究極のテーマ「人は何によって生きるのか」、トルストイの答えは

九月ソナタ

第1話

先日はチェーホフの短編をとりあげましたが、今回はトルストイです。


ロシアには大文豪と言われる方が何人もいますが、まず名前が上がるのがトルストイ(1828-1910)です。

              

YouTubeに彼のドキュメンタリーがアップされています。

彼は妻との間には十三人の子供がいましたが、次第に諍いが絶えなくなり、彼が八十二歳の時、極寒の十一月に家を出ました。しかし、旅の途中で具合が悪くなり、小駅で降り、その後、肺炎のため亡くなったことはたぶんご存知のことでしょう。

その駅はその後「レフ・トルストイ駅」と名前を変えました。「Last Station」という小説/映画のタイトルに使われた駅です。


今回、ここで取り上げるのは「人はなんで生きるのか」です。

これが書かれたのは1882年、この時、トルストイは「戦争と平和」 (1864-69) 、「アンナ・カレーニナ」 (1873-77)などにより、すでに国際的名声を得ていました。しかし、「アンナ・カレーニナ」の後、彼は虚無感に苦しみ、自殺も考えたと言われています。


「人はなんで生きるのか」はその頃、五十代半ばに書かれたもので、民話を描き直したものです。彼は民話を通して、生きる意味を模索していたものと考えられます。

しかし、このタイトルの「人間は、いかに生きるべきか」は人間に対しての質問ではなく、神が天使ミハエルに、「おまえは、人間は、どのようにして生きていると思うか」と訊いているのです。

天使が人間の生き方をどのように見るのかという設定、おもしろいですよね。


私は以前、ミハエル(ミカエル、ミシェル、マイケルとも呼ばれています。この名前の男子は多いですよね)が神から特別に愛された天使だったけれど、一度は堕落天使として地上に落とされたという話を聞いたことがありました。


しかし、ミハエルは、その後、天に戻り、大天使になります。どうして一度は破門されたのに、大天使になれたのだろうかと疑問でした。その時はちょっとは調べたのですが、ミハエルが破門された話というのが見つからなくて、私の聞き違えかしらと思っていました。

でも、トルストイの「人はなんで生きるのか」を読んだ時、やはりそういう話は世間にはあり、それがこういう民話になったと思いました。


天使ミハエルを描いた絵画はたくさんあります。

どれも若くて美しい青年として描かれ、たいていは甲冑をつけて、ドラゴン(悪魔)を退治しています。ラファエロの小作品、1504年頃、「悪魔をうちのめす聖ミカエル」、ルーブル美術館、20x26cmはかわいいです。


フランスの有名な寺院「モン・サン・ミシェル」も、大天使ミカエルのためのに建てられた聖堂です。私がそこを訪れた時、麓の教会の入口などに、ジャンヌ・ダルクの銅像がありました。ジャンヌダルクのところを現れた天使というのが、このミカエルだったからです。


さて、「人はなんで生きるのか」は、よく読まれている作品だそうです。でも、さらりと読んで、細かなところは忘れてしまった方も多いかと思います。

私は今回、久しぶりに読み直してみて、以前には気がつかないことがいくつもありました。いつも書くことですが、またまた「私は何を読んでいたのだろう」と思いました。

話の筋はたぶん、知っておられる方が多いと思いますから、ここでは単にあらすじを書くのではなくて、ミハエルの立場になって書いてみようかと思います。


  

     ☆         ☆        ☆

 


私、ミハエルは神の近くにお仕えして、さまざまな仕事の手伝いをしていた天使でした。

ある日、神から、ある女性のところへ行きなさいと言われました。人の寿命を終わらせるのが私の役目のひとつなので、いつものように地上にまいりました。その女性は若くて、双子の子供を産んだところでした。それも、三日前に、夫を亡くしたばかりなのです。私の姿を見ますと、自分がいなくては子供は死んでしまうから、もうしばらく生かしてほしいと泣いて頼みました。


私はこの母親に同情しました。だって、母親がいなければ、子供はどうなるというのでしょうか。それで、母親の命を取らないで天に戻りました。神だって、わかってくださる。もしかしたら、優しいことをしたとほめてくださるかもしれないと思いました。


