梅雨と図書室と先生と

翠雨

梅雨と図書室と先生と

高校二年生の6月、夏の風物詩とも言える梅雨の日の放課後のこと。僕はその日に起こったことを、今でも忘れられずにいる。


 その日は図書委員の仕事があって、放課後僕は図書室で仕事をしていた。仕事と言ってもわざわざ放課後に本を借りに来る生徒はなかなかいない、更に梅雨で雨が降っている季節ということもあって、僕の仕事などないようなものだった。だから、誰もいない静かな図書室で一人で本を読みふけっていた。

 「ねぇ、知ってる?雨って神様の涙らしいよ」

 急に声がして驚いたが、声の方向に目を向けると、いつからそこにいたのだろうか。その人は雨の降っている外を見ながら僕にそう言った。

 確か、今年から新しく司書教諭になった悠凪汐先生だ。まだ20代前半の若い先生で、よく生徒の相談に乗っているらしく、多くの生徒から慕われていることは知っていたが、実際に目の当たりにして、合点がいった。たしかに、物腰柔らかで、年齢はそう離れていないにもかかわらず、10代の僕たちにはないような落ち着きがある。そんな人がどうして僕に話しかけたのかは謎だが、それよりもさっきの言葉が気になったので僕は質問した。

 「神様の涙、ですか?」

 「うん。雨は神様の涙。悲しみの涙だとか喜びの涙だとかは関係ない、神様が泣けば泣くほど、世界は潤った。だからこれは神様が私達のために泣いてくれたんじゃないかていう説」

 「へぇ、面白いですねその説。それ唱えた人だれですか?」

 「え、私だけど」

あんたなのかよ

そんな反応をしている僕なんて気にせずに先生は話し続ける。

「でもそう考えたら人間って勝手だよね。神様が泣けば泣くほど、世界が潤ってくことを知った人間は時に神様を喜ばせて小雨を降らせたり、悲しませて連雨を降らせたり、ときに神様を怒らせて大雨を降らせたり、いじめて陰雨を降らせたり、神様のいろんな涙が様々な雨になって降ってくる。それってほんとに自分勝手だよね」

 淡々と雨を見ながら話す先生の姿に、僕は思わず見入ってしまった。きれいに手入れされているストレートの黒髪、華奢な指先。クラスのギャルがつけている匂いの強い香水とはまた違う、ほんのり香る優しい香水の匂い。清潔感のある楚々とした、だけど触れたら消えてしまいそうな儚い女性だ。綺麗だと思った。誰もが振り向く美人というわけではないけれど、それでもその一瞬で僕は、今まで人生で見てきた誰よりも何よりも、彼女に惹きつけられてしまった。

 「どうしたのぼーっとして、熱?」

 「……あ、すみません。考え事をしてました」

 我を忘れて見惚れてしまっていたことに気付いて、僕は目を逸らす。

 先生は一瞬ポカンとしたあとクスクス笑う。鈴を転がすような可愛らしい笑い声で、それにも心臓が大きく高鳴ってしまうのを感じた。僕は恥ずかしくなって、熱くなってきた頬を隠すようにそっぽを向いて、誤魔化すように返す。

 「もしそれがほんとなんだとしたら雨を降らせてる大人たちはみんな自分のことを救世主かなんかだと思ってそうですね。この世界をこんなに良くしたのは自分たちだ。あらゆる生命を自分たちは救ったのだって」

 「そうだね〜、人間は本来身勝手な物だからね。」

 でもと言いながら先生は続ける。

 「そこが人間の面白さや良さだよ少年」

 「子供扱いしないでください。それに僕は少年じゃないです。ちゃんと時枝澄空って言う名前がありますから」

 むっとしながら言い返す。

 「時枝澄空くんか。うん、覚えた!」 

 雨が止んだあとの晴れのような眩しい笑顔で先生はそういった。

 その時ちょうど下校時間を知らせるチャイムが鳴った。

 「もうこんな時間かー。」

 そんなことを言いながら先生は帰ろうとする。それを見て気づけば僕は先生を呼び止めていた。

「雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ」

 言ったあと自分の言ったことの意味を理解して恥ずかしくなった。そんなまともに顔も見れない僕のことを見ながら、先生は困ったような笑い方で言った。

 「また、雨が降ったらね」

 そう言いながら先生はドアを開けて帰っていった。 拒否される前提で言ったことだったから、僕は呆気にとられた。毎日、来てもいいのか。……会いに行っても、いいのだろうか。


