カワリモノマニアック
坂本 千晴
第零章 前世の記憶
第零章1 『きみのおかげ』
十二月の末。穏やかな秋をどこかに置いてきたような、厳しい寒さに見舞われる季節。それも日曜日の、まだ日の出まで少し時間がある早朝のことだ。
彼がいるのは、二十三区外の少し古ぼけた住宅街だ。色のない素朴な街は薄灰色の雲に閉じ込められ、どんよりとした重い空気に満たされている。
力輝にはそんな、居るだけで頭痛のしそうなこの街並みも、どっちつかずでハッキリとしない曇りという天気も不愉快に思えた。
彼の足取りが忙しないのは、ここに長くいると、自分が味気ない風景の一部として世界に取り込まれそうで、なんだか恐ろしいから――というのもひとつの原因だった。
しかし、急いでいることの直接的な原因がそれという訳ではなかった。ある人物との約束の時間に遅刻したくなかったのだ。
彼には日課がある。大抵は平日なら昼に、休日なら朝早くからこうしてある場所に向かうこと。そしてその場所で、力輝が人生の中で唯一心を許した相手――
力輝は、変わらないもの、決まりきったものを嫌悪する。ある場所に落ち着いて、それっきりそこから動こうとしない存在。
目の前に佇む壁が、波を受ける岩が、自由を隠す規則が、絶えず循環する呼吸が、いずれ訪れる終わりが――そしてなにより、力輝自身の無気力な在り方が、どうにも許せなかった。
それでも、茉白との時間だけは、いつも変わらずそこにあるものとして受け入れてしまっていた。何故こうもすんなり自分の生活の中に彼の存在を許せているのか、力輝自身にもその理由は分からない。
「考えても仕方ない。さっさとあいつに顔見せなきゃな」
〇
結露で視界の悪くなった硝子窓から、微かに街灯の光が差す。コンクリート製の床を踏む度、コツコツと寂しく響き渡る足音が、その空間に力輝以外の誰も存在していないことを物語っている。薄暗さと静けさに耐えきれず、力輝はまた歩く速度を上げる。
力輝がわざわざ赴いた場所、それは彼の所属している高校だ。
中高一貫の私立校で、力輝は茉白とともに高校に上がるタイミングで入学した。理由は単純で、自宅から徒歩十五分ほどの距離にあったからだ。
校則、校舎、教師、授業、設備など、どこをとっても普通な、パッとしない学校だというのにわざわざここを選んだのには、生粋の飽き性にして怠け者な彼らしい理由があった。
しばらく歩き廊下を突っ切ると、右手に階段が現れた。現在彼がいるのは一階だが、目的地は四階の更に上、屋上だ。エレベーターの使用は当然禁止されているため、長い階段を登りきる必要がある。
力輝はため息をひとつつくと、重い足取りで階段をのぼり始めた。
「はぁ……はぁ、っこれも、バド部辞めたツケか……ふぅ」
惰性で続けていたバドミントン部を辞めてから一年、力輝はなんの部活にも入らず、学校以外の時間は家に篭って寝たきりの生活を続けている。基礎的な体力が無いため、階段昇降にもすぐに息を上げてしまうのだ。
普段より少し速い鼓動を感じながら四階を通過。最後の階段の先を見やると、それまでの階層なら踊り場があるはずの場所に、錆びついて、塗装のはげかけた灰色のドアをみつける。
力輝はなけなしの体力で震える脚を持ち上げ、すべての階段を上りきった。
扉に鍵はかかっていない。通常、この学校の屋上に生徒が立ち入ることは禁止されているが、茉白が天文部の部長であるため、特別に屋上への自由な出入りを認められている。
顧問の了承を得て合鍵の所持が認められたのは、茉白が部長になった去年の秋頃だった。
冷えきったノブを回し、少し滑りの悪いドアを引っ張るように開ける。瞬く間に、突風が力輝に向かって吹き付けられた。
乱された前髪をいじりつつ、緑のメッシュフェンスに囲まれたその空間の突き当たりまで歩く。固く冷たいはずのコンクリートに寝そべってぐっすりと眠る間抜けな男――茉白を呆れたような顔で眺め肩をすくめると、短く息を吐き、彼の隣に座った。
「よくこんなとこで寝られるな、茉白」
「……んぁ?」
力輝の心配半分、揶揄い半分の言葉に、茉白はこれまた間抜けな声で応じる。
