第5話 刺殺について

 刺殺というものに特化した殺害方法について考えているのが、佐伯という男であった。彼は、

「ギャンブル狂」

 と言ってもいいかも知れない。

「競馬や競輪のような、公営ギャンブルも、パチンコ、スロットのような、気軽なギャンブルもどちらもやっていた」

 だが、最近は、会場に出かけるのが億劫で、公営ギャンブルから遠ざかっていた。

「だったら、ネットで券を買えばいいじゃないか?」

 と言われるかも知れないが、

「実際に買った券の行方をこの目で確かめること、それらすべてが楽しみだ」

 ということから、

「醍醐味」

 というものを楽しみにしているので、

「中途半端に楽しむくらいなら、しない方がいい」

 と感じるのであった。

 だから、最近は、行くとしてもパチンコ屋くらいではないだろうか?

 そもそも、

「パチスロはギャンブルではない」

 と言われている。

 どういうことなのかというと、

「パチスロというのは、遊戯である」

 ということである。

 風営法という法律でも、ギャンブル扱いではなく、

「ゲームセンターなどの、アミューズメントパーク」

 と同じ扱いである。

「現金に換えてくれるではないか?」

 ということから、

「ギャンブルの仲間だ」

 と思っている人も多いだろうが、実際にはそうではない。

 もちろん、それは、

「言い逃れ」

 でしかないが、そのための、

「三店方式」

 と呼ばれるものがあるからだ。

 この方法は、

「パチンコ屋が、出した景品を、換金場にもっていけば、お金に換金してくれる」

 ということであるが、実は、この換金場というのは、

「パチンコ屋とは別会社であり、名目上、まったく関係のない会社」

 ということになっていることから、強引に、

「パチンコ屋と換金システム」

 を切り離すことで、

「パチンコを遊戯」

 という形にして、ギャンブルではない形にすることで、パチンコ屋をギャンブルの世界から切り離していた。

 これは、治安などの問題も絡んでくることから、

「警察が考えた、苦肉の策」

 だったのだ。

 昔、この三店方式ができた頃の治安を考えると、

「パチンコ店を、必要悪」

 としてみるという方法しかないということであった。

 だから、今までパチンコ産業は続いてきた。

 一時期は、

「パチンコ業界というのは、ドル箱だ」

 と、まさに、パチンコ用語が使われるほどだったのだが、今の時代は、昔ほどの隆盛を極めるという産業ではなくなってきた。

 それは、

「結構まわりから固められてきた」

 ということが大きいのかも知れない。

 パチンコ業界を今まで支えてきたのは、いろいろな条件があったからだろう。

 台の面白さであったり、ギャンブル性の豊かさ。というのももちろんのことであるが、それ以上に、

「タバコが台の前で吸える」

 ということが大きかったのではないだろうか?

 昭和から平成に変わったくらいの頃から、喫煙できるところが、どんどん減って行った。

 それはいいことであり、昔であれば、今の人が聞けば、

「信じられない」

 というかも知れないほどに、どこでも吸えたのだ。

「電車の中はもちろん、駅の構内であったり、喫茶店、ファーストフィードの店やレストラン」

 どんどん吸えなくなってしまった。

 特に、令和になってすぐくらいに、

「受動喫煙防止法」

 というものが施行され、

「自宅以外では、室内では全面禁煙」

 ということになったのだ。

 当然今までは吸えた、飲み屋であったり、レストランの喫煙エリアというのもなくなった。

「法律で決められた範囲の換気が行えるだけの分煙ルームが設置しているところでは、底で吸ってもいい」

 ということにはなっている。

 法律が施行されてからでも、実際には、

「それまでと変わらない」

 という法律違反を堂々としているところもあり。

「店もいい加減にしろよ」

 と思いながらも、

「法律を決めたのであれば、それを守れないやつを処罰するのが警察のはずなのに」

 ということで、

「実際には何もしない」

 ということで、それこそ、

「税金泥棒」

 と言ってもいいようなことをしているのであれば、

「国会のいうことを、行政である警察が取り締まらない」

 という、実に中途半端なことをして、

「国会で法律を決めるのも、税金が使われている」

 ということなのに、決めた法律が守られていないというのは、それこそ、法治国家して、

「恥ずかしいことだ」

 といえるのではないだろうか?

