第16話 熟年夫婦の再出発~番外編~
「ね~え、お父さん。あの人の葬式は終わったの?」
布団の中から弱々しい声を出しているのは、女房の佐智子だ。
佐智子は、俺と同い年なのに、あの一件で一気に老け込んでしまった。
10歳は年取ったように見える。それも一晩で。黒い部分の残っていない、真っ白な髪は、細く、薄くなった。しわだらけの顔も、特殊メイクみたいだ。体も、力が入らなくて、一人では起き上がれない。
毎日、そこら辺に出かけてはお茶のみしていたのが信じられない、別人の姿だ。これで55歳――早生まれだから――とは、ただただ衝撃だ。
――ずっと同い年、と思っていたのに、体も心も年の取り方は違うんだな。
誕生日の過ぎた俺は56歳になったが、まだまだ現役で仕事してる。毎日20分、徒歩で通勤してるから、体も丈夫だ。「退職したら、一緒に旅行しようね」なんて話してたのに。とても実現できそうにない。
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佐智子が「あの人」と呼んだのは、ひとり息子の別れた嫁・祥子さんのこと。一週間前に亡くなった。自殺だった。もう家族でもなんでもないとはいえ、孫の真白を生んでくれた人だ。息子の和弘が大学時代から付き合ってたから、何年も交際していた。
正直、美人で明るい祥子さんは、
二人は結婚より先に子どもができたから、式もなにもしないでうちに入ってもらった。
悪阻が酷くて仕事を辞めたい、と息子を通して相談された時、「それくらいで」と非難してしまった。男の俺にはわからない辛さを、まったく理解しようとしていなかった。だが、同居をはじめてすぐ、相当辛いんだとわかった。二階の自分たちの部屋ではなく、一階の客間に寝込んで、ずっとトイレと部屋を往復している。夏なのに、水でさえ吐いてしまって、ちょくちょく病院で点滴を受けていた。
佐智子が祥子さんを毛嫌いし始めたのは、仕事を辞めて(とても通える状態でなかったが)専業主婦が二人になってからだ。事前にしっかりした話し合いをしていなかったのも悪かった。佐智子が料理している匂いがダメだとかで、ずっとトイレにこもって
まだこの頃は、和弘の前では大人しかった。
これ見よがしに息子にべったりの様子を祥子さんに見せつけたことがあった。俺でさえ反吐が出そうな佐智子の態度に、和弘は「鬱陶しい」と切り捨てた。それがまた、勘に障ったんだろう。「もうお母さんはいらないの!?」と喚き散らした。
今思い返すと、あの頃から少しずつ、精神を病んでいたのかもしれない。
ずっとひとり息子につきっきりで、生きがいだったろうに、他の女に取られたみたいで面白くなかったんだろう。
和弘も、家にいる時間はずっと祥子さんにつきっきりになって世話していた。
妊娠7ヶ月を過ぎた頃、ようやく祥子さんの悪阻が落ち着いてきた。週末は和弘と二人でベビー用品を見て歩くようになって、俺と佐智子、二人だけの家の中は平和だった。ただ、男二人が仕事に出掛けている平日、主婦二人がどう過ごしていたのかまでは気が回らなかった。
和弘は常に祥子さんを優先させた。定期検診があれば、会社を抜けてきて、車を出して付き添っていた。あんなに仲よさそうにしていた二人が、あんな形で離婚するとは夢にも思わなかった。
10年前の日曜の昼間。突然祥子さんが帰ってきた。
そこらで売ってる数千円のボストンバッグを持って、クロコダイルのショルダーバッグを肩に提げていた。
「和弘、いるー?」
突然の来客に、ひとり居間でコーヒーを飲んでいた俺は、「キャバ嬢を昼間見るとこんな感じかな」とぼんやり思った。
運良く――というか、佐智子のいないのを狙ってきたのだろう。だが、和弘も買い物に出かけて留守だった。
「和弘は徒歩で買い物行ってるから、すぐ戻ってくる。祥子さん、どうするね?」
「んー…、じゃあ、待ちまーす。」
祥子さんは畳の上にボストンバッグを置いて、座布団に正座した。そして、ショルダーバッグから封筒を取り出し、俺に差し出してきた。
「お義母さんが来ると面倒なんで、先にお義父さんに渡しときますね。」
「中を見ても?それとも和弘に?」
そう聞いた俺に、祥子さんは眉毛をハの字にして言い難そうにしながら答えた。
「どうぞ。――遅くなりましたが、離婚届なんです。お義母さんとじゃ暮らしていけないから…」
玄関で音がして、和弘が帰ってきたと思った。が、なんの因果か佐智子が来た。
居間の戸を開けたまま、仁王立ちしている佐智子の顔が般若になる。文字通り、人間の髪は逆立つもんなんだな、とその様子をぼんやり見ていた。
スローモーションで見えたのは一瞬。
すぐに佐智子が祥子さんに掴みかかった!
