この世界に『タイトル』はありません
Greis
この世界に『タイトル』はありません
大陸東方にある中堅国家、イスカ王国。
イスカ王国南方の辺境を守護し、代々領主を務めているロンベルク辺境伯家。
ロンベルク辺境伯家の長男として生まれたのが、茶色の髪と目をしている私、ラインハルト・ロンベルク。
私が六歳の時、我が家に妹――ジェシカが生まれてきてくれた。
そして、ジェシカが初めて見せた愛らしい微笑みに私たちは一瞬で虜になり、家族皆で妹を守っていこうと誓い合う。
茶色の髪と目をしたジェシカは可愛らしいだけでなく聡明で、ハイハイを覚えたり言葉を話し出したりするのが早く、この子は天才かもしれないと皆で大喜び。
それに加えて魔術師としても非凡な才能に恵まれているようで、赤ん坊の頃から魔力を動かしては家族を驚かし、将来は凄い魔術師になるのではとまた喜んだ。
ジェシカは大人しく手のかからない子で、家族の愛を一身に受けてすくすくと育っていき、身内びいきなしに可愛らしいショートヘアの少女へと成長した。
だが、一つだけ心配なことがある。
ジェシカは幼い時から、意味がよく分からない独り言を呟く。
聞こえてくる単語には「ざまぁ」、「断罪」、「悪役令嬢」などがあり、「断罪」や「令嬢」は私にも意味が分かるのだが、「ざまぁ」や「悪役」とはどういった意味なのだろうか?
気になった私が一度その事をジェシカに聞いてみたのだが、ジェシカは嘘がばれてしまったかのように
「ア、アンダルシア王国の本に、そういった物語が書かれているものがありまして。それがもの凄く面白かったものですから」
――と教えてくれた。
アンダルシア王国は文化と芸術の国であり、イスカ王国と同じく中堅国家でありながら、その分野においては大国に匹敵するほどの影響力を持っている国。
そして、イスカ王国と長きに亘り同盟を結んでいる親交国。
なぜあれほど狼狽えたのかは分からなかったが、その歳で読むには難しいアンダルシア王国の本を読めるのかと、思いっきり褒めたことを覚えている。
聡明なジェシカは領地や領民のことを気にかけていて、父や私によく質問をしたり視察に同行したりしていた。
さらには我が家の経済状況が気になるのか、私たち家族が無駄遣いして散財していないか、領民から過剰な税を取り立てていないかを聞いてきたこともある。
そんなジェシカに大丈夫だよと私たちが明け透けに見せると、胸を撫で下ろして安堵し、今後も悪いことや危ないことはしてはだめよと可愛く注意してくれた。
私たちはそんなことをしたこともするつもりもないが、ジェシカが本気で言ってくれているのが分かっているので、その気持ちに応えて真剣に頷く。
不安が取り除かれたからかジェシカは勉学に集中し、楽しみながら魔術の腕をめきめきと上達させ、同年代の子よりも一歩も二歩も先に進んだ。
知識に関しても新しいことを知るのが楽しいようで、どこかの学者になれるほど豊富になっていった。
私はそんなジェシカに触発され、負けないようにと魔術や勉学をより一層意欲的に学んでいく。
◇ ◇ ◇ ◇
兄妹二人で互いに高め合う日々を過ごし、私が十七歳、ジェシカが十一歳になった。
私は十二歳の時に王都の学院で学ぶために王都へ向かい、学院内にある寮で生活をしている。
ジェシカは私が王都に行くことに寂しそうにしていたが、見送りの日に笑みを浮かべて頑張ってくださいと言ってくれたので、思わず抱きしめてしまった。
学院で友人もでき、日々楽しく学園で過ごす私は、五年目の今年も夏季休暇になったので実家に帰省することに。
帰省して家族と久々に顔を合わせてのんびりし、ジェシカにせがまれ学院での話をしてあげていると、実家に一通の封筒が届く。
封筒に押された封蝋に示された紋章は、学院で友人となったエリオットの生家、レガート公爵家のもの。
中に入っていたのは、エリオットからの手紙と誕生日パーティーの招待状。
エリオットとの出会いは学院に入学してすぐの頃で、そこから五年と長い付き合いだ。
互いに妹がいるということで盛り上がり、兄弟のように仲が良くなった。
仲良くなった入学初年度の時から、夏季休暇の時期にエリオットの妹――サラさんが誕生日を迎えるとのことで、誕生日パーティーをやるからこいよと毎年誘われているのだ。
両親にエリオットから手紙が届いたこと、今年も誕生日パーティーに誘われたことを相談すると、両親は楽しんできなさいと言ってくれた。
レガート公爵家の領地は辺境伯領から馬車で一週間ほどの位置にある、アンダルシア王国のように文化や芸術が発展している、ジェシカが毎年大興奮している所。
そう、ジェシカも私と一緒に公爵領に向かい、サラさんの誕生日パーティーに参加しているのだ。
最初は父も母もジェシカの同行を止めようとしたのだが、滅多に言わない我儘であることや、上目遣いで可愛くおねだりされたことで陥落。
ジェシカの同行が決まるとあれよあれよと話が進み、腕利きの護衛の騎士たちをつけ、さらには母も一緒に同行することになった。
私たちはサラさんとレガート公爵に頭を下げたのだが、レガート公爵一家は才媛と噂のジェシカに一度会ってみたかったと言い、快く参加することを許してくれた。
サラさんは銀髪黒目のロングヘアの綺麗な少女で、ジェシカより二歳年上の知識が豊富で魔術の腕もいい、もの静かで大人しい子。
兄であるエリオットも金髪碧眼のイケメンで、金髪黒目のレガート公爵と銀髪碧眼の公爵夫人も美男美女。
招待された他の参加者たちは、レガート公爵家四人の輝きを見て眩しそうにしていた。
サラさんとジェシカだが、馬が合ったのか姉妹のように仲が良くなっていて、私と母はもの凄く驚いたのを覚えている。
今ではサラさんから大親友だと呼ばれるほど仲良くなっており、頻繁に手紙でやりとりしているようだ。
その年から私だけでなく、ジェシカもサラさんの誕生日パーティーに誘われるようになり、ジェシカも毎年楽しみにしている。
ただ今でも気になっているのは、ジェシカがサラさんを初めて見た時に呟いていた、「……あの子が悪役令嬢なのかしら?」とはどういう意味なのだろうか?
