可愛いみーちゃん

SEN

本編

 記録的な暑さを記録した夏も過ぎ去り、徐々に涼しい秋の様相を呈し始めた。残暑が残るうちに文化祭も終わり、我慢せず長袖を着られるようになったころにはイベントがない閑散期に突入していた。期末テストは大丈夫だろうか、来月のクリスマスや年末は何をしようか、そんな未来のことを話す声ばかりが聞こえるけれど、私は何もない今がずっと続いてほしい。


 特別じゃない日々が好きだ。大きな波がない、細やかなさざ波が立つような穏やかで平凡な日々が好きだ。だって、あなたの隣に長く居られるから。


「みーちゃん」


 放課後の静かな図書室。そのさらに奥に隠されるようにある書庫であなたの名前を囁く。本に集中していた彼女は不意に耳元で囁かれ、肩をびくりと震わして驚いた。振り向いた彼女は不機嫌そうな顔をしていたけど、怒っているわけではなさそうだ。


「その呼び方やめて」

「可愛いからいいじゃん」

「普段はそういうキャラじゃないでしょ。生徒会長」


 みーちゃんは唇を尖らせて私を糾弾する。生徒会長、それは今年から与えられた私の役割の名前だ。自分から志してなったわけじゃない。私がふさわしいと勝手に回りが評価して、いつの間にかこの席に座っていた。


 しっかり者で、文武両道で、人当たりがいい完璧な人。みんなが私をそんな聖人君子だと評価するけど、その反面、何でもできるのだから何でも頼んで良いというような考えを感じずにはいられなかった。


 生徒会長の候補がたくさんいたわけじゃない。生徒からの関心も特別あったわけじゃない。面倒ごとの押し付け合いのような雰囲気すらあった気がする。生徒会長にならないかと先生に言われて、どこからかその話が漏れていつの間にか広がり、前生徒会長と顔見知りで、知り合いが多い私が自然な流れで生徒会長に選ばれていた。


 望んだわけでもないのに、勝手に先頭に立たされて面倒ばかり押し付けられる。昔からそうだった。何度も断ろうと考えたけど、頷くことに慣れてしまった私には無理な話だった。


「みーちゃんは特別だから」


 椅子に座る彼女に覆いかぶさるように、後ろから優しく抱きしめる。花や柑橘類のように華美ではない、紙の本のような安心感があるにおい。清楚というより潔癖に近い、女子高生が目指す可愛いとは方向性が違う、模範的すぎる身だしなみを好む彼女らしいこのにおいが好きだ。


「なにかあったの」

「ううん、何も。文化祭の時が嘘みたい」


 文化祭の時は常にどこかから仕事が湧いてきた。放課後になって下校時間になるまでずっと仕事という日も珍しくない。けれど今は驚くほど何もない。だからこうやってみーちゃんに会いに行けるのだ。


「みーちゃんは可愛いね」

「はいはい」


 読書の邪魔をしたうえに許可なくハグをした私をみーちゃんは受け入れている。そっけない口調なのに対応は甘々なところがネコみたいで可愛らしい。


 私の腕の中にすっぽりと収まるみーちゃんを堪能してから、彼女を解放して隣の席に座った。みーちゃんは読んでいた本に付箋を挟んでから私に目を向けてくれた。いつも一人で本を読んでいる彼女が、本よりも私を優先してくれるこの瞬間が好きだ。誰とも深い関係を持っていない彼女が、私だけに心を開いてくれていると分かるから。


「今日は何が望み?」


 この場所は特別教室棟の最上階にある図書室のさらに奥に隠されている。外国語の本や小難しい昔の本など、今時の高校生がほとんど読むことのない本が納められた少し埃っぽくて薄暗いこの部屋は、私とみーちゃんの秘密の花園だ。


 誰も寄りつかないこの場所で、みーちゃんは私のお願いをなんでも聞いてくれる。お願いは一日に一つだけ。こんな普通じゃない関係は、今年の梅雨ごろから始まった。


「ほっぺを撫でさせて」

「わかった」


 何をお願いするかはその時になってから決める。どれだけ頭を働かせても、いまこの瞬間のみーちゃんのどこが一番可愛いかを予測することなんてできないから。


「はい、どーぞ」


 みーちゃんは私の座っている椅子の背もたれと机に手を置き、前のめりになって目の前まで顔を近づけた。私が触りやすいよう親切に頬を差し出してくれたのだ。


 生唾を飲み込んで、彼女の頬を両手で優しく包み込んだ。指先を頬に沈ませると、弱い反発と共に柔らかな温度がじわりと伝わってくる。この感触は他の何かに例えられるようなものではない。他の誰かの頬を撫でても同じ感想は抱かない。可愛いみーちゃんのほっぺの感触だ。


