だらしない感じの中年女性の依頼

魚市場

だらしない感じの中年女性の依頼

シャーロック・ホームズが、あのだらしのない感じの中年女性の依頼を受けたのは、一八八一年の春のことであり、私の手帳にはその記録が残っている。今思い返せば、それは、私がホームズと出会ってからまだ日が浅い頃のことだった。当時、私は軍医としての任務を終え、ロンドンのベーカー街に落ち着いたばかりで、ホームズという風変わりな人物に対する興味が次第に深まっていた時期だった。彼の驚異的な観察眼と推理力に、私はしばしば舌を巻いたものだ。

 あの日の朝、ホームズはいつものように居間でパイプをふかしながら、興味深げに新聞を読んでいた。そんな静寂を破って、民間の興信所からの紹介でやってきた一人の中年の女性が、居室の扉を開け入ってきたのである。彼女は目に見えて疲れ果て、服装もどこかくたびれた様子だった。そのだらしない身なりと、うっすらとした緊張感のない態度から、私はこの依頼がさほど重要ではないと直感したのを覚えている。

実際、彼女の依頼は至極単純なもので、人探しの案件だった。私の印象では、ホームズもさして興味を引かれる様子ではなく、どちらかと言えばむしろ退屈そうに彼女の話を聞いていた。私たちが関わる最初の重大事件である「イーノック・J・ドレッバー殺人事件」が起こる少し前のことだった。殺人事件と比べれば、この女性の依頼など取るに足らないものに思えたのは無理もない。私自身、発表する価値のある事件とは思えず、この記録はずっと日の目を見ないままであった。だが、後に起こるミス・アリス・スチュワートという女性からの奇妙な依頼が、この一見取るに足らない中年女性からの依頼に繋がっているとは、その時の私には、まるで想像もつかなかったのである。


 奇妙な依頼が舞い込んだのは、十一月の霜が降りた寒々しい日のことだった。ベーカー街221Bの二階の窓から見えるロンドンの空は、例のごとく黄褐色の霧に包まれ、まるでこの街を覆う秘密と陰謀の象徴のように見えた。シャーロック・ホームズはいつもの定位置、暖炉の前の肘掛け椅子に深く腰をおろし、桜の木材で作られた愛用のパイプを燻らせながら、新聞に目を通していた。時刻は既に正午を過ぎていたが、テーブルの上には冷めた朝食の名残がそのまま置かれ、ガス灯の明かりが積み重ねられた新聞の束を淡々と照らしていた。

「何か面白い記事でも見つかったかい?」

と私は彼に声をかけた。ホームズは新聞の上から顔を顔を覗かせ、少し鼻で笑うようにして答えた。

「一番目立つ記事は、来期の競馬に関するものだ。別の新聞には、ホイストの勝敗を巡って酔っ払い同士が大喧嘩をしたという報告が載っている。まったく、これが英国民の最大の関心事とはね」

そう言って彼は、たっぷりと皮肉を込めた言葉と共に、紫煙を宙に吐き出した。私は笑みを浮かべ、彼に返答した。

「確かに、競馬と酒場の喧嘩が世間の話題の中心とは、いささか悲しい気もするがね」

「だが、忘れてはならないよ、ワトスン。日常の些細な出来事の中に、しばしば重大な謎の糸口が潜んでいるのだ。犯罪や陰謀というものは、こうした凡庸な日常の影に隠れているものさ」

ホームズは新聞をきちんと畳み、パイプの先に視線を向けた。

「君が言う通りだね。我々の探偵業がこれほどまでに刺激的でいられるのは、こうした雑多な日常の中に、真の事件が紛れ込んでいるからに他ならない」

私は冗談交じりに返した。

「それでは、酔っ払い同士の喧嘩から、新たな推理を始めるつもりかね?」

ホームズは笑みを浮かべつつも、少し思索にふけるような表情を見せ、パイプを手に取りながら煙を深く吸い込んだ。

「今回はそうではない。酔っ払い同士の争いがどのように決着するかなんて、我々には無関係だ。しかし…」

彼の鋭い瞳が一瞬、別の思考に移り変わったのを私は見逃さなかった。

「昨日、少し気になる電報が届いた。奇妙な依頼だ。まさに今日のような霧の濃い日にこそふさわしい謎と言えるだろう」

そう言うと、ホームズは机の上に置かれていた電報を手に取り、私に差し出した。私はそれを受け取り、内容を読み上げた。それはリッチモンドから送られたもので、次のように書かれていた。