「「サラさん、お誕生日おめでとうございます」」
私とジェシカが揃ってそう言うと、サラさんは微笑んで喜んでくれた。
「ラインハルトさん、ジェシカ。今年も祝っていただきありがとうございます」
サラさんの綺麗な微笑みを見た他の参加者、特に同年代の男の子たちが見惚れた。
それもそのはずで、今日のサラさんはいつも以上にさらさらで艶のある綺麗な髪に、碧眼に合わせた淡い青色のドレスを身に纏い、公爵夫人に劣らぬ気品に満ちている。
その身に流れる血筋を考えれば当然だが、姫と呼ばれるに相応しい美しさだ。
既に誕生日パーティーが始まって結構な時間が経っており、何人もの人と話し終えた状態であるにも関わらず、その美しさに陰りは全く見られない。
今年でサラさんは十三歳になり、去年私とエリオットが通う王都の学院に入学した。
エリオットは学院で女性たちに大人気なので、そのエリオットの妹ということで注目されていたサラさん。
色眼鏡で見られてしまうことに少し心配していたのだが、整った外見と高貴な雰囲気を漂わせる佇まいで、男性たちのみならず女性たちの心まで掴んでしまった。
サラさんは一日で一気に学院上位の人気者の座につき、兄のエリオットとともに人気者兄妹として注目されることになる。
麗しき兄妹が学ぶそれぞれの教室前の廊下には、毎日のように一目見ようとする人たちが男女問わずが集まり、その姿に見惚れているのが毎日の光景だ。
毎日のように視線が集中して気にならないかと聞くと、エリオットもサラさんも幼い頃から公爵家の一員としてパーティーに出席していた経験から、そういった視線にはもう慣れてしまったと笑っていた。
今日も色々な人たちがレガート公爵家の方々を見ているが、四人とも特に気にするそぶりもなく顔色が変わることもない。
我が家は辺境伯家であるもの、辺境であるが故に外向けのパーティーなど開くことは少なく、身内や一族の人たちを呼んでのパーティーが主だ。
私とジェシカも貴族として態度を顔に出さないが、エリオットたちのようにどんな場でも自然体でいることは難しい。
改めて凄いなと思いサラさんを見ていると、サラさんの頬が僅かに赤くなる。
ジェシカが周りから見えないようにしながら、私の脇腹を肘で軽く突く。
「お兄様」
私に笑いかけてくるジェシカ。その笑みには‟分かっているよな”という圧がある。
ジェシカが私になにを言いたいのかは分かっているし、サラさんが私の言葉を待っていることも分かっている。
だから、私は心のままにサラさんに言葉で伝えた。
「サラさん。今日もとてもお綺麗で、お召しになられているドレスも素敵です」
「ありがとうございます!」
サラさんは私の褒め言葉に喜んでくれて、花が咲いたような華やかな笑顔を浮かべてくれる。
それを見た男性たちからの嫉妬の視線が突き刺さるが、この笑顔を見られたのならなんの問題もない。
ジェシカ的にはまだまだ未熟なのだろうが、今の私にはこれが精一杯。そのことをジェシカも分かっているので、多少不満げな雰囲気ながらもなにも言わずにいてくれた。
サラさんが私に好意を抱いてくれているのは分かっている。
エリオットと同じく五年と長い付き合いで、母やジェシカなど家族以外で最も身近な女性。私と過ごす時間を大切にしてくれて、ジェシカとの関係も大事にしてくれるサラさんに好意を抱かないわけがない。
私とサラさんが相思相愛なのはエリオットも知っており、なんならレガート公爵夫妻も知っているが、私とサラさんのことを心から応援してくれている。
サラさんが私にすっと体を近づけ、少し恥ずかしがりながら上目遣いで聞いてきた。
「ラインハルトさん。お兄様から聞きましたか?」
「聞いています」
「お父様から婚約相手をラインハルトさんに決めたと言われて、私は心の底から喜びました」
「――私もです」
夏季休暇前にエリオットがこっそりと教えてくれたのだ。サラさんが十三歳になる誕生日を迎えたら、レガート公爵がサラさんとの婚約を私に申し込むと。
それを聞いて私は外聞も恥もなく大喜びして、サラさんとの仲を相談していたジェシカに伝えようと大急ぎで実家に戻った。
私はエリオットから聞いた話をジェシカに伝えると、事前にサラさんから聞いていたのか驚くことはせず、「……私の脱悪役令嬢計画は順調のようね」と呟いた。
そのまま続けて「このまま順調にいけば、ざまぁも断罪も起きはしないわ」と呟くと、うんうんと頷いてなにかに満足していたが、ジェシカのいう三つの単語がなにを意味するのか相変わらず分からないままだ。
私とサラさんが見つめ合っていると、ジェシカが咳払いをひとつして切り出す。
「お兄様、今年のプレゼントを」
「そうだな。サラさん、こちらをどうぞ」
私は懐から青と銀の二色の髪留めを大事に取り出し、サラさんの右手の掌の上に優しく置いてあげる。
サラさんは青と銀の二色の髪留めを見て、「本当に嬉しいです」と笑顔で言ってくれた。
「私からはこれです」
続いてジェシカがプレゼントを渡す。ジェシカが用意したのは淡い水色のシルクのハンカチ。色違いの同じハンカチをジェシカが使っているので、サラさんとお揃いにしたかったのだろう。
「ジェシカ。このハンカチ、もしかしてこの前の手紙に書いてあった?」
「そうです。元々サラさんにプレゼントするつもりだったのですが、誕生日が近かったこともあり、誕生日のプレゼントとさせていただきました」