「あんたよくもうちに上がり込めたわね!この
「お義母さんこそ、恥を知ったらどうですー?あることないこと外で言いふらして回って。このうち、なんて言われてるか知ってるんですかー?」
佐智子は正座したままの祥子さんの髪の毛を鷲掴み、反対の手で殴ろうと試みているが、格闘の経験はないだろう祥子さんに軽く払われている。殴れないから押し倒そうとしたのか、今度は両腕を掴みにかかるが、ニットが滑って服しか掴めないようだ。
「さっさと消えなさいよ!あんたの子なんていらないから!!」
そうこうしているところに、買い物袋を手に提げた和弘が帰ってきた。
「――祥子!?」
「やっと帰ってきたのね。和弘!」
和弘を見て喜色満面の祥子さんは、離婚届を持ってきたが和弘を嫌ってはいないんだな、と感じた。なんでこんなことになってるんだか――?俺は舞台劇の観客になった気分だった。
すぐに和弘が二人を引き離しにかかる。祥子さんを引っ張って、自身の後ろに隠した。
まだそんなに大事なのか?母親と対峙しても守ろうとする姿勢に泣きそうになる。が、今は佐智子を押さえないと。
佐智子に向かって手招きし、「さち」と声をかける。ちらと一瞥をくれたが、佐智子はまだ祥子さんに飛びかかろうとしていた。
「なにやってるんだよ!?」
和弘が吠えた。
そのひと声で正気に戻った様子の佐智子を手招き、呼び寄せて座らせる。疲れたのだろう、一気に脱力している。念のため、祥子さんが帰るまでは片腕を掴んでおく。そのまま佐智子の様子を観察した。
するとすぐに、「真白は!?」と叫んだ和弘が外に駆け出していった。
佐智子は動こうとしない。自分で思っている以上に力を使って疲れたんだろうな。佐智子を見張ったまま、祥子さんに声をかける。
「祥子さん、要件は?それだけ聞いておくよ。」
居間と廊下の境の敷居に立ったままで、祥子さんは答えた。
「さっきのと、――真白、置いていきます。お邪魔しましたー。」
それだけ言い置いて玄関に向かって廊下を歩く音がする。
真白――って、和弘が探しに行ったんじゃ…?
心配になって、すぐ玄関に向かう、靴を履いた祥子が道路に出ていくところだった。近くで小さく「ママ?」と声が聞こえた。
急いで靴を履いて玄関を出る。その場で首を左右に巡らせれば、左にある駐車場の車の陰にベビーカーが止まっていた。小さな女の子が乗っている。
すぐに側に跪いて「真白か?」と声をかけたが、反応がない。うさぎのぬいぐるみを抱きしめて、じっとこっちを見ている。「真白?」ともう一度声をかけたが、返事をしない。
困ってしまったが、幼子をひとり、外には置いておけない。ベビーカーから抱き上げて、家の中に連れて行った。この時、ぬいぐるみを落としたのには気付かなかった。
子どもを一旦玄関の小上がりに座らせて、靴を脱がせたら揃える。もう一度子どもを抱き上げて居間に戻った。
佐智子は座布団を枕に横になっている。
佐智子から見えないように子どもを廊下に下ろす。
「さちー?隣に布団敷くから、しばらく休め?な?」
俺は、居間の隣にある客間に押し入れから布団を出して敷いた。カバーとかわからないから、適当に。そこに佐智子の腕を取って、ゆっくりと連れてくる。抱き上げて運んでやれれば格好いいが、さすがに年齢的(45歳)にキツい。
佐智子を寝かせてから、子どもを居間に入れた。さっきまで祥子さんが座っていた場所に座らせる。
と、漸く和弘が帰ってきたようだ。玄関で荒い呼吸が聞こえる。どこに行ってたんだか…。
「和弘ー。」
とりあえず、声をかけた。
どたどたと走ってくる音がする。
戸を開けて、その場で和弘はしゃがみ込んだ。
「和弘!」
ようやく人心地ついたかと思った矢先、隣の部屋から佐智子が出てきて、離婚届を座卓に叩き付けた。
――しまった!片付けていなかった。
さっき、大人しかったのは、これを見ていたのか…?佐智子が暴れないように、咄嗟に腕を掴む。
「早くこれを書きなさい!!さっさと離婚して!向こうの両親とは連絡取れるの?こんな一方的に子ども置いていくなんて…ちゃんと請求しなさいよ!」
今の今まで倒れていたとは思えない、物凄い剣幕だ。
和弘の目線が左右に動く。今の状況を確認しているのだろう。
「わかった。書いておくよ。」と短く返答して、真白に声をかけて二人、二階に行ってしまった。
「ふうぅ…」