ところが、神はかんかんに怒って、すぐに地上に戻り、任務を果たすのだと言われるのです。

神は愛のではなかったのですか。

私は全く理解はできなかったのですが、なにせ神の命令ですから、今度はその通りにしました。

でも、神に逆らった罰として翼をもぎ取られて、人間として地上に落とされました。


その時、神は私が天使に戻る条件として、三つの課題をお与えくださいました。


「人は何をもっているか」

「人は何をもっていないか」

「人はどのようにして生きているのか」

この三つの正解がわかったら、帰ってきてもよろしいというのです。


私はよいことをしたはずなのに、こんな罰を受けなければならないのか、理不尽に思いました。神は私を嫌いになられたのだと思うしかないのですが、私は地獄には行きたくありませんし、他に逃げる所もありません。ただ命令に従って、耐えるしかないのです。


気がつくと、人間になった私はまっ裸で、冬空の下で、寒さと空腹に震えて、教会の壁にもたれていました。人間になったのは初めてなので、不安ばかりが襲ってきました。


その時、ひとりの男が通りました。彼は老人ではありませんが、かといって、若くもありません。その装いから見ますと貧乏に違いなく、不幸そうな男でした。彼は羊のコートがどうだとかぶつぶつ言っていましたから、性格もよさそうではありません。この男は絶対に、私を助けてはくれないだろうと思いました。案の定、彼は私を見ると、怖いものでも見たかのように足早に立ち去りました。

けれど、ちょっとすると、彼は戻ってきたのです。私は乱暴でもされるのかと思って、恐怖を感じました。ところが驚いたことには、彼は自分のコートを脱いで私の肩にかけ、家に行こうと言ってくれたのです。


その男はセミョ―ン(ラテン語ではシモン)という村の借家に住む貧しい靴屋でした。コートも妻のマトリョーナと共同で着ています。それも、修理を重ねて着ていましたが、かなりのボロになり、寒くてなりません。それで、羊皮のコートを買うために、二年間貯金をしてきて、ようやく三千円くらい貯まりました。まだ半分以上足りないのですが、靴を作ったり修理代したりしてまだ払ってもらっていない分が五千円くらいありますから、それを集金すればコートが買えます。


それで、彼は今朝、「新しいコートを買ってくるぞ」と勇んで町に出かたのです。けれど、どのお客も、返す分になったら、今はお金がないと言って、集金できたのはわずか数百円でした。それで、洋服屋に行って、事情を説明し、分割で売ってくださいと頼みました。すると、全額もってこなければだめだ。商売とはそういうものだと言われたました。


おれはだめな男だと、彼は返してもらった数百円で、酒屋にはいり、ウオッカを一杯ひっかけてしまいました。それで身体はあったかくはなったのですが、うちに帰ったら、奥さんにどなられることはわかっています。それで、不運を愚痴りながら帰る途中でした。


その時、教会の壁に、裸の若い男がひとり、寄りかかっているのが見えたのは。この男は死んでいるのでしょうか。強盗にでもあって、身ぐるみもっていかれたのでしょうか。

くわばらくわばら。まだ強盗が近くにいるかもしれないので、セミョーンは怖くなり、急いで通り過ぎます。けれど、丘のところに来て振り返ると、男は地面に倒れていましたが、まだ生きているみたいなのです。それで、引き返したのでした。


私はセミョーンに連れられて、彼の借家に行きました。もちろん、奥さんは不機嫌です。コートも買ってはこない上、変な裸の男まで連れてきたからです。そして、食べ物だって不足しているのに、何か作ってやれというのですから。

私は、今度こそ、絶対に、追い出されるだろうと思いました。このこわい奥さんが、親切にしてくれるはずがありません。でも、奥さんはパンとお茶を用意してくれたのです。


セミョーンも奥さんも、私の絶対的な予測に反して、助けてくれたので、私は内心、本当に驚きました。

私は、長い間、天使をしてきましたが、いつも自分の直感が正しいと信じてきました。でも、これが間違いだったとわかりました。人は優しい心をもっているのだとわかったのです。


それで、「人は何をもっているのか」という神の質問に対して、私は「人は優しい心をもっている」と答えて、天を仰ぎました。

すると、神がよしよし頷きましたので、私も微笑みました。一つ目の課題は合格したのでした。



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