「ありがとう、ジェシカ。お揃いのハンカチなんて嬉しいわ」
「喜んでもらえて私も嬉しいです」
プレゼントを選んでいる間、サラさんに喜んでもらえるのか不安だった。だがあの笑顔と反応を見て、本当に喜んでもらえたのだと胸を撫で下ろす。
サラさんと楽しく話をしていた私とジェシカに、先程よりも強い嫉妬の視線が集まる。これ以上サラさんを独占しすぎると、本当に要らぬことで面倒なことになりかねない。
私はジェシカに視線を向けて、これ以上は危険だと合図する。ジェシカもそれに同意し、二人でサラさんにもう一度
サラさんも強まった嫉妬の視線には気付いており、私たちがいなくなることを察して一瞬寂しげな表情になる。だが、その寂しさを一瞬で隠して笑みを浮かべ、次の招待客に挨拶があると言い私たちからそっと離れていく。
その際、サラさんが私だけに聞こえる大きさで
「すぐに婚約を申し込むのでお待ちください」
「はい。お待ちしております」
私とジェシカはレガート公爵夫妻やエリオットにお暇することを告げ、パーティー会場を離れて我が家の馬車に乗り込み、レガート公爵邸からロンベルク辺境伯家の身内がやっている高級宿へ向かう。
移動する馬車の中、私の正面に座ったジェシカが口を開く。
「おめでとう、お兄様」
本当に嬉しそうにそう言ってくれたジェシカに、私も笑みを浮かべて答える。
「ありがとう、ジェシカ」
私はジェシカの「計画成就まであと少し」という呟きを聞き流し、サラさんとの今後について真剣に考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「お兄様、サラお義姉様、結婚おめでとう」
雲一つない快晴の空の下、ジェシカが笑顔で私たちを祝福してくれた。
私とサラも笑顔を浮かべ、祝福してくれたジェシカにお礼を言う。
「「ありがとう、ジェシカ」」
今日は私とサラの結婚式。
サラの十三歳の誕生日パーティーから三年が経ち、私は二十歳、サラは十六歳になった。
私は十八歳で学院を卒業し、今はエリオットとともに軍に入り、治安維持から賊の捕縛や討伐など様々なことを経験してきた。
エリオットも私も、いずれ父親の跡を継いで貴族家の当主になる。軍で様々な経験を積み、市井の人たちの生活に触れて学び、それらを領地を治める時に活かす。
領主になった時、領地のことも領民のこともなにも分からない、知りませんは絶対に許されないからな。
ジェシカは十四歳になり、私たちと同じく十二歳で王都の学院に入学し、日々楽しく学んでいるようだ。
入学当初からロンベルク家の才媛、サラと最も親しい友人であると有名だったジェシカは、男女問わず注目の的であった。
しかし本人は周囲のことなど気にも留めず、「攻略対象は何人なのかしら?」とか「ヒロインは誰?」など呟いていると、サラからジェシカの面白い話として聞いている。
この話を聞いた時、また分からない新たな単語が増えたなと思うと同時に、アンダルシア王国の作家はよく新しい言葉を思い付くものだと感心した。
サラとジェシカが楽しく話している姿を見て和んでいると、黒のスーツをかっこよく着こなしたエリオットが近づいてきた。
「ラインハルト、サラ、結婚おめでとう。新郎の友人としても、新婦の兄としても、今日という日を無事に迎えられて嬉しいよ」
笑顔を浮かべてそう言ったエリオットに、私たちも笑顔を浮かべてお礼を言う。
「ありがとう、エリオット」
「ありがとうございます、お兄様」
私はエリオットと拳を突き合わせた。エリオットとはもう八年の付き合いになる。本当の兄弟のように思っているエリオットと、義理の兄弟になれたことに嬉しくなった。
エリオットはサラの顔を見て兄の顔で微笑み、そっと優しく抱きしめる。
「サラ。ラインハルトに幸せにしてもらうんだぞ」
「……お兄様。はい。ラインハルトさんに必ず幸せにしてもらいます」
二人は暫くの間無言で静かに抱き合ったあと、エリオットが真剣な表情で私の顔を見た。
「ラインハルト。サラを、大事な妹を頼んだぞ」
私はエリオットの顔を真正面から見つめ返し、真剣な表情で一人の男として答える。
「任せろ」
エリオットは私の答えを聞いて満足そうに笑い、右手を差し出す。私は差し出された右手を固く握り、信頼を裏切りはしないと頷いた。
……その時、ジェシカの「私の計画は成就した。これで断罪もざまぁもないわ」という呟きが聞こえてきたが、その呟きは私にしか聞こえていなかったようだ。
私とサラが結婚し正式に夫婦になってから数日が経ったが、私たちの生活が大きく変わることはない。
サラは学院の寮で生活を送り、私は軍の兵舎で生活を送る。
新婚らしく一緒の家に住み、同じ時間を共有したい気持ちは当然だがある。だが、その気持ちと同じくらい、サラに勉学に集中してほしいという気持ちも強い。
私とサラはしっかりと話し合いをして、サラが学院を卒業する二年後、十八歳になったらロンベルク辺境伯領に戻って一緒の家で暮らそうと約束した。
話を聞いたジェシカは不満そうにしつつも、二人が決めたことだからと最後には納得してくれたので、私たちはよかったと胸を撫で下ろしたのだ。
そんなジェシカだが、サラによると呟きの回数が多くなり、学院の成績優秀者や容姿端麗な人が気になっているようだ。
