第3話 カリスマ性
殺人というものには、いろいろな殺害方法というものがあり、その中でも大きく分かれるものとして、大きく分けると、
「毒殺」「
「刺殺」
「絞殺」
というものに分かれるだろう。
ただ、これは、
「殺害方法」
ということで、これが、
「死因」
ということになれば、いろいろ別れてくるというものである。
「毒殺」
ということであれば、
「副作用などのアレルギーによるショック死」
などがあるだろう。
代表的な例としては、
「ハチに刺された時などにある、アナフィラキシーショック」
と言われるものが、その一つだと言ってもいいだろう。
というのは、
「ハチに刺されるとその毒が身体に回り、身体の中で、その毒と戦うための抗体というものができる」
ということから始まる。
スズメバチに刺されたりすると、医者が必ずいうこととして、
「一度目は大丈夫だけど、二度目に刺された時はショックを起こす可能性があるので、決してハチがいるところには行ってはいけない」
ということである。
というのは、
「最初にハチに刺された時、身体の中に、ハチの毒に対しての抗体ができる。だから、もし次にハチに刺されると、身体の中にある抗体が反応し、ハチの毒を取り除こうとするわけだが、その時に、ショック状態を引き起こすということになり、その時、アレルギー性のショックを引き起こすことで、死に至る可能性が高くなる」
というものだ。
つまりは、
「アナフィラキシーショックなどないならないに越したことがない」
と考えると、
「抗体ができることで、他の細菌と戦ってくれる反面、外部からの毒に対して、このような誤作動と言ってもいいようなことになるのであれば、それが正しいのだろうか?」
ということになる。
それを考えると、
「アナフィラキシーショック」
というのは、
「別角度から見ると、まるで必要悪ではないか?」
ということになるであろう。
もちろん、
「ハチに刺されることを殺害方法とする」
ということであれば、それは、
「あまりにも無理のある殺人だ」
ということになるだろう。
もちろん、ハチをばらまいたとして、ばらまかれたハチが、本当にターゲットを刺すかということは分からないからだ。
何かの匂いを吹きかけておいて、確率を高くしたとしても、それは、非常に無理がある。
そもそも、
「ハチに刺されたことが死因だ」
ということになれば、そもそも、
「これが殺人事件だ」
とは普通は思わないだろう。
もちろん、ハチに刺されたことで死んだのだとすれば、
「二度目に刺された」
ということで、場合によっては、司法解剖に回されるかも知れない。
しかし、これが、
「アナフィラキシーショックだ」
ということになれば、殺人の可能性は低くなるわけで、そうなると、
「ハチの毒による殺害」
ということであれば、
「これは、事故なんだ」
と思わせることが一番安全であるということに間違いはないだろう。
もし、事故ではなく、殺人事件だということになれば、被害者の交友関係や、利害関係などが徹底的に調べられるであろう。
そうなった時、
「動機が一番ある人間だ」
ということであれば、犯人だと疑われないようにするにが、
「鉄壁なアリバイを作る」
ということになるか、
「そもそも、これが殺人事件ではない」
ということにならなければ、ハチの毒による殺人事件などというのは、
「無理があることなのだ」
ということになるであろう。
それを思うと、
「ハチに刺される」
というのは、事故を装うということにしなければ、成立しえない殺人事件だということになるであろう。
ハチの毒というのは、逆にいえば、
「人を死に至らしめるだけの力はない」
ということを証明している。
つまり、
「ハチに刺されて死んでしまった」
という場合には、
「殺人というものの可能性を疑う」
ということでなければ、警察の負けになるということで、
「ハチに刺される」
という殺害方法は、やり方によっては、
「完全犯罪になりかねない」
ともいえる。
ただ、これは、
「もろ刃の剣」
というものであり、殺人事件である以上、
「どこかで致命的なミスがあれば、簡単に犯罪が露呈する」
というポイントがたくさん出てくるということになるのではないだろうか。
そういう意味では、
「毒殺」
という犯罪は、成功しにくいということが言えるかも知れない。
実際に、そのことについて研究をしているのが、スタッフの中でも、鹿島だった。
ここの、
「黒薔薇研究室」
の中でのスタッフ4人のことを、人によっては、
「四天王」
と呼んでいる。
これは、
「敬意を表している」
というわけではなく、
「明らかに批判しての言葉」
と言ってもいいだろう。
皮肉というよりも批判かも知れない。特に、外部の人から見た時、そう言われてるからである。
しかも、普通に考えて、
「黒薔薇研究会」
などという、
「いかがわしいサークル」
というところに対して、果たして、
「誰がいちいち気にするというのか?」
というものである。
だから、世間のほとんどの人がまったく興味すらない団体に対して、
「黒薔薇四天王」
などという、ありがたくもない名前を付けられているというのだから、それだけ、
「一部の中の一部」
という少数派が言っているだけである。
つまりは、
「まったくの少数派が気にしているだけで、それ以外は、まったく関心がないだけに、それだけ、気にしている人の思いが強く見える」
ということになるのであろう。
そもそも、
「四天王」
と言われるようになったのも、今年一年続いたテレビ番組で、歴史上の人物である
「徳川家康」
というものを題材にした作品が、ドラマ化され、放送されたのだ。
「徳川家康といえば、四天王」
と言われるほど、家臣団の力が結束されていて、特に、その中でも、
「徳川四天王」
と呼ばれる連中は、その群を抜いているといってもいいだろう。