思わず、大きなため息が出た。が、これで時間は稼げそうだ。
俺は、佐智子の腕を放して、話し聞かせる。
「祥子さんは離婚届を持ってきたんだ。それが祥子さんの意思なら、和弘は承知する!だから、しばらくはそっとしといてやれ。あの子の事も、まだ小さいんだ。まだ3歳か?親が誰でも、子どもには産まれてきた責任はないんだから、当たり散らすな!いい年した大人なんだから、わかるだろう。感情的にならないで、自分だったらどうか考えてみろ。――俺だってな、お前を嫌いになりたくないんだ…」
正座した俺の太ももに顔を伏せて、佐智子は声を殺して泣き出した。
しばらくして、和弘が階段を下りてくる音が聞こえた。
佐智子はティッシュで顔を拭って体を起こす。そこに和弘が入ってきた。と、佐智子がまた喚き始めた。
「真白まで言うなよ!やっと落ち着いたのに。」
息子に怒鳴られて大人しくなった、佐智子の背中をさする。
同時に、和弘に「あっち行け!」と伝わるように手を振った。それで察してくれたようだ。離婚届だけ持って二階に戻っていった。
さて。どうしたものか――。
家族同じ家にいて顔を合わせないわけにいかない。だが、佐智子がこんな状態では、同居は難しいかもしれない。
この家のローンはもう払い終わるが、和弘が就職してから、「二階をリフォームしたい」と代わりにローンを組んで支払いしている。あんなに早く結婚する気はなかったようで、「借金あって結婚するの?」という佐智子の言葉に、「最後まで払いたい」と言って譲らなかった。親孝行のつもりか、まだいくらか残っているだろう(いや、和弘なら繰り上げ完済してるか?)。同時に家賃を払い続けるのは辛かろうから、なるべくなら同居の方向で考えてもらいたい。
せっかく戻ってきた孫…娘のためにも。
佐智子がひとり息子の和弘に執着するのには理由がある。
この家に越してくる少し前、二人目を妊娠したが、階段を踏み外して死産してしまったのだ。処置までに時間がかかってしまったため、子宮ごと摘出する事になってしまった…。妊娠22週目。死産した子は――女の子だった。
妊娠がわかった時点で、引っ越しを先送りにすればよかったのだろう。後悔ばかりがある。慣れない家で妊婦をひとりきりにしていたとか。携帯電話がなかった時代だ。佐智子は階段下に倒れたまま、俺が仕事から帰宅するまで呻き続けていた。慌てて救急車を呼んだが、既に10時間以上前に、胎児は死亡していた…。
佐智子は新居を楽しみにしていた。元々次男坊の俺の実家に同居しているのが居心地悪かっただろう。女っ気のない兄貴がちょっかいかけていたのも知っている。当時の兄貴が26歳か?2歳下の弟の嫁が気になっても…嫌な気分しかないが、男なら仕方がないのかも、と考えていた。そんな実家から自分たちだけの新居に移った矢先に起きた出来事――。
幸い新しいご近所には知られずに済んだ。おかげで、それまであまり出歩かないようにしていた佐智子だったが、退院後はあちこちに顔を出すようになった。気を紛らわせたかったのだろうな。
孫娘が生まれた時、正直、複雑な気分だった。
息子夫婦の娘であって、俺たちの娘ではない。
それでも、喜び合っている息子たちに水を差すことはしたくなかった。――和弘には死産の話をしていないから。孫の誕生は喜ばしい。だが、心に穴が空いたような、なんとも表現しがたい感覚に陥った。
きっと佐智子もそうだろう――この時はそう思っていた。
赤子のいる我が家は賑やかだった。
眠っていたらいたで、構ってほしい大人たちがわいのわいのと騒ぐ。二人とも、学友の中では結婚が早かったために、赤子見たさに友人たちが集まった。
和弘の友人は男ばかりで、重低音が家中響いていた。反対に、祥子さんの友人は、彼氏を連れて二人ずつ見に来ていた。聞こえてくる会話から、和弘とも面識あるとわかったが、あんなに綺麗な嫁だ。いつどこで変な虫がつくことやら…。俺が兄貴に冷や冷やさせられたせいか、かなり心配した。
祥子さんの実家は、お父さんが再婚して、継母と上手くいっていないと聞いていた。和弘はひとり息子だし、義母に当たる佐智子は仕事してない。嫁を実家に任せる理由はない。退院後からずっと、家で休んでもらっていた。
見舞客が落ち着いてきた頃、その話を聞いた。
「あの女、どっかの男に『自分の娘の顔くらい見に来たら~』って電話してたのよ!?」