昔から大人びていたジェシカは、色恋に興味を持つことは少なかったように思う。とうとうジェシカも色恋に興味を持ったのかと思ったのだが、どうやらそうでもないようで、気になっているのは男性だけでなく女性も含まれているとのこと。
サラも気になったのかジェシカに確認してみたところ、色々な人を気にしているのは色恋とかは全く関係なく、男女の
学院は勉学を第一優先にする場所であって、男女の甘い青春を送る場所ではないからな。成績が悪ければ留年、最悪の場合は退学の可能性もある以上、まずは勉学に集中しろとジェシカは言いたいのだろう。
「ジェシカの心を射止めるのはどんな人だろう?」
互いの休日が合い、カフェにお出掛けをした私たちは食事をしながら、最近のジェシカのことを話していた。
ふと気になったので私がそう言うと、サラが暫く考えてから口を開く。
「ラインハルトさんのような、家族のことを大切にしている人だと思います」
「……そうだったら私も嬉しいな」
その時、エリオットが親指を立てる姿が脳裏に浮かび上がる。サラもエリオットの姿が脳裏に浮かんだようで、私たちは顔を見合わせて笑みを浮かべてしまう。
本当に二人が結ばれたら嬉しいし、その時が来たら心の底から祝福する。
「サラ。エリオットにそれらしい相手がいるとか、もしかしたらあの子がみたいな噂、聞いたことある?」
「いえ、全く。昔から多くの女性に惚れられていましたが、お兄様から誰かに声をかけたりしたことも、一緒にどこかに出掛けたりしたことはありません」
「一度も?」
「一度もです」
「じゃあ、あれは?」
「え?……あそこにいるのは、お兄様とジェシカ?」
私とサラはカフェの奥の席に座っているのだが、席からは王都の大通りが見えている。サラが私の質問に答えてくれているのを聞いていた時、大通りを歩くジェシカとエリオットを見つけた。
二人は笑みを浮かべて歩いていて、その姿は仲
お出掛けにはしっかりと目的があるようで、二人は足を止めることなく、そのままカフェの前を通り過ぎていった。
そんな二人を見たサラは、ジェシカ相手とはいえ女性と仲良く歩いている姿を初めて見て驚いている。
「どう思う?」
「もしかすると、本当に私たちの思った通りになるかもしれません」
「私もそう思う」
ジェシカの相手として私たちの脳裏にエリオットが浮かび上がり、その直後に二人が仲良く笑みを浮かべながら歩く姿を見た。
ジェシカとエリオットの人生に大きな転機が訪れるかもしれない。
楽しそうに笑い合っていた二人の姿に、私たちはそんなことを思った。
エリオットとサラのお出掛けを目撃した日から三か月が経ったある日、私はエリオットから話があると言われ、奇しくもあの日サラと一緒に出掛けたカフェに呼び出される。
ついにジェシカと思いが通じ合ったのか、婚約かと思いながらカフェに向かった私に、エリオットは不思議な質問をしてきた。
「ラインハルト。ヒロインってなにか知ってるか?」
ヒロイン。エリオットの口から出た言葉に驚く。その言葉を私は知っている。ジェシカが呟いている、意味がよく分からない言葉の一つだ。
「私もジェシカがその言葉を呟くのを聞いたことはあるが、どういった意味の言葉なのかは知らない」
「……兄妹のお前でも知らないか」
「ジェシカとなにかあったのか?」
私がそう聞くとエリオットがそうだと頷き、なにがあったのかを話し始める。
「ことの始まりは一週間前。王都に我らが友であるクリス・ライルが来たので、我が家に滞在してもらうことした」
クリス・ライルは、ライル男爵家の長男で次期男爵。黒髪に薄紫の目をした、中性的な顔立ちの小柄な男性。私とエリオットが学院で仲良くなった友の一人で、他の人にはない特殊な趣味を持ち、学院で男女問わず大人気だった。
学院卒業後は男爵領に戻り、父親である男爵の補佐をしながら、次期男爵として経験を積んでいると聞いている。
「なんでクリスが王都に?」
「妹さんが今年から学院に通っていて、元気にやっているのか顔を見に来たそうだ」
「私たちに負けず劣らず、クリスの所も仲がいいからな」
クリスには妹だけでなく二人の姉がいて、喧嘩をしたことがないくらいに仲良しだと聞いたことがある。
両親である男爵夫妻も子供たちのことを深く愛していることから、王都で上手く生活できているか心配になり、クリスに様子を見に行かせたのだろう。
「その日俺は休みの日で、両親に呼び出されて家に戻っていた。両親との話が終わった俺にクリスが話しかけ、久々の再会なのだから一緒に王都を歩きたいと言い出したんだ」
「まあ、クリスならそう言うだろうな」
「俺もクリスと久々に再会できて嬉しかったから、二人で一緒に出掛けることにした。暫く二人で歩いていたら、偶然ジェシカを見かけたから声をかけたんだ。そうしたらジェシカはもの凄く驚いた顔になってさ、ヒロインって一言呟いたと思ったら、声をかける間もなくその場から走って去っていったんだよ」
ヒロインという言葉の意味は変わらず分からないが、その場面だけ見た人は全員修羅場だと思ったことだろう。
嫌な予想が頭の中に浮かび上がってきたので、エリオットに一つ一つ質問していく。
「エリオット。クリスの趣味はまだ続いていたか?」
「ああ、続いていた。なんなら領民は皆知っているそうだ」
「クリスと二人で一緒に出掛けた時、ジェシカが見たのはどっちのクリスだ?」
「それは当然……」
「女装した、だよな」
クリス・ライルの特殊な趣味、それは女装だ。