「酒井忠次」
「本多忠勝」
「榊原康正」
「井伊直政」
の四人である。
年齢はそれぞれに離れている(ただし、本多と榊原は同い年)が、それぞれの時代に徳川家臣団を支えたといっても過言ではない。
本来なら、そんな4人になぞらえるのであるから、
「敬意を表している」
というべきなのだろうが、そうではないのであった。
つまりは、徳川家康をいえると、5人ということで、部長を含めて4人で形成される。
「四天王」
ということであれば、この、
「黒薔薇研究会」
というところには、
「家康不在」
ということになるのだ。
だから、この会は、
「徳川家康不在」
ということになるのか、それとも、
「部長である佐土原は、家臣団をまとめる力がないので、結局は他の3人と同じ立場でしかない」
ということになるのだろう。
だから、
「一応部長という肩書はあるが、それはあくまでも、部長という肩書があるだけのことで、そこに権力はない」
と言ってもいいだろう。
他のサークルにおける。
「部長という立場」
がどれほどのものかは分からないが、佐土原が今いるところは、
「部長ということでまわりから特化しているわけではない」
ということだ。
そもそも、このサークルが、
「今までいたミステリーサークルになかった、特化したものを研究する」
というところなので、
「その中でスタッフの中で階級差というものが存在すれば、そこに違和感が生まれ、サークルとしての運営が難しくなる」
ということになるのではないだろうか。
それを考えると、
「黒薔薇四天王」
という言葉は、謂れある言葉だというよりも、
「的確に、その部の状況をとらえた言葉だ」
ということで、皮肉と取った方が、悪意があるように思えるのは、実は、それを言われている、
「四天王のこの4人」
ということではないだろうか。
それを考えると、
「四天王というのは、それぞれに、何かに特化している必要があり、それが、サークルの威厳というものに、結びついてくる」
といえるのではないだろうか?
それが、そもそものコンセプトである。
「殺害方法の研究」
というものであった。
そもそも殺害方法の研究ということであれば、
「いずれ、研究にも限界がある」
ということで、
「もし、どこかで限界を迎えれば、今度はまた新しいものを求めて研究すればいい」
と、先に関しては様子を見るということになるのであった。
しかし、その反面、
「一つのテーマが終われば、そこで、このサークルもそのタイミングで終焉させてもいいのではないか?」
と心の底では皆感じていることだった。
だから、
「その時はその時だ」
と、却って潔い気持ちになっているのかも知れないと感じるのであった。
そして、それぞれの研究は、
「必ず最後は終わりが一緒のタイミングになるとは限らない」
ということであろう。
むしろ、
「同じタイミングになんかなってしまうなど、考えただけでも恐ろしい」
というものであった。
だから、最初に研究が終われば、そこで、そのチームは、次を考えるまでは、休息状態と言ってもいい。つまりは、
「最大公約数的に、焦点は、最後に終わる研究である」
ということになるのであった。
それを考えると、
「競争というわけではないが、それぞれに、無意識のうちに、競争を思い描いているのではないだろうか?」
と考えられるのであった。
そんな中で、鹿島が研究しているのが、
「毒殺」
ということであった。
そもそも、このサークルのコンセプトを考えた時、
「特化」
ということは頭に浮かんだが、しかし、
「何に対しての特化なのか?」
ということに関しては、決まるまでに少し時間が掛かった。
つまり、
「段階が必要だった」
ということであるが、その特化が決まるまで、時間が掛かったように見えるが、それはあくまで、
「皆が殺害方法に関して、それぞれ違った考えに特化していた」
ということが分からなかっただけで、
「答えはそこにあった」
というほど、特化の内容に気が付いた時、
「灯台下暗しだ」
と感じたのは、ただの偶然だったといってもいいのだろうか?
実際に、それぞれ3人が、その特化について、話し合いをしている時、それぞれの発言に、
「ヒントのようなもの」
が含まれていたのだが、それを気づく人間はいなかった。
なぜなら、その会議が行われていたメンバーに、
「佐土原は含まれていなかったからである」
というのも、
「佐土原は、その打ち合わせが行われている時、サークルの発足に関して、一人で奮闘していたからであった」
ということである。
結局、
「四天王のうちの3人」
が話し合うわけで、それぞれに特化した意見を持っているので、
「自分の意見に特化する」
ということになるのは当たり前のことであり、
「自分の意見を主張するあまり、誰もがその先を見ようとしても、堂々巡りを繰り返してしまう」
ということで、まるで、
「いたちごっこのようだ」
と言ってもいいだろう。
「いたちごっこ」
というのは、
「一方通行の道を、果てしなく前に向かって進んでいく」
ということではないかともいえる。
しかし、実際には、その道は一直線ではなく、蛇行したものであることで、
「交わることのない平行線」
というわけではない。
蛇行しているということは一直線ではない。一直線ではないということは、平行線ではないということが、限りなくハッキリといえることではないかということになるのだ。
それを考えると、
「平行線でなければ、ぐるっと回って、最後には戻ってくる」
ということになる。
しかし、地球というものは丸いということでもあるので、平行線であっても、地球を一周回ってくれば、
「そこで、もう一度同じ場所に戻ってくる」
ということにはなるだろう。
そうなってしまうと、
「平行線というのは、本当にありえることなのか?」
という疑念が浮かんでくるのではないだろうか?