「は?――さち、何言ってるんだ?あの二人、あんなに仲いいだろうが。」
「でも、電話してたのよ!真白はちっとも和弘に似てないし…」
「聞き間違いだろ(笑)。それに、電話の相手が男とは限らないじゃないか。友だち同士の冗談とか。和弘が生まれた時に似てないから、変なふうに聞こえただけだって。それより、お宮参りはどうするんだ?向こうには『声かけないで』って祥子さんに言われてるけど。」
佐智子の顔が泣きそうになった。
「あなた、私を信じてくれないの?ちゃんと聞いたのよ!?私たちの孫じゃなかった――」
そこまで言って、泣き出してしまった。二階にある俺たちの寝室でだ。まん中を一部屋空けて、その隣の部屋には和弘たちがいる。聞かれるのはまずい。なんとか佐智子をなだめた。
「祥子さんはあんなに和弘にべったりなのに、他に男がいるってことはないって。安心していい。」
俺は、佐智子を信じていなかったのではない。息子夫婦の様子から、祥子さんが浮気してたとは考えられなかったからだ。
いつもと変わらない、平穏な週末を家族で過ごした。
思い返せば、あの日が最後の平和だった。
翌月曜の夜、和弘より先に帰宅した俺は、家の中の様子に愕然とした。居間に置いているサイドボードのガラスは割れ、カレンダーは畳の上に落ち、コーヒーカップや湯飲み、急須がぶちまけられている。あちこち液体が飛び散って、乾いた跡が残っていた。
家の中に祥子さんと真白はおらず、佐智子がひとり、台所の隅で丸まって泣いていた。
なにがあったのか。物取りか、とも思ったが、これは二人が喧嘩したのだろうと予想した。
とにかく、祥子さんは赤子の真白を連れていった。実家に戻ったのかもしれないし、和弘の職場に向かったのかもしれない。どこかその辺を彷徨っていることはないだろうと判断する。
「佐智子、部屋片付けたいんだけど、どうしたらいい?」
顔を上げた佐智子の様子を観察する。怪我は――ないみたいだな。
「立てるか?和弘が帰ってくる前にどうにかしたいんだ。手伝ってくれるか?」
静かに、首を縦に振った。何度も。
俺は、佐智子の両手を取って、向かい合う形で立ち上がらせた。そのまま、後ろ向きに廊下に出て、向かいの居間に入る。
「ガラスに気を付けろよ。」
「わかってる。片付けるから。ごめんね、イラッとしちゃって…」
長い付き合いだ。佐智子が物に当たることはたまにあった。ここまで派手にやらかしたのは初めてなので、どういう状況でこうなったのかは想像付かないが。
「ごめんね。和弘に見られないようにしないと…ああ、ガラス割れちゃったのねぇ。」
漸く落ちているガラスがサイドボードの欠片だと理解したようだ。
この分だと…祥子さんの事を聞くのはやめておこう。そう思った。
夜も更け、10時頃になって、和弘は静かに帰宅した。
「親父、母さんどんなだった?」
居間に入ってきて、佐智子がいないのに気付き俺に聞いた。
「見ての通り。暴れたみたいだ。――祥子さんと真白は?」
「友人の家に預けてきた。実家は無理だからって。明日朝、迎えに行くけど、母さんは…まだ話できないか。」
和弘はコーヒーを入れて持ってきた。自分の分しか用意しないところは、気が利かないな。
「なぁ、祥子さん、母さんと喧嘩したのか?俺はなんにも聞いてないんだけど、わかるか?」
「いや、俺も聞いてない。っていうか、会社出たらいきなりいるから!びっくりした。
「そうか…」
大きく息をついて、どうしたものかと考える。
だが、男二人、理由もなにもわからない。この部屋を散らかしたのも、二人だったのか、佐智子ひとりでやったのかもわからない。さすがにひとりでガラスを割ったことはなかったから、前者…のような気がする。
「明日の会社は無理そうだな…」
見れば和弘も頷いている。
「四人で話し合うか?」
「他に方法がない。少なくとも、明日朝には真白は連れてくる。ベビー用品買って置いてきたけど、向こうの家の都合もあるし、いつまでも任せておけないから。」
親の贔屓目で見ても、和弘はしっかりしたいい男に育ったと思う。つい顔がにやけた。
「何?親父。」
「いやー、お前もしっかりしてきたなあと思って、嬉しくて、さぁ。」
息子に本音を言うのは照れくさい。さっさと部屋に引っ込むことにした。
「もう寝る。」
翌日の話し合いだが、まったく話し合いにならなかった。
怒鳴り合いではない。――無言。だったのである。
