第3話
悟くんの仕事が休みの日に、隣の部屋に招待される。一人ではなく、夫婦で来てほしい、と。
「ラムとマトンの違いは、乳歯が生え替わっているかいないか、らしいすね」
以前は隆文くんを家に上がらせていたが、えまがいなくなってしまってからはわたしがこちらの家を訪れていた。悟くんのご実家の部屋が、お世辞にも片付いていなかったので、わたしの『男の子の部屋』のイメージは小汚い寄りだったのだけど、隆文くんの家はモデルルームのように整理整頓されている。
とはいえ、目に見える範囲がそうであるだけで、生活感がある部分は来客に見えないようにしているのかもしれない。隆文くんはこの、本来ならば三人以上の家族が暮らすような広さの家に一人で暮らしている。
「ヒツジ料理か?」
「惜しい! よりなじみのある肉すよ」
「なら、なんでラムとマトンの話をしたんだ……」
「
どこで学んだのだかわからない料理の雑学を悟くんに披露しながら、隆文くんは料理を作ってくれている。何ができるんだろう。手料理をいただいたことはないから、楽しみだ。
「香春くん、ご家族は?」
わたしが隆文くんと出会った頃ぐらいにした質問だ。ファミリータイプのマンションの一室で、大学生が一人暮らししている、というのが異様に見えるのは、わかる。こんなに広さはいらない。
「マンションがオレの親戚の持ち物なので、大学に通っているあいだ、っていう条件でこの部屋を貸してもらっているんすよ。だから、地元で元気に暮らしてます」
「ご家族で引っ越してこようとは」
「母方のほうがちょっと、いろいろあって、離れられないんすよね」
「そういう事情か……」
込み入った家庭の事情に踏み込むのは、よろしくない。悟くんはそれ以上の追及をやめて「それで、息子には自由にやらせていると」とひとりごちた。
わたしと隆文くんの関係は、悟くんにはバレていない。わたしも隆文くんも『えまちゃんのベビーシッターを頼んでいた/頼まれていた』で押し通している。悟くんはそれで納得してくれた(ように見えた)。えまちゃんがいなくなってからは、悟くん視点では『仲のいいお隣さん』になっている。
そう見えるように行動しているから。
「教育学部と聞いているが、ちゃんと大学には通っているのか?」
「お父さんみたいなこと言ってくるんすね。ウケる」
「悪かったな」
「大丈夫すよ。こう見えて優秀なんで」
このように、悟くんと隆文くんは冗談を言い合えるような仲だ。不倫相手疑惑からの立て直しの成果だ。悟くんはゴルフが(仕事の付き合いでやっているうちにハマってしまった)趣味だけど、この前、ふたりでゴルフ場に行っていた。誘われはしたが、わたしは断っている。
なぜなら、わたしのおなかには、
「優秀なんで、できちゃいました」
「わあ」
あかちゃんがいるから。
「早いな。……ちゃんと火が通っているんだろうな?」
何も知らない悟くんが、自分の前に置かれた皿を凝視する。真ん中に鎮座する肉の塊に、ナイフを入れた。わたしも同じように切り分ける。ハンバーグかな。
「よく焼き派すか? 気になるんなら、もうちょい焼くんすけど。このぐらいの焼き加減が食べやすいかなと」
「んまあ、シェフのおすすめなら……」
一口大にカットして、フォークで突き刺す。ソースをつけて、口に運んだ。
「うん!」
「!」
牛肉とは違う。羊肉でもない。豚肉のジューシーさや、鶏肉のあっさり感も的外れ。いったい、何の肉だろう。
「人間の味覚に合うように味付けしたんすけど、うまくいった?」
「うん、美味しいな」
「初めて食べる味。あっ、まずいってわけじゃなくてね」
「そうすか。気に入ってもらえたなら、えまちゃんは浮かばれる。わざわざ五人に手伝ってもらって、一芝居を打ったかいがあるってもんすよ」
えまちゃん。
えまちゃんがあんなことにならずに成長していたら、こうやっていっしょにごはんを食べることだってできた。まだミルクしか飲めないような子を連れ去って、犯人は何がしたいのか。
そして、えまちゃんは、今どこにいるんだろう。
「オレは『人肉の味』の話題があるたびに考えるんすよ。どうして人間の味覚を基準に考えてしまうんだろうって。だって、人間がドッグフードを食べても、犬と同じように“美味しい”とは思わないじゃないすか。まあ、犬も美味しくて食べているんじゃないかもしれないすけどね」
サトゥルヌスの実験台 秋乃晃 @EM_Akino
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