神保町にて

@wlm6223

神保町にて

 一九八八年七月、梅雨が明けたばかりの頃、僕は古本屋を冷やかしに神保町へ出向いた。空模様は曇りがちで空気も湿り、夕立の気配を感じさせるものだった。

 高校への通学路、都営新宿線から都営三田線への乗り換え駅になる神保町は、僕にとっては格好の遊び場だった。定期券があるので交通費はかからないし、ものによっては百円で文庫本が買えるし、何よりも新刊本、まだ僕が知らない著者の古本を実際に手に取って立ち読みできるのが僕を興奮させた。

 神保町に着いたらまず腹ごしらえ。すずらん通りの「キッチン南海」のチキンカツしょうが焼き定食を食べるのが定番だ。もし店が混み合っているようなら「天麩羅いもや」か「天丼いもや」、あるいは「さぶちゃん」で半チャンラーメンを食べるのも良い。今日はすんなりと「キッチン南海」に入店できたのでチキンカツしょうが焼き定食を注文。ぺろりと平らげお勘定六〇〇円を払う。これで所持金は六五〇円。古本の一冊二冊は買えるだろう。

 「キッチン南海」を後にすると靖国通りへ出て古本屋の散策をはじめた。空模様はますますあやしくなってきた。初夏の湿気が体にへばりつくが、あまり気にしないでおいた。

 靖国通り沿いにお茶の水方面へ歩を進めると駿河台下まで古本屋が軒を連ねている。大抵店先にワゴンを出して百円均一の文庫本が並んでいる。僕は片っ端からその百円均一の文庫本を眺めていった。名前を知った本もあれば聞いたこともない本も沢山ある。三茶

書房のワゴンで、僕は岩波文庫の永井荷風「墨東奇譚」を手に取ってみた。有名な本だがあらすじは知らない。手に取ってみてちょっと古い日本語で書かれているのが分かった。ときどき挟まる挿絵に引かれ購入。百円。

 会計を済ませると外は夕立の雨が降り始めていた。

 折りたたみ傘を出そうと店先で鞄の中を探っていると「吉岡君?」と呼び止められた。それは同じ部活の祐子先輩だった。

「あれ? どうしたんですか」

「どうしたも何も、私んち、すぐそこよ」

 そういえば祐子先輩の家は古本屋だと聞いたことがある。

「今日は雨だって聞いてたけど、もう降り始めるとは思ってなかったんです」

「この時期の天気予報なんて当てにならないわよ。で、どこ行くとこだったの?」

「いや、本屋をブラブラと。祐子先輩は?」

「救世軍のとなりのスーパーまで買い物」

「じゃ、一緒に行きましょうか」

 僕と祐子先輩は並んで靖国通りを九段下方面へ歩いて行った。居並ぶ古本屋から雨に湿気って古いインクの匂いが染み出してくる。祐子先輩とは特別親しい訳でもなく、かと言って疎遠という事もない。ただの部活の先輩後輩の間柄である。だが、学校以外で遭うと、なんとなしお互いの距離感が縮まった気がした。

 祐子先輩は「この通り、左手ばっかり本屋があるでしょ? なんでか知ってる?」と訊いてきた。

「なんでですか?」

「南向きだと店頭の本が日焼けしちゃうからみんな北向きにお店を構えてるのよ」

「へー。言われてみれば確かにそうですね。神保町にはずいぶん来てるけど気にしてなかったなあ」

「昔からある知恵ね。吉岡君、鈍感ね」

 祐子先輩は目を逸らして言った。

 それからも祐子先輩とのお喋りは続いた。

 彼女の家は祖父の代から神保町で古本屋を営んでいて、純文学と書道を得意とする店だそうである。ここのところは売れ行きもあまり良くなく、彼女の父の代で店を畳むか、いや、もっと早い時期に廃業して引っ越すか、そんな話しが出てきているそうである。

「私ね、ここが好きなの。神保町って本の街でしょ。本にはいろんな人の物語や考えが詰まっているの。神保町に住んでいれば昔の人から今の人まで、沢山の人に会えるような気がするの。私、ここを離れたくないわ」

 僕は返事が出来なかった。無言で古本屋を何軒も通り過ぎ、靖国通りと白山通りの交差点まで来た。急に降り始めた雨はふと止んだ。

 空を見上げると雲の隙間から青空が見え隠れし、初夏を感じさせる陽があちこちに差し込んできた。その陽を照り返すように水溜まりがきらきらと反射した。僕たちにも陽は差し込み、盛夏がもうすぐそこまで来ているのが分かった。僕はもう少し祐子先輩と一緒にこの街を散策したかったが、目的地のスーパーはすぐそこである。彼女は「じゃあね」と言ってスーパーの方へ駈けていった。祐子先輩の姿はあっという間に消え去った。僕はそのまま九段下方面へ歩いて行った。もう少し祐子先輩に神保町の事を聞きたかったが、それは叶わないままになった。

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