目を擦り、辺りを見回すと、傍らに座る新たな存在を見つけた。
「あぁ、力輝、もう来てたんだ。おはよぉ」
力なくはにかみ、呂律が回っていないままに返答をする茉白。はつらつとした性格の彼にしては、口調や仕草が弱々しすぎることに気づく。
「あぁ、おはよう。ところでお前、また夜更かししたか?」
茉白の状態から、真っ先に予想されるのが寝不足だ。人は睡眠を欠くとパフォーマンスが低下する。特に彼の場合は、ロングスリーパーであることも相まって顕著にその影響が出るのだ。
力輝の質問を聞き取るやいなや、茉白は彼から視線を外す。目を合わせ続けていたら、つい口を滑らせてしまいそうだったからだ。
「あー、分かっちゃう? 実は、そうなんだよねぇ。全然寝れてないや」
気まずそうに応答しながらも、彼は力輝の指摘を正しいものと認めた。
しかし、いつもなら自分の言動について、目的や心情など詳細を執拗に説明したがる茉白にしては、言葉足らず気味である。
力輝はそんな彼の態度に違和感を感じつつも、何となくこの場では深入りしないことに決めた。いくら親友であっても、言いづらいこと、言いたくないことまで共有する必要はないのだ。
「最近、
力輝が別の話題として取り上げたのは、茉白の彼女である
だが彼の反応は、力輝の経験から立てられた予想とは少し違っていた。僅かにではあるものの、表情がこわばったように見え、しかしそれはその場の空気に少なくない緊張をもたらした。
茉白は、勿体ぶるように間を置くと、小さく息を吐き、喉に引っかかったものを吐き出すような、強い抵抗を含んだ口ぶりで言葉を返した。
「んー、そう……だね。喧嘩とかは、してないかな」
茉白は、思い浮かんだ言葉から必要なものだけを選び取り、慎重に受け渡した。力輝に多くの情報を与えず、同時に嘘はつかないように。
しかし、そんな注意深さが力輝には怪しげに思えた。雨音に関することを茉白が避けたがることはこれまでに一度もなかった。今の彼の素振りは、力輝にとって十分に触れられるのを嫌がっているものであったのだ。
「……」
茉白の意外な反応に少し動揺したせいか、力輝は何を話せば上手く場を繋げるのか分からなくなってしまう。結果として、二人の間にはむず痒い沈黙が流れてしまった。
力輝は胡座をかいたまま前髪をちりちりといじり、茉白は体育座りのまま顔を埋めている。
いつもなら、言葉を交わさないことなど気にするようなことではない。しかし、今日は不思議と静寂に居づらさを感じていた。
それを先に破ったのは、茉白の方だった。投げやりな明るさを持った口調でこう話を切り出す。
「今日、ほんとはね? 力輝にどうしても伝えたいことがあったんだ。その……なんか変に緊張しちゃってさ。言うの遅れちゃって、ほんとごめんね?」
茉白は、言葉を尽くした後も左手で頭を掻きながら、引き攣り気味な笑顔を絶やさなかった。
その薄っぺらい溌剌さに、妙な緊張感を持つ。それを悟られぬよう自然に、いつも通りの会話を続ける。
「気にするな。自分のタイミングで話せばいい」
力輝の精一杯の気づかいは功を奏したようで、茉白の微笑みは自然で、緩やかなものへと変わった。
「ありがとう、力輝」
彼はそう言ったきり、目を伏せ、口をつぐんだまま動かなくなってしまった。
沈黙が、またしても二人を冷たく包み込んだ。時折吹き付ける風が、その心細さに拍車をかける。
彼と過ごす時間の中で、押し黙られてここまで困ったことはなかった。しかし今日は違う。普段と違い、彼の言動の端々から焦りや不安、必死さが感じられるからだろうか。
自分たちの隠れ家であり、逃げ場所であったはずの屋上は、一転して今にも逃げ出したくなるような、居心地の悪い空間となっていた。
しかし力輝にできることはただ、待っていること。彼は、相変わらず薄灰色に彩られた冴えない曇り空を見上げたまま、ボーッと意識を遠いどこかに手放そうとする。
しかし、それをするよりも前に、茉白が話を再開した。
「僕……は」
茉白は絞り出すように言葉を吐く。力輝は慌てて意識を彼の方に向け、次の言葉に注意を向ける。
「僕は君が好きだ」
「……は?」
