星を追う魔法使いたち

音愛トオル

星を追う魔法使いたち

 魔法の道を志した者は、まず否定することから始まる。そう聞いてレーテは困惑した。けれど、それに続いた言葉を聞いて、腑に落ちたのを覚えている。


「魔法はね、学問なんだ。可能性の力なんだよ。だからね、この道を志した者は、人の生涯で到達出来る領域には限界があるという言説を、否定する所から始めるんだ」


 師の言葉である。レーテにとっては、5年に及ぶ師の元での鍛錬の最初の日に聞いた言葉でありながら、つい最近まで忘れていた言葉でもあった。

 思い返せば師はいつでも魔法の可能性を信じて疑っていなかった。あるいはレーテが師から教わったのは魔法だけでなく、生き方の哲学でさえあったのかもしれない。

 ぱたむ、と音を立てて手記を閉じたレーテは、午前の森の涼やかな風を感じながらぐい、と伸びをした。師の元で鍛錬する前から、朝のこの空気が好きだった。森の中、というのは鍛錬前は無縁だったけれど。


「今日も穏やかな日でありますように」


 そして、今日もレーテは次の旅の準備をする。


「……師匠」


 それは消えた師を、探すための旅だった。



※※※



 魔法を使う者という意味での「魔法使い」は、厳密には少ない。それは高等教育機関の門を叩ける者の少なさでもある。だが、生活に根差したあらゆる場面において、魔法を利用している者はかなり多い。

 レーテやその師のように広い範囲の魔法をかなりの精度で使いこなす者はさらに少なく、人の限られた一生で到達できる領域はしたがって限られている。これは人間の寿命とは切り離せぬ厳然たる事実であって、否、だからこそ可能性を探求する魔法学の徒である者らは、その事実を跳ね返せと教わるのである。

 しかし、そうした現実的なを容易く超えてのけるような者もいる。天賦の才を持った者、魔法の力を貸してくれる精霊に愛された者、努力の才がある者。


――ところで、レーテは齢18にして、既に至高の領域に踏み入れつつある。


 それはレーテが天才だったからでも、魔法に愛されたからでも、稀有な秀才であったからでもない。

 ただ、レーテに魔法を教えた「師」が、今生で至上の魔法使いであったに過ぎない。そしてそのは前後数百年は更新されることはないだろう。


 およそ1年前、レーテの前から姿を消した彼女の師とは、長命種の生き残りであった――


「……師匠」


 レーテは朝食後の物思いにふける時間が好きだった。かつては常に身体を動かしていないと気が済まなかったが、今は違う。旅に出るようになってからは、こうして穏やかに流れる時間にただ身を任せている、その感覚が好きになった。

 いまや一張羅になってしまったほかの服と比べて豪奢な――けれどキズや汚れの目立つ――藍のローブを身にまとい、その下に簡素な上下の衣服。腰の裏まで伸びる髪は時間をかけて丁寧に三つ編みをして垂らしている。

 身だしなみも完璧だ。この朝に点数をつけるとしたら、及第点はまず間違いない。


「少し散歩でもしようかな。そろそろこの辺りも調べつくしたし、旅立つ前に色々見ておきたいしね」


 「消えた師匠を探す」とは言っても、手がかりは一切ない。ただ師が今生で至上の魔法使いである点を除けば。最初は容易に見つかると思っていたが、レーテは気づく。師事する前は自分も師が最高の魔法使いであると知らなかったではないか。

 レーテの師匠は人前に出ることを嫌っているのだろうか、人の多い街では情報が皆無だった。そのため、今は師がよく好んだ「森」という環境を、片端から調べているのだ。


「うーん、あの時がたまたまだったのかな」


 朝の森を歩きながら、レーテは初めて師の痕跡を見つけた時のことを思い出した。

 しばらく根城にしていたのか人が済んだような形跡があり、そこにははっきりと師の魔法の跡も確認できた。

 そうして師が残した痕跡を追って行けばいつかは見つけられるのではないかと思ったが、現実は甘くない。


「――ん?」


 適当に拾った木の枝で背の高い草を掻き分けながらのんきに歩いていたレーテは、微かに耳を撫でた人間の息遣いに身を潜めた。何か必死な色を感じさせるそれからは敵意を感じ取ることができず、むしろその後からやってきた木々をもろともせずに突き進んでくるに意識が持っていかれた。

 レーテはすぐに察した。


「誰かがヌシに襲われているな?うーん、ないとは思うけど狩りって可能性もまああるし、少し様子を見よう」


 姿隠しの魔法を使ったレーテは、目に付いた大木の幹に身を隠して様子を窺った。1分もしないうちに、レーテの視界の先、ヌシの住処のひとつだろうか、木々が倒された開けた場所にそれはやって来た。

 かなりくたびれた衣服と、細かい傷だらけの手足、風に揺れる綺麗なポニーテール。そしてまだ小柄なその体躯は、レーテといくばくも変わらない子どもに見えた。


「あの子、どうしてこんなところに――って、それより、まさか」


 レーテは咄嗟に子どもが走ってきた方向に視線を投げ――その刹那、獰猛な魔物の咆哮が森を裂いた。どうしてこんなに近くに来るまでこの濃厚な気配に気が付けなかったのか。

 答えは単純だ。この魔物は森のヌシなどではない。討伐依頼が出されるほどの危険な魔物――そう、レーテのように魔物だ。恐らく気配を殺す類の魔法を使っていたんだろう。


「これは見ている場合ではないかもね――!」


 レーテはローブをはためかせ、子どもと魔物との間に躍り出た。子どもは逃げるのに必死でこちらに気がついていなかったようだが、魔物の方とははっきり目が合っている。

 深い闇を眼窩に収めたようなおどろおどろしい両の眼から放たれる、ぎらぎらした殺意。森の木々よりも太く力強い四肢、山肌のようにごつごつした体表からはじくじくと脈動する管がはっきり見える。


「……って、なんだアンタか。師匠の課題が懐かしいくらい、って言ってもまだ1、2年前とかの話だけど」


 鍛錬も終盤になったころ、レーテは師に駆り出されて魔物の討伐をこなしたのだが、この魔物はその時討伐したことのある種だった。攻略法は頭に入っている。


「私に会ったのが運のつきだね」


 レーテは魔物相手に臆することなく冷静にかつ素早く詠唱を終え、まず拘束魔法を放った。見えざる手によって魔物の四肢はたちどころに硬直し、さらに畳みかけるように光の刃を作り上げる。

 指揮棒をふるうように指先を動かし、光の刃の隊列を一糸乱れぬ動きで指揮して見せたレーテによって、魔物の体表に通っている魔力を通す管が全て断たれる。そのまま数秒も経てば、魔物は魔力が足りず姿を隠蔽していた弱点となる核を露出させた。

 深紅の結晶が、頭部後方、左前脚の付け根に出現する――実際ははじめからそこにあった。魔法で隠されていただけで。


「じゃあね」


 レーテは空を舞っていた光の刃の一つを手元に呼び寄せ、弓矢の弦を引き絞るような所作をしたのち――一閃。ここに、魔物の核は打ち砕かれた。吊り糸を切られたマリオネットのように脱力した魔物は、一切の生命活動をやめ、ここに眠る。

 先ほどまでの騒がしさが消え、いっそ夢のような静寂が訪れた森の中。レーテの背後から、息をのむ誰かの衣擦れがいやに大きく聞こえてくる。


「……あ、あの!」


 レーテは呼ばれた声に振り返り、出来るだけ穏やかな微笑を浮かべてみせた。レーテの耳に聞こえてくるのは雲を撫でるような柔らかなアルトの声。

 あれほどの巨大な魔物に追われていながら、顔に張り付いていたのは恐怖ではなく、未来への渇望だと分かってレーテは目を見開いた。


「わたし、ベス・ルーハンと言います!お願いです、私に魔法を教えてください……!」

「――!」


 脳裏に木霊する、かつての自分の昏い声とはまるで違う。

 その、遥か遠くへ強く、手を伸ばそうとしているような声色。いつかの記憶を振り払うように、レーテは三つ編みの髪を撫で、それから少しだけ子どもに――ベスに近づいた。


「どうして、教えてほしいんだい」

「そ、それは」


 レーテは意識して口調を変え、森の奥深くに潜む厳かな魔法使いを装った。


――かつて自分がされたように。


「……わたしは」

『……私は』


 けれど、目の前の子どもの眼差しは、あの時の自分とは全く逆の方を、向いていて。


「わたしは、もっと遠くへ行きたいんです。あの空に輝く星に、行きたいんです――そのために、魔法が知りたい」


 消えた師を探す魔法使いレーテと、遥か遠い星々を眼差す見習いベスとの、これが出会いだった。



※※※



 少女が知った世界には優しさなどなかったのに。



※※※



 弟子を取る予定はなかった。だからといって、あの子どもをそのまま送り返すわけにもいかず、家まで付き添うにしても「魔法が知りたい」という意思の強さは本物だった。おとなしく帰ってくれそうにないな、と思う。

