王都の聖人
フルビルタス太郎
ある秋の夜半のことである。
王都の外れにある古びた売春宿の一室で、アリエスという女が頬杖をつきながら白いボウルに入ったカビウイの種を齧っていた。テーブルの上でランプの炎が揺らめき、濃い影が頬を撫でる。アリエスの顔には生まれつき左半分を覆い尽くすほどの大きな痣があり、そのせいでこれまで散々な目にあってきた。
まず、生まれてすぐ親に捨てられた。幸いにも捨てられた場所が拝言所が営む孤児院の前だったのでそのままそこに入ったのだが、そこでいじめに遭った。痣があったからだった。耐えられずに孤児院から逃げ出したのは四歳の時だった。行く当てなどなかったが、幸いなことに見せ物小屋を営む興行師に拾われた。その興行師は老齢の紳士で、アリエスは興行師の下で二十年の時を過ごした。そして、四年前に興行師が亡くなると、そのまま当てのない旅に出て、三年ほど前に王都ギルスへと辿り着き、そのまま住み着いた。しかし、アリエスは痣のせいで働くこともままならず、気が付けば王都の隅にある売春宿で見ず知らずの男たちの劣情を受け止める日々を過ごしていた。
アリエスの顔の造りは申し分なく、体つきも男好きのするもので、特に垂れることなく突き出た形の良い双丘と柔らかな臀部、それに絹のように滑らかな肌はアリエスを買った男たちの全てが褒め称えるほどのものだった。にもかかわらず、アリエスの稼ぎは非常に少なかった。年下の後輩ですら日に銀貨五、六枚、或いはそれ以上、稼げるというにも関わらず、アリエスの取り分は日に銀貨一、三枚で、四枚稼げたら上出来という有様で、それは顔にある大きな痣が原因だった。
アリエスはカビウイの種を齧りながらテーブルの上に置いてあるゲセブ教の聖典である神言書を手繰り寄せた。表紙は臙脂色に染められた革で、所々、擦れて芯材が露出していた。栞のしてある頁を開く。そこには開祖である神の代弁者の肖像画と彼が起こした数々の奇跡が華美な装飾と共に記されていた。白い貫頭衣を身に纏った髭面の男の絵を愛しむように撫でる。アリエスはこれまでの人生の中で信仰を棄てることも神を恨むこともしなかった。寧ろ、その威光に縋ろうとさえしていた。何故なら辛い人生の中で信仰だけが唯一の救いであり、暗い道を照らす光であったからだった。カビウイの種を齧りはじめてから一年。普通なら効果があってもいい頃だけど……。右手で左頬を撫でる。……今はまだ客も取れるからいいけど、でも、これから先。……どうしようかしら? 深いため息をつく。痣は治癒効果があるといわれているカビウイの種子を食べても消えることはなく、むしろ悪化の一途を辿っていた。……医者に診てもらうってのもあるけど、高いし……、それに治るかどうか……。不安は募るばかりだった。
ふと、勢いよく扉が開いて、深い皺を刻んだ醜悪な老女がぬッと顔を覗かせた。老女はこの売春宿の主人で、客が来るとこうやって自ら売春婦の元に案内していた。
「……さっ、アリエス。客だよ」
老女がそう言うと、ひどく汚れた白い貫頭衣を身に纏った長身の男がよろめきながら入ってきた。コツコツと硬い音が気になり男の足に目をやると、簡素な木靴が見えた。アリエスはよくここに入れたわね、と思いながら男を見つめた。ボサボサの黒い髪と伸び放題の髭で顔が覆われていたため容姿は分からなかった。醜男かもしれないし、美丈夫なのかもしれない。しかし、アリエスにとって、それは些細なことであった。……あんまり関わりたくないわね。なんか、汚そうだし……。とりあえず、お風呂で適当に気持ちよくなって貰おうかしら? 軽くため息をつきながら老女を怨みがましく見つめる。
「それじゃあ、ごゆっくり」
老女はそう言うと、扉をゆっくりと閉めた。男はボサっと突っ立ったままだった。
「……あの、」
アリエスがそう言うと、男は何も言わぬまま節くれくれだった手でアリエスの頬を優しく撫でながら「IWaSoKa……」と呟いた。聞いたことのあるような無いような、それが何語かも分からぬ、そんな言葉だった。……えっと、何語だろ? よく分からないな。何ヶ月も風呂に入っていないような酸い臭いが鼻先を掠めていく。よく見ると男の爪の中には黒い汚れが入っていた。
けれど、不思議と嫌な感じはせず、寧ろ、心地よさを感じた。なんか、心地いい……。こんなに汚いのに、不思議と嫌な感じはしないや……。アリエスは心地よさに身を委ねながら男を見つめた。髪と髭の奥に見える目と口が微笑んでいるように見えた。
ふと、時計の鐘が鳴る。女はいつの間にか一時間が過ぎていることに驚き、男の手を払いのけ、慌てて立ち上がると「体を洗いますので」と言って貫頭衣に手を掛け、慣れた手つきでゆっくりと脱がしていった。