 今度は頬を撫で回してみる。手の動きに追従するように彼女の頬が形を変えて、クールな彼女が絶対にしないような可笑しな表情を作り出す。それでも彼女はされるがままで、目をつむったまま何も言わない。最初のころはお願いを聞いてもらっている時に恥ずかしくなって抵抗することも珍しくなかった。私を信頼して全てを委ねてくれている彼女は、やっぱりなついたネコのように可愛らしい。


「気持ちいい?」

「ふつう」


 目を瞑ってされるがまま撫でられる彼女はリラックスしているように見えた。質問を投げかけてみると、無感動な声で返事をされた。これでもただの思い上がりだと思えないのは、彼女の素直じゃない態度のせいだ。最初は椅子の背もたれと机で体を支えて前のめりになっていた彼女は、いつの間にか右ひざを私が座っている椅子に置いて、私の右足の太ももを両足で挟むようにして寄りかかってきている。


 明らかに距離を詰めてきていて、それが単に疲れたからなのか、私に近付きたかったからなのか分からない。でも、その正解を求めて尋ねることはない。分からないからこそいくらでも想像できる。この想像の中の自惚れが私の心を昂らせるのだ。


 彼女を両手から解放し、左腕で包むようにして抱きしめる。互いの呼吸音すら聞こえてくる距離にあっても、彼女は目を瞑ったままだ。目を開けてこっちを見て欲しいが、それをお願いすることはできない。私の今日のお願いはほっぺを触らせてもらうこと。それ以外はすべて彼女の裁量次第だ。


 残った右手を彼女の頬に添える。さらさらした綺麗な黒髪が手の甲に触れてくすぐったい。そして、弧を描くように親指を動かして頬を撫でた。目を瞑って私の腕の中にいる彼女をそのまま見つめていたら、ふっと私の中に欲望が滲み出してきた。


 彼女の唇に触れたい。


 可愛いみーちゃんは無防備な唇をさらけ出したまま視界をふさいでいる。ほんの少しだけ触るくらいなら許されるはずだ。そもそもこんな誰も寄り付かない場所で、こんなに可愛い子が、無防備な姿で誘ってくる方がいけないんだ。欲望に背中を押された私が自分を正当化しながら凶行に走ろうとした瞬間。


「だめだよ」


 目をしっかりと開けた彼女が私の唇に人差し指を添えて凶行を止めた。どうやって察知したのか分からないまま動きが止まった私に彼女は意地悪な顔で微笑んだ。


「それがしたいならまた明日お願いしてね」


 みーちゃんはそれだけ言って私の腕の中から抜け出した。いつもより早い気がするお願いの切り上げは、私の凶行に対する罰則なのだろう。この関係に慣れすぎて欲が出てしまった自分を反省する。でも、ただ流され続けて生きてきた私から欲望を引き出す可愛いみーちゃんの魔性から逃れることはできないだろう。その瞬間が着たら私は……なんて、自分の願望に一度ふたをする。


「見返りには何が欲しい?」


 私がみーちゃんにお願いを聞いてもらう権利があるのだから、当然みーちゃんにも私にお願いする権利がある。いつも私からお願いを聞いてもらうから、みーちゃんのお願いは見返りと呼んでいる。


「いつも通りお願い」

「りょーかい」


 念の為聞いてはいるけど、みーちゃんへの見返りはほとんど変わることがない。いつも通り、かばんから課題と筆記用具を取り出して机に並べる。そして隣ではみーちゃんがさっき中断した読書を再開していた。


 みーちゃんのお願いは帰るまで隣に居ること。私たちの間に会話はない。ただ静かな空間に二人きりでいるだけ。みーちゃんがそれに何の価値を見出しているのか知ることは叶わない。静かに読書をする彼女の表情は変わらないし、私の方に視線を向けることもない。


 私が居なくても問題はないはずなのに、彼女はそれを望んでいる。私はこの時間が好きだ。隣にみーちゃんが居て、それ以外の余計な情報は何もない。そんな、特別がない特別な時間が私は好きだ。


 日没の時間が早くなり、下校時間が近づいた頃にはすっかり暗くなる。みーちゃんの隣で充実した時間を過ごした私は、彼女と連れ立って図書室を後にする。彼女と駅で別れるまであと十数分。今日もまた、あなたの隣に居られる時間が終わる。

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