さあ、夜に呑まれましょう

@mitsuisan

第1話

わたしには、いつも夜な夜なやってきては飲み散らしおなかを出して寝ていく友人がいます。とても愛想がよく可愛げはあるのですが、控えめに言っても上品とはいえませんね。そんな彼女が昨日も昨日とてニマニマしながら我が家に日本酒の瓶を持って現れ、そして声高らかに先日"バー"に行ったことを発表したのです。自慢気にカタカナの名前のお酒を飲んだ話を聞かされ、(本人も何を飲んだかはよくわかっていない様子ですがともかく)聞き捨てなりません。

バーというものは、わたしのイメージによると煌めくピアスにヒールを履いた淑女や、皺のないジャケットを着こなした紳士が集う場所。そしてマスターに「いつもの」と声をかければこれまた床まで届きそうなエプロンを巻いたマスターが様々な液体個体を容器に入れてシャカシャカと振りその「いつもの」とやらを錬成するといった、いわゆる大人の嗜みの場ではありませんか。そんな場にあのタヌキのような友人が行ったと聞けば、わたしも黙ってはいられません。なにしろわたしの家族は代々日本酒を造っており、友人に経験値で負けるわけにはいかないのです。気の良い友人は、「マスターに紹介しておくから」と言い、店名と住所をメモしてくれました。わたしは場に呑まれないよう精一杯の淑女たる装いを用意し、いざ夜の街に歩きだしました。

家を出てしばらくして、せっかく友人にもらったメモがないことに気がつきました。確かにかばんのポケットに入れたと思ったのに。しかし今日は絶対にバーに行くのだ、大人の階段を登るのだという確固たる意思でなんとかネオンや提灯が照らす通りににきてみたものの、わたしはそもそも1人で知らないお店に入るのは苦手なのです。

よちよちとさながら子タヌキのようにお店をのぞいては怖気付きを繰り返していると、ふいにそれはそれは綺麗なお着物をお召しになった美しい方が奥の路地をふわりと横切りました。わたしはもはや何も考えることなくそのあとを追って角を曲がると、すでにその方は見当たりませんでしたが、真っ暗な小径に青白く足跡が残っていました。そしてその足跡は一軒の建物へと入っていったようでした。吸い寄せられるようについていくと、一枚の木でできた小さなドアのお店がありますが、店名などはどこにもなく、ただそばには金木犀の木がありほわっと香ります。わたしにはなんとなくその木がお店の看板のような気がして、わたしはきゅっと覚悟を決め、その小さな木のドアをくぐることにしました。いざ、大人の世界へ。

「あらまあ珍しい若い子が来はったやないの!いらっしゃーい!!」

一歩入るなり女性の威勢の良い声が飛んできました。驚いて声の主を探すと、なんと先ほど路地でお見かけした美しい方でした。明るいところで見ると色白も際立ち、目元も涼やかでよりお美しいのですが、店主さんでいらっしゃったこともそうですが、なんというか、もっと妖艶な、しっとりとした方を想像しておりましたので、わたしは勝手に混乱し一旦息をのみました。

「お一人やんね?そこ座り!」とほぼ満席のなか通されたカウンターの隣には常連様らしき女性がこちらもまた素敵な笑顔で「ここに1人でこんな若い子が来るなんて!どこから来はったん?なんでここ知ったん?本とか読む?あ、その前に何か飲まはるやんね?ママ、何がいいかね」と矢継ぎ早に話しかけてくださり、わたしはやっとの思いで「は、はひ」と返事らしきものをし、「とりあえず何か日本酒を」と注文しました。するとひとつ飛ばした席についておられた、タンクトップに半ズボンの男性が「お、お嬢ちゃん一杯目に日本酒だなんて渋いねえ」と声をかけてこられました。「おれは焼酎しか飲まねえけどな!焼酎マスターと呼んでくれ!なあママ!そうだよな!」

ママを見ると、目にも留まらぬ速さでお酒を創りつつ他のお客様と談笑中で完全無視です。「あ、あの、バーというのはこういうものなんでしょうか?」

気まずくなったわたしは助けを求めがてらお隣の女性に話しかけると、女性は煙草を燻らせに燻らせお姿が見えなくなってしまっていましたが、煙の中から「いやぁ、あなた初めてのバーがここ?大変なとこに来てしまわはったねえ」と笑う声が聞こえました。

確かに、と思いテーブルに向き直ると、わたしの前には信楽焼のお猪口に注がれた神戸の地酒が文字通りぷかぷかと宙に浮いていました。

「浮いている」

つい口に出すと、遠くからママが「早よう取らへんと消えてまうよ!」と叫ぶので急いで掴みました。様々な疑問はさておいて、せっかくなので少々辛口のそれをわたしはひとくちひとくち噛むように飲み、体が夢の中にいるように軽くなってゆくのを楽しみました。途中ママがわたしの前を通ったとき、お着物にふわふわの何か長いものが付いているのが目に入ったので触ってみようとしましたが、忙しいママはすでに残像となっており、わたしの手は宙を舞いました。

すると件の男性が「おいお嬢ちゃん、やっぱ焼酎だよ」とまだおっしゃっていて、ちょうどわたしのお酒も空いたところでしたので焼酎をいただくことにしました。「おれの地元では栗焼酎あってだな」とのことでおすすめのそちらを。ぷかぷかと届いたそれを今度は速やかにキャッチ。そして「まろやかで甘いですが、さっぱりしていて呑みやすくとってもおいしいです」と感想を述べるとご満悦で、「これが気に入ったなら、俺の弟子だよ!秘伝の飲み方を教えてやる!」と叫びました。

慌てて周りを見渡しますがママは相変わらず残像、お隣の女性も煙と化し、周りのお客様も浮かぶお酒に囲まれて陽気に歌っておられ、誰も気にする人はいないようです。

「外に金木犀があったろ!あの花を浮かべんだよ。風味が格別やき!2.3個でええけの!」あまりの興奮に地元の訛りが出たのでしょう、その迫力に押されるがままわたしはいそいそと焼酎の器を持ったまま外に出ていき、僭越ながら店先に咲いていた金木犀のお花を少しばかり頂戴しました。そしてお店に戻ろうと振り返ると、「あら」。たった今出てきたばかりのお店がありません。そこには真っ暗な路地と、その奥には朱くそまる鳥居のまわりにぽわんぽわんと青白い光の玉がいくつか浮いています。

「狐さんに化かされてしまいましたか」

それなら仕方ありませんね。わたしはふふ、と微笑むと名残惜しく感じながらも家路へとつきました。自宅の玄関まで着くと、ふうと軒先に腰を下ろし、お店から持ってきていた、金木犀の花の浮いた焼酎をちゅっと口に含みました。「なるほど」秋の味に秋の香り。なんと贅沢なんでしょう。これは我が家の日本酒にも参考にしたいものです。それをご馳走する暁には、是非狐さんたちにも化かされていただきますよ。

そしてわたしは地面に散った秋の葉を頭に乗せると…。

それでは、また。

「どろん」

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