増田朋美

季節外れの台風がやってくるとテレビで騒いでいるが、それに関してもうどうにもできなくなっているのが、人間というものなのだろう。だって、人間同士の関係だって、自分ひとりの力では修繕できないものもあるのだから。そういうときに、人は何に頼るだろう。もちろん、誰かに相談することもするのかもしれないが、大体はそれは無駄骨おりで終わってしまうことがあまりのも多いから、薬のような化合物に頼ることもあるのかもしれない。だけど、それだけでは解決のできない人も少なからずいる。そういう人のことを、精神障害者と法律では定義するが、現実問題、そういう人たちとは、どんな人なのか、という定義ははっきりしない。なぜなら、足が悪くて車椅子に乗っているとか、そういうわかりやすい障害ではないからである。

その日、雨が降って蒸し暑い気候であったが、何故か、蘭の家に客が来訪していた。というのは、蘭の家にやってくるのは基本的に、家庭的だったりあるいは社会的に、悩んでいたり苦しんでいたりする人が多いため、こういう不安定な天気に飛び入りで入ってくる人もたまにいるのである。蘭は、そうやってやってきた客を否定しないで、彼らの背中に激励のため吉祥文様を彫ることにしている。そういう女性たちが、また同じ感情に囚われてしまったら、これを見て少し怒りや悲しみを和らげろという意味で、刺青というものは、そういうときに役立つのだと蘭は確信している。もちろん、刺青というものを快く思わない人が多いのはわかる。だけど、キーポイントになる文様を体の一部に持たせておくという行為は、精神の安定に随分役に立ってくれていると蘭は信じている。

この女性も、そういう理由で、蘭のもとを訪れたのだと言うことが蘭は、長年刺青師をしてきてよく分かるのだった。そして、居場所がない女性たちは、蘭が年を重ねるごとに、減るどころか増えているような気がしてならない。

「えーと、汐見由香さんですね。今日は、どこに入れたら良いでしょうかね?」

蘭はやってきた女性客の顔を見てそういった。

「ええ、以前、桔梗の文様を入れていただきましたよね。それをもう少し増やしていただけないでしょうか?」

と、汐見由香さんという女性はそういった。

「はい。わかりました。とはすぐに言えませんね。なにかあったのですか。まず、それを吐き出して楽にすることから始めましょうね。なぜかといいますと、刺青というものは一生残ってしまいますから、簡単に変更できるものじゃないんです。だから、まず初めに、あなたに落ち着いてもらうことから始めないとね。」

そう言って蘭は、彼女を仕事場に案内した。

「先生は、そう言ってくださるんですね。あたしの言うことなんて、医療関係者であっても、心理学関係者であっても、間違いだとか、行けないとか、そういう事を言うんです。あたしは、思ったことを薬で消すしか方法がなくて。どうして、周りの人達は、そういうことができるんでしょうね。怒りを、うまく処理するというか、ひとにはなしても、それはやめろとか、そういう事を言われないんでしょうね。」

ということは、なにかどこかでトラブルがあったことは間違いなかった。

「まあ、人のことは比較しても仕方ありません。あなたができないのであれば、それはそういうことなんだと思ってください。大丈夫です。それについて、自分を卑下する必要はありません。僕だって誰かの手伝いがないと移動はできないのですから、それとおんなじだと思ってください。」

蘭がそう言うと、

「そうですね。先生みたいな人が身近にいてくれると、足が悪いから、歩けない人もいるんだって言う気持ちになれますよ。そういう人って、そのために必要なんじゃないかって思うんですけど、何故か社会から隔絶されてしまうんですよね。私もそうですが。」

と、汐見由香さんは言った。

「まあ、僕をおだてても仕方ありませんよ。それより、由香さんが何があったか、話してもらえませんか。人間、決して一人で物事を解決しようとしてもね、絶対できるもんじゃありませんから。それは、僕も知っています。」

蘭は、決して彼女の琴線に触れないように言った。

「でも先生、話したって無駄じゃないですか。誰かが変わってくれるわけでもないし、状況が変わるわけでもないでしょう。そういうことなら、自分が変わるしかないとか、そういう格好つけたセリフを言って、私はがっかりするだけでしょう。だったら無駄です。話しても意味なんてありません。」