シャーロック・ホームズ様


私が携わっている非常に奇妙な仕事について、ご相談させていただきたく思います。もしご迷惑でなければ、明日の午前十一時にお伺いさせていただければと存じます。


敬具  アリス・スチュワート



「間もなく十一時だな」
私は懐中時計をちらりと確認し、口を開いた。ホームズは新聞を置き、軽く頷きながら答えた。

「ああ、どうやら依頼人が到着したようだ」
私の耳に届いたのは、階下から響いてくるハドスン夫人の声と、それに続く足音。足音は軽やかでありながらも、どこか緊張感を含んでいた。階段を上るリズムが、一歩ごとに私たちの元へと近づいてくるのが感じられた。そしてやがて扉が静かに開き、そこに立っていたのは若いご婦人だった。ご婦人ははまだ娘と言ってもいいほどの若さを持ち、年齢はおそらく二十にも満たないだろう。肩に柔らかくかかる美しい金髪が印象的で、その大きな碧い瞳には内に秘めた知性が伺えた。

「突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」

彼女の声は澄んでおり、少女らしさを残した可憐さがあった。それでもその話し方は礼儀正しく、若さに不釣り合いなほどの慎み深さを感じさせた。

「失礼ですが、あなたがシャーロック・ホームズさんでしょうか」

彼女は少し不安げに尋ねたが、その態度は凛としていた。ホームズは静かに頷くと、穏やかに答えた。

「そうです。私はシャーロック・ホームズ。私立探偵をしています。こちらは私の友人で、探偵業においても協力してくれているワトスン医師です」

「お会いできて光栄ですわ。ホームズさん、ドクター・ワトスン」

彼女は丁寧に一礼し、その物腰の柔らかさに私も自然と好感を抱いた。ホームズはその態度に目を細め、彼「どうぞ、お座りください。まずは、あなたのお名前と今回のご依頼について詳しくお聞かせいただけますか?」

彼女は少し緊張した様子を見せながらも、自らを落ち着けようと深呼吸し、しっかりと話し始めた。

「私はアリス・スチュワートと申します。今は、ドクター・ロビン・チャーチルのお宅で助手を務めております」

「おや、ワトスン、どうやら君と同業者のようだな。チャーチル医師について何か知っているかい?」

ホームズは視線を私に向け、何か情報があるかと尋ねた。私は少し考え、記憶を探った。

「名前は聞いたことがあるが、直接会ったことはないな。ただ、英国医学旬報でその経歴を読んだことがある。確か、フランスで医師免許を取得し、ロンドンに戻って診療所を開いた人物だったはずだ」

「その通りですわ」
アリス・スチュワートは頷きながら、さらに付け加えた。

「チャーチル先生は幼い頃に双子の兄を病気で亡くされたそうで、その経験がきっかけで医師を志したと伺っています」

「なるほど、心に深い動機を抱えている方のようだ。では、ミス・スチュワート、依頼の内容についてお聞かせいただけますか?」

彼女は一瞬戸惑った表情を見せたが、意を決したように再び口を開いた。


「はい。実はチャーチル先生のお手伝いの仕事というのが、なんとも奇妙な仕事でして……」

「宜しければ、初めから詳しくお聞かせいただけますか」

ホームズが促すと、ミス・スチュワートは一息つき、語り始めた。

「チャーチル先生のお手伝いをすることになったのは、一ヶ月ほど前です。仕事の紹介はウェストアウェイという業者から受けました。内容の割に報酬が高く、最初は少し怪しいと思いましたが、自宅からも近く、条件も良かったので引き受けました。しかし、仕事の内容は想像していたものとは違っていました。主な業務は診療所の受付と資料の整理ですが、奇妙な依頼も一つありました」

「奇妙な依頼?」

彼女は一瞬目を伏せた、そして決心したように再び話し始めた。

「お墓参りです」

「お墓参り?」

私とホームズは同時に声を上げた。

「最初の日、先生は午前の診療を終えた後、私にこう言いました。『今日は少し頼みたいことがある。ここから数ブロック先にある共同墓地へ行って、花を供えてきてほしい。墓標にはこの白い薔薇を置いてくれ』と」

