第2話

大天使ミカエルというと、まず思い浮かぶのがローマのサンタンジェロ城の上の像です。


サンタンジェロといえば、「ローマの休日」で、アン王女はこの城が眼下に見える宮殿に泊まっていました。窓をあけると、船上パーティの豆電球が輝いて、王女はいいなぁと羨ましく思ったのですよね。

後に、彼女はこのパーティに参加し、秘密警察に追われて、新聞記者役のグレゴリー・ペックとテヴェレ川に飛び込みます。


サンタンジェロ城上のミカエル像は、フランダース生まれのVon Verschaffeltという彫刻家によるもので、制作は1753年。

サンタンジェロの前の橋には、ベルニーニとその弟子によるすばらしい天使像がありますが、ベルニーニはこのミカエル像制作の七十年以上も前に、亡くなっています。

ベルニーニが生存の時に、バチカンでは、ここになぜミカエル像を建てるというアイデアが浮かばなかったのかしらと思います。


ちなみに、昔はサンタンジェロの橋がバチカンにはいる唯一の道でした。

またバチカンからサンタンジェロには地下道があると言われています。非常事態には、教皇がその道を通って逃げることができるようにとか。


さて、そのバチカンにはグイド・レーニ(1575-1642)レーニの美しい大天使ミカエルがあります。悪魔がごついおじさんみたいに描かれていて、ミカエルの若さと美しさがひきたちます。


前置きが長くなりましたが、

それではトルストイ「人はどうやって生きるのか」の続きです。


        ☆    ☆    ☆



それから一年が経ち、私(天使ミハエル)はセミョーンのもとで、靴職人の修行に勤しみました。おかげで、どうにか一人前になりました。主人からはなかなか筋がよいと言われ客も増えました。


私はその間、神からの出された課題については、忘れたことはありません。

次の質問は、「人は、何をもっていないのか」でした。


私は一日中靴の仕事をしていますから、外に出る暇はありませんので、セミョーンや奥さんを人間の代表として、その姿を観察していました。

最初、彼らはお金がなく、食料もなく、コートもなかったのですが、だんだんと収入が増えて、食べ物やコートが買えるようになっていました。彼らはお金持ちのレベルてはないにしろ、子供もいましたし、もっていないものは特に見当たりません。


そんなある日、ある金持ちがやってきました。とても、横暴な態度で、持参した高級皮を放り投げて、これで一年間、破れないブーツを作れと言いました。

私は天使の時に寿命の仕事をしていましたので、この男がもうすぐに死ぬとわかりました。

それで、ブーツでなくスリッパを作ることにしました。でも、セミョーンが仕事場に来てそれを見た時、青くなっておののきました。注文されたのはブーツじゃないかと言うのです。えっ、でも……

その後、金持ちの家から使いが来て、主人が死んだので、スリッパを作るようにという妻からの伝言を伝えました。

セミョーンはそれを聞いて胸を撫でおろしたのですが。私はその時、「ああ、人間というのは、寿命を知らないのだ」と気がついたのです。


人はいつ死ぬか知らされていないので、その時、何が必要なのか、何をすべきなのか、わからないのです。人には寿命を予知する能力がない。私はこれが二番目の課題の答えだと思い、神を見上げました。

すると神が「正解」と頷かれたので、私はほほ笑んだのでした。



課題はあとひとつです。

ところが、この三番目の「人はどのようにして、生きているのか」です。これが、なかなか解けません。


私がセミョーンのところに来てから、もう六年がたっていました。

その間に、いくつもの回答を出しました。セミョーン一家は、朝起きて、食べて、仕事をして、また食べて寝る、そんな具合に生きています。教会に行ったり、結婚式に行ったり、葬式に行ったり、そうやって生きています。

答えらしきものが浮かぶたびに報告はしているのですが、神からは一向に「正解」という反応がもらえていません。


そんなある日、双子の女の子をつれた夫人がやってきて、子供達に靴を作ってほしいと頼みました。女の子のひとりは足が不自由で、びっこをひいています。なんでも、赤ちゃんの時に、母親がその上に乗っかってしまったのだそうです。その夫人は双子がかわいくて仕方がない様子ですが、話を聞いてみると、彼女は双子の実母ではなくて、近所の人です。

双子の母親は子供を産んでいすぐに亡くなり、その三日前には父親が亡くなったそうです。この夫人は赤ん坊を産んだばかりで、村でただひとりお乳がでる人でした。それで、双子を育てることになったのですが、その後は仕事もうまくいきました。

しかし、自分の子供は死んでしまったので、もしこの子供達がいなかったら、どんなに寂しい生活だったことでしよう。かわいくて仕方がないのです。


その時、私はある時、ある女性の命を一時的に助けたことがあるのを思い出しました。その母親の子供が、このふたりだと気がつきました。


私が神の使いで、死を告げるためにある女性のもとを訪れた時、その若い母親は産んだばかりの子供を残して死ぬわけにはいかない、死なせないでほしいと懇願しました。同情した私はその願いを聞き入れ、お乳を吸わせるために、ひとりを母親の胸にのせ、もうひとりをそばに寝かせて、天に帰りました。

しかし、神から叱られてしぶしぶと他上に戻り、その役目を完了したのでした。


考えてみますと、その時母親の上にいた子が下に落ち、その上に母親の死体がかぶさたので、この子の足が折れてしまったのです。

この子の足が不自由になったのは、そもそもは自分が余計にことをしたからだと私は気がつきました。


私は母親が死んだら、子供達も死んでしまうと思っていましたが、こんなにしっかりと育つ計画が用意されていたのです。あの時、私は母親が亡くなっても、子供達を愛してくれる他人がいるのだということを全く考えてみなかったのです。


私は「人はどのようにして生きているのか」という質問に対して、「人は人を助けたり、助けられたりして生きている」という答えを出して、天を仰ぎました。

すると、神が「正解」とささやかれて、私は微笑みました。


私は人間として六年間修業したおかげで、人間についてさまざまなことを学ぶことができました。いかに、何も知らない天使だったのかと恥ずかしく思いました。

その時、「さあ、ミハエルよ、帰ってきなさい」という神の声が聞こえました。

気がつくと、私の背中には翼が生えていました。



ーーーーーー


「人はどのようにして生きているか」に対してのトルストイの答えは

「人は人を助けたり、助けられたりして生きている」でしたが、さて、どうでしょうか。

ちょっと違うなぁという感じです。


今でも、周囲何メートルの世界、家族とか、友人間では「助けたり、助けられたり」して生きている場合が多いと思います。しかし、世界では戦争が続いており、毎日人が殺され、大統領選挙を前にした米国では、毎日、トランプ候補が考えられないようなことを言っていますから、この答えは正解ではないですよね。


じゃ、私たちは「何で生きているのか」、

何で生きているのでしょうか。

ただ生きているだけじゃ、だめですかね。




      了


   

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究極のテーマ「人は何によって生きるのか」、トルストイの答えは 九月ソナタ @sepstar

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