 レーテはその頑なな目に昔の自分を感じ、同時に過去も現在も、自分にはない色に興味が湧いていた。だから、まずはちゃんと話をしたいと思ったのだ。そんなわけで、自室のテーブルにベスを案内した。


「そこにかけるといいよ」

「は、はい」


 子どもからすれば、森の奥からやって来た物々しいローブを纏う魔法使い。緊張しない理由はないな、とレーテは頬を掻いた。師はどう接してくれていたのだったか。


――いや、あの時のレーテは。


 以前立ち寄った街で買った紅茶を淹れながら、付け合わせにこの森で取れた食材を混ぜたクッキーを焼く。木の実と果物の芳醇で甘い香りが、存外いい味なのだ。


「これと、これもね。安心して。変なものは入ってないから」

「ありがとう、ございます」


 レーテはベスの対面に座り、先んじて紅茶に口をつけながら努めて優しく微笑んだ。無理して笑顔を作っているわけではなかったが、油断すると師匠を真似た余裕のある魔法使いを演じきれなくなりそうだった。


――あれ、なんで私こんな演技をしてるんだっけ?


「――ベス、と言ったかな。まずは詳しく話を聞かせて欲しい。どうして、魔物に追われていたのか。星に行きたいということについても、詳しくね」

「そ、そうですよね。ええと――」

「ああ、自己紹介がまだだったね。私はレーテだよ。訳あって旅をしている普通の魔法使いだ」


――ただし、最高の魔法使いの一番弟子の。


「あ、ありがとうございます。レーテお姉さん」


 お姉さんと来たか、とレーテは少し楽しい。

 レーテが師の名前を聞いた時は既に弟子になると心に決めていてずっと「師匠」と呼んでいたから。その響きが新鮮だ。

 ベスは紅茶に口をつけ――飲んだことがない味だったのか目を輝かせて――それから、クッキーを口にする。頬を綻ばせ、手を当てながら目を細めるベスを見ていると、素直な子なんだろうな、と思った。


「紅茶もクッキーもすごい美味しいです、レーテお姉さん」

「ふふ。ありがとう。紅茶は買ったものだけど、クッキーは私が焼いたからそう言ってくれると嬉しいね」

「――え!お姉さんが焼いたんですかっ……あっ、いえ、すみません。星に行きたいと思っていることについて、ですよね」

「いいよ、気にしないで。お腹が減っているなら、もう少し食べてからでも」


 ベスはゆるくかぶりを振って、もう一度紅茶に口をつけた。クッキーにはぴくり、と手を伸ばしかけて――やめていた。

 こちらをまっすぐに見つめてくるベスの目は、ああ、やっぱりずっと遠くを映している。


「わたしが住んでいる町に、小さいころ、学者さんがやって来たんです。色んな場所に伝わっている昔話を集めている、とかで。わたしの町の大人たちにも聞いて回っていました」


 ベスは大切な思い出に触れるような柔らかい語り口で続ける。


「その学者さんは、わたしたち子ども相手には別の話をしてくれました。もっと大きな街や都で流行っている文学の話――に行った人の冒険譚です」

「月の世界――なるほど」

「はい。わたしはその時初めて知ったんです。あの空に輝く星々にある色んな世界のことを。もちろん、物語の話です、分かっています――でも」


 ベスは目を伏せ、テーブルの上で自分の手を何度もさすっていた。

 その続きを言葉にするのに、ベスはきっと随分時間がかかったに違いない。


「周りの人たちは皆馬鹿にするんです。行けっこない、物語の中だけだって。でも、わたしはいつか――いつか、この目で見てみたい」


 魔法とは、可能性の力である。

 ベスが「魔法を知りたい」と頼み込んできた理由がはっきりしたかな、とレーテは深く頷いた。ベスには見えていなかったかもしれないけれど。


「――学者さんだけは教えてくれました。『魔法とは、可能性の力だ』って。魔法使いになれば、もしかしたら、って」

「……その学者さんは、他に何か言っていた?」

「いえ。わたしもその後自分で調べたので、レーテお姉さんが言いたいことも分かります。寿。わたしの生涯で、星に届くかは分からない。でも、学者さんはわたしの気持ちを否定しないでくれた」


 顔を上げ、身を乗り出したベスの目には、その細い声色とは正反対の熱い光が揺れている気がした。レーテが知らない、それは光だった。

 レーテは少し、息がしづらくなって、ああ、昔を思い出しているのかな、と苦笑した。だがベスには、違う意味に取られてしまったようだ。


「……やっぱり、変ですよね」

「ん?ああ、ごめん。今のは、少し、昔の自分を思い出していただけなんだ。ベス、君の想いは何も変じゃない――素敵な、想いだ」

「……!」


 レーテは半ばこうなると分かっていた。無理やりにでもベスを家に送り届けなかった時点で、少なくともベスという子どもへの興味が自分にあることは確かだ。こうして話を聞いてみれば、あとはもうその一言を告げるだけ。

 レーテは、自分がついぞ持てなかったその眼差しに、どうしようもなく惹かれていたのだ。ベスが森に居た理由を聞くのも忘れて、その熱に応えようとしてしまうくらいには。


「ベス・ルーハン。君を、私、レーテの一番弟子にするよ」

「……えっ、ほ、ほんとですかっ!」

「うん。これからよろしくね、ベス」

「は、はい……!」


 しかし、とレーテは思う。

 5年前ならば、野盗の罠だとか、暗殺者のしかけた幻覚の類だとか、様々な可能性を考えたものだが、今は違う。かつて師が大して素性の知れぬ自分を――今のベス以上に危うかった自分を――名前を聞いたくらいで簡単に弟子にしてしまった時のことを、思い出したのだ。

 あの時の師は、きっとレーテの保護という目的もあっただろう。

 今のレーテには、ベスのその目が、とても嘘をついているようには見えなかった。だから、その志を挫くようなことをしたくなかったのだと思う。


(師匠、私、弟子を取ることにしましたよ)


「……お姉さん?」

「うん?ああ、ごめん。ええと、そうだな、じゃあまずは――」


 師がよく浮かべていた力強いのにどこか儚さという点で現実感のない不思議な笑みを思い出しながら、レーテはベスの師としての最初の言葉を送る。


「傷の手当、それから、お風呂を沸かしてあるから、終わったら入っておいで」



※※※



 久しぶりに、思い出した。

 忘れてなどいないが、溶けて消えてしまった理由、その昏い熱さを。

 少女にとって魔法とは、師が教えてくれたように誰かに優しくするためのものなどでは到底あり得なかったというのに。



※※※



 師匠は、ああ、どうしていたっけ。


「おはよう、ベス」

「おはようございます、レーテお姉さん」


 師弟の取り決めはいくつかある。

 その一。魔物が徘徊していることが分かったため、森と町の往復はレーテの付き添いがなければならない。

 その二。魔法の実技的鍛錬は午後。午前は座学。

 その三――「お姉さんは栄養が偏っているので、お昼ご飯はわたしが作ります」


「……ざ、材料費くらいは出すよ」

「いいんです。好きでやっているので!授業料です」


 レーテはクッキーや菓子類を作るのは好きだったが、普段の食事は雑に済ませていることを知ったベスは頬を膨らませた。ちゃんと食べてください、だそうだ。

 鍛錬に明け暮れていた時のレーテが、師から言われたことと同じ。これではどちらが師か分からないな、とレーテは独り言ちた。

 それから、共に時間を過ごすうちにレーテはベスという子のことを知っていく。ベスが町のパン屋の一人娘、15歳であることとか、町にやってくる吟遊詩人や学者の話を聞くのが好きなこととか。共に昼食を楽しみながら、ベスから聞かされた話だ。


「思うに、レーテお姉さんは自覚が足りないんです」


 この日も、トーストしたパンに焼いた肉と卵を乗せ、新鮮なサラダ(これはレーテが森で取って来たものだ、ベスに言われて)を盛りつけた温かい昼食を囲んでいた。唐突に、ベスが腕を組んでそう言うものだから、今度はなんだろうとレーテは身構える。

