サトゥルヌスの実験台

秋乃晃

第1話

「たのしかった!」

「そんな大声で言うことかあ?」

「えー……ふたりはたのしくなかったの?」

 ふたりは顔を見合わせて、ふふっと笑った。現役JKだった頃と、ぜんぜん変わっていない。仲良し三人組。わたしもつられて笑っちゃう。

「あはは」

 今日は、最高に楽しい一日だった。できることならば、待ち合わせのあの瞬間に時間を巻き戻して、今日をやり直したいぐらいに。

「たのしかったよ。また三人で遊ぼうね」

 待ち合わせ場所に向かっている間は、ずっと、当時のテンションを思い出そうと必死になっていた。電車の中、斜向はすむかいに座っている三人組の女子高生を見たり、メールを読み返したり。でも、ふたりの顔を見たら、そんなのは杞憂で、もう一瞬で“あの頃”のわたしたちに戻れた。見た目も洋服も持ち物もお化粧も、十七歳のそれらとは全く違うけれど、気持ちだけは、同じだったと思う。

「またメールする!」

 思い切ってふたりを誘ってよかった。背中を押してくれた隆文たかふみくんには、感謝している。おかげですっかりリフレッシュできた。

 できれば、近いうちに、

「早く帰ってあげないと。が『ママ、どこー?』って、泣いているんじゃない?」

 ……。

 あーあ。昔みたいに、楽しかったのに。今に戻されちゃった。

「そう、かも」

 えまちゃん。わたしのかわいい娘。……そう、かわいい娘なの。かわいい。そう、かわいい娘なのだ。わたしは常日頃から『えまはかわいい』のだと、自分自身に

「そうよそうよ。赤ちゃんにとっては、ママがいっちばん大事なんだから」

 どうやら、そうらしい。一般的には、そう言われている。空腹だったり、おむつが濡れて不快だったりするわけでもないのに、泣きわめく生き物だ。旦那パパよりも、わたしママ。パパが近付くとえまの泣き声はさらに激しくなる。

 パパはのわたしよりもえまをかわいがっているのにね。

「大丈夫よ。優秀な子守りがいるから」

 というか、えまが生まれてから、わたしには『かわいい』と言ってくれなくなった。

 わたしはえまのであり、いちばんのお世話役であって、かわいいえまちゃんを一生かけて育てていくだけの存在。は、家族を――ひいては、子どもを育てていくために、身を粉にして働く。

 恋人から夫婦にランクアップしたはずなのに、この扱いは何?

 むしろランクダウンじゃない?

「例の彼?」

「そうそう!」

 わたし見てほしい。

 わたしは悟くんを愛している。それは、彼女と彼氏だったときと変わらない。変わらずに、ずっと愛している。けれども、悟くんの愛はすべてえまちゃんに注がれていて、このわたしのことなんて気にかけていない。初めてデートした日もプロポーズされた日も結婚記念日も忘れられていた。明日がわたしの誕生日ってことも、忘れているんだろうな。日付が変わった瞬間に、メールしてきてくれていたのに。

 全部保存している。

隆文たかふみくん、だっけ?」

「そう!」

 香春かわら隆文くん。わたしたちの住んでいる部屋の、隣の部屋に住んでいる大学生の男の子。

「すごいイケメンだと聞いておりますが、写真はないの?」

「それがね、撮らせてくれないのよ」

「へえー?」

「でも、隠し撮りしたのがあります」

「わっるぅー!」

「へへへ」

 本人にはナイショ。写真としては最悪だけど、素材がよすぎるのでぜんぜん見られる。

「「えー!」」

 ふたりが黄色い悲鳴を上げた。コレが隣の部屋に住んでいて、旦那よりも育児に参加してくれている。ちょっと買い物に行きたいときや、ひとりになりたいとき。電話一本で駆けつけてきてくれる。なんせ隣なので。……教育学部らしいけれど、暇か?

 えまを連れて出かけることもあるけれど、出かける前の準備の段階で疲れてしまう。一人で行くのだったら、おむつとかおしりふきとかは持って行かなくていいのだし。お出かけセットとかいう余計な荷物のせいで運べる荷物の量が減ってしまう。本当に必要なものだけを選んで買わないといけない。

 えまはまだ歩けないから、だっこしていないといけないし。ベビーカーはベビーカーで、狭い道は通れなかったり階段の上り下りができなかったりで移動が制限される。一人で行けば、苦労しない。


 そして。


 これは何よりもわたしにとって大事なことなのだが、隆文くんはわたしに『かわいい』と言ってくれるのだ。

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