第4話 毒殺について
毒殺というものを研究している、そのリーダーは前述のとおり、鹿島であった。
鹿島は医学部に所属していて、そもそも、殺害などということには、嫌悪感を感じていたのだった。
「人を呪わば穴二つ」
という言葉にあるように、
「人に恨みを感じ、それを行動に移すと、自分もいずれ、その報いを受ける」
という考え方にある。
一種の、
「報復」
とでもいうものだが、鹿島は、その考え方にかつては近いものがあった。
冷静に考えると、
「たとえ誰かを殺したいと思って人を殺すとしよう。その殺した人の恨みとして、自分の近しい人が、その人間に理不尽に殺されたり、何かの危害を受けて、そのために自殺を試みるなどということがあったりして、
「本当に死んでしまったり」
であったり、
「死なないまでも、植物人間化してしまったり」
などという悲惨な状態になれば、恨みは海よりも深いと言ってもいいかも知れない。
それを考えると、
「殺す」
ということが、現実味を帯びてくることになるだろう。
それも、
「無理もないことだ」
とは思うのだ。
しかし、もし実際にそれを行ってしまうと、今度は、相手にも家族がいるわけで、その人が殺されて、
「悲しむ人は、一人くらいはいるだろう」
と考えられる。
だから、
「殺された人のまわりに、自分と同じ立場の人」
というのはいるわけで、
「きっと自分のことを恨むに違いない」
ということになるのだ。
そうなると、今度は自分が殺される可能性が出てくる。
実際に殺されてしまうと、また自分が死んでしまったことで悲しむ人がいて、今度は犯人を許せないと思うと、復讐を企てることになるかも知れない。
そうなってしまうと、もう、
「負の連鎖」
というものが繋がっていくことになる。
これが、エスカレートしていき、まわりを巻き込んでいくと、どんどん、関係のない人までも巻き込んでしまうことになりかねない。
特に、
「暴力団抗争」
などというと、それらの危険性は大きいだろう。
特に、ライフルや、拳銃などを使っての殺害であれば、
「間違って一般人を殺害する」
という可能性もあるというものだ。
「だから、拳銃などを使っての殺害であれば、他人を巻き込む危険性がある」
ということになる。
また、これは、
「殺害方法」
というものではないが、
「人が死ぬ」
ということで、少し広義の意味で考えた場合ということになるが、
「電車に飛び込む」
などという方法によっての、
「飛び込み自殺」
というのは、
「明らかに人を巻き込む」
ということになる。
何といっても、
「列車の運行を妨げる」
ということで、多くの人が被害を被ることになる。
「学校や会社に遅刻する」
という人も多いだろう。
中には、その日が、入学試験だという人もいれば、その人の人生を狂わせることになるし、
さらには、
「絶対に遅刻することのできない商談がある」
ということであれば、事故だからということで、しょうがないで済まされない場合がある。
たとえば、その商談が、どこかの他の会社と天秤に架けられていることであったりすれば、
「来れなかった」
という事実だけで、他の会社に取られてしまうということだってあるのだ。
そうなると、
「もし、それが、会社の命運を分けるような取引であり、下手をすれば、会社の存続が危ないということであれば、責任を取って辞めないといけない」
ということもあるだろう。
さらには、
「本当に会社が倒産の憂き目にあえば、その人だけの問題ではなく、社員全員が路頭に迷うということになり、その連鎖はひどいこととなるだろう」
というものだ。
それを考えると、
「一人の自殺が、どれだけの人に、しかも、見えないところでどんな被害が起こっているか分からない」
という意味で、
「死んだ人を悪くいうのは忍びない」
ということであるが、
「死にたいのであれば、一人でどっかで誰にも迷惑を掛けずに死んでくれ」
と言いたいものだ。
もし、さっきの場合で会社が倒産ということになれば、
「経営者も自殺するはめに陥る」
ということになるだろう。
そもそも、最初に自殺を試みた人も、その自殺の動機がどこにあるのかは、問題にしなかったが、ひょっとすると、同じように、誰かのあおりを食って、死に追いやられたということになるのだとすれば、これも前述の、
「負の連鎖」
ということになるだろう。
ということであれば、
「死」
というものは、少なからずの、
「負の連鎖」
というものを引き起こすものであり、それがひどい場合は、戦争になったり、社会秩序を著しく乱すということになるのではないだろうか?