ホームズは微かに眉をひそめ、興味をそそられているようだった。

「これが共同墓地の地図です。先生が、お花を包んでいたチラシの裏に書いてくれたんです」

ホームズは地図を受け取ると、注意ぶかくそれを観察した。

「しかし、ミス・スチュワート。それだけでは、チャーチル医師にとって大事な人がその共同墓地に眠っているというだけでは?」

私は思索に耽るホームズを横目に尋ねた。

「ええ、ワトスンさん。最初の日は私もそう思いました」

ミス・スチュワートは言葉を選びながら続けた。

「ですが、翌日も同じように白い薔薇が花瓶に差してあり、またお墓参りを頼まれました。ただ、今度は『昨日のお墓の隣にある墓標に供えてくれ』と言われたんです。それから毎日、同じようにお墓参りを頼まれ、そのたびに異なる墓に白い薔薇を供えました。それが一ヶ月も続いているのです」

「一ヶ月も?」

私は驚いて声をあげた。

「それでは、墓地全体が薔薇で埋め尽くされてしまうではないか」

「古い花はいつの間にか消えてしまうんです。おそらく、墓地の管理人が定期的に片付けているのだと思います。カークランドという管理人の老人が近くに住んでいるので、その人がやっているのでしょう」

ホームズは目を閉じ、椅子の背もたれに深く体を預けながら、ゆっくりと考え込んでいるようだった。私は彼の沈黙が続く間、アリスの話を反芻しながら、不気味な感覚に囚われていた。毎日異なる墓に白い薔薇を供えるという奇妙な儀式めいた行動は、何か意味があるに違いない。だが、それが一体何なのか、私には全く見当がつかなかった。

「その事について、チャーチル医師に直接尋ねたことはありますか?」

私はミス・スチュワートに尋ねた。

「もちろんです。でも、いつもはぐらかされてしまって……。先生は決して明確な答えをくれないんです。『ただの習慣だ』とか、『そんなに気にしなくていい』と言って、話をそらしてしまうんです。あ、決して先生の悪口を言ってる訳では無いですよ。先生は本当に良い方です。私と親子でもおかしくないくらい歳は離れていますが、まるで本当の子供のように良くしてくれています。ただ、私は気になる事があると、どうしても首を突っ込みたくなっってしまう性格で……」

彼女の顔には困惑と興奮の色が浮かんでいた。ホームズは静かに目を開け、ミス・スチュワートに向き直った。

「お話いただきありがとうございます、ミス・スチュワート。あなたの気持ちはよく分かります。私も同じタイプの人間ですからね。そして、信じられないかもしれませんが、私はこの出来事に関して、すでに一つの仮説を持っています。しかし、それを確かめるためには、もう少し時間が必要です。申し訳ありませんが、一週間後に再びここへお越しいただけますか?」

ミス・スチュワートは驚いた表情を見せながらも、すぐに落ち着きを取り戻し頷いた。

「もちろんです、ホームズさん。感謝いたします」

そう言ってミス・スチュワートは静かに部屋を後にした。

 彼女を見送ると、私はホームズに向き直り、すぐに問いかけた。

「一体どういうことだ? 君はすでに何か掴んでいるのか?」

ホームズは外套を羽織りながら、にやりと笑った。

「まだ八割ほどだ、ワトスン。これから仮説の正しさを確認するため、ケンジントンに向かおうと思っている。それと、君にも少し手伝ってもらいたい事がある」

「ケンジントン? どうして、また?」

私は不安と興味が入り混じった感情を抱きながら訊ねた。

「チャーチル医師が、薔薇を買っている店があるからだ」

 

 

 昼食を済ませた後、私たちは辻馬車を呼び、冷たい十一月の風が吹きつける中、ケンジントンへ向かった。通りはすっかり冬の装いで、ロンドンの中心部と比べても遜色のない活気が漂っていた。ホームズは道行く人々や花売りのワゴン、商店のショーウィンドウを眺めながら、興味深そうに周囲を観察していた。

