my last will
五倍子染
第1回 逃げ帰る①
揺れる電車の座り心地とくれば、最悪に他ならない。
私は黒ずんだり色褪せたりして年齢を示すボックスシートを、1人で占めて座っていた。
窓辺に肘を乗せようとしたが、死んだ羽虫や謎の黄ばみの広がるそれを見て、すぐにそんな気も失せ腕を引っ込める。
ならばと両足を前の席に載せようと靴を脱ぎかけるが、何かの食べカスがあるのを目にした瞬間に、またしても望みは突っぱねられた。
仕方なく靴に踵を戻して、途方に暮れたままの両の手を膝の上に置き、ごにょごにょと指を弄らせ合う。
することもしたいことも何もなく、仕方なく、窓の外のつまらない景色を見やる。
…山であった。
西日の差した山、山、そしてその合間に広がる田畑。それだけ。
山陰地方の山あいを走る電車の車窓など、常に見栄えのしない山また山の連続である。
ビルまたビルのネオンから逃げ出して来た私からすれば、夕方のその暗さに不安すらも覚えるほど。
かつてはあれほど、見慣れていたはずの景色だと言うのに。
昔こそつまらないと思っていたが、不安になることなどはなかった。むしろ安心感すら感じていた。そのはずだったのに。
私は今朝からずっと、ただ新幹線やら在来線を東から乗り継いで乗り継いで、ギラギラした街の喧騒から延々と逃げ続けていた。
のぞみが東京を出たのが昼の11時かそこらだった。
京都まで来て、そこから嵯峨野線…山陰線をひたすらに乗って乗り続けた。
そうして幾度か列車を乗り換え、今や列車ではなく単車に乗って揺られている。
今残すところはあと二駅となっていた。
少年時代を過ごした、その町がある駅まで。
携帯などはもう開く気にさえならなかった。
電話にも出たくなければ、通知も見たくない。
それにたとえ私に開こうという意志があったとしても、こんな山奥では電波も圏外だったろうとは思うが。
とにかく私は、私に干渉しようとするものすべてから逃げていた。
溜まりに溜まった苦しさが溢れる寸前だった。
仕事、人付き合い、生活、趣味さえも何もかも、上手く行かなくなってしまっていた。
明確なきっかけはなかった。しかし、積もっていく小さな出来事はいくつもあった。
そしてある時ふと、自らの内に蓄積されたモノに気付いた。
生活が出来なくなっていた。
溜め込んだストレスを起因として、満足に眠れなければ食べられるものも食べられない。
だから眠るため薬を飲み、食べる代わりに錠剤を飲む。
けれどそのせいで仕事も人付き合いも、ままならなくなっていく。
そのストレスから余計に眠れず、食べられず…
そうして負の連鎖を引き起こし、気付いた時には私が私でなくなっていた。
私には一つだけ、望みがあった。
それは、自らが望んだ理想の死に方で、最期を迎えること。つまりは、理想の自殺。
何年もかけ思い描き、何年も何年も思い抱き続けた手段によって、幸せな死を遂げることを欲していた。
今まで何も選べなかった、何も自分で成せなかった私にとって、唯一選ぶ事ができる…成すことの出来るモノ。
しかしこのままでは、望む死に方も出来ずに死んでしまう。
ただひとつのアイデンティティを、奪われてしまう。
そう、直感的に感じ取った。
きっとあのままでいたならば、望まぬ死に方でとうに逝っていただろう。
それに私は恐怖を覚えた。
自覚のないままに、自身を失っていたことへの恐怖。
最期の望みも叶わぬまま死ぬかもしれないことへの恐怖。
逃げ出すには十分すぎる理由だった。
『ーーまもなく知田原、知田原です。』
自動音声のアナウンスが、私を現実へと引き戻す。
嫌というほど聞き慣れた地名。
速度を落とし始めた車窓を見れば、どこか寂しくもやはり懐かしい、そんな故郷の町が拡がっていた。
今にも山に隠れてしまいそうな西日が、なんとか町を橙に染めている。
それは高校時代、部活を辞めてからの2年間に延々と見続けたのとまったく同じ景色だった。
都会とは違って、田舎は何もかもが変化に乏しい。
それは喜ばしいことなのか、そうでないのか。
少なくとも今の私にとっては前者らしい。
その変化の無さは、私に少しの安堵を与えていた。
ああ、そうか。
私はここに、帰って来たんだ。
古びたホームに電車が入って行き、ゆるゆると速度を緩め、やがて止まる。
『知田原、知田原です。運転席後ろのドアのみ開きます。』
私は傍に置いていた鞄を取って立ち上がり、数人の乗客の後ろにつけて車両の前方まで進んだ。
運転手に切符を手渡して、私はいく年ぶりかのホームへと足を踏み下ろした。
『ご利用ありがとうございました。知田原、知田原です。』
ようやく辿り着いた。
ようやく帰り着いた。
私の死に場所へ。
my last will 五倍子染 @yuno_nagare
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