 いいですか、と続けたベスの言葉で、レーテはようやくあの日ベスが森に居た理由を知った。弟子に取ってから3日目のことだ。


「噂になってるんですよ、この森に魔法使いがいるらしいって。ただ、吟遊詩人さんがそういう森の魔法使いが出てくる昔話をしているから、多くの人は真に受けてませんけど」

「――森の?」

「はい。これ、レーテお姉さんじゃないですか?きっと誰かが見たんですよ!」

「……その森の魔法使いって、見た目の情報とかはある?」

「うーん、そこまでは。でも、わたし、だから森に来たんです。そしたら――レーテお姉さんに会えた」


 レーテはひょっとしたらその噂は師のことではないかと思ったが、現状では自分の可能性もあるな、と保留にした。それに師は人前に姿を現さないではないか。

 噂があれば苦労はしない。


「それじゃあ、今日もよろしくお願いします」

「うん、そうだね。じゃあ今日は――」


 そうして少しずつお互いを知りながら、ベスの鍛錬は穏やかに始まった。レーテは師の教えを思い出しながら、その当時の自分の経験をもとに鍛錬の内容を考えていたが、1週間と経たないうちに思い知った。

 レーテは今生で至上の魔法使いに教わった、至高の魔法使い。


 そしてベスは、本物の天才だということを。


 レーテの1年を、ベスは1か月で越えて見せたのだった。



※※※



 君には素質がある、特に知識面は既に申し分ない。だからもう少し身の回りのことも出来るようになった方がいい。

 一度蘇ってくればその時の師の声色さえはっきりと覚えているのに、どうして今まで忘れていたんだろうか。その答えは明白だったが、もはや自分には当時の己を支えていたものは残っていないのだ。



※※※



 ベスの才能はその理解力の早さにあった。理論を身に着けても、詠唱の繊細なコントロールや魔力の調整、魔法を発動した後に至るまで、あらゆる困難が待っている。しかしベスは一度か二度の失敗で、たいていの魔法を使いこなして見せた。

 レーテは座学は早かった一方で、魔法の実技面での鍛錬に時間がかかったのだが、それにしてもベスは早すぎる。既に教育機関の初学者に引けを取らない完成度の魔法を扱っている。


「どうですか、レーテお姉さん!」

「うん、正直驚いているよ。ベス、君にはかなり素質がある。私も見ていて楽しいくらいだ」


 ベスの表情は座学の時も実技の時もいきいきと輝いていて、この道が星に通じていると信じて疑っていない様子だ。魔法を学ぶのが楽しくてしょうがない、という気持ちがはっきりと伝わって来る。

 そんなベスはけれど、魔法以外の場面の方が心の底から笑っているような気がする、とレーテは思う。

 それは、


「レーテお姉さん、これなんておいしそうじゃないですかっ」

「お姉さん、ふふ、口にソースがついてますよ」

「あれ、レーテお姉さん少し髪を切りましたか?とっても似合ってます!」

「お姉さんの作るお菓子、わたし大好きです」


 ベスはレーテと共に過ごす時間を、何よりも楽しんでいるようだった。吸い込まれるような明るい笑顔、嬉しそうに揺れるポニーテール、レーテの作るお菓子に綻ばせる顔。

 レーテは同年代の子どもと友人と呼べる仲の関係になったことがない。努めて「師匠」としての威厳を保とうと試みているが、こちらを慕ってくれるベスとの時間を楽しんでいるのはレーテも同じだった。


「うん、ほんとうだね。すごく美味しそうだ」

「あっ、ベス。あ、ありがとう」

「ふふ、気づいてくれて嬉しいよ。ベスも今日はいつもより結ぶ位置が少し低いね。素敵だよ」

「私も、ベスの作ってくれる昼食がすっかり好きになってしまったよ」


 それはレーテの知っている師弟関係とは何もかも異なっていたが、レーテはそれもいいかと思う。かつて師が言ってくれたではないか――


『その手は誰かに優しくするためにあるんだ』


 師を探す日々の中の、関係を楽しむのも、悪くはない。


 旅を再開する、それまでの関係だ、と――それがこの時までのレーテの認識だった。

 それが変化したきっかけは、ある日の午後、もうベスが弟子になってから2か月が経とうかという頃。ベスの用意してくれた昼食を摂ったのち、その前の晩鍛錬の内容を考えるために夜更かしをしたこともあり、うたたねをしてしまったのだ。

 食器がかちゃかちゃと鳴る音を子守歌に、意識が微睡みの彼方へと落ちていく、まさにその時だ。


――額に、熱くて柔らかいものが、触れる。


「……キス、しちゃった」


 レーテはすぐそばに佇むベスの気配を感じ、咄嗟に狸寝入りをした。


「レーテお姉さんはずるいです。あんなにかっこよくて、なんでも知ってるのに変なところで子どもっぽいし。わたしが作った料理も、おしゃれも、全部褒めてくれて――わたし」


 声に滲む雨の気配と赤い熱の色。

 レーテは心臓をわしづかみにされてしまった。


「……好きに、なっちゃったじゃないですか」

「――」


 全てを失った自分が鍛錬に明け暮れた日々、それを越えてまた失って。

 レーテの中に、長い間忘れていた何かが芽生えた瞬間にそれはきっと始まっていたのだろう。レーテと、ベスの関係の変化が。


「いつかわたしを、連れていって欲しい」


――ベス、それは、星に?それとも。


 数分後、何事もなかったかのようにレーテを起こしたベスの目に微かに浮かんだ赤い色を、レーテは見逃さなかった。



 その日の帰り。

 レーテはいつものようにベスを森の入り口まで送っていた。例の魔物が現れた日以来、レーテは森の広い範囲に結界魔法を仕組んだ。魔物の類が中に侵入すれば、たとえ欺瞞魔法を使われていても察知することができる。

 今のところ反応はないが、警戒するに越したことはない。


「レーテお姉さん、お疲れですか?」


――蘇る、額に触れた熱。


「あっ、い、いや。やはり食後は少し、眠くなるね」

「はは、そうですね。今日は珍しくすやすやでした」

「そういうベスこそ、しっかり寝た方がいいよ。最近、鍛錬を頑張っているからね。体調をくずさないか少し心配だよ」

「――心配、してくれるんですか?」


 ふいに足を止めたベスは、上目遣いにレーテを振り返った。その目で見つめられるだけで胸の内が少し、熱くなる。

 その熱を自覚しながら、レーテは出来るだけ普段通りを装った。


「――それは、弟子だからですか?」

「当たり前だよ。大切な弟子だからね。私の一番弟子さ」


『好きに、なっちゃったじゃないですか』


 レーテの言葉を受け止めたベスは、何も言わずにレーテの胸に飛び込んできた。突然のことで動揺したレーテだったが、胸に直接響いてきた続く言葉にさらに混乱してしまった。

 気づかれていたんだ、と。


「レーテお姉さん、わたしと居る時、いつも

「――!無理、って」

「……もっと、わたしにちゃんとレーテお姉さんを見せて欲しい。偽りの姿なんかじゃなくて」


 今ならはっきりと分かる。

 レーテは、魔法も生き方も、師に教わった。弟子への接し方も、師を真似ることで上手くやれると思ったんだ。似合わない口調で、大人ぶって。

 本当は自分だってまだ迷っているだけの子どもなのに。


「……そう見えていたのかな」

「はい。今も、ですよね。やっぱり」


 そこで離れたベスの顔に浮かんでいたのは、レーテが惹かれた遠い未来を見つめる光ではなかった。きっと、初めてレーテが見た色。

 今、ここにいるレーテだけを、見つめている、その両の目。


「私は、ベスみたいにちゃんとした立派な目標があって魔法を学んだわけじゃないの」

「はい」

「本当は、人に教える資格なんて、ないんだよ」

「……はい」

「それでも、私ね、ベスに教えたいと思った。ベスの夢が、素敵だと思ったから」

「――はい」


 レーテはいつもの大人ぶった微笑ではなく、ひたすらに不器用な、迷子の子どものような、まっすぐに曖昧な笑みを浮かべた。


「こんな私でも、ベスの師匠で居ていいかな」

「もちろんです。わたしは、お姉さんがいいんです」


 ベスは15歳には見えない深くやわらかな表情で返してから、レーテの手を取った。そして、その甲にそっと、口づけをする。

 額に感じた熱と同じくらい、レーテを揺さぶる熱が、手の甲をじくじくと掴んだ。


「今のは、誓いです。これからも弟子を続けます、っていう」

「う、うん。分かった、じゃあ、私も」


 レーテはベスにならって、口調に比して優雅な動作でベスの手を取ると、騎士が姫にするように恭しく、その甲にキスをした。

 まだ熱い自分の手が、もっと熱を孕む。


「――これからも師匠でいるね、ベス」

「……はい。よろしくお願いします、レーテお姉さん」


――次の日から、ベスは森にやって来なくなった。



※※※



 初めて師の元を離れた時、自分が師を慕っていたのだと知った。

 自分の目的のために利用していたつもりだったけれど、師にはそれすらお見通しだったのかもしれない。そうと知ったうえで、親身になって接してくれた。

 そんな師がくれた最後の課題を、未だ果たせずにいる。



※※※



 1日目は、他の用事があったのだろうと思った。3日目は、体調を崩したのだろうかと心配になった。1週間経って、何かあったのではないかと不安になって。

 そして、1か月が経った今日も、レーテは朝の待ち合わせ場所で立ち尽くしていた。


「誓ってくれたじゃない、ベス」


 だな、とレーテは踵を返し、森の奥へ引き返した。


――事態が変わったのは、その日の夜だった。


 とこについて、どうせちゃんと眠れやしないのに目を瞑っていた。ベスが来なくなってから、来る日も来る日も頭をよぎるのはベスの言葉、その笑顔、眼差し。

 ベスの一挙手一投足を目で追っていたんだと、会わない日々が続いてようやく分かった。町に探しに行けばいいのにしなかったのは、拒絶されてしまうのではないかと思ったから。