「しかしホームズ。なぜ、チャーチル医師がケンジントンの花屋で薔薇を買っているとわかったんだ?」

「地図の書いてあったチラシさ。あれはロイド・ミュージック・ホールの来週から上演される新しい演目の宣伝チラシだった」

「なるほど。すると、チャーチル医師はわざわざリッチモンドからケンジントンまで来て花を買っているのか。どうしてなんだ?」

「その理由を、今から確かめに行くのだよ」

やがて辻馬車は、とある花の卸問屋の前で止まった。ホームズはすぐに御者に支払いを済ませると、私に向かって言った。

「ワトスン、少しの間ここで待っていてくれ。すぐに戻る」

私は言われた通り、馬車の中で彼を待つことにした。空気は冷たく澄んでおり、ケンジントンの街の喧騒が一瞬遠ざかったように感じた。卸問屋の店内で、ホームズと額に小さな痣のある青年が何か話しているのが見えた。ホームズが戻るまでの時間、私は彼の仮説がどのようなものかを考えながら、自分なりの推理を試みたが、彼のような閃きには到底及ばない。私は彼の卓越した頭脳にいつも驚嘆するばかりだが、今回もまた、その全貌を掴むことはできなかった。

 しばらくして、ホームズが足早に戻ってきた。彼の手には、一本の美しい白い薔薇が握られていた。茎が細長く、花弁は凛とした純白だ。その花はまるで、今回の奇妙な依頼を象徴するかのように見えた。

「収穫はあったようだな」

ホームズは私の言葉に上機嫌で頷き、楽しげな表情を浮かべた。

「ああ、予想通りの収穫だ。これで仮説の九割は証明されたも同然だ。残るは些細な確認だけだよ。さあ、ベイカー街へ戻ろう」

と彼は胸を張って言った。その声には、自信に満ちた響きがあった。私たちは再び辻馬車に乗り込み、寒風の中をベイカー街へと向かった。車内に座り、私の隣でパイプを取り出すホームズを横目に見ながら、私は彼に問いかけた。

「その白い薔薇が、君の推理を進めるための鍵だということは分かったが、一体花屋ではどんな収穫があったんだ?」

「この薔薇はハドスン夫人へのお土産だよ」

白い吐息を吐きながら、ホームズは言った。

「あの花屋は台車用の卸しも手掛けているが、常連客には個別に花を売ることもあるらしい。店にいたトーマスという店員が、いくつか興味深い話をしてくれたんだよ。彼によれば、二人の常連客がよくこの店を訪れ、白い薔薇を買っていくそうだ」

「それは誰だい?」

「一人は中年の男性で、もう一人は妙齢のご婦人だそうだ。どちらも、頻繁に白い薔薇を購入していると言っていた。どうやら、チャーチル医師が白い薔薇を買っているのはあの花屋で間違いないようだ。そして、あの白い薔薇は特定の目的のために買われていた。だが、その理由はまだ完全には明らかになっていない。つまり、残る一割の部分だ」

「一割か。なるほど、君の仮説はかなり進んでいるようだな。しかし、なぜ薔薇をわざわざ毎日違う墓に供える必要があるのだ?」

私は自分の疑問を素直に口にした。

「それは手紙を出せば全てが明らかになるさ」

ホームズは静に答えた。

「君にはすぐに一通の手紙を書いてもらいたい。内容については、ベイカー街に戻ったら詳しく説明するが、この手紙が最後の一片を埋めることになる」

私たちの辻馬車は、ロンドンの喧騒の中を進んでいった。十一月の冷たい風が車窓に霧を吹き付けるが、車内の私たちは今にも解明されようとしている謎に心を奪われ、寒さを忘れていた。

ベイカー街に戻ると、私はホームズの指示に従って、一通の手紙を書いた。それは、ロンドン大学で医師として働く知人に宛てたもので、ロビン・チャーチル医師について尋ねる内容だった。


一週間が経ち、221Bの静寂を破る音が響いた。穏やかな午後の光が差し込む中、重厚な扉を叩くノックの音が、あたかも新たな謎の到来を告げるかのようだった。その音を合図に、私は新聞を置き、ホームズは手元のパイプを軽く叩いた。扉が開かれると、ミス・スチュワートが入ってきた。彼女の瞳には青い海のような輝きが宿り、その中に微かに興奮の色が見える。

「こんにちは、ホームズさん。そしてドクター・ワトスン」

彼女は明るく、快活な声で挨拶をし、その声には微かな喜びの響きが混じっていた。ホームズは片方の眉をわずかに持ち上げ、柔らかな笑みを浮かべると、手元のパイプを優雅に持ち上げた。その視線には、深い知性と冷静な観察眼が宿っている。ホームズは、かすかに頭を下げて答えた。