幼い頃のクリスは中性的な顔立ちも相まって、本当は女の子なのかもしれないと思われるほど、可愛いという言葉が似合っていたそうだ。
そんなクリスに男爵夫人や姉たちが興味本位で女性の服を着せたら、そこには男の子ではなく可愛らしい女の子がいた。女性陣はクリスに色々な服を着させては可愛いと褒め、クリスもそれを素直に受け取っていく。
そんな日々を過ごしていく中で、可愛い服を着るのが楽しくなっていったそうだ。
学院時代のクリスは正式な場以外では女性の制服を着て過ごしており、その可愛さから男女問わず愛されていたし、先生たちも面白い子だと可愛がっていた。
ジェシカがエリオットのことを憎からず思っているのなら、親しくしている男性の傍に可愛らしい人がいれば、もしかしてとショックを受けるのも仕方ない。
私が同じ立場だとしたら、何日か部屋に引きこもること間違いないな。
「それからジェシカとは話したのか?」
「今日まで話せていない」
エリオットが寂しそうにそう答えたのを見て、私はここで気持ちを聞くべきだと腹を決めた。
「エリオット。ジェシカのこと、一人の男としてどう思っている?」
私からの問いかけにエリオットの表情が真剣なものに変わり、ジェシカへの気持ちを正直に口にする。
「愛している。最初はもう一人の妹くらいに思っていた。だが少しずつその気持ちが変化していき、お前たちの結婚式で心から幸せを願うジェシカの笑みを見て、俺はジェシカのことを一人の女性として好きなんだと自覚したんだ」
「じゃあ、さっさと動くぞ。サラにも協力をお願いして話し合いの場を設けるから、ジェシカに色々と説明して自分の気持ちを伝えろ」
「おう。助かるよ、ラインハルト」
私とエリオットは拳を突き合わせる。
三か月前に二人で仲良く歩いている姿を目撃してから、エリオットとジェシカが上手くいってほしいと私たちも心から願っていた。
あとは、この問題の中心人物の一人がまだ王都にいるのかだが……
「クリスはまだ王都にいるのか?」
「我が家に滞在中だ。俺とジェシカのことを面白がって、実家の許可を得てまで滞在を伸ばしたんだと」
「相変わらずだな」
クリスは学院時代趣味の影響もあり、女子生徒たちから色々な相談をされていた。
その中の一つに恋愛相談もあって、数々の婚約を成立させたことは今でも語り草だ。
そんなクリスが面白がっているのは、良いことなのか悪いことなのか悩ましい。
「ジェシカとの話し合いの場にクリスも同席させよう」
「余計にこじれないか」
弱気なことをいうエリオットの肩を右手で軽く叩く。
「ジェシカが逃げ出したりなにかを言う前に、勢いに任せてクリスの性別と気持ちを伝えろ」
「……分かった」
気持ちを自覚しているのなら、あとは気持ちを伝える度胸だけ。
私の知っているエリオットという男ならば、いざという時の胆力はレガート公爵にも国王にも引けを取らない。
その時を迎えたら、エリオットは迷わず気持ちを伝えると確信している。
「それじゃあ、色々決まったらすぐに教える。焦るなよ」
「頼んだ」
「任せろ」
大事な話を終えて落ち着いた私とエリオットは、カフェの美味しい食事を楽しんだ。
私はその日の内にサラと直接顔を合わせ、今日のエリオットとの話を伝え、協力してもらうことをお願いする。
サラは兄の気持ちを知り、ジェシカのことは任せてほしいと微笑み、私たちに協力すると頷いてくれた。
エリオットに呼び出されて話をし、ジェシカへの気持ちを確かめた日から三日。
サラはその優秀さを
話し合いの日は学院の次の休日である二日後。場所は王都にあるレガート公爵家の別邸で行うことに決まった。
私も色々と動こうと張り切り、いざ動こうとした時にサラから伝えられたのが、ジェシカとの話し合いが終わったという一言。
自分が動くことなく終わったことに対して私が思ったのは、やっぱりサラは凄いだった。
私は短い時間で話し合いの場を設けたサラの凄さに惚れ直し、ありがとうと感謝の気持ちを伝えながら抱きしめると、サラはありがとうと微笑みながら抱きしめ返してくれた。
その時にサラが教えてくれたのだが、ジェシカはエリオットに無自覚で好意を抱いていたようで、今回の一件でその好意を自覚したようだと。
話し合いの前に入った朗報に私は喜び、二人の関係性が悪くなることはないだろうと胸を撫で下ろした。
話し合いの日が決まったので、私とエリオットは相談していた上官に報告し、私たちの休みの調整をしてもらう。
上官が同僚たちに休みに調整が入ったことやその理由を告げると、エリオットに春が来たと同僚たちは大騒ぎして喜び、一世一代の勝負に行ってこいと応援してくれた。
そして、二日という時間はあっという間に過ぎていき、遂にその日が訪れる。
私はエリオットとともに兵舎から公爵邸に向かい、綺麗な庭園がある外庭へと移動し、話し合いの準備が整っているガゼボに向かって歩いていく。
ガゼボに近づいていくと、上機嫌で椅子に座っている先客がいるのが見えた。その先客は私たちの顔を見ると笑みを浮かべ、嬉しそうに私の名を呼んだ。
「二年ぶりだね、ラインハルト。元気だったかい?」
「久しぶりだな、クリス。大きな怪我も病気もなく元気だよ。そっちも元気そうで安心した」
「僕にも守るべき人たちがいるからね。健康には人一倍気をつかっているのさ」
そう言って笑うクリス。濃い青色のワンピースを身に纏い、その上に灰色のジャケットを着ている。
