が、ユミを森の奥へと引きずり込んだのだ。
「ユミ!」
ヘキオが彼女がいなくなった方に手を伸ばす。そしてライトを向ける。
「おい、見たよな! なんだよあの化け物!?」
「姦姦蛇螺だ」
「それってネットのだろ。いるはずないだろ」
「それと同じかわからない。でもああいう化け物はいるんだ」
ミカミは震えながら説明した。
「助けに行かないと……」
ヘキオがおぼつかない足取りで進む。
すぐに止めたかった。だけど、それをするのは、彼女の死を宣告するようなもの。ミカミが戸惑っている間に、ヘキオが進んでいく。
草がこすれる音、なにかが地面を這いずる音。その音が聞こえたと思った瞬間、ヘキオの体に姦姦蛇螺が巻き付く。
「あ……」
その声を出したのはヘキオだったのかミカミだったのかわからない。
次の瞬間、ヘキオが引きずり込まれた。
ほんの少しの時間で、ひとりになってしまったミカミ。
逃げなきゃ、と思っていても恐怖で足が動かない。
こんなことになるんだったら、入らなければよかった。幽霊が忠告してくれたのに……。
逃げよう。
ミカミは後ずさる。ズリズリと地面を引きずる足がもつれて、尻餅をついてしまう。立ち上がれない。手をバタバタと動かして、逃げる。
このままでは逃げられない。
足に力を入れて、走り出す。木にぶつかりながら、転びながら、なんとか逃げる。
振り返る。あいつはいない。
早く、この場所から離れないと。
ガサガサ、シュルシュル……。
前から音がする。
ガサガサ……。
草が揺れる。
引き返すが、足がもつれて体勢を崩す。
そのとき、暗闇を横に切り裂く物体が目に入る。暗闇の中でひときわ目立つそれは、しめ縄だった。
しめ縄の向こう側に、それを見た。
笑みを浮かべて立っている幽霊。入り口にいたあの幽霊が、しめ縄の向こう側からこちらを見ている。
とっさに体が動く。手を伸ばし、しめ縄に触れる。
効果は劇的だった。体が軽くなった。息がしやすくなった。恐怖心が落ち着いていく。
なにかに守られているような安らぎがある。
ガサガサ……。
音がする。その音は徐々に遠ざかっていく。まるで自分の獲物ではないと諦めたように、あの化け物は去っていく。
ってな訳で、生き残ったのが俺。あそこの森には姦姦蛇螺がいるの。嘘じゃないから。調べてみな、ヘキオとユミ……ああ、徳丸幸夫を冬木由美って調べてみな。ヘキオとユミの本名。行方不明になっているから。あのあと、俺大変だったんだよ。俺が殺したんじゃないかって言われたりしたんだから。いま使っている名前も、いわゆるペンネームってやつだよ。という訳で、いい映像撮ってこいよ。
あの森に行けば、なにか撮れるから……たぶんな。え? お前以外にも何人かに行ってもらったけど、撮れなかったんだよ。俺も何回も行ったけど、なーんもなし。これが嘘話だって思われてるんだよ。
酷くない? 人殺しって疑われた過去を話したのに、今度は嘘つきだよ。だから撮ってこい! 姦姦蛇螺が撮れたら、俺の話込みで、作品作っていいぞ。
別にいいよ。俺の過去は、ちょっとオカルト好きなら有名だし。お前も知ってて話し聞いたんだろ。
やっぱり。だから行ってこい! いいの期待してるぞ。
「おう、じゃあな。ここは支払っとくよ。お前ほとんど食ってないだろ」
「いいんすか! ありがとうございます! 絶対いい映像撮ってきます」
「期待してるぞ。撮影行く日は教えろよ。帰ってこなかったら、迎えに行ってやるから」
ミカミが、シッシッと手を振る。ミカミがいま働いているのは、心霊ビデオが専門の制作会社だ。後輩の男性に、過去に起きた出来事を聞かせていた。
後輩の男性は、頭を下げると店から出ていく。
後輩の背中を見ながら、ミカミは氷の溶けたハイボールを飲む。
近々、あの森に行くだろうな。そしたら、姦姦蛇螺が出てくる。
今度こそ、姦姦蛇螺を倒す。そのために、いろいろな呪具を用意してきた。
「本当は俺だけでよかったんだけどな……」
俺が一緒に行くと、姦姦蛇螺が出てこない。クリア済みのボスは出てこない、とあの幽霊は言っていた。
だから、こうやって好奇心旺盛な人間をあの森に送り込む。そのあとをつけて、姦姦蛇螺が出てきたら倒すのだ。
ヘキオとユミのために。
そして、いずれはあの幽霊も……。
ミカミは、高校生のとき、姦姦蛇螺から助かったあとのことを思い出す。
あの幽霊の憎たらしい顔を思い出す。
「生還、おめでとー!」
しめ縄の中に立っている幽霊が、賞賛の声と拍手を送る。入り口で出会った幽霊の青年だ。彼は楽しそうに拍手をし、また「おめでとう!」とミカミに言う。
「このシチュエーションに蛇の幽霊を見ると、もうあれだよね、姦姦蛇螺を思い浮かべるよね。よくこのしめ縄に入ろうと思ったね」
幽霊の青年は、こちらへと手を動かす。
「入って入って」
ミカミはその手を無視する。しめ縄を掴んだまま、その外側に立ち続ける。
しめ縄の囲まれている優勢の青年は、残念そうに眉根を下げる。
「大丈夫だよー。このしめ縄の囲いに居れば、襲われない。あとは朝になったら、森を出て行けばいい」
この幽霊は、あの化け物のことを知っていた。
「なんで、教えてくれなかったんだ」
知っていれば、森に入らなかった。ヘキオもユミも死ななかった。
「教えたらつまらないでしょ。こういうホラーって、経験から設定を探して、化け物に対峙するのがセオリーじゃん」
「設定、セオリー? 意味わかんない」
この幽霊はなにを言っているんだ? ホラー? これは現実だ。小説や映画なんかじゃない。
「わーかーるでしょー」
夜に似つかわしくないほど明るい声で言う。そして幽霊は人差し指と親指で銃の形を作り、えいえいえい、と撃つ真似をする。
ミカミはただただジッと立っている。
幽霊はつまらなそうに唇をすぼめる。
「ノリ悪いねー。まあいいや。君は生き延びたから、朝までゆっくりしていって」
闇に溶け込むように、幽霊の輪郭がおぼろげになっていく。だが、あ、と声を上げると姿形がはっきりとなる。
「攻略法は広めないでね」
幽霊は人懐っこい笑顔を浮かべて、周囲に溶け込むように消えた。
寺生まれのミカミ 桜田 @nakanomichi
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