この時、佐智子も祥子さんも、きっと和弘の事を考えていたのだと、今ならわかる。和弘を傷つけないために、なにも教えない、話さないことにしたのだろう。それが二人の合意かどうかはわからないが。
午後、「商談がある」と出勤する和弘を三人で見送った。
そのまま、祥子さんは真白を抱いて二階の部屋に行った。
俺は、一晩経って少しは落ち着いただろう佐智子に話を聞くことにした。
「ガラスの割れたサイドボードは買い換えようかと思う。真白もいるし、今度のはガラス扉のないやつにしよう。他の家具なんかも、小さい子がいたずらできないような高さにするとか、安全面を考えよう。それから――祥子さんと喧嘩したのか?」
一瞬、佐智子の肩がびくついた。まだ聞いたら駄目だったかな、と思ったが、もう遅い。口に出してしまった。
「二人とも話してくれないとわからない。夕べ、和弘とも話してみたが、なにも聞けなかったって。」
佐智子の両手がゆっくりと俺の両腕を掴む。引きつった顔で言った。
「あの女が認めたのよ。真白は和弘の子じゃないって。」
「認めたって…さちが責めたのか?『認めるまで許さない』って?」
涙を流して首を振る佐智子をなだめながら、質問を続ける。
「違うんだな?わかった。さち、悪かった。責めてるんじゃないぞ。何があったのか教えてほしいんだ。わかるな?」
「和弘がね…『子どもができたら結婚する』って言ったんだって。だから、『和弘の子どもかもしれないけど、違うかもしれない』って。」
「ふうぅ――」
随分な話だ。それは実際どうなんだ?
「お前、祥子さんに
俺はこれで解決したと思ってた。
歪みは少しずつ大きくなっていった。
元々、普通のサラリーマン家庭に専業主婦は二人もいらない。
割と大雑把な佐智子と違って、祥子さんは几帳面に掃除した。
それが「厭味だ」と難癖をつけて、佐智子は祥子さんを責めた。段々と、俺がいても突っかかるようになり、祥子さんは出掛けがちになった。その頃になって、真白の子守を引き受けていた和弘が異変に気付いた。さすがにそうだろう。週末、決まって祥子さんは留守にしている。和弘と出かける時は真白を連れて行くが、そうでない時は「リフレッシュしてきま~す」と言って真白を置いていった。
ある時、座布団に真白を寝かしつけながら、和弘が聞いてきた。
「祥子、なんかあったのか?いつも家にいないよな…」
いよいよ隠しておけない、と思った俺は、現状を説明した。
「母さんが祥子さんに突っかかってだな、しょっちゅう喧嘩してる。それで、母さんが家にいると祥子さんは出掛けてしまうみたいだ。」
「は?また母さんかよ…」
和弘は両手で顔を覆って天を仰いでいる。
大事な家族だ。うまくやってほしいと思うんだろうな。だけど、現実は非情だ。真白が一番、可哀想だ。こんな状況で、ちゃんと育つんだろうか…。
俺以上に和弘は苦しいだろう。なんとか頑張ってほしい。
「祥子さんが母さんより家事できるのが気に入らないらしい。」
「そんなんで!?――はぁ…」
父親としては息子の幸せを願うが、行き場のない祥子さんはさぞ不安だろう…そう思うと、悪者が佐智子に思えてくる。それは辛い。
「なんとか母さんにも言って聞かせるから、お前も祥子さん大事にしてくれ。」
「わかってる。」
いざとなったら、息子は「母」と「嫁」のどちらを選ぶのだろう、とぼんやり思った。
結局、息子はどちらも選ばず、そして「嫁」に捨てられた。
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今、俺と佐智子は息子たちから距離を取られている。
恐らく、こうするのが最善策と考えてのことだ。
あの事件の後、すぐにでも真白と家を出て行くのかと思えば、二人とも心労で倒れた佐智子を気遣ってくれた。佐智子は二日間入院して、退院後も家でほとんど寝たきりの状態になった。食事を取れなければ、病院まで栄養剤の点滴に連れて行かなければならない。ひとりで起き上がれない時は、介助なしにトイレにも立てず、家事どころか日常生活にも支障がでた。
病院の診断書はあるので、後は市役所の手続きが終わればデイサービスを利用できる。佐智子もその方が気が楽だと言うので、既に俺の方で候補は絞り込んでいた。ずっと傍に付いていてやりたい気持ちはあるが、仕事しないと食べていけない。これからは夫婦二人でなんとか折り合いを付けていきたい。
