黄色い案山子

@ninomaehajime

黄色い案山子

 通学路の途中に田圃たんぼがある。その中には黄色い案山子が立っていた。

 田舎の田園風景だから、案山子そのものは珍しくはない。帽子を被り、藁の両腕を水平に伸ばして田圃を守っている。その頭の上に鴉が止まり、小首を傾げている光景を何度か目撃したことがある。

 その田圃の案山子が一風変わっているのは、黄色いレインコートで包まれていることだ。三角錐に尖ったフードの奥は俯き加減で、顔はよく見えない。もっとも、案山子の造作など目の代わりに千切れたボタンをくっつけた簡素なものだけれど。

 ナイロンでできたレインコートの案山子は小さく、小学校低学年が着る大きさの雨具でも袖が余り、風に吹かれて黄金こがね色の稲穂とともに揺られている。

 田圃の持ち主は、何を考えて案山子にレインコートを着せたのだろうか。理由を想像してみても、自分の子供が成長して着なくなったものを流用した程度しか思いつかない。

 ともあれ、黄色いレインコートを羽織った案山子は目こそ引いても、首を傾げて終わる存在だ。少し珍妙なだけで雑多な日常に埋没してしまう。

 稲刈りの時期だった。刈り取られた稲は束ねられ、稲架はさにかけられて天日干しされる。収穫された作物を遠目に、水が抜かれた田圃の中央にはレインコートの案山子がぽつねんと佇んでいた。長い裾の下から一本の木の棒が突き出ている。ぬかるんだ田の土に埋まり、水平だった腕が斜めに傾いでいる。

 ふと違和感があった。昨日よりも黄色く滑稽な姿が大きく見えた。目の錯覚だろうか。

 目を凝らす。えた臭いがする泥土に点々と丸い穴が穿たれていた。それは黄色い案山子の後を追っていた。ふと袖を跳ねながら田圃を横切る案山子の姿を空目そらめした。

 首を振る。きっと収穫する際に邪魔になって、田圃の持ち主が移動させたのだろう。

 野太いヒキガエルの鳴き声がした。どこかで泥水が跳ねた。

 雨が降っていた。雨風が強く、傘を持っていかれそうになる。鞄で制服のスカートを押さえながら、くだんの田圃を通りかかった。湿った土の匂いが際立っている。いつもの習慣で足を止めずに横目にした。あのレインコートの案山子の姿はどこにもなかった。

 きっと古くなって撤去されてしまったのだろう。わずかな寂寥せきりょう感を覚えながら、そのまま通り過ぎた。

 住宅地の路地に入る。家々を囲う板塀に電柱が建つ。赤い塗装が剥げた郵便ポストを過ぎ、見慣れた家路を少し早足で歩いた。横殴りの雨のせいで体が冷えてしまっている。早く家に帰って着替えたかった。

 強風で髪がなぶられる。傘の下に頭を隠した。姿勢が前のめりになり、海月くらげに似た傘の内側が集音器の代わりとなって、背後の騒音を拾う。風を孕んだビニール袋が吹きすさぶ音に似ていた。

 肩を縮めながら背後を振り返る。住宅地の通りに人影があった。黄色いレインコートに身を包んだ子供。両手を水平に広げて、余った袖が雨風に振り回されているのだ。

 既視感があった。あの子はどうして、この雨の中で両腕を横に伸ばしているのだろう。動く様子もなく、ただその場に佇んでいる。三角のフードの奥はよく見えない。ふと目線を下ろした。

 レインコートのはためく裾から突き出ているのが細い棒であることを視認したとき、考えるより先に足が動いた。おそらく恐怖より焦燥感が勝っていたと思う。傘の柄を手放し、雨晒しになりながら家へ向かった。早く、あれから逃げなければならない。背後ではポリエステルの傘が空を舞っていただろう。

 自宅へ辿り着き、もつれる指先で鍵を開けて薄暗い玄関に飛びこんだ。施錠をし、扉にもたれてそのまま腰からずり落ちた。制服がずぶ濡れになり、髪の毛先から雫が垂れる。三和土たたきを濡らしながら、白い吐息が口から立ち昇る。小刻みに震える体は冷え切っていた。

 どうして。その一語が頭の中で繰り返されていた。なぜあれがあそこにあって、雨の中に佇んでいたのだろう。田圃の土に刺さってもいない木の棒で、どうやってその身を支えていたのだろうか。

 何かが玄関の扉にぶつかる音がして、肩が跳ねた。まばたきすらままならなくて、睫毛が震える。まだ息が整っておらず、両手で口を押さえて呼吸を押し殺す。指のあいだから白い呼気こきが漏れた。

 訪問客が扉を叩いているというより、薄いものが風にはためいて扉の表面に当たっているかに思えた。そもそも我が家に用があるならチャイムを鳴らすだろう。

 その正体を確かめる方法は簡単だった。玄関の扉は一部が曇りガラスになっており、外にいる相手の輪郭が映る。ただ振り仰ぐだけでも良いのだ。

 たったそれだけの行為ができなかった。本当なら玄関から離れ、自室に逃げこんでしまいたい。親は共働きで、この時間は不在だ。電話で誰かに助けを求めるか、籠城ろうじょうするしかないだろう。

 ただ、きっと逃げ出す途中で自分は玄関を振り返ってしまうに違いない。扉の向こうにいる何者かの影を目の当たりにしてしまうのが、たまらなく恐ろしかった。

 一枚の扉を挟み、ナイロンの袖が幾度もぶつかる音を震えながら聞いていた。

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