だから、鹿島は、
「人の死」
にかかわることは嫌だと感じていた。
そもそも、彼は子供の頃から、頭がよく、
「勉強ができる」
ということは、当然のことであるが、理屈を整理して考えることができる人であった。
だから、人生の選択ということにおいて、
「間違いは、今のところ、したことがない」
と思っているのであり、それは、
「冷静に物事を見て、判断することができるからだ」
と思っていた。
「冷静と冷淡は紙一重だ」
ということも、鹿島は考えていた。
だから、
「俺は、冷静なのか、冷淡なのか、どっちか分からない」
と思っていた。
しかも、
「冷淡であればいいか、冷徹の可能性だってあるではないか?」
ということであった。
「冷静である」
と自分では考えていた。
だから敢えて、この
「黒薔薇研究会」
というところに入部しようとは思わないだろう。
冷静だからこそ、自分の中にある、
「勧善懲悪という感情と向き合えるのだ」
と考えていたのである。
医学部に入学したのは、
「勧善懲悪」
という気持ちもあり、ただ、他の人ほど、強く、
「人を助けたい」
と思ったわけではない。
もし、そう思っていたとすれば、
「医者は務まらないかも知れないな」
とまで考えていた。
それは、冷静に物事を考えることができるからで、前からある、
「医療系のドラマなどを見ていると分かってくる」
というものである。
どうしても、昔からある、
「医療系ドラマ」
あるいは、
「刑事ドラマ」
などというのは、かなりシビアなところをうつぃし出している。
刑事ドラマなどは、
「世の中の、階級制度というものを表に出す」
ということが多く、特に、
「キャリア、ノンキャリア」
の確執であったり、
「管轄、縄張り」
などといった、
「横のつながり」
というものを考えさせられるものである。
そこで浮き彫りになってくるのが、
「世の中の理不尽さ」
であったり、
「出世しないと、やりたい捜査ができない」
ということである。
しかし、実際に出世というものをしていけばいくほど、
「上級官僚になればなるほど、さらに上の命令には絶対ということになり、何かを成したいと思って出世したことが、まったくの無駄になってしまう」
ということによる、
「ジレンマ」
というものが襲い掛かってくるというような話が多いのである。
これは、完全な、
「堂々巡り」
というものであり、
「世の中の理不尽さが、世の中の堂々巡りから生まれるものではないだろうか?」
ということを、刑事ドラマを見ていると分かってくるということになるのではないだろうか?