あんなに仲の良かった息子夫婦が、少なくとも、離婚を選択するほどに
佐智子が錯乱し、倒れて入院している間、俺たち家族は警察で聴取を受けた。真白も呼ばれたが、『任意』だったし、祥子さんの記憶はないので、和弘が
実は、本人確認できる人がいないか、と警察に聞かれたが、俺も和弘も「あの崩れた顔では本人かどうかわかりません」と拒否したのだ。本音は恐ろしくて二目と会いたくない、だったが。幸い警察が探してきた『同棲相手』という男が立ち会ったらしいが、そのまま留置所送りになったそうだ。顔があんなになるまで殴ったのだから、捕まって当然だ。
次に警察から連絡が来たのは、『遺体を誰に返すか』だった。
和弘は既に離婚している。祥子さんの実家は拒否したという。そうなると、実子である真白になるらしい。だが、真白は未成年だし、そっとしておいてやりたい。
そこで和弘が粘った。「継母は取り合ってくれないので、実父に直接連絡取ってくれ」と警察に怒鳴り込みに行った。その上で、祥子さんの実家に押しかけて、玄関先で「祥子さんの遺体を引き取ってあげてください」と声を大にして頼んだらしい。この行為に参ってしまった継母が遺体を引き取り、実父に連絡を取って喪主を務めさせたそうな。
我が家も中々大変だったが、祥子さんの家の事情もこの時知った。不倫相手と再婚した父親は、浮気を繰り返す後妻に嫌気がさして、新しい不倫相手のところにいたそうだ。実母は行方がわからない、と実父が言っていた。和弘から聞いていた義妹は、こんな親を見限ってか、海外に行ってしまったので、「葬儀には間に合わない」と連絡があったとか。
この時、祥子さんはただただ、普通の、つまらないくらい平凡な家庭を望んでいたんだなぁ、と理解した。方法を誤らなければ――誰の子どもでもいいから、なんて馬鹿な真似をしていなければ、真白と三人幸せに暮らせたのかもしれない。もう他人になってしまったが、命日には花を供えよう、そう思った。
俺が家に戻ってきた佐智子の介護につきっきりだった間に、和弘と真白は祥子さんの通夜と告別式に参列していた。死後七日目の事だった。
「どうだった?」と尋ねた俺に、「棺の窓は開いてなかったよ」と返答があった。他に感想はないのかと思ったが、こいつも相当参ってるよな、と思い直した。
それからは、俺と和弘と真白の三人で食事を取るようになった。和弘か真白が食事の支度をしてくれる。
佐智子は、普通の食事を取れるようになったが、よく溢すし、箸をうまく使えなくなった。そんな姿を見られるのが嫌で、別で俺が世話しながら食べている。真白と和弘が出掛けてから、デイサービスの迎えに佐智子を預け、俺も出勤する。掃除は手抜きでいいことにして、洗濯物は真白が担当してくれた。佐智子の分も嫌がらずに一緒に洗濯している。
親馬鹿の和弘ではないが、こんなにいい子なのに、佐智子は度量がないなあと思わざるを得ない。それでも、惚れた弱みはあるわけで、俺は佐智子を庇ってしまう。
今では…同情だろうか?まだ高校生で妊娠させたせいで、その後の人生の選択肢がなくなってしまった。(――まさか俺にそっくりな和弘が『他人の子』なわけないよな?そこは信じてる!)それと、和弘が生まれてからは、ずっと家に閉じ込めてしまった。バイトもしたことがなかったから、就職の壁は高かった…。それもこれも俺の責任だ。どうしても佐智子には甘くなる。
それでも、こんな風に子どもに距離を置かれる前に、更正する機会はあったはずだ。それさえも、佐智子を甘やかしすぎた俺の責任だと重々わかっている。
これから先は、息子たちの幸せを応援したい。きっと再婚するんだろうから。その時に、佐智子も俺も、荷物にならないようにしなければ!
家の中の改修工事にかかる費用の見積もりが出た。これを市役所に提出すると、助成金が出るらしい。改修工事といっても、手すりを取り付けるくらいだ。まだ佐智子はリハビリ次第で回復が見込めるとのこと。それでも、これから年取ってく俺たち二人には必要になる工事なので、この機会にやってしまいたい。
今は別居する方向で話は進んでいるが、佐智子と和弘の折り合いが付けば、また同居も可能だろうと思う。ひとり息子を賃貸に追い出して…なんてご近所で噂されそうで、近所の目が怖い。だから、できるだけ家族仲良くしてるアピールをしたい。どうすればいいんだ?