思いのほか猶予なく、そして率直に伝えられた衝撃的な言葉。力輝は平静を装うことも出来ないままに、その言葉を受け入れられていないと暗に示すような反応をしてしまった。
「最初は僕もね、勘違いだと思ったよ。同性を恋愛対象として見たのは初めてだったし、そもそも君は親友だ。正直、自分の心を疑ったよ」
それでも一切たじろいだりはせず、過去を懐かしむような暖かい口調で語り始めた茉白。
一方で、力輝は目の前に起こった現実への困惑と、これから先、選択しなければならないであろう二択に、どうにか話を中断させられないかと思考を巡らす。
しかし、彼の柔らかな口調はこの場に相応しくないようにも思えて、そのせいかどこか不気味さを含んでいる。口を挟んでやめさせる気は湧かなかった。
「だけど、これを一時の気の迷いだって言い聞かせる度、この胸はズキズキと痛むんだ。君が欲しい。この願いばかりが僕の内側で肥大し続けて、僕を蝕んでいく。自分の中にある大切な価値の意味が、勝手に捻じ曲がっていくのを止められない。それどころか、体はそれを望んでいるんだ。心だけが取り残されて、他の全てが変わっていくのが――怖いよ」
一変して、迷子の子供のような、縋るような表情と口調で心の内を明かす茉白。彼の態度は、その内容がどれだけ大切なものなのかを物語っている。
そのため、力輝もその内容を真剣に受け止める。しかし、それは彼が持つ倫理とは、真逆の理論だった。力輝に言わせればむしろ、変わらないものの退屈さ、空虚さのほうが恐ろしい。
確かに、変化の始まりには動揺があるかもしれない。それでも、いつかは慣れる。状況に適応できるようになれるのだ。
故に、力輝は思う。なぜたったひとつでなくてはならないのだろうか。きっと生き続けていれば、変わり続けていれば、代わりなんていくらでもいるだろうに、と。
力輝と茉白の間には、明らかな思想の違いが存在している。出会ってから今までの期間で、何度もそれを実感させるような出来事はあった。全く違う二人が、いつまでも愛し合うこと。力輝にはそれがとても容易く渡っていける道だとは思えなかった。
これまでも、この関係が続いたのは奇跡のようなものだと言うのに。
「いいんだ。君とは分かり合うとか、共感してもらうとか、そういうことは求めてない。僕は君とひとつになりたい訳じゃないからね。
君の隣にいること。それだけが僕の幸福だ」
力輝の心情を察したかのように、茉白が二人の間に明確な線を引く。お互いを分かり合うことの出来ない別の存在だとし、しかしそれでも近くに居続けたいという不可解な意見を力輝にぶつける。
簡単には受け入れ難い感性だったが、それは自他の境界をはっきり持つということ。自分を大切にするという意味では、力輝にも理解出来る理論だった。
「茉白……お前の言いたいことは、何となく分かる。まだ完全に共感は出来てないけど、お前みたいな考えをする人がいるのは、理解出来るよ」
茉白の気持ちに少しでも応えようと、力輝はたどたどしく返答する。
「だけどさ、そもそもお前……ほら、晴花が居るだろ? 俺の入る余地なんてどこにも――」
「別れたよ」
無機質な口調と、つまらなそうな顔だった。しかし、その語気にはどこか凄みがあり、それは力輝を萎縮させた。
自分の反論がどれほど、目の前にいる人間の覚悟の前では無意味であるかを思い知らされる。
どうにかして話題を逸らそうとする力輝の心根には、目の前の現実を受け入れたくないという逃避の願望があった。自分にとって、たった一人の親友であったはずの茉白が、自分に対して同じ気持ちを持っていなかったこと。幸村力輝を、恋愛対象として好ましく思っていたことを、どうにかして拒みたかった。
変化を望む力輝にも、手放しに信じていた価値はあった。それが揺らぐことを、すんなり受け入れて飲み込むことは今この場では出来そうになかったのだ。
故に力輝は、茉白の思いをも拒絶する。無慈悲にも思える判断だが、それは彼のことを思っての選択である。
