第6話 大団円(絞殺について)

 最後の意見として、絞殺というものがあった。これを考えたのは、スタッフの一人、犬飼であった。

 彼は、

「自分の中にもカリスマ性というものがある」

 と考えていた。

 そのカリスマ性というのは、

「残虐なカリスマ性」

 というものであった。

 自分にとってカリスマ性があるということは、

「人を殺したい」

 ということに対しての思いであり、

「殺害方法が派手で、血を溢れんばかりに流す」

 ということであった。

 そういえば、昔の小説に、

「むごいと思われる殺し方でも、何も派手なものばかりではなく、静かな犯罪ほど、むごいものはないということが言われている」

 というものがあったのだ。

 確かに、人殺しというと、昔からの殺害方法やトリックとして、探偵小説と呼ばれるもので、

「顔のない死体のトリック」

 という、首なし死体などというものがあったり、

「一人二役トリック」

「密室トリック」

 あるいは、

「アリバイトリック」

 であったり、

「叙述トリック」

 と言われるものなどもあった。

 その中において、

「顔のない死体のトリック」

 というものなどは、

「猟奇犯罪」

 であったり、

「よほど恨みが深いから」

 ということであったりするのではないだろうか。

 しかし、顔のない死体のトリックの本質というのは、

「犯人と被害者が入れ替わっている」

 という、計画され、入念に考えられた犯罪としての例であった。

 しかも、それが分かってくるようになると、さらなる計画、つまり、

「他のトリックと抱き合わせ」

 ということにしないと、

「なかなかその考え方が認められるということにはならないだろう」

 ということになるのであった。

 さらに、このトリックを使った犯罪の中に、

「誰かに復讐するために、実行犯である殺人鬼を育てる」

 という話もあった。

 これは、自分が罪を逃れたいということではなく、自分が醜いので相手にされなかったことに対して、

「絶世の美少年で誘惑させて、相手を最後にはむごく殺す」

 ということで、男女の違いこそあれ、ギリシャ神話の中に出てきた、現代における、

「パンドラの匣」

 のようなものではないか?

 ということになる。

 そして、この内容は、まさに、

「サロメ」

 の話を彷彿させるというものだったのだ。それを思い出して、犬飼は、

「絞殺には、美少年による残虐で、さらに静かな殺人」

 というものを考えさせた。

 こちらも、

「血も凍るような、ゾッとするほとの美少年が、静かにむごく犯罪を行う」

 ということでの、殺人を考えていたのだった。

 これも、

「ギャップという意味で、犯罪の中の、マイナスに対してマイナスを掛けるという考え方に基づいたのであった」

 ということである。

「マイナスにマイナスを掛けるという考え方は、3つのものを抑止力として考える、三すくみという考えがなりたつ」

 と考えていた。

 そこでこれらの犯罪方法も、

「毒殺、絞殺、刺殺」

 と三つである。これを、

「マイナスとマイナスからプラスを生み出すことを考えた時、それぞれの関係性で、ゼロになることからの抑止力だと思うと、加減算と、積除算との違いを考えると、どこか、歪な関係性に見る気がする」