「ミス・スチュワート、どうぞお座りください」

ホームズの声には、どこか安心感を与える温かさがあった。ミス・スチュワートは、その誘いに従い、落ち着いた動作でソファに腰を下ろした。彼女の頬は上気し、その姿は心躍る冒険の前触れに立ち向かうようなものだった。

「ホームズさん、早速、あの『白い薔薇の謎』について、是非お聞かせいただきたいのです」

彼女の声には抑えきれない興奮が漂っていた。しかし、ホームズは一瞬だけ彼女を見つめ、優雅に微笑みながら、ゆっくりと手を掲げた。

「落ち着いてください、ミス・スチュワート。焦る必要はありません」

彼の声は驚くほど穏やかであり、その一言で彼女の昂る感情が静かに和らいでいくのが分かった。まるで鋭い剣を鞘に納めるように、彼女の姿勢も少し落ち着きを取り戻した。

「実は、あなたが抱えているこの薔薇にまつわる奇妙な依頼、こういった依頼は、私にとって初めてのことではありません。過去にも、こうした『不思議な依頼』が何かを隠すための手段として使われた事件に遭遇したことがあります」

ホームズの低く静かな声が、部屋の隅々にまで広がると、私の脳裏にもいくつかの過去の事件が蘇ってきた。『赤毛連盟』や『ぶな屋敷』といった、いずれも奇怪かつ入り組んだ事件の記憶がよみがえる。

「この手の仕事が依頼されるとき、その背後には本来の目的を隠すための意図が潜んでいることが多いのです」

とホームズは続けた。

「一体、それはどういうことですか?」

ミス・スチュワートが不思議そうに眉をひそめた。

「つまり、チャーチル医師が目的としていたのは、お墓参りではなく、薔薇を購入する行為そのものにあったということです。チャーチル医師は花を買うために通っていたのです。しかし、毎日薔薇を買えば、当然自宅はあっという間に白い薔薇で溢れてしまう。だからと言って、ただ捨てるのも忍びない。そのため、チャーチル医師は共同墓地に花を供える事にしたのです」

ホームズが明瞭に説明すると、ミス・スチュワートの目には驚きの色が浮かんだ。

「なるほど。ですが、どうして先生は花屋のワゴンからではなく、花の卸売業者からわざわざ薔薇を購入していたのでしょうか。通りにはワゴンがいっぱい並んでいるのに……」

「簡単なことです」

ホームズは静かに、しかし確信に満ちた声で答えた。

「チャーチル医師はその花屋の青年に会うために花を買っていたのです」

私は思わず口を挟んだ。

「その青年と、チャーチル医師にはどういった関係があるんだ?」

ホームズは微かに笑みを浮かべ、私に向かって言った。

「ワトスン、君と私が出会ったばかりのころ、だらしない感じの女性が依頼に来たのを覚えているか?」

ホームズの問いかけに、私は記憶を探った。かすかに思い出したのは、かつて訪れた中年の女性の姿だった。

「ああ、あの中年の女性か。確か、人探しの依頼だったと思うが……」

「その通りだ。彼女はイザベルと名乗っていたが、私は、その名前を言い慣れていない感じから身分を偽っているのが分かった。自身をだらしなく見せていたが、言葉の端々に上流階級の雰囲気も感じられた。ともあれ、身元を偽るというのは、私の依頼人にはよくあることなので、取り立てて指摘もしなかったがね」

ホームズはパイプの煙を吐きながら、話を続けた。

「彼女の依頼は生き別れた息子を探してほしいというものだった。彼女は訳あって、生まれてすぐに子供を遠い親戚に預けたそうだ。十数年後、その親戚と連絡を取ろうとした。ところが、その親戚は亡くなってしまっていたらしく、成人しているであろう子供も行方がわからなくなってしまったそうだ。息子の名前も英国ではありふれた名前だったそうだ。手がかりは額にある小さな痣。私はその時、ベイカー街イレギュラーズに頼んで、探してもらったんだ。彼らの情報網を持ってすれば、額に痣のある男性を見つけることなど造作もない事だからね。そして無事、彼らの活躍で見つけることができた」

私は驚きを隠せずに言った。

「まさか、その青年が……」

「そうだ、花屋で働いているトーマスという青年だった」


 ホームズは説明を続けた。

「後日、調査結果を報告した際、ミス・イザベルは『私は自身の夢を追うために息子と離れてしまいました。息子が生きていると分かっただけで幸せです。私は、トーマスに母親だと名乗り出るつもりはありません』と言っていたよ」

