Ever and always
黒川亜季
Ever and always
*1
――海が見える町に住みたいな。
私はそのシーンを、はっきり覚えている。高校生活も終わりが見え始めたある秋の夕暮れ、二人で歩いていた時のことだった。
前後のやり取りはもう忘れてしまったけれど、それを言ったのは
だけど、絵里香に言わせると「それ、
絵里香もそのシーンをはっきり覚えてて、私らしいコトを言うなあと思ったそうだから、記憶って何だろうねっていつも笑い話で終わる。
私たちが重ねてきた、小さなたくさんのコト。
そんな過去からつながる今日。ちょっとだけいつもとは違う、特別な出来事が私たちを待っている。
*
今、ふたりで暮らしている関東で一番の港町から、電車で東京へ1時間。
東京からは、高速バスで4時間。
そこからローカル線の電車で、1時間。
絵里香と私が生まれ育ったのは、”海が見える都会” からこんなにも遠い山あいの小さな町だ。
バスを降りると、秋の終わりの冷たい風が私たちを迎えた。
ステンドグラスにリンゴが描かれた、この辺りでは一番大きな鉄道駅。赤い屋根が乗った駅舎の向こうでは、風が通り過ぎるという名前の山々が西日に照らされている。
私たちと一緒に乗ってきたバスの乗客たちも、お迎えの車に乗り込んだり、歩き出したりで、電車に乗り換える人はほとんどいない。
土日は仕事の絵里香と不定休で働いている私の休暇を何とか合わせてきた、一泊二日の故郷への旅。
この町にもあるささやかな帰宅ラッシュにはちょっと早いのか、駅のホームも人影はまばらだった。
「さっむ~い。ねえ麻衣、こっちってこんなに寒かったっけ?」
「11月なら、こんなもんだと思うよ? 絵里香は寒がりだからなあ。もう1枚、何か持ってくれば良かったのに」
「いいもん、これがあるし」
そう言った絵里香が、ぎゅうっと私の横から抱きついてきた。
「ちょっと、ここ田舎!」
思わず鋭くとがってしまった言葉。やべって顔をする絵里香と、慌てて辺りをキョロキョロする私。自分の臆病さがこういう時にとっさに出てしまって、ちょっとだけ後悔する。
「ごめんね、麻衣。浮かれてふざけすぎた」
「いや、あのね……。絵里香に抱きつかれるのがイヤなんじゃなくて、むしろそれは嬉しいしこれからもどんと来いって感じなんだけどさ、今は、何ていうか……」
「大丈夫、わかってる」 絵里香が優しく目を細める。「先回りしなくても大丈夫だから、ね」
いつもは自分から行くのにごめんね、とか。
そういえば人目とか気にならなくなったねって普段は言ってるのに、とか。
地元に帰ってくると誰かに見られてたらどうしようって思っちゃう、とか。
慌てて口にしようとしていたそんな言葉たちは、絵里香の柔らかい笑顔でどこかに消えていった。
この笑顔。いったい今までどれくらい、空回りする私の気持ちを救ってきただろう?
*2
足下を吹き抜けていく風はどんどん冷たさを増していって、こんな寒いトコに住んでたんだねって言いながらようやく到着した電車に乗り込んだ。
乗っていたほとんどの人がこの駅で降りたから、車内はいい具合に空いている。4人がけのボックス席に、ふたりで並んで座った。
「この電車に乗るの、めちゃ久しぶりじゃない?」
「ホント。もう何年ぶりってレベルだね」
便利さと引き換えに殺伐さが満ちている「都会の電車」と違って、ここにはのんびりとした空気が満ちている。よくて30分に1本、普通は1時間に1本くらいだから、のんびりするしかないのかも知れないけれど。
電車はキイキイと音を立ててゆっくりと駅を、駅前に広がる小さな中心街を離れていく。
はーっ。
小さな町の小さな高校を卒業し、この町を離れて15年。懐かしいはずの景色を目にしながら、私は思わず大きく息を吐き出していた。
窓辺で頬杖をついていた絵里香が振り向く。
「――緊張、してる?」
「実はしてる。さっきまでは全然だったんだけどね。電車に乗ったら、何かもうすぐだなーって思って。絵里香は?」
「私……? 緊張はあんまりしてないかなあ。うちは元々アレだし、母親にはずっと前から言ってたし」
「だよねえ。っていうか、絵里香のお母さんにはほんと、感謝しても感謝しても足りないくらいだよ。うちは二人とも、良くも悪くも『自称ふつーの人』だから」
“良くも悪くも” の中に若干のトゲが含まれてるコトを、絵里香も分かっている。
見藤さんのうちは離婚してるからそんな風に割り切れるのよ。自称常識人・時々無神経な両親の言葉とその時の感情が記憶の底から浮かび上がろうとするのを、私は何とか抑え込んだ。