 別れ際、共に誓ったのにも関わらず、レーテにはどうしても、待ち合わせ場所のその先に行くことが出来なかった。

 この日も眠れぬまま夜が明けていくのだろうと思っていたまさにその時、森に張った結界に侵入を告げる反応が2つあった。そしてそのうちの1つが、で。


「――ベスっ!!」


 レーテは考え得る限り最悪の事態を想像してしまう頭を、無理やり横に振って想像を掻き消して、ほとんど着の身着のまま森に飛び出した。いつものローブすら、ベッドの脇だ。

 そのまま細かい草木に肌を晒しながら反応の方へと駆けていくと、あの懐かしい例の魔物の声が聞こえて来た。やはり、この森にはまだまだひっそりと他の個体も生息しているようだ。


「ベス、ベス……っ」


 次第に2つの反応に近づき、レーテは魔法以外の五感で以て状況を確認した。あの時は一方的にベスが逃げていたから、魔物が森を走る音が分かりやすかった。だが今は、咆哮、破砕音、悲鳴、唸り。

 あらゆる音が混ざり合った騒音のカーテンが、そこにはあって。


「まさか、ベス、――!?」


 たった2か月魔法を習った者が太刀打ちできる相手ではない。その運命は、最悪――だが、ベスなら?

 彼女は天才だ。みるみるうちに実力をつけたベスなら、あるいは。


 どうか、無事で居て欲しいと思うその気持ちが、甘い期待に縋らせる。


「――ベス!」


 果たして、目の前に広がっていたのは、


「お、姉……さん……」

「……っ!ベスッ!!」


 魔物の攻撃――だけではない、治りかけの傷あとも顔や腕に見える――に傷ついた、ベスの姿だった。


「わたし、やりましたよ……」

「ベスっ、待って、それじゃあ――!」


 ほんの数歩の距離、その巨木のような前脚を振りかぶって小さなベスを押しつぶそうとしている魔物の、後ろ脚には拘束魔法がかけられている。魔物の腕、顔、体表はめちゃめちゃに傷ついていたが、その結果、魔力管を切ることが出来たのか、頭部に弱点の結晶が露出している。

 あの結晶の位置は個体差があり、レーテが戦った個体とこの個体とで場所が異なるのだ――そしてベスは形成した細い光の刃を、その結晶に向けて解き放ち、刹那、結晶を砕くことなく刃が砕け散った。


「あれ、なんで」

「――ッ!ベス!」


 レーテは転がるように全力でベスの元に走り、急いで詠唱しながら何とか魔物との間に割り込もうとした。だが、魔物が振りかぶった腕が到達する方が早く、ついに、その腕がベスに直撃する。


「――ぁ」


 ベスは自分の悲惨な末路を予感したが、魔物の攻撃はベスの身体に触れた瞬間、。魔物にとっても予想だにしなかった結果のようで、次の行動がほんの数秒遅れる。

 それが、この魔物の最期だった。


「ベス……!」


 レーテは魔物にほとんど目もくれず、光の刃を無数に形成して雨のように魔物の頭上に振らせた。繊細な指揮など必要ない。あれだけの攻撃を食らった魔物の弱点の結晶は、あっけなく散り散りになっていた。

 どさり、と地面に力なく横たわった魔物の屍を無視して、腰を抜かして血だらけでくずおれるベスを、レーテは治癒魔法かけながら抱きしめた。


「ベス、ベス……っ、無事で、よかった……」

「レーテ、お姉さん……」


 ベスの身体はぷるぷると震えており、レーテが大好きな顔にも惨たらしいあざがいくつかできている。

 魔法は、一度に使い過ぎると使用者の体調に影響が出る。知ったことか、とレーテは全力で治癒魔法をかけ続けた。

 

「わ、わたし、お姉さん――わたし、約束、したのに……誓った、のに。来れなくて、ごめんなさい。弟子、失格……です、よね」


 レーテは耳元に響く、ずいぶん久しぶりに聞くベスの声があまりに弱々しくて、言葉を返そうとした喉がその悲痛さにツン、と滲んで、首を横に振ることしかできなかった。治癒魔法をかけて身体的な、内外の傷はみるみる治っていくとはいえ、話すだけでも痛みが伴うだろうに。

 この子は、謝って。


「謝らないで、ベス」


 レーテはベスが痛くないように、抱きしめる力を少し緩めて、代わりに震える背中をさすった。少しでも、その痛みが和らいでほしくて。


「悪いのは私。何かあったかもしれないって、思ってたのに、助けに――迎えに、行かなかった」

「……お姉さん」

「失格は私の方だよ。こんなんじゃ、師匠失格だ」

「――でも今、来てくれました。お姉さんが助けてくれなかったら、わたし。2度目、ですね」

「――!」


 ベスはそう言うと、甘く、耳たぶを唇で挟んできた。


「やっと、会えた――お姉さん」

「……ベス?ベス!」


 ベスはまるでこと切れてしまったみたいに意識を閉ざしたが、直後に穏やかな吐息が聞こえてきて、安心した。治癒魔法で傷はほとんど直してある。疲労から、寝てしまったのだろう。

 レーテはベスを抱きかかえ、今の騒ぎで野生の獣が寄ってきてしまうかもしれないから、と急いでその場を後にした。結晶を砕いた魔物の死骸は放っておけば消える。

 今は、一刻も早くベスを休ませてやりたかった。


「……師匠、私は何も変わってないみたいです」


 月下、大切な人を腕に抱いたレーテのつぶやきは、誰にも届くことはない。



 自分のベッドにベスを寝かせたレーテは、傍に持ってきた椅子に腰かけ、しばらく様子を見たのち、寝室を後にしようとした。ベスの額にかかった髪を優しく払う。今のベスはいつものポニーテールをほどいているから、肩甲骨あたりで毛先が躍っている。雰囲気の違うベスにどぎまぎしながら、椅子から立ち上がって――

 その指を、ふいに握られる。


「行かないで、ください」

「……ベス。起きてたの」

「はい。さっき、目が覚めました。お願いが、あります」

「うん。なんでも言って」

「――さっきの。頭、もう少し、撫でてください」


 レーテは言われた通り、ベスの額にそっと触れた。唇が熱くなって、誤魔化すように、その頭を撫でる手つきに集中した。


――「誓い」のキスを手の甲にしたとき、ベスに防護魔法をかけておいてよかった。


 命の危機が訪れた時に1度だけその身を守ってくれる魔法。あれのおかげで、魔物の最後の攻撃を防ぐことができた。

 防護魔法の強度を大幅に上回る攻撃に対して、相殺する衝撃を放つという仕組み上、細かな攻撃を防いでやれなかったのが、レーテは悲しい。


「レーテお姉さんの手は、温かいですね」

「私の手?」

「はい。わたし――は、お姉さんが初めてだったんです。こんなに、温かい、人は、手を、してるんだ、って」

「ベス……」


 ベスは嗚咽を堪えるようにそう絞りだすと、横たえていた腕をゆっくりと持ち上げ、レーテの腕を抱き寄せた。椅子に座っていたレーテは、そのままベッドに片膝をつき、ベスの顔に影を落とす。

