中野ONOGについての記憶

入間しゅか

中野ONOGについての記憶

中野ONOG。七つ年上の兄が中学校で習った言葉を繰り返し口にしていた。私はまだ小学校に上がったばかりだった。

「そがのいるかの首が飛ぶんや」と兄は教えてくれた。どうやら、中野ONOGはそがのいるかというイルカの首を切り落としたらしい。しかし、イルカの首はどこにあるのか。どこからが首でどこからが胴体なのか。それについては兄は教えてくれなかった。

私はイルカが好きだった。だから、イルカを殺した中野ONOGが許せなかった。イルカが好きな理由は、友人のみくちゃんがイルカ好きだったから、私もイルカ好きになろうと決めたのだ。私はジャック・ラカンの言うように、他人の欲望を叶えるために人は行動するということを信じている。なぜなら、私自身が他人の欲望のために生きてきた自覚があるからだ。みくちゃんに嫌われないためには、みくちゃんの望むことをすれば良いといつの間にか考えるでもなく身につけていた生き方。みくちゃんはイルカが好きだからみくちゃんに中野ONOGの話をしてはいけない。私は心の中に兄に教え込まれた知識を封印した。


それから幾年が経ち、中野ONOGは中大兄皇子で、蘇我入鹿はイルカではないと知って大いに落胆した。私が墓場まで持っていこうとした知識は単なるデタラメだったのだ。みくちゃんはその頃にはとっくに転校していて、私の周りにはヒデくんやスミカちゃんなんかがいて、毎日わいわい楽しくやっていた。いつしか中野ONOGなんて言葉はさっぱり忘れ去っていた。


私が再びこの言葉を思い出すのは大人になってからだ。ヒデくんに嫌われて、スミカちゃんには見放され、友人らしい友人は周りにいなかった。彼らの望み通りに生きてきたはずなのに、どうして一人ぼっちなのだろうかと考えた時期もあった。だがすぐに一人でいることの気楽さが染み付き、恋人を作ろうとも思わなかった。ある日、SNSにみくちゃんを名乗る人物からメッセージが届いた。みくちゃんとは彼女が東京の学校に転校して以来会っていなかった。みくちゃんは地元に戻ってくるらしかった。だから、久しぶりに会おうという内容のメッセージだった。

本当にみくちゃんかどうか確認もせず私は会うことにした。それがみくちゃんを名乗る人物の欲望なら、仕方がなかった。

久しぶりに会ったみくちゃんは大人びていた。小学校で止まっていた脳内時間を必死で合わせようと試みたが、やっぱり大人になったみくちゃんを見慣れることはなかった。

「ねえ、あんたが学校でいっつも変なこと言ってたよね」とみくちゃんが言った。私は心当たりがなかったけれど、頷いた。

「中野ONOGとかイルカの首はどこにあるか?とか」

「そんなこと言ったっけ?」

「ずっと言ってたじゃん」

「言ってないよ」

「言ってたよ」

みくちゃんはその後も私が如何にバカだったかを楽しそうに語った。私も聞きながら楽しいような気がした。みくちゃんってこんなに意地悪だっただろうかと思い出そうしたけれど、みくちゃんについて何も覚えていないことに気づいただけだった。

それにしても、私は中野ONOGについて、いつみくちゃんに話したのだろうか。それも何度も話していたなんて。私は自分のことがわからなくなって、みくちゃんの声を聞きながらトンネルの中のようなキーンと音が遠くなる感覚になった。

「あんたは化粧っ気がなくてダメ」と言い出したみくちゃんに連れられて、デパコスを大量に買わされた。みくちゃんの振る舞いは小学校以来の再会とは思えない図々しさがあった。昔からこんな子だったかもしれない。そうじゃないかもしれない。みくちゃんは私に買わせるだけ買わせたらまた連絡すると言って去っていった。私は使うかもわからない化粧品を持って泣きそうになりながら、両親の待つ家に帰った。どうして泣きたいのか分からなかったけれど、みくちゃんのせいだと思った。


家に帰ると兄がいた。兄は数年前に結婚し、他県に引越し、今年子供が産まれた。たまに子供を見せに実家に帰ってくる。

「ねえ、お兄ちゃん、私が小さかった頃中野ONOGって言ってたの覚えてる?」

「それ、俺が言ってたギャグ。」

「そうだっけ?」

「なんだお前、自分が言い出したと思ってたのか」

「え、」

そこで会話は終わった。赤ん坊が泣いたから。私は泣いた赤ん坊がなにを望んでいるのかわからなくて怖くなった。自室に逃げた私は、机に買ったデパコスを並べていた。みくちゃんの声が耳元で聞こえてくる気がした。中野ONOG。心にしまったはずの記憶。どれこれもデタラメだった。鏡を見る。そこに映る私は誰でもない顔をしていた。

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