医療ドラマということになると、
「こちらは、完全に人の生き死に」
ということに挑戦するかのような話になっているので、ドラマを作る方も、結構な入れ込みでないといけないだろう。
つまり、
「中途半端に作ってしまうと、何を言いたいのかが分からずに、ドラマ自体が面白くないものとなる」
しかし、思い入れ過ぎると、どうしても、人の生き死にに対して、
「何かの結論を出そう」
とすると、たぶん、結論などでないであろう。
「一刀両断」
という形で、結論めいたものにしてしまうと、どうしても、
「賛否両論は生まれる」
ということになる。
しかし、
「絶対の正義」
というものの中には、
「人の死」
というものが、
「他人の手によって奪われる」
ということが問題となる。
例えば事故などで、救急搬送されてきて、
「すでに手遅れ」
という状態でも、何とかしようとする医者があった場合。
「先生が手術したことで、家族が殺された」
などと思い込んでしまう家族がいたりすると、先生が悪者になってしまう。
いくら、
「すでに手遅れ」
と言ったとしても、納得できないという家族もいるかも知れない。
そうなると、
「いくら理不尽だ」
と思ってみても、どうしようもない。
なぜなら、
「自分が医者だから」
ということになるのだ。
確かに、
「いくら医者と言っても、神様ではないのだから、助けられない命はたくさんある」
ということになる。
家族だって、死んだのが自分の家族でもなければ、そんな当たり前のことは分かることだろう。
とにかく、
「人間の死というのは、死んだ本人よりも、残された人の方が大きな問題であり、その人が苦しむようなことになるのが一番の問題だ」
ということになるとすれば、前述の、
「飛び込み自殺」
というものが、まわりに迷惑をかけるということに繋がってくるのだ。
というのは、
「列車を止める」
ということで、鉄道法であったりするものの中に、
「電車の運行を故意に妨げた場合は、賠償を請求できる」
というものがあり、相手がたとえ自殺であっても、それに変わりはないということである。
つまり、残された家族に、
「数百万」
下手をすれば、
「数千万」
という賠償金が課せられることになる。
家族とすればたまらない。
大切な家族が、いくら自殺とはいえ、死んでしまった上に、さらに賠償金を課せられるのだから、これほど、理不尽なことはないというものだ。
この、
「血も涙もない」
という処遇は、
「借金取り」
よりもひどいもので、
「情け容赦もない」
ということになるのであった。
それを考えると、
「残された家族」
という意味で、そこからもっと悲惨なことになりかねないといえる。
医療ドラマにおいて、
「死ということと隣り合わせ」
ということでテーマになることとして、
「安楽死」
あるいは、
「尊厳死」
といわれることがかかわってくると、かなりシビアな問題になるというものだ。
というのは、
「今の日本では、尊厳死というものは認められていない」
ということである。
この場合の尊厳死という問題は、
「家族が交通事故などにあって、緊急搬送されて、手術をして命は助かったのだが、その結果、植物人間になってしまった」
という場合である。
「生きているのか死んでいるのか」
という状態で、完全に死んだわけではないということなので、生きている以上、
「死なせないようにしないといけない」
ということになる。
つまりは、
「生命維持装置というものを使って、生き続けさせなければいけない」
ということになる。
その時に、多額の費用が必要になるということであるが、
それを賄うのは、国でもなければ、病院でもない。家族に課せられるということになる。
ひょっとすると、国や病院も、一部に負担があるのかも知れないが、家族のその重圧はひどいものだ。
何といっても、
「ほぼ、生き返る保証はない」
と医者からは言われているのに、
「いつまで、この状態でいなければいけないのか分からない」
人間の寿命がいつ尽きるのか分からないというのと同じで、
「ずっとこのまま生き続けなければいけない」
ということになるのであれば、家族の負担はひどいもので、
「人生が完全に崩壊した」
と言ってもいいだろう。
本人の命も大切であるが、残された家族の人生は、棒に振っても仕方がないということになるのであろうか?
医者は、もちろん、そんな安楽死に手を貸せば、
「殺人罪に問われることもある」
というのも普通にあるのだ。
医者としても、
「助けられない命があり、目の前で人が死んでいく」
というのを目の当たりにするよりも、
「尊厳死」
というものを、できない自分がどれほど辛いかということを考えさせられるというものではないだろうか。
だから、中には、
「まわりから何と言われようと、医者の免許をはく奪されて、世間から抹殺されようとも、勧善懲悪の精神から、尊厳死に手を染める」
という人もいるかも知れない。
しかし、
「誰がその医者を糾弾できるというものか」
それこそ、
「人類の生きるというテーマ」
になるのではないだろうか?
「毒殺が殺害方法のテーマ」
として考える時、前述のような、
「人に迷惑を掛けない死に方」
ということを考えると、
「毒殺というのは、その限りにあらずだ」
ということになるのではないだろうか?
さらにもう一つ考えられるということで、
「これほど、割に合わなくて、足が付きやすく、そういう意味で、難しい犯罪だ」
ということになるのではないだろうか?
というのは、まず、
「割に合わない」
ということは、
「人を巻き込む可能性がある」
ということで、自分の本意ではないことを引き起こす可能性があるということになるのではないだろうか?