 ベスの目は今、レーテしか見ていなかった。


「1か月も会えなかった」

「そうだね」

「わたし、ずっとお姉さんの声が聞きたかった」

「私もだよ、ベス」

「――好きです、お姉さん」


 ベスの額に、雨が、一雫。

 ベスの乾いた目は細められ、その頬を伝うそれが、シーツに落ちる前に。


「……ベス」


 レーテはそっと、ついばむようなキスをした。


「……お姉、さん」


 もう2度と離すまいと、強く、強く、お互いを抱きしめる。

 ベッドが、軋んで、2人の吐息が漏れた。

 抱擁の熱が、静かに夜を溶かしていく――


「――大好きです、レーテお姉さん」


 ベスの目の光に、熱が灯る。



※※※



 師匠を探す旅に出てから、初めて手記を取らなかった夜。

 大切な者の熱を全身で感じながら、思う。


 旅の途中のわが身では、この子と道を共にすることは出来ないのだ、と。



※※※



 ベスに起こされたのは初めてではなかったが、同じベッドで、というのは新鮮だった。昨晩レーテがベスにしたように、優しく、額にかかった髪を撫でながら、ベスが笑う。「おはようございます、お姉さん」と。

 その心底安心した表情に込み上げる愛しさが、レーテは嬉しかった。


「おはよう、ベス」


――師弟関係になって最初の、2人で迎える朝だった。


 入浴を済ませ、2人で着替えた後朝食を摂る。いつもならベスを迎えにいっている時間、2人は居間で身なりを整えていた。

 お互い髪を縛ったり結ったりしている姿しか知らなかったから、こうして降ろしている姿が珍しくて、


「ねえお姉さん。わたしに結わせてください!」

「ふふ、じゃあ、私はベスの髪をやってあげるね」


 私の髪の方が長くて時間がかかるから、とレーテは最初にベスを椅子に座らせて、櫛で髪を梳いてやりながらどう結ぼうか思案していた。お揃いの三つ編みにしてもいいし、お団子を作っても可愛いだろう。

 いつもひと房のポニーテールにしているから、ふた房のツインテールを作ってもいい、とレーテは上機嫌だ。


「――その鼻唄、なんですか?」

「……これは、私の故郷の唄だよ」

「素敵な唄ですね」

「うん――大好き、なんだ」


 レーテは結局、左右の側面の髪を三つ編みにして後頭部に持ってきて、後ろで結び、長い髪は首元で結わって緩いウェーブをかけて胸元に垂らしてみた。いつもは快活な子どもの印象の強いベスも、少し大人びて見える。

 鏡を見たベスは顔を綻ばせ、レーテを振り向いた。


「すっごく素敵です。ありがとうございます、お姉さん!わたし、もうほどきません!」

「あはは、そっか。それは良かった。私も、素敵だと思う――またやってあげるから、ちゃんとほどいていいからね」

「……はい」


 ベスは宝物に触れるように側頭部の三つ編みを撫で、一拍空けて、「交代です」とレーテを椅子に座らせた。誰かに髪を結ってもらうのはかなり久しぶりで、少しそわそわするレーテだった。

 ベスが髪に触れ、そっと梳いてくれているだけでも、温かな心地よさで胸が満たされる。


「――わたしは、道具なんです」


 だから、ベスの口から語られたその言葉にレーテは虚を突かれた。


「あの家に生まれて、大人になって。家を継いで、どこかの家と結ばれるための道具でしか、ないんです」

「……ベス」

「わたしがどんなに望んでも、星には――届かないんです」


 レーテは息をのんだ。それは、から。

 ベスの声色は諦観に満ちていて、その隙間から零れるレーテへの想いが、かえって痛かった。


「だからわたし、逃げて、きちゃったんです」

「――家、から?」

「はい」


 ベスは語らなかったが、顔や腕にできていたあざは――そういう、ことだったんだろう。だとすれば、ベスに魔法を教えていた自分のせいで、ベスは。

 鏡に映ったレーテの顔色を見たのか、ベスはゆっくりとかぶりを振った。


「確かに、出る時、、ありました。でもそれは、お姉さんのせいじゃないです」


 ともすればレーテよりも器用な手つきで、するすると幾重にも編み込みを重ねている。ひと房、またひと房と増えていく束は、後頭部でくるくると絡み合い、一つのまとまりになった。

 それをベスは手に持っていた髪留めでしっかりと止め、「はい、出来ました」と笑って見せる。


「お姉さんには、こういう髪型が似合うと思ったんです」

「ベス――ありがとう。とても素敵だよ。自分じゃ、たぶんできないし。また、やってね」

「……ふふ。はい。


 2人で道具を片付けながら、「さっきの続きですけど」とベスは振り返った。

 ふわり、と舞う髪は、我ながら目を奪われる美しさだ、とレーテは思う。


「わたしは、で、ここにいます。生きています」

「ベス……でも、私が軽々しく弟子にしなかったら」

「しなかったら、わたし、お姉さんを好きになってませんでした。わたしにこの気持ちを教えてくれた――それだけで、十分なんです」


――もっと遠くへ行きたいんです。


「……ベス」


 レーテはふと、気が付いてしまった。

 結果的にお互いがお互いにとって大切な存在になった。それは喜ばしいことだ。けれど、あるいは、レーテがいることによって、ベスはあの頃の、遥か遠くを見つめる眼差しを、失ってしまったのではないか。

 レーテが惹かれたあの目は、今、レーテだけを見ていて。


「レーテお姉さん。わたしを、そばに置いてくれませんか」


 その問いにはっきりと答えられないまま、レーテはベスの頭を撫でていた。


「うん。いいよ」


 レーテの返事に、しかしベスは、何を言うでもなく、ただそっと微笑むだけだったのだ。



 その日は魔法の鍛錬はしなかった。2人で静かに、穏やかな時間をただ過ごした。

 昼食はいつものようにベスが作り、談笑しながら2人で食べる。午後は、レーテが今までに訪れた街の話をして、ベスの料理のこだわりについて話して、お互いが好きな物語について語って。

 夜が来て、またお風呂に入って、そして、同じベッドに入る。


「――お姉さん」


 腕の中で自分の名前を呼ぶ愛しいこの少女の手つきを、レーテは柔らかく優しいと思った。レーテの腹部にある痛々しい傷跡。

 労わるように触れながらも、ベスはそのことを聞かなかった。レーテが、顔のあざの理由を聞かなかったように。


「ベス」


 誰かの名前を呼ぶことがこんなにも温かいことなのだと、レーテは忘れていた。もうしばらく、ベス以外に名を呼んだことはなかったから。

 だから、余計に痛いのだ。

 レーテはベスの肌に触れながら、次の旅の出発をいつにするか、考えなければと目蓋を閉じる――ベスと、共に?


 そばに置くとは、そういうことだ。



 胸の内で言葉がぐにゃぐにゃと形を変えてしまって、ベスにどう切り出そうか迷っている時だった。2人はここでの共同生活にすっかり慣れていた。

 共に起き、座学をして、鍛錬をして。

 生活のささいなところで雑に済ませてしまうレーテの世話を焼くのが、ベスは心底嬉しいという様子だった。だから、ベスにを見られてしまったのは、レーテの不注意だった。


「レーテお姉さん。あの、洗濯もののポケットに、これが入っていたんですが」

「――!これは、ええと……師匠が、くれたペンダントなの。いつもはローブに入れているんだけど、たまたまこっちに入っていたみたい。見つけてくれてありがとう」

「はい!良かったですね、見つかって」


 はレーテにとっては何物にも代えがたい大切なもので、だった。それをベスに見られて弱った。でも、なんとか、とレーテは胸を撫でおろした。


(だって、これを知ったらベスは……私を、私から)


 その続きを言葉にするのが、怖い。

 もう、失いたくない。


「――お姉さん?どうしたんですか、急に」

「……少し、このままでいさせて」


 抱えたものを話せないままこうするのはずるいと分かっていながら、レーテはベスを抱擁した。その熱で、全部溶かしてほしいと願いながら。



※※※



 傷が残ってしまってすまない、と謝ってくれた師匠に、今なら素直にお礼が言えるのに。当時は、傷などどうでも良かった。いくらできようが、治ろうが、治るまいが。

 それでも、師匠が失くしたと思っていたペンダントを見つけてきてくれた時は、多分、ありがとうと言ったのだと思う。いや、言えなかったかもしれない。でも、頭は下げた気がする。

 だって師匠は、悲しそうだったけれど、笑っていたから。



※※※



 ある日のことだった。

 昼食を食べた後、レーテは室内で書き物を、ベスは外で1人鍛錬をしていた時だ。突然、ベスの悲鳴が窓の外から飛び込んできた。


「――ベス!?どうしたのっ」


 慌てて外に出ると、ベスはがくがくと足を震わせてその場に腰をついていた。いつも活発で、あの魔物相手にも果敢に立ち向かっていたベスの、その明らかな異変に胸がざわつく。