「まあそうですね。それは確かにそうです。ですが、人間なので、どこかで成分化して誰かに言わないと、どうにもならないようにできています。そういうことが積み重なって、精神障害というものに到達してしまうのなら、それをなんとかしなければなりませんよね。例えば、難病で一人で動けない人を動かすには、人手が要りますよね。それと同じことです。だから、周りに迷惑をかけないようにという意味でも、あなたは、誰かに話して怒りや悲しみを和らげることが必要なんですよ。それは、あなたが、感情をコントロールできないという障害を負ってしまったから。そうすることによって、あなたは、周りの人達と折り合って行けるようになるんですよね。」

蘭はそう説明した。そこまで話してくれる人はそうはいないと思ったのか、彼女、汐見由香さんは、少し考えてこう話し始めた。

「そうなのね。私が思っていることはただ一つです。祖父に消えてほしい。」

「はあ、そうですか。」

蘭はその程度の反応にしておいた。

「なんかウェズリモに出てきそうなセリフですね。」

「だって、毎日毎日、私が作った食事を、監視しに来るんです。そして、すごく嫌そうな顔で食事を見つめて、嫌そうな顔をして食べる。だから、食事がすごく辛くて。もうそれが、許されないなら、私が消えてしまいたい。それくらい怖い顔して、食事をするんです。なんのために、家族全員で食事しているのかわからないくらいですよ。こんなに楽しくないのなら、別別に食事すればいいのに。本当に、こんな日々が毎日毎日続いて、他の人はどう思っているのか知りませんが、私は少なくとも苦痛で仕方ありません。だって、本当に、私が作ったものを嫌々ながらに食べられれば、作った私だって嫌な気持ちになりますよね。そんなふうに、嫌な顔するんだったら、私の作った食事が嫌だと言うことを示しているんでしょう。食事をする前に監視しに来るのは、私が作ったものが自分に合うかどうか、確かめなければ行けないくらい私の作ったものが悪いということですわ。でも、私、そんなすごいものが作れるわけじゃないし、時には、マクドナルドで買ってきたものだって食べたくなりますよ。だけど、それだって、嫌そうな顔して、もう、それなら、ご飯なんて一緒に食べないでほしい。だから祖父には消えてほしい。もし私が働いてなくて、そういう事を言っては行けないと、言うのだったら私に死なせてください。」

「なるほど。つまり、お祖父様と、食文化が違うと言うことですかね。」

蘭は、由香さんの言うことをまとめた。

「そしてお祖父様は、マクドナルドで買っては行けないというのですね。」

「そうなんです!すごい顔してなんでこんな健康に悪いもの食べさせるんだって怒鳴ってましたから、家ではもうマクドナルドは買ってくることはできなくなりました。だから、友達付き合いもできないですよ。そういう人が、家にいるんですから。誰にも相談できないし、早く死んでしまいたいです。」

由香さんはそういった。

「でも良かった。そうして成分化して、口に出して言えるのだからまだ良いと思いますよ。中には、感情だけが先に出てしまって、文章にすることができない方もいます。逆にそこまで流暢に言えるんでしたらね。そうだな、文章にまとめることなんかもできるんじゃないですか。別に本を出版するとか、そういうことはしなくて良いんです。例えば、投稿サイトは星の数ほどあるでしょう。それで文章化してみると、意外に同じことで悩んでいる人のヒントになるものですよ。人間に取って、お前も辛かったのかと言う言葉ほどよく効く薬はないですからね。」

蘭は、にこやかに言った。

「でも私にできるかしら?」

「いやあ、できるとかできないとか、そういうことは問題ではありません。いずれにしても、あなたがそういう障害を抱えていて、そして吐き出すことも現在できないんだったら、そういう投稿サイトに頼るしかないでしょう。それでもだめなら、医者や、臨床心理士さんもおられますから、そういう人に頼ってもいいと思います。そして、今の生活が、少しでも楽になれるように、工夫してみてください。」

蘭は、変わるとか、自分でとか、そういう言葉を使わないで、彼女にアドバイスした。自分でやれ、この言葉がどれくらい相手を傷つけるか、蘭はよく知っている。

「そういうことだったら、あたし、本当に、やってしまっても良いかな?」

不意に、汐見由香さんはそういう事を言った。

「もちろん。祖父をです。」

蘭はこれには驚いてしまう。

「だって、今の辛いことは、祖父がいることが本当に辛いですもの。私が出ていくことはできないし、父や母も、相談には乗ってくれない。だから、私が行動を起こすんだったらそうするしかないじゃないですか。そうすることによって、父や母もらくになれるんだったら。祖父のお陰で、みんなえらい目にあっているし。」