「大丈夫? 私の家から先に行こうか?」
「ううん、ダメ。面倒な方から行く。……それから、絵里香のお母さんに報告したい」
ぴこん。ちょうどそのタイミングで、絵里香のスマホが何かの着信を告げた。画面を見ながら、絵里香の表情が緩む。
「母親からだったよ。『麻衣ちゃんの所から行くんでしょう? 頑張って』だって」
「うう~ お母さ~ん」
「いやうちのだから。麻衣のトコにも何か来てるでしょ?」
「だって……。ていうか怖くて朝からスマホ見てないし」
実は電源も切ってました、までは言わなくてもいいだろう。予定は前もって伝えてあったし。
先送りしていた面倒のコトは頭から振り払って、私は絵里香の左腕にすがりついた。
「――あれ、麻衣?」
「私はいいの。今ならいいの」
「だと思った。甘えん坊」
駅前のアレは、なかったことにしよう。周りにお客さんがいないのをいいことに、不安なんですって表情を前面に押し出して、私は絵里香に甘えることにした。
絵里香の指先が――美容師の仕事で指先が荒れちゃうって絵里香はよく言ってるけど、働き者の手だ――優しく私の髪を撫でる。それで少しは気が楽になるんだから、絵里香の存在って本当にすごいって自分でも感動する。
物心ついた頃から一緒にいて、幼なじみとして時間を過ごし、思春期には離れかけて、私が心の中の想いに気付き、それから特別な存在になった絵里香。
お互いがたった一人の大切な人になってからも数え切れないくらいケンカしたし、大人になって絵里香が男の人から告白されるたびに不安な思いもしたけど、その時々で形を変え、だけど根元にある好きっていう気持ちは少しも小さくならなくて、自分の中にある絵里香への想いにしみじみと驚く。
絵里香の表情を、目で追いかける。本人はくせっ毛を気にしてるけど、耳かけのショートは大人っぽいし、前髪からのぞく切れ長の瞳とシャープな輪郭は冷たくない絶妙なクールさ(これは私が何度説明しても絵里香に伝わらないやつ)だと思う。
今、気付いたけど、私が前にプレゼントしたラピスラズリのピアスをしてくれてるのも地味に嬉しい。
「なあに」
「べつにー。絵里香、相変わらずかわいいなって」
「どうしたー。熱でも出てきたかー」
中学や高校の頃は大人っぽさの方が目立ったけど、今はみんなに自慢したくなるくらいにきれいで、おまけにかわいい。
三十代になって、面と向かって「かわいい」はなかなか言いづらくなってきたけど、本当はもっと言いたい。だってかわいいから。
「ん」
絵里香にもたれたまま、左手を絵里香の前に差し出す。
私の小さな手を包み込む様に、絵里香が左手をそれに重ねる。
薬指に収まった指輪が2つ、小さな音を立てる。
*3
高校を出て、「少しでも早く自活できるようになりたい」と県外にある美容師の専門学校に進み、そのまましっかり手に職を付けた絵里香。
心の中で勝手に恩師と呼んでいる中学時代の司書の先生に憧れ、県外の大学に進学して司書の資格は取ったけど図書館には縁がなくて、今は書店員として働いている私。
職に就いた時期は違うけど、毎日を生きるのにいっぱいいっぱいの時も多いけど、それでも実家に戻らず都会でささやかな二人暮らしをできるくらいには何とか頑張ってきた。
私たちが生まれた町は小さすぎて、大学も専門学校もない。進学を選んだら自動的に外に出ることになる。中高の同級生たちも、地元で就職する人以外はそうやって一度は町を離れる経験をする。
だから、私たちは計画した。親たちを納得させられるだけの進学理由と進学先。不自然に思われない形での二人の生活。
娘の初めての一人暮らしを心配する両親を説得する体で提案したルームシェアリングは、自分でもびっくりするくらいに上手く受け入れられた。
「絵里香ちゃんが一緒なら安心だ」 どこか私が都会で生活することに不信感というか不安感を持っていた父の言葉に少しだけ良心は痛んだけど、絵里香と一緒に暮らせるっていう喜びに一瞬で上書きされていた。
地元を離れて、一つ屋根の下で暮らし、心も体も寄せ合えるようになって、一つ一つのコトを二人で作ってきた日々。
日々を重ねることでどんどん増えていく、絵里香との思い出。私の知らなかった絵里香の一面や絵里香の好きなところ。
絵里香と一緒に、これからも生きていきたい。だから私は、私たちは小さな決断をした。私が大学を卒業するタイミングで、父と母に一緒に暮らしていた本当の理由を――絵里香と付き合ってます――告げたのだった。絵里香も同じ頃に母親と、遠くに暮らしている父親にそれを打ち明けた。