 駆け寄って背中をさすりながらもう一度名前を呼ぶと、ベスはただ、無言で前方を指さした。こちらをまっすぐ睨みつける、山のような身体をした大男。


「あ、あ、あ、あいつが」

「――心配しないで、ベス」

「え」


 レーテは多くを聞かなかったが、大まかな事情を察して、ベスに優しく微笑みかけた。同時に、とも。

 念には念を入れておいて正解だった。


「あの人には、私たちが見えていないよ。こちらを睨んでいるのは、

「……えっ」

「一応、ね。ベスと一緒に暮らし始めてから、この家の周辺に幻覚魔法を仕掛けておいたんだ」


 いつかは来ると思っていたが、存外早かった。

 レーテはベスが「家から逃げて来た」と聞いた時、きっと取り返しにくるだろうと思ったのだ。道具と、そう扱われていたのなら、なおさら。

 だがこの場所は森のかなり奥深くだ。ここまで探して来て見つからないとあれば、きっと諦めるだろう。仮に何らかの手段で幻覚を破ったのなら、昏睡させて森の外に追い返すことも出来る。


「――中に入ろう。絶対に大丈夫だから。もうこれ以上、見ることはないよ」

「は、はい」


 レーテはベスの背中をさすりながら、背後に感じるその憎悪のこもった視線に思う。お前にこれ以上ベスを傷つけさせない、と。

 ベスを椅子に座らせると、無言で腰に腕を回された。腹部に顔を埋められ、レーテはしばし、ベスの頭をゆっくり、ゆっくりと撫でてやった。


――決めた。


 明日、ベスに話そう。

 ここを出る、そのことについて。



 既に半年が経とうとしていた。

 ベスと共に暮らしてからはもう数か月。その間探していた男の執念には目を見張るものがあるが、レーテは自分がいる限りベスを傷つけさせるつもりはなかった。

 けれど、こうしてベスの目に入ってしまった以上は、ここに長居するのは得策ではないだろう。


「……だから、そろそろ旅を再開しようと思うんだけど、ベスはそれで大丈夫かな」

「……一緒に来るか、聞かないんですね」

「もう。ベスは私のそばに居てくれるって、誓ったでしょ」

「――誓いってそれでしたっけ。ふふ、でも、そう思ってくれていて嬉しいです」


 朝食の席でベスに告げた。いつしか朝のお決まりになっていた、お互いの髪を梳き合う時間を控えている今、すっかり見なれた髪を降ろした姿。

 ポニーテールも好きだけれど、レーテは今のベスの姿も好きだった。


「――嫌です」

「……え」


 レーテはベスの反応が肯定的だったから、てっきり賛成してくれるものだと思ったが、はっきりと首を横に振っている。嫌です、ともレーテの耳は捉えた。

 ぽかん、と口を開けていると、ベスは目を細めて、言った。


「今すぐは、嫌です。だから――卒業試験を、してください」

「卒業試験?」

「はい。内容はお姉さんが決めてください。それに合格するまでは、旅には出たくないです」


 レーテはベスの提案に最初こそ驚いたが、だんだんと理解が追いついてきた。この半年でベスはさらに魔法に磨きをかけている。それも、毎日決まった時間に鍛錬を続けられているからだ。

 旅に出ても鍛錬は出来るが、今のようにはいかない。


「……そういうことなら、分かったよ。内容は考えておくから、来週のはじめに、卒業試験をしよう」


 ベスはきっと、明確な証明が欲しいのだろう。少しでも、「星に近づいた」というそれを。

 しかし、レーテはこの時気が付いていなかった。


 ベスの目に浮かんでいるのは、ではなく――




※※※



 卒業試験として戦った魔物をあっさりと撃破した自分の目を見た師匠は、どこか辛そうな表情のままこちらに近づいて来た。

 そのままゆっくりと、背中に腕を回される。初めて、師匠の腕の中にいる気がする。師匠は何度も謝って、それから、ゆっくりと腕を離して、言ったのだ。

 その手は誰かに優しくするためにあるんだ、と。



※※※



 経験不足という点を除けば、ベスの実力はもはやほとんどレーテと拮抗していた。

 にもかかわらず、ベスは卒業試験に合格できなかった――5回連続で。

 1回目は、緊張があったのだろうと考えた。2回目は、逆に力み過ぎていたのだろう、と。3回目で不審に思い、4回目、5回目を経て確信した。

 ベスはと。


「お姉さん、明日、試験ですけど――いいですか?」

「……うん。でも、今日は背中からくっつくだけにしてね」

「分かりました。ありがとうございますっ」


 明日、6回目の試験がある。

 レーテとベスは同じベッドに入り、レーテが言った通りこの日はベスはレーテの背中からぎゅ、と抱きしめるに留めた。背中から回された手を自然に握って、レーテはその変わらぬ熱を感じて高揚する。


――高揚するから、寂しかった。


「レーテお姉さん、今日のお菓子も美味しかったです」

「そっか。ありがとね」


 静謐な泉に雫を一滴ずつ零すように語らう宵。2人を包む優しい静けさを、あれ以来、犯そうとする者はいない。

 レーテの杞憂ですめばいい――このまま、この安寧が続くなら。


「あのね、ベス」

「はい。なんですか?」


 レーテはようやく気が付いたのだ。星を目指したいと語っていたベスの目が、今やレーテだけを見ているということに。


「卒業試験は、明日で終わりにしようと思うんだ」

「……ぇ」

「安心して。合格しても、しなくても、今度の旅も、これからも、ベスと一緒だよ」

「――じゃあ、なんで」


 レーテは強張ったベスの指から少し力を抜いて、続けた。


「ベス、わざと落ちているよね」

「――っ、それは」

「今までの試験で分かったよ。もう卒業試験はいらないくらい、ベスは十分素晴らしい魔法使いだよ。でも、試験はベスからの提案だから、最後にもう一度、ちゃんとやって欲しい。これは、私のわがまま、かな」

「……お姉さん」


 ベスはレーテの背中を抱く力をぐっ、と強くした。

 ベスの全身が「嫌だ」と言っていたけれど、レーテはあえて気づかないふりをして、付け加えた。


「レーテは、?」

「……ぁ」


 その一言が2人の間に落ちた瞬間、ベスの身体が硬直したのが分かった。強張った腕を優しく撫で、レーテは目を閉じた。

 見なくても、分かる。

 背後のベスのその目に灯った光は、簡単には失われないほど、まばゆかったから。


「――おやすみ、ベス」


 返事の代わりに、背中から身体が離れていった。



 翌朝、涼やかな冷気が肌を撫でる良く晴れた秋の午前。

 2人は家の外で対峙していた。


「お姉さん、昨日はすみません」

「――なんのこと?」

「……いえ。大丈夫です」


 それまでの試験の時と、顔つきが全く異なっていた。ベスは一度深呼吸をすると、軽く頷いて見せる。

 開始していい、ということだろう。


「じゃあ、よろしくね」

「はい」


 こうして、最後の卒業試験が始まった。

 試験の内容は、レーテの師に教わったある競技である。額に着けた木製の的を割った方の勝利。使用する魔法で相手を傷つけてはならず、格闘技は使用不可。

 日常の様々な場面で使われる魔法。その実力を測るのに、立体的で即自的な判断を要求するこの模擬戦闘競技は適している――らしい。

 師とはついぞやることのなかった競技だったし、こうして卒業試験に採用してみても、半年も鍛錬を見て来たのだから、レーテはベスの魔法を知り尽くしている。

 しかし時に、形式は重要な意味を持つのだ。


「行きます、お姉さん――!」


 ベスは声高に宣言し、先手を仕掛けて来た。こちらに詠唱は聞こえていないが、その構えから例の拘束魔法を打って来るだろう。

 レーテはそう予測し、横っ飛びに回避したが、その瞬間に自らの判断の過ちに気が付いた。


「しっ――!」


 拘束魔法は、見えざる手を行使して対象の動きを封じる魔法である。

 ベスはその魔法の詠唱の影に隠れて、をしていた――土くれから物を象る、錬金魔法の一種だ。事前にポケットに忍ばせていたのか、土の塊を右と左とで一つずつ掴み、それぞれを空中に放る。そして、