「正直に言わせてもらう。俺は、同性の恋愛を……それも、親友のお前との恋愛を受け入れることは出来ない。男に恋愛感情を覚えたことないし、好意を向けられたのだって初めてだ。今の俺じゃ、お前の気持ちには応えてやれないと思う。いや、間違いなく俺には応えられるほどの気持ちがない。
俺は、茉白のことを人生で一人だけの親友だと思っている。だが、それを恋愛感情に発展させるためには、俺の中に必要なピースが足りないんだ」
はっきりと、自分にその気はないと伝える力輝。これまでの茉白の不安定な態度を考えると、どんな返答が返ってくるのかは心配になる。逆上されるかもしれないし、そのせいで、唯一の親友を無くしてしまうかもしれないという不安はある。
それでも、ここで本音を隠し、嘘の関係で二人を繋ぎ止めるのは不誠実だと、力輝の信念がそう告げたのだ。
何を言われたとしても、全て受け止める覚悟で彼は茉白の手を振り払った。
しかし、茉白は――
「そっか。まぁ、君が嫌なら無理にとは言えないね……うん。僕の話、真剣に聞いてくれてありがとう、力輝」
呆気なくその身を引いた。しかし、実際に出た声は少し上ずってしまっていた。それでも、そのままの口で最後まで、懸命に言葉を繋げる。
「もう、僕達は会っちゃいけない。でも、ずっと好きだよ……力輝。今まで本当に――」
「いや、待ってくれ。なんで、お前は俺の前から消えようとしてる?」
茉白の目まぐるしい発言が何を意味するのか、一拍遅れて理解した力輝は、続きを言わせないように声を重ねて遮断した。
力輝のなけなしの質問に、茉白はきょとんとした顔をする。二人の間には、この先の展開について齟齬が生まれていたのだ。
「だって、僕達は恋人になれないって力輝は言ったでしょ。じゃあ、お別れするよね?」
「な、なんでだよ。そんなの納得いかねえ。なんでそんなゼロ百で考えるんだ?」
茉白のある種極論とも言える主張を、力輝はどうにか否定しようとする。
気づけば、先程まで驚くほど冷たかった彼の体は頭から湯気が上るほど熱くなり、額からは汗が垂れ、少し息が荒くなっている。
「力輝は、僕の気持ちとかどうでもいいってこと? 振られたのに、それからも前と変わらず親友として生きるなんて、毎日嘘吐きながら生きてるみたいでしんどいと思わない?」
「あ、ごめ――」
唐突に熱の篭った言葉で茉白は力輝を責める。咄嗟に、自分の軽薄な行いを謝罪しようとした。だがそれも茉白に遮られてしまった。
「いや、違うか。君は優しすぎるんだよね。振った相手でも、好意的に思ってくれた相手を無下には出来ないから、一緒に居ようとするんでしょ」
「いや、俺はそんなことは……」
茉白が伝えたのは、彼が力輝へと抱いていた素直な意見であり、彼が力輝の長所だと感じている点の話だ。しかし、力輝にはそれが、茉白の皮肉のように思えてしまう。その認識の違いは、彼自身の自己肯定感が著しく低いことによって引き起こされている。
慈悲深く、行動力のある人間。そんな評価は、自分に対するものとして過大すぎると考えている。むしろ、自分という人間はなにも貫き通せない、逃げてばかりの出来損ないだと、そうやって否定されるべき存在だとずっと思っている。
そんな、自己否定ばかりをして生きてきた力輝には、素直に茉白の言葉を受け取ることは出来なかった。彼が意見を変えるのは、目を逸らしたり、楽になるためだからだ。
力輝の表情が暗く、弱々しいものになったことから、彼が何を考えているのかを茉白は察したらしい。大きなため息をひとつつき、語り出す。
「ちゃんと、本当に僕が君を愛していて、だからこそ、お別れをしなきゃいけないってことをゆっくり伝えるべきだったね。ごめん。
あのね、僕が好きなのは、誰も、君すらも知らない、僕だけが知ってる君だよ。君に見つけられるはずもないし、見つかって欲しいとも思わない。僕だけの君を、僕は愛してる」
茉白の覚悟を、思いの丈を突き付けられる。果てしない海原のように、自分というちっぽけな汚泥すら包み込むほどの雄大な愛を思い知らされる。
力輝は、溺れるほどに自分を愛す茉白のことも、彼に愛されている自分のことも認められていないのだ。
困惑と、恐怖が押し寄せてくる。
――何が足りなくて、こんなに惨めになったのだろう?
