第0話 黒ねこの有効範囲

 パン屋と牛丼屋の間にある隙間を覗き込む。

 人間には、到底、通れないような幅しかないが、猫ならば問題なく利用できるだろう。

「にゃたろう。おーい、にゃたろう」

 隙間に吹き込むように声をかけると、背後の通りから、通勤途中の人々に視線を向けられた。

 恥ずかしいが仕方がない。

 商店街の反対側に目をやると、赤いランドセルを背負った女の子も、必死に猫を探し続けていた。その顔は、いまにも泣きだしそうだ。

 早く見つけてやろうと、気合を入れる意味でネクタイをはずす。

 七月にしては涼しい日で助かった。

 これが真夏日だったら、とてもつらい作業になっていただろう。

「あの……」

 次はどこを探そうかと考えていると、背後から声をかけられた。

 見ると、パンツスーツを着込んだ若い女性だった。

「にゃたろうって、黒い猫だったりします?」

「あ、はい。よくご存知で」

 急に話しかけられたので、すこし間抜けな返答になった気がする。

「毎日、あの女の子と一緒に踏切を渡ってる猫ですよね?」

 女性は、赤いランドセルを背負った女の子を指差した。

「そうです。昨日の夜から姿が見えないらしくて」

「わたしも探します」

 それだけ言うと、女性はパンプスをツカツカと鳴らしながら、通りの反対側まで歩いていった。やはり隙間を見つけては「にゃたろう!」と声をかけていく。

 正直、小学生とふたりだけでは心もとなかったので、仲間ができたような安堵感がある。

「よし」

 あらためて気合を入れ直し、次の隙間に向かった。


 その猫に気づいたのは三ヶ月ほど前だろうか。

 通勤途中の乗り換え駅。

 都心とは反対方向に向かう電車なので、満員電車というほどの混み具合ではないが、座席を確保できるほどの空き具合でもない。ならばと、先頭車両の大きな窓際が出勤時の定位置となった。