「そうなんですか。それは具体的にどんな事を言われているんですかね?」

「ええ、私だけではありません。祖父が毎日病院へ連れて行けとか、旅行に行く前に自分の世話をしろとか、そういうことばかり言うから、うるさくてたまらないし、他の人がするような幸せが何一つ得られないのが、私は辛いんです。」

蘭は、それを聞いて、本当に彼女が辛いんだなと言うことを、身を持って知った。同時に、彼女に自分の言ったことが、まずいことを言ってしまったなと思った。

「そうですか。そういうふうに、行動を制限したりするんですか。」

とりあえずそれだけ言っておく。

「ええ、それだけではありません。あの人には私達はただの付属品なんです。自分の世話をさせて、贅沢はさせないことが、一番正しいと思い込んでるんです。わたしたちが楽しむために、どこかへ出かけたりするのを、厳しく制限するし、私達が、おしゃれでなにか買ったりすると、ものすごく怒鳴るんです。それと同時に、お金があるのに使おうとしないで、新しい洋服を買うとか、そういうことは絶対しないで、ボロを着て、ボロを私達に修理させるんです。」

と、汐見由香さんは言った。

「だったらやってもいいですよね。わたしたちは、父も母も、祖父のせいで、ひどく苦しめられているんです。先生は、人の命を奪ってはいけないというかもしれないけど、私は、そうしたほうが、楽になれると思うんです。もし、先生がそういうこと言うのであれば、私に死なせてください。」

そういう彼女に、蘭は困ってしまった。そういうふうに思考がめちゃくちゃになってしまっているのであれば、医学的な援助も必要だろう。だけど、そういうところに引き渡すのは、非常に難しいことであると、蘭は知っていた。

「そうですね。あなたの気持ちはよくわかりますよ。由香さん。ですが、僕も人の命を奪うということは賛成できませんね。」

蘭はそういった。

「なんでですか。祖父さえいなくなれば、私達はもっといい暮らしができると思うんですが。私は捕まっても構わない。父や母が、楽になればそれで良いんです。」

「そうですが、お父様やお母様も、そこまでするあなたは見たくないと思います。そうなれば、お父様もお母様も、誰も味方のない世界で生きていかなければならなくなる。あなたは、それがいかに辛いのか知っているはずだ。それなら、本当に行動に起こしては行けない。」

静かに蘭は言った。こういうときに激しては行けないことは、蘭もよく知っていた。

「先生、それなら、私が消えてもいいですか?」

と、汐見由香さんは言った。

「それも行けない。自殺は、神様を裏切る行為として、肯定している宗教はありませんよ。」

「先生、そういうこと言うんだ。あたしは、神様なんか信じませんよ。だって、こんなに私のこと苦しませておいて、神様は、本当に、私に対して幸運をくれませんでしたもの。」

「うーんそうですね。僕もそれは思ったことあるんですが、足が悪いから、こうして刺青師という仕事にもつけたわけで、それは、逆の見方をすれば、すごいことをしたってこともあるんです。」

そう蘭が言うと、汐見由香さんはついに逆上した。

「本当にみんな私のことわかってくれないんだ!私がどんなに辛くて、私がどんなに、悲しくて、私がどんなに寂しいか、誰もしらないんでしょう。私はどうしたら良いの。死ぬこともできないし、生きることもできないわ。本当に私はどうしたら良いのでしょう!」

「だから、できることは、専門家に助けてと言ったらどうですかと言っているのです。」

蘭がそう言うと、彼女は、涙をこぼして泣き出してしまった。

「結局、私のことなんて、誰もわかってくれないんですね。先生も家族も、他の人達も、みんな私が間違っていると言って、私のつらい気持ちを、なんとかしようとしてくれないんだ。だから、もう私は死ぬしかないんですね!」

彼女は、そう言っていすから立ち上がった。そして、蘭のもとを振り返りもせず、靴も履かないで、蘭の家を飛び出してしまった。蘭は歩けないので、追いかけることもできなかった。代わりに、彼女の住所録や電話番号をすぐ出して、彼女の自宅に電話した。すぐに出てくれたのは汐見由香さんのお母さんと思われる人物だった。お母さんは、蘭の電話を、振り込め詐欺とか、そういうものだと疑うことはせず、蘭の言う事を信じてくれた。ということは、彼女は家族にもそういうセリフを言っていて、家族を困らせる存在になっていたのだと言うことだ。蘭が、状況を説明すると、お母さんはすぐに警察へ電話するといった。