そうなると、余計なストレスを抱えることになり、必要以上に精神を消耗してしまうことになるであろう。
それを考えると、
「趣旨に合わない」
ということになるのは、
「人を呪わば穴二つ」
ということになってくるのであろう。
鹿島は、
「だったら、そんなわりに合わない毒殺というものを、いかにすれば、割に合わなくすればいいのか?」
ということを考えるようになった。
それを考えた時、わりに合う合わないというよりも、結果として、
「損をしない」
ということになるのであれば、
「マイナスとマイナスから、プラスになる」
という考え方になるのではないか?
と思うのだった。
そこで、考えるのが、
「完全犯罪」
というものであった。
わりに合わなかったり、危険と隣り合わせだったりしてでも、この方法を選ぶとすれば、、
「これ以外に方法がない」
ということであり、他に思いつかないなどということ以外から考えるとすれば、
「完全犯罪」
というものの可能性に賭けているからだと考えられるのではないだろうか?
つまりは、
「完全犯罪というものへの代償として、危険と隣り合わせのことにも挑戦しないといけない」
という考えだとするならば、その考えもあり得るといえるのではないだろうか?
だったら、
「同じような殺害方法があるのだろうか?」
と考えた時、
「殺害方法ではないが、殺人の手段、トリックとして考えられることであれば、同じ趣旨として考えられないこともない」
ということで、思い浮かぶことだってあるのだ。
それが何かというと、
「実際の殺人事件ではありえないが、探偵小説などであれば、レアな例かも知れないが、ありえることだ」
というものがある。
それがどういう殺人なのかというと、いわゆる、
「交換殺人」
というものであった。
交換殺人というのは、読んで字のごとく、
「誰か殺害したい人がいて、殺害したとしても、自分が絶対に捕まることがない」
というべき、完全犯罪を考える時に思い浮かぶものであった。
確かに完全犯罪というのは、
「自分には動機もあり、殺すチャンスもあった」
として、警察に絶対に捕まらないようにするには、
「鉄壁のアリバイ」
というものを作るというのが、
「これこそ、完全犯罪」
というものである。
「人を殺しておいて、自分に鉄壁のアリバイを作る」
というのは、普通であれば無理なことだと言ってもいいだろう。
しかし、
「無理なことを完全なことに仕立てるには、見えないものを見えるというようにするだけではなく、見えるものを見えなくする」
というような、逆の発想というものも必要と言ってもいいのではないだろうか?
そこで考えられることとすれば、
「自分が殺害して、鉄壁のアリバイを作る」
ということが鵜不可能であり、
「鉄壁なアリバイ」
というものも、
「自分が殺しているのであれば、それも不可能だ」
と考えるのであれば、
「殺す人間が自分でなければいい」
ということになるだろう。
「そんなことできるはずがないじゃないか?」
と思うのは、
「そんなに簡単に自分のいうことを聞く人がいるわけはない」
という思いと。
「もしいたとしても、それは、自分が脅迫をしたり、相手の弱みを握ってでもいない限りは難しい。
それを考えると、
「待てよ。だったら、自分と同じような立場の人がいるとして、その人が自分のために殺害してくれるのであれば、自分もその人のために殺害するというくらいの覚悟があればできるのではないか?」
ということであった。
そもそも、
「普通に殺人を行えば、よほどの完全な犯罪でもない限りは、捕まってしまうこともありえるだろう」
ということになる。
しかし、完全犯罪を最初からもくろんでいるというのであるから、
「実行犯には、その人を殺すという動機がないのだから、最初から疑われることもないということと、自分は、その時、海外にいるなどという鉄壁のアリバイさえ作っておけば、お互いに安全だ」
ということを考えることだろう。
だが、完全犯罪というものを考えるあまり、犯罪計画としては完璧かも知れないが、実際に、
「精神的なところで、完全な犯罪なのか?」
と考えると、いろいろと化けの皮が剥がれるということもありえることであろう。
一番の問題は、