男は見た目とは裏腹に筋骨隆々たる逞しい体つきをしており、肌は浅黒く焼けていた。……荷運び人夫か、何かかしら? アリエスは男のぶ厚い胸板を人差し指でなぞりながら随分前に自分を買った客を思い浮かべた。その客は王都ギルスの海の玄関口であるヨースの港で働いている荷運び人夫で、目の前の男と同じような筋骨隆々たる逞しい体つきをしていた。それにしても困ったわ。言葉が通じないんだなんて。……もしかしたら外国から来たのかもしれないわね、この人。……でも、どこでも通用するワール語じゃないなんて……、何処から来たのかしら? 荷運び人夫には出稼ぎ労働者が多く、アリエスは目の前の男も同じようなものだろうと思った。荷運び人夫なら……、船が出るまでだからあまりゆっくりしている時間なんてないわよね。前の客もそうだったし。腰を屈めて男の下着に手を掛け、そのままずり下げる。日を置いた亜麻仁油のようなまろやかな酸化臭が鼻を掠めていく。アリエスの目の前には縮れた艶やかな茂みの向こうには雄々しい茎と重たげな袋がどっしりと構えていた。アリエスは目の前にあるモノをしばらく凝視したあと、ゆっくりと立ち上がり、男の前で服を脱ぎ捨てていった。一糸纏わぬまま見つめ合う二人。
ふと、アリエスは男が神言書に記された代弁者の姿と同じであることに気づいた。……もしかして、代弁者、様……? 神言書に記された代弁者は二千年以上前の人物であった。普通ならばあり得ないはずだと思うところだが、アリエスの場合は己の純粋な信仰心がそれを阻んでいた。ああ、嬉しい。アリエスは恍惚の表情を浮かべながら目を細めながら目の前の男を見つめた。男は右手を高く掲げながら「Hu Nu UYoSi RaMeNTuHu」と優しげな言葉をかけた。アリエスは男が何言っているのか分からなかった。だが、男が自分を癒そうとしているのだと理解した。
アリエスは男を優しく抱きしめると、その体に舐め回すように口付けをしていった。上から下へと曲線を描きながら下腹部へと向かっていく。縮れた茂みが頬を撫でたあたりでアリエスは口付けをやめ、ゆっくりと立ち上がり、男の首筋に腕を絡めながら「……いきましょう?」と囁くような言葉でベッドへと誘った。
男は赤黒い口腔を背景に白い歯を覗かせながら聖人らしからぬ下品な笑みを浮かべた。息は臭くドブのようであったが、アリエスはそんな事など関係ないとばかりに恍惚の表情を浮かべていた。二人はベッドに横たわると、そのまま抱き合いながら深く交わり合った。男は、ただ劣情を吐き出しているだけのように見えた。だが、アリエスにとっては違っていて、その交わりは宗教儀式のような、今まで味わったことのない不思議なものだった。
そして、それから数時間の後、アリエスは自分が見知らぬ場所に立っている事に気が付いた。……何処かしら、ここ……。辺りを見回す。そこは青白い霞と乳白色の朧げな光で満たされた石造りの宮殿のような場所だった。ふと、アリエスは自分の後ろに何者かの気配を感じ、振り返った。そこには先程まで深く交わり合っていた男が立っていた。その頭上には黄金色の円光が輝いていた。眩い光によって影に沈んだその姿は、いつの間にか浮浪者然としたものから万物を見渡すような澄んだ瞳で遠くを見つめる聖者に相応しいものへと変わっていた。
「あの……、あの、貴方は?」
アリエスがそう言うと男は全てのものを慈しむように無限の愛を含んだ微笑を向けながら「私かい? おまえは私を知らないのかい? そんなことはないだろう? 私はおまえがよく知る者だよ」と返した。アリエスが呆気にとられていると、男は痣の上に優しく口付けをしたあと「もう大丈夫だよ。これでおまえの痣は消えるから」と言った。その瞬間、アリエスは自分の顔にある痣が消えていくのを感じた。同時に眠くなり、そのままゆっくりと目を閉じた。そして、次に気がついた時には、すでに夜が明けていた。明け方の光で青々と染まった室内はしんと静まり返っていた。
アリエスはむくりと体を起こして隣を見た。え? 昨夜を共にしたあの、代弁者に似た男の姿は何処にもなかった。不思議に思い、微睡みが残った目で辺りを見回す。青い室内は全てのものが昨夜のままそこに置かれていた。……もしかして、夢? じゃあ、顔の痣も……?
アリエスはベッドから降りると、鏡で己の姿を見るため浴室に向かっていった。ベッドの傍らに手鏡はあったが覗く勇気はなかった。テーブルの前を通り過ぎる。ボウルの中のカビウイの種、広げっぱなしの古びた神言書、火の消えたランプ、それから誰かが座ろうとしたままになっている椅子。目に入るすべてが昨日のままに保存されていた。……夢じゃないのかしら? それとも夢? ああ、夢じゃないでいてッ! アリエスは浴室に入ると、冷たいタイル張りの床に跪いて壁に取り付けられた鏡を覗き込んだ。
「やっぱり、夢なんかじゃなかったッ」
昨夜までアリエスの顔にあった痣が綺麗さっぱりなくなっていた。「あの人が、代弁者様が癒してくれたんだわッ」
アリエスは昨夜の男が代弁者で、奇跡を起こして己の顔にあった痣を癒したのだと思い、急いで浴室を出ると、テーブルの上で開かれたままになっていた神言書を手に取り、額に本を当て涙を流しながら神への感謝を口にした。
王都の聖人 フルビルタス太郎 @t_furubirutasu
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