 本当に行っていいものか悩んだものの、あれから何をしていても彼女のことが頭から離れず、結局それから僕は委員会がなくても図書室に足を運ぶようになった。

 「ちょっと図書室行ってくる」

「またかよ、今度は何?」

「入試の赤本取りに行ってくる」

「そーかよ、行って来い」

 一緒に変える予定だった友達に報告を頼んで、僕は教室を後にする。僕が突然委員会のない日にも図書室に通うようになったことに対して、多少なりとも疑問はあるだろうに、彼は何も訊かずに送り出してくれる。彼なりの優しさなのだろう。そして僕は彼の優しさに甘えて、今日も図書室に向かう。

 ノックをして、「失礼します」と言いながら扉を開けた。いつも開けると図書室の少し古ぼけた匂いがする。そして、奥にある机に向かうともう見慣れた白い白衣と微かに花のような甘い香りが混じっている。

「澄空くん、今日はどうしたの」

「今日は入試の赤本を探しに来たという設定です」

「設定、ねぇ」

 諦めたように先生は息を吐いた。

「委員会もないのによく来るねー君は」

「図書室好きなので」

「そっか〜」

 そう呆れ笑いする先生は、そう言いながらも僕を追い出したりはしない。椅子の上で読書する僕の側で書類仕事をしている。そんな空間が心地好くて、忙しない学校生活の中のささやかな癒しになっていた。

 そうやって合間を縫って図書室に通ううちに、僕は先生のことを色々知ることになった。

司書教諭の仕事は、図書室の管理人だけではないということ。生徒の悩みを聞いたり、学校の生徒に向ける図書新聞も作成に関する仕事もしたりしていること。生徒の相談を聞く先生の、真剣な横顔。委員会もないのにわざわざここに来る僕に対しても、嫌な顔一つせず迎え入れてくれる先生の優しさ。雨の日の図書室の静けさ。

 それでも僕は、彼女のことを何も知らない。正確な年齢も、どこに住んでいるのかも、恋人の有無も、好きな食べ物さえも。どうしようもなく、僕と彼女は、生徒と教師だった。

 そんなある日、僕は少しふらつきながら図書室に向かっていた。定期試験前の勉強で寝不足気味だったからか、あるいは疲労が溜まっていたのか、分からなかったけれど、とにかく静かなところで休みたかった。

「どうしたの、珍しく具合悪そうだけど」

 少し驚いたような顔の先生に、いつものように軽口を叩く余裕もなく僕は答える。

「少し頭が痛くて」

「熱でもあるんじゃない?」

「大丈夫ですよ」

「本当に? ちゃんと計った?」

 先生の手が、額に触れた。そのことに僕は一瞬気付かなかった。

 額に触れている少し冷たい感触が、あの華奢な指先だとわかったとき、僕は一気に顔が熱くなるのを感じた。

「……っ、大丈夫ですから、ほんとに」

 先生の手が触れた額が、熱かった。心臓がはち切れそうな程脈打つ。胸が痛くて、呼吸が上手く出来なくて、堪えられないほどの熱情が溢れそうになる。

「とりあえず、保健室行こ?ね?」

「……いえ、ほんとに大丈夫なので。今日は帰ります」

 先生の方を見られなくて、俯いたまま「さようなら」と言い残して、僕は早足でその場を離れた。

「え、待って、澄空くん、ねえ、澄空くんってば!」

 先生が焦ったように珍しく大きな声で僕を呼び止める声が聞こえる。でも僕は立ち止まらなかった。立ち止まってしまえば、口を滑らせて、決して言ってはいけないことを言ってしまいそうな気がした。


 先生、僕は、先生のことが。


 ――僕は、先生のことを、どう思っているのだろう?


