第3話 きっかけ

 日に日に死んでいく君を見て、僕は決心した。



「音楽をやろう。」



 頭の中で何かがガラガラと音を立てて崩れた、でも関係ない。

 ―――――――――――――――――――――


 僕は書斎から教本やファイルを数冊取り出して、机の上に全て広げてみた。

 楽譜の中を踊る三連符、ウォーキングベースで歌う倍音、鍵盤を押すと鳴る、心音みたいに優しい「コツッ」という音。


 何もかも鮮明におぼえている。


 部屋のすみに置かれている、カエデ材のアップライトピアノを横目に、僕はあの頃の余韻に浸っていた。


 思えば僕がアリサに出会ったのも、丁度あの頃だったなあ。


―――――――――――――――――――――


 5月のある日のことだ。季節はそろそろ梅雨に入ろうとしていて、その日も弱い雨が降っていた。

 大学の小さなホールで、僕は気の向くままにグランドピアノを弾いていた。何分も、何十分も。

 ふと、周囲を見渡すと、女の子が1人椅子に腰掛けて、ピアノのはじく弦の動きをぼうと眺めていた。

 びっくりして演奏を止めると、彼女は不服そうに目を見開いて、

「何で止めてしまうの。」

 と穏やかな口調で言った。

 突然の事に気が動転しながら、僕は答えた。

「ごめん、人がいた事に気がつかなかったんだ。

 続きを弾いた方が良い?」

 女の子はコクン、とうなずいた。

 僕はまた、ピアノを弾き始めた。


 次の日も、昨日とほぼ同じ時間に、その子はホールへ現れた。

 僕がピアノ椅子に座ると、彼女は

「ちょっと待って。」

 と僕を制した。何でだろう、と彼女を見ると、背負っていたケースからチェロを出していた。

「君、チェロが弾けるの?」

 僕は思わず尋ねてしまった。

「うん、少しだけ。」

 彼女は弓に松ヤニを塗りながら答えた。


 そういえば、名前も聞いてなかったな。


「ごめん、今さら何だけど…お名前は?」 

「私、楽器に名前はつけない趣味なの。」

 彼女は間を置かず言葉を返した。僕がどう質問し直せば良いか考えていると、急に彼女は顔を赤くして、

「この子じゃなくて私の名前のことね。

 私はアリサ。3年生で、美学美術史学科を専攻してる。あなたは?」

 と言った。


「僕はジェイバー。僕も3年生で、文学科を専攻してる。」


 何だか堅苦しい自己紹介になってしまったことに、僕らは苦々しく笑った。


「何かセッションする?」

 気まずい雰囲気を変えるために、明るめな声色で聞いた。

「そうね…。」


 手始めに僕は、ラヴァーズ・コンチェルトのあの明るいメロディを弾いた。

 アリサはそれを聴き、僕とユニゾンでメロディを奏でる。

 僕はアリサにメロディを譲り、伴奏に徹する。


 既に曲も3番まで進んでいて、終わりが見えてきた。

 最後に僕の和音のロングトーンで終わる。

 だんだんと減衰げんすいしていく音が心地良い。

 たったそれだけのことなのに、世界の幸せがここに全て収束して行くかのようだ。


―――――――――――――――――――――


思えばこれが僕とアリサとの出会いだった。

ノートに音符をしたためながら、僕はそんな事を思い出している。

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音のない街 ほとけのざ @Hudebushouhakushi

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