全てを許してしまう人の前で、つまらない自虐をしてしまうような小さな自分に、また嫌気がさす。
相対している人間に救いを求めて、つい、情けなく甘えた問いを投げかける。
「俺……俺は、お前に何をしてやれたかな。何が足りなくて、俺はこんなんになっちまったんだ? ……何をしてれば、今のお前とちゃんと向き合えるくらい、マシになれた?」
茉白は目の前の怯えるような男をみて、ぷっと吹き出すように笑った。
「バカだね、力輝。君が真っ当な人間だったら、僕は君を好きになんてなってなかったよ。
幸村力輝は、軽薄で、軽率で、怠惰で、横暴で、変人で、幼稚な、とてもじゃないけど褒められた人間じゃない。
でも、君の目は無垢そのものだった。澱みない純白な魂は、少なくとも尊ぶべき君の魅力だよ。君にそれを理解してもらえるとは思わないけど、それが僕の見た君の一端、かな」
先程までとは打って代わり、清々しい声色と暖かな表情でそう語る茉白の言葉には、これまでとは異質の重みが乗っているように思えた。それはきっと彼が、本当に大切にしていたものが何なのかを必死に説いていたからだ。
力輝は、彼のそんな様相に、少し頬を緩ます。茉白の真摯で、素直な気持ちの乗った言葉に、少しだけ救われてしまったのだ。自身の甘えた、単純な心が憎い。
しかし、そのおかげで自分が何をしたのか、俯瞰して考えることが出来た。
彼の告白。そして、先程の自分の選択。それは、ある意味で茉白の人生においてひとつの大きな分岐点になり得るイベントだ。彼は、その分かれ道を進もうと一世一代の勇気を振り絞って自分に全てを打ち明けた。
なら、潔く引いて、別れを決断してくれたのは、茉白なりの誠意だと受け取るべきなのではないか。だとしたら、彼に惨めさを塗りたくるだけのこの先の関係など、価値のないものなのではないか。
力輝は自分のしたことがどれだけ茉白を傷つけたのかを察し、正しく罪悪感を抱いた。
「すまなかった。俺、自分を傷付けて安心することで必死で、茉白の気持ちを考えられてなかった。お前の決意とか、真剣な想いを蔑ろにするようなことを言ったと思う。あと少しで、それに気づけないところだった。ちゃんと俺にそれを説明してくれてありがとう」
力輝の正直な気持ちを受け取った茉白は柔らかくはにかみ、首を横に振った。
「むしろ、こちらこそ本当にありがとうだよ、力輝」
力輝の感謝に対して、重ねるように感謝を伝える茉白。しかし力輝にはそれが何に対しての感謝なのかが分からない。
「ありがとうって、俺何もしてないぞ。いつもしてもらうばかりだし、お前に謝ってばっかだし、何に感謝して――」
「――立って」
力輝の言葉を遮るように、茉白は冷たくそう呟く。
「立てって、なんで――」
「……いいから!」
「……分かった」
力輝が困惑している中、強引に立つことを強要する茉白。その声には少しだけ、必死さが混じっているようにも感じ取れる。
「そこで、両手を広げて」
「……あぁ」
「じゃあ僕、そこに飛び込むから、受け止めて」
「……それはつまりその、抱き合いたいということか?」
命令に従いつつも、何が起きようとしているのかを理解した力輝。少し気恥ずかしさを感じつつ、茉白の思惑を言い当てる。
言い当てられた当人はというと、恥ずかしいのか、怒っているのか頬を赤らめ、下を向いてしまった。
「そうだよ! 振られたのは仕方ないけど、でも……実際胸の痛みってやつは拭えないし、だから、君は僕を抱き締めてくれなきゃダメだ! それで……僕はありがとうをするんだ」
彼は急に大きな声を出して、力輝の予想が正しいものだと認めた。頬を濡らし、声を震わせながらも、茉白は最後の微かな安らぎを求めていたと分かった。
彼の主張は少し滅茶苦茶にも思えたが。しかし、ここまで彼に苦労をかけ、その上こんな彼の痛々しいさまを見てしまっては、力輝はもう、それに応える以外に出来ることが思いつかなかった。
「分かった。今だけ、俺の胸を貸す。好きなだけ、ここに居ていい」
茉白はその言葉を聞くと、少し勢いをつけて力輝の胸に飛び込んだ。彼の細い体から、精一杯の振動が伝わる。
「あ――」
受け止めた時、背丈の差と、茉白が下を向いていたために、顔を力輝の胸に埋める形になった。少しだけ熱い涙が、彼のシャツに滲んでいく。
「……どう、して。なんで、僕じゃ足りないんだよぉ! 君の隣じゃなきゃ……僕は、生きてけないのにぃ! くる、しい……今、とても暖かいのが、苦しいぃ……!」