「最初の殺人で、実行犯が犯行を犯してもらえば、それまでの二人の平等だった立場が、一気に崩れる」
ということになる。
それはどういう「ことなのかというと、
「最初に、殺してほしいという人を殺してもらった方とすれば、厄介払いができたのだから、何も自分が手を汚す必要もない」
ということに気づいてしまうからである。
それまではお互いに、
「死んでほしい人が死んでくれればいい」
ということだけを考えていて、
「捕まりたくない」
とは思っても、必要以上に考えることもないであろう。
しかし、実際に動いてしまうと、
「俺が今の立場で手を汚す必要はない」
ということに対し、我に返ってしまうということになるだろう。
それまでは、
「確かに約束だから、俺も相手が殺してくれれば、俺も殺さないといけないな」
と思うことだろう。
だが、
「目の上のたんこぶ」
ともいうべき、死んでほしい人に死んでしまったことで、自分の肩の荷が一気に下りてしまうと、
「捕まりたくない」
という欲が出てくるのだ。
何といっても、
「自分は、実際に手を下したわけでもなく、しかもアリバイは鉄壁なのだから、一番安全だ」
ということになる。
それは警察に対してということであるが、恨まれるであろう、
「実行犯」
というものに対しては、それ以上に強い立場にいる。
ということである。
なぜなら、実行犯だって、警察には捕まりたくない。
ましてや、本当に死んでほしい相手は、まだ生きているわけではないか。
そのまま相手に実行犯になってもらうことが一番いいことなのだから、
「警察に、共犯を売るということはできない」
ということである。
下手に売ってしまうと、自分が、疑われてもいないのに、自分から、
「実行犯である」
ということを晒すことになり。結局、
「人を殺した」
ということだけしか残らないことになるのだ。
たぶん、計画段階では、どっちにも考えてもみない展開だったことだろう。
しかし、実際に、
「犯行が動いてしまう」
ということになると、
「想定外のことが起こる」
と言ってもいいかも知れない。
犯行を行ってしまったことで、事態が動いてしまうと、人間の感情が動き出すことになり、我に返って考えると、
「この交換殺人というのが、理論とはかけ離れた経過をたどる」
ということになるとは思ってもいないだろう。
それは、やはり、
「人間の欲」
というものに感情が支配されてしまうということになるからであろう。
感情というものが、欲というものを押し殺していた」
ともいえるかも知れない。
感情というのは、
「悪い意味も、いい意味もある」
といえる。
基本的には、悪い意味の方が多いが、それが、プラスマイナスで、それぞれに存在していて、絶対的なこととして考えるとすると、
「見かけ」
という状態の中で、
「信じられていたことが本当に正しいことなのかどうか?」
ということを考えないわけにはいかないのではないだろうか?
実際に、交換殺人というものを、完全犯罪の絶対的な面」
ということで考えると、まるで鏡に映った姿だと考えると、
「反転」
という意味で、
「上下と左右の違い」
ということを考えさせられるのであった。
鏡に映った反転という意味で、
「左右は、反転することになるのだが、上下は反転することはない」
ということであった。
その理由はハッキリと分かっているものではなく、いろいろと心理的な点で言われていることもある。
しかし、そもそも、
「人間の身体の作りによるものだ」
と考えれば、ありえない発想ということではないと感じるのであった。
というのは、
「人間の目というのは、上下についているわけではなく、左右についている」
ということが言えるからではないだろうか?
「左右についているからどうだ?」
というわけではないか、
「左右についているということで、左右と上下の関係のどちらかに作用している」
と言ってもいいだろう。
それが、人間の考えを、一方から見てしまうと、
「他の面から見ることができなくなるのではないか?」
ということが言えるのではないだろうか?
というのも、
「人間は、360度全体を見ることがきないのではないか?」
ということになると考えられる。
そんな中で、交換殺人も、それぞれが、反転するという意味では、
「鏡に映った反転」
のようなものではないか?