 そんな受動喫煙防止法であるが、

「甘いところもあるが、厳しいところは徹底的に厳しい」

 と言われる。

 特に、

「パチンコ台の前でタバコを吸う」

 というような行為は、絶対にできない。

 喫茶店や、飲み屋などであれば、

「店主の一存」

 ということもあるだろう。

 喫茶店でも、カフェのような、チェーン店では、絶対にダメだが、飲み屋や普通の喫茶店で、個人経営のところであれば、少しは融通が利くというものであった。

 それでも本当は法律違反であるということなのだが、警察も見て見ぬふりという、

「税金泥棒」

 をしているのだから、どうしようもない。

 だが、パチンコ店というとそうはいかない。

 今の時代、ほとんどのパチンコ店は、チェーン店化しているのである。

 特にパチンコ店のように、どんどん、機械化が進んでいたり、機種のレンタル料であったり、家賃などを考えると、

「母体が強くないとうまくいかない」

 ということで、

「吸収合併される形で大きくなってきている」

 ということだ。

 最近では、そんな大きなチェーン店でも、潰れるとことが増えてきている。それも、時代の流れといえばそれまでなのだろうが、パチンコ屋にとっては、逆風が大きいのであった。

 といっても、それは、

「今までが、優遇されてきたものが、一気にまわりが許さなくなってきたからではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 前述の、

「受動喫煙」

 という問題もそうだが、それまでは、ゲームセンターであっても、ゲーム機の前に灰皿が置いてあったくらいである。

 パチンコ屋は、未成年者は立ち入り禁止であることから、未成年者に害があることはなかったが、

 ゲームセンターは、時間は決まってはいるが、保護者がいれば、幼児だって入れるのだ。

 それを考えると、

「ここ数年で変わったのに、ゲーム機やパチンコ台の前に灰皿があったなどということが、相当昔のことのように思い出させるというものであった。

 そもそも、パチンコをする人の中には、

「遊びながら、タバコが吸える」

 ということで来ている客も多かっただろう。

 だから、

「台の前で吸えなくなる」

 という今回の法律改正は、パチンコ店にとっては、ありがたくないものだったに違いない。

 しかも、パチンコ自体の問題として、

「依存症」

 という問題が、叫ばれるようになった。

 どうしても、パチンコに嵌ると、一日中打っている人もいることだろう。

「当たらない台」

 などに座って、ずっと打ち続けていると、一日中いると、それこそ、

「一日で、十万円以上負ける」

 ということも、普通にあったりする。

 確かに、一日で、逆に数十万勝つことも、まれではあるがないわけではない。

 それが稀であるだけに、余計に鮮明に頭に残っていて、

「またすぐに、十数万勝てる」

 という妄想を抱くことで、

「辞められなくなってしまう」

 ということになるのであろう。

 それが依存症となり、

「金銭的なものだけではなく、家庭や仕事をほっぽり出してしまうことで、家庭が崩壊したり、社会生活を普通に営めなくなってしまう」

 ということになってしまうのだ。

 だから、最近の台は、

「一回の連荘で、出る量が決まっている」

 ということでの、

「出玉制限を入れる」

 ということが、法律で決まっているので、機種も、そういう仕様で開発するしかなくなったのである。

 そのかわり、

「玉持ちのいい」

 ということで、昔ほど、

「当たらなければ、負けも大きい」

 ということはなくなってきたのだった。

 だから、前のように、

「負ける時は大きいが、勝つのも大きい」

 ということで、勝てるように研究して、負けずにこれた人からみれば、

「ギャンブル性のなくなった」

 ということで、

「おもしろくない」

 と感じ、公営ギャンブルに走るという人も多いことであろう。

 そうなると、基本的に、

「パチンコ人口は減ってくる」

 というものだ。

 パチンコ人口の現象としては、一番大きいのは、タバコの問題であろう」

 そして、次にあげられるものが、

「依存症の問題」

 そして、次はといえば、やはり、数年前に発生した、

「世界的なパンデミック」

 という問題であろう。

 これが流行り出して、合わせた政府は、

「緊急事態宣言」

 なるものを出して、一時期、日常生活に絶対に必要な店、つまりは、スーパー、薬局、コンビニ、そして、病院や、一部の役所や警察、公共交通機関なるもの以外を、休業要請という形で、休業させたのだった。