その言葉を聞き、ミス・スチュワートの大きな碧眼にも驚きの色が浮かんだ。

「では、ホームズさん。その人探しを依頼してきた女性が、チャーチル先生だったということですか?」

「その通りです、ミス・スチュワート。私がその仮説に至ったのは、あなたから共同墓地の地図を見せてもらった時でした。地図に書かれている文字のインクは少しかすれていましたが、これは左利きの人物が左から文字を書いた際、まだ乾いていないインクに左手が触れたために生じる特有のかすれです」

「おっしゃる通りです、ホームズさん。先生は左利きです」

ミス・スチュワートは両手をぽんと合わせて言った。

「その瞬間、私はある記憶を呼び起こしました。以前、左利きで医療関係の仕事をしている女性が訪ねてきたことを」

「それが、ミス・イザベルということか、ホームズ」

「ああ。ミス・イザベルは左手で扉を開けていたし、手を組んだ際には左親指が上になっていた。また、彼女の右手の小指球のあたりには、反転したインクの文字の一部が付いているのが見えた。それは明らかに医療用語であり、私は彼女が医療関係者であると推測したんだ」

ホームズの驚異的な記憶力と鋭い観察力を初めて目の当たりにしたミス・スチュワートの碧眼は、驚愕で見開かれ、まるで暗闇の猫のようになっていた。

「つまり、先生はお子さんの元気な様子を確認するために花屋に通っていたということですね、ホームズさん」

「ええ。ワトスンにお願いして、ロンドン大学の関係者に確認してもらいました。すると、当時の同級生が彼女から生い立ちを聞かされていたのです。彼女は北アイルランドの裕福な家庭に生まれ、上流階級の教育を受けていました。医師になりたいという夢があったようですが、英国では女性の医師は極めて少ない。彼女は一度は夢を諦めて、結婚をし、息子を産みました。しかし、すぐに旦那を心臓病で失います。医師になりたいという気持ちが、彼女の心に再び芽生えたのはこの頃でしょう。彼女は息子を遠方の親戚に預け、ロンドン女子医学校に入学しました。しかし英国では相変わらず医師免許の取得は難しく、フランスの大学で医師免許を取得したそうです」

私はホームズの推理に感嘆しながら、呟いた。

「なるほど。自身の医者になるという夢のために別れた息子に、今更会わせる顔がない。それでも、息子の元気な姿は見たいと思って、花を買う客として彼に会いに行っていたということか」

すると、ミス・スチュワートが突然立ち上がり、情熱的に言った。

「そんな。先生はなぜ自分が母親だと名乗り出ないのですか。こうなったら、私がそのトーマスという人に教えてあげようかしら」

私は興奮気味のミス・スチュワートを宥めるように言った。

「お節介はいけません、ミス・スチュワート。人それぞれ事情があるのですから。時間が経てば、二人も再び親子として会話できる日が来るかもしれません」

ミス・スチュワートは瞳に感情の波を浮かべた。やがて、彼女は少し感傷的な声で言った。

「そうですか。なんだか、少し寂しいですね」

ホームズは静かに視線を窓辺へと移しながら答えた。

「彼女は自分の夢を追うために息子と別れた過去を背負い、いまなおその決断を悔いているのでしょう。とにかく、これが事件の全貌です。いや、事件と呼べるほどのものではないかもしれませんがね」

そう言って、ホームズは窓辺に向かうと、黄褐色の空をじっと眺めていた。

 ミス・スチュワートから手紙が届いたのは、それから一ヶ月後の事だった。



シャーロック・ホームズ様

ジョン・ワトスン様


世間はすっかりクリスマスの準備で賑わっていますが、お二人は変わらずお元気でいらっしゃいますか。

遅くなってしまいましたが、改めて先日のお礼を申し上げます。

私は相変わらずチャーチル先生のお手伝いをさせて頂いています。ただし、以前とは異なる点が二つあります。一つは、もうお墓参りはしていません。そしてもう一つは、診療所にトーマスという新たな助手が加わったことです。

どうか、お二人もお体にお気をつけて。この寒い季節が、平和で穏やかなものでありますように。


敬具  アリス・スチュワート

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