まだ暗い朝の4時
水原緋色
第1話
丑三つ時も過ぎてしばらく、朝日が昇るにはまだ早い午前4時。時折聞こえるバイクの音は新聞配達だろう。
友人との夜更かし電話を終えて、寝ようかと思ったが、妙に眼が冴えてきたので万年筆を手に取る。落書きにも満たない、思考の欠片をちりばめて、ぼんやりと眺めていたら物音が聞こえる。
振り返ると遠慮のないあくびをしながらコップを2つ手に持った、コハクさんが立っていた。
「起こしちゃいました? すみません、うるさくして」
「いや、電話は全く問題ないよ。僕は年寄りだからね、目覚めが早いのさ」
ことりと置かれたコップからはいい香りが漂っている。最近コハクさんがはまっているらしい紅茶みたいだ。
「のんかふぇいん、というやつらしいから寝るのには問題ないぞ」
礼を言い、一口飲むとほっと溜息がこぼれる。紅茶の温かさがゆっくりと体の隅々まで沁み込んでいく。
「こんな時間まで起きているのは珍しいな。明日は休みだったか」
「はい、お休みです。だから、ついつい夜更かししちゃいますね」
「……それだけか?」
視線はコップの中のまま、問い詰めるわけでもなく、そっと寄り添ってくれるような声音が、身体を覆う。
ほんのりとしたぬくもりに目を向けると、いつの間にか春子が膝の上に、三吉が足元で丸くなっていた。
コップを置き、春子の背をなでる。ふわふわの毛並みは日々のブラッシングのたまものだろう。
「たまの夜更かしはいいものだが、夜更けはよくないものがそこらに漂っている。いくら僕の家で春子や三吉といった猫又がいるからと言っても、悪さをする気のないやつらまで排除することはできないからな、多少は引きずられるものがあるんだろう」
「過ぎたことを考えこんでいました。いくら考えったて、もうどうしようもできないし、どうにもならないってわかっているのに、ついついあの時ああしていればって考えちゃうんですよね」
ごまかすように笑えば、ざらざらとした舌で、慰めのように春子が手をなめる。
「まぁ、それも全くの無駄ということもないだろう。今後同じようなことが起きないとも限らないし、よりよい未来をつかめたかもしれないという思いは、僕でも消えない」
三吉を持ち上げて、膝の上に乗せると愛おし気に彼の腹をなでる。コハクさんの目線や声色はこういう時は一段と優しく穏やかで、昼間の飄々とした彼とは別人のようにたまに思える。
「君の後悔がどんなものでも、無理に捨てようとしなくてもいいし、後悔して考え込んで無駄なことなのにと自分を責めなくてもいい。抱えきれなさそうなら見て見ぬふりをしてもいいし、僕や春子、三吉、他の話せそうな人たちに話してもいい。……けど、僕に話してくれたところで、大していい返事はできないからね。聞く分にはいくらでも聞くけどね」
悪戯っぽく笑って立ち上がると、さらりと頭をなでて部屋を出ていった。
少しぬるくなった紅茶を一口飲む。春子をなでて、窓の外を見る。まだ日が昇るのには少しだけ早い。それでもさっきより何となく明るく見えるのは、気の持ちようのせいだろうか。
「コハクさんは相変わらずやさしいね、春子」
「それはそうよ。だって私の御主人様よ。とっても素敵で優しくて、あんなにいい人はほかにいないわ」
膝の上でひとしきり毛づくろいをして、とんと飛び降りる。ぐっと伸びをして立ち上がると、鏡の前で全身を確認する。満足そうにうなずいたところで、扉が開く。
「僕は散歩に出かけてくるからね。それ飲み終わったら布団の入って目を閉じること。寝ようとしなくてもいい。来週いなりんの所に行くから、行きたいところでも考えておきな」
「急ですね」
「いやぁ、頼まれものの仕入れを忘れていてね。怒られた」
ケラケラと笑いながら、行ってきまーすと水色のコートを翻す。
カーテンを少し開けると、夜明け前の濃紺の空に明るい水色がよく映えていた。
「普通に散歩してほしいんですけどね」
見送りにベランダへ出た春子を抱き上げ、ベッドへもぐりこむ。
もぞもぞと心地のいい姿勢を探す春子のぬくもりと、三吉が静かに朝食の準備を始めた音が心地よく、余計なことも行きたいところも考える間もなく眠りに落ちた。
まだ暗い朝の4時 水原緋色 @hiro_mizuhara
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