 しかし、

「一日でも休業をすれば、その時点で倒産」

 というようなところは営業を続けた。

 いわゆる、

「単価の高いサービス業」

 などもその一つで、パチンコ屋だけではなく、

「ソープなどの風俗業」

 も営業を続けていた。

 当時、

「自粛警察」

 ということで、

「休業要請があるにも関わらず、営業を続けるようなところを、悪ということに認定し、攻撃をする集団があった」

 ということであった。

 風俗業などが叩かれることはなく、一番叩かれたのは、パチンコ屋だった。

 パチンコ屋は、集中砲火を浴びた。実際にパチンコ屋というところは、

「ほとんどの店が休業要請に応じていて、さらには、実際に、患者を出したことがなかった」

 ということだ。

 それは、実は当たり前ということで、パチンコ屋というところは、受動喫煙防止法が施行される前は、

「タバコが吸えた」

 ということで、その分、換気を十分になるように、設備投資をしてきたのだ。

 それが功を奏して、

「世界的なパンデミックの機関でも、本来であれば、換気が整っているので、休業までしなくてもいいのではないか?」

 というところに持ってきて、一部の店が叩かれるというのは、道理に合わないと言ってもいいだろう。

 やはり、

「三店方式」

 なる問題があることで、余計に、

「自粛警察」

 を名乗る連中からすれば、一種の、

「ストレスのはけ口」

 として利用されたに過ぎないのかも知れない。

 これにはさすがに、パチンコをしない人であっても、理屈が分かれば、

「自粛警察というものがやりすぎであり、余計な団体だ」

 と思っている人も少なくはないだろう。

 そんなパチンコに、一時期、

「依存していた」

 と言ってもいい男が、最近刺殺について研究を始めた、

「佐伯」

 だったのだ。

 彼は、今ではパチンコ店に行くこともなくなった。それまで吸っていたタバコもやめることができたことで、パチンコへの依存もなくなったのだ。

 最初、タバコをやめたのは、

「パチンコがしたい」

 ということであったのに、やっと何とか、タバコがなくてもよくなったのだから、パチンコ屋に行くことを止めることはできない状況なのに、今度は、パチンコ屋に行くのが、自分の中で、

「どうして、あんなものに依存していたのだろう?」

 というくらいになった。

 というのは、

「それまでは、台しか見えていなかったものが、今では、パチンコにのめりこんでいる自分を後ろから見えるようになった」

 という思いがあるからである。

「パチンコというものをいかに楽しむ」

 ということに一生懸命になっていて、だから、依存症だと言われても、自分では、それを悪いことだとは思わなかったのだ。

 パチンコというものを、ゲームだと思って楽しんでいた。実際に、

「勝ち負けは、むしろどうでもいい。好きな機種を楽しめればいい」

 ということで、勝ち負けに関しては、

「負ける時もあれば勝つときもある」

 ということで、

「最初から一日、いくら」

 という遊び台は計算に入れていて、

「勝ち負けの相殺というものが、その範囲内であれば、よしとしよう」

 と考えていたのだった。

 だから、依存症と言われても、自分では、

「計算しながらやってるんだから。問題ないだろう」

 と思っていた。

 ただ、実際には、貯金を少しずつであるが、食い潰していっているのは、無理もないことで、

「貯金通帳が、キャッシングの域に入っていて、マイナスだったこともあった」

 というくらいであった。

 それでも、月に半分くらいマイナスになっても、バイトの給料が入ればプラスになるので、

「それはそれでいい」

 と思っていたのだった。

 だが、借金であることにはかわりなく、ちょうどそんな時に、

「世界的なパンデミック」

 と、

「受動喫煙防止法」

 というものが、一緒に来たのだから、パチンコ屋はたまらない。

 しかし、そのおかげで、佐伯は、パチンコというものに対して、冷めた気分になったことで、

「依存症」

 と言われていたものから、解放されるということになったのであった。

 パチンコ屋としては、佐伯のような人が多かったのか、

「客はどんどん減ってきていて、以前であれば、開店時の入場を、抽選しようと並んだものだが、今は開店しても、一部の機種に人が集中するくらいで、ほとんどの台、島というのは、閑古鳥が鳴いている」

 と言ってもいいだろう。

 それが、今のパチンコ業界の姿」

 というものであり。

「機種制限であったり、世界的なパンデミック。さらには、受動喫煙禁止法などと言ったタバコの関係」

 などというものが、一気に来たということで、

「パチンコ人口というものは、どんどん減ってきている」

 と言ってもいいだろう。

 それを思うと、パチンコ業界でも、大きなチェン店が倒産するというのも、分からなくもないというものである。

 ただ、佐伯は、パチンコをしている間、どうしても借金ができてしまった。実際に返せないような借金ではないが、気が小さいせいか、ちょっとした借金でも、怖くなるのであった。