 その日も、電車の正面から見える景色を眺めながら発車を待っていると、踏切を渡る黒猫の姿が目に入った。

 最初は「猫だな」という程度の感想しかなかったが、毎日、ほとんど同じ時間に踏切を渡る姿を見ているうちに、あることに気がついた。

 その猫は、前を歩く赤いランドセルの女の子についていっているらしい。

 さらに観察を続けると、黒猫は、女の子を見守っているのではないか、という印象を受けた。

「あいつの縄張りなのかな?」

 このあたりを領土としている猫の王様が、同じ城に住む人間の子どもを見送っているのかもしれない。

 そう思うと微笑ましいようなおかしいような気になって、毎朝の、その光景を楽しみに出勤するようになってしまった。

 だからだろう。

 女の子が必死の表情で、なにかを探している姿を見た瞬間、意識もせずに電車から降りていた。

 駅を出て踏切まで走り、猫の王様の捜索を手伝っていたのだった。


 七月にしては涼しい日だ。

 とはいえ、七月なので動きまわると相当に暑い。

 ハンカチで汗をぬぐっていると、「飲みなよ」と横から缶のお茶を差し出された。

 見ると、初老の男性が立っていた。

「いつも踏切こえてる猫さがしてるんだろ? さっきから気になってたんだよ。ほら、水分とりな」

「あ、はい。ありがとうございます。いただきます」

 お茶を受け取ってタブを開け、何回かに分けて飲み干していく。

 苦味は強いが、冷たくてうまい。

「捨てとく」

 また手が伸びてきたので、「すいません」と空き缶を渡した。

 男性は、その空き缶を持って、すぐ後ろにある建物に入っていった。

「あ。文房具屋さん」

 商店街にある、文房具屋の店主だったようだ。

 まだ開店前だから店内は薄暗いが、様々な色のペンやノートが陳列されている棚が見えた。

「ほら、ランドセルの子と、手伝ってくれてる女の子に持っていってあげな。俺、商店街の連中に声かけてくるからさ」

 追加のお茶を手渡すと、文房具屋の店主は慌ただしく去っていった。

「なんか、おおごとになってきたぞ」


 自転車に乗った男子高校生が「もしかして猫さがしてます?」と声をかけてきた。

 商店街中、「にゃたろう」の声が充満しているが、いまだに発見には至っていない。

「きみも、踏切を渡る猫を知ってるの?」

「いえ、踏切を渡るのは知らないですけど」

「そっか。じゃあ、黒い猫を見たら教えてくれるかな」

「見ましたよ」

「うん。……え? 見たって言った?」

「はい。そこの橋の下にうずくまってました。怪我してるのかなって思ってたら、ここでなにか探してるっぽかったので」

「ごめん。案内して」

 高校生が案内してくれたのは、街中を通る舗装された川。そこにかかる小さな橋だった。

「そこです」

 落下防止の手すりから顔を出すと、たしかに橋の下に黒い塊がある。

 作業用の足場なのか、川の水がとどかないところでうずくまっていた。

「生きてるか?」

「そういうこと言わないの」

 文房具屋の店主の余計なひと言を、八百屋のおかみさんがしかる。

 ついに泣き出してしまったランドセルの女の子は、手伝ってくれたスーツのお姉さんに「大丈夫だから」と慰められていた。

 その泣き声を聞きつけたのか、にゃたろうが顔をあげる。

「動いた。生きてる」

 おおお、とにゃたろう捜索隊の人々がどよめいた。

「で、どうやって助けよう」

 下までは三メートルほどだ。

 壁に梯子のようなものはついているので、柵さえ越えれば降りていけそうだが、なんらかの罪に問われたりはしないだろうか。

「ま、いっか」

 にゃたろうの命の方が大事だろう。

「よいしょ」

「兄ちゃん、気をつけろよ」

 文房具屋の店主の声に勇気づけられながら柵を乗り越える。

 ここで足をすべらせたら、三メートル下まで滑落することになり、そうすると、ランドセルの女の子の一生の悪夢として記憶されることになるだろう。

 それはよくないし、そもそも大怪我をしたくはないので、なるべく慎重に柵の反対側におりた。

「なにやってるんですか?」

 新たな声に、一斉にみんなの視線が向く。

 消防庁、と書かれた作業服を着た中年の男性が立っていた。

「この子の猫が下にいて、怪我してるみたいなんです」

 スーツのお姉さんが説明してくれる。

「ふうん」

 消防士が下を覗き込んで、「ああ」と笑顔になった。

「線路を歩いてる猫ですね。そっか、きみの家の猫だったんだ」

 しゃがんで、涙を流す女の子と目線の高さを合わせると、「おじさんにまかせて」と頭を撫でた。

「自転車の男の子。そこの交番に行って、おまわりさんに、こういうことやってますって声かけてきて」

「は、はい」

 使命を与えられた男子高校生が、あわてて自転車を発進させた。

「猫を入れるバッグが欲しいな」

「そこの動物病院に声かけてくるよ。怪我してるなら、そのまま運びこむだろうしさ」

 文房具屋の店主に「助かります」と言ってから、消防士はこちらに向き直った。

「危ないから、お兄さんはこっちに戻ってもらって大丈夫ですよ。あとは、ぼくがやるからね」

「あ、ありがとうございます」

 的確な判断と的確な指示。そして優しい笑顔。

 その場にいる全員が、こう思っているのがわかった。

 ――消防士さん。かっこいい。


 ランドセルの女の子の母親は、とても驚いていた。

 それはそうだろう。

 連絡を受けて動物病院にかけつけてみたら、知らないサラリーマンや商店街の人々。消防士から警察官までがそろって、自分の娘とペットのにゃたろうをニコニコしながら取り囲んでいたのだから。

 診断は右前足の骨折だった。

 引っかき傷もあったことから、猫同士の喧嘩の最中に、あやまって川に落ちたのかもしれない、ということだ。

 もしかしたら、猫の王様の地位が、別の猫に取って代わられる日も遠くないのかもしれない。

「最初、電車の中からにゃたろうの姿を見たとき、わたし、嫌だなって思ったんです」

 スーツのお姉さんと一緒に駅へ向かっていると、そんなことを言われた。

「なんで?」

「だって、黒猫が前を横切るのって不吉じゃないですか」

 そういえば、そんなジンクスがある。

 まったく気にしていなかった。

「だから、あの猫は、この電車に乗ってる人たち全員を不吉な目に合わせてるんだなって思って。だから、こんなに仕事が嫌なのかなって」

「なるほど」

 猫に負わせる責任としては重たすぎる気もするが、心が疲れているときは、なにかのせいにしたくなるのもわかる。

「でも毎日見てたら、あの猫は、前を歩いてる女の子のボディーガードなんだなって気づいて。そしたらちょっと、がんばらなきゃっていう気になって……うまく言えないんですけど」

「いや。わかるよ」

 もしかしたら、同じようなことを思いながら女の子と黒猫の姿を見ていた人は、たくさんいたのかもしれない。

「近づいて、抱っこしちゃえばよかったんですよね」

「え?」

「そしたら、前を横切れないし、ただのかわいい猫ちゃんです」

 足を止める。

 スーツのお姉さんが、不思議そうな表情を浮かべた。

「どうしました?」

「あ、ごめん。ちょっと急用。会社いこうと思ったけど、今日はやめとく」

「大丈夫ですか? 具合悪いとか?」

「ううん。むしろ絶好調。ありがとう。本当に、ありがとう」

 手をふって分かれると、会社とは反対方向の電車に向かった。


 病室のドアを静かに開ける。

「あれ? 良太くん、今日、夕方に来るんじゃなかったっけ?」

「うん。会社やすんだ」

 ベッドの上の里美の横には、おくるみにくるまった、生まれたばかりの娘が眠っていた。

 羽黒良太はベッドの横にしゃがみこむと、その小さな顔を覗き込んだ。

「よく寝てる」

「いまはね。さっきまで大変だったんだから」

「そっか。手伝えなくてごめんね」

「退院したらお願いするから、いまのうちにたくさん寝ておいて。で、決めたの?」

「うん」

 ずっと悩んでいた娘の名前。

 思いついては、やっぱり違うなと却下を重ねているうちに、先に本人が出てきてしまった。

「きみも、たくさんの人に囲まれるといいね。ねこさん」

 みんなに抱きしめられるような、そんな人生であればいいと願った。

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黒ねこの有効範囲 だいたい日陰 @daitaihikage

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