眠りの森の美女の冒険 ―欲望の彼方に―

ライムリリー

欲望の彼方に


 私、高沢エミマは私立女子学院高校の二年生。どこにでもいるごくごく普通の高校生だ。あえて違うところを強調すれば、両親がキリスト教を信仰していて、旧約聖書に登場するヨブの娘のように慎まやかに育ってほしいの願いから名付けられたところ。おかげで名前を覚えてもらうのに苦労したことはない。エミマなんていう日本人は私くらいのものだろう。


 今日は秋の中間テストが終わった当日。成績優秀な私には「やさしい」試験問題だったけど皆はできたのだろうか。テストの出来についてクラスメイトと簡単な答え合わせをしたのち、私は麹町の高校校舎から帰宅する。「自由の花園」と言われる女子学院の教育方針。自由を謳歌するあまり成績が落ちてしまう生徒も少数であるが存在する。しかし、これから校内は秋の学園祭である通称「マグノリア祭」に向けて準備を始める。去年の出し物の合唱部では、曲目は『片翼の天使』を叫ぶように歌ったものだ。曲目の通りに、『我ら、来たれり』!ただしラテン語というマニアックな言語で!


「おかえりなさい、今日も早いのね」

 と私のママが家の前で出迎えてくれる。自慢ではないが、私のママは美人なのだ。ハリウッドの映画女優を思わせる豊かな巻き毛。滑らかな輪郭を持つ顔立ち。猫の目のような黒い瞳と称される美貌の持ち主。そう、ということは近い将来、私にもその美貌が、美貌が具現するはず。私は成人式を楽しみにしているのだ。誰だ、二分の一の確率で遺伝しない、とか言っているのは。


「テスト期間は今日で終わったの。明日からはまた普通どおり。あ、シャワー使うね。そのあと一緒に夕飯にしよう」

 私は自室に引っ込むと、いそいそとシャワーの準備を始めた。今日のアロマは、サンダルウッドにしよう。香りは心を潤してくれる。香りひとつで機嫌が良くなるなんて、我ながら単純な生き物だとは思うけど、機嫌の良さは何物にも代えがたい。そしてシャワーを浴びて俗世の疲れを洗い流すのだ。私はそう思ってシャワーを浴びるために浴室へと赴く。


 シャワーの滴る水の音が浴室に心地よく響く。15分ほど浴びていると頭の芯がぼうっとしてくる。もしかして緩慢系の薬物をやったときもこんな気分がするのだろうか。ダメ、絶対!と頭の中で声が響く。薬物は怖いよね、薬学部志望の私には人生の天敵にあげても良い相手だ。多くの人を薬で救いたい。しかし快楽を求める人々は自ら破滅への道をひた走る。二十一世紀にもなって人類は薬物ひとつ克服できていないのだ。


 うん?何か変だ。違和感がする。私はその違和感の正体を突き止めようとした。シャワーを浴びすぎたせい?アロマのサンダルウッドの香りのせい?それとも浴室内に立ち込めた暖気のせい?違う、鏡だ。浴室にある鏡だ。何だかいやに輝いているような気がする。まさか鏡の国への入り口なんてことはないでしょうね。私がシャワーの水を鏡面に掛けたその時、奇跡が起こった。


 真っ白な閃光で目が見えない。なんだこれは、と思っているうちに私は唐突に意識を失っていた。




 …うん?なんだ、この暖かい場所は?とても気持ち良い…って寝転んでいる場合ではない。私は浴室で転倒してしまったのか。私は、自分がどこにいるのかの空間認識能力を失ってしまったかもしれないことに気がついた。ここは浴室ではない、シャワーもない。体全体がひんやりとした大理石の上に置かれているかのようだ。しかも薄暗い。気絶して夜半になってしまったのか。私は、自分の鮮明になる意識を現状確認のために振り向けた。ここはどこだ、病院か。