「左右と上下」
という関係は、それぞれに、
「お互いが、何かに気づいた時、その姿が見えてくる」
ということになるのではないか?
と考えられるのである。
そういう意味で、
「毒殺」
という考え方も、
「いろいろな面で、不都合や理不尽な面もあるかも知れないが、その反転として、裏には、完全犯罪という考え方が見え隠れしているかも知れない」
とも考えられる。
しかし、それが、
「もろ刃の剣である」
ということに、果たして気づくことができるか?
ということを証明するのが、
「交換殺人というものが、完全犯罪なりえることなのか?」
ということであった。
確かに、理論的にいえば、計画通りに事が進めば、これほど完全犯罪としての計画性にそぐうものはない」
と言ってもいいかも知れない。
しかし、いったん歯車が狂ってしまうと、そこから起こることのすべては、
「予期せぬ出来事」
ということであるがゆえに、最終的に、
「瓦解すると早い」
と言ってもいいだろう。
予期していなかったことが起こるわけなので、犯人とすれば、疑心暗鬼に落ち込んでしまい、人を信用できなくなってしまうと、
「犯罪にとって一番のネックが、次第に露呈してくる」
ということである。
殺人の中での問題としては、
「共犯者が多ければ多いほど、露呈する可能性が大きい」
ということである。
「交換殺人」
というのは、最初から、
「共犯者ありき」
ということである。
そもそも。
「アリバイトリック」
というものは、
「共犯者」
と呼ばれるものの存在が不可欠である。
もっとも、この共犯は、その人間が意識しているしていないは二の次で、
「無意識のうちに、アリバイトリックの証人にさせられている」
ということだってあるということだ。
犯人にとっては、
「利用している」
という意識はあるが、利用されている方は、自分が、
「利用されている」
とは思っていないかも知れないのだ。
だから、犯人の想定外の行動をとったり、想定しないないことを証言するかも知れない。
しかし、証言の中で、アリバイを意識しての発言であれば、警察が信用しない場合もあるし、ぎこちなくて、警察が信用してくれないという、根本からおかしなことになってしまう可能性だってあるというものだ。
それが、完全犯罪のネックということであり、毒殺においても、同じようなことがあるだろう。
毒殺の中で、大きな問題としては、
「足が付きやすい」
ということである。
なぜなら、
「凶器となる毒物を手に入れるのに一番苦労をし、入手経路が限られることで、入手経路から、犯人が誰かということを見抜かれる」
ということである。
警察はまず最初に毒殺ということになれば、その毒物が、
「簡単に入手可能なのか?」
あるいは、
「入手困難なものか」
ということに目をつけるであろう。
入手可能なものであれば、そこから足が就くのは難しいということで、それ以外と並行しての捜査になるが、入手困難なものだということになると、
「入手経路を徹底的に洗うことで、おのずと犯人が、絞られた容疑者の中にいる」
ということになるというのを、証明しているようなものではないか。
それを考えると、
殺人事件において、毒殺というものは、足が付きやすいというのは、そういうことなのであった」
といえるだろう。
そして、何といっても、犯人像を思い浮かべる時、一番最初に浮かんでくる発想は、
「毒物に詳しい人」
ということになるだろう。
だから、犯人が実際にそうであれば、実は毒殺犯人を見つけることは、
「他の殺人よりも、的を絞りやすいという観点で難しくないものだ」
ということになるであろう。
だが、逆に、
「実際には薬に詳しいが、表向きには薬に詳しくない」
ということにしていれば、こちらは、
「完全犯罪」
ということにならないとも限らないといえるであろう。
そんなことを考えていると、
「犯罪を隠滅したり、細工するということは、
「警察と犯人のいたちごっこだ」
と言えなくもないだろう。
まるで、
「東西冷戦時代における、核開発競争」
のようなものではないかといえるだろう。
ここに存在する考え方の骨子は、
「欲の抑止力」
というものであるのだろう。
いろいろな意味で、毒殺というのも、
「リスクのあることではないか_」
と考えるのであった。
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