休日、急激に老けた見た目を嫌がる佐智子を散歩に誘う。リハビリにもなるし、心のケアにも外出はできるなら採り入れてほしいと言われている。レンタルした車椅子で近所の公園まで行き、少し、歩く。車椅子を掴んでなら転ばずに歩けるようだ。自分で車椅子を押して、疲れたら「休もうー」と声をかけてくるので、手を貸して座らせる。それを繰り返した。筋力は衰えていないようだ。足運びは覚束ないが、寝たきりだったとは思えないくらい歩けた。
デイサービスのおかげもあってか、ひと月もしないうちに杖を使ってひとりで歩けるようになった。体調が思わしくない時は、ひとりでトイレから立ち上がれなくなるが、居間に専用の椅子とサイドテーブルを用意して生活できるようになった。
そろそろ和弘と真白が引っ越すという。真白の学区が変わらない距離ではあるが、徒歩だと20分はかかる。息子にかなり妥協してもらっている。だが、いざという時に頼れる距離感が頼もしい。これ以上、迷惑かけないようにしないと。こんな親にすまない。感謝だ。
この年になって初めて、夫婦二人っきりの生活を経験する。それはそれで嬉しい。
昔から目が離せない無茶苦茶する佐智子だったが、「俺ならなんとかできる!」と思わせるところがくすぐられた。ずっと俺に付いてきてくれたし、生活を支えてくれもした。感謝している。
駄目だな。惚れた弱みだ。あんなとんでもない自分勝手な我が儘でもかわいいと思えてしまう、とは、和弘にバレてはいけない。祥子さんと喧嘩してても、手を出そうとするのも物を壊すのも全部、佐智子だった。祥子さんはいつも笑ってあしらっていた。今思うと継母で慣れていたのだろう。当時は「怖い女だな」と思ったが。そして、大人げない態度を取っていた佐智子を懲らしめるようなことはしなかった。祥子さんは『忍耐の人』だったのだろう。
改めて振り返っても、和弘には申し訳なさでいっぱいだ。祥子さんにも会えたら謝りたい。
和弘と真白が引っ越した。
俺は、会社の『介護制度』を利用して時短勤務になった。
今日もデイサービスの車が佐智子を送ってくるのを待つ。
「ただいま~」と言って職員に手を引かれながら歩く姿に泣きそうになる。こんな当たり前の事が、とても貴重で幸せなことだと感じられるようになった。
職員にお礼を告げ、途中から佐智子の手を取り、玄関に誘導する。玄関に置いたイスに座らせて靴を脱がせ、小上がりに足を下ろす。俺の両手を握って立たせ、もう一段、上る。そして廊下を歩いて居間に入り、専用のイスに座らせたら、玄関を閉めに向かう。うちの引き戸は自動では閉まらない。便利な反面、うっかりすると野良猫が入ってくる。玄関の鍵をかけ、居間に戻る。
「ご飯とお味噌汁と、あと一品できれば十分よ。」
俺ではたいした物は作れない。というか、ひとり暮らしの経験もなければ、家庭科は女子のみの時代だ。台所に立つこともなかった。戸を開け放った廊下の向こう、居間から佐智子があれこれ指示してくれる。茶葉の分量は覚えた。まだ何がどこに仕舞ってあるのかは覚えられない。
味噌汁や焼き魚はなんとかできるようになったが、焼き肉は火加減が難しく、堅くて
佐智子はまだ台所には立てないが、居間のサイドテーブルに包丁とまな板を持っていけば、器用にリンゴを剥いてくれた。これもリハビリの効果だ。嬉しくもあるが、反面、俺が必要とされなくなるみたいで寂しい気持ちもある。男心は複雑だ…。
だが、まだ力が入る「切る」動作は難しいらしい。そこから先は佐智子の目の前で俺がやる。何度もやっているのに、未だにヘタの部分をどうすればいいのかわからない。俺にもリハビリが必要そうだ。
佐智子はイスに腰掛けて、俺は座卓に胡座で夕食を取る。
たったこれだけの事が幸せだ。
「あなた。良くなったら旅行に行きたいわね~。」
「この調子なら、還暦祝いに行けそうだな。」
「そんなにかかるの?もっと夢のあること話しましょうよ?」
「そうだなー。差し当たり、和弘の結婚式か!?ちゃんと両親そろって出席してやりたいだろ?」
「そうねー。ちゃんとお式してくれるのかしら?」
「それは…二人とも再婚だし、子どもも大きいから微妙だな…」
「うふふふ…。でも、『たられば』の話でいいじゃない。誰も聞いてないんだし。」
あの事件の影響なのか、倒れた後遺症なのか、佐智子は性格が柔らかくなった。もしかしたら、佐智子も俺と二人きりの生活を喜んでくれているのかもしれない。
この年になって、初めて夫婦一緒に風呂に入った時には、大変だった。ひとりで立てない佐智子を支えて、どうやって体を洗ったらいいのか、とか、浴槽に浸かるのにうちのは埋め込み式ではないので、ヘリを跨ぐのが大変で、とか。翌日、腰痛で俺がダウンした。
腰を屈めて佐智子の見送りに出た俺に、職員は無情にも「ご主人もうち来ますか?(笑)」なんて冗談を言ったのは忘れない。
その職員が佐智子に「どうされたんですか?」と尋ねたら、佐智子も「夕べ楽しんじゃって(笑)」と返していた。佐智子の世話ができて嬉しいのは事実だが、夕べは苦労しかなかったぞ!と心の中でツッコんでおく。恥ずかしすぎて、こんなことは人様に話せない。
だが、一番の難関と聞いていた風呂の介助ができるようになったら、バリアフリーの施設なら旅行に行けるかもしれない!夢が夢でなくなりそうな気配がした。
俺は、市やデイサービスがやっている介助の講習を何回も受けた。
佐智子も重い物を持ったり急な動きでなければ、日常生活を送れるようになってきた。医者の見立てでは、あと半年もかからずに、普通に生活できるようになるでしょう、とのことだ。
大人二人分でも、洗い終わった洗濯物は重くて二階のベランダまで運べない。また以前のように階段から落ちたら――という不安もある。そこで、洗濯物は今後も俺が担当することにした。佐智子には台所に復帰してもらいたい!
