第2話

食事に誘ってくれたのは浦野さんの方からだった。あの日、あのエレベーターで初めて彼に会った日に、まるで当たり前かのように彼との距離は縮まった。でも多分その当たり前は、実家で母が毎日ご飯を作って食卓に食器を並べてくれていた時みたいな当たり前で、つまり、当たり前のようで後々当たり前じゃなかったのだと気づくような、本当は脆い当たり前だったのだと思う。


「もしかしてその資料、営業部までですか?俺営業部なんで良かったら持って行きますよ」と微笑みながら答えてくれた彼に、私は少なくとも良い印象を持った。

「ほんとですか。でもあの、この資料届けるついでにお客様からのメモも、えーと、山本さん..?に届けなきゃなんです。すみません、でもありがとうございます」

「そうでしたか、すみません。なら、良かったら山本課長のところにご案内しますよ。その様子だと多分、営業部に来られるのは初めてですよね」

実のところ営業部に伺うのは初めてではなかったが、"山本課長"という名前が聞き慣れなかったのは確かなので有難く案内される事にした。

 エレベーターを降りてから部署内の少し奥の方まで歩いて案内してくれた彼は、そのさらに向こうのデスクにいる男性に、「課長、受付の方が渡したいものがあるそうで」と声をかけてくれた。前回この部署に来た時はこんな奥まで来なかったから、彼が案内してくれて助かった。山本さんは、腹の周りに脂肪をたっぷりと蓄えている、いかにもな中年男性だった。呼びかけの声に反応して私の姿を気だるそうに見つめると、多分持ち上げるのが面倒であろう重そうな腰を持ち上げて、私の手元にある資料を見下ろした。ゆっくりと立ち上がった山本さんを見て、この人疲れてるんだろうな、イライラしてそうだな、という私の勘が的中している事を私は後で知る事になる。そんな事も知らずに私は、同じ黒縁メガネをしているのに、案内してくれた彼とこんなにも雰囲気が変わるんだ、なんて呑気に考えていた。でも慎重に、きっと疲れているのであろう目の前の人間をこれ以上イライラさせないように、できるだけ丁寧な口調で言ったつもりだった。

「こちら、受付でお預かりしていたお客様からの伝言です。営業部の方に私から電話でお伝えする事もできると伝えたのですが、先方がメモにして渡して欲しいとのことだったので、お願いします」

「チッ」

お願いします、と言った私の声に被せるようにして舌打ちをした山本さんを見て私は本能的に、あー、ヤバいなと思った。そんな私を見て山本さんが眉間に皺を寄せ、ややため息をつきながら口を開いた

「あのさあ、まずあなたは受付のなんて方なの?部署の人間にまず名乗らないなんて、受付のご身分も相当高くなったのかな?お客様なんて言われてもどこの会社からのお客様なわけ?メモか何だか知らないけどさ、先にメモに目通して大体で良いからどんな内容のメモなのか説明してから渡してくれない?こっちも暇じゃないんだからさ」

実際のところ、メモや資料を渡すだけの雑用に態々名乗らなければいけないとか、先方が渋い反応をしても伝言の内容を大まかに把握して事前に伝えなければいけないとか、そんな暗黙のルールは存在していない。でも目の前のこの中年男は確実に忙しさに滅入っている。いや、もしかしたら別に嫌な事があって今こうやって私をストレス発散に付き合わせているのかもしれない。まあ理由とかどうでもいい、謝ろう。そう思って、定番の五文字、"すみません"を言おうとしたその時、先に口を開いたのは凛とした方の、黒縁メガネの彼だった。

「受付の人間も部署の人間も変わりませんよ。全員この会社の貢献している社員です」

そう威厳のある物言いで発言した彼に、正直私は、この人馬鹿なの?と思ってしまった。ただでさえ、明らかに悪態をついてる人間にそれ言う?しかも多分、課長ってまあまあお偉い方なんでしょ?世渡り上手の対義語をそのまま具現化した感じの人じゃん。ほら、山本さん苦虫でも食べたみたいな顔になっちゃってるよ。そうぐるぐる考える私を置いて彼は続けた

「しかも、先方が課長にのみ伝えたい案件だったからメモにして渡そうとしていたのを彼女は汲み取って仕事したんですよ。謝るべきなんじゃないですか」

正直私は、謝罪なんか求めてない。嫌な気持ちになっていないと言ったら嘘になるけれど、でもストレスをそのまま剥き出しにしてぶつけられる事なんて人生いくらでもある。でもこれは乱射事件のようなもので、私は今、たまたま流れ弾が命中してしまっただけなのだ。でもこれは本来防げる流れ弾であって、次山本さんと喋る時は見えない防弾チョッキを着れば良い。はなから流れ弾があたらない場所にいれば良い。負傷しない方法はいくらでもある。だから、今こうやって私の事を庇っているつもりであろう凛とした方の黒縁メガネがしている事は、悪いが良い迷惑だ。

「浦野、お前は関係ないだろ」

この人、浦野さんて言うんだ。浦野さん、ほんとうですよ、関係ないですよ、あなた。

「関係なくないです。さっきも言いましたよね。部署とか関係なく彼女も一人の社員なんです。今こうやって仕事を全うしてくれている彼女が理不尽な事を言われているのは、僕が気分良くないんです」

 そんな事を平然と、しかもこんな時まで凛として言ってしまう彼を見てこの時の私は、やっぱりこの人は馬鹿だな、と思ったのを今でも覚ている

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小骨を飲み込む 本野李花 @jff_22

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