彼女のことを、きれいだと思う、この気持ちはただの憧れであって、恋ではない。恋であってはならない。卒業するまでに出来るだけ長く側に居たい、ただそれだけでいい。ずっと、そう思ってきたはずだった。

 それなのに、あの瞬間、自分の本当の感情を知ってしまった。こんな気持になったのは初めてで、もう一度あの人に触れてほしい、と願ってしまったことが、先生が僕にとって特別な人なのだと、はっきりと証明してしまった。


どれだけ自分で否定しても、気持ちに嘘はつけない。


 だめなのに、家に帰ってからも、あのひんやりした柔らかな感触が消えなくて、掻き消すように僕は勢いよくベッドに倒れこむ。頭の中がぐしゃぐしゃになって、息が苦しくて仕方がない。


僕は、先生に恋をしている。してしまっている。


次の日から、委員会以外で図書室に通うのをやめた。

 そうして、何もかも忘れるように勉強に集中した。曲がりなりにも進学校である学校だったので、その穴を埋めるように猛勉強した。ちょうど定期試験の前だったこともあり、呆気なく僕は、彼女について考えなくなった。まるであの時間は幻だったかのように。

 そうこうしているうちに、いつの間にやら季節は過ぎ去って、セーター無くしては過ごせないほどに冷え込むようになった。

「そういえば、お前、最近図書室行かなくなったよな」

 授業の合間の休み時間、いつも放課後図書室に言っていることを知っていた友人が、思い出したように言ってきた。

「うん、そうだね、」

 曖昧に濁す僕を見ながら友達は言った。

「なんかあったろ、お前」

「なんもないよ」

「嘘つけ、なんかあった」

 質問というかほぼ脅迫に変わる。僕は観念して「少しね」と答える。

 彼は溜息を吐いて、呆れたように言った。

「言いたくないなら無理にとは言わないけど、お前が図書室に行ってたときと今でテンションが違いすぎるんだよ」

「まじ?」

「まじまじ」

「いや、別に変わったところないでしょ、僕」

「何も言わなくても、わかるくらいには顔に出てんだよ、お前」

 嘘だろ、と僕はあんぐりと口を開けて呆然としてしまう。顔に出てたって?

「気まずくなるようなことがあったんだろうけど、お前このまま考えて悩み続けるだろ卒業まで」

「そうだけど、今の僕に合う資格なんて……」

「とりあえず会って、お前が悪いなら謝って、悪くないならご無沙汰してますでいいんじゃねえの」

「そんな適当に言われても」

「お前が慎重すぎるんだよ。行動してみてから考えるくらいでちょうどいいことって、意外とあるもんだよ」

 そうかなぁ、と迷う僕に、そうだよ、と彼は肩を叩きながら帰っていく。彼が正しいような気がしてきて、僕は決意の揺らがぬうちにと、放課後に図書室に寄ることを決めたのだった。

数週間ぶりに図書室の扉を開け、いつも僕らが一緒にいた奥の席へいくと、驚いたような顔で先生が出迎えてくれた。

「もう、来ないかと思ったよ」

「まあ、受験生になりますからね、僕も」

 ぎこちない笑みを浮かべながら言うと、先生も薄く笑う。

「澄空くんが真面目にやってるって先生たちから聞くよ。頑張ってるじゃん」

 先生が優しく僕の肩を叩く。その手が少し震えていることに、僕は気付かないふりをした。

「あの、あの日、勝手に帰って、すみませんでした」

「ああ、あのことね、誤魔化すの大変だったんだから。貸しにしておくからね」

 初めて会ったあの日と同じ、悪戯っ子のような笑顔を見て、僕の胸は締め付けられたように苦しくなる。気持ちが溢れて、彼女以外、何も見えなくなる。

 ――先生はきっと、本当は気付いていたのだろう。僕が保健室に行かなくなった理由と、僕の本当の気持ちを。でも彼女は、気づかないふりをして笑ってくれた。

「ありがとうございます、いずれ何倍にもして返しますよ」

「返さなくていいからさ、頑張りなよ、少年」

「はい、頑張ります。それじゃあ、今日はこのくらいで帰りますね、勉強もしなきゃなので。……ああ、それと、」

「先生、好きです」

 先生の目が見開かれる。でもすぐに先生は、いつもの困ったような優しい笑みを浮かべながら言った。

「ありがとう」

 それは、僕が今まで聞いた言葉で一番優しく綺麗な『ありがとう』だった。先生そのもののような言葉だった。

 

 僕の初恋はこれでおしまい。









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