夫婦二人、半分リタイアしたような生活をする。
残念ながら、和弘は再婚するのに式を挙げないことにした。初婚の時にも式を挙げていなかったから、佐智子は残念がったが、和弘の「親子共々今の姿で晴れ着を着るのか?」のひと言で引き下がった。俺も思う。40目前でタキシードなんて、(いや、ウエディングドレスは)決まらない、と。
夫婦二人で話していた「たられば」の話で、『結婚式』はなくなった。じゃあ、というわけでもないが、日帰りで紅葉を見に出掛けることにした。
俺たちの車の後ろから和弘が仁恵さんと二人で付いてくる。何かあった時に、俺ひとりでは対処しきれないと考えてのことだ。有り難い。息子に感謝だ。残念なのは、受験生の真白が一緒できなかったことだ。模試があるらしい。
途中で寄ったパーキングでは、優先駐車場に沢山の車が止まっていた。見ると、やはり誰かに介助された人や車椅子の人達が同行している。運転席から松葉杖の人が出てきたのは驚いた。
みんなこうやって外出しているんだな。今度は夫婦二人で旅行に行こう!と改めて決心して、帰宅した。
佐智子も同じ事を考えていたようだ。「家に籠もってるわけじゃないのね~」と言っていた。
冬は体の不調が出やすいので、春。5月下旬を目安に旅行に行く計画を立てる。
事前の下調べが重要になってくる。計画を立てながら、俺のスマホ技能も向上した。移動距離と時間とパーキングの位置。何を見て回るかと見学にかかる平均所要時間。宿泊する施設の設備。全てスマホで調べられた。道路地図を買ってきてデバイダーで距離を測る――なんてことは時代遅れだ。便利な世の中になったな。
計画を立てたところで、和弘にチェックを頼んだ。裕貴くんがほとんど見てくれたらしいが、OKが出るまで何度かやりとりをした。ほとんどが施設内の指摘で、道路は「どうやっても変更不可能」と回答があった。連休中は渋滞予測も立てにくいから、5月下旬は狙い目かも、とも。平日狙いで計画しておいてよかった。
そんな風に俺がやりとりしているのを見て、佐智子がぽつりと呟いた。
「楽しそうね。私はできることがないから、つまんない。」
佐智子に喜んでもらえないのなら、この計画は失敗だ。できれば宿泊施設の予約を取るまで秘密にしておきたかったが、俺は佐智子に旅行の計画を立てていることを打ち明けた。
「大丈夫かしら?でも、半年以上あるし…。なんとかなる?」
少し、不安そうにしているが、期待も大きそうだ。
「大丈夫だって。和弘たちにチェックしてもらってるが、障害者でも問題なく行けるところばかりだ。ホテルも今なら第一希望の部屋が空いてる。ちょっと、駄目出しもらってて、泊まる部屋から家族風呂までの距離が長いとか、部屋のバリアフリーが不十分だとか言われててさー。それでやりとりしてたんだ。」
「そうなの?あなたたちが楽しそうで嬉しい。私も楽しみ。」
俺は、最終候補のホテルを提示され、「どれでもいい」と答えた。後々聞いた話だが、和弘がホテルに直接電話して、細かいところまで聞き取りしていたそうだ。曖昧なのが苦手なのは昔からの性格だったが、仕事の影響もありそうだな、と思った。
こうして男三人で立てた計画を実行する。
今度は夫婦二人っきりの水入らず。初めての二人旅を満喫しよう。
平凡な俺の日常【改稿中】 斎王暁圭 @rr2-sais_sit
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