 それだけに、返済を催促してくる貸主に、一時期恐怖を覚えていた。

「殺さないと殺される」

 というところまで、自分の中で追い詰められていると思っていたのだ。

 佐伯の悪いところは、自分が悪いことであっても、それを、追い詰められたなどと、すべてを自分が悲劇のヒーローであるかのように考えて、

「人を殺したくなっても、それはそれで仕方のないことだ」

 というくらいにまで思いつめていたりしたのだった。

 実際にできるわけはないので、

「妄想の中でくらいはいいだろう」

 ということで、

「黒薔薇研究会に入った」

 のだ。

 このサークルは、佐伯のように、気の弱い人もいれば、

「自分でミステリーを書きたい」

 と思っているので、その研究、あるいは、ネタ調達という意味で、このサークルを利用しようと思う人もいた。

 一人一人、目的も違えば考え方も違う。

 それでも。

「殺し方」

 という考えで、一つにまとまるというのは、意外にあることのようで、実際に、

「それが面白い」

 と言ってもいいだろう。

 人を殺すということは、本来であれば、

「気が小さい人間」

 ということであれば、怖くて考えられないだろう。

 しかし、佐伯はそれができた。

 だとすると、実際に、気が強いということになるのかというと、そんなことはない。

 そう考えると、

「一周まわって、元に戻ってきた」

 というだけで、

「本当は怖い」

 ということになるのだろう。

 そんなことを考えていると、

「マイナスにマイナスを掛けると、もれなくプラスになる」

 ということであろう。

 これがもし、

「×ではなく+だったとすれば、マイナスになる可能性もある」

 ということで、

「積除算に勝るものはない」

 と言ってもいいかも知れない。

 気が弱い佐伯だったが、妄想しているうちに、感覚がマヒしてきたのか、考え方が、恐ろしい方に向いている」

 と言ってもいいのかも知れないと感じるのだった。

「いろいろ妄想しているうちに、次第に殺害の発想が膨らんでいき、自分は、殺害方法をヵンが得る天才ではないか?」

 とまで思うようになった。

 うぬぼれと言ってもいいのだろうが、それよりも、

「これだけ発想が膨らむだけの才能があるのであれば、パチンコなんか辞めて、もっと他に自分の才能を生かせるようなことで、パチンコ台に投資した分を回収できるかも知れない」

 とも思うのだった。

 そう思うと、

「パチンコなどうつつを抜かしたことによって、今までの時間がもったいなかった」

 と思ったのだ。

 そこで、

「せっかく殺害方法を考えるサークルに入ったのだから、小説でも書こう」

 と思うようになった。

 発想はいくらでも浮かんでくる。

「感覚がマヒしてくる」

 とさえ考えればいいのだ。

 元々、小説を書けないと思ったのは、

「リアルが頭に浮かんできて、人を殺すなど、想像もできないからだ」

 と思ったからであった。

 しかし、実際に、感覚がマヒしてくるという自分の性質に気づいてくると、

「だったら、いくらでも、リアルの発想を生かすことができる」

 と気づいたのだ。

 だから、

「俺は、小説の中で、たくさんの死体をゴロゴロ転がし、血の海に沈めるというくらいのことは、簡単にやってのける」

 というくらいに考えたのだった。

 探偵小説というのは、誰が何を言おうとも、

「実際にやらなければいいんだ」

 ということである。

 中には、

「お前がそんな小説を書いたから、それを模倣した犯罪が起こる」

 という人もいるかも知れないが、これはあくまでも、エンターテイメントであり、普通に教育を受けた人であれば、

「実際に犯罪を犯したとすれば、それが何を元に下と言っても、それで刑罰が軽減されるわけではない」

 ということである。

 だから、誰が、

「犯罪を、助長させた」

 と言ったとしても、その責任を問う必要はないだろう。

 今の日本には、

「言論の自由」

「表現の自由」

 というものがあるのだ。

 確かに、被害者の家族ともなれば、犯罪を助長する書物に恨みを持つこともあるかも知れない。

 しかし、だからと言って、

「本来なら、犯罪を犯す奴が悪い」

 というわけで、

「あくまでも、フィクションだ」

 と謳っているのだから、それを無理矢理に、

「犯罪を生み出した」

 などということにするのであれば、小説などというのは、ありえないと言っても過言ではないだろう。

 だから、佐伯は、刺殺という内容をミステリーに書いた。

 これも、

「足が付きやすい」

 と言ってもいい。

 必ず、動機のある人間が犯人であるということになるだろう。

 もし、行きずりの衝動殺人であれば、ナイフに指紋が残っていたり、証拠がそのあたりからボロボロ出てくることだろう。しかも。今の時代は、防犯カメラなどがどこかしこにあるのだ。それを思うと、

「犯人逮捕は時間の問題」

 ということになる。

 計画的であるとすれば、やはり動機がしっかりしている人ということになるであろう。そうなると、アリバイから、犯人をある程度絞れれば、犯人の行動を正確からプロファイルし、さらに凶器の入手経路、つまり、購入方法、あるいは、自宅の台所などを見れば分かるというものだ。

 問題はどこに隠したかということであるが、物証でまわりを固めれば、犯人の自白を待つこともできる。そういう意味では、薬物殺人と同じようなことになるのではないだろうか?

 佐伯は、それを何とか完全犯罪へと考えるようになったことが、サークルの発足の一つの原因となったのだ。


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