「それでも地球は回っている」
と言ったガリレオが、
「本当は正しかった」
ということになるわけなので、
「世の中、結局は何が正しいのかということは、絶対的な証明がされない限りは、都市伝説で終わってしまうということもある」
ということになるのだろう。
そして、その中でもっ毒殺に特化する、鹿島のグループのほとんどの人たちは、
「自分たちが一番最後に残ることだろう」
と考えている人が多いのだ。
いや、むしろ、
「皆が考えている」
ということであり、逆にいえば、
「最後に残るであろうものを、特化する研究として選んだ時、毒殺というものが残ったのだ」
ということになるのであろう。
しかし、これは毒殺グループに限ったことではなく、
「絞殺グループ」
「刺殺グループ」
というのも、
「同じ特化するもの」
ということで、自分たちが考えていることだと言ってもいいだろう。
「毒殺グループ」
として、そのリーダーに、四天王である鹿島を当てたのは当たり前のことで、他のグループも同じだった。
鹿島は、
「さすが、四天王」
と言われるだけあって、
「グループの中では、まわりからカリスマ性がある」
と言われているのであった。
ただ、彼ら四天王の中だけではあるが、他の人が自分たちを、
「四天王」
と呼ぶことに、疑問を感じていたのだ。
「どうして、皆を横並びにするんだろう?」
と、佐土原意外の3人は感じていた。
いや、佐土原自信も、同じことを考えていて、四天王の全員だけが、
「佐土原にはカリスマ性がある」
と思っていたのだ。
「これは、佐土原自身も感じている」
ということであり、個々のサークルの中で、
「リーダーがカリスマ性を持っている」
と考える中で、肝心のリーダーはそうは思っていないということになるのであった。
「だから、この3人のカリスマには、どんなにカリスマ性があっても、部長にはなれない」
ということになるのだろう。
つまりは、
「部長という、全体をまとめる人は、自分自身で、カリスマ性があるということを自覚していないと務まらない」
ということになるのであった。
それを考えると、
「カリスマ性ということを一口で口にしていいものなのだろうか?
ということになる。
「自分に自身が持て、自覚できるカリスマ性というものは、それだけの覚悟と潔さ」
というものが必要なのではないかということになるのだ。
それを、このサークルの中で分かっているのは、きっと、
「佐土原一人」
ということであろう。
四天王の中の他の連中は、
「カリスマ性が自分にある」
ということが分からないことで、結局はどこまで行っても、
「リーダーでしかない」
ということになるのであろう。
それを考えると、
「四天王」
という表現は、
「本当はふさわしくないものなのかも知れない」
ということになり、それを考えているのが佐土原だけなので、結局この謂れが消えることはないということになるのだろう。
それを考えると、
「佐土原としては、このサークルの3つの特化を、黙って見ているしかない」
と考えるのであった。
それは、
「自分にはそれができる」
と思っているからで、その証拠として、
「自分にそれだけのカリスマが備わっているからだ」
と思っているのだ。
これは、
「自分の中で、意識していることで、無意識に溢れてくるものだ」
と言ってもいいかも知れない。
「意識しないと、無意識に溢れてこない」
ということは、
「まず意識がそこにあって、無意識がついてくるものなのか?」
それとも、
「無意識に溢れてくるということを、まわりから意識する」
という順序になるのかということが、
「意外と大切なのではないか?」
と考えるようになったのである。
それを思えば、
「順序」
というものと、
「無意識と意識」
という正反対のものが、
「正対するものとしていかに影響してくるものなのか?」
ということを感じるようになるのであった。
特に、
「このサークル」
というのは、
「特化する」
ということがコンセプトなので、その特化というものがどのような発想になるかと考えた時、
「その答えは必ず見つかる」
ということを、
「どこまで信じることができるか?」
ということである。
もっといえば、
「その信じることが潔さであり、覚悟である」
と考えると、
「それこそがカリスマというものである」
ということは分かっているはずだ。
しかし、それをカリスマ性だと思えないのは、
「同じカリスマ性であっても、佐土原が持っているものとは違う」
ということから、感じることなのであろう。
だから、
「カリスマ性を感じない」
としても、それは無理のないことであり、
「カリスマ性にも種類がある」
といえるのではないだろうか。
ただ、その種類というものは、
「段階があるもの」
ということに気づけば、
「自分たちにも、部長になれるくらいのカリスマ性がある」
と気づくだろう。
しかし、気づかないことが、
「黒薔薇研究会」
というものを存続させるということになるだろうと考えるのであった。
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