 結論から言うと、私は、とてもとても広い大理石の床敷きの部屋にいた。狭いながらも楽しい我が家、ではない。見たことも聞いたこともない部屋で私は突っ伏していたようだ。しかも私は服を着ている。寝巻のネグリジェそのものだ。いつの間に着替えさせられたのだろう、それともここは夢の中?明晰夢にしても現実感が半端ない。暖かな空気が私を包んでいる…。もう少し寝ていたい。その時、私を呼ぶ声がした。


「いい加減に起きたらどうだ?ええと、…タカザワ・エミマ」

 ぞっとするほど冷酷な声で私の名を呼ぶ存在が、そこにはあった。やっぱりここは死後の世界なのか。相手は人間なのかもわからないが、ベネツィアのお祭りを思わせるような白い仮面をつけた、黒いローブ姿の存在がそこに立っていた。たぶん、声から推測してオトコ。それも性格の悪い。


「あなたは、だれ?」

 私は至極簡単な誰何の質問を投げかけた。


「私は、ヴァル。この神都の庭の番人。暁の大聖堂に降り立ちた客人よ、起き上がるがよい」

 再びぞっとするような冷酷な声でベネツィア仮面は言った。


「ここ、は、どこなの?」


「お前こそ、この庭に来たいと思ったからこそ、ここに来たのだろう、あらゆる欲望を持つ異世界の住人よ」


「はあ、なにそれ?」


「聞くがよい、説明してやろう。ここは、あらゆる欲望をも叶える庭の入り口に立つ大聖堂。お前はこれから、そこの地下階段を下りて、地下にある広大な書庫に向かうのだ。その書庫には、お前のいた世界のありとあらゆる物語が揃っている。その中から一冊だけを選んでここへ戻ってくるのだ」

 どうやらここは夢の中ではないらしい。現実感が私を襲う恐怖でみたび私はぞっとした。この男は、私に階段を下りて地下に行き、一冊の本を探してくるように要請している。なぜか、はわからないが、彼の言葉は絶対的な響きを持ってこの大理石の大広間に響き渡った。だいぶ意識がしっかりとしてきた。とにかく、家に帰らなくては。


「えええ、広い書庫の中から一冊のお気に入りを探してくるわけ?そんなの、いくら時間があっても足りないじゃない。早く私を、返してよ!」


「二度は説明しないぞ、異世界の住人よ、さっさと地下の書庫に赴くがよい。きっとすぐにお前のお気に入りの本を見つけることができるだろう」

 そう言ってベネツィア仮面は、背を向けた。さっさといってこいという意志表示の態度だ。態度主義の男なのかお前は。しかたがない、どうやらここでは私のほうが異邦人のようだ。太陽が黄色いんだろうな、と私は思って階段を下りて行った。とても暖かい空気に包まれる。なんて変な場所だ、ここは。




「ねえ、本当にすぐ見つかったわ。この物語、子どものころから好きなの」

 私は本当にすぐ見つかった一冊の本を手に、ベネツィア仮面に対峙した。ああ、名前はヴァルだっけ。


「ほう…『眠りの森の美女』というのか」

 ベネツィア仮面が感嘆する。


「ええ、この物語のお姫様になりたかった子供のころを思い出したわ。とてもとてもロマンティックよね。さあ、私をお姫様にでもして」

 私は殊勝にも言った。


 ベネツィア仮面は、しばらく思案したあと、唐突に指を鳴らした。パチン。


 あたりの光景が大聖堂から一変する!


 ここは、どこだ。また変な世界へ飛ばされてしまったのか。私は恐怖で戦慄した。ところが、飛ばされた先は、新宿御苑を思わせるような広大な芝生のフィールドにところどころ木々が植えられている。遠くには森が見える。ここは…のはら?