なにも知らずに今のクリスを見たら、確実にどこかの家のご令嬢だと思うだろう。
「その色のワンピースを着てきたってことは、私の妹に喧嘩を売るつもりなんだな?」
私がそう聞くと、クリスは微笑みながら答える。
「当然。出過ぎた真似だというのは理解しているけど、エリオットの友人としても貴族の一人としても、この程度で怯んでいるようじゃ公爵夫人は務まらないよ」
クリスの言葉に私とエリオットは沈黙する。全てが正しいわけではないが、言っていることを全否定することもできない。貴族家の頂点たる公爵家は、それだけ他の貴族家よりも重い責任を背負っている。
だが……
「だが、それはジェシカを甘く見過ぎだ」
「ほう」
「愛しているから盲目的に信じているわけじゃない。ジェシカを傍で見てきて、彼女だからこそなにも問題はないと、次期公爵としても一人の男としても判断した」
「……次期公爵としてもか。なら、お手並み拝見と——」
クリスの言葉が途中で止まる。なぜ言葉を止めたと思っていると、後ろから二人分の足音が聞こえてきた。私とエリオットが振り返ると、二人の若き女傑がこちらに近づいていた。
私たちに近づいてきた二人の若き女傑、それはサラとジェシカだ。
サラは真っ白なシャツの上に茶色のカーディガンを着て、黒色のロングパンツをはいている。
ジェシカの方は山吹色のワンピースを身に纏い、その上に濃い青色のジャケットを着ている。
二人ともいつもの柔らかい雰囲気ではなく、女騎士のような凛とした雰囲気に変わっていて、圧倒的な存在感を放っていてかっこいい。
その圧倒的な存在感は、私の母やレガート公爵夫人が放つ存在感に引けをとらないほどだ。
クリスの言葉が途中で止まったのは、ジェシカが放つ圧倒的な存在感と美しい立ち振る舞いを目にし、自分の予想以上だったことに驚いたからか。
私たちの目の前に来たジェシカが、カーテシーをして微笑みを浮かべる。
「エリオットさん、お待たせいたしました」
「いや、私たちも今来たところだ。気にしなくていい」
「ありがとうございます」
エリオットとジェシカの周りが甘い雰囲気に包まれる。そこに割り込むようにクリスが動く。立ち上がって優しく微笑み、ジェシカにカーテシーをした。
「初めまして、ジェシカさん。私はクリス・ライル。貴女のお兄様であるラインハルトさんと、こちらにいるエリオットさんの学院時代の同級生で、仲のよい友人です」
まだ話し合いは始まっていないが、クリスからジェシカに様子見の軽い一撃。
しかし、ジェシカはそれをするりと華麗に避ける。
「初めまして、クリスさん。私はジェシカ・ロンベルク。いつもお兄様がお世話になっております」
怯んだ様子も嫉妬している様子もないジェシカを、クリスはじっと見つめて観察している。
第一印象は合格としたのか、クリスが私とエリトットに話し合いを始めようと目配せをした。
私とエリオットはそれに同意し、まずは皆で席に座って落ち着こうと提案しようとした時、ジェシカがそれを制するように動く。
「エリオットさん。話し合いを始める前に私から言いたいことがあります」
「……一体なにを言いたいんだ?」
エリオットが少し緊張しながら返事をすると、ジェシカは花が咲いたような華やかな笑顔を浮かべて言う。
「愛しています、エリオットさん。この国で、この世界で誰よりも。だから、私と結婚してください」
この場が静寂に包まれる。私もエリオットも、クリスですらもジェシカの言葉をすぐに処理できず、ただただ驚きで固まってしまっていた。
ただ一人、サラを除いて。
サラは大成功だとばかりに微笑み、手を二回叩いて場の空気を元に戻す。
いち早く我に返ったのはクリス。クリスは心の底から楽しそうに笑うと、ジェシカの目の前に移動して真っ直ぐに顔を見る。
「本当に予想以上だよ、ジェシカ。もう少し楽しんでから種明かししようと思ったけど、……これ以上は茶番になってしまうね」
「……え?」
クリスの雰囲気がガラリと変わると、ジェシカはそれに驚いて凛とした雰囲気が消え、いつもの柔らかい雰囲気に戻ってしまう。
そんなジェシカの変化が面白かったのか、サラが再び微笑んで楽しんでいる。それはクリスも同じなようで、面白い子だと楽しそうにくすくすと笑う。
あの様子だと、クリスはジェシカのことを気に入ってくれたようだ。
クリスはくるりと振り返ると、最後まで驚きに固まっていたエリオットに話しかける。
「エリオット。いつまで人形みたいに固まっているんだい?」
「……はっ!」
エリオットは我に返るとジェシカの顔を見て、次にサラの顔を見ると、最後にもう一度ジェシカの顔を見た。
そして、ジェシカに言われた愛の言葉がようやく身に染みて理解できたのか、嬉しくなって顔が赤くなる。
愛の言葉を告げた時のジェシカは、普段のエリオットに負けず劣らずのイケメンだった。そんなイケメンのジェシカから直球で愛の言葉を告げられたら、誰であっても心を射止められてしまうだろう。
ジェシカの愛の言葉に喜んでいるエリオットに、クリスが低い声でさっさと返事をしろと警告する。
「あんなに素敵な愛の言葉を伝えられたのに、返事をしなくては心が離れてしまうぞ」
「!……そうだな」
「え⁉」
まだ種明かしをされていないジェシカは、女性だと思っているクリスが低い声を出したことに驚く。ジェシカがどういうことなのかエリオットに聞こうとするが、今度はエリオットがそれを制するように動いた。