絵里香の言葉は両親から静かに受け入れられ、私のは手痛い拒絶にあった。私は多少の苦さと一緒に、あの頃の騒動を思い出す。
聞く耳を持たない両親とはしばらく断絶状態になり、年単位の時間をかけてまず父親を説得し、それから母親も何とか「受け入れがたいけど黙認はする」ところまでこぎ着けた。私の母親が絵里香の母親と昔からの友達じゃなかったら、きっともっとこじれていたはずだ。
絵里香の母親には、本当に感謝している。地元に帰りづらくなった私と絵里香に、この町や父母のことを時々知らせてくれたことも有り難かったし、味方になってくれるのが嬉しかった。
この先も、劇的に何かが変わることはないんだろう。家に帰る敷居も高いままだろう。それは覚悟もしているし、受け入れる強さも身につけたと思う。
だけどやっぱり、この町の景色は大好きだ。憧れだった「海の見える生活」を手にした後でなお鮮やかになる、澄んだ空と山々の織りなす景色が――。
*
「見て、麻衣。すっごくきれい」
追憶と、ふれ合う指先と指輪の感触にひたっていた私を、絵里香の言葉が引き戻した。
ゆっくりと山あいを進む電車が、大きな鉄橋にさしかかったところだった。
ガタン、ガタン。鉄と鉄がぶつかり合う音の向こう、紅や黄色や橙色のパッチワークをまとった山々が折り重なるように視界に広がる。
「うん、きれいだね……」
私たちの目の前にあるのは、晴れ渡った晩秋の空と残照。東から足早に駆け寄ってくる夜の濃紺。そして、紅葉と影のコントラスト。
言葉は、それ以上は出てこなかった。
*4
都会に出なさい。ちゃんと調べて、少しでも自分たちが生きていきやすい場所を見つけなさい。頼れる人は、多くないかも知れない。社会も、あなたたちを十分には守ってくれないかも知れない。だから自分で、自分たちで稼いだお金で生きていけるようになりなさい。
高校を卒業しこの町を離れる少し前、”恩師” にかけられた言葉を私は思い出していた。
岡林先生、私たち、頑張ってここまで来たよ。ちゃんと二人で、支え合って生きてきたよ。それにね、やっと――。
あの日。
ほとんどの人たちにとっては、自分には関係のない新しいルールが一つ加わっただけの日。それから起きたたくさんの出来事。
届出という名の紙きれと指輪。
二人の誓約。
最初にそれを口にしたのは私で、その時のことを私はよく覚えている。
二人で夕食を食べながら、見るともなしにニュースを見ていた時だった。ルールの方はもう変わってたそうだから、記者はそれを受けて行動を起こした最初の二人の様子をレポートしていたのだった。
私たちも――。不意にわき上がってきた切実な思いを絵里香に告げて、絵里香が頷く。
あの時の麻衣の表情、すごく素敵だったよ。私、絶対に忘れない。絵里香がそう言うくらいだから、あれは二人にとって争う余地のない確かな記憶だ。
だけど、私はその前夜の出来事も覚えている。立て込んだ仕事に疲れ果て、お風呂までは何とか入って、髪を乾かされながら寝落ちした私をベッドに運んでくれた絵里香が、私が眠っていると思い込んでいた絵里香が、耳元でささやいた――麻衣、私たちも――その言葉を。
私が知っていることを、絵里香は知らない。だから二人の記憶は、そのままにしておこうと思う。
「おめでとうございます」 それから数日後、区役所の窓口で対応してくれたのは若い男性職員だった。若干、緊張で手が震えていた私とそれを励ますように付いててくれた絵里香を見て、書類をチェックしながら柔らかい笑顔を向けてくれた彼のコトを、私と絵里香は忘れないだろう。
今日、ここにいるのも、その日の余波みたいなものだ。
私と絵里香の生活は、その日の前と後で実際には変わっていない。だけど、気持ちは確かに変わった。
望まない形で疎遠にはなっていたけれど、感謝がなくなったわけじゃない。だから、やっぱりちゃんと伝えたいと思ってここまで来た。
緊張が、また私の心に押し寄せる。それに気付いたのか、絵里香が力を込めて私の手を握ってくれた。
目を合わせて、頬を緩める。夕焼けの赤が、絵里香の白い肌を照らす。こんな時の絵里香は、私の不安を受け止めて微笑んでくれる絵里香は、本当にきれいだ。
窓を過ぎゆく秋の景色も、電車の中のこの空気も、きっと大切な思い出になる。
――私たち、結婚しました。
大切な人と一緒に大切な言葉を告げるまで、道のりはあと少し。雑音混じりの車内アナウンスが、私たちの目指してきた駅の名を告げる。
Ever and always 黒川亜季 @_aki_kurokawa
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