そのまま、しばらくの間彼は幼子のように泣きじゃくった。顔をぐちゃぐちゃにして、力輝の体を縋るように掴んで、こんな時ばかり頭を撫でてくる、ずるい力輝の手のひらを恨んで、でもそれも、今だけは受け入れてしまって……愛する人の胸で、かなわない人の鼓動を感じて、それが届かない場所にあると、肌に触れる距離で理解する。その温度と孤独に打ちひしがれ、彼は泣き続けた。
〇
どれほどの時間が経っただろうか。泣いて、泣いて、泣き止んだ頃。彼らを、果てしない青空から覆い隠す濁りきった薄膜は、すっかり黒ずんでしまっていた。
茉白は、力輝の胸から体をゆっくり離すと、弱々しい声で喋り出した。
「最後に、少しだけ聞いてくれる、かな」
「……聞く」
力輝も、今だけは茉白の言いなりになっている。それが自分に出来る最大限だと理解しているからだ。
「ふふ、ありがと」
少しだけ口元を緩めると、茉白はゆっくりと語り出した。
「僕と君が出会ったのは……三年前。中三の春だったね。クラス替えしたばかりで、僕はクラスで孤立してた。というか、僕はいつだって孤立してた。空気読めないし、頭も良くない。かといって、周囲に合わせて生きるのも苦手だ。グループに属せないのも無理ないよね。
だけどね、僕はそれで……いいと思っていたんだ。それでいいと思えていたから、僕は前を向けていた。
僕は優しい世界に生きたい。人生に、波乱や異変は必ずしもあるべきものではないだろ? 起伏のない、平坦な一生の中で、ささやかな幸せを感じられたのなら、それで僕は満足だ。だから、静かで、揺るぎないひとりの世界は居心地が良かった」
「茉白……」
「そこに君が現れて、僕を強引に連れ出して、世界にはまだ沢山の幸せが隠されてることに気付かされた。人も、言葉も、風景も、音楽も、学問も、芸術も、そして、愛も。それら全てが――世に蔓延る幸福が、どれだけ下らないものなのかを思い知った。下らなくて、儚いものの愛しさに気づいたんだ。
だからそれも、ありがとうだね。ここまで来れたのは、全部君のおかげなんだから」
茉白が語る過去。それは何度も語り合ったことではある。しかし彼の言葉に、様々な思い出が蘇り、力輝も自ずと暖かい気持ちに包まれていた。決して幸せなばかりではなかった三年間だ。それでも、茉白という親友と過ごした時間は間違いなく、かけがえのないものだったと言えるだろう。
力輝の、変わらないものを拒絶し続けた生き方の中で、唯一大切にしたいと思った記憶。それが、『茉白』だった。
そのように、自らと茉白とのこれまでを振り返った力輝は、素に戻って自分らしからぬことを考えていたと少し恥ずかしくなる。しかし、茉白からの気持ちは、はっきりと断ったのだ。だから、彼を切り離す決断をしたことを少しだけ、寂しいと感じた。
力輝が、そんな柄にもない女々しい考えをしている最中、ふと茉白がさりげなく腰に手を回し、顔を寄せ、耳打ちをした。
「心から、ありがとう。君のおかげで、僕はまた続きの世界を見れるよ」
茉白が囁いた意味深な言葉。その真意を確かめようとするも、上手く口が回らない。
背中に何か熱いものを押し付けられたような感覚があったので、恐らくその衝撃に驚いたせいだろうと自分の中で結論を出す。
しかし力輝は、背中に明らかな違和感が生じていることに気づいた。それが強い痛みであることが分かると、次に液体が滴る音を聞き、それが自分の血液であることも理解した。
「かッ……ァ、こ、これ……ッ!」
力輝は、背面から腰辺りを何らかの刃物で刺突されたのだ。場所が悪かったらしく、体が上手く動かない。しかも、茉白が強く抱き締めるので、身動きを取ることはより困難を極める。
「今だけ、今だけは……君は逃げたりしない、から……」
朦朧とする意識の中で、茉白の零した痛ましい言葉と、彼の震える指先の感覚が反芻される。自らの過ちを責め立てるような、罪悪感と後悔が思考に滲む。
もっと、変わる勇気さえあれば――
そんな、手遅れな悔恨を抱きながらも、思考が、意識が、記憶が、感覚が、温度が、光が、心が、世界が……深い、深い場所へとこぼれ落ちていく。
力輝の、失われていく魂に、茉白の言葉が流れ込んできた。
「力輝、雨が降ってきた。ずっとここにいちゃ、ダメだよね」
カワリモノマニアック 坂本 千晴 @sunny_first
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