「拘束魔法」


 中に浮いた土くれを錬金魔法で形を整え、それに対して拘束魔法をかける、即席の空中の足場。ベスはレーテのふいをついて作った足場を、しかし自らで踏むことはなかった。

 跳躍しながら迎撃の体勢を取ったレーテは、刹那、こちらに飛来する何かを捉える――それは、純粋な魔力の塊、模擬戦闘でよく使われる魔力弾だった。


「――まさかっ!」


 レーテはベスの2重のブラフに気が付かなかったのだ。

 ひとつ――拘束魔法はレーテに対してではない。

 ふたつ――錬金魔法の足場はベスが使うものではなく、ため。

 だが、跳弾させる都合、レーテがどちらに跳ぶかを予測できていなければならないはずだ。


「……わたしがどれだけレーテお姉さんを見て来たと思ってるんですか」

「……っ」


 1秒にも満たない時間の中、レーテは自分の額の的が割れる未来を予期し――否、その必要はなかった。


――なぜなら。


……!?」

「まさか、こんな序盤に使うことになっちゃうとはね」


 レーテはベスの攻撃を、甘んじて受け入れた。しかし、それによって額の的が割れることはない。試合が始まった瞬間に、的に防護魔法をかけておいたから。

 魔力弾の威力に合わせた低出力にしておいたおかげで、一発なら直撃を防げる。


「ず、ずるいですよお姉さん!」

「……5回目まで、私、毎回つけてたんだよね」

「――そ、それは」


 1回目と6回目の間でそう時間は経過していない。つまり、ベスはやろうと思えば1回目からこの動きが出来たのだ。

 言外にそう告げたレーテにひるんだベスその隙を、レーテは逃さなかった。


「今度はこっちの番だね」


 レーテはお得意の、光の刃のオーケストラを出現させた。自らの背後に数十の刃を浮かべたが、それらは全て魔力弾にしてある。

 だが、本質は例の刃と同じだ。レーテの指揮に従って、次々にベスへと飛来していく。狙いはもちろん、的だ。


「これが、お姉さんの……!でもっ」


 光の刃であればそう簡単に消すことは出来ないが、あれは魔力弾、魔力の塊である。魔力の塊は、より強い魔力へと引かれるという基本的な性質がある。したがって先ほどベスが放った魔力弾は、レーテという強い魔力を有した対象へとまっすぐ飛んで行った。

 だからこそ、その魔力弾を自在に指揮して見せるレーテの技量に、ベスは舌を巻いている。それはまっすぐにしか進まない車輪を、その形を保ったまま無理やり縦横無尽に動かしているようなものだ。


「わたしにはできない、けど」


 ベスにはまだその技量はない――だが、


「嘘っ、そんなことをしたら――」


 レーテはベスが何をしようとしているか気が付いて、攻撃よりも反射的に心配が勝ってしまった。

 ベスは、己の魔力のを魔力弾に変え、それを放ったのだ。それは巨大な球であり、まるで天体のようでもあった。無数に飛来する魔力弾の刃たちは、いくらレーテが指揮しているといえど、その天体の引力には逆らえない。

 レーテの指揮を離れ、次々と魔力弾天体へと吸い込まれていく刃たち。


「でも、これじゃあベスは魔法を使えないし、動けなくなる」


 一度に大量の魔力を消費すれば一時的な貧血状態になってしまう。これは、ベスにも教えたことだ。まさか、それを忘れたわけではあるまい。

 ベスの次の一手を警戒しながら天体を睨んだレーテは、ふと、ことに気が付いた。


「――ベス?」


 レーテがその名を口にした瞬間、


――ぱきっ。


「……え?」


 レーテの額の的が、あっけなく、割れた。


 混乱するレーテの背後から、肩で息をするベスが現れたのは、その一瞬後だった。


「べ、ベス!?いつの間に……あんなに大きな魔力弾を放ったのに、どうして」

「――欺瞞魔法です」

「……まさか」


 レーテの肩を借りてなんとか立ち上がったベスは、勝ち誇った表情でそう告げる。


「あの天体、見た目ほど魔力はこもってないんですよ。それこそ、くらいです」

「……うん」

「レーテお姉さんなら、わたしがあれを作ったら油断すると思ったんです。心配してくれる、が正しいかな。だから、って」


 ベスの一手は確かにレーテに刺さった。

 ベスの言う通り、あれはほんの少し強い魔力を込めたただの魔力弾に過ぎない。それに幻覚魔法をかけて、天体に仕立て上げた。

 巨大な魔力弾の塊だと思ったレーテは、無意識のうちに指揮をするのをやめていたのだ。その結果、刃たちは次々と天体に吸い込まれていく。その隙をついて、ベスは自らに欺瞞魔法をかけて姿をくらまし――背後から、レーテの額の的を割った。


「……どうですか、お姉さん」

「うん。完敗だよ」

「――やった!」


 その表情は、5回目までわざと負けていた少女が浮かべているとは到底思えないほど、純粋な喜びの色をしていた。そして、その目は。

 レーテをまっすぐ見つめるその目に、レーテは自分以外を見つけて、胸が苦しくなる。自分だけを見ていて欲しいのではない。


――レーテはベスの、その遠くを見る眼差しが好きだから。


「お姉さん、わたし、ひどい女の子なんです」

「それは、わざと不合格になっていた理由?」

「――はい。嫉妬、です。わたし、レーテお姉さんにはわたしだけを見ていて欲しかった。旅をしてまで探す師匠よりも、一番近くで」


 旅が始まったら、レーテの目は師匠を映すだろう。

 ベスには、それが耐えられなかったのだ。


「でも、お姉さんが思い出させてくれたんです。わたし、やっぱり星に触れたい」

「うん」

「だから――」


 ベスは満面の笑みを浮かべ、腰に手を当てて、宣言した。


「これで、わたし、やっと卒業できます」

「――ぁ」


 レーテはその瞬間、自らの歩む道が見えた。

 脳裏に響く、師からの最後の課題。いまや、レーテはそれを乗り越えているのだ。

 ベスという、愛する人と、その眼差す先。


「ベス」

「はい」

「ありがとう。私も、やっぱりひどい師匠かもね」

「え、ええ?」


 レーテはそう告げるとおもむろにベスの前に跪いた。恭しくベスの手を取り、その甲に口づけをする。

 いつかの誓いと違うのは、この誓いが、レーテの人生をささげるものであるということ。


、カナリア家が末裔。グレーテリア・アルバ・フォン・カナリアが誓いますわ」

「――え」


 纏う雰囲気も、口調も、名乗る名も、そのどれもがベスの知っているとは一致しない。

 けれど、その目の色は確かに、「レーテお姉さん」のもので。


「わたくしの生涯を捧げて、貴女、ベス・ルーハン様と共に星を追うことを」



※※※



 ヴィネットは自分が「今生で至上の魔法使い」と呼ばれることを嫌った。

 何しろ、魔法使いに求められる最初の否定――人の生涯の限界を疑うことを、ヴィネットはしていないから。長命種に生まれたというだけで、人間よりも多くの時間を使えるというだけで、自分にはその大仰な名を背負う資格も覚悟もない。

 そんな自分の元に、1人の少女が現れるまで、だからヴィネットは人とのかかわりを断っていたのだ。


「こ、この傷――!今すぐ手当をしないと!君、意識は!?」

「――ま」

「どうした!?どこか痛むか!?」

「……おかあ、さま。おね、えさま」

「――っ。もう大丈夫だ、今私が治してやる」


 血に汚れた豪奢な藍のローブを身にまとった、身なりからして貴族の女の子だろうその子をヴィネットは急いで自宅に運んだ。全身全霊で治癒魔法をかけたおかげで一命はとりとめた。

 だが、腹部をほとんど貫いていた酷い傷だけは、その痕が残ってしまった。


「一体、この子に何が……」


 少女が目覚めた時、血走った目で襲い掛かられて、ヴィネットはますます混乱した。腕や頬に引っかき傷を負いながら、なんとかなだめて、自分が味方であることを必死に伝えた。

 すると、今度はせきを切ったように泣き出してしまい、動揺するヴィネットをよそに少女は疲れ果てて眠ってしまった。

 再び目覚めたとき、努めて優しい口調でヴィネットは言った。


「……気がついたかい」

「――お前は」

「私は、ヴィネットだ。しがない魔法使いさ。君は?名前、覚えているだろうか」

「魔法使い……」


 ヴィネットの前で思案をした少女は、数秒後、覚悟を――昏い覚悟を決めた目で、ヴィネットを射抜いた。


「魔法使い。わたくしはカナリア家の者ですわ。名を、グレーテリア・アルバ・フォン・カナリア。わたくしに、を――魔法を、教えなさい」

「……!」


 それが、ヴィネットとグレーテリア・アルバ・フォン・カナリア……レーテの、出会いだった。



 5年の間、ヴィネットはグレーテリアに魔法を教えた。

 詳しくは聞かなかったが、恐らくカナリア家は他の貴族によって襲われたか、盗賊の仕業か、惨い結末を迎えてしまったのだろう。カナリア家とこの森はかなりの距離がある。あるいは、グレーテリアの母か姉か、高度な転送魔法を使えるものが命と引き換えにグレーテリアをここに送ったのだ。

