第2話

 好きなものは『甘いもの』と聞いている。和菓子ならつぶあんでもこしあんでも、特にこだわりはなくて、洋菓子もクリーム系から焼き菓子までなんでも。

「なんでもって、いちばん困っちゃうな」

 そう言うと、隆文くんは「今は駅前に新しくできたケーキ屋が気になってるんすよね」と付け加えてくれた。

 改札を出たタイミングでこのやりとりを思い出したわたしは、駅前のケーキ屋に寄る。わたしの好きなチョコレートケーキと、定番のイチゴのショートケーキに、店員さんがおすすめしてくれた季節限定のカボチャのモンブラン。

 これは隆文くんへの“今日のお給料”のようなものだ。いつもはで子守りしてもらっているけれど、今日はいつもよりも長時間だ。ゆっくり羽根を伸ばせて、昔の友だちにも会えたんだから、感謝の気持ちは伝えないとね。

「ほかにご注文は?」

「この3つで」

 悟くんはチーズケーキが好きだ。特に、レアチーズケーキが好き。ベイクドチーズケーキやチーズスフレではない。大学の近所にあったカフェのメニューにレアチーズケーキがあって、そのカフェに行ったときはいつも注文していたっけ。わたしも一度食べたけれど、レモン風味でさっぱりしていて美味しかったな。

 このケーキ屋さんには、レアチーズケーキがないみたい。

 あっても、買うかな。

「お持ち帰り時間、どのぐらいですか?」

「えーっと、三十分ぐらいなので、保冷剤はいりません」

 お会計を済ませて、家路につく。なんだかひと雨来そうな空模様だった。さっきまでは晴れていたのに、雲が増えてきている。夕陽を隠してしまった。スーパーにも寄りたかったけれども、降り出す前に帰ったほうがよさそうね、これは。

「……ん?」

 時間を確認しようとして取り出した携帯電話に、悟くんからの着信履歴があった。ちょうど電車に乗っていたぐらいの時間にかかってきている。仕事帰りにしては早い。

「ま、いいか」

 今ここで折り返すより、帰ってからのほうがいい。わたしは携帯電話をカバンにしまって、やや早足で歩く。かかとの部分が痛いのは、お出かけ用に新しく買ったこの靴に履き慣れていないから。えまちゃんを抱っこしていて転んだら大変だし、いつもはぺったんこのスニーカーを履いている。

「んん?」

 我が家のあるマンション。の前に、パトカーが止まっていた。この辺ではあまり見かけない。交番も警察署も、少し離れた場所にある。あまり見かけないから、周りの人も「あれっ?」という顔をしていた。


 まさか、警察が出入りしているのが自分の家とは思わない。


「どこに行っていたんだ!」

 悟くんの怒声が『おかえり』になった。家の中は、まるで動物が暴れ回ったかのようにあちこちがひっくり返されていて、

「かなえさん……」

 怯えきった表情の隆文くんが正座している。

 ――まさか、隆文くんが一人でやったわけではないだろう。

「いったい、何があったの?」

「質問に答えてくれ! なんで!?」

 わたしは隆文くんに聞いているのに、悟くんが正面からさえぎる。悟くんの両手が、指が、わたしの肩に食い込んだ。

「何よ! わたしにえまを押しつけて! 連れて行かなかったって、わたしは一人で出かけちゃいけないって言うの!?」

「それで、コイツにえまを?」

 隆文くんをコイツ呼ばわり。……カチンときた。

「仕事仕事であなたが子育てから逃げるから、隆文くんに手伝ってもらっていたのよ!」

の知らないあいだに、コイツを家に上がらせてたってことか!?」

 主人ですって。家にいる時間よりも職場にいる時間のほうが長いくせに、よく言うわよ。

「ええ、そうよ! あなたよりも、ずっと頼りになるんだから! あなたなんて、えまに『かわいい』って言うだけで、何もしてくれていないじゃない!」

 そうだ。

 えま。

 えまはにいるの?

「ああ」

 悟くんが、わたしの肩から手を離した。目をそらす。

「えまがさらわれた。……そうだよな、香春かわらくん」

 さらわれた。

 ウソでしょ。

「インターホンが鳴って、便だっていうから、受け取っておこうと思って。ドアを開けたら、五人、覆面のヤツらが押し入ってきて。オレはえまちゃんを守ろうとしたんすよ! そしたら、後ろから頭を殴られて、そこのクローゼットに押し込められて。ようやく脱出できたと思ったら、こう、なっていて」


 *


 ……。

 ……。


 その後の記憶がすっ飛んで、一週間経つ。この一週間、何をしていたか、思い出せない。えまを探していた。それだけ。

 マンションの防犯カメラには『五人の強盗犯が我が家に押し入り、えまを連れ去る』様子が映っていた。預金通帳やキャッシュカードもなくなっている。

 この際、金はいくらなくなってもいい。えまが帰ってきてくれさえすれば、それで。

「……えまちゃん」

 わたしは、えまを『どうして産んでしまったのだろう』とまで思っていた。えまがいるせいで、いちばん愛していた悟くんから愛してもらえなくなったから。時々『えまなんていなくなってしまえ』と、存在を呪うことだって、あった。

 けれども、こうして、本当にいなくなるなんて。

「かなえさん」

「……」

「オレは、」

「違う! 隆文くんは悪くないわ」

 もしわたしがいたとしても、五人を相手にしたら、えまを守れない。たまたま、そこに隆文くんがいて、巻き込まれてしまった。謝らないといけないのは、こちらのほう。

「わたしが来る前、悟くんからは何を言われていたの?」

 裏面がべろりとめくれたカーペットに正座していた。悟くんと隆文くんとだと、隆文くんのほうが背が高くて、正座してちょうど目線が合うぐらい。

だと」

 わたしは、悟くんの妻であり、悟くんをいちばん愛していて、

「実際どうすか? オレって」

「どう、って?」

「オレは、旦那さんからはそう見えるらしいすよ。でも、実際、かなえさんはオレのことをどう思っているんすかね?」

 隣の部屋に住む大学生の男の子。わたしが困っているときに、呼べば、すぐに駆けつけてくれる。整った顔立ちと、高い身長で、その見てくれの良さは誰も(悟くんも)否定しない。教師という将来の夢を持ち、教育学部に通っている。

「どう……」

「オレは『不倫相手』になってもいいよ」

「……」


 困った。

 好きになってしまったかもしれない。


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