 ということであった。

 三人は、それぞれに、

「俺を殺すという小説を書いて、その内容が面白かった者に、次の部長の差を譲ろう」

 と言い出した。

 部長としては、

「自分にカリスマ性があるのは分かっていたが、それゆえに、サークル内で、怪しい組織が生まれてくることを恐れた」

 のだった。

 それは、

「自分が、部長としてやっていると、そのどの内容にも特化できないことで、それぞれに属している連中が、自分を頼りにしてくるようになるのが怖い」

 と思うようになった。

 それがどういうことかというと、

「今まで部長としてやれたのは、カリスマ性もあるだろうが、それよりも、中立的な立場にあることで、それぞれのスタッフに属している連中が、

「これ以上、自分たちの中で、特化した人間が出てくると、まわりにいる人間には見えていても、スタッフには見えない」

 というよりも、

「スタッフに見えないのだから、部長に分かるはずがない」

 ということで、部を辞めていくか、あるいは、自分を担ごうとする人が出るかも知れない。

 と、佐土原は感じたのだ。

 そうなってしまうと、

「部が分裂する」

 ということだけではなく、

「もっと恐ろしいことが起こるのでは?」

 と考えていた。

 それは、スタッフの中でのことではなく、そのまわりから静かに見ている人たちが気になるということであった。

 だから、実際に小説を書いてみるが、三すくみの習性が働いてか、抑止がs以前と働くことで、結果、何も答えが見つからないということになるのであった。

 実際に、それが、

「交わることのない平行線」

 ということであって、結局、自分たちの気持ちの中で、

「何をどうしていいのか分からない」

 ということになり、まるで、

「迷路にはまり込んでしまった」

 と考えられるのであった。

 それを思うと、

「この三すくみの中の誰かが、どこかに一つの裂け目のようなものがあり、そこから、三すくみが壊れるのではないか?」

 と思えてくるのであった。

 そんな三すくみの中で、

「実際の殺害方法ではなく、その殺害方法による考え方が存在することから、誰が部長を殺すというシナリオをうまく書けるのか?」

 ということを考えた。

 そこで、書きあがってきたものを、それぞれ読み合せてみたが、部長は、結構早い段階で、

「どれがいいのか?」

 ということが分かったような気がしたのだ。

 それがどういうものだったのかというと、

「小説と、シナリオ」

 という考え方によるのではないか?

 と考えたのだ。

 小説とシナリオというものを考えると、普通考えることとしては、

「小説が原作であり、シナリオがドラマの骨組みというものになる」

 ということで、まずは、小説ということになるだろう。

 しかし、原作というものは、基本的にドラマとしての原作として書かれたわけではなく、小説は小説だ。だから、小説の中で、小説家は、その思いのすべてをぶつけることはできるという意味で、自由だといえるだろう。

 しかし、シナリオに関しては、あくまでも台本であり、演技をする俳優、全体の撮影をまとめるプロデューサーや監督のそれぞれの意見であったり、彼らが、

「やりやすいように作る」

 ということで、

「シナリオを自由にはできない」

 ということになるであろう。

 それを考えると、

「シナリオに原作があるものと、脚本家オリジナルであれば、どちらが楽か?」

 ともし聞かれたとすれば、何も知らないと、

「原作がある方が楽に決まっている」

 と思うだろう。

 しかし、脚本家が自由にできない以上、原作があることで、脚本家のオリジナリティというものは、少なくなるといってもいいだろう。

 だから、

「小説とシナリオでは、書くとすればどっちがいいか?」

 と言われた時、

「小説がいい」

 と答える人が多いだろう。

 しかし、実際には、

「その土台というものの視点が違っているのだから、答えが出るわけもない」

 と言ってもいいだろう。

 それを考えると、このサークルの部長昇進というものも、佐土原も、実際にはその出来栄えで評価を下すとは思っていなかった。

「それに対する姿勢」

 というのも、立派な評価であろうが、それよりも、

「これらを考えている時、どれだけ自分の考えに似てくるか?」

 ということになるのだろう・

 ということを、佐土原は考えたのだ。

 ただ、最初に脱落したのは、鹿島だった。

 鹿島は、

「誤飲があることから、自分の毒殺の説に勝ち目はない」

 と思った。

 そしてこの瞬間から、勝者は決まったのだ。

 これは、

「三すくみという抑止が利かなくなった」

 ということが原因であり、そこまで考えると、誰が最後に残るかということは分かるというものである。

 もっとも、これは、

「最初に動いたのが、誰なのか?」

 ということにかかわるのではないが、そのことを、最後に残った人間が、自分の小説に付け加えるということになるのだということが分かってきた。

 それを思うと、

「三すくみは、最初に動いたものは、絶対に生き残れない」

 ということになるのであって、最終的に、部長である佐土原は、

「部長職から抜けることができたのだろうか?」

 ということになるのである。


                 (  完  )

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黒薔薇研究会の真実 森本 晃次 @kakku

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