エリオットは驚いているジェシカの目の前に移動して、真剣な表情で真っ直ぐに目を見て言う。
「ジェシカ、私も愛しています。この国で、この世界で誰よりも。だから、私と結婚してください」
「!――はい!」
エリオットからの返事を聞いて、ジェシカが花が咲いたような華やかな笑顔を浮かべ、涙を流しながらエリオットに勢いよく抱きついた。
エリオットも涙を流しながらジェシカのことを優しく抱き止め、強く愛情を込めて抱きしめ返す。
二人は愛をもって抱きしめ合い、互いの想いと心を繋げ合う。
頼りになる友と可愛い妹が結ばれた光景に、私の頬に自然と涙が流れ落ちていく。
暫くして落ち着いた二人と一緒に椅子に座り、改めて話し合いという名のお茶会を始めた。
エリオットとジェシカは椅子を隣同士に並べていちゃいちゃし、私たちはそれを温かい目で見守りながら祝福し、皆で楽しく談笑を始める。
最初の話題はジェシカが気になっているだろうクリスについて。私たちから説明してもいいのだが、本人がいるのだからとクリスに種明かしをしてもらう。
「改めまして、僕はクリス・ライル。ライル男爵家の長男で次期男爵、領地には奥さんと二人の子供たちがいるよ」
クリスからの種明かしを聞いて、ジェシカは不思議そうにクリスの顔を見て、「男の娘だったの?」やら「妻子持ちってことはヒロインじゃない?」と呟いた。
私とエリオット、サラはクリスの特殊な趣味をなにも思わず受け入れたが、ジェシカはどうだろうか?
大丈夫だろうかと心配していたが、私の妹にそんな心配など不要だった。
「お兄様やエリオットさん共々、今後ともよろしくお願いします」
ジェシカは笑みを浮かべてクリスにそう言って、右手を差し出す。
「こちらこそ、今後とも親友たち共々よろしく」
クリスは差し出された右手を握り返し、嬉しそうに微笑んだ。
ジェシカが呟いた「おとこのこ」の意味は分かるが、私の知っている意味ではないのだろう。
それに、「ヒロイン」というのは妻子持ちでは無理だったようだ。
◇ ◇ ◇ ◇
ジェシカが心の底から愛の言葉を告げ、エリオットも心の底からの愛の言葉で返し、二人が無事に結ばれてから二年が経った。
私とエリオットは二十二歳、サラは十八歳、ジェシカは十六歳になった。
サラは半年前に学院を卒業し、今は私と一緒に王都からロンベルク辺境伯領に移り住み、私の両親とともに日々仲良く過ごしている。
私も父の補佐をして領主の仕事を学び、次期領主として日々経験を積んでいる最中だ。
あの話し合いという名のお茶会が終わってすぐ、ジェシカとエリオットはお義父さんたちと私たちの両親に話を通し、両家の両親から認められて婚約が成立。
婚約が成立してからの二人だが、人目を気にせずいちゃいちゃするようになったこと以外、私たちと同じくこれまでの生活に変化はなかった。
平日はそれぞれの場所で日々を過ごし、休日は二人で出掛けたり一日まったり過ごしたりと、二人で会える日を目一杯楽しんでいたようだ。
そんな幸せな日々を送っていたジェシカだが、あの呟きはずっと続いていた。
「ざまぁ」、「断罪」、「悪役令嬢」、そして「ヒロイン」。
エリオットやサラから聞いていたが、ジェシカが時々なにかというか、「誰か」を探しているように感じていたそうだ。
それから、その「誰か」が見つからないことにほっとしているようにも、残念がっているようにも見えたとも。
だが結婚の準備を一年前から始めて順調に進んでいくと、呟きの回数が徐々に減っていき、「誰か」を探すような感じがなくなっていく。
そして、一年の時が過ぎて結婚の準備が全て終わる頃、ジェシカから「誰か」を探すような感じは完全にしなくなる。
私たちにはそれがいいことなのか悪いことなのか分からなかったが、ジェシカから感じていた漠然とした不安のようなものが消えたことから、いいことだったのだと思うことにした。
なにかに区切りをつけたジェシカは、以前にも増してエリオットといちゃいちゃするようになり、結婚式の日が近づくごとに嬉しさでそわそわしている。
一日、また一日と日付が進んでいき、遂にその日が来た。
「ジェシカ、エリオット、結婚おめでとう」
「お兄様、ジェシカ、結婚おめでとう」
私とサラがそう言うと、ジェシカとエリオットは笑顔を浮かべて答える。
「ありがとう。ラインハルト、サラ」
「ありがとうございます。お兄様、サラお義姉さま」
今日はジェシカとエリオットの結婚式。空は雲一つない快晴で、二人の新たな門出を祝っているようだ。
式場には私たちの両親とお義父さんたち、クリスとそのご家族、軍人時代の上官や同僚たちなど、ジェシカとエリオットに関わりのある人たちが祝福するために集まっている。
色々な人たちに祝福され、幸せそうに満面の笑みを浮かべるジェシカを見て、控室でのことを思い出す。
私とサラは式場に到着してすぐに、それぞれ兄妹が準備している控室に向かった。
ジェシカの控室の扉をノックして声をかけると、元気な声で「どうぞ」と返ってくる。
控室の扉を開けて中に入ると、椅子に座ったジェシカが静かに窓の外を見ていた。
「ジェシカ、体調はどうだい?」
私がそう問いかけると、ジェシカが視線をこちらに向けてにっこりと微笑んだ。
「今すぐ踊り出したいくらいには元気よ。お兄様」
「それはよかった。……小さかったジェシカも、ついに結婚か」