お母さんに要件を伝えると、蘭自信も警察に電話した。出てくれたのは、華岡だった。蘭が、自殺を図りそうな女性がいると伝えると、華岡は、わかったと答えてくれた。ただその女性に、精神障害があるということを蘭は、伝えないでおいた。それは、発見した時点でわかることなので。

これ以上蘭にできることはなかった。とりあえず、できることは全部やった。あとは、被害者も加害者も出ないように、ただ祈るしかない。蘭は、そういうところはやはり、神様とか、そういう存在が必要なんだろうなと思った。全く宗教は必要ないというわけには行かないなと思うのだった。

そうして、数十分ほど経ったあと、蘭のスマートフォンがなった。華岡からだった。蘭はすぐに、それを取ることができず、ちょっと躊躇してしまったが、なんとか、それを取った。

「もしもし、華岡?どうしたの?」

「ああ、安心してくれ蘭。無事に、汐見由香さんを保護したぞ。車に飛び込もうとしたところを、捜査員が見つけてくれた。」

華岡は警察らしく淡々と言った。

「それで、彼女は大丈夫なのか?怪我はしていないかい?」

蘭が聞くと、

「ああ、大丈夫だよ。だけど、お前も予想しているだろうけど、かなり混乱しているようなのでね。それでは、影浦先生のところへ連れて行くことにした。まあ、それも仕方ないか。自殺を図るようなやつはだいたい平常心ではないからな。」

と華岡は言った。

「そうか、それなら良かった。それで、華岡。影浦先生にお願いして、お会いさせてもらうわけにはいかないかな?」

蘭はそれはどうしても気になってしまってそう言ってしまった。

「普通なら、できないが、まあお前のことだから、ちょっと聞いてみるよ。もし許可が出たら、お前を迎えにやる。」

華岡はそう言って一度電話を切った。そして、数分後、蘭の家の前にパトカーが一台止まった。ということは迎えが来てくれたのだと蘭は思った。蘭は、パトカーに手伝ってもらって乗せてもらうと、すぐに影浦医院に突進した。

影浦医院に到着すると、男性が話している声がした。

「一体どういうことなんだ。それにあいつが、自殺したい旨を話したのは、彫師の先生だったそうじゃないか。母親がいてどうしてそういうことになるんだよ!」

ああやはり亭主関白な家だったのかと蘭は思った。看護師が、父親をなだめている声も聞こえてきた。影浦千代吉先生が蘭の方へやってきて、面会はしてもいいが、直接話すのは無理だといった。つまり、アクリル板越しに話せということだ。蘭はそれでもいいというと、影浦先生は、彼を通してくれた。

蘭が入ったのはいわゆる閉鎖病棟であった。外からの鍵がかけられて、病室の入口の廊下にも鍵をかけられ、そして病室のドアにも鍵がかけられている。影浦先生に連れられて蘭が入ったのは、床の上に布団が一枚敷いてあるだけで、窓もない、真っ暗な部屋だった。蘭が、アクリル板に開けられた小さな穴から覗いてみると、彼女は、呆然とした顔で、体育座りで座っていた。

「先生、来てくれたんだ。ありがとう。」

と、汐見由香さんは言った。その顔が、本当に、生まれたての赤ちゃんみたいに、純粋そのものの顔で、蘭は、それを否定してはいけないと思った。

「ごめんなさい。」

と蘭は、言った。彼女に、そう言わなければならないと思った。それは、間違いかもしれないけれど、蘭はそう思ってしまったのであった。

「良いんだよ先生。先生が謝ることないんだよ。謝るのは、私だよ。だって、悪いことしようって本気で思ったんだもん。」

そういう汐見由香さんに、蘭は、より一層つらい気持ちがして、

「本当にごめんなさい。」

と、彼女に頭を下げた。

「なんで?あたしが悪いんだよ。だってあたしは、もうここへ来てしまったと言うことは、人間以下の悪い人になってしまったということですもの。だから、先生が謝ることじゃないですよ。」

由香さんの言い方は、おそらく安定剤でも注射されたのか、呂律が回っていなかった。蘭は、申し訳なくて頭を下げたままだった。外では、白い雲が、竜神のような形をして飛んでいた。






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増田朋美 @masubuchi4996

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