 ここにはたまたまヴィネットがいたが、転送先を選べないほど切迫した状況だったのだろう――こんなに幼い子のお腹に出来た傷を見れば、察することができた。森の周辺を何度も探索したが、この子を連れて来たが見つからなかったことからも、その推測で間違いないだろう。

 ただ、どうやらこの子の母親の形見らしいペンダントを見つけることが出来たのは、唯一良かったことだと言えるだろうか。


「師匠、早く次の魔法を教えてくださいまし」

「そう焦るな、グレーテリア。一つ一つの理解も大事なんだよ」


 グレーテリアには素質があった。それは、貴族の子ゆえに、高度な教育を受けていたからだろう。理解の速度が桁違いだった。加えて、復讐という昏い、けれど確かな目的があった。

 みるみるうちに上達していく様を見るのは誇らしいようで、けれど、その目から昏さが消えないことが、ヴィネットはどうしても、痛くて耐え難かった。


――それでも魔法を教えたのは、この子には今打ち込める何かがあるべきだと思ったから。


 それが復讐につながるもの以外であればよかったけれど、きっとそれはこの子の心が、許さなかったから。


「今日は卒業試験だ」

「待ってください、師匠。わたくしはまだ、全て教わっていませんわ」

「いや、グレーテリア。君はもう十分に強い。試験内容は、あの魔物を倒すことだ。出来るか?」

「――やりますわ」


 ヴィネットはグレーテリアがあっさりと魔物を倒した姿を――魔物の返り血に濡れて平然としている17歳の少女を、見て居られなかった。身体は反射的に動き、そして、助けた時からグレーテリアの拒絶を知っていたから決して触れてこなかったその身体を強く、強く抱きしめていた。

 歯を食いしばっても、溢れる涙は止めどなく――


「すまない、すまないグレーテリア。私が、私が間違っていた」

「師匠」

「君に魔法を教えるだけじゃなくて、もっと、君に触れるべきだった。君に、人の温かさを思い出させてやるべきだった。君のその手を、復讐のために、使わせるべきじゃ、ないのに」

「何を、言ってるんですの」

「グレーテリア。君は、優しい子なんだ。初めて実戦をしたとき、獣に襲われそうになっていた小さな動物を必死に助けていた。きっとあれが、本来の君なんだろう」

「――今のわたくしも、わたくしです」


 腕の中でもがくグレーテリアを、ヴィネットは半ば無理やり抱きとめる。

 グレーテリアが本気で抵抗すればヴィネットの首だって飛ばせたはずだ。それがないことを、ヴィネットは素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。


「いいかいグレーテリア。その手は誰かに優しくするためにあるんだ。復讐のためではなく……。私からの最後の課題を、今から伝える」

「――何を、師匠」

「いつか、復讐以外に生きる道を見つけたら、私を探して会いに来ること」

「……え?」


 グレーテリアは素直な子だ。今はまだ、復讐しか考えられないだろう。

 この課題は、今のグレーテリアに与えても空回ってしまうかもしれない。けれど、ヴィネットは思う。長命種の自分が出来ること――

 グレーテリアよりも寿命が長い自分を探しに来いと伝えることは、グレーテリアに「復讐以外の生き方を見つけてくれ」と、そう伝えているようなものだった。


「そんな、そんなの――わたくしにはできませんわ!5年間、復讐のために生きてきたのに、今更――!師匠は、何も、何も分かっていませんわ!」

「……そうかもしれない」

「――もういいです。卒業試験は終わりました。わたくしは、あなたの元を去ります。そして、カナリア家を滅ぼしたあいつらを根絶やしにする。止めたければ、わたくしを殺すといいですわ」

「グレーテリア……」


 しかし、ヴィネットにはできなかったのだ。

 グレーテリアを止めることは。


「……もっと、人とかかわっておくべきだった」


 後悔は、返り血に濡れた冬の朝に消えていった。



※※※



――グレーテリアがベスに会う1年前。


 つまり、グレーテリアが師匠であるヴィネットの元を離れてすぐのころ、グレーテリアは復讐のために町を歩いていた。


「お母さま」


『グレーテリア、生きて』


 母親が最後の瞬間にグレーテリアに施した転送魔法は、なんたる偶然か、ヴィネットの住んでいた森の中にグレーテリアを運んだ。しかし、そのせいでグレーテリアは今自分がどこにいるのか分かっていなかった。

 5年間、復讐のために毎日魔法の鍛錬に明け暮れていたから地理の情報を覚えようという発想に至らなかった。


「それがこんな弊害を生むなんて、我ながら阿呆ですわね」


 町を2つ渡ったところで、グレーテリアは大きな街にたどり着いた。街の中央では各地から集まった露店商が店を広げており、中には大道芸人や吟遊詩人の姿もあった。

 その隅に、小さくみすぼらしいながらも、れっきとした一つの露店を見つけたグレーテリアは、ほんの気まぐれでその店に足を向けて――息が、つまった。


「いらっしゃいませ!異国の手芸品ですよ!」

「失われた技術を使った品々ですよ!」


 そこにいた数人の人影。

 


「お母さま……おねえ、さま……」


 そう、その人影とは、かつての姿とはまるで異なるものの、確かに、グレーテリアの母親と姉、そして使用人たちだった。

 母親の目の眼帯、姉は深々と腕に残った傷跡が痛々しかったが、それでも。


「もう、お会いできないと、思っていたのに」


 ヴィネットが丁寧に直してくれたおかげで汚れてはいるものの着られるままのローブは、鞄に忍ばせている。だから今の身なりは一般的な少女と大差ない。

 けれど、生き延びて、一から必死に生を藻掻いている最愛の人たちの生き生きとした目と、この自分の、血に濡れ、復讐に憑りつかれた昏い眼差しと。


「――っ!」


 会いに行く資格はないと、グレーテリアはそう思った。


「――あさま、あれ」

「……リア!?ま、待って――」


 遠くで誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、もう振り返ることは出来ない。


「わたくし……おかあさま、おねえさま」


 この、汚れてしまったわたくしでは、もう。



「――師匠も、いませんのね」


 師匠と共に過ごした場所に戻っても、ヴィネットは既に姿を消していた。

 最愛の人たちが生きていると知って、けれど生きる意味を――「復讐」を――失ってしまったグレーテリアはその場に崩れ落ちた。


「わたくし、どうすれば……どうして、肝心なことを、教えてくれなかったんですの」


 その時頬を伝った一滴で、グレーテリアは気づいた。

 家族を失ったと思っていた自分にとって、今や、ヴィネットはただの師匠ではなく、育ての親に等しい存在である、と。それなのに、ヴィネットが最後に止めてくれたのに、復讐に走ろうと、してしまった。

 生きる意味を失った。最後の課題も達成できそうにない、けれど。


「師匠を探しながら、旅をして、最後の課題を、達成する。そして、師匠に会って――お礼を、言わないと」


 復讐におぼれていたグレーテリアはその時はじめて、ちゃんとした礼を言えていないと、気が付いたのだ。


「――それまでは、わたくしは……は、だ。それが終わったら、きっと私もお母さまとおねえさまに」


 かくして、レーテの旅が、始まったのである。



※※※



――師匠。


 わたくし、やっと、できましたわ。


 やりたいことが、見つかったんですの。


 大好きな人が出来たんですの。その子は、わたくしの弟子になったんですのよ。信じられますか?ねえ、師匠。


 わたくし、その子と――ベスと、一緒に、星を目指しますわ。


 だから、育ててくれて、助けてくれて……。

 わたくしに愛を教えてくれて、ありがとう。



※※※



 よく晴れた冬の朝だった。

 レーテはふと、ヴィネットの課した一つ目の卒業試験を思い出す。


「……あの経験があったから、ベスを助けられたんだね」

「――?レーテお姉さん?どうかしましたか?」

「ううん。何でもない。それじゃあ、行こうか、ベス」

「はい!行きましょう!わたしたちの、星を追う旅の始まりです……!」


 後に、「星を追う魔法使い」としてその名を広めることになる至高の魔法使い「レーテ」とその愛弟子、天才魔法使い「ベス」の旅立ちの、それは、最初の一歩だった。

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星を追う魔法使いたち 音愛トオル @ayf0114

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