秋に鳴らす鍵盤
蜜柑桜
第1話 鳴らない鍵盤
鍵盤に指が触れ、キーが深く沈む。確かなとっかかりを感じたのを合図に指先を宙空へ放る——空気が震える。
身を置いた空間が再び鎮まるのを確かめてから、響子はふぅ、と止めていた息を吐いた。
——なんか、なぁ。
耳に感じる違和感と、指に伝わる違和感。夏前とは異なり夏の間とも違う。
もう一度鍵盤に指を置き、鋭く離す。途端に広がる弦の音。
そう、「広がる」のだ。突き抜けるのではなく、「響く」というより、じわりと広がる。記憶にある音とは違い、出したい音に程遠い。
——湿気のせいか。
叩いた瞬間に腕から手首、指にかかる重量感は気だるく、ねっとりまとわりつく衣のようだ。季節外れの台風が運んでくる湿気と妙な気温の高さで、秋だというのに部屋の内も外も空気が肌に吸い付く。
ピアノも同じだ。楽器は生き物だ。湿気を吸ったハンマーは弦を叩いたところで澄んだキレのいい音にはなってくれない。内向きでくぐもった、パッとしない返事をするだけだ。
「そりゃ、この異常気象じゃいやんなっちゃうよねぇ」
言うことを聞かずに駄々もこねたくなるだろう。じめっとした音を出したくもなるものだ。
だが響子自身も、その気持ちに遠からぬところにある。
「秋に、これは、ね」
全く秋らしくない気候だが、暦上の季節は秋である。演奏会シーズンが本格的に始まり、コンサートも盛んになる芸術の秋。
だが楽譜台の上に譜面を据えても、椅子を引いて座っても、響子の腕と指は重しがかかったように鈍かった。
——秋、か。
叩くべき音を頭の中に響かせて、気持ちが滅入る。鍵盤の重いタッチやこもった響きに愚痴を言ったところで、楽器にしてみればとんだお門違いもいいところだ。音の質なんて関係ない。
どうせ、鳴らせないのだから。
中心のペダルの思い切り踏み下げ、サイレント・モードをオンにする。
この曲はどうしても、鳴らす気分になれない。
***続く
秋に鳴らす鍵盤 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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