「お兄様、こっちに来て」
ジェシカがそう言って椅子から立ち上がると、両手を広げて私のことを真っ直ぐに見つめる。
私はゆっくりとジェシカに近づくと、両手を広げてジェシカのことを優しく抱きしめた。
ジェシカは嬉しそうに笑みを浮かべ、広げた両手で私のことを抱きしめ返す。
「離れた所に住んでいようとも、いつだって私とお兄様は家族の絆で繋がっています。私はこれから先もお兄様の妹ですし、お兄様はこれから先も私の頼りになるお兄様ですよ」
ジェシカの言葉が私の心に染みていく。
結婚して傍にいなくなったとしても、私とジェシカの家族としての繋がりは消えはしない。
遠く離れていても、私たちはいつまでも兄妹だ。
私はジェシカの頭を優しく撫で、微笑みながら気持ちを伝える。
「寂しくなってしまって、ついな。ジェシカの言う通り、離れていても私たちは家族の絆で繋がっているし、これからも私の可愛い妹だ。……エリオットといついつまでも元気でいてくれ」
ジェシカは私の言葉に嬉しそうに微笑み、心からの感謝の言葉を伝えてくれる。
「いつも見守ってくれていて、本当にありがとう。大好きよ、お兄様」
「私の妹として生まれてきてくれてありがとう。大好きだよ、ジェシカ」
私たちは無言で強く抱きしめ合い、そっと離れて互いに笑顔を浮かべた。
そして、ジェシカの顔を真っ直ぐに見て、私は心からの願いを告げる。
「エリオットと幸せにな」
「お兄様たちに負けないくらい、エリオットさんと幸せになります」
「じゃあ、私は式場で素敵な新郎新婦を待っているよ。また、あとでな」
「はい。またあとで」
私はジェシカに背を向けて歩きだし、控室の扉を開けて退室しようとする。
その時、ジェシカの「この世界には、誰かがつけた『タイトル』はなかったのね」という呟きが聞こえてきた。
聞えてきた呟きは今までの呟きとはどこか違って、なにかを悟ったような呟きだった。
その悟ったような呟きを聞いた時、これがジェシカの最後の呟きになるのかもしれないと、不思議とそう思えたのだ。
私はジェシカの方に振り返らず、意味を問うこともせずに、控室から静かに退室した。
小さい頃から可愛くて頭が良く、私たち家族を幸せにしてくれたジェシカ。
魔術師としても淑女としても立派に成長し、その努力でエリオットの心を見事に射止めてみせた。
エリオットの隣に立ち、幸せそうに笑みを浮かべているジェシカを見て、色々な思い出がよみがえってくる。
どれもこれも大切な思い出で、懐かしさに頬が緩んで目尻に涙が浮ぶ。
「ラインハルトさん、大丈夫?」
笑いながら泣いている私を見て、心配したサラが声をかけてくれる。
「大丈夫。色々と思い出して、懐かしくて涙が出てしまっただけだよ」
私の言葉にサラも思う所があったのか、黙って私の右腕に抱きつき慰めてくれる。
そんなサラの腰を優しさ抱いて体をさらに引き寄せ、「ありがとう」と感謝を伝えた。
十年以上もの間ジェシカとともに生きてきたが、ジェシカの呟いていた言葉の数々がなにを意味していたのか、今も分からないままだ。
ジェシカが学院に入学した頃、母に一度だけ呟きの意味を聞いてみたことがある。
母は自分も呟きの意味は全く分からないと答えつつも、「誰にでも暴かれたくない秘密の一つや二つあるものよ」と言い、優しく微笑んだ。
私はそれ以来、呟きの意味が気になってもジェシカに聞くことはせず、今日まで過ごしてきた。
今でもそれでよかったと思っているし、これからもそうしていくと決めている。
暴かれたくない秘密を知られて悲しい顔をするよりも、幸せで笑ってくれている方が好きだ。
だから、エリオットといついつまでも元気で、幸せに笑い合っていてくれ。
私はエリオットとジェシカの幸せな笑顔を目に焼き付け、二人のこれからに幸あれと心から願った。
◇ ◇ ◇ ◇
ジェシカとエリオットの結婚式から六年。
ラインハルトとサラの二人の子供と、ジェシカとエリオットの二人の子供が、レガート公爵邸の庭園を走り回って遊んでいる。
二組の兄妹は仲の良い兄妹で、子供たち同士も仲が良く四人の兄妹に見えるほどだ。
ラインハルトたちは四人の子供たちを優しい目で見守りつつ、昔の自分たちを見ているようで懐かい気持ちになるなと笑い合う。
ジェシカは自分の短くも濃い人生を振り返る。
乙女ゲーム世界に転生したと思い、自分や身近な人がざまぁされないようにと行動し、シナリオや結末を変えようとしていた。
今となっては勘違いだと笑える話なのだが、当時の自分にとっては命がかかっていると真剣だったのだ。
努力の甲斐があって知識と力を得たものの、常に気を張って生きていて余裕がなかった。
愛しい二人の子供たちには、そんな余裕のない毎日を送ってほしくはない。
世界に定められたシナリオも、運命に縛られているヒロインや悪役など関係なく、肩の力を抜いて気楽に生きていってほしいと願う。
庭園を走り回っている四人の子供たちの笑顔を見て、ジェシカは優しく微笑む。
自分は皆に支えられて、愛されて生きてきた。だから自分も、夫とともに子供たちのことを支え、心から愛していく。
この『タイトル』がない世界で、ジェシカという一人の人間として、皆と一緒に精一杯生きていくのだ。
この世界に『タイトル』はありません Greis @Greis
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