第36話


 王都アークガイア、クリュール区。

 すでに明けの一刻目の鐘が鳴り響いてから暫く経ち、あの世界での時刻としてはおおよそ午前の七時程度を指すのだろうか。ブーランジェリースフィールはそろそろ開店の時間を迎えようとしていた。

 窓からは青の薄明かりが刺し込める。

 金髪の向日葵の様な少女、ミシュー=スフィールは誰も座らない客席用の机と椅子を丁寧に拭いた後、床の箒かけとモップの空拭きを行った。実家にいた時は侍女が行ってくれていた雑用も自分の店の為なら苦痛ではないが、時間を取られるのは大変だった。

 正直、調理に専念したいので誰か雇いたい心境ではあったが、今の今まで利益どころか損益しかない。火の車で生活費と店の運営費として一年見越して持ってきたお金はそろそろ底を突きかけていた。人を雇うどころか、店の運営を軌道に乗せなければ夏の終わりまで店が持つかどうかも怪しかった。

 幸い、最近は臨時収入があったのでそれで暫くはどうにかなりそうだが、所詮、しばらくである。竜の爪は思ったより高く売れないのだなあとミシューは考えた。王都に帰るなり雲隠れした良く分からない軍属の友人からもっとふんだくればよかったと今更ながら後悔していた。

「自信、あったのになあ」

 自信を無くす。

 前の世界では、学生の時分、家業の手伝いとして部活もせずに親元で働いていたが、その店が割と有名でヴィジョン……いや、テレビか? 最近、色々ごっちゃになってしょうがない。テレビやネットニュースの話題に度々上がり、タイアップ商品を作ったり、暖簾分けしたり、なんなりしていたので、ああいった個人経営の店にしては、一般的な家庭より裕福だったように思える。

 まあ、ぶっちゃけ転生前もチヤホヤされていたし、有名店のオーナーの娘だったので承認欲求は満たされていたし、こっちではこっちで転生先は中途半端に裕福な辺境伯の家庭だし、学校に入学したら特待生の首席待遇だし、まるで神でも乗り移ったかのような成功体験のオンパレードであった。そんな世界に甘やかされたような人生だったのでこんなクソ甘ったれた性格になったのだがそれはさておき。

 実際に、前世では有名店オーナーで優秀な調理人である父の下でそれなりにきちんと学んできたので、ベーカリー運営のイロハは知っていたし、向こうの時間での一ヶ月程度、シュティアの時節の前期が終わる頃には店も軌道に乗ると思っていたが、結果は散々であった。昨日もいつものように閑古鳥が鳴き、作ったパンは全部、野良犬と野良猫の餌へと変わった。残念な動物園である。

 実は大して打たれ強い方ではないのでこの状況は非常に堪える。あのサムライかぶれな友人が言ったように大人しく魔術関連の道に進み、安泰な人生を送った方が良いのかもしれないが、変に強情なミシューにとってそれはそれで負けたような気がして嫌だった。

 それに一度死んでいるのである。二度目の人生ぐらい好きに生きても良いではないか。転生したからといって、誰もが無双やざまあをしなければ良いというわけではない。一人ぐらい細々と雑草のように暮らす転生者がいても良いと思うが、そういえばスローライフ系もあの世界で流行っていたなあとミシューは思う。レッドオーシャン過ぎて逃げ場がない。

 モップかけが終わる。

 埃はない。

 入念でマメな衛生活動が良い店をつくる。人の口に運ばれる物を作るのだから良い物を作る以前にこういったことを大事にしていかなければならないとまず、一番初めに前世の父から教わった。それを守っているので今日も店の中は綺麗である。

 まあ、どのみちどれほど入念に掃除をしたところで汚される相手もいないわけだが。

「客寄せとか、金運向上とか、店の掃除を一瞬で終わらすとか、そういったチートスキルを貰っておけばよかったな」

 嘆息する。

 先生も四大じゃなくてガルドムとかそういう金運向上系の精霊を守護に憑けてくれればよかったのにとミシューは思う。できるだろ。なんか伝説の魔法使いとか呼ばれているらしいし。昔から、どっかぽややんとしている人なんだよなあとミシューは袂を別った師を理不尽に恨む。

 モップをバックヤードの掃除用具入れに入れて手を軽く拭くと、ミシューは今日も店に閑古鳥を鳴らそうと、店の中に閉まっておいたブーランジェリースフィールの看板を持ち、アンティークな扉を開いた。

 すると。

「……え?」

 行列ができていた。

 どこまでも。

 どこまでも、である。

 本道の大通りであるクラムストリートより裏手に入り、更に裏路地の目立たない立地であるブーランジェリースフィール。その行列がクラムストリートまで続いているといえばどれほどの長さか想像に難くない。

 朝の三時前に起きて用意した分だと捌き切れないほどの客数。ミシューは看板を持ったまま、呆然とその行列を見続ける。

 すると、一番先頭の客が。

「あの、まだ開店しないの?」

 と、聞いてくる。

 その言葉に、ミシューは我に返り。

 慌てて、看板を扉の横に置くと。

 大して、声量のない声で叫んだ。

「ブーランジェリースフィール、開店します!」


   第1話

 竜と刀とブルーベリー 完


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ルインシールサーガ/異界少女奇譚 宮下しのぶ @miyashita_shinobu

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