 気がつくとベネツィア仮面も一緒に飛ばされてきたようだ。彼は左手に持った指揮棒を私に向け、軽く振った。一瞬煌めきの光が見えたかと思うと、軽く体が締め付けられる。自分の着ている服装が中世貴族のようなタバードとタイツになったことにようやく理解が追いついた。ベネツィア仮面は言った。


「そして、お前のまとっている、白羽のついた赤いシャポー。デュエルタバードに、黒いグローブ、そしてタイツにブーツ。腰には尖ったレイピア。準備はできたな」

 なんだこの格好は…お姫様どころではない。


「まさかお前、何の苦労もなくあらゆる欲望が叶うと思っていたのか?甘い。お前はこれから宮殿に巣くう魔物を倒してくるのだ」

 ベネツィア仮面は、こころなしか肩を落としたようだった。


「姫は、冒険、してない」

 彼は言った。


「…ヒメハ、ボウケン、シテナイ」

 私はオウム返しに繰り返す。


「ここで、あらゆる欲望を叶える異世界の住人には、その代償として物語の舞台で、冒険の旅が課される。お前は姫を救う女騎士だ。よかったな」


「いいわけないじゃない!」


「待て、異世界の住人よ、『ひとりで』とは言ってないぞ。宮殿まで私も同行する。お前だけでは戦力にならないからな」

 そう言うヴァルは魔導士のいでたち。


「勝手に話をすすめるな、ベネツィア仮面」


「そうそう、お前の腰に佩いているレイピアは、別名『はやぶさの剣』。お前の体力を無視して、魔物に切りかかるからな」

 ぐいっと、腰のレイピアが私の腰から抜刀し、野原にいる魔物たちに、その剣先を向ける。


「気をつけないと、あっというまにお前の体力を使い果たしてしまうぞ。わかったか?」

 突剣のレイピアが閃光を駆け抜ける!

 そして、私は魔法剣のレイピアに振り回される!!ぐるんぐるん。

 あっという間に、目の前にいた魔物たちが呻きを上げて崩れ落ちる。


「はあはあ、はあ。…すっごく、よくわかった」

 私はふたたび殊勝にも言った。




 道中での一時。私はベネツィア仮面に聞いてみた。


「あなたは、いつからここでこんなことしているの?何が目的なの?」


「それが、気がついたら私はここにいた。仮面もつけていた。そして女神から『ここへやってくる意志の強い者たちのあらゆる欲望を叶える仕事』がお前の使命だとの神託を受けた」

 そんなアバウトな女神様の命令でこんなことしてるんか、お前は。しかし、意志の強い者って私のことなのか。自慢ではないが私は意志はそんなに強くない。強くないからこそ、意志の大切さを知っている、という程度だ。本当に自慢にならないな。マザー・テレサを期待されても困る。それにあらゆる欲望を叶える?ということは、私を薬剤師にすることも可能なのか。念願の大学の薬学部に入学して、薬剤師国家試験に合格して、夢の製薬開発研究者だ、やったー!


「今、お前は恋愛にあこがれているだろう。それがお前の欲望の一つだ」

 へ?いやそんなことはないぞ、ベネツィア仮面よ。確かに素敵な恋愛をしてみたいという欲望はないわけではない。しかし私はもうすぐ受験生。そんな恋愛のおままごとにうつつを抜かしているわけにはいかないのだ。確かに予備校には麻布高校の素敵な男子がいたけれどね。すでにチェック済みです、はい。そういえば、ベネツィア仮面の下の素顔はどんな顔なんだろう?話を逸らすにはいい話題だ。


「そういえば、その仮面の下の顔、さっさと見せなさいよ。マスクをレディの前でつけたままなんて、無礼に当たるんじゃないの?フフ」

 私は少し可笑しくなって微笑んだ。自分のことをレディと呼ぶのはちょっと恥ずかしい。


「それがどうにもとれないのだ。なぜか知らないが」

 ベネツィア仮面はこころなしか、残念そうな声で言った。とれない?…ってことは寝るときも仮面かぶったままなんかい。それは、ちょっと面白い。


「…へえ。あなたも難儀しているのねえ」

 私は半分からかうように言った。それに対して、ベネツィア仮面は、


「…」

 と、完全なる沈黙をもって、何も答えなかった。




 こうして幾度かの戦闘を終え、私たちは大きな宮殿を目の前にしていた。


「ここは黄昏の宮殿。わかりやすく言えばラスボス、『夜の女王』がいるところだ」


「ふうん」

 私は軽く返事をして、意を決してこう言った。


「ありがとう、ベネツィア仮面さん。ここまで同行してくれて。宮殿の奥にいるラスボス、夜の女王だっけ、は私一人で倒すわ」

 ベネツィア仮面は驚いたように両手を上げた。それはそうだろう、さっきまで魔法剣のレイピアに振り回されてぐったりしていた私だ。私は肩で息をしていた。正直きつい。


「ラスボスまで一緒に倒してもらうのは気が引けるわ。それにここでは『意志』の強さを示さなくてはならないのよね?まさか、ラスボスに倒されてゲームオーバーなのも嫌だし、『使命をひとりで果たさなかった』と女神様に言われるのも嫌だわ。なのでここからは私一人でいく」

 私はみたび殊勝にも言った。自分が意志が強いなんて思わない、女神に欲望を叶えてほしいなんて安易に思わない。自分では乗り越えられないかもしれない困難に見舞われているこの世界に、私が投げ込まれていようとも、私は最後まで自分のままでいよう。それが私のこころの最後の切り札、Absolute Virtue. 絶対美徳。


「そうか。お前は、いつのまにか立派な女騎士になっていたな。いや、やはり『強き意志を持つ異世界の住人』か。わかった、私の同行はここまでとしよう」

 ベネツィア仮面はそう言うと、一歩引きさがって私に恭しく礼をした。私も恭しく礼を返す。


「じゃあね、ベネツィア仮面さん。ほんの少しのお付き合いだったけれど、それなりに嬉しかったわ。ありがとう」

 そう言うと私は、魔法剣のレイピアを掲げ、黄昏の宮殿の扉を開け、冷気吹きすさぶ深淵の闇の中を進んだ。




「…なんだ、これは」

 私は、神都の庭の番人。暁の大聖堂の門前へと戻った私は、なぜかいらだっているようにも思えた。


「いつもと違う、この疲れ…。あの小娘のせいか」

 私は独り言ちる。もうあの娘には会うことはない。意志の強さを持ち、女神の使命を遂行しあらゆる欲望を叶えるはず。今回も私は案内役として勤めを果たしたはず。あの娘が言っていたように、こうやって案内役を繰り返していれば、いつの日か、この仮面も壊れる日が来るのだろうか。私は胸がずきりと痛むのを感じた。


 そう思ったのに…しかしながら。


 それから、私は暁の大聖堂の間の扉を開けた。




 暁の大聖堂の間の扉を開けたそのとき、懐かしい声が聞こえた。


「あら、おかえりなさい。ベネツィア仮面さん」

 仮面で私の表情は見えないはずなのだが、彼女は屈託のない笑顔でそこにいる。私は驚いてしまった。

 彼女は言葉を続ける。


「無事に夜の女王を倒し、意志の強さを示して女神様の使命を果たしたわ。そしてあらゆる欲望を叶えられると知った私は、よ~くよ~く考えて願いをかなえてもらったわ」

 彼女は言葉を続ける。


「私の願いは、ここに降り立ち、あらゆる欲望を叶える資格を持つものを手助けすること。そして永遠を生きること。そういう願いにしたの。お姫様って歳でもないし。これからは同僚ね、ヴァル。ふつつかものですが、なにとぞよろしくお願いいたします」

 白きドレスを身にまとった彼女は恭しくお辞儀をした。


 そんな彼女を、私は思わず抱きしめた。


 そのとき、仮面にひびが入り崩れ落ちた。彼女は、私の素顔を確かめる。私は聞いた。


「変な顔…か?」


「いいえ、ちっとも」



■□


 こうして私たちは幸せを手に入れたのです。




 ―終劇、